占い師のパラドックス

路地表

占い師のパラドックス

 喧ましい蝉の声で目が覚めた。その声は五月蠅いが、窓から侵入してくる温い風が、再び私の眠気を増幅させる。微睡の中で布団を掛け直し、二度寝への体勢を整える。その時、恐ろしい事実に気が付いた。一抹の希望を持って、枕元に置いたスマートフォンを見る。

 十時半だった。

「…この面接は、もう飛ぼう…」

 十時から面接予定だった企業からの大量の不在着信を見て、意志を決めた。


 現在、大学四年生の八月末に差し掛かっているが、内定は未だ零。大学生活は上手く過ごして来たはずだが、就職活動には非常に苦戦している。


 蝉の声が聞こえる。一度目が覚めてしまうと、気にせずにはいられない。昨夜から網戸のままにしておいた窓から、外を眺める。網戸の二メートル向こうには、青い葉が立派に茂る桜の木が見える。太陽を遮る様に、二階にある私の部屋と同じ高さまで育っており、それが余計に蝉の声を五月蠅く感じさせる。窓を閉めてみても、その音は変わりなく鳴り続ける。


 ワンルーム六畳の部屋には逃げ場も無い。蝉の声はこんなにも気になるのに、電話の着信には気が付かない自分に嫌気が差した。


 二度寝を諦めて、台所へ向かう。喉が渇いた。何か、冷たい物が飲みたい。冷蔵庫を開け、麦茶のピッチャーを取り出す。中身は空だった。

 最近はどうにもツイていない。

 この間は、彼女に突然振られた。一週間後に交際二年目を迎えるはずだった。

「好きか分からなくなった」

 そう言われて関係は終わった。言い返す気力が起きない程に、ショックだった。

 今朝もそうだ。久々に面接まで漕ぎ着けた企業も、これで終わりだ。


 とにかく苛立つ。彼女に振られた所為なのか、今朝の寝坊の所為なのか、異常に五月蠅い蝉の所為なのか、思い当たる要因は多すぎて、分からなかった。


 冷たい飲み物を買いに、近くのコンビニへ向かう事にした。玄関を出て、錆びついた鉄骨の階段を降りる。アスファルトに映る影が薄い事に気が付き、空を見上げる。雲が太陽を隠し始めている。最寄りのコンビニまでは徒歩二十分。煙草に火を点けて、歩き出す。


 煙草の火が半分を過ぎた辺りで、微かに肌が濡れる感覚がした。見上げると、空が鈍色に染まり始めていた。湿った空気が、私を包む。

「傘なんて持って来てねえよ…」

 足取りを早め、コンビニへ急ぐ。初めは小雨かと思ったが、雨粒は加速度的に増加し始めた。雨が少しずつ、地面を濃い色に染めていく。コンビニへ向かう事を断念し、雨宿りできる場所を探す。古びた喫茶店を道路の向こう側に見る。吸いかけの煙草を側溝に捨て、道路を横断し、喫茶店に入店する。


 重い木製の扉を開けると、カランカラン──と扉の鐘が鳴った。コーヒー豆を焙煎した良い香りが鼻を刺激する。営業中かと思ったが、店内は暗く、客の姿も見えない。入店して暫くしても、店員が来る気配は無く、怖ず怖ずしていた。

 雨の中帰路に着くのは嫌だった。何よりも、渇きを癒したかった。

「すみませーん!」

 大きな声を出して、入店した事を主張する。

「…はーい?」

 キッチンの奥にある暖簾の向こうから声がした。十秒程経ち、店員がやって来た。六十歳を過ぎた辺りだろうか。白髪に移行し始めたパーマヘアのマダムだった。

「あら、お客さん? ウチは十五時からなのだけれど…」

 雨を避ける事ばかり考えていた為、看板の営業時間を見落としていた。キッチンを見渡すと、沢山の酒瓶がウォールラックに飾られていた。どうやらこの喫茶店はバーを兼ねており、開店時間が遅い様だった。

 謝罪をして踵を返し、扉に手を掛けた時、彼女が口を開いた。

「いいわよ。外は雨だし、少し休んでいきなさい。夫が買い物に出たから、鍵を開けておいたのよ。ほらあの人、いつも鍵を持って行かないから。…それに丁度良かったわ。貴方、何か悩み事でもあるでしょう? こう見えて私ね、昔は銀座で占いをしていたのよ。結婚を機にこっちに来たけれど。少し見てあげるわ。コーヒーでも出すから、好きな席に座って待ってなさい。アイスとホット、どちらがお好み?」

 矢継ぎ早に言葉が飛んで来た事に驚き、少し呆然としてしまった。戸惑いを隠しつつ、数秒後にアイスと答えた。彼女がキッチンへ向かったところで我に返り、カウンターに座った。

 雨宿りさせて貰える事は有難いが、悩み事なんて誰にでもある物だろう。それを言い当てた様に振舞われても、癪だ。


 占いは嫌いだ。

 元カノは占いが大好きだった。テレビや雑誌の占いコーナーは欠かさずにチェックしていた。それに飽き足らず、月に何度かは占い師に視てもらったりしていた。

「めざましの占いだと、今日の運勢は最悪なんだけどね。…見て! この雑誌だと、ほら、今日の運勢は一位だって! 同じ星座占いでも結果が違うのって、やっぱり占い方が違うからなのかなあ?」

「人によって結果が異なるのなら、ただの妄想と同じじゃないか」

 そんな鋭い言葉を飲み込んで、柔らかく相槌を打っていた。

 占いが本当にあるのならば、付き合う前に、別れる事だって知る事が出来たはずだろう。


「はいお兄さん、アイスコーヒー」

 マダムの声で現実に引き戻された。俯いていた事を心配されたが、適当に誤魔化した。挿さっているストローを無視して、アイスコーヒーを一気に飲み干した。渇きは癒えない。

 彼女はカウンターの下から徐に、分厚い古書の様な物を取り出した。表紙には六芒星の様な物が描かれており、それが星座占いの専門書だとすぐに分かった。彼女は指を舐めてページを捲り始めた。

「それで、何に悩んでいるの? 恋愛? 友人関係? それとも…進路の事かしら?」

 それを言い当てるのが占い師なんじゃないのか。

「まあ、色々ですかね…」

 不愛想にそう答えた。雨宿りさせてくれる事は有難いが、少し放って置いて欲しかった。悪いと思いつつも、どうしても苛立ってしまう。

「貴方、今幾つなの? あと、星座は何?」

「二十一です。魚座です」

「魚座で二十一歳ね…。二〇〇一年生まれかしら? 私ね、星座占いが専門なの。ええと…魚座の貴方は、十二星座の中でも特に敏感な性格を持っているわ。人や物事の変化に対してすぐ気が付く事が出来る反面、細かい事を気にしすぎて行動できない時があるわね」

 そんな事、誰にでもあるだろう。それに、本当に敏感だったら、今朝の面接に寝坊しないだろうし、元カノの変化にも気が付けただろう。

「敏感なんかじゃありません。今朝もすごく大事な用事があったのに寝坊して無くなってしまいましたし、つい最近は彼女にも振られました」

 雨が止むまで黙って聞いていれば良いだけなのに、つい反論してしまった。彼女は顔を上げ、私の目を真っすぐに見つめた。

「敏感と言っても、全ての事に気が使える訳じゃないわ。別れてしまったのは残念だけれど、あまり重く受け止め過ぎない事よ。貴方にぴったりな、運命の人が必ず現れるわ」

「それはいつですか?」

 間髪入れずに突っ込んだ。彼女は私の声に少し驚いた様子だったが、すぐにまたページを捲り始めた。

「ええとね…。二〇二八年、つまり、五年後ね。貴方が二十六歳の時に、素敵な女性が現れるわ。黒髪のショートヘアで明るい性格の──」

「名前は何ですか?」

 話を遮って、強い口調で尋ねた。

「名前までは分からないわよ」

「では、その子の年齢と星座を教えてください。その子が僕にとって運命の相手なのでしたら、相手にとっても僕が運命の相手なんですよね? という事は、もしもその子が貴女の元に占いをしに来たら、年齢と星座を基にして、僕が運命の相手として出るんですよね? なら、それくらいは分かりますよね?」

 言い始めてしまうと、止める事が出来ない。

「そもそも、運命の相手って何ですか。例えば、僕がこの先ずっと引き籠ったら、どうなるんですか? まさか、その子が家にまで押しかけて来るんですか?」

 こんな事で責めたって仕方がない。分かっているのに、制御出来なくなってしまった。

「占われた事と反対の行動を取ったら、占いは必ず外れますよね。相手に占いの結果を伝えた時点で、占いは必ず外す事が出来るんです。まさに、占い師のパラドックスじゃないですか。こんな適当な事を言われたって、僕は絶対に騙されません」

 そう言い終わり、彼女の顔を見ると、表情を変えずに此方の目を真っすぐに見ていた。その視線に思わず動揺してしまった。

「少し落ち着きなさい」

 強さを感じる声だった。

「…占い師は嘘吐きじゃないですか。まだ存在しない未来を、まるで知っているかの様に話す。妄想と何も変わりません。卑怯な商売だと思います」

 動揺を悟られない様に、強い言葉で返した。

「そんな事無いわ。未来は運命によって創られる。運命は、自分の辿って来た道筋の延長線の様なもの。逆に言えば、道筋を変える事で、運命も変える事が出来るわ。運命って言ってもね、生まれた時から決まっている様なものじゃなくてね、貴方の行動でどんどん変わっていくのよ。占いは、一つの運命を語っているに過ぎないわ。酷い生活を送れば、悪い運命に辿り着く。けれど、人が意志を持って行動を変えれば、貴方の言う通り、未来も変わるわ。私は、良い運命へ向かう為の助言をしているだけ」

「そんなの、屁理屈じゃないですか」

「そうかしら? 貴方も今まで生きて来て、良い事があったでしょう? それは、貴方の行動の結果であり、良い運命を辿った結果じゃないかしら?」

「じゃあ逆に、今起こっている不運は全部、僕が悪いって事ですか!」

 思わず声を荒げてしまった。彼女の酷く驚いた表情を見て、やってしまった──そう思った。しかし、一度堰を切った感情はそのまま流れて出てしまった。

「僕だって、真面目に生きてます。…でも最近、何も良い事が無いんです。元カノの事も、就活も、何も上手くいきません。全てが自分を責めてる様に感じます。大学生活だって、上手く乗り切って来ましたけど、親友の様な人は出来ませんでした。僕の人生、なんだか、もうどうしようも無いんじゃないか、良い事なんて何も無いんじゃないか、そう思ってしまうんです」

 鉛の様に重い感情を、吐露してしまった。

「…大変だったのね」

 彼女は所々シミのある、皺だらけの小さな両手で、私の手を優しく包み込んだ。覆い切れてはいないが、私の両手だけでは無く、心まで包まれている様だった。

「今はすごく辛いと思うわ。それでも、人生は続く。決して腐らずに、今出来る事を精一杯にやるのよ。そうすれば、必ず笑える。断言するわ」

 強い言葉だが、全く棘を感じ無い話し方だった。

「今日、私のお店に来た事だって、運命かもしれないわよ。貴方が遅刻しなければ、急に雨が降らなければ、ここに来る事は無かったわ」

「そんな事言い始めたら、人生全て運命じゃないですか」

「私はそう思うわ。良い事も悪い事も、全ては運命。全ての人の運命が交差して、幸運と不運は在るのよ。だからこそ、悪い事があっても、全て自分の責任にして背負い込んでしまうのは良くないわ。自分の所為じゃない、どうしようも無い不運もあるもの。…それにね、なんで私たちに意志や感情があると思う? それは、より良い運命に向かう為のシグナルだと、私はそう思うわ」

 理論も根拠も無い話だ。それでも、自分を肯定されている様だった。

「それにね、嫌な事があって、もうこの先良い事なんか何も無いんじゃないか、そんな事を思ってしまうほど辛い時に、占いを機に未来の事を考え始める、それって素敵な事だと思わない?」

 調子の良い言葉で何となく占いを肯定させられそうになった事に気が付き、笑みが少し零れた。

「ふふ。でもね、笑い事じゃなく、貴方は強いわ。ここまで孤独に耐えられるのだもの。私だったら耐えられない。…いい? 今は辛いけれど、全てが貴方の所為という訳では無いわ。そして、乗り越える為にも歩き続けなさい。それだけが、良い運命を創る方法よ」

 まるでカウンセリングの様だった。それでも、体温のある言葉だった。久しぶりの暖かさに、思わず目頭が熱くなる。渇き切った心に涙が落ちる。

「…それに、占い師のパラドックスだったかしら? それって、貴方にとって都合が良いんじゃない? だって、未来はまだ決まって無いって事の証明になるんでしょう?」

 その時──扉の鐘が鳴り、重い空気を壊した。

「ああ、あなた、お帰り」

 マスターが帰って来た様だった。外の澄んだ空気が私を包む。その瞬間、途轍も無く恥ずかしい気分になった。

「…すみませんでした!」

 包まれていた両手を払い除け、急いで財布を取り出す。叩く様にして千円札を置き、席を立つ。

「お代はいらないわよ!」

 彼女の声を無視して席を立つ。驚くマスターを横目に、扉に手を掛ける。

「…お兄さん! 生きてれば、良い事はあるよ。絶対に」

 逃げる様にして、喫茶店を飛び出した。


 いつの間にか空は快晴になっていた。今朝と変わらずに、蝉は鳴き続けている。

 煙草に火を点ける。途端に、先ほどの愚行を思い出して後悔する。初対面の、雨宿りまでさせてくれた人に、八つ当たりに近い言葉をぶつけるべきでは無かった。

 しかし、今朝からの苛立ちは疾うに消えていた。皮肉ではあるが、占い師によって心が少し楽になった。私の様な弱い人間は、誰かに感情をぶつけたかっただけなのかもしれない。

 「良い事はあるよ、か…」

 

 占いは嫌いだ。

 その感情の正体は、未来が確定している事への嫌悪感だ。決して巻き戻す事の出来ない不運への怒りと、悲しみだ。


「なんでそんなに占いが好きなの?」

「んー…。なんかね、結果が良いともちろん嬉しいんだけど、悪くてもいいの。平凡に生きて来たつもりだけど、ちゃんと私の人生にもドラマはあるんだって、未来はあるんだって、そう言われている感じがするの! それがすっごくパワーを貰える感じがしてね、未来を知る事で前向きになれるっていうか…まあ、そんな感じかな? …もしかして、遂に占いに興味出てきたの!? じゃあ今度一緒にこの占い師に視てもらお! この人は手相占いですっごく有名でね──」

 ふと、元カノとの会話を思い出した。その後の占いについての話題は、去なす事に非常に苦労した。彼女が話していた事は、今なら少しだけ理解できる。煙草の煙が、目に沁みる。


 ──占い師のパラドックスは、未来が確定していない事の証明だ。


「…次の企業を探すか」

 スマホで就活アプリを開く。企業を眺めながら、渇きを癒す為に、足取りを早めた。

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