第22話

                   ⁂


 翌朝。一行はまだ日の低いベネチアを見納めながら、旅行案内所の扉を潜った。カーニバルが終わり、暖かくなるまでの期間はオフシーズンだが、それでも天下の観光名所か、スーツケースを提げた旅行客の姿は今も絶えない。

「――あっ」

 その中に、テオは見覚えのある母子を見つけた。焦茶色の肌に、知的さを感じる眼。右手で息子の手を握りながら、テオの存在に気付いた彼女イーラも、「あら」と驚いた顔をうかべ、怖がる少年アトラスを太腿の後ろに匿った。

「なによテオ、知り合い?」「いや、こないだの――」

 すると更に一拍置いて、後ろの受付で話を終えたランカが、パンフレットらしき冊子を手に、彼らの元へ戻ってきた。そしてアルカの存在に気が付くと、驚きのあまり冊子を落とし、呆然と立ち尽くした。

「なんてことだ……そう、確かに君だ。僕の記憶違いで啼ければ、君だったはずだ! ねぇ、そこの赤い髪の君! 僕の事を覚えてるかい!? ランカだ! あの夜、君に家族を救われた男だ!」

 言われてアルカは「あら」と意外そうにしたあと、「元気そうね」と気さくに挨拶した。例えレキの技術が如何ほどであれ、死人を甦らせることは出来ないと知りながら。彼がHHHであることは、テオも分かった。それは死の直前にリンクデバイスからエミュレートされたランカの脳構造を持つ、彼そっくりの鏡像なのだと。

「あれから調子はどう? 悪い所はない?」

「ここの技術が僕を完全に生き返らせてくれたのさ。体の調子は素晴らしいよ! こうして家族水入らずに外出できる位にはね!」

 ランカは喜びを露にしながら、彼女にあらゆる言葉で感謝を伝えた。それは堰を切ったようで、アルカは若干気圧されながら、横目にヴィルへ助けを求めた。

「そうだ、君達も我々と一緒にベネチアへ出ないか? もちろん昼食、夕食、酒、ホテル――費用はすべて僕持ちだ。ここに移住する時、手厚い保証を受けたんで、心配は無用だよ。さ、さ! ちょうど今から出るところだったんだ。時間はないし、すぐにでも――」

「あぁ、いや、その悪いんだけど……アタシ達、これから帰る所なのよ」

「延泊だ!」

「ちょっとあなた、皆様にもお仕事があるんだから――」

「いいや、このままでは帰さないぞ。そうだ、ちょっと待ってろ。僕が今すぐこの街で一番の酒屋に行って、最高の酒をボトルごと買い取って来る!」

「え、ホント? それは是非――」

 そう言ってランカが走り出そうとすると、彼の頭にイーラの鋭い手刀が落ちた。

「落ち着きなさい。相手が困ってるでしょ。ごめんなさいね。この人、いちど火が付くと燃え尽きるまで止まらないの」

「なぜ僕を止める! 恩人がいまここに居るんだ、タダで帰すわけにはいかん!」

「うるさい!」「ひっ!」

 妻の雷を受け、ランカの燃料が即座に蒸発した。やはり母は強いのだとテオは思った。ランカはアトラスに泣きつこうとしたが、イーラの足にしがみついて離れようとはしなかった。

 イーラは懐から一冊のメモ帳を取り出すと、受付のボールペンを借りて何かを記入し、千切ったページをテオに渡した。

「……帰るところを邪魔だてしてごめんなさい。これ、私たちの住所と連絡先よ。旦那もああは言ったけど、私も恩知らずにはなりたくないわ。何かあれば、力になる」

 仕事ですから、とテオは固辞したものの、彼女は「いいから」と間合いを詰め、四つ折りにしたメモを彼の胸ポケットに突っ込んだ。

 その横で、アルカがテオに囁く。

「――ねぇテオ、アタシ的にはやっぱりお酒でも構わないんだけど」

「僕にじゃなくて直接言えよ」

「なんかそういう事言い出せる空気じゃないんだもの」

「僕もそれと同じものを吸ってるんだよ」

 それじゃぁね、とイーラは足元のアトラスを抱きかかえ、ランカに動けと命令した。ランカはびくつきながらこちらを振り返って、「また会おうな! 絶対にだぞ!」と大声で叫びながら姿を消した。

「……どうなさるおつもりですか?」

 胸元の紙をヴィルが横から指でつつく。

「今度、お勧めの本でも聞くことにするよ」

 と、テオは苦笑しながら言った。


                   ⁂


「――さっきの家族は知り合いだったのか? 随分感謝されてたみたいだけど」

 居住区へ通じるパイプ・エレベーターの前で、アオが三人の見送りに来ていた。前に回収したトロールの家族だ、とテオが答えると、彼女はすぐに経緯を理解した。

「HHHだったろ。能力者アクター以外のトロールは皆、オリジナルの肉体を地下で保存されながら、依り代としてHHHの肉体を与えられる。人格はエミュレーションだ。かつて君は、それを偽物だと言ったが――今はどうだ?」

「真偽も何もあったものじゃない。僕にその天秤は持てない。出来ることは、感情の声に従うこと……そうあれかしと望むこと。僕はこの街が好きだ。ランカ達も、ヴィルもね」

「しかし君は、その気になれば能力アクトで理解できるはずだ。彼女が肉か、金属かどうかをね」

 テオは彼女に直接自身の力について語った記憶はないが、恐らくはここを訪れる前に、博士から何らかのデータを受け取ったのだろう、と推測した。

「……それで覆るなら、愛がないってだけさ」

 アオは、その答えを聞いて明朗に笑った。

「若輩が、愛ときたかい」

「あぁ、そうだ」

 大正解だ、とアオが笑った。

「――さて、もういいだろう。そろそろお別れの時間だ。次はいつか、地上・・で会おう。その時まで、私は待ってる」

 アオが突き出した拳に、皆も応じた。どれほど先になるかは分からないが、必ず、それを叶えてみせると。

 パイプ・エレベータがやってきて、電磁式のドアが無音で口を開けた。三人がそれに乗り込むと、別れ際に最後、アオが言伝した。


「向こうについたら、博士の所に行ってくれ。ちょいと、大きい仕事があるそうだ」

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