死太郎
伴美砂都
死太郎
小学校の手前は坂だった。のぼり終えて校舎が見えるまえに、植物があふれ出るように茂った古い家が目に入った。近づくにつれ花の匂いがした。
ゆうやがしなんたろうにさされた、と皐月からメールが届いたとき、私はちょうどその家の、塀から垂れ下がって咲くミニバラのいちばん盛りのときの写真を眺めていたところで、ちょうど、というのは、しなんたろうときいてすぐ思い浮かぶのが、その光景だったからだ。
心臓がばくばくした。けれどほどなく、しなんたろうはしなんたろうのことではないと気付く。それは、そうだ。
〈っていうか、もも姉はそろそろライン入れなよ〉
しなんたろうは毛虫だ。蛍光黄緑色の身体に無数のとげがあり、刺されると激しい痛みを感じる。頑丈で薬をかけてもなかなか死なないから、死なん、という意味で、しなんたろうと呼ばれる。
〈なあん、せんちゃ〉
短いメッセージを送ると、うける、とだけ返ってくる。アルバムを閉じる。こうやって幾たびも、私は写真を捨てそびれる。
しなんたろうは方言なのだそうだ。子どものころ母と別れた父親は北陸の出身で、いつからか私たちはきょうだいの間でだけ、たまに冗談のようにうろ覚えの方言をやり取りする。
しなんたろう、毛虫じゃないほうのしなんたろうとは小中で通算五回は同じクラスだった。四年生の担任の先生はきっと父と同郷で、言葉の端々にある真似できないアクセントに聞き覚えがあった。あの家から体育館裏にはみ出したミニバラの葉に毛虫がいるとクラスのだれかが言い、ぞろぞろと見に行った。そのとき先生が、これはしなんたろうだと言ったのだ。
それまで太郎だったしなんたろうは、おれそんなの平気だよ、食えるし、と豪語し、しなんたろうと呼ばれるようになった。食ってみろよと声があがり、やめなさいと先生が止めた。
しなんたろうは嫌われていた。毛虫ぐらい嫌われていた。落ちつきがなく、乱暴で、でしゃばりなくせにすぐ泣いた。よく自分は不死身だと言い張っていたし、毎日同じ、思えばしなんたろうに似た黄緑色のジャンパーを着ていたから、ぴったりだと思われたのだろう。卒業文集では「人をさしそうな人」にだんとつでランクインして、結局その項目はなくなったという噂だった。
私は、ずっとしなんたろうのことを気にしていた。可もなく不可もない子だった私は嫌われることを極端に恐れていて、心のどこかで、しなんたろうが私の代わりに嫌われを引き受けてくれているような気がしていた。
私たちが育ったのは二棟並ぶマンションの古いほうだ。皐月と二人で駅から歩くうち、なんだか楽しくなって五階まで階段をのぼった。息を切らしながらチャイムを押すと出てきた優哉の髪は真っ赤で、うわ、と言った声がそろった。
「斬新なカラーリングだね」
「染めてすぐ毛虫に刺されたんだけど、赤に寄ってくんのかな」
「闘牛じゃないんだから」
手の甲がまだ少し赤い。痛くないの、と問うと、痛いっちゃ痛いけどべつに平気、と言った顔に、臆病だった弟の面影はもうない。
皐月は直接仕事に行くといって朝に出て行った。カーテンの隙間から光が差している。
ここに、帰って来ればいいのだろう。昨日はべつに優哉が毛虫に刺されたから集まったわけじゃなく、皐月の結婚祝いだった。優哉も来年には大学を卒業し、赤い髪を黒く染めてここを出て行く。一人になる母はさして寂しそうというわけでも、ないけれど。
もうやめたのだ。送っても送っても何の反応もないコンテストも、小さなギャラリーで上から目線のアドバイスをしてくるおじさんに作り笑いするのも、そんな人すら来ない日も。もう疲れてしまって、何者にもなれなかった私は。
しなんたろうと再会したのは小学校のすぐ前でだった。あの家はとうに壊され、花々の密度を失って小さな小さな土地だ。帰ってくるたびこの道を歩いてしまうことを、きっと家族もだれも知らない。懐かしむほどの青春も、復讐するほどの禍根もなく、なのに私はいつまでもここに来てしまう。
小さな男の子の手を握り歩くのがしなんたろうだと、近づくまでわからなかった。黒のカットソーとしっかりしたジーンズを着て、背も伸びていた。
「しなんたろう!」
走り寄って呼ぶと、びくっとして振り返った。少しの間があり、あー、と笑顔になる。
「えっと、ごめん、名前」
「あ、ううん、こちらこそ……」
「懐かしいな、そのあだ名」
「ごめん」
「いや、謝ることじゃないし、今となっちゃ思い出でしょ」
「不死身の、しなんたろう」
「そんなことも言ってたな、まあ、ふつうに死ぬし」
「、そうなの」
「そりゃあーそうだろ、しなんたろうじゃなくて死太郎だよ」
「……縁起悪いな、なんか」
「つうか、びびった、いきなり走ってくるからさ、刺されるかと思ったし」
「……、刺さないよお」
「冗談だよ」
しなんたろうは父親になり、私のほうが人をさしそうな人になってしまった。ああ、みんな大人になってしまった。パパしなんたろうってなに、と子どもが訊き、しなんたろうは、すげえ毛虫だよ、と優しく答えた。花の匂いはしない。私たちはよそもののように笑った。
死太郎 伴美砂都 @misatovan
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