第19話
「よう、待たせて悪かったな」
パレードを見終え、サンマルコ広場にてアオと合流を済ませた一行は、そのまま適当な露店で夕食を取る運びになった。パレードにすっかり心酔していた束の間に、時刻は20時を回っていた。
「適当に頼んでもいいかな? 勘定は博士持ちだし」
「あぁ、任せるよ」
「構いません」
「アテは選ばせて」
「あぁ、いいぞ。お勧めはな……」
メニューを見つめるアルカをよそに、テオとヴィルは広場の舞台に目を向けてみる。しかしガヤの量が凄まじく、見る事は敵わなかった。
「さて、お待ちかねのワインがこれだ」
そう言って、アオが何処からともなくボトルを取り出し栓を抜いた。ラベルのない、使用感のある瓶で、銘柄も度数もわからない。
「何が入ってるの? それ」
「フラゴリーノ。あんまり人に言うんじゃないぞ」
曰く、バーを営む知り合いの手作り品だそうで、厳密には密造酒に当たるそうだ。ゆえに、あまり大っぴらには出来ない。「要る人?」とアオが問うと、テオとアルカが手を挙げた。グラスに次がれた酒は、紫交じりの濃い赤色をしていて、ワインよりもとろみが強い。強い葡萄と柑橘の混ざった匂いで、ワインとリキュールの間の子という感じがした。
ウェイターがドリンクを運んでくる。皆はグラスを掲げて、アオの口上を聞いた。
「それじゃぁ、良き夜を!
男性であり、唯一日本語を解するテオが、激しくせき込んだ。
酒や料理に一通り舌鼓を打った午後十時ごろ、アルカが無事にゆで上がっていた。
「あ~、このワインおいし~! ねぇアオ、これおいしいわね~!」
「同じことを二回も言うなよ」
「こんな珍しいもの飲めてねぇ、なんかアタシ、得した気分だわ! だからね、これ持って帰るわね!」
「こら! これは密造酒だから輸出禁止だ! というか、流石に飲み過ぎだぞ。720のボトルがもう半分になってるじゃないか。これメタノールも入ってるんだからな。飲み過ぎで歩けなくなったり、目が見えなくなったりしても知らないぞ」
「ここでしか飲めないなら、一年分飲んで帰るのが合理的でしょ!」
「こら、隙を見て注ごうとするな! もう終わりだ! 全く……」
「ケチ」
アルカは唇を尖らせながら、かろうじて得た四杯目を食むように飲んだ。それから三秒ほど瞼を閉じたかと思えば舟を漕いで、同じくらいの時間でハッと目覚め、先ほどまでの一切の記憶を失った。
「なんで今日はみんな変な格好なのよ! おかしいわ! バカじゃないの?」
「痴呆か」「ベロベロですね」
「酔ってないわよぅ!」
捨て台詞のように言い放って、頬の吸盤がぺたりとテーブルにはりついた。流石にその様子を見かねたのか、アオはテオに提言した。
「……宿まで送ってやったらどうだ? 女だし、ベロベロなのはマズいだろ」
「ここ、犯罪起きるのか?」
「そりゃ、起きるに決まってるだろ。そのまま再現してるんだから」
「そうなのか……いや、まぁ、そりゃそうか」
テオは肩をすくめて席を立つと、彼女の頬を引っ張って立ち上がらせた。強盗やレイパーに襲われる彼女を案ずるより、酒で筋出力の枷が外れている彼女が、彼らを悉く粉砕する心配の方が大きかった。
「ホテルまで送ってくるよ。すぐ戻る」
「それがいい。気を付けて行くんだぞ」
「ぬぁッ! い~や~よ! 離しなさい!」
酔っ払いなりに話の流れを理解したのか、アルカが抵抗の意思を見せる。しかしテオも伊達に長く付き合っている訳ではないので、扱い方は心得ていた。
「ホテルのルームサービスを頼めば、ここよりいい酒が飲める筈だ。確かミシュランガイドにも載っていた所で、自前のワイナリーを保有しているらしい」
「ほんと!」
幼女に戻ったかのように純粋な視線で、アルカがテオの目を覗き込んだ。もちろん嘘だが、テオは満面の笑みで頷いた。
「仏に誓って本当だ。ほら、歩けるか?」「あるく!」
椅子から立つ足取りが覚束なかったので、テオは無言で右腕を取り、肩を貸しつけた。それから店員に事情を説明し、外へ出た。
千鳥足の彼女をどうにか前に進めながら、十数分かけてホテルのエントランスに辿り着く。素泊まり宿なので中は大して広くなく、別段、装飾や家具が豪奢なわけでもない。当然ワイナリーはないし、ミシュラン調査員がお忍びで来ることもない。
両手の塞がった上体でフロントに向かうと、訝し気な顔をされた。事情を説明してなんとか理解を得ると、気を利かせたホテルマンが、案内ついでに部屋の鍵を開けてくれた。シングルベッド二つとソファが一つあるだけの質素な寝床が目に入る。テオは彼女をベッドに横たわらせて、とっとと逃げようと扉に手をかけた。
だが、背後でもぞりと彼女が動く気配がする。
「……そういえば、あんた、ヴィルとちゃんと話した?」
「……いきなり何の話だよ」
テオは振り向かず、扉に向かって答えた。さっきと打って変わって、彼女の子はシリアスで静かだった。
「いや、仲違いしてたから、気になってね。あの子……今はきっと、さみしいわ。昨日……あんたが寝たあとね、ヴィルが言ったのよ。今まで通り、過ごせなくなったらどうしよう、って。あんたに怖がられるのが、ずいぶんこたえるみたいで」
テオはドアノブを捻る手を元に戻し、彼女の呟きに答えた。
「……一つ、聞かせてくれ。お前は、不気味の谷をどうやって超えた?」
「さぁ、わかんない。一日寝たら気にならなかったわ。あたし、ヴィルもカイトも大好きだから……難しいこと考える前に、好きだから、どうでも良くなっちゃった」
振り返ると、彼女は眠っていた。どこまでもマイペースな奴だと頭を掻きながら、テオは静かに宿を後にした。
「好きだから、か……」
吐き捨てられたその言葉が、なぜかずっと頭に残った。
「じきに今日も終わるけど――どうだ、ちゃんと話せたか?」
「……いいえ、まだあまり。距離感が掴みづらくて」
テオとアルカが去って二人きりのテーブルで、アオはここぞとばかりにその話を始めた。既に船乗りとしての仕事を終えた今、彼女にとって残すところは、テオとヴィルの関係修復なのだ。
「世話役を頼まれた以上、それでは困ってしまうな。……君は、自分のことをどう思ってるんだ? 幸い今は二人もいないし、忌憚ない意見を聞きたいね」
問われて、ヴィルは迷いがちに口を開いた。
「人間なのか、機械なのか、わかりません。前までは疑うこともありませんでしたが、あの一件以降、疑いを持つようになって……。けれど、自分では、どうしようもない気もします。テオがそう言ってくれないと、私自身では……」
ウェイターが空いた器を下げに来ると、ヴィルの足元で何かが倒れる音がした。彼女が島で購入した硝子の紙袋で、その口からは、本物であることを示す証明書が零れている。
慌てたウェイターから謝罪と共にそれを受け取って、彼女は不意に言った。
「……テオが、私にも
アオは椅子に背中を預けて天を仰ぎ、難しいなぁ、と相槌する。
「……ゲーデルの不完全性定理、ってやつだね。ある体系の正しさを、その体系自身が証明することは出来ない。転じて、君自身の求める真偽を、君自身が定めることもできない。必要なのは第三者、真贋の鑑定士というわけだ。そして君にとって、それはテオでなくてはいけない」
ヴィルはこくりと頷いた。酒なんか飲むんじゃなかった、アオは思考に火照る顔を手団扇で扇いだ。彼女自身が意識しているのかは知らないが、ともかくヴィルがテオにぞっこんであるということは、どこを見ても明らかだった。
好きな相手に笑って欲しいと、ただそれだけの問題が、どうしてこうも――と、アオは深くため息をもらす。
「要するにだ、君が欲しいのは、こういうものだろう」
アオはそう言うと、ヴィルに自身の左手を見せた。その薬指に輝く、エメラルドの嵌った指輪。それが意味するところを理解して、ヴィルはぽんと赤面した。しかし少し冷たい夜風が吹くと、それは嫉妬に姿を変えた。
「彼はここの民俗学の学芸員でね。いまは博物館で仕事をしている。惚気るようだけど、この指輪は、私が義体化した後に貰ったんだ。婚約の言葉と一緒にね。私の体が何であっても、変わらず愛すると。それから彼も義体化して、レキの職員として、一緒にここで暮らしている」
これは海には投げられない――愛おしそうな面持ちで、彼女は呟いた。ヴェネチアには年に一度、海との結婚という行事がある。海への愛情の証として、人々が指輪を投げ込む催しだ。
「私は別にさ、何だって良かったんだよ。彼が愛してくれるなら、人間であれ機械であれ。本物とか偽物とか、人類とか機械とか、私たちの間にあったのは、そんな大きくて、抽象的な問題じゃなかった。私が握れるものの大きさは、私の掌の大きさだけだ。私が抱き締められるのは、私の腕の大きさだけだ。だからさ、そんなに難しいことはいらないんだ。必要なのは愛だけだ」
ヴィルは彼女の言葉をなんども反芻して、その意味を自分の言葉に直した。要するに、人間と対等な存在になれたとして、それが自分の究極に欲するものでは、きっとないのだ。ヴィルは、自分が欲しいものは結局、テオだけなのだと気が付いた。
なんだか自分が馬鹿になったような気がして、頬が熱くなる。
「……恋する乙女の考えることは、みんな同じだ。大丈夫、君の思いは紛い物なんかじゃないよ。君の心の重さはきっと、彼と同じだ。君の思いは届くはずだ。だから信じて、彼の所へ行くといい」
アオがウェイターを呼び寄せて、勘定を言い渡した。仕事は此処まで、と決済を済ませて、サンマルコ広場にヴィルを連れてゆくと、最後にこう背中を押して人熟れに消えた。
「今宵は仮面舞踏会だ。今の君は、何物でもない。機械も人も、昨日の出来事も気にしなくていい。――〝初めまして。踊りませんか〟と、そう彼を誘えばいい」
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