Part.2 模倣――Mimesis

第9話


 本の虫と揶揄られる少年時代を過ごした、ランカという男がいた。遊び盛りのクラスメイトからつまらない奴と距離を置かれ、友達の殆ど居ないまま卒業し、それを何度か繰り返して、そのまま大人になった。

 戦争が起きた。家を焼かれ、父を戦場で、母と親族を避難所で亡くした。彼は奇跡的に命を繋ぎ止めた数少ない人物であったが、孤独天涯の運命を背負っていた。

 何もかもを失った彼の元に、残されていたのは紙とペンだった。文章の書き方は無数に知っていた。彼は自身の体験をもとに、戦争の凄惨と無意味を描いた。それは彼を突き動かすたった一つの情熱となった。

 だがヴィシュに入ると、創作物は全て検閲された。ヴィシュは戦争を美徳とし、兵士となる若人を英雄とする価値観を醸成している。彼の文章が受け入れられる余地はなかった。

 ヴィシュが不都合な概念ことばを消し去ろうとしていることを、ランカはあるとき悟った。ヴィシュの規制は幅広かったが、中でも特に、暴力的な言語、批判的な語彙、風刺、歴史といったものは、規制が厳しかった。時が経てば、その存在がヴィシュから消えるのは確実だった。

 ランカの哲学では、知識と言葉は思考を司る。人が持てる世界の限界は、その人の知る言葉の広さだ。そして彼によれば、ヴィシュもそれを知っていた。彼らが特定の言葉を消滅させるのは、民衆の認知を制御することが目的にちがいなかった。革命の扇動、政府の批判、情勢の風刺、過去の追及、現状への疑念――そういうものを世界から消して、ヴィシュは己の権力と支配構造を永続化させようと試みていた。

 昔、ランカはそれと似た世界を本で読んだ。だからこそ、その恐ろしさも身に染みてわかっていた。

 ヴィシュで生きるという事は、白痴となり、あらゆる自由と制約を入れ替え、職務を熟し、対価として得たかりそめの安寧を、淡々と死ぬまで過ごすということだ。

 ランカの価値観では、それは生きる屍だった。彼の生命は壁の向こう側、機械の跋扈する荒涼にこそあった。

 脱出計画を進めている最中、彼は同じ志を持つイーラという女に出会った。それが運命の出会いとなり、二人はヴィシュを抜け出した後で、小ぶりな湖の畔に愛の巣を作り、アトラスという一人の男の子供を設けた。彼は自ら望んで向かった荒野で、人生の絶頂を掴んだのだ。

 だが、永くは続かない。

 全ての文明を破壊するマギアスが、いま、彼の家を捉えている。


                   ⁂


「……クソッ、様子がおかしいぞ」

 ベランダから見える湖畔の向こう側に、此方を目指して進んでくる機体が一つ。ランカは双眼鏡から目を離し、無意識のうちにそう吐き捨てる。足元で、「くそ!」という舌足らずな声がした。見下ろすと笑顔を浮かべるアトラスと目が合った。ランカは大事を悟られぬよう、微笑み返して息子を抱き上げる。聞こえた言葉を何でも真似したがる時期だ。

「あぁ、君もついに悪い言葉を覚えたな、アトラス。だがあんまり使っちゃダメだぞ。ここぞという時に使うんだ。使い過ぎた言葉は重さを失うのだ。――さ、外は寒いだろう。母さんの所へ戻れ。今日はに行く日だ」

 アトラスを抱えてダイニングへ行くと、テーブルの下にある地下室への扉が開いていた。秘密基地――マギアスのスクラップから採取したアルミを融かして壁に敷き詰めた、非常用の防電波室だ。似た事態はこれまで何度かあったが、ここに潜れば安全だった。だがランカは部屋に入らず、そこにいる妻へ息子を任せた。

「パパ、来ないの」

 共に地下室へ入らなかった父を見て、アトラスは不思議そうに問いかけた。イーラも、彼が自分に息子を手渡したことに困惑していた。

「ねぇ、あなたも来ないの?」

「……なんだか嫌な予感がするんだ。やつらは真っすぐこっちに向かってきてる。これまでは通りすがるだけだったのに、今回だけ、明らかに私たちを――」

 イーラの方を振り返り、そう苦い顔で答えたその瞬間、正面の穏やかな傾斜に命中したミサイルの爆風が、彼の体をゴム鞠のように吹き飛ばした。

「う、が……」

 幸いにも直撃を避け、どうにか一命を彼が、呻きながら体を起こす。全身の節々が痛むが、どこも折れてはいなかった。

「あなた――」

「よせ、来てはならん!」

 地下室から這い出て来ようとする妻を、必死の語気で制止する。

「巻き添えを喰らうぞ。いいか。僕に何があろうと、そこに居るんだ。私は標的にされたが、お前たちはまだかもしれぬ」

「あなた、何するつもり!」

「見たところ敵は一体・・だ。実は、密かに奴らの構造を研究してね。致命的な弱点を見つけたんだ。武器があれば充分に倒せる」

「ちょっと、そんな危険なこと――」

 ランカは彼女の言葉を封じ込めるかのように、地下室の扉を閉じ、鍵をかけた。

「さぁ、使い時だ。暇つぶしの産物よ、役立ってみせろ!」

 裏口から家を出て軒下へ潜ると、そこに簡素な木箱があり、中には槊杖と麻布に巻かれたツインバレル式のマスケットが二丁ある。残骸からパーツを継ぎ接ぎしたり、砂型を作って鋳造したりしてどうにか造ったものだ。槊杖で弾と爆薬を込め、撃鉄を起こす。弾は溶かして丸め直した鉛、火薬はスクラップの残弾から拝借したものを使う。銃身の精度は悪く、強度も足りていないから、一発撃てば銃ごと壊れる。だが弾は音速で飛ばせるし、なにより

 致命的な弱点なんて嘘っぱちだ。ランカに生きて帰るつもりはない。己に幸福をもたらしてくれた二つの宝を守るために、蜥蜴トカゲの尻尾になることが望みだ。

 家のすぐ隣にある雑木林に隠れながら様子を伺うと、敵は湖を左に迂回していた。血の色をしたレーザーで彼の姿を探している。ランカは湖を右から大きく回って、その背後をとる。

 機体は小口径の機関砲と中型主砲を備えた多脚型。地上に残った機体はこれが最も多い。地形踏破性能が高く、荒れた地面や傾斜のある岩肌も難なく踏破できる。装甲はジュラルミン製で堅牢だが、脚の付け根は装甲が薄い。

 深く息を吸った。そして、叫んだ。

「――うわああああああああああッ!」

 気付いた敵がレーザーで此方を捉える前に、狙いもおざなりに引き金を引く。

 爆ぜたバレルと引き換えに、脚部へ命中。砲塔が傾き切る前に距離を詰め、今度は狙って同じ場所を撃つ。拉げた足から煙が上がって、機体のバランスが僅かに崩れる。

 主砲が放たれ、彼の斜め後ろの地面に着弾。爆風に数メートル吹き飛ばされて、木の幹に背中を強打する。

 全身の汗腺が開き、横隔膜が硬直し、肌が冷たくなった。

 直撃はしていない。破片も命中していない。

 だがいま確かに、彼は死というものを見た。

「ハッ、ハッ、ダメだ、やっぱり怖いに決まってるじゃないか……!」

 地に伏しながら一丁目を捨て、二丁目を手に取る。どうにか立ち上がって走ろうとするが、膝が笑ってうまくいかない。

 機体の砲身がこちらを向く。機関砲が飛んでこないのを不思議に思って見ると、既に弾帯が切れていた。巡回中に弾切れになったようだ。あの機体は主砲しか打てない。だが、再装填が終わるまでもう幾何もない。

 ガコン、と音が鳴る。主砲のレーザーが彼の胴体を照準する。ランカは無我夢中で引き金を二つ同時に引いた。だが弾は機体を大きく逸れる。照準している時間も、心の余裕も彼にはなかった。

 主砲が火を噴くと、ランカは空を飛んでいた。音や温度や肌の感触はない。世界がぐるりと回転して、頬に雪を押し付けてきた。少し先に、自分の下半身らしきものが見える。暗闇の雪に染み込んだ黒い血判が、そこから彼の所へ轍を作っている。

 真夜中なのに煌々として、綺麗だと思った。

 明かりのもとは、燃え盛る彼の家屋だった。

 機体は全部で三つあり、彼が注意を引いている間に、残った二機が家に破壊の限りを尽くしたのだ。彼が賭した命は無駄に終わった。

 家が吹き飛んでも地下は残る。だが機体が去るまで外には出られない。もうしばらくすれば、そこはオーブンと化すだろう。

 届かぬと知りながら、手を伸ばした。視界がぼやけて、それが涙なのか、今際なのか分からない。眉間にまぼろしの熱を感じた。主砲は再び彼に狙いを定めていた。再装填が終わるまでの数秒が、彼に残された命だった。

 風にあおられ、天を仰臥する。雲の隙間に生じた星空で、幾つかの星がその額縁から外れた。すると視界の端で、機体の主砲がその流星を追うためにランカから照準を外した。

 流星は加速し、次第に光の強さを増していく。ランカは困惑した。なぜ星を撃ち落とそうとしているのか。――そもそも、あれは本当に流星なのか。あれほど長く光る流れ星はないし、尾を引いていないのだから、彗星でもないはずだが。

 主砲から放たれた砲弾が、頭上で炸裂して大きな火花を挙げた。だが流星はその輝きも健在のまま、彼のもとへ舞い降りてきた。

「よおぉぉぉぉく頑張ったあぁぁぁぁぁぁッ!」

 それは耳を聾さんばかりの叫びを共にしながら機体を貫き、粉雪を舞い上げた。

 視界がしばし塞がれる。雪の向こう側に、黒煙とスパークを上げて頽れるスクラップの姿が見える。双槍が機体と地面と縫い付けるように突き立ち、その直上に、炎と同じ灼熱の髪を靡かせる、凛と張り詰めた女がいる。

「救世主、ただいま参上! ってね」

 女は軽い身のこなしで機体から飛び降り、ランカの元へやって来た。それに伴って、背後にあった二本の槍がひとりでに変形し、ドームとなって周りを覆いつくした。

「ふ~っ、何とか間に合った……のかしら?」

 暗闇でぼんやりと感じられる彼女の瞳が、彼の患部を捉えてすこし歪んだ。それからランカの首元にはリンクデバイスが装着された。

「あ、アタシはアルカね。安心して、ヴィシュじゃないから」

 それじゃぁ一体、と口にしようとするが、そんな状態で話せるはずもない。

<このドームがあいつらに壊される可能性は、万に一つもないから安心して。アンタは余計な心配せず、話したいことを考えて>

 アルカが自身の首輪を指でつつきながらそう伝えると、ランカはそれを、一人で本を読むときに脳内で響く、あの誰でもない声の様だと思った。

<な、何なんだいこれは。どういうことだ? 私は喋っていないはずだぞ!>

<便利な電話みたいなものよ>

<そうなのか! ……いやはや、私はずいぶんこっぴどくやられたものだ>

<心配しないで。これくらいなら大丈夫。きっと間に合うわ>

彼女は掌を優しく彼の頬に触れさせた。そこには安堵したランカの涙が伝っていた。

<家族が地下室にいる。私はいいが、あの二人だけは救ってくれ>

<大丈夫。伝えておくから。……あなたは充分やったわ。後は任せて、今は休んで。きっとまた、皆で会えるはず>

 アルカがそう伝えると、ランカは微かな安堵を意識帯に残して雪と同じ温度になった。彼の意識帯が消失・・する。開いたままになっていた瞼を、アルカの掌が撫で閉ざした。

<<:脳構造解析進行度:99・8%で停止 エミュレーションに影響なし:>>

 脳裏に流れた通知を知覚して、彼の首輪を外す。

 それから一言、呟いた。


「――また、レキで会いましょう」

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