愉悦
自分は、暖炉の付近に設置された肘掛椅子に腰を下ろして、紙巻煙草に火を点けながら、暖炉の薪架の上に燃え上がる炎を眺めていた。屋敷の清掃をするなかで、学生時代のアルバムを発見したのだが、これを捲って、写真を一目見るだけで、忌々しい記憶が蘇る。
それが、中等学校の時分であったか、あるいは、高等学校の時分であったのか、よくわからないのだが、毎日のように、教室に足を踏み入れると、授業がおこなわれて、生徒一同にたいして、社会的にみて何一つ問題が無いよう、脳髄を改造されるのだけれども、その過程で、教師が頻りに、自分を指して、言うのだ。
彼は、顔つきをみれば、一目瞭然なのですが、始末に負えない筋金入の馬鹿者でありまして、自分以外の人間の前に出た途端に、相手を、際限なく否定して、不快な気分にさせて、その上、そのことに関して、何ら、然るべき改善だとか、反省だとかをすることなく、あたかも、それが当然であるかのごとくに振舞うので、世間に放たれようものなら、代々築かれてきた尊い秩序を、手当たり次第にぶち壊して、尚且つ、その悪行を、決して悪徳と自覚することなく、批判されるやいなや、その、きちがいじみた虚栄心から、わけのわからない発作を起こして、言訳を重ねて、それで却って、相手を、ひいては、自分以外の全人類を、悪者とみなすようになります、そして、このどうしようもない馬鹿者は、教育によって改善すべくもないので、社会に出る資格を、一生与えるべきでなく、個室に引き籠らせ、迅速に、天井から下した縄に首を括って、縊死してもらえれば、それでよろしかろうが、彼をせめて、功利主義の観点で、社会的に役立てるとするならば、模範的反面教師、として、仕立て上げるほか、ありますまい、よろしいですか、生徒諸君、この人間に、少しでも近づこうものなら、その分だけ、諸君は汚染され、諸君の価値は貶められることとなるのです、この人間は、社会におよそ、似つかわしからぬ汚物であり、尤もその事実は、外見から見て取れるとおりで、御覧ください、この怪物が人間に偽装しているかのような、気味悪く不自然で醜悪な表情を、この顔面を見れば、即座に、社会に仇なす害悪の塊であることが、一瞬で分かるでしょう、生徒諸君は、こうした馬鹿者に、決して、成り下がることなきよう、教師の言いつけには、一切の反発を起こさず、誠心誠意、学問に励むように。
かくして、自分は、生まれながら、社会に失格しているようであったのだが、心当りは、沢山あったので、なるほど先生の仰せられた説教は図に当っている、と納得して、屋敷の一室で首を吊ってみたのだが、自決は失敗した。酸欠で、脳髄の内部にゲロをぶち撒けたような不愉快な気分が引けたあと、冷静沈着に省察してみるに、自分が、一介の公僕風情に、どうして、こんなにも侮辱されねばならんのだ、馬鹿野郎めが、社会性だとか有益性だとか以前に、自分だって、他人の例に漏れず、ひとりの人間なのであって、全市民に生来与えられる平等の尊厳を有しているのだ、そこにおいて、まったく差別はあるまい、果せるかな、奴は間違っていたのだ、あの無知蒙昧たる教員に、教育してやらねばなるまい、ひどく人間を舐め腐った、あの人畜生めが、生かしちゃ置けねえ。そう思い自分は、包丁を持ち出して、教師をぶち殺しに出かけたのだが、道半ば、警官に捕まってしまったのだった。そのような忌まわしい挿話が、アルバムを少し捲っただけで、一瞬で思い起こされて、便所へと駆込み、不快な記憶を吐瀉物と共に、便器へと流した。
改めて、肱掛椅子へと腰を掛け直して、ばちばちと苛烈な音を発する焔の内へと、その唾棄すべきアルバムを投入した。自分の陰鬱たる青春時代を収めた写真の数々は、すなわち、葬るべき負の遺産であったのだ。さて、そのような過去もあって、自分は、屋敷から一歩も出ることなく、生活を営んでいる。誰にも一切迷惑を掛けることなく、ひそやかに生きているのだ。
腰掛けたまま、新聞を開いたところ、とある三面記事が目に留まった。次のような刑事事件があったようである。無職の男が、街の往来で刃物を持って暴れ散らかした挙句に、女子供の数人が病院送りになって、結果、死に至ったらしい。無職の男は、身元は割れていて、いかにも悪党じみた顔面も表示されていたのだが、いまだ逮捕にはいたっていない、という。
自分は、こうした報道を読んで、まこと胸躍る心地であった。此度だけではない、こういう類の報せがある度、自分は、独り悦にいるのだ。何しろ、自分をこれまで不当に傷つけてきた社会にたいして、明確に敵対し、害を加える無頼漢が、ひとり現れたのだから。自分自身の手を犯罪に染めることなく、司法の裁きを受けることなく、社会を滅亡へと近づけることは、自分にとって、まさしく本望であった。自分は、滅びろ!と、一言、社会を呪ったところで、読み終えた新聞を炎で燃やして、続報を待つこととした。
短編 閨房哲学 @sodome
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