第18話
そのころ、露店のウィンドウショッピングと洒落込んでいたヴィルは、いま丁度、露店に並べられた仮面の奇抜さにぎょっとして足を止めた所だった。
歩み寄って手に取って、なんだこれはと目を見張る。額と鼻の間を覆う、艶っぽい繊維質のフレーム。目元は尖った三角形に切り取られていて、周りは金糸の編み模様や羽根が装飾される、華美もいいところだ。
「それはライト層向けのやつだな」
「お前を一人にすると不安だ」とついてきたアオが後ろから口を挟んだ。
「これでライト層? ヘビー層は翼でも生えてるって言うんですか?」
「あぁ、生えてるよ」「あっ、生えてるんですね」
「よう、どうした?」
店の奥から、やりとりを耳にした男の店員が顎髭を触りながら顔を覗かせる。恰幅が良く、堀の深くて濃い顔をしている。
「あ、ブルーノじゃん。チャオ」
「聞き覚えある声だと思ったら、やっぱりお前か。その子は?」
「観光に来た子だよ。案内してる」
「あの、その方は?」
ヴィルがアルカに尋ねた。
「こいつはブルーノ。ここの店主で、ガラス職人で、あたしの友達」
「ボンジョルノ、かわいいお客さん。お名前は?」
「ヴィルと呼んで下さい」
「エキゾチックでいいな。それで、カーニバルの衣装を探してるのか?」
「ガラス目当てで来たんですが、お祭りがあると聞いたので、両方ですね」
「ウチは両方あるぞ。見て行くといい。安くしてやる」
ヴィルは諾々と中に入った。観光客向けの雰囲気で、商品名と値段の書かれたプレートに手書きの絵が添えてあったり、輝きを目立たせるため、ガラスの下からライトを点けている展示棚があったりして、カジュアルだなぁ、とヴィルは思う。
一通り店の中を見て回り、目に留まったものの中から一つ、背中に青緑黄のストライプが入った、猫のストラップを手に取った。明かりに翳すと、透明な体の中で乱反射した光が塗料の彩度を際立たせて美しく、手元の影に放り込むと、髭や目にある細かな造形のコントラストがより浮き出て見える。他に斑やマーブル模様、ベンガルのような流紋もあった。どれも生気が宿っている。値段は35ユーロと、少し高い。
「……良くも悪くも、ムラノグラスというものは、ちょっとした宝石ですね」
結局三毛猫を一つ選んで、隣にあった仮面をついでに四つ――参加用三つとジョーク用一つ――を抱えて、会計した。ブラーノの好意で、10%オフとなった。
「毎度あり。踊りを楽しんでくるんだな」
「踊り?」
「舞踏会だぞ? 踊るに決まってるだろう」
⁂
本土へ戻った三人は、ため息橋を横断してドゥカーレ宮殿を見学したのち、昼間に聞いたサンマルコ広場の鐘楼へ向かった。ベネチアで最も高い建造物である鐘楼は、展望台として開放されている。
登り詰めると、赤茶色の屋根と水路の織り成す街の姿を一目に収める、フォトジェニックな眺めが広がった。海に太陽が沈みはじめると、その輝きは水面に混ざって街へ広がり、黄金の時を生んだ。
束の間、世界が時間を忘れたかのように凪いだ。
「……すごいな」
テオの口を、その言葉が衝いて出た。心を打たれる、とはこのことだった。道行くHHHの金属骨格も、街の張りぼても、今の彼の頭にはない。彼の五感の分解能が、それの限界に達していた。電子顕微鏡で見ればこの街はフェイクで、肌を透かせばその骨格は鈍色だが、彼にそれは感じられない。本物か偽物か、彼には分からない。
ただそれが美しいということだけが、ある。
「悪くないだろ? ベネチアは」
アオが、その目に黄金を宿しながら言った。
「……わからない。あまりにも似すぎていて、区別がつけられないよ」
一つ訊かせてくれ、とテオは言った。アオは頷いた。
「機械の肉体を手に入れて、あんたはずっと、此処に居るのか?」
「博士から、自分で選べと言われたよ。人間と同じように八十そこらで死ぬようにするか、機械として、何世紀もこのベネチアと共に息をするか。あたしが選んだのは後者だ。あたしは役目を果たすまで、ここと永遠を共にすることに決めた」
「辛くはないのか?」
「そりゃ、三百年も四百年も続いたら流石に参っちまうけど……あたし、戦えないからさ。大好きな場所を守るためにできることが、このくらいしかなくて」
アオが体を傾けて、テオと真っすぐ向き合う位置をとった。
「旧世界の歴史を繋ぎたいんだ。戦争が終わって、人が勝った時、また地上でこの景色を見られるように。そのためのレキであり、そのためのHHHだ。ここは、いま世界にあるたった一つの真実なんだ」
テオはレキという名前に込められた意味を理解した。それは恐らく日本語で、時間の積み重なりと、過去の記録を表す言葉だ。HHHは歴史を保持する人型の機械。人間の紡いできた時間を、出来る限りそのままの形で保存し、将来へ繋ぐために――HHHはできる限り人間と等価である必要があるのだ。
火を灯したマッチのように、黄金の時は一瞬と過ぎた。薄明を迎えた世界が回って、夜へ進んでゆく。テオ達は鐘楼を降り、街灯に照らされるサンマルコ広場に立った。HHHの人々が、その素性を隠すかのように、仮面をつけて闊歩していた。現実と偽物、人と機械の境目が陽と共に消え、幻想だけが残されていた。
⁂
アオは仮面を取ってくると言って、暫く席を外すことになった。
「さぁ、みんなでこれを着けましょう」
水上パレードが予定されているカンナレージョ運河の辺で、ヴィルが二人にハーフマスクを手渡す。テオは長い嘴が特徴的なペスト医の、アルカは赤と金の刺繍が印象的な、情熱的な貴婦人の。言われた通りにそれを被った二人は、互いに向き合い、噴き出した。
「ちょっ……アンタ、それ、やけに似合うわね……! 胡散臭っ……!」
「お前だって……子供が化粧したみたいな……」
苦しそうに声を押さえる二人の隙を見て、ヴィルはハーレクインのフルフェイスマスクを被った。低く広がった大鼻とでっぷりとした頬をもち、半円を描いて捩じれた眉毛と、パーマのかかった長髪が生えた、トリックスターのペテン師だ。
笑いの治まってきた二人が、目元を擦りながら顔を上げ、そして、ヴィルと目線があった。再び起きた爆発が、「この卑怯者!」という叫び声を乗せて、運河の果てに響いた。
⁂
「……あ、来た!」
役目を終えたハーレクインは土産物としてバッグに封じられ、今は銀色鱗粉のスパンコールを散りばめられた、蝶のハーフマスクと入れ替わっている。ヴィルは川上から流れて来る水上パレードの先頭を指さした。通路を埋め尽くさんばかりの凄まじい人だかりに囲まれた両岸の隙間に差し込む光。そこから先陣切ってやって来たのは、竜の鱗の装飾が施されたゴンドラだ。松明を握る一人の男が船頭で火を吐き、その尻尾には、空を浮かぶ風船に囚われた女が居た。
列が続く。弦楽器を構え、華麗な和音を響かせる仮装楽団。複数の船を繋げるように組まれた足場の上で、縦横無尽に踊る芸人。太陽のような炎の輪に包まれた地球の風船に連なる白い月――その他、無数の異なる幻想船列が、三人の視界を席巻する。プロジェクション・マッピング装置を搭載したゴンドラが来て、運河を挟み込む壁へ幾何模様を刻み込むと、その明かりが列を成す演者の演じる虚構と、それを眺める諸人の仮面姿を鮮明にし、夜明けがくるまでの間、現実を吹き飛ばした。
夜空に花火が散る。その破裂音に、テオとアルカが首をすぼめ、反射的に頭が戦闘態勢を取った。砲弾の炸裂音に似ていた。二人は緊迫しながら夜空を見上げ、そして、夜空を枝垂れる光の雨を見て、安堵と共に嘆息した。
「――花火を見るのは、ずいぶん久しぶりだな」「そうね……」
爆発には、駆動力と殺傷力を生み出すこと以外の使い道があった。もし戦争が終わって、人間の世界が戻ってきたら、世界中の兵器に積まれた爆薬を、全部これに使えばいいと思った。
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