第12話
⁂
テオが普段とは感触の違うベッドで目を覚ますと、隣では博士が舟を漕いでおり、その傍にある小さな丸テーブルの上には、コーヒーの注がれたカップがあった。取っ手が此方を向いていたのを見て、眠気覚ましにと口に含めば、途端に猛烈な甘味が押し寄せてきて、思わず口元を押さえる。どうにか飲み下して何事かとカップの底を覗き込むと、再結晶した砂糖の粉が5㎜ほど堆積していた。
「……なんだ、これ」
虚空に放ったつもりの言葉を聞いて、博士がふと目を覚ます。
「――あぁ、起きたのか。おはよう、テオ。だいたい……12時間ぶりか」
モニタの時計を見ながらそう口にする博士に、テオは眉を寄せながら訊ねた。
「博士、このコーヒーは何なんだ。僕を糖尿病にさせたいのか」
「いや、はは、ごめん。君の分だという事を忘れて、つい何時もの調子で淹れてしまったみたいだ。僕は砂糖を30本ほど入れて飲むのが常でね」
「30!? いつもそんなの飲んでるのか?」
「糖分は脳活動に必須なんだよ。特に僕にはね」
「いや、モノには限度が」
「まぁ、そこは人それぞれさ。ヒトは規格品じゃないからね。とはいえ、アレだ。強烈な刺激だっただろうし、気付けにはなったんじゃない? 落ち込んでたんだろ?」
「落ち込む?」
「知ったんだろう。随分ショックを受けていた、とアルカから聞いているけど」
テオは夢から覚めたような気分になった。眠りで途切れていた世界が繋がると、そこから記憶は連鎖した。気絶から覚め、カイトが死んだ瞬間がフラッシュバックして、気分が
博士は何も言わず、背後の空間に映像を投影した。円筒状の油槽に鈍色の骨格が沈み、そのまわりを這うロボットアームが、微細機械を積層していく様子の中継だ。
「そう落ち込むな。彼はまだ死んじゃいないさ。体はあと三日くらいで出来上がるし、脳もまだ健在だ。ナノマシンで出来た彼の脳構造は、ホロンの隙間に潜り込んで移動し、今はあの空から降ってきた塔――
起伏のない博士の言葉に、テオは眉間を押さえてうつむき、首を振った。
「違う、それはもうカイトじゃない……あいつは、あの時に死んだ。あんたが命じて殺したんだ」
「どうして? 確かに体構造はマイクロマシンを使ったものへ進化させるが、その外見も中身も、何ら変わっちゃいないよ。どうして彼が死んだなんて悲しいことを言うんだ。嫌いだったのか?」
その瞬間、テオは理性を失って博士の胸ぐらを掴んだ。
「モノ相手に、生きてるも死んでるもないだろ!」
歪んだ形相で顔を上げ、博士のことを睨みつける。
「どうして僕に言わなかった? あいつが機械だってことを! どうして僕達を騙すような真似をした!?」
裏切られたような気持だった。カイトを真人間だと信じていた心を。彼の言葉を振る舞いを、共に過ごした過去の記憶を。だが人工皮膚のヴェールが剥がれ、それら全ては
「彼の人権を尊重した結果だよ。彼の意思でない限り、僕からそれを伝える事はない」
「人権? ブリキ人形に、人権だって?」
言い終えると、頬に鈍痛が走った。怒気を孕んだ博士から放たれた拳だ。途中で手首が負けて折れ曲がっており、恐らくは殴った側の彼の方が強い痛みを覚えるはずの。
頬に触れてその感覚が現実であることを確かめると、テオは深く困惑した。怒りを覚える暇など無かった。レキへ来てこの方、あの温厚な博士がこれほどまでに感情を露にする瞬間を目にしたのは。これが初めてだった。
「二度とあいつの事を、そんな風に言わないでやってくれ」
「……馬鹿馬鹿しい。酔狂だ」
「そういう割に、君だってずいぶん悲壮な顔をしているじゃないか……」
テオは画面の灯っていないモニタに映る自分の顔を見つめた。頬に伝う涙の生ぬるさに気付いたのは、その時が最初だった。
「君の言葉が、君の心にみずから刃を突き立てている。その涙は何だ。悲しみじゃないのか? 機械を人でないと言っておきながら、君はどうして涙を流している?」
テオの理性と感情は互いにすれ違い、摩擦熱で燃えそうだった。
「何なんだ、何なんだよ畜生……」
博士の胸倉を掴んでいた手が緩み、怒りに震えていた顔は項垂れて、博士の首元へ縋るような姿勢になった。
「何で、あいつはあんな事したんだ。ずっと隠していれば、気付きようなんて無かったのに。なんでわざわざ、僕に見せつけるような真似を!」
博士の手がそこに触れる。優しい手だった。
「……あの子は、君と本当の友達になりたかったんだそうだ」
笑ってくれ、と泣き笑いするカイトの骸がフラッシュバックした。
「例え彼が何者であっても、君と相違ない存在として、ね」
やってきたのは、絶望だった。
「――そんなのは、無理だ」
⁂
逃げるように街へ出て、名も知らぬ公園のベンチに腰掛けて、数時間が経った。何を考えるでもなく往来を眺めていると、ふと目の前を通りすがった老婆がハンカチを落とす。反射的にそれを拾いあげ、気付かず進もうとする彼女に声を掛けた。
「落としましたよ」
老婆はしばらくテオの顔を見たあと、差し出された自分のハンカチに気付き、顔を綻ばせる。
「――あぁ、拾ってくれたのね。親切にどうも」
「いいえ、お気になさらず……」
夫人が心底嬉しそうに会釈して、テオの手に触れる。そのとき、テオは猜疑心から
「その、手を放して下さらないかしら。折角拾ってくれたものが受け取れないわ」
そうしてテオは、そう困惑する夫人の掌、その
その瞬間、レキに来てから築き上げてきた全ての時間が、その色を鉛に変えた。
「――――おい、なんだ、この街」
「どうかなさって? すごく顔色が悪いようだけれど」
テオは彼女の掌にハンカチを押し付けると、弾かれた様に背を向け、礼も聞かずにその場を去った。空が次第に曇天となって街を覆いつつあった。それは金属の骸、その鈍く暗い輝きに似ていた。往来のうみだす足音は、カンカンと鉄が地面を踏み締める音に聞こえた。人ごみの中で立ち止まる彼を見る視線の奥は、赤く輝いていた。
恐怖に駆られて走り出して、時おり肩をぶつけた人に触媒検査を行っては、そのたびに同じ結果が返ってきた。金属、金属、金属、金属。ふと混乱から我に返ると、そこには先日ヴィルと訪れた服屋のショーウィンドウが居を構えていた。
頭の中で、埋まるべきでない、最後のピースが埋まってしまった。
――そういえば、あいつには妹がいたな。
――金属製の、妹機が。
分断された論理と感情の狭間、その深遠に足を滑らせた彼を、不気味の谷が抱擁する。
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