第17話

                   ⁂


 昼食を終えた一行は、原動機付のボートに乗り、ベネチア本土の隣にあるムラノ島を目指した。ガラスが名産の島で、ここで土産物を買おうとの話だった。またこの時期はたいていどこでも仮面を売っているので、それも揃えることになった。

 唸るエンジンと、定期的に波とぶつかるステムの音が交互に響く。島との間は定期便が運航していて、片道50分に対して運賃は片道7・5ユーロと、おおよそ妥当である。

 少し気長な船旅を終えて、一行は目的地に上陸した。街はベネチアと比べれば少し殺風景で、石の舗装路にレンガの家、深緑の海は変わりないが、店の看板や綺麗な軒先が少なく、観光地めいた装飾には少し欠けていた。

「よし、それじゃ行こうか」「りょ~かい!」

 アオが先頭に立ち、街の案内を始めようとする。だが出発する直前に、彼女とアルカの後ろに続こうとしたテオが、背後にヴィルの重い声を聞いた。

「……すみません、何故か、気分が……」

 蒼白な面持ちで口元を押さえる彼女を見て、二人の声が重なった。

「「酔った?」」

「面目、ありません……うぷッ」

 うずくまり、苦悶の表情で嘔吐きを抑えながら、申し訳なさそうに彼女は言った。仕方ないわね、とアルカは上着のポケットから酔い薬と水を取り出して手渡し、「「風に当たって休みなさい」と優しく背中を擦る。錠剤を飲む彼女の姿を、テオは黙して見る。

「HHHに、人間の薬が効くのか――とか、考えてそうな顔をしているな」

 何時の間にか隣に立っていたアオから、見透かされたような事を言われて、テオは微苦笑しながら韜晦した。

「……なんのことやら」

「彼女の体は、化学成分に対しても、人と同じ反応をするぞ」

「……それはあいつが酔ったのを見れば、何となくわかる」

 彼女は酔う。波にも酒にも。一定以上のアルコールは分解しきれない肝臓と、未体験の揺れには対応できない三半規管が、彼女にはある。話に聞くだけでなくそれを目の当たりにすることで、テオの中で、彼女の姿が人間の色を強めた。

「……ホント、変なことするよな、博士は」

 テオは不思議がった。彼女――もとい、それを生み出した博士の技術があれば、人など追い抜き、もっと優れた存在を生み出すことも可能だったはずだ。けれども彼は敢えて人の欠点や性質を踏襲し、自らと等しい存在としてHHHを創り上げた。その理由が、やはり不可解だった。ヴィルの具合が良くなるまでの間、目の前の穏やかな潮騒をぼうっと耳にしながら、彼はずっとそのことを考えていた。


「……あ、なんか、治まってきた気がします」

 十数分して、海辺に足を延ばしながらぐったり天を仰いでいたヴィルが、自力で体を起こしてそう言った。顔色はマシになっており、立ち上がる足にも力が戻っている。

 レキに海はない。ヴィルにとって、船で海を渡るという経験はあれが最初だった。だからつい燥いでしまって、ずっと船の欄干から水面を眺めていたら、あの結果だった。

 身を以てその代償を知った彼女は、苦笑いと共に三人の輪に帰還した。

「あはは、ごめんなさい、お待たせして……」

「次から船に乗るときは、あんまり水面を見ないこと。いいわね?」

「はい、気を付けます」

「よろしい。それじゃ、時間もないし、はやく島を回りましょう」

 諾々とヴィルは頷いた。再び三人並んでアオについてゆくと、幾何かして、彼女は足取りを少し遅め、また語り出した。


「――ここはムラノ島、一二一九年にガラス職人が幽閉された、ある種の牢獄だ。名産は、千年の歴史を持つベネチアンガラス。強度と意匠性を兼ね備えた、世界で一番優れた日用ガラスといわれている。

「――事の発端は一二九一年、ガラス工場で特別大きな火災が発生したところにある。かねてより問題視されていたガラス工場の火元管理という爆薬に、その火災が火の粉を飛ばした。政府はこう命令を出した。〝本土のガラス工場をすべて破壊し、職人たちをムラノ島へ強制的に移住させよ〟。そして、〝技術の流出を防ぐため、職人たちの島外への外出を厳しく制限せよ〟。これにはムラノ島というガラス工場特区を設けることで、火元の一元管理と街への延焼対策、そして技術保護を同時に行うという政府の思惑があった。

「もちろん、暴動を起こされては困るから、政府は飴を用意した。職人たちに、名誉市民の称号を与えたんだ。実際に何らかの特権や優遇を保証するものではなかったが、もとより職人気質な彼らにとって、その誉だけで効果はあった。その結果、たいした暴動や謀反もないまま、ガラスの技術は現在にわたって発展・継承され、他に類を見ないレベルまで醸成された」


 一通り彼女の話を聞き終えて、アルカはけれど、首を傾げた。

「類を見ないレベルって言われても、あんまり想像がつかないわ。硝子は硝子じゃないの?」

「実物を見た方が早い話だな。工場こうばを公開している所があるんだ。案内するよ」

 そう言って舵を切ったアオについて幾何か、一行は通りにできた観光客の人だかりに遭遇した。足早にその元へ向かい、彼ら彼女らの視線の先を追った。そうして三人はガレージの中に、煌々と硝子を煮込む炉の輝きと、対峙するしわがれた職人の姿をとらえた。

「実演販売ね」アルカが呟いて人ごみに混ざり、前の方の隙間をうまく探しあてる。ヴィルは頑張って背伸びをして、テオはその場からリンクデバイスの視力拡張機能を使った。

 観客がすこしざわついた。職人が赤熱化したガラスを炉から引き抜いたのだ。それが加工開始の合図とわかり、三人はその手際を注視した。


 職人が炉の中から赤熱化したガラスのついた棒を引っこ抜き、棒を支えの上に置く。

 空いている手で巨大なピンセットのような工具を持ち、熱されて柔くなったガラスを摘まんで伸ばす。空冷され、固形化するまでの一分と少しが作業時間。その短さを物語る職人のまなざしが、観客のざわめきを止める。

 棒の先端で瓢箪型になったガラスを引き延ばすと、二本の突起をつけ、先端を折り曲げる。引き延ばした真ん中をまた折り曲げ、先端を器用に引き延ばし、馬のような形の頭をつくると、一本の角をはやす。

「ユニコーン?」そのフォルムにピンときた誰かが声を上げた。作業が始まってわずか二十秒、その段階で既に何を作っているのか瞭然とするその素早さと技巧の両立という奇跡に誰もが魅入り、瞬きを忘れた。

 工具の先端が首元を何度かずらして摘み、項髪うながみのウェーブを表現。摘まんで引き延ばされた額に、象徴的な一本角。細い針のような器具で顔のパーツを描くと、既にその幻獣は生気を帯びた。棒を半回転し、上半身の重さで下垂したガラスを持ち上げ、上向きに後ろ足を二本。熱したガラスの物性はガムや水飴のようで、引き延ばした表面が均一になることはない。だがその不均衡な凹凸こそが、いまや一角獣ユニコーンの表皮を隆々とする、雄々しくも有機的な筋繊維となり、他ならぬ躍動感と重さを生み出していた。

 胴体を掴んで上へ押し曲げると、前足が高く掲げられ、硝子なのにいななくかのようだ。最後に尻を摘まんで引き、はさみで母材との連結を絶つ。弧を描き、今にも舞い上がりそうなテールを後ろ脚に次ぐ支えとして、ついに完成された一角獣が、展示台の上で自立した。

 透明な躯体の内側に宿る、オレンジの熱。職人が古紙の切れ端を振りかけると炎が灯り、それがユニコーンの燃ゆるたてがみを表しているのだと、誰もが無言のうちに理解した。そして熱が消え、研磨された水晶に勝るとも劣らない透明感を帯びたところで、職人の面持ちから、漸くその力が抜けたのだった。


 ぽつぽつと、やがてほぼ全員の観客が、拍手と称賛を送った。そのさなか、どこかの国の婦人が声を上げて、その作品を職人の言い値で買って帰ると宣言すると、職人はただ黙笑して、恭しく目礼した。

 その後、工房の奥から職人の妻と思しき人物が現れ、観客を隣の店へ案内し始めた。家族直営店のようで、今のようにこの工場で作られた品が売られている様子である。「すぐ一杯になっちまうだろう」というアオの言葉を最後に、一行はその場を後にした。


                   ⁂


「は~~、凄かったわねぇ、あの人。職人技ってやつを生まれて初めて見た気がするわ」

「だろ? ウチのガラスの凄さを分かってもらえたようで嬉しいよ」

 すっかり彼の技にほれ込み、すっかり心酔した様子のアルカを見て、アオはどこか鼻を高くしているようだった。

「いまは商店街に進んでいるよ。色々と見て回って、気に入ったものを買うと良い」

 少し経って、アオの言う通り、三人は中規模な商店通りに到着した。アルカがすぐ近くにある店構えを覗き込む。陳列されたガラス細工の、照明の光を乱反射したきらやかな輝き。旅行者向けに、様々なガラス細工を扱う店が集まっているのだとアオは言う。

「さ、ここから九十分ぐらいは買い物にしよう。満足いく土産を手に入れたら、またここに集合してくれ。では、解散!」

 その呼びかけを以て、一行はショッピングタイムへ移行した。


                   ⁂


 街を流していると、テオは通りの最奥の角にあった小さな店、その陳列棚にある一輪の美しい造花に目を奪われた。

 店構えはなんとも地味な雰囲気であり、ショーケースと看板がなければ民家と大して区別がつかない。3階のベランダからは洗濯物が見え隠れしており、生活感がうかがえる。

 テオは若干怖気づきながらドアを開けた。

 ちりん、と頭上から音が鳴る。中はシックな雰囲気で、フローリングや壁の木は焦げ茶色の塗装で統一されており、階段の手すりや照明の至る所にアンティークな意匠が凝らされている。ささやかな洒落っ気には事欠かないが、あくまでそれらは生活様式の一部のようであり、目立つ派手さはなく、落ち着いた雰囲気をしている。

 少し音の響く木の床を歩いてゆくと、奥に店員らしき人物の影を見つけたので、試しにイタリア語で声をかけてみることにした。

こんにちはボンジヨルノ」「あら、こんにちはボンジヨルノ

 彼女はレジの椅子に腰かけながら、暇つぶしに本を読み耽る。最中であったようだ。栞を挟み、丸い眼鏡を外して席を立つと、「何かお探し?」と愛想よく笑いながらテオを店に迎え入れる。若くはないが、整った顔立ちをした美人が、そのまま幸せに年を重ねたような容貌だ。

「店先の造花が気になって」

 すると不意に彼の背中から、もういちど同じ音が鳴った。振り返ると、やけに既視感のある紅髪が揺れていた。

「あら、テオじゃない。アンタもここに来たの?」

「あぁ。偶然……」

「えぇと、もしかして、知り合い?」

「もしかすると」「なんで可能性なのよ」

「今日は退屈だったからありがたいわ。みんなカーニバルに夢中だったし。えぇと、確か男性の方は造花を見に来たのよね」

「あ、はい。そうです」

「なら、二階にいろいろ置いてあるわよ。一階は大皿とかシャンデリアみたいな大物で、小物は全部上に集めてあるの。そっちの人は? 付いてくる?」

「〝あたしも小物が見たかったから、ご一緒させてもらうわ〟」

「あら、イタリア語がお上手ね」

 アルカのイタリア語がやけに流暢だったことに、テオは驚かされた。アオと同郷なのかと尋ねると、彼女は少し頭を捻ってから言った。

「<Con>は知ってて、<Exp>は知らなかったの?」

「なんだそれ」テオは素直に尋ねる。

「<Con>は知識、<Exp>は技能。入れればある程度の技能が身に着けられるわ。アタシは今、イタリア語の<Exp>を使ってるの」

 なんだって、とテオが驚き半ばにデータベースを検索すると、確かに<Italian_Spk.Exp>なるファイルが見つかった。テオは試しにインストールして、何か適当に喋ってみた。

「〝これで本当に話せるようになるのか?〟」

 流暢に口をついて出た聞き慣れぬ発音に、テオは我ながら驚いた。どうやら<Exp>を使用すると、母国語で意味を考えた時に、その訳文が自然と口をついて出るようだった。

「〝でしょ。まぁ学ぶ楽しさは無くなっちゃうけど、こういう時には便利だわ〟」

「あらまぁ、二人ともちゃんと話せているわ。最近は便利なものがあるのねぇ」

 意思疎通が自由になり、テオはおもわず笑みをこぼした。

 一言二言交わして階段を上り終え、二階の売り場に到着する。カラフルなガラス小物たちが、少し草臥れたツル編みのザルや商品棚に並べられていた。照明の明かりを孕み、宝石のような輝きを放っているのを見て、アルカが歓喜の声を上げる。

「〝宝の山じゃない! こういうの、女の子にはたまらないわ〟」「ふふふ」

 オンナノコ、という言葉の響きがアルカの印象と重なるまでに、テオは数秒のロード時間を要した。

「……そうか。そういえば……お前、そうだったな」「ぶっ飛ばすわよ?」

 ふん、と足早に光のもとへ向かうアルカを前に、テオはひとまず全体を見渡すことにした。店員はどうやらアルカについたようだった。

 陳列されている品物は、ショットグラスや写真の額縁にはじまる日用品に始まり、亀や熱帯魚、花などの装飾品へと続いていた。どれも精巧なものだと感心しながら店内を進みつつ、ふと草籠と棚に造花専門のエリアを見つけると、そこで足を止めた。

 手のひらサイズのものは草籠に、他は棚に置かれている。中にはブラシュカ模型を彷彿とさせるような生け花の模型もあって、博物館じみた趣の様相。棚はガラスの扉で封鎖されており、触れるには店員を呼ぶ必要があるようだった。

 ひとしきり鑑賞を終え、けれどそこまで大仰なものを買うつもりは無かったテオの視線は、必然的に草籠へ傾く。彼はそこで目についた、見知らぬ造花を手に取った。卯の花色の花弁に乗った翡翠の雄雌蕊が印象的で、サイズはタンポポよりもやや大きい。花弁は多重でかつ絹のように繊細な質感で、その上を気ままに寝そべる雄雌蕊の姿は、まるで針の歪んだ時計のようだ。かつて蕾の外皮であったほうが細長く育ち、花弁からはみ出ているせいで、全体を俯瞰すれば、その形状は雪の結晶とも取れる、不思議な造形だった。

 リンクデバイスで品種を引くと、架空ではなく、実在した。品種名はニゲラ、或いはクロタネソウ。春から夏にかけて咲く、地中海原産の花であるらしい。

 ひと房つまんで照明に曝し、手先をぐるりと矯めつ眇めつして、テオは小さく嘆息した。形の違う花弁それぞれに刻まれた草臥れや皺に、細いが剛健な蕊と苞片ほうへんの精巧たるや、まるで実物の如しである。この花が咲き、そして枯れるまでの間――その生涯で最も美しい瞬間をひとつ切り取り、硝子の中へ封じ込めてしまったかのようで、無機物でありながら、一端の生気さえ感じられる。

「ずいぶん真剣に見ているようだけれど、お気に召した?」「はッ?」

 不意に声を掛けられて、すっかり没入していた彼の手から造花が離れた。床に落ち、ごとんと重い音がすると、テオは全身の汗腺が一気に開くのを感じた。

「〝すみません……! 店の物に、大変なことを……〟」

「あぁ、いいのよ。驚かせてごめんなさい。こっちも悪かったわ。気になってしまって」

「〝割ってしまった分は、弁償します。本当に申し訳ありません〟」

 すると店員は膝を屈めて花を拾い上げると、ぐるりと回りを一瞥した。

「その必要はないみたいね。どこも割れてないわ。木の床だから傷もついていないし」

「〝……え? いや、こんな繊細なものを――〟」

「うちのガラスを他のガラスと一緒にしちゃだめよ。本物のムラノガラスは、手から落としたぐらいじゃ割れないわ」

 女はそう言って、テオの手に花を戻した。隅々まで隈なく傷がないか確かめてみるが、確かに彼女の言う通り、薄い花弁や細い雌蕊に至るまで、欠損はどこにも見当たらない。綺麗なだけでなく丈夫なのかと、テオは再三に渡って感嘆した。こんなにも素晴らしいものがあるのなら、これを買って帰らずして、ベネチアに来たとは言えない気がした。

「〝これをひとつ、頂きます〟」

「はい、どうも。男の人がお花なんて珍しいわね。……あぁ、さてはプレゼント用?」

 問われて、テオは暫し沈黙した。この白と翡翠は、彼女の髪と瞳の色によく似ていた。だから何だという訳でもないが、どことなく、この花は彼女とよく似合う気がした。

 それから何と言っても、詫びの品になるというのが大きかった。女性に謝罪する時は贈り物をするとよい、という言い伝えは、古今東西を問わず、万国共通のはずだった。

「〝……まぁ、そんな所です。仲直りの切っ掛けになればと〟」

 逡巡を経て、テオは彼女の文脈に乗ることにした。任せて、と愛嬌よくウインクをして、彼女はレジで決済を終え、「少し待ってね」と奥の控えに入った。

 十分ほどして、テオは小さな紙袋を受け取る。中を覗くと、どうやらプレゼント向けに瀟洒な包装を施してくれたようだったが、それにしては少し時間がかかり過ぎな気もした。

「頑張って。今日の夜はベネチアいちロマンチックな夜だから、きっと上手くいくはずよ」

 きっと何歩か彼女が先走りしている事は理解できたが、ここまで来て文句を言う事も出来なかったので、素直に礼を言って受け取った。店を出ようと踵を返すと、そこには一連のやり取りを傍聞きしていたアルカの、生暖かい視線があった。

「アンタって奴も、案外スミに置けないのねぇ?」

「……うるさい」

 その視線から逃れるように、テオは階段を降りて店を出る。

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