02 山田庄之介の憂鬱
山田庄之介は小身の家に生まれた。いわゆる貧乏御家人だ。そのような境遇からのし上がるためにはと、
ただし、その条件がふたつ。
学業に専念すること。
学業を修めたら、支援者の息女を娶ること。
である。
「いと易いことだ」
庄之介は二つ返事で引き受けた。学業に専念すること、これは当たり前だ。
次いで、支援者の息女を娶ることだが、これは仕方ないと思った。庄之介の学業を支援することは、いわば投資だ。
投資した以上、その儲けを回収したいというのが人情だろう。
結構な
だが、庄之介は意に介さなかった。
かつかつの生活から抜け出せるのだ。文句は言えない。
だがそんな折。
「娘が訪ねてきた?」
庄之介は支援者の娘かと思ったが、どうもそうではないらしい。物陰からうかがってみると、かつて、大火事の時に手伝いに行った先で出会った少女だった。
「いずれにせよ、会えない」
迂闊に会ったら、二重の意味で支援者への裏切りとなりかねない。
学業への専念と、将来を約束した娘への。
幸いにも栴檀林の僧侶たちは庄之介に好意的だったので、会いに来たという娘を追っ払ってくれた。
「やれやれ」
ひと安心した庄之介だが、今度はその娘の
しかもその男は
「会うか」
舌打ちしたくなるような状況だが、実際はしない。
周囲の心象が悪くなることだけは、避けなくては。
今は同じ学生ではあるが、将来はどう大きく化けるかわからない。
心象を悪くして、未来の昇進を潰されては、かなわない。
庄之介はひとつため息をついて、栴檀林の門を開けた。
*
「…………」
黙然と庄之介がななの
文面はそんなに長くない。一行である。
ただ、
「あなたにあいたい」
と、のみ記されていた。
本当はもっと底の底の気持ち――きみと息をしたくなる――とでもも書きたかったろうに、庄之介に渡されるまでに、僧侶の誰かに見られるとか、そういうことを気にした結果である。
だが、こうして、直接庄之介に会って手渡すことができた。
次回からは、自分も含めて誰も見ないからと言い含めて、そういうことを書きなさいと言おう。
そう、はせをが思っていると、
「見た。もうこんなことはやめにしていただこう」
にべもない
「ちょ、ちょっとお待ち下さい、お武家様。何もこの娘とどうこうしろってワケじゃない。ただ、会いたいと言っているだけじゃないですか」
男と女だ。合わないこともあろう。
だが。
「こうしてこんな中年の野暮ったい私に頼ってまで、貴方に会いたいと言っている娘だ。会って下され。気に入らないのなら、せめて、会ってそう言ってくれれば」
「断る」
はせをが二の句を継ぐ暇もなく、庄之介はさっさと栴檀林の中に戻って、門扉を閉じた。
待ってくれとはせをが言う前に、まるでとどめのように声が聞こえた。
「私は学業を修める身。修めたあとは、公儀にお仕えせねば。邁進せねばならん。私はここを出るわけにはいかぬ。たとえ……」
そこで庄之介は少し考えた。
もう二度と、このななとやらの接触は避けねばならぬ。
こんな学業三昧の男になど、許嫁がいる男になど、会う方がいけない。
何か、決定的な言辞をぶつけなければ。
そうだ。
「……たとえ、この前のような火事になっても、私が
門扉の向こうのはせをが何か言いかけているようだが、それを聞こえぬふりをして、庄之介は駆けた。
振り切るように。
*
「さて、どうしたものか」
はせをは栴檀林の門扉の前に立ち尽くしていたが、先ほど、聞こえよがしに走り去る
もうこれ以上、ここにいても無駄であろう。
となれば問題は、ななに事の次第をどう伝えるかだ。
はせをが虚しく振り向くと。
そこに――ななが立っていた。
「……は、はは」
乾いた笑い。
はせをは思わず駆け寄ろうとする。
が、ななは素早く
「……ななさん」
後に残されたはせをは、ただ立っていることしかできない。
かける言葉など、ありやしない。
否、あったとしても、あの娘にそれが何ほどのことがあるというのか。
*
何だ。
何だ、これは。
「
走りながらも、思わず口に出る、その言葉。
何も期待していなかったと言えば、嘘になる。
そりゃあ年頃の娘だ、二枚目の男を見れば、懸想したくなる。
けれど。
「何が、会わない、だ。気取りやがってよゥ」
貧乏御家人が。
粋がるな。
たかだか、勉学をするぐらいしか能のない奴が。
こちとら毎日、青物を売り歩いている。汗水たらしている。
「それが、何サ」
ななは憤る。
こっちだって暇じゃないんだ。
そこを会いに来たってんだ。
会ってくれたっていいだろう。
それを。
「よりによって、この
もはや
ななの感情が激している証拠である。
「畜生がッ」
はせをには悪いが、風采の上がらない中年男にまで、恥を忍んでお願いして、想いを文に託した。
それを。
それを。
「…………」
もはや言葉にならない。
まさに燃え上がる
「……見てな」
ひりつく喉からその言葉が
舞い散る火の粉のように。
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