第6話

                   ⁂


 翌朝。幸いにも二日酔いを免れたテオは、布団から出て大きく背伸びをした。誰にも起こされることなく朝を迎えられるという幸せが身に染みて感じられる。服を着替えて一階廊下の洗面所へ行き、諸々を済ませてリビングへ出るとキッチンに人影が一つ。髪をうしろでひと括りにしてエプロンをかけ、ひとりフライパンの守りをするヴィルの姿だ。

「おはよう、ヴィル」

「テオ。おはようございます」

「あれから気分はどうだ? 頭痛とかしないか?」

 するとヴィルは思い出したようにハッとなって頭を下げた。

「昨日は私のせいですみませんでした。折角のお祝いだったのに、台無しにしちゃって……。おかげさまで、気分は大丈夫です。あの後、部屋まで運んでくれたんですよね。今朝、カイトから聞きました……。本当に、お手数かけて――」

「いや、別にいいって。そんな気に病まないでくれ。確かに飲み会はオジャンになったが、あのあとカイトと家でゆっくり飲み直せた。僕はそれで満足だよ」

「……そう言っていただけると、救われます」

「救われるって、そんな大げさな……」

 静まり返ったキッチンで、フライパンが何かを焼く音だけが虚しく響く。これは良くないと感じたテオは、率先して別の話題を用意した。

「――さっき、カイトから聞いたって言ったよな。あいつもう起きてるのか?」

「えっ? あ、はい。一時間ほど前にそう言って、どこかへ出かけました。行き先は知りませんが、夕飯はいらないと」

「え~……あぁ、そう。今日はあいつと遊ぼうと思ってたのに。アルカは?」

「いつも通り、音信不通です。どこかで野宿でもしてるんじゃありません?」

「あいつの放浪癖は不治の病だな。酔わせたら手が付けられない」

 しかし酔って蒸発した彼女が戻ってこなくなったことはこれまで一度もないので、テオもヴィルも特に気にしていなかった。

 不意に、フライパンから香ばしい小麦粉の匂いが立ち昇り始めて、テオは訊ねた。

「何作ってるんだ?」

「パンケーキとか、ベーコンエッグを。その……お詫びと言っては何ですが、実は二人分作ってあるので、座って待っててください」

「あれ、本当か。やった」

 テオは諾々とリビングと向きあうカウンターにつく。暫くは手持無沙汰だったので、ヴィルが料理する様子をぼうっと眺めた。部屋着の上にベージュのエプロンを巻き、片手で卵を割ってフライパンへ落とす鼻歌交じりの彼女。テオには何故だか分からないが、とにかく今朝は機嫌がいいようだ。

「半熟がお好きでしたよね。それで、ベーコンは少し焦げた方が」

「最高だ」

「飲み物は紅茶ですか? 先週買ったダージリンがあるんですが」

「あぁ、それがいいな。……というか、レキでどうやってダージリンなんか栽培するんだ」

「なんでも、地下のさらに深いところでダージリン地方の環境を再現した栽培設備があるんだとか」

「滅茶苦茶やってるな、博士」

 ヴィルが電気ケトルにティーポット二杯分の水を注いでスイッチを入れた。そして湯が沸くまでの間に、丁度よく焼けたパンケーキとベーコンエッグを皿に移し、カトラリーと幾つかの切り刻んだ野菜を乗せて彩りをよくする。

 それからエプロンを解いてシンクの下にある引き出しに掛け、手を洗い、銀のポットに紅茶を淹れ、料理と共にテオの隣へ座った。彼女は焦げたベーコンの香ばしさと、焼き立てのパンケーキ生地から立ち上るほの甘さと、紅茶の芳香をまとっていた。「さぁ、朝食にしましょう」と彼女が言ったので、テオはすぐ「いただきます」と合掌する。するヴィルは不思議そうに首を傾げた。

「ずっと気になってたんですけど、それ何なんですか?」

「え? それって何だ? 顔に何かついてたか?」

「いえ、その、〝いただきます〟っていうの……何の意味があるのかなぁ、と」

「あぁ、そのことか。えぇ? これの意味かぁ……」

 テオはナイフとフォークでパンケーキを五等分しながら質問に答えた。

「まぁ、食材とか、作ってくれた人とかに対して、お礼を言ってるんだと思う。日本人の癖みたいなものだ。正直、正確な理由は分からない。母さんがそうしろって」

「あぁ、なるほど。そういう文化なんですね」

「そういえば、お前はどこの国の生まれなんだ? 髪は綺麗な銀色だから北欧って感じがするけど、にしては、ちょっと童顔だよな」

「童顔……ですか」

 ヴィルが少し微妙な反応を呈したので、テオは即座にフォローを試みる。テオは炊事場に立つ女の機嫌を損ねる恐ろしさを、幼少の頃母から身を以て学んだ。

「あぁいや、その、可愛らしいって意味だ。ほら、北欧の人は俺からすると、みんな宝石みたいでさ。綺麗なんだけどとっつきにくい感じがするから。半面、お前は柔和な感じで良くて……決して、その、悪い意味ではなく」

 すると彼女は暫く呆けて、ハムスターのように口をもごもごして黙ったあと、カップをぐびぐび飲んで喉を空け、ようやく「そうですか!」と出力した。「喉でも詰めたか」とテオは心配で尋ねるが、「結構です」と有無を言わさぬ勢いで固辞される。

「そうか。ならいいけど。……それで、僕の予想は当たってたか?」

 テオが話題を元に戻すと、彼女は一転して苦い顔で口を噤んだ。言葉を選んでいるのかとテオは暫く黙って待ったが、咄嗟に別の可能性を察して、顔を青くする。

「――ごめん、気にしないでくれ。無理に答えなくていい」

 大戦があったご時世だ。両親の顔を知ることなく生まれてきた子供だって、今の世界には幾らでもいる。

「え? あ、あぁ、いえ……」

 ヴィルは何か訂正したそうにしながら、けれど言葉を続けることはなかった。

 黙々とした食事が続き、二人同時にカトラリーを皿に置く。テオはこのまま無言で去れば禍根が残って嫌だが、しかし何を言えばいいのか分からず、残り少ない紅茶を唇で何度も啄むように飲んで時間を稼いだ。

 すると、不意にヴィルは両手を合わせて、「ごちそうさまでした」と口にした。

「これで、合ってますか?」

 唐突のことに驚きながら、テオも遅れてそれに応じる。

「……あ、あぁ、そうだ。……ごちそうさま、ヴィル。どうもありがとう」 

 どういたしまして、とヴィルは微笑みながら席を立ち、後片付けを始めた。氷りかけの空気が解けていつもの調子へ戻ったことに、テオは安堵した。

「あ、お粗末様でした、と言うべきでしたね」

「そんなことはない。美味かったぞ」


                   ⁂


「……きょう、何か予定はありますか?」

 テオがそう尋ねられたのは、あれから二人並んで洗い物をしていたときのことだ。「特に考えてないけど」と皿を拭き取りながら生返事すると、ヴィルはとつぜん明朗な空気をまとって、「なら、二人で買い物に行きませんか」と提案する。テオが詳しく聞いたところ、生活用品を買うついでに色々と見て回るために、荷物持ちを手伝ってほしいとのことであった。

「大人四人より重いものを買うなんて、ずいぶんな大ゴトだな」

「もう……すぐそういうことを」

「ごめんごめん、冗談だ。暇だし付き合うよ。何を見て回りたいんだ?」

「生活用品と、春物の服を。ひとりで鏡ばかり見ていると退屈なので、いっしょに選んでください」

「わかった。なら最初に服だな。重いものは後回しだ」

 テオが最後の皿を食器棚に収め、蛇口を閉める。

「では、30分後に玄関で」

 ヴィルはふへへ、とでも聞こえそうな綻び顔を浮かべながら、エプロンを引き出しに掛けていそいそと自室へ戻った。やはり今日の彼女は上機嫌だなぁとテオは思ったが、彼には最後までその理由が分からなかった。

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