第20話


 テオが宿を出て広場に戻ると、そこは既に仮面舞踏会マスカレードの様相を呈していた。人混みを進んで店へ戻ろうとすると、不意にヴィルから連絡入る。会計を済ませて広場にいて、アオは既に帰ったとのことだ。

「……広場って、また曖昧な」

 合流できないものかと辺りを見渡して、早くも諦観しそうになった。人が多く、顔は見えず、服は5割が豪奢な仮装で、タダでさえ悪い見通しに拍車を掛けている。目で探すのが面倒だったので、意識を繋ごうとした。だがその矢先、見知らぬ女から手を差し伸べられ、踊りましょう、と誘われた。フルフェイス・マスクを着け、豪奢なドレスを纏った、ブロンドの女である。

 テオは暫く逡巡したのち、その手を取った。踊りながら会場をうろついていればいつか会えるだろうし、彼女と直接意識を繋ぐことは、少し億劫だった。

「その……あまり経験がないので、上手く踊れないかもしれません」

「なら、私についてきて」

 自信ありげに言うだけあって、彼女はリードが上手かった。彼女が次の動きを顔の向きや手を引く方向で伝えてくるのを汲み取り、遅れて動きに追従すれば、ずぶの素人であるテオも、それらしく体を動かすことができた。徹すれば、ヘタさで周囲から浮き出ることもない。けれど緊張に呑まれていたせいで楽しむ余裕はなく、気付けば、あっという間に曲が終わっていた。

「ありがとう、楽しかったわ。それじゃ」「えっ? あ、いえ、こちらこそ……」

 踊りが終わるや否や、女はそう言って何処かへ消えた。辺りを見ると、多くの人が同じように相手を交換していた。曲と共に相手も変わるのが不文律のようであった。

 彼女が誰で、どんな顔をしているのか分からない。HHHであることは確かだが、感情はそれを否定していた。かつて悪寒や眩暈に苛まれたそれとの接触に、彼はいま確かな高揚感を覚えていた。


 曲がクラシックからタンゴに変わると、テンポが少し上がった。そのときテオは少し狡いなと思いながら、リンクデバイスから社交ダンスの上級<Exp>ファイルを取得した。

 書き込みを終えるとすぐ、曲に対する動きのイメージが浮かび上がってきて、四肢が曲と呼応するのが感じられた。幾何かの空白ブランクを経て、幾年と積み上げた技術の感覚を呼び覚まそうとするときに覚える、一種の懐かしさとよく似ている。

 昂揚と共に自信が湧いてきたテオは、一人あぶれている女性を見つけ、相手を申し込んだ。紫色の、簡素なハーフマスクだ。おどおどと了承する彼女は、その落ち着かない振る舞いと軽装から見るに観光客で、踊りもおそらく初心だとわかる。

 あまり経験がないのだけど、と自信なさげに言われると、テオは笑って手を差し伸べた。経験Experienceが、彼に自信を与えていた。

 握り返された手と視線を媒体として、テオは最初の女性からそうされたように、彼女の動きを誘導した。最初は首をかしげていた相手だったが、二度、三度と同じことを繰り返すと要領を得たようで、次第に二人の動きは滑らかさを増した。タンゴの曲調は小気味良い分、ダンスの難度がやや高くなるが、意思疎通を繰り返すにつれ練度は上がり、呼吸の相性もよかったのか、終盤には、二人の動きは周囲からすこし浮き出ていた。

 フィニッシュを決めて、終曲。火照った手を離すと、女はずいぶん高揚した声色で、「ありがとう。楽しかったわ、中世のお医者さん」と笑って姿を消した。その言葉に、テオは自尊心が満たされる喜びを覚えた。

 歯車の影が消えた相手と一緒に踊ると、心が通じ合っているような気がした。即興の振付が上手く相手に伝わって思い通りの動きが出来たとき、相手のハーフマスクの口元が笑みを浮かべていたのを見て、それと同じ感情が、彼の心の中にも生まれた。


「――初めまして。踊りませんか」

 今の踊りを見ていた誰かから、テオは背中越しに声を掛けられた。さっきの一幕で自信をつけていた彼は、顔を見ることもなく、二つ返事で承諾する。振り返ると、そこには銀鱗粉をした蝶の仮面をつけ、白道を行く月色の髪を靡かせる女がいた。

 名前を知らない筈はなかった。けれど、彼は口を噤んだ。

「……勿論」

 指揮棒が下りる。知らぬ間に入れ替わっていた奏者が、陽気なラテンを奏でる。これまでの二曲よりもずっと早く、力強く、洒落た音と、自在な拍子。

 しかし二人のスタートは完璧だった。二人は暗黙のうちに、互いが<Exp>のインストールを終えていることを悟った。

 その技量は悉く同じで、相手の手の内は、須らく自分の手の内だ。なればこそ、二人の織り成す即興ダンスに綻びはありえず、その滑らかさは、幾星霜いくせいそうを経たペアダンサーと比肩するほど、完成された段階にあった。

 テオがリード、ヴィルが追従フォロー。基本ステップから拍子を合わせて、テオがヴィルの腰を掴むと、重さを感じさせぬ所作で持ち上げて、アイススケートのように、地面すれすれをスイングさせる。転じて、ヴィルが大きく跳躍すると、テオに支えられながら空中でターンし、落葉のように着地する。月面のスケートリンクで踊っているかのような動きだ。極限まで滑らかになった踊りには、重力と摩擦の気配がない。この二人のまわりだけ、重力場が違っている。

 彼女の口元が明朗に笑い、その溌溂とした四肢の動きが、一層の力を帯びた――もっと私を引っ張って、もっと激しく、強く! テオもギアを上げ、幾度となく、可能な限り高く、彼女を天に舞い上がらせた。その度に、意識同期をしていないにも関わらず、相手の意思や昂揚が、己の胸に雪崩れ込むような感覚がした。あるはずのない機械の心と、己の心が通っていた。

 次第に二人は集団から浮き出るようになって、周囲に取り囲むような人だかりができていく。しかし夢中な二人はそれに気づかない。拍の上に心を重ね、音符と共に譜面を駆ける。いまは、その感覚を共にする事だけが二人の世界だった。

 経験を得ると、<Exp>は肉体に強く結びつき、傀儡のようだった動きもいつしか血肉を帯びていく。習熟した神経発火が新たな閃きを生み、踊りは有機的に進化していく。それが二人の昂揚を、ますます高次元へ押し上げていく。

 急速な進化を遂げる二人をよそに、曲が終盤へ向けて転調した。テンポがさらに上がる。音量がさらに増す。テオは遊び心からタップダンスの<Exp>を追加でインストールし、即興でそのリズムを踏んだ。しばらくすれば周りが手拍子を始め、お調子者が口笛を吹き、あちこちから歓声が上がった。ヴィルもその真似をした。流麗で滑らかな動きに、硬質なタップという相反する要素は、ラテン音楽の軽妙な調子を引き立たせる最高のスパイスとなった。二人と演奏は渾然一体となり、サンマルコ広場の主役の座は、彼らのもとにあった。

 転瞬、徐々にテンポの落ちてゆくドラムロールを聞いて、アウトロ前のフィルインと判断。二人は無言で視線を交わし、無言のうちにやり取りする。

 ――フィニッシュだ。いけるよな?

 ――えぇ。もちろん。

 ヴィルが倒れ込むように重心を傾け、艶やかに上体を仰がせた。ほぼ地面に身を投げるかのような角度。放っておけば転倒は免れないが、テオがその支えとなり、全身で彼女を引き立てる。そこに極大を迎えたアウトロが重なって、見事なピクチャー・ポーズの演出を果たすと、観衆は一番の盛り上がりを見せ、喝采の渦が広場を席巻した。

「――いいぞ! あんたら最高だ!」

 演奏が止み、暫く惚けたままでいた二人を、誰かの放った声が正気に戻した。ポージングを止め、辺りを見渡し、そこで初めて、二人は周囲の喧騒が自分たちに向けられたものであることに気が付いた。演奏がインターバルに入ると、彼ら彼女らはここぞとばかりに大挙をなして、二人へ猛烈なアプローチをかけてきた。

「――ねぇ、あなた、次は私と……」「お嬢さん、是非、次は俺と――」「いや俺が……」

 二人は目を見合わせた。額から汗が流れ、肩は上下している。身につけたばかりの技術に身を任せすぎたツケが、疲労という形でやってきていた。

 誘いを丁重に断ろうとする。しかしそれよりも早いペースで、熱に浮かされた取り巻きの円が、二人を中心に狭まってくる。その中には、熱狂に乗じ、更には仮面で顔が見えないことを利用して、明らかに邪を働こうとする輩も紛れていた。

 テオは緊迫感を覚える。この熱狂は、己と彼女の身を焦がすものだ。どうにか抜け道を確保しなければ、ロクな事が起きない気がした。

 その時だった。沿岸に大きな花火が咲き、衆目が束の間、そちらを向いた。時刻が明日へ切り替わる10分前を迎え、沿岸でフィナーレの演出が始まったのだ。

 これを逃せば次はない――そう思ったテオは、握ったままだった彼女の手を胸元まで引きよせ、腰を屈めて背中と太腿を両腕で抱き上げ、人混みの隙間へ勢いよく足を蹴り出した。

「――えっ!? あの、ちょっと!?」

 驚いたヴィルが声を上げるが、テオに返事をしている余裕はなかった。

「ここにいちゃまずい、とっととズラかるぞ!」

 幸いにも、二人の逃亡に気付いたのはほんの僅かな人数で、落胆する者はあれど、後を追おうとする者はいなかった。二人の背中を花火が照らして、次の大玉が打ち上がる頃には、既にその影は広場から消えていた。

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