第16話
⁂
サンマルコ広場の横を抜け、ゴンドラはリアルト橋付近の
「――ここだ」
テオが右も左も分らなくなったころ、不意にアオが立ち止まって、左側のやや朽ちた吊り看板を指差した。
「私いきつけのオステリアだ。つまらない景色ばかりで悪かったね。でもこの時期じゃ表にある観光客向けの店は一杯だから、待つよりいいだろう?」
「それはいいけど、美味しいの?」「無類だ」
敷居を跨いだアオに三人が続く。落ち着いた雰囲気の店内だ。壁紙は柄が少なく、内装も控えめな絵画や棚や電灯の必要十分。右手に厨房があり、その前にカウンターが、その次に二人掛けのテーブルが連なる。奥は少し開けており、六人掛けの大テーブルが三つ置いてあるが、一つ空席だったので、一行はそこへ座った。
備え付けのメニューに目を通す。イタリア語だけで、素朴な料理の写真と品名、値段が書かれている。観光客が来ることは想定されていないようだ。
三人ともイタリア語は知らないが、リンクデバイスが視覚情報を解析して常時翻訳してくれるので、読むのに時間がかかる事もなく、注文は円滑に進んだ。ピザにパスタにブルスケッタと一通り、加えてアルカはワインを頼む。
「……オステリアって、カフェみたいなものなんですか。雰囲気が似ています」
「あぁ、そんなもんだ。コーヒー代わりにワインが出る」
「まだお昼ですよ?」
「いいじゃない、素敵よ、そういうの」
「この辺だと別に昼から飲んでる奴も珍しくないし、朝起きたらすぐに飲むやつもいる。イタリア人はみんな酒好きだよ」
ウェイターが訪れ、アルカにワインを出した。残る三人にはコップ一杯の水が置かれる。
「アオさんは、飲まないんですか?」
透き通るグラスを手にした彼女は、憂鬱そうな目を浮かべながら言った。
「ゴンドラ漕ぎの、唯一不満なところだよ」
⁂
料理が来るまで辛抱しているあいだ、テオは向かいの家から仮面をつけた青年が出てくる姿を目にした。
「なぁ、あれは何だ」
「仮面か? 今日はカーニバルの最終日だ」
「え、今日なの? アタシったらなんて運がいいのかしら!」
アルカが興奮隠しきれぬ様子でガッツポーズする。
「カーニバルとは、お祭りの事ですか」
興味を惹かれたヴィルが、少し身を乗り出してアオに訊いた。
「カトリックの謝肉祭だ。復活祭の前の四〇日間に四旬節っていう節制の期間があって、その間は肉や卵や乳製品を食べられない。だから、その直前でどんちゃん騒ぎしようって話さ。まぁ、今時四旬節なんてまじめにやる奴は少ないけど、祭りは楽しいから、どんどん派手になった。いまやヴェネツィア・カーニバルは、世界でも指折りの規模の祭りだ」
「それは、どのくらいの規模なんだ?」
テオもまた興味深そうに会話へ参加する。
「全日程18日間。そのあと、四旬節前の最終日、要は今日でフィナーレを迎える。カーニバル自体はカトリック圏のどこでもやるが、ベネチアはみんな仮装して楽しむ。今日は花火も上がるし、コンテストもあるし、夜には見世物もある」
「仮装するのって、何か理由があるの?」
「この祭りが始まったのは中世で、当時は身分制度があった。でも、祭りのときにそんなことは気にしたくない。だからみんな仮面を着けて、匿名化した」
「なるほど……」
「じゃぁ私たちも、仮面をつければお祭りに参加できるってことですか?」
「そう。旅客でも誰でも、参加OK」
「へぇぇ……」
ヴィルが瞳に好奇心を浮かべたのを、テオが横から眺めていた。その顏は、遠くの座席から映画を見ているかのように、現実味というものがなかった。共感も、嫌悪感もない。彼女という存在と人間である自分の距離感が、狂ったまま元に戻っていなかった。
「仮面を買わなきゃいけないわね!」
「いいですね。そうしましょう」
けれどそうしてアルカとヴィルと相好を崩すのを見ると、テオの胸には嫉妬が浮かんだ。彼は不気味の谷の底から、その分水嶺に立つアルカの姿を、羨望と共に見上げていた。
――そこに何があるのだろう。
――機械で出来た偽物が、彼女にはどう見ているのだろう。
⁂
そのあと、テーブルへ料理が運ばれてきた。アルカにペスカトーレ、ヴィルにカルボナーラ、テオにネーロ(イカ墨パスタ)。
「ネーロはベネチア発祥のパスタだ。いいセンスだね」
「そうなのか。偶然だ」
「そりゃ、ツイてる」
アオはチーズと生ハムのブルスケッタに、シャコの塩茹で。真ん中へ置かれたマルゲリータは四等分され、皆で平等に分けることになる。
アオとアルカが指を組んで祈り、テオとヴィルが「いただきます」と合掌した
のち、皆で舌鼓を打った。料理はどれも美味であった。
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