第15話


                   ⁂


 船に揺られ、街を流れてゆくなかを、テオとヴィルがぽかんと眺めている。若くして戦争に巻き込まれた彼と、研究室で生まれ育った彼女――その出生こそ異なるものの、共にここで目に映るほぼ全てが、まるきり未知のものであった。

「――水の都という名の通り、この街に車道や鉄道はない。あるのは水路と道路だけ。必然、移動手段は徒歩か船に限られるけど、ここで生きる分には十分だ」

 船頭はアオ。船首向かって後ろ側に立ち、最大八人まで載せられる船を、背丈ほどあるオール一本で操船しながら、歴史や通りがかった場所の観光知識を話す。本人は生粋のベネチア育ちで、母国語も当然イタリア語だが、今はソーシヤリウムの公用語である英語を流暢に話している。

 ゴンドリエーレ。女性ならばゴンドリエーラ。車なきベネチアにおける観光タクシーの漕ぎ手。かつて彼女が地上で生業としていた仕事の名前だ。

「ゴンドリエーレになるにはどうするの?」

 アルカは椅子へ後ろ向きに座り、アオと話しやすいようにしていた。

「まず第一に、イタリア国籍を持っていること。そして第二に、ライセンス試験に合格することだ。昔は世襲制だったんだけど、途中から試験制に切り変わったな。必要なスキルは、三か国語が話せるかどうか。ゴンドラ漕ぎが上手く、十分な体力があるか。満足な基礎教養と、ベネチアに関する高度な歴史的教養があるか。その他、客を楽しませることができるか、などなどエトセトラ。難しい試験だよ。専門学校があるくらいだ。全体の定員もは425名きっかりで、空きが出た時だけ募集がかかる。倍率は高いし、試験を潜り抜けても見習いからのスタートで、一人前になるには何年もかかる」

「宇宙飛行士の選抜試験みたいね」

「確かに、科目は似てる。ただ、宇宙飛行士よりは古臭い。世襲制の名残と体力の制約が問題で、この仕事は全体の99%を男性が占めてる。少し前までゴンドリエーラは二人しかいなかった」

 語尾が調子よく跳ねると、伴って彼女の総髪の先端も小さく揺れた。「今日のアタシたちは幸運ね」アルカが素直に喜ぶと、彼女は余計に嬉しそうな顔をした。

 対向船と入れ違うと、その先には盛況する市場の風景がある。新鮮な海産品や青果物が、手書きの値札と共に屋台へ並んでいる。バーコードとセルフレジの風景に慣れたテオとヴィルにとっては異世界同然の眺めだ。

「――そういえば、今日のゲストは特例で、レガリウムについてよく知らないのが二人いる、って話をを思い出したぞ。テオと、それからヴィル、だっけ?」

 二人は頷いた。

「なら先に、説明しておくよ。端的に、レガリウム《ここ》は準世界遺産環境だ。戦争により破壊された遺産のアーカイヴ。旧世界における重要な文化財とその生活風土などの維持を目的とし、今も新しく建造が進んでる。とはいえ、広さは実際の面積よりもずいぶんと小さいし、空も太陽も造り物には違いない。表面のディティールはマイクロマシンによって肉眼では本物と区別がつかないが、レプリカだ」

「……この海も、そうなんですか」

 アオは「畏まらなくていい」と明朗に言う。

「塩水だよ。この辺の海域に合わせた成分を調合して、似せたものを施設内に循環させてる」

 テオはゴンドラからすこし身を乗り出して、揺蕩う水面を指で掬った。海水特有のもたついた肌触りと、強い潮の香り。本物との違いは分からない。

「住民もベネチアンのHHH《レプリカ》だ。現地民特有の習慣や人格、鈍り、外見、体質などを上手く模倣できるよう調整されてる。観光客は、君達を除いた全てがソーシヤリウムのHHHだ」

「何のために、そんなことを」

「ここは、過去の生け簀なんだよ。マギアスに奪われた人類の系譜、過去の遺産を保護し、次へ繋げる為のね」

「次、というと」

「博士から何も聞いてないなら、私からは話せないな」

 ふと、船から薄い建物の影が剥がれ、代わりに水面で反射された、澄んだ冬の太陽が四人を照らした。ほの温かさに包まれながら、ゴンドラは建物に挟まれた小運河を抜け、ベネチア市を中央からまるごと二分する、広大な大運河カナル・グランデへ合流した。

 テオとヴィルは息を呑み、アルカは大はしゃぎした。運河という緑青の宝石に、大小様々な船舶の刻む白波の紋様。その両岸に向けて弧を描く木組みの大橋――アッカデーミア橋の向こう側に広がる、折々の建築。家屋は運河にせり出て並び、その骨組みは木組みの乗り場を伸ばし、紅白の係留柱パリーナが隣に伸びている。少し仰げば、伝統的なレンガ屋根の焦茶が、底抜けた蒼穹の境目にある。どこを見ても写真のようだ。

「ここは本当にいい場所だ。義体化した甲斐は充分にある」

「義体化?」テオは反射的に後ろを振り返って、彼女に尋ねた。

「私はね、サイボーグというやつだ。脳味噌だけ本物で、あとは全部機械で出来てる。脳細胞はね、特殊な条件下だと老化しないんだ。だから私は、この状態で何百年でも生きていける」

「……なぜそんな選択を?」

「このベネチアが、再び地上の日を浴びるところを見たくてね。人間の体には寿命があって、時間が限られているだろう? その間に戦争が終わるとは思えなかったんだ。だから私は、肉体を捨てた。体細胞と違って、神経細胞は長寿なんだ。脳細胞も例に漏れない。博士曰く、4~500年は大丈夫らしい」

 アオは上体を折り曲げ、テオに顔を近づけた。濃いブラウンの瞳だった。

「どうかな。私のことは奇妙?」

「……なぜ、そのことを」

「博士から、君についてよろしく頼まれているからだ。落ちたんだろう? 不気味の谷に」

 テオは、頷いた。

「……正直、少しだけ。怖いというより、奇妙だ。よくわからない」

「はは! そうか、奇妙か! 結構なことだ。事実から目を逸らさず、ちゃんと向き合おうとしている。いいことだ。大いに悩みたまえ、青年!」

 大運河から再び傍流に入って暫くすると、水をかき分けるゴンドラの頭が、サンマルコ広場を右手に見た。交差するブロックパターンの床を取り囲む、緻密な装飾の刻み込まれた列柱回廊。かつて彼の地を治めたナポレオンから、世界一美しいと評された広場だ。憩い集う人は多く、多くは普段着であるが、中には不思議と仮面を被り、華美な衣装に身を包む、奇妙な装いもある。

 往来、その地面、憩う人々、その全てが高度な模倣であることを忘れて、テオは見惚れた。本物を知らぬ身で、この景色がそうでないとは、信じがたかった。

「――人と機械の違い、本物と贋作の境目。ここはそういう境目の哲学には絶好の場所だ。旅を楽しんで、そして君なりの答えを出すといい」

 テオは黙して頷いた。その表情を、ヴィルはじっと見ていた。アルカは陰気臭い話を嫌って広場を歩こうと提言した。

「広場は、また後で。もっといい時間がある」

 鐘楼しようろうが鳴った。広場の周りにある建物の中で最も高い建物にある、五種類ある鐘うちの一つ。タイミングと種類によって、その音が成す意味はそれぞれ異なるが、これは正午の時報を意味する。

「もうお昼ね。アオ、どこか美味しいお店に連れていって」

 了解、と船が舵を切る。テオの胃袋も期待を膨らませて、唸った。アオは笑って、「節操なし」と言った。

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