Part.3 面紗――Veil

第13話


 マイクロマシンという共通単位で構成されたヴィルの体は、その補綴によって破損個所の修繕を行う。

<カイトの事を、テオに話したよ>

 憂鬱な面持ちを浮かべながら黄色い油槽に浸り、ロボットアームに全身を這い回られながら修復とメンテナンスを受けるヴィルへ、博士が淡々と伝えた。

<テオは、なんと>

<動転してた。ちょっと深刻かもしれないね>

<……そうですか。当然ですよね。いきなり、自分の世界が変わっちゃって……>

 ヴィルは俯いた。壊れてゆくカイトのそばでテオが浮かべた、恐怖と哀願の表情が思い出される。彼がもし事実に気付けば、自分にもその顔をするのだろうかと想像すると、胸が締め付けられる思いだった。

<……暫く、お前達は休んだ方が良い。仕事は気にしなくていいから、これが終わったら家に戻って、ゆっくり時間を過ごしなさい>

 小さく返事をして、通信を切る。ぼこぼこと、最後の補綴を終えたアームが溜息を吐いた。


                   ⁂


 誰もいないリビングの電気をつけた時、ヴィルは机の上に一通の書置きがあることに気付いた。差出人はアルカ。風呂を沸かしておいたので入りたければ入ること、テオは二階の部屋で眠っていて、今日は諦めろ、とのことであった。

 メンテナンスの際に、全身の洗浄は既に終わっていたが、ふと湯が恋しくなった。脱衣所に入って鏡を見ると、そこにもまた別の書置きがあった。もし一人で眠れなさそうなら、部屋を訪ねろとのこと。彼女の心配が、ヴィルは暖かかった。

「ふぅ……」

 足先から肩まで湯舟につかって大きく一息つくと、力の抜けた肢体に、温もりが染み渡る感じがした。水面に浮かぶ髪毛の束を手で摘み、指先で押したり捩じったりしてもてあそびながら、「どうしよう」と不安を独りごちる。

 テオはどんな気持ちでいるのだろう。恐れているのか、心細いのか、あるいは、怒っているのか。その感情のどれもが、ヴィルにとって恐ろしいものだった。

 寒気がして、自分の両肩を抱きかかえる。赤くなった膝を胸元まで抱え込み、口元を水面に沈めて、鼻で息をした。それでも凍えは変わらなかった。

「……ひとりなの、嫌だな」

 湯船から出て、鏡を見た。ミクロな構造で、精緻に人を象られた己の姿。人肌恋しい寂しさも、胸が詰まるような苦しみもある。ただそれが、金属とコードでできているというだけで。

 体を拭いて、寝巻に着替えて、アルカの寝室へ向かった。彼女は既に、ヴィルやカイトのことを知っている。彼女は不気味の谷を超えているのだ。そんな彼女に、何か教えを乞えればよかった。

 あるいはただ、甘えるだけでも。


                   ⁂


 音をたてないよう扉を開け、奥のベッドへ腰掛けた。アルカの眠る布団が上下に一定のリズムで動くのをじっと見ていると、釣られて瞼が重たくなった。

「……ヴィル?」

 寝床の傾きに気付いて、彼女が上体を起き上がらせる。半開きの目蓋から覗く淡い紫の瞳がヴィルをとらえて、やっぱり来たのね、と呟いた。起こしたことをヴィルが詫びると、アルカはその両肩を掴んで横に倒し、上から布団を覆い被せた。

「二人の方があったかいわ。ちょうど寒くて困ってたから」

 枕元にある照明に、一番小さな明かりがともった。ぼんやりとした橙色は、小さな暖炉に揺らぐ炎のようで、彼女の焦心を穏やかにした。

「……バレちゃったわね、あなたのこと。いずれこの時が来たんでしょうけど」

 アルカは無言でヴィルの頭に腕を回すと、それを胸もとで抱しめ、片手で髪を梳いた。ヴィルはされるがまま、頭の重みを彼女へ預けた。

「どうしてほしい? 話聞けばいい?」

 アルカが気を回して尋ねると、ヴィルは堰が外れたように、滔々と思いの丈を溢れさせた。不安と恐怖。テオが自分を対等な存在と認められなくなったとき、自分の思いや言葉の全てが、彼の心へ何物も生まないこと。彼にとって自分が、ただの人形でしかなくなること。人としての自分が、死ぬこと。

「――前までは、ふとした時に笑いかけてくれたり、服を買いに行って、素敵だと言ってくれたりしてくれました。けれど機械であることを知られた暁には、もう二度と、そんな時間は訪れない……。そう思うと、どうにも明日が怖くて、眠れなくて」

 吐露が止まると、アルカは穏やかな口調で言った。

「不安な気持ちを解消するには、二つのことが必要よ。一つ目は、よく眠ること。二つ目は、その後に不安と正面切って向き合うこと。冷静な頭と心でね。とにかく、今日はもうお休みなさい。起きていたって苦しいだけでしょ?」

 明かりが落ちた。ヴィルは彼女が眠ってしまうと思って、尋ねた。

「アルカは、私のことをどう思っていますか?」

「あなたはあなたよ。人とかモノとか気にしてない。あいつ《テオ》だって、どうせ直ぐそうなるわ。色仕掛けの一つでもしてみたら? 男なんて下でしかモノ考えてないんだし」

「色じかけ……論理が飛躍してませんか?」

「機械か人かなんて好き嫌いの一つに過ぎないわ。好きになったらどうでも良くなるし、結局は惚れさせたモン勝ちなのよ。人間ははかりじゃないし、神様でもない。理屈なんて、感情の尾ヒレよ。あなただって、きっとそうでしょ?」

 ヴィルは頷いた。

「……アルカは私のこと、好きなんですか?」

「嫌いな奴をベッドに入れると思う?」

 アルカはにかっと笑って、ヴィルの頭をわしゃわしゃ撫でた。それが彼女なりの愛情表現と、照れ隠しなのだとわかると、ヴィルは無償に嬉しくなった。放っておくとその手は首元や脇の下まで降りてきて、思わず笑い声が漏れた。無理矢理にでも笑顔にさせられると、それだけで、鬱屈はいくつか消えた。

「……よく眠って、向き合うこと、ですね」

 ひとしきり笑い終えて、心地よい脱力感に包まれながら、ヴィルはそう口にした。そうよ、とアルカは寝返りを打って、だからおやすみ、と瞼を閉じる。

「……ありがとう。おやすみなさい」

 ヴィルは頭一つ分空いた枕を借り、彼女と背中をつき合わせて目を瞑った。呼気の聞こえる静寂の中で、アルカの鼓動を感じていた。自分の左胸に手を触れると、そこにも同じ拍動を刻むモノがあった。


                   ⁂


 テオは金も行く当てもなかったので家に戻ったが、ヴィルと顔を合わせるのは無理だったので、自室に直行して鍵をかけた。ヴィルとアルカの二人が寝静まった、夜遅くの事である。

 眠れぬままベッドの上で呆けていると、周転してきた月の明かりが差し込んで、時の経過を感じた。朧月だ。眠れぬ間に暗順応した彼の目には、それでも眩しい。

「……どんな顔すりゃいいんだよ、あいつに」

 顔をしかめたくなるような頭痛がした。能力アクトの酷使による疲労が抜けきっていない。だが瞼を閉じても妙に興奮した神経が眠気を妨げて、一向に朝はやってこない。

 耐え難くて、リンクデバイスを頼ることにした。五感の入力を落とし、外部刺激から脳を隔離する。外界との感覚的な接続を絶つと、世界は完全に内的なものに変わる。強制的な入眠効果があるが、睡眠剤と同じで、使い過ぎるとそれなしでは眠れなくなってしまう危険もはらんでいる。

 けれどテオはこれまで何度も、眠れない夜をこうして過ごした。快眠のためでもあり、そこで見る夢のためでもあった。完全な内的世界の最中では、誰もが自身の原風景クオリアを見る。彼の場合は、麗らかな春の陽気に照らされた丘陵と、その頂点に立つ母の素朴な墓標が。

「……久しぶり、母さん」

 墓前に跪いて挨拶すると、墓石に向かって、胸の内をありったけ吐露した。人目をはばかることもなく、子供のように嗚咽した。この世界の管理者は彼で、彼が心を許さぬ限り、誰もここへ立ち入ることはできない。代わりに誰の返事も望めないが、いまは揺らがぬ孤独こそが安堵を生んだ。

 次第に陽は地平線に沈み、伴って眠気が強まった。全身が幻温に包まれてゆく感覚に、どこか母の胎内を思う。夜と共に意識は落ち、彼の世界は幕を下ろした。シルクに包まれるような、緩やかで優しい眠りだった。


                   ⁂


 じきに朝日が昇ろうかというころ、博士はコーヒーを啜りながら、レキの公共意識帯にあるフォーラムを見ていた。レキの公務に従事する者たちのための連絡板で、人とHHHが対等に入り混じる。ゆえに参加には不気味の谷を越えていなければならずアルカを除いた他の三人はその存在を知らない。

 フォラームは業務ごとにで部署という単位で分割されており、それぞれ事務的な申請や要望から雑談まで、話題は幅広い。博士はレキ創始者として、その全てに対して介入/命令する権利を持っているが、専ら技術開発に専念すべく、ほとんど管理者に委任している。

 ただ、レガリウムという、レキの中でもひときわ特殊な施設だけは例外だ。旧世界の遺産を保護するために、様々な無形・有形の文化財が、その街並みや住民ごと保存されている。

 一種の観光レジャー施設としてフォーラム参加者にも定期解放されており、旧世界の憧憬を抱くトロールからの任期は凄まじいの一言だ。滞在グループの抽選は週にいちど行われるが、倍率はまいど千を超える。

「僕に出来る手助けと言えば、精々これくらいだけど」

 しかし博士が管理者権限を行使したことにより、今週の当選者は申請フォームの常連であるアルカに選ばれた。不気味の谷に落ちたテオと、その渦中にあるヴィルに出来る、彼なりのベストがこれだった。


「――どうかここを、気に入ってほしい。これが僕の守りたかったものだ」

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