第30話
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博士と共にモニタへ映り込んだダリスが、腕を組みながら彼らへ伝える。
『――てなわけで、俺はこれから生化学者としてIIIの複製に関わることになった。手土産に、目標の場所を提供しよう。……博士、どうやってマップにピンするんだ?』
『ピンしようと思えばいいよ。よほど無理難題を言わない限りは従ってくれる』
『本当か? っておお、出来るじゃねぇか! 夢のガジェットだ!』
『マウスとキーボードでチマチマやってる時代は終わったのさ。時代はブレイン・マシン・インターフェースだ』
ダリスの感嘆に連なって、仮想世界に現在地を示すミニマップと、目的地への方向を示すアローが啓示される。科研施設の集まる第六地域、そこにある国立研究所群の地下サンプル倉庫。目覚めたばかりのダリスが、博士に提案した場所だ。
『この事前演習の目的は、一概に地の不利を補う事だ。戦闘はなるべく避けた方がベターだけど、上手くいくとも限らない。いざって時のために、土地鑑を身につけておいてくれ。必要なものは何でも呼び出そう』
「スーパーカー出せる?」『いいよ。車種は?』
「箱スカ」『渋いね』
程なくして、彼らの眼前に現代ではまずお目にかかる事のない、新品同然の3代目スカイラインが出現した。「言うことナシね」とアルカが揚々と運転席に乗り込み、エンジンを点火。特有の重く唸るようなサウンドに惚れ惚れする彼女を傍目に、助手席へ乗り込もうとするテオとヴィルの手が重なった。じゃんけんをして、テオが負けた。
⁂
エレベーターから屋上に上り、柵に身を委ねながら地平線の先を眺める。雪雲は既に去って快晴。太陽の光が鬱蒼と生い茂るビルの僅かな隙間を通り抜け、無数の光芒となって薄明を切り裂いてゆく。
『綺麗。初めて見たわ、日が昇るところ』
「まさか本当に、夜更かしも早起きもしたことが無かったとはね」
『体はこの国の資本だもの。私の一存で傷つける訳にはいかないわ』
「調和主義の体現者だね、君は」
コロイドの呟きが、白い吐息と共に淡かれて消えた。その面持ちは、朝陽に包まれゆく街を見ているように見えて、実際はどこか遠い場所を見ていた。
「……君は革命を知っているか? テロリズム、デモンストレーション、暴動、風刺、紛争、叛乱、姦淫、強盗、汚職……。そういう言葉の意味は分かるか?」
レイは困惑していた。コロイドはそれを自分が突拍子もない質問をしたせいだと思っていたが、次に続く彼女の答えを知って、それが誤解であることに気が付いた。
『ぜんぶ知らない』
太陽の方から吹いた寒風が、コロイドの前髪を少し浮かせた。その奥で、沈着とした彼の瞳が、彼女の純真な当惑を見ていた。冷えた指先を擦り合わせ、彼は言葉の続きを紡いだ。
「〝私の言葉の限界が、私の世界の限界を意味する〟……ある哲学者の言葉だ。ぼくらの世界は、言葉というブロックに区切られたモザイク画によく似ている」
『……何が言いたいの?』
コロイドは、少し言い淀んだ。
「君を不幸だと思っていた。でも、今はそう思えない。……ヴィシュに生活を強制され、知識も言葉も規定され、画一化された世界を生きるよう運命づけられた、檻の中の哀れな子供、ヴィシュの呪縛、そういう目で君を見ていた。
……けれど君と過ごして、ぼくは自分が正しいのか、分からなくなった。少なくともぼくが見ていた間、君は幸福そうだった。
さっきぼくが尋ねた言葉は、人の淀みだ。大人が、こぞっと子供から遠ざけようとする言葉だ。それを知っている僕の世界は、色鮮やかだが、綺麗ではない。いい年こいた大人が誰も、人生は美しいだなんて言わないようにね。
でも、君たちの世界はモノクロームだ。白と黒、敵と味方、正義と悪、義務と犯罪。その単純な二元要素だけできた風景は、素朴だが美しい。世界の本当の色が醜いほど、ね……」
『……やっぱりあなたの言うことは難しいわ。私にはよく分からない』
構わないよ、とコロイドは言う。
「ぼくの予想では、彼らはマギアスと共に来るはずだ。泥棒するなら火事の日がいいからね。大きな戦いになるだろうけど、その趨勢は明らかだ」
それでも君は――と、コロイドが視線で問う間もなかった。
『わたしは勝利を疑わないわ。ヴィシュは強いもの。願わくばこの国で生まれたこの身体を、この国で潰やしたかった。……どうにもそれは、叶わないようだけれど』
太陽が昇り、朝日を透過するレイの横顔を見ると、その瞳は燃えていた。円光返照、消え際のロウソクに宿る最後の炎を、コロイドは思い浮かべる。
「無垢だね。それが呪いか、祝福なのか」
そうして彼は、懺悔するかのように呟いた。
「過去に、君のような子の呪いを解いたことがあった。物を知らないのは不幸だと思ったから、色々と旧い知識を教えて、考える火種を与えたことがあった。けれど今になって思えば、それは恐らく、彼を苦しめてしまっただろう。
食事、生活、仕事に信条、そして敵と味方まで――この国で生きるとき、それらは自明だ。生きるために、幸福のために、朝から晩まで、生まれてから死ぬまでレールがあって、その上を歩いていれば、何も迷う必要はない。……レイ。君は、それで幸福か?」
『えぇ、ここに生まれて、育ってきた間、私はずっと幸せよ。不幸なんて一度も、感じたことがなかった』
「そうか」とコロイドは答え、沈黙した。彼の祖母が犬を飼う時、決してドッグフード以外を与えなかったことを思いだした。人間の食事の味を知ったが最後、この子は普段の食事に満足できず、不幸になる――と。
彼女は国という主に飼われた、その犬のようだった。
不意に、朝陽を背にしていたレイの姿が薄らむと、彼女は寂しそうに振り返った。
『……時間だわ。もっと話していたかったけれど、限界みたい』
日光に掻き消される朝霧のように、鮮明だったその陰影が消えてゆく。眩しさから寄せた瞼にその様を垣間見て、コロイドの胸に、一抹の
『あなたが私にこれを見せたかった理由、よく分かった。でも忘れなきゃいけないわ。あなたみたいに、夜更かしが癖になってしまうのは良くないから』
レイは一足飛びに距離を詰め、彼を見上げた。
『いま、私の体は凍結保存されていて、代謝が殆どない状態だわ。そのせいで脳が疲労を回復できないから、ここで意識を体に戻したら、目覚めるまで二度と
さようなら、コロイド。あなたとは短い時間しか過ごせなかったけれど、私、すごく楽しかった。この戦争が終わったら、絶対、また会いましょうね』
彼女はそう微笑むと、それから風に淡かれる煙のように姿を消した。コロイドが言葉を発する間もない出来事だった。彼はしばらく呆然と、彼女のいた場所を眺めた。そして胸に鉛を注がれたような気持ちで、景色の方を向き直った。
「……行っちゃったか」
しばらく思考の完成に引っ張られるまま物思いに耽って、眠気がそこに終止符を打った。陽は既にビルを超えて雪解けをもたらし、新たな一日の始まりを告げていた。
『――親愛なるヴィシュ国民の皆さま、お早うございます。先日各地に落下した謎の質量体が我々に及ぼす影響について現在調査が行われておりますが、今の所、有害であるとの報告はありません。それどころか、終戦の予兆であるという報告が多数寄せられております。安心して日々をお過ごしください。皆さまの平穏に向けた努力が、調和主義の実現を加速します。未来を不安に思う必要はありません。それでは本日も、労働を始めましょう。全ては、永き静謐のために――』
起動したモニタが喋りはじめて暫くすると、無人交通機関に仕事に向かう人々がせっせと乗り込みだした。
この陽が沈めば戦争だ。二つに分かれた人類と、それが生み出した機械の織り成す混沌。その果てに一体何が残るのか、コロイドは心底、知りたいと思った。
「……確か、彼女はレキに居るんだよな」
そして同時に、自分が生まれ、愛した国の行く末も知らぬまま、それが風化するまで眠り続ける彼女の境遇を、酷だと思った。過去を視る力を持つ者として、自分にはどうにかしてレキへ辿り着き、その結末を伝えてやる義務があると思った。
あるいは、素朴な彼女の微笑みをもういちど……。
眠気覚ましに頬を両手ではたいて、深呼吸をする。
「……あぁ、これだから人情ってやつは嫌いなんだ。ぼくは世界の傍観者であればよかったのに、どうにも気が済まなくなった」
太陽から逃れるようにして屋上を降りる。なけなしの社会評価のため、昼間は起きていようと考えていたが、やはり眠って今夜に備えることを選んだ。よくよく考えれば、明日にヴィシュは滅ぶのである。
「この戦争、ぼくも少しだけ噛ませてもらうとしよう。あるがままの結末じゃなく――この目で見たい、未来ができた」
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