忘れていた過去

@isaac-moriah

忘れていた過去





          序



 その日早苗は、自宅リビングのソファーで孫の少女マンガを読んでいた。孫のお気に入りの単行本である。最近、孫の影響でマンガを読むようになったのであるが、何ぶん五十を超えた頃からめっきりと老眼が進み、最近では老眼鏡なしではマンガも読めなくなっていた。しかも、週刊誌よりも単行本は更に小さい。確かに面白いのだが、長時間読むと目も首も恐ろしいほど凝ってしまう。

「あ、おばあちゃんそれ読んでるの?」

 孫の真希まきがリビングに入ってきた。真希は小学三年生の女の子。今日は休日だが、真希の両親がそろって外出中なので、祖母の早苗と二人で留守番をしていたところである。

「それ面白い?」

 真希は嬉しそうに早苗の正面に近づき、テーブルを挟んだ向かいの床に座った。テーブルに両肘をついて、笑顔で早苗を見上げている。

 孫が親し気に話しかけて来る。早苗が一番うれしい瞬間だ。

「うん。結構面白い。こういう純粋な恋愛ものは、いくつになっても引き込まれちゃうよね」

「ええ?おばあちゃんでもそうなんだ?」

 真希は意外そうな笑顔を見せた。孫の年代から見れば、もう六十に近い早苗などはそう言うものなのだろう。

「一応、私も女だからね」

 早苗はつい、苦笑いをしてしまったが、早苗がそう感じるようになったのも、孫の影響でマンガを読み始めたここ数年かも知れない。何しろそれまで、まともにマンガの類は読んでこなかったのだ。早苗は、今も昔ももっぱらドラマや映画専門である。しかも、恋愛ものはほとんど観なかったのだ。ただ、こうしてマンガを読んでみると、作品によっては映画を見ているような感覚になることもあるのだから不思議なものだ。

「あのね、おばあちゃん?」

 真希が突然、遠慮がちな口調になった。おねだりの時の口調とはまたちょっと違う。いつもと違った雰囲気に、早苗はその視線をマンガの本から離し、老眼鏡の上を通して真希の顔へと移動させた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 遠慮がちにためらう、その姿が愛らしくて早苗は思わず微笑んだ。

「なあに?何かいつもと違うんじゃないの?」

 早苗の言葉に、真希の顔が真剣なものに変わった。

「あのね、おばあちゃん?」

「なあに?」

 言いづらそうな真希に気を使い、早苗は本を閉じて優しい笑顔で真希を見た。

「おばあちゃんが、人を殺したことがあるってホント?」

 真希はやっとの思いで言った。

「おやまあ…」

 早苗は困った顔になった。

「いったい誰がそんなこと言ったのかねえ?」

 早苗は、鼻で笑うように苦々しそうに言った。そう言われた真希は、バツの悪そうな顔になった。

「誰が言ったの?」

 早苗は表情を変えずに優しい目で見つめている。この目は答えを待っている目だ。

「別に…誰が言ったっていう訳ではないんだけど…」

 真希は早苗のこの目に弱かった。この目で見られると、何故か隠し事が出来ない。

「いろんな人が話していることを考えてみると、そうなのかな?って思っただけ」

「いろんな人?例えば?」

 早苗が小首を傾げて聞いて来た。これも無言の追求である。

「いや、本当にみんなだよ。大人の人たちが話している内容を聞いていたらさ…。私には内緒にしてるみたいなところが、なんだか真実味があるって言うか…。特に、お母さんの方のおじいちゃんおばあちゃんとかさ」

 黙ったまま、じっと聞いていた早苗が、深いため息を吐いた。

「全く…みんな勝手なことを…。あれだけ言うなって言われているはずなのに…」

 早苗のその言葉に、真希の顔が強張った。

「え?どう言うこと」

 真希の戸惑いを他所に、早苗は老眼鏡を外すとにっこりと笑顔を見せて言った。

「うん。実はそれ、本当なの」

 真希は絶句した。

「いやね、私も早く話した方が良いんじゃないかって思っていたんだけどさ、あんたのお父さんが絶対だめだって言うから遠慮してたのにさ、みんなして勝手に話を漏らしてるんだから、だらしないよねえ、全く…」

 早苗は不機嫌そうにつぶやいた。

「え?じゃあ、本当に人を殺したの?」

 真希は驚愕の面持ちで叫んだ。

「うん、そうなんだよね」

 早苗は、ちょっと悲しみを帯びた照れ笑いを見せた。しかし、真希を見つめるその目は、その反応を確認しているように、しっかりと見据えられている。そして真希の顔は驚きに溢れてはいたが、そこに不安や恐れのようなものは感じられない。それを見て、早苗も安心したように口元に笑みを浮かべた。

「詳しく聞きたい?」

 早苗のその言葉に、真希の表情に好奇心が現れて来た。

「うん!聞きたい!」

 真希も乗ってきた。早苗の予想通りの反応だった。きっとこの娘は、恐れやショックよりも好奇心の方が勝ると思っていた。

「だろうねえ。聞きたいから誰もいない今日、聞いて来たんだもんね?」

 意地悪そうな早苗の言葉に、真希はニンマリと笑った。

「でもねえ、これを話すとさあ、私あんたのお父さんに怒られるんだよね…」

「そんなの気にしないから聞かせてよ」

 早苗は真希の反応に嬉しくなった。この娘は母親似だ。いつもそう感じる。こういう反応は、孫だから可愛く感じるのだろうが、他人から見るとかなり腹立たしい存在なのだろう。早苗は真希の友人たちに少し同情した。

「じゃあ、順序だてて話していくから、ちょっと長くなるけど大丈夫?」

「うん。トイレはさっき済ませた」

 こういう反応がまた、早苗には可愛らしくて仕方がない。

「じゃあ、先ずは…。そうだねえ、あんたのお父さんが、私の所に来るようになった経緯からかねえ?」

 その言葉に真希の顔が曇った。眉間にしわが寄り、唇がとがった。

「何?その言い方。お父さんがおばあちゃんの子供じゃないみたいじゃない?」

 そう言われて、早苗は唖然とした。その顔を見た真希の目も丸くなり、口が開いた。

「真希ちゃん、その話聞いてなかったの?」

 早苗が、「やらかした!」と言う顔で漏らした。真希は口を開けたままうなづいた。早苗はうつむいてがっくりと肩を落とした。

「こりゃ、マジで怒られそうだ」

 早苗のため息交じりの言葉に、真希は嬉しそうな顔になり、励ますように言った。

「何言ってるのさ?おばあちゃんはお父さんに怒られるとき、すっごい嬉しそうじゃない」

「あ、ばれてた?」

 早苗が笑顔でふざけるように言った。

「うん。もう見え見え」

「いやもうね、あの子に叱られるとさ、申し訳ないとか済まないなとか思う前に、すっごいかわいく思えちゃってさ。ダメだね、私?」

 こういう発言が、親の威厳と言うものを失わせていくのである。

「まあ、いいか。じゃあ、始めるよ」

 早苗は優しい微笑みを浮べて真希に告げた。

 そしてその笑顔のまま、早苗はゆっくりと語り始めた。木戸早苗と言う、自分自身の数奇な人生の一部分を。













          1. 始まり




 その頃の木戸早苗は、三十路を過ぎても気楽な一人暮らしであった。しかし、誰が待つと言うわけでもないのに、なぜか夜、帰宅するにあたっては家路が急がれる。薄汚い安アパートとは言え、薄い壁によって切り離された空間は、早苗だけの小さな楽園であった。

 その日の早苗も、いつものように足早に帰路を急いでいた。

―冷蔵庫に何が残っていたっけ?―

 思い浮かぶ食材だけでも早苗一人の夕食なら何とかなる。今日も買い物に寄る必要はない。節約とか、そういうことがしたいのではない。「必要なものを必要な分だけ」「無くて済むものは無いままに」早苗はそれをモットーにしていた。独身で無趣味。人付き合いもしない。無理をせずともソコソコの貯蓄は出来る。生涯一人で生きていく覚悟をしている早苗には相応しい生活スタイルだ。

 早苗は、高校生の頃には既に結婚を諦めていた。その理由は、結婚の意義や目的を理解できなかったのと、おそらく自分と同居を希望する男性など存在しないであろうと推察できたこと、更に、もしそう言う男性が現れたとして、早苗にはその相手を幸せにするための努力など出来ないだろうし、する意思もない事を自覚していたためである。それ故に、高校を卒業して社会人として世に出た時点から、生涯一人で生きて行くための準備をしながら生活をしているのだ。そして彼女は老後、老人介護施設で若い介護士からチヤホヤされながら過ごすという、大きな夢に向かって生きているのだった。

 外はもう日没の頃で、いわゆる黄昏時。辺りは暗くなりかけていた。自宅が近づくとコンビニの明かりが目に入ってくる。以前は畑だったところに、数年前にこのコンビニが出来たのだ。そのお陰で夜中でも家の前が明るくなり、夜の帰宅時の心細さを和らげてもらえて助かっている。

 早苗の家は、このコンビニ横の路地を挟んだ向かい側に建つ、木造二階建てアパートの二階である。築三十年以上経つであろう年季の入ったアパートだ。早苗はいつものように、ところどころ錆の浮いた鉄製の階段を上った。静かに上っても音が響く。高校を卒業後、二年ぐらいしてから引っ越して来たアパートだから、もう十年以上昇り降りしていることになる。

 この階段を上り切って、左側に四つ並んだ部屋の二軒目が早苗の自宅である。いわゆる1LDKだ。キッチンの付いたリビングと、寝室にしている畳敷きの部屋、それにトイレとユニットバス。ユニットバスの手前には洗濯機を置ける洗面所もある。一人で住むには十分すぎる広さだ。当初、ワンルームをと言う思いもあったのだが、長く住むことを考えて二部屋を選んだのだった。今ではそれで正解だったと思っている。ここは、誰にも干渉されない早苗だけの世界だった。

 

 いつものように階段を上っていると、見慣れた景色の中に見慣れない人影が目に入った。はじめは、アパートの住人の誰かかと思ったが、そうでないことはすぐに分かった。

 このアパートに子供はいない。それは確かだ。近所づき合いは無いが、十年も住んでいれば顔を合わせて挨拶ぐらいは交わすこともある。しかし、住人はおろか、来客らしい中にも子供の姿を見たことも、声を聴いたことすら無かった。

 しかし、その日早苗がそこに見たのは、紛れもない小学生くらいの男の子であった。小学生くらい?いや間違いない。ランドセルを背負っている。おそらく、小学二年か三年だろう。何となく見覚えのある顔のような気もする。どこかで会ったことがあるのだろうかとも思ったが、そんな筈はないと思い返した。早苗に子どもの知り合いなどいないのだ。

 その少年は、顔を夕日に赤く染めながらぼんやりと、近づく早苗を見つめていた。

―どこの子だろう?―

 早苗は単純に、他所の家の子供だろうと思っていた。が、すぐにそんなのん気なことを言ってる場合ではないと言うことに気付いた。なぜなら、その子は早苗の部屋の入口のドアに寄りかかって立っていたのだから。

 平穏な人生。それは、黙っていて手に入れられるものではない。降り注ぐ様々な面倒を、自ら波風立てずに払いのけていくという、知恵と努力が必要なのである。ここで下手に声をかけ干渉してしまうと、そこに責任というものが生じてしまい、いろいろと面倒なことになる可能性がでてしまう。ここでは敢えてスルーを決め込むのが無難な策と判断した。

「ちょっとごめんね」

 早苗は、視線を合わせないようにドアの鍵を開け、ゆっくりとドアを開きながら、そのドアに寄りかかった子供の体を除けるように促した。

 そして、開いたドアのわずかな隙間に滑り込ませるように体を回した瞬間、

「あのー、木戸早苗さんですか?」

 と、誰かの声がした。

 その声に戸惑い、思わず動きが止まった早苗は、反射的に声のする方へ目を向けた。その少年の方へ。

 少年は、不安そうな目で早苗を見ている。

 目が合った。いや、合わせてしまった。そしてその瞬間、この状況が早苗にとっては良くない方向へ向かっているのではないか、と言う予感に襲われた。早苗の頭の中はパニック寸前だった。

 この三十余年、「無難」を信条に生きてきて、こんな追い詰められたシチュエーションは初めてだった。こんな見ず知らずの子供に、しかも名指しで呼びかけられるなどと言うことは全くあり得ない、想定外の事である。こんな危機を回避するスキルなど、早苗に持ち合わせているはずも無かった。

「あんた誰?」

 悲しいかな、追い詰められたあまりに、突いて出た言葉がこれだった。半分裏返って、しかも絞り出したような声だった。その声を自分で聞いて、あまりに動揺が顕わになっていることに絶望した。

 子供は、そんな早苗の葛藤を知ってか知らずか、不安そうな表情のまま、おそるおそる右手を差し出した。その手には、折りたたまれた紙が握られている。「これを見ろ」という事なのは早苗にも分かったが、ここで見てしまうと、もう後戻りが出来なくなるような不気味な感じがして、手を出すのがためらわれた。

 早苗には、このまま部屋の中に入ってドアを閉めてしまおうかという誘惑もあったが、まさか名指しで呼ばれて無視するわけにもいかないだろう。もしそんなことをすれば、恐らくこの子はドアを叩き続けるか、ベルを鳴らし続けることだろう。そうすると近所の不審を買うことになる。また、その後この子に何かあれば、なぜあの時無視したのかという責任の追及が及ぶかもしれない。ここは速やかに、迷子として警察に引き渡すのが得策と踏んだ。

 そう結論して、早苗は子供の差し出した紙を受け取った。やや厚手のその紙を開くと、そこには「戸籍個人事項証明書」と書いてある。いわゆる戸籍抄本のことだ。

 名前は「木戸真人」。

 思わず子供の顔を見直してしまった。急に心臓の動きが速くなり、紙を持つ手が細かく震えだした。再び紙に視線を戻す。

 父の名前 「笹本啓太」

 母の名前 「木戸香奈恵」

 早苗の全身が冷たくなった。震えが全身に伝わり、特に膝が激しく震える。立っていることが出来ず床に崩れ落ち、開いたドアの隙間に座り込んでしまった。

「おばさん!大丈夫ですか?」

 早苗の様子を見て子供も驚いたのか、叫びながら早苗に手を伸ばした。

「おばさんじゃない!」

 早苗は反射的に手を払い、大声を出した。

「あんたに、おばさんなんて呼ばれる筋合いはないんだよ!」

 早苗は子供の顔を指さして声を荒げた。

「い、い、いいか?『おばさん』って言葉にはなあ、本来の意味以上に侮蔑と嘲笑の意味合いが強いんだよ!言った側にその気がなかったとしても、言われた側はそういうふうに感じて傷ついてしまうんだよ!たとえそれが続柄としての『叔母さん』でもだよ!」

 子供は、あからさまに怯えた顔になった。それを見て、早苗も我に返り自分が取り乱していることに気づいた。その戸籍抄本に載っている木戸香奈恵とは、早苗の実の姉に当るのである。

 早苗は、大きくため息を一つ吐いて目を閉じた。自分の心を鎮めるためだ。

「あんた、名前は?」

 早苗は、極力丁寧な言い方に勤めたが、実際は低くドスの利いた声になっていた。

木戸真人きどまことです」

 子どもの声はいかにも不安気だった。

「そう?『まこと』って読むんだ?」

 早苗は何とか優しい言い方をしなければと思うが、何故か威圧感が漂ってしまう。子供に反応は無かった。

「ところで、あんたなんでここにいるの?」

 早苗は、座り込んで目を閉じたまま、うなだれた状態でやはり威圧的に問いかけた。子供は黙っていた。早苗は眉間にしわを寄せて目を開き、もう一度言った。

「どうやってここに来たの?」

 低く静かな声で問い詰めるような口調だった。

「お母さんが連れて来てくれました」

 子供は不安そうだが、何故か怯える様子もなく、落ち着いた、はっきりした声で答えた。

「で、お母さんはどこ行ったの?」

「ここで待ってなさいって…それで、木戸早苗さんという人が来たら、これを見せなさいって言ってどこかへ行きました」

「お母さんの名前は?」

木戸香奈恵きどかなえです」

「お父さんは?」

「…知りません」

「会ったことはないの?」

「はい」

 戸籍抄本によれば、両親の姓は同じではない。離婚したのか、籍を入れてないのか、早苗には判断しかねた。しかし、身分事項の欄には『認知』の欄があるところを見ると、結婚はしていないのかもしれない。ただ、早苗にはこの手のことは知識が乏しくて、正確なところは分からない。

「で、お母さんは他に何か言ってなかった?」

「…ここには、お母さんの妹が住んでいるから…その人に育ててもらいなさいって…」

 子供は口籠るように言った。

「そう?」

 早苗もそれ以上は追及しなかった。

「分かった…」

 わずかな沈黙ののち、早苗は静かに立ち上がると、ドアを閉めカギを掛けた。そして

「じゃ、行こうか?」

 そう言うと、子供の手を取り階段に向かって歩き出した。子供は引きずられるように従った。

 向かう先は近くの交番だ。一人暮らしということもあり、何かの時のために交番の場所と電話番号は調べてあるし、交番の警察官にも時々挨拶をしたりして顔は売ってある。

 こういう厄介な問題は、さっさと解決するのに越したことがない。下手に手を掛けるとますます厄介になってくる。さっき見た戸籍抄本によると、この子は早苗の姉の子供、即ち早苗の甥に当ることになるらしい。とんでもないことになった。つまり「あの姉」が、邪魔になった自分の子供を早苗に押し付けてきたのだ。早苗の心にふつふつと姉に対する憎しみが燃え上がってきた。こんな子供、本来ならどこか山の中に捨てて来たい気持ちだ。しかし、それは自分の首を絞める行為でしかないと分かっているからそんなことはしない。何事も無難に…。とにかく、この子はただの捨て子ということで処理してもらうことにする。




            *


 交番に着くと、年配の巡査と若い巡査の二人がいた。二人とも男である。男に免疫のない早苗は少し躊躇したが、思い切って戸を開けた。


「…と言う事は、この子の母親が、この子を木戸さんのお宅の前に置き去りにして行ったということですね?」

 対応は、若い方の巡査が当たってくれた。心なしか、嬉しそうに見える。おそらく、退屈な夜のちょうどいい暇つぶしになるとでも思っているのだろう。

「それは驚かれたでしょうね?」

「はい、それはもう」

 男に対して免疫のない早苗は、対応してくれる若い巡査に緊張を隠せない。特にこの巡査が少々イケメンなこともあり、早苗は恥ずかしさと照れくささで、目も合わせられないほどだった。

「で、木戸さんはこの子との面識はないんですか?」

「はい」

 それは事実である。

「坊や、お名前は?」

 巡査は、子供に向かって訪ねた。

「木戸真人です」

「え?木戸?」

 巡査は驚いて早苗の方を見た。

「あ、単なる偶然だと思います」

 早苗は慌ててとぼけて見せた。

「早苗さんは、お母さんの妹だって言っていました」

 子供は、はっきりとした言葉で証言をした。

「え?」

 巡査が驚いて子供と早苗の顔を見比べた。すると、今まで離れてこちらの話を聞いていた年配の巡査が、素早く割り込んで来た。

「坊や、えっと真人くんだっけ?今、大事な話をしているから、あっちでおじさんとお話しようか?」

 子供と年配の巡査は、奥の部屋に消えて行き、早苗はイケメンの若い巡査と向かい合ったまま二人きりになってしまった。若い巡査は、やさしい笑顔で早苗を見つめている。早苗は恥ずかしさと恐怖で顔を上げられない。

「真人くん、甥御さんなんですか?」

「そ、それはどうなんでしょう?」

 早苗は蚊の鳴くような声で答えた。

「甥と言われましても、私も初めて会ったものですから、本当かどうか分からないのです」

 うなだれたまま、若いイケメンの巡査の視線を頭に感じながら、早苗は震える声で答弁を続けた。

「私が高校を出てからですから、もう十年以上姉とは会っていません。住所も連絡先も知らないですし、結婚したとか子供がいるかとかも聞いてないんです。ですから、本当に甥なのかどうか、私にはちょっと…」

「木戸さん?」

 奥に入っていた年配の巡査が出てきた。

「真人くんから何か紙を預かっているでしょう?ちょっと見せてもらえませんか?」

 早苗の体に緊張が走った。あの子があることないこと、全部話してしまっている。二人の巡査の視線を浴びながら、目を泳がせつつ頭を巡らせた。そう言えば、あの抄本はどうした?あの時、あまりの衝撃にその場にへたり込んで…その後どうした?ゆっくりと自分の右手を見てみる。

 右手に握りしめたままだった。

 巡査が二人、やさしい笑顔で早苗を見ていた。


「この香奈恵さんが、木戸さんのお姉さんですか?」

 しわくちゃになった抄本を見ながら、年配の巡査が訊ねた。その声は、あくまでもやさしい。

「でも、この子が本当にその戸籍に載っている、姉の子だと言う確証はないですよね?」

「まあ、確かにそうですね」

 年配の巡査は、そう言うと奥にいる子供を呼び出した。

「真人くん、お母さんの写真か何か持ってないかい?」

 巡査にそう聞かれた子供は、背負っていたランドセルを下ろすと、中からプラスチック製の手帳のようなものを取り出して、巡査に手渡した。巡査はそれを受け取ると、ページを何枚かめくりながら眺めていた。

「この人…誰?」

 巡査はその開いた手帳を指差して真人に尋ねた。

「お母さんです」

 子どもは淀みなく答えた。

 巡査は早苗の方に向き直り、その手帳を差し出した。それは小さなアルバムで、スナップ写真が何枚か透明なフィルムの中に納まっていた。その一枚を巡査が指差し

「この人がお姉さんですか?」

と、聞いてきた。

 笑顔で映る母子らしい写真。どこにでもあるスナップ写真だ。そして巡査が指し示すその顔は、早苗にも確かに見覚えがあった。自分の姉にそっくりである。記憶の中の姉よりも大人になっているが、間違いなく姉の香奈恵であった。もう何年も会わず、思い出したこともなかったのに、一目見ただけではっきりと思い出した。そして、それとともに、忘れていた感情、「憎悪」もまた湧き上がってきた。

「そうです。姉の香奈恵です!」

 写真を覗き込みながら、早苗は叫ぶように言った。

「だから何だっていうんですか?姉だから何なんですか?」

 早苗は突然切れて、食って掛かるように叫んだ。

「つまり失踪されたのは、木戸香奈恵さんということでよろしいですね?」

 若い巡査は、冷静に答えた。

「え?は、はい」

 早苗は拍子抜けしたような返事をした。

「では、行方不明者届を提出して頂きますので、少々お時間をいただきます」

 若い巡査の口調は、実に事務的であった。



 届の提出はすぐに終わった。香奈恵の様子などは、早苗には全く分からないので子供にいろいろと聞きながら記入したが、そのたびに忘れていた姉のことが鮮明に思い出され、燃え上がるような憎悪と嫌悪が湧き上がってきた。

「では届の方は受理しましたので、今日のところはお引き取り下さって結構です。何か分かりましたら、署の方から改めて連絡があると思います」

 若いイケメン巡査が、さわやかな笑顔で言った。

「?」

 早苗は返事に詰まった。まだ、肝心の子供の行き場について何も決まっていないではないか。

「あの、この子はどうするんですか?」

「そうですね、できれば木戸さんのお宅で預かって差し上げればよろしいかと…。実のお姉さんのお子さんらしいですし」

 相変わらずの、爽やかな笑顔でさらりと答えた。結局そう来るのか。

「え?じゃあ、甥っ子だからって無条件で面倒見なきゃならないんですか?今の今まで存在すら知らなかった生き物なんですよ?」

 あまりの理不尽に、早苗もついつい声を荒げてしまう。

「いえ、もちろんそんなことはありません」

 あくまで冷静なイケメン巡査。

「木戸さんにも事情がおありでしょうから強制はできません。ですから、もし難しいというのであれば、明日にでも市役所へ行って相談してみればよろしいかと思います」

「じゃあ、明日までこの子どうするんですか?」

 イケメン巡査は、やさしい笑顔で黙って早苗を見つめている。

「あの、明日は私、仕事がありますし、こんな子にかまっている暇はないんです」

「いやあ、事情が事情ですから職場の方も理解してくださるんじゃないでしょうか?子供の命が掛かっているんですよ?これで理解してくれないなら、かなりブラックですねえ。一度、労基に相談なさったほうがいいかもしれないですよ。何なら、私からも職場の方にお願いして差し上げましょうか?」

 波風立てぬ人生に、警察などが介入されては嵐が吹き荒れてしまう。こいつら、痛いところを突いてくる。すると、若い巡査は笑顔で続けて来た。

「いや、木戸さんならそんな必要ないか。なにしろ初対面とはいえ、実の甥御さんですからね。おとなしくて、礼儀正しくてかわいい子じゃないですか?真人くんみたいな子なら、他人の子だったとしても放っては置けないですよ。木戸さんも優しい方だと思いますから」

 机に両肘をついて小首をかしげた優しい笑顔は、決して反論は許しません、という無言の威圧を帯びている。

―こいつ、絶対自分の顔を自覚して見せつけている―

 早苗は確信した。こいつは絶対に女にルーズだ。

 しかし、そうは分かっていても強く出られないのは、男を意識しているからなのか、単に今まで波風立てず「争わず」「抗わず」を貫いてきたせいなのか…。しかし、ここで引き下がっては自分の生涯設計を狂わしかねない。勇気を出して発言した。

「警察で保護してもらう訳にはいかないんですか?」

 若い巡査の笑顔が消えた。

「んー。まあ、お気持ちはわかりますが、警察には託児施設や宿泊施設みたいなものがないものでしてねえ。特に緊急性などがない場合は市民の皆さんにご協力いただいているわけなんですよ」

 巡査の顔が笑顔に戻った。

「まあ、今回の件に関しましては、木戸さんという親族の方がいらっしゃるわけですから」

 早苗の考えが甘すぎた。世の中そんなに甘くはないのだ。個人も、組織も、余計な責任は回避したいものなのだ。つまり、相談には乗ってくれるが、荷物の肩代わりはしてくれないのだ。そんなことわかっていたではないか。愚かな自分が呪わしかった。そしてこの時点ではもう、早苗にはこの子を放棄することが出来なくなっていた。責任を回避するにはすでにあまりにも深く関わりすぎていた。逃げ場はない。早苗は無言で巡査を睨みつけたまま交番を出た。自分ではわからないが、きっと最悪な顔をしていたことだろう。別れ際の、早苗を見つめるあの若い巡査の顔が、笑顔から真顔に変わっていたのだ。

「市役所に生活相談課って言うところがありますから、そこに行かれるといいですよ!」

 早苗が交番を後にするその後ろから、若い巡査の声がした。早苗はそれを無視して足を進めた。



「おい溝口、あんなこと言って大丈夫なのか?こっちで保護した方が良かったんじゃないのか?」

 年配の巡査が、早苗を見送る若い巡査に後ろから問いかけた。それを聞いた若い巡査は、強張った顔で年配の巡査の方を振り返り、深々と頭を下げた。

「すいません。勝手なことをしました!」

 若い巡査はそう大声で叫ぶと、しばらくそのままでじっとしていた。年配の巡査は、それを困惑顔で見つめていた。




            *


 帰り道、早苗のはらわたは煮えくり返っていた。羞恥と憤りでだ。たまに慣れないイケメン男子にやさしく対応されたことで、少々舞い上がっていたのかもしれない。そのしっぺ返しが事務手続きだけで実務的にはほったらかしという結果である。こっちの生活のことなど全くお構いなしだ。

 アパートに着き、自宅のドアを開けてからはっと気が付く。

「あの子は?」

 慌てて振り返ると、後ろで黙って立っていた。早苗は思わず安堵のため息を吐いた。ここでこの子を見失ったりしたら、それこそ責任問題だ。

 真人を中に入れ、自分も靴を脱ぎ部屋に上がると、崩れるように座り込んだ。

 時計を見ると、もう八時を過ぎていた。明日は、真人を連れて市役所へ行かねばならないから、会社に連絡しなくてはならない。早苗はバッグからスマホを取り出し連絡先を開いた。この時間、もう会社には誰もいない。上司に直接掛けるしかない。

 少し長めの呼び出し音ののち、上司の砂田の少し慌てた声が聞こえた。砂田は、定年間近の温厚な男だ。

「木戸さん?どうしました?」

 この時間なら当然の反応だろう。

「課長、夜分申し訳ありません。実はちょっと急な用事が出来まして、申し訳ないんですが明日の午前中だけ休ませていただけないでしょうか。午後からは行けると思いますので」

「あ、そう。用事?体が悪いんじゃないんだね?」

 砂田の声に安堵が滲んだ。

「はい、体の方は問題ありません。ちょっと急な用事が出来まして」

「ああ、そう。別に病気とかじゃないのね?それならよかった。んー、用事か…えーと、ちなみに何かまずい事でもあった?」

 やはり、何があったか気になるようだ。

「いえ、大したことじゃないんですけど、ちょっと事情がありまして」

「うーん、そうなんだ?」

 砂田はものすごく気になるが、どこまで突っ込んで聞いていいものか迷っているようだ。

「まあ、そうだな、木戸さんがそう言うんだから、きっと大事な用事なんだろうね。で、それは昼までで大丈夫なのかい?」

 早苗としても、事情を説明するべきか迷ったが、言っても良い印象を持たれることがないような気がして思い止まった。

「はい。おそらく午前中で何とかなると思います」

「そうかい、じゃあもし予定が変わったらまた電話ちょうだいね。もし、困ったことがあったら相談に乗るから」

「はい、ありがとうございます。なるべくご迷惑かけないようにしますので」

 早苗は、改めて深く礼を言ってから通話を切った。

 思わず深いため息を吐いた。案ずるより産むが安し。予想外にすんなり行って拍子抜けしたが、安心からか全身の力が抜けるような感覚があった。

 しかし、事の次第をどこまで話すべきか、悩ましいところだ。任された甥っ子を施設送りにしてしまったなどという話は、恐らくあまり世間体の良い話ではないだろう。まあ、今更どう思われようが、法律違反を犯しているわけではないのであるから、何ら攻めを受けるようなことではない。ただ、できることなら誰にも知られないことが最良かと思われるから、ごまかせるところまでごまかし続けようと考えた。

 振りむいて、真人の様子を見ると、まだ玄関に立ったままだった。

「何やってるの?早く上がって荷物置きなさい」

 そう言ってから気が付いた。荷物を持っていない。ランドセルを背負っているだけだ。

「あんた、荷物どうしたの?」

 早苗は慌てて立ち上がり、玄関のドアを開いて外を見た。しかし、何もない。

「交番に置いてきた?」

 真人の方に向き直り、強い口調で言った。真人は悲しそうな顔で、小さくかぶりを振った。

「え?じゃあ、どこに置いてきたの?」

 早苗の食って掛かるような凄みに恐れを成したか、真人は視線を落として何も言わない。早苗は息をのんだ。

「あんた、荷物それだけなの?」

 真人は上目づかいに早苗を見あげながら、小さくうなずいた。

「まさか…信じられない」

 早苗は放心したように、しばらく動くことが出来なかった。この子が不憫というよりも、全部早苗に用意させようという、姉のその魂胆が信じられなかったのだ。

 早苗は、真人を上にあげるとランドセルを下ろさせ、中を確認した。中からはさっきのアルバムと、菓子パンが二つ出てきた。隣のコンビニで買ったものらしい。

「それ、お母さんが、早苗さんが来たら一緒に食べなさいって」

 真人がおそるおそる言った。

「何考えているんだ、アイツ」

 思わず口を突いて出た。

「勉強の道具とかはどうしたの?」

 真人は、困った顔で黙っている。

「それに、なんで着替えとか無いのよ!」

 早苗は段々興奮してきた。

「あんた達、どういう生活していたの?」

 真人は相変わらず黙っている。そして、そう言ってから気が付いた。

「あんた、お腹すいているんでしょ?それ食べなさい」

 考えて見れば夕食の時間は、かなりすぎている。昼食もきちんと取ったものか分かったものではない。

 遠慮している真人に、早苗が袋を破いて中身を取り出し、真人の手につかませた。

「ところで、あんたいつから待ってたの?」

 牛乳でも温めてあげようと、冷蔵庫を開けながらなんとなく聞いてみた。が、答えが聞こえてこないので振り向いてみると、真人はパンをくわえた状態で首をかしげていた。小学校の低学年だし、よく分からないかと思っていると、不意に

「三時だったと思います」

と、答えた。

「よくわかるね。あんた、時計持ってるの?」

 早苗がちょっと驚いて、何気なく聞いた。

「お母さんが、ここに着いたときに『もう三時か』って言っていましたから」

 その答えを聞いて、結構賢い子なんだなと思った。姉も確かに勉強が出来たと言うか、知恵の回る人だった。

 しかし、早苗がここに帰ってきたのは七時近かったはずだ。つまり四時間近く待っていたことになる。ふつう、仕事が終わるのが一般的に五時とか六時だから、家に着くのは六時か七時以降になることは想像がつく。香奈恵はそれが分かっていても、自分の都合に合わせて子供を置き去りにして行くような、そういうかなり歪んだ性格の女なのだ。あと、それだけの時間、子どもが一人で立っているのをほったらかしにできる近隣住民も大したものだ。早苗を含め、ここはそう言うやつらが集まるところなのだろう。

 温まった牛乳を電子レンジから取り出し真人の前に置いた。ここで早苗は、今まで気になっていたが敢えて知らない振りをしていたことに、ついに目を逸らしきれなくなった。

 真人は、無心にパンを食べている。ずっとお腹がすいていたのだろう。その真人の頭にそっと鼻を近づけてみる。プンと臭う。やはりそうだった。かなり最初の頃から気づいてはいたが、警察に預けて来るつもりだったので、気づかなかったことにしていたのだ。しかし、明日市役所へ連れて行くにあたっては、このままでは早苗に対する心証が悪くなりかねない。どうするべきか困惑した。

 早苗の部屋には、小さいながらも浴室はある。しかし、着替えがない。おそらく着ている物も汚れていることだろう。もちろん、早苗の部屋には子供に着せられるようなものなどあるはずが無い。買いに行くにもこの時間に開いている店もないだろう。コンビニにも、子供用の服は置いてないと思う。洗濯機は有るからここで洗濯してもいいが、一晩では乾ききらないだろう。早苗は考えた末、結論を出した。

「ねえ、あんた。自分でシャワー出来る?」

 早苗の問いに、真人はゆっくりとうなずいた。

「そう?じゃあ、食べ終わったらすぐシャワーしなさい。その間に、私は今着ている服をコインランドリーで洗って乾かしてくるから、その間たぶん一時間くらいだと思うけど一人で待っていてちょうだい」

 真人はうなずいた。早苗も安心してうなずき返してから続けた。

「いい?これは、あんたを見捨てている訳じゃないんだからね!あんたを汚いままで居させるのが可哀そうだからするんだからね。ここは私の家だから必ず戻って来るから、おとなしく待ってなさいよ」

 真人は黙ってうなずいた。

「待っている間、テレビを見ていてもいいし、眠かったら寝ててもいいから、絶対に外には出ちゃダメだからね」

 そう言うと、早苗は寝室の方へ入って行き、押し入れの中の衣装ケースからバスタオルとTシャツ、スウェットの下を取り出した。

「ちょっとこっちへおいで」

 早苗は居間にいる真人を呼びつけると、Tシャツとスウェットの下を渡してから、

「いったん、その服全部脱いでこれに着替えなさい。終わったら、脱いだものを持って向こうに来てね」

と、言い残して居間に戻って行った。

 早苗は、待つ間に浴室を覗き込み、中の状況を確認した。相手は子供だし、気にする必要もないのだが、やはり何となく気になるものだ。とりあえず、出口のバスマットを交換していると、

「出来ました」

と、言う真人の声がした。

 振り向くと、だぶだぶのスウェットを履いた真人がいた。脱いだ服を小脇に抱え、片手でスウェットが下がらないようにつかんでいる格好は、なんともユーモラスでつい笑顔になりそうだったが、何かそれも癪だったので思わず笑顔をかみつぶした。

「あのね…」

 早苗は、真人から丸めた服を受け取ると、片手でTシャツのお腹を少しめくり、ズボンの腰の部分にある二本の紐をつかんだ。

「この紐を引っ張ると、腰がしぼまって下がらなくなるから…。蝶々結びは出来る?」

「はい」

「じゃあ、やってみて」

 真人は、たどたどしいながらきれいに結んだ。

「上手いじゃない?」

 早苗が褒めると真人は照れた。早苗は、真人のスウェットの裾を織り上げてから、

「じゃあ、こっち来て中をのぞいて見て」

 そう言って、早苗は真人を浴室の入口に立たせた。

「これがシャンプーで、これがボディーソープ。体を洗うタオルはこれ使っていいから。それから、これをひねるとお湯が出て、こっちがお水。温度は外で設定してるから、お湯だけで使えると思うけど、もし熱かったら水も少し出して調整してね」

 すべて言い終わった後、真人の顔を覗き込んでもう一度確認した。

「大丈夫?一人でできる?」

「はい。いつも一人でやってますから」

 不安気な早苗を他所に、真人は淡々と答えた。早苗の心に何かが刺さった気がした。ものすごく気になったが、それ以上は踏み込むべきではないと、早苗の本能が警告しているのが分かった。

 本来なら服の着替えも入浴も、早苗が手伝ってあげるのがいいのだろうが、子供とはいえ男の体を見たり触ったりするのは早苗としては抵抗があったし、真人自身も初対面の女に裸を見られたり触られたりするのは嫌だろうという思いもあった。

「じゃあ、私はちょっと行ってくるから、気を付けてね。終わったらちゃんと体を拭いてね。特に頭は念入りに。テレビを見ていてもいいし、疲れていたら向こうのベッドで寝ていいからね」

 なんだか、だんだん不安になってきた。本当に一人にして大丈夫なのだろうか?

 真人の服を袋に詰め、ついでに自分の物も少し追加して財布を持って玄関に出る。ドアを開け、外に出てからもう一度中を振り返り

「いい?カギを掛けて行くから、もし、誰かが来ても絶対に開けちゃダメだからね。返事をしないで、居ない振りすること。いい?居留守は悪い事でも、マナー違反でもないんだからね。自分を守るための手段として、訪問客を選ぶのは当然の権利なんだからね。分かった?」

 と、念を押した。

「はい、分かりました。気を付けて行ってらっしゃい」

 真人は、笑顔で答えた。真人の初めての笑顔かもしれない。早苗は、少しドキリとした。なぜかは分からないが。

 何とも言えぬ思いでドアを閉め、カギを掛けた。「後ろ髪を引かれる」とは、この事なのかもしれない。姉の香奈恵は、どういう思いで子供を置いて立ち去ることが出来たのだろう。

「ここで、何か事故でもあった日にゃ、こっちの責任問題になりかねない」

 早苗は言い訳するように呟いた。


 玄関を出て見ると、外は思いのほか肌寒かった。

「あの子、湯冷めしなきゃいいけど。帰ったらちょっと見とかないとまずいな」

 早苗は、小走りでコインランドリーへ向かった。

 コインランドリーは、徒歩七~八分のところにある。あまり利用しないが、急ぎの乾燥を必要とするときなどたまに利用する。早苗は洗濯機を回すとすぐに外に出た。洗濯している間に買い物をする考えだった。今、家には真人に食べさせるようなものは無い。夕食はまだだし、明日の朝の分も必要だ。下手に手を抜くと、虐待の疑いを掛けられかねない。コンビニは高いので、少し離れているが夜十一時までやっているスーパーまで行くことにした。




 アパートに帰ると、真人はテレビを見ていた。と、言っても見たい番組が無かったのか、面白そうなチャンネルを探している所だったらしい。

「お帰りなさい」

 早苗の姿を見ると、嬉しそうに笑った。大きすぎてだらしないTシャツとスウェットも、ちょっと可愛らしく感じる。真人は急に笑うようになった。子供の笑顔は良いものだが、下手に懐かれるのも困りものだ。

 早苗は、玄関を上がると荷物を下ろし、真人のお腹をめくって見た。腰の紐はきれいに結ばれている。続いて頭に手を当てると、やはりまだ結構濡れていたので、落ちていたバスタオルで優しく拭いてあげた。しっかりしているのか、抜けているのか、分からないのが子供なのかと考えた。

「おにぎり買ってきたけど食べる?まだお腹すいているんでしょ?」

 頭を拭きながら訊ねると、真人は少し嬉しそうにうなずいた。

 早苗も一緒に食べながら、状況的に良くない方向に向かって来ているのではないかと感じてきた。なんとなく、真人が懐いてきているような気がする。どうやら早苗が、自分が非難されないように気を使っているだけの行為を勘違いしているようだ。

「じゃあ、歯磨いて寝ようか。明日は、朝から市役所って言うところに行って、あんたをどうするか相談するからね」

 食べ終わったところで早苗がそう言うと、明らかに真人の顔が曇った。早苗の心もちょっと痛んだが、変な期待させるのも却ってかわいそうだから仕方がない。

 さっき買ってきた子供用の歯ブラシに、子供用の歯磨き粉を付けて渡すと、真人は自分で磨き始めた。しかし早苗から見たそれは、歯磨きというにはあまりに雑なものであった。どうせ母親から何も指導を受けていないんだろう。見かねた早苗は、真人を後ろから抱きかかえるようにして、真人の歯ブラシを持つ手を握り、早苗が動かし始めた。

「いい?歯磨きはね、面倒でもこうやって歯を一本一本磨くの。今からそういう癖を付けて置かないと、歯が生え変わったあとに、大事な大人の歯を磨き損ねて、すぐに虫歯になっちゃうんだからね。よく覚えて置きなさい。あんたが今やっていることは今だけのためにやっているんじゃないんだよ。大人になっても習慣となって、ずっと続いてしまうんだからね。良いことも、悪いことも」

 言い終わってから、子供相手に何を説教がましいことをと、気恥ずかしくなった。やはり自分は子供をもつと、過干渉の鬱陶しい口うるさい親になってしまうだろうと感じた。

「さあ、口をゆすいだらもう寝なさい。遅くなっちゃってごめんね」

 洗面所から出てきた真人に、寝室のベッドを指して言った。

「早苗さんは寝ないんですか?」

 真人が心配そうに聞いてきた。

「私は、片付けとか明日の準備とかあるから、もうちょっとしてから寝るから」

 そう答えても、何か悲しげな顔で早苗を見上げている。こういう表情は子供の武器なのかもしれない。なんとなく、無下に突き放せなくなる。仕方なく、真人の手を取ってベッドの方へ連れて行った。

「慣れないベッドで寝付けないかもしれないけど、我慢して寝てちょうだい。私はここにいるから」

 そう言って真人を布団に押し込んでから、居間に置いてある洗濯して来た真人と自分の服を持ってきて、ベッドの上に腰かけた。真人は布団の中で、早苗の動きをじっと目で追っている。早苗は部屋の電気を消し、ナツメ球だけにした。

「このベッドで寝る男は、あんたが初めてなんだからね」

 何を血迷ったか、子供相手にこういうことを言うなんてジョークにもなりやしないと、言った後から恥ずかしくなった。大体、男だけではない。女だってこのベッドはおろか、このアパートにさえ入った者はいないではないか。

 恥ずかしさをこらえながら、真人の服をたたむ。子供の服なんて、触るのも初めてかもしれない。小さくて、縮尺を間違えたような感覚になる。

「早苗さんは、お母さんのことが嫌いなんですか?」

 突然、真人が口を開いた。早苗が驚いて真人を見ると、真人はオレンジ色のほのかな明かりの中で、静かに早苗のことをみつめていた。

「お母さんって、あんたのお母さんのこと?」

 早苗は、驚き半分で聞き返した。

「はい」

「なんでそんなことを聞くの?」

「お母さんのことが嫌いだから、僕のことも嫌いなんですか?」

 早苗は、一瞬答えに詰まった。数秒ほど真人を見つめた後、視線を正面に向けてから言った。

「そうね、あの人のことは大嫌い。嫌いを通り越して憎いくらいかな。昔、いろいろあったからね。でも、あんたのことは、好きでも嫌いでもないかな?だって、会ったばかりで、あんたのことは何も知らないんだから。ただ、私にはあんたを育てて行く力がないんだよね。だから、ここに置いてあげるわけにはいかないの」

 真人は、何も言わずに聞いていた。

「あんたは、自分のお母さんが好きかい?」

 早苗は、特に意識せずに何気なく聞いてみた。

「いいえ、僕も嫌いです」

 真人は、はっきりと答えた。意外な答えに、服をたたむ手が止まり、思わず真人を見た。真人の視線は宙に浮いていた。

 どうして?その言葉がのどまで出かかった。しかし、敢えて聞かなかった。いや、聞けなかった。相手があの姉である。聞かずとも知れたことだ。それに、知る必要もない。

 親が嫌い。この歳で、もうそんな分別が付くのだと、早苗は感心した。中学、高校にもなれば、親の言動を通して親の人間性も評価しようものだが、小学校のしかも低学年なら、無条件に親を慕いそうなものだ。早苗も、いつも姉のことを優先する親の態度が不満だった。しかし、真人くらいの年の頃は、親を嫌うよりも、親にもっと関心を持たれたい、愛されたいという思いが強かったように思う。

 真人を見ていると、子供に対して抱いていた自分の観念というか、常識のようなものが否定されていくような気がしてくる。

「お母さんには、なんて言われてここに残ったの?」

 その問いに、真人は少し間をおいてから答えた。

「お前は死にたい?それとも生きたい?」

 早苗は、思わず真人の顔を見てしまった。何と言ったか理解できなかったのだ。早苗の想定していた言葉の、遥か遠方にある言葉だったからだ。

「僕は、生きたいと答えました。そうしたらお母さんは、じゃあ、ここに残りなさい。そして、ここに居る木戸早苗という人に育ててもらいなさいって言いました。早苗さんは、お母さんの妹だからって。最初は大変かもしれないけど、お母さんと暮らすよりはずっとましだと思うって。お母さんと一緒にいると、お母さんはいつか僕を死なせてしまうからって」

 早苗は言葉を失った。真人の言葉にも顔にも、どちらも感情らしきものが感じられず、淡々としていた。

 早苗はぞっとした。到底こんな子供の口から出る言葉とは思えなかった。真人自身が考えた作り話とは考えにくい。おそらく、母親が本当に語った内容か、あるいはこういうふうに言いなさいと指示されたかのどちらかであろう。

 もし、前者だとしたら、いったいどんな生活をしてきた親子だったのだろうか。想像を絶する世界の話である。ただ、姉、香奈恵の性格を知る早苗としては、それも有り得ることと思えた。美しく、知的で人当たりのいい姉の「狂気」を幾度も見てきた早苗には納得できる話だった。正直、姉に対する感情の原点は、憎しみでも嫉妬でもない、まさに「恐怖」だったと言える。

 早苗は何も言うことが出来ず、ただ真人の顔を見詰めていた。たたむ服ももう無くなり、手持ち無沙汰になっていた。何かをして気を紛らわせたい。そんな衝動に駆られた。

 しばらく真人を見詰めていると、眠そうなぼんやりとした目つきになってきた。

「じゃあ、私もシャワーするから、あんたはもう寝なさい」

 早苗は、そう言って立ち上がった。考えてみると、帰ってきてから着替えも洗顔も何もしていないことに気づいた。自分のことをすべて忘れて、真人に振り回されていたのだ。途端に、どっと疲れが湧いてきた。こんな生活はもう、うんざりだった。



 一方、真人は真人で一人悶々としていた。早苗に話していない、否、話せずにいる内容があったからだ。母が残していった言葉にはまだ続きがあった。しかし、それを言うと早苗を混乱させるような気がして、言いあぐねていたのだ。


 香奈恵は、早苗の部屋の前で真人に言った。

「真人はもっと生きていたい?それとも死にたい?」

 真人を見下ろす母の顔には、薄笑いが浮かんでいた。

「死にたくないです」

 真人がそう言っても香奈恵の表情は変わらなかった。

「じゃあ、もっと生きたいのね?」

「はい」

「じゃあ、あなたはこれからここに住む女の人と暮らしなさい」

 香奈恵はそう言って、部屋のドアを指さした。

「ここには、私の妹が住んでいるの。名前は木戸早苗。受け入れてさえくれれば、きっとあなたを大切にしてくれるわ。頑張りなさい。難しいかもしれないわよ?いい?もし断られたら、あなたに生きる道はないんだからね?その代わり、ここで暮らせれば、私と暮らすよりもはるかにマシな暮らしができるから。私と一緒にいると、きっとそのうちあなたを死なせてしまうと思うし…。まずその人に会ったらこの紙を見せなさい。そうすればあの娘もあなたが何者か分かるでしょう。それと、もし早苗があなたのことを疑ったら、そのカバンに私とあなたの写真が入っているから、それを見せなさいね。あと、さっきのパンは、早苗おばさんが帰ってきたら一緒に食べなさい。あ、おばさんなんて言ったら怒られるかもね」

 そして、フッと笑うと

「じゃあね、頑張ってね」

 そう言って真人に背を向け歩き出した。

 真人はこの時、急に全身が熱くなり、感情が高ぶり出したのを感じた。それが怒りと言う感情だと言うことを、真人はまだ知らなかった。そして、階段の近くまで歩んだ母のもとへ駆け寄り、力まかせに母親を突き飛ばそうとした。が、その瞬間、それを悟ったかのように、母は後ろを振り返った。真人はすんでのところで、踏みとどまることが出来たのだった。

 香奈恵は、そんな真人の憤怒を知ってか知らずか、再び真人に歩み寄り真人の前でしゃがみ込んで真人の顔を見た。真人は困惑した。香奈恵はいつも、立ったまま真人を見下しながら話しかけて来るのだった。ところが、今はしゃがんで、その目線は真人よりも低くなっている。却って誠が見下ろす形になっているのである。こんなことは初めてだった。

「真人?ここの早苗おばさんは良い人だから、心配しないでいいからね。優しくて、情が深くて、相手のことをよく考えて、気持ちを分かってあげることが出来て、他人のために何かを出来る人なの。私はいつもあの娘が羨ましかった。あの娘は私が持っていない、私が欲しいものを全部持っていた」

 そこまで言うと、香奈恵は嘲笑うかのような冷ややかな笑みを浮かべた。

「だから許せないのよ」

 最後に、そう言い残すと、香奈恵は足早にその場を立ち去ってしまった。


 香奈恵がそう言った意図を、真人は知ることは出来なかった。ただ、早苗と言う人が悪い人ではないらしいことは分かった。真人は経験上、母の言うことは信じられないことを体得していた。だから、今の話も口から出まかせで言っているとも考えられる。しかしこの時、真人は何故かうっかりと信じてしまった。信じて期待してしまったのだ、早苗との幸せな生活を。それが真人の心に引っかかった。母を信じたことが、早苗の感情を害してしまうのではないかと危惧したのだ。今、早苗に見放されることは、真人の命に係わることになると思っていたから。

 この事は、無かったことにしよう。それが真人の出した結論だった。




 早苗は、シャワーを終え、化粧も落とし、歯も磨き、いつもの部屋着に着替えてゆったりすると、やっといつもの自由な生活に戻った気がした。その勢いで、つい冷蔵庫からビールを取り出し、ぐっとのどに流し込んだ。そして、大きくため息を吐くと、今日も一日ご苦労さん、という満足感に包まれた。

 しかし、それもつかの間、寝室の自分のベッドの上に真人の姿を見つけると、一気に気が重くなってきた。問題は、何一つ解決してはいないのだ。ビールの缶を置き、肩を落として押し入れを開け、冬用の掛布団を取り出し、ベッドの下に広げた。真人と一緒に寝るという方法もあったが、子供は寝相が悪いというイメージがあるので、夜中にベッドから蹴り落されるよりは、最初から下で寝たほうがいいと判断したのだ。

 真人はもう寝付いているようだった。寝息を立てている。

 親に置き去りにされる。それは、いったいどういう気持ちなのだろうか。立ち去る親の後姿を、どういう思いで見つめていたのだろうか。親の後を追いかけようとは思わなかったのだろうか。

―いいえ、僕も嫌いです―

 真人はそう言った。嫌いな母親に捨てられてよかったと思ったのだろうか。

 真人は、よく見ると実にきれいな顔立ちをしていた。いわゆる、美少年という類だ。母親似かもしれない。母親の香奈恵も、幼いころからかなりの美少女だった。いや、父親の方に似ているかもしれない。父親の笹本啓太も、かっこいいイケメンだった。

 笹本啓太という男のことも、早苗は知っていた。中学生の頃、一時期二人は交際していた時期があったのだ。今まで記憶から消し去っていたものが、心の扉を無理やりこじ開けるように蘇ってきた名前だ。笹本は、もともと早苗の中学の時の同級生であった。学校でも有名なイケメンで、女子生徒の憧れの的であった。片や早苗の方は地味で陰気で不細工な、不人気女子の筆頭に上がっていた。

 ところが、中学三年になってすぐの頃、それまで話す機会もそれほどなかった二人が、お互いの趣味のことで話す機会が出来、二人きりになることがあった。しばらく話していると、突然笹本の方から付き合ってほしいと言って来たのだ。それまで早苗の方にも笹本に対する恋心は有ったので、すぐに承諾し交際が始まったのである。

 そして、夏休みの少し前に笹本が早苗の家に遊びに来ることになった。そして、そこに予定ではいない筈だった姉の香奈恵がいたのだ。当時、香奈恵は高校二年。地元でも有名な美少女であった。当然のごとく、美男美女は意気投合し、いつの間にか早苗は蚊帳の外という結果となった。もちろん、笹本の狙いは最初から香奈恵だったことは言うまでもない。早苗の姉は、早苗が中学に入学した年には三年生として在学していたため、「超」の付く美人だということは早苗の学校でも有名であり、それ故に早苗は姉と比較されてからかわれたものであった。結果的に、早苗は弄ばれた立場であったが、周囲に同情は無かった。かえって、かつての友人たちは早苗を笑いものにした。

 それを機に、早苗は世間とは一線を引いて、心を閉ざすことになった。その後二人がどうなったかは、早苗は知らない。くっついたり離れたりを繰り返していたことは聞こえて来てはいたが、具体的なことからは完全に目を逸らしていた。だから今日、真人の戸籍から笹本の名前を見た時には、香奈恵の名を見たこと以上に驚いたのだった。

 二人は一応結婚まで行っていたのだろう。真人は今、八歳らしい。つまり、生まれたのは八年前ということになる。早苗が今三十一歳だから、同い年の笹本が二十二、三歳の頃だ。笹本が大学を出てすぐ位か?香奈恵が二十四、五歳というところか。二人が出会って、七年目くらいの頃だろう。その七年間、そしてそれからの八年間、二人に何があったのかは早苗には知る由もないし、関心もない。ただその結果、早苗に多大な被害が及んでいるというのが現実なのだ。

 思い出すだけで虫唾が走る。姉のことも、笹本のことも、学生時代のことも。

 早苗が立ち直り、今一度歩み出すためにとった方法は、「過去」を切り捨て、「今」に目をつぶり、「将来」の平穏な暮らしを見つめることだった。それはなにか来世信仰にも似ているようなものがある。しかし、そんな早苗の努力を嘲笑うかのように、香奈恵は容赦なく早苗の「今」をこじ開け、剣を振り下ろしてきた。涙が溢れてきた。悔しさの涙なのか、怒りの涙なのかは分からないが。

 とにかく寝よう。そう考えた。ひょっとすると、目覚めてみると全部夢だった、なんていう落ちかもしれない。

 

 突然、真人のすすり泣く声が聞こえた。見ると、真人は夢にうなされるかのようにすすり泣いている。無理もないことだ。実の母親に見捨てられ、初対面とは言え、実の叔母にも悪態を吐かれ見捨てられようとしているのだ。不安と恐怖に押し殺されそうな心境なのだろう。

 そんな哀れな真人の姿を見ても、早苗にはどうしてあげることもできなかった。実際どうしていいのかも分から無かったし、これ以上関わることによって、情に縛られるのにも抵抗があった。

―あの姉と二人っきりで暮らすなんて、私には到底できない。きっと耐えられないだろう―

 早苗の正直な思いである。

 早苗は、握りしめられた真人の手をそっとその手で包んだ。特にそうしようと思ってそうしたわけではない。本当に何となくである。すると、それに反応するかのように、歪んだ表情のまま真人がうっすらと目を開いた。吐息が震えている。

 少しの間、早苗と視線を合わせていたが、すぐに視線を逸らし、早苗の手から自分の手を離すと、早苗に背を向けるように寝返ってしまった。

 早苗には測りかねるが、真人には真人なりの思いがあるのだろう。それに対しては、これ以上踏み込む勇気を早苗は持ち合わせていなかった。




            *


 朝、早苗は陽の光と何かの物音で目が覚めた。見上げると子供の後姿が目に入った。真人である。

―あー、こんなのが居たんだった―

 早苗の胸に失望感が込み上げてきた。

「どうしたの?」

 居間の方へ向かおうとしているらしい真人に声を掛けた。真人は早苗の声に気づいて振り返った。その顔には困惑の色が見えた。

「あの、トイレどこですか?」

 そう言われて早苗はハッと気づいた。子供には寝小便が付き物だった。慌ててベッドの布団を剝がしてみる。無事だった。

「よし、よくやった。トイレはこっち!」

 早苗は猛スピードで真人を追い越し、トイレのドアを開けた。真人は、早苗がドアを開けるが早いか中へ駈け込んだ。

「蓋、開けてね!」

 早苗は、外から声を掛けた。

「はい!」

 中から真人の切羽詰まった声がした。

「あ、あ、あ!」

 何か、トイレの中で慌てている。早苗は気づいた。スウェットの腰の紐だ!きっと解くのに苦労しているのだ。

「あっ!」

 少しの後、真人の叫びともとれる声に続いて何か異様な音がして、それに続いて水に投入される音が響いた。

「狙いを外したか…」

 早苗の口から嘆きの声が漏れた。まあ、布団の中に投入されるよりはましだろう。

 真人はなかなか出てこない。きっと、出るに出られないのだろう。早苗は、トイレのドアをノックして言った。

「いいから出て来なさい。私が片付けて置くから」

 真人は、完全に怯えた顔で出てきた。その顔を見ると早苗もなぜか切なくなった。

「まあ気にしないで、あんたも一応は一生懸命我慢したんだから。まあ、よくやったよ。私が、早くに気付いて上げられたらよかったんだけどね。ごめんよ」

 そう言って頭を撫でた。真人の顔が、はにかんだ笑顔に変わった。

「さあ、手を洗っておいで、ついでに歯も磨いて」

 早苗は、真人を洗面所に連れて行ってから、改めてトイレの中を見て絶句した。ここまで水浸しは初めてだった。

「まったく、男の子っていうのは…」

 それは、早苗にとっては未知の世界だった。

 実際、子供のトイレのことは想定外だった。寝かせる前に確認するべきだった。子供は何かに夢中になると、尿意に気が付かないという話は聞いたことはあるが、自分には関係のない事として完全に失念していた。まあ、ベッドの中にやられたら、逆上して張り倒していたかもしれないので、真人も助かったわけだ。とにかく、次からは気をつけることにすればいい。

 いや、次は無いけど。



 真人のおかげで早く起きることが出来、しかもすっきりと目を覚ますことが出来たので、朝食もゆっくりと取ることが出来た。とは言え、献立はいたって簡単だ。いつもはご飯にインスタントの味噌汁だが、食器が無いのでトーストにした。夕べ、せっかくスーパーまで足を延ばしたのはいいが、よく考えて見ると何しろ一人暮らしで友人、恋人一切なしだから、来客のための準備などあるはずもない。コップや皿は幾つかあるが、ご飯茶わんやお椀が一つずつしかないことに気づいたのだった。箸も一膳だったので、真人にはコンビニでもらった割り箸をためてあったものを与えた。トーストにはイチゴジャムとバター、他には冷蔵庫にあった野菜と肉を炒めたものと、リンゴの切ったもの。子供の好みなど分からないし、別に気を遣う理由もないと思い、簡単に済ませた。

 いつも愛用のテーブルというか、ちゃぶ台の上が珍しく一杯になった。何か、ちょっと新鮮な感覚である。

「いただきます」

 そういって、早苗が食べ始めた。それに釣られるように向かいに座った真人も食べ始めた。

「いつも朝ごはん、ちゃんと食べてるの?」

 真人は小さくかぶりを振った。早苗は、それ以上聞くのが怖くなり、言葉が途切れた。見たところ、真人が栄養失調とかの様子は見受けられないが、実際のところどうなのかは分からない。詳しいことは、施設の方で調べて対処してくれることだろう。

 ただ、箸の持ち方が気になる。これも母親から指導されなかったのだろう。人の目を気にする香奈恵は、箸の持ち方も使い方も、当然きれいだった。しかし、教えてあげる、という発想は無かったのだろう。

「お母さんから、箸の持ち方教わらなかったの?」

 真人は困った顔で、早苗の方をうかがった。

「箸はねえ、こうやって持つの。やってごらん」

 そう言って、箸を持った自分の手を見せた。

「人差し指と中指の間、それと中指と薬指の間に一本ずつ挟んで、親指で抑える。基本的には、この上の方の箸を親指と人差し指で挟んで動かして、物を摘まんだりするの。下の方は動かさないから」

 早苗がやって見せるが、真人はうまくまねできないようだった。

「やりにくい?最初はやりにくいと思うけど、慣れるとかなり細かいものでも摘まめるようになるから」

 真人は不満そうだった。

「別に、どんな持ち方でも食事はできるから、自分のやりやすいようにやってもいいんだけどね。でも、便利なのはこの持ち方だよ。それに、自分は何とも思わなくても、周囲の人には意外と目障りだったりするんだよね。人間は見かけというものにものすごく影響されるものなの。箸だけじゃなくて、服装、表情、態度みたいな、直接触ったりするわけじゃない、ただ目に入るだけの物なんだけど、その相手のイメージというか、ランク付けというか、そういうものに影響しちゃうんだよね」

 真人は相変わらず、面倒くさそうな顔をしている。

「だから、箸の持ち方だけであなたの価値を決定されることもあるんだよ?」

 真人は、少々困惑気味らしい。

「ごめんね、食事中に面倒くさい話をして。食事、続けてちょうだい」

 早苗は、食事を再開した。正直、自分に対してうんざりしていた。自分がこんなにも説教じみた、口うるさい奴だったとは今まで全く気が付かなかった。それもそうだ、普段は仕事以外で人と口を利くことなどほとんどないのだから。自分を知るいい機会になった。ひょっとすると、職場の後輩にもこんな感じで口うるさく言っていたのだろうか。ちょっと怖くなった。やはり、自分は他人と関わるべきではないのだと確信した。




「お待たせ」

 早苗は出かける準備をして、真人の待つ玄関へ向かった。真人は、早くに服を着替えて、ランドセルを背負い、靴を履いて玄関で待っていた。

「女はね、化粧という厄介な作業が有ってさ、時間が掛かっちゃうのよ」

 誰に言うでもなく、ひとり言のように呟きながら時計を見ると、もう八時になろうとしていた。思ったより時間がかかっている。それは、真人のせいだということは分かっていた。子供の相手というのが結構タイムロスになることを実感した。

 スマホで調べると、市役所は八時四十五分から始まるとなっていた。ここからだと、バスと徒歩で約三十分と言うところらしい。充分間に合いそうだ。さっさと行って、早いところケリを付けないと午後からの仕事に遅れてしまう。

 基本、おひとりさまの早苗だから、子供連れなどと言うものは人生初かもしれない。どう取り扱うべきか戦々恐々であるが、取り敢えず迷子にしないことが最優先だから、アパートを出た瞬間から手を繋ぎっぱなしである。とにかく見失ったりしたら大問題だ。早苗の将来設計が崩壊する。

 生活のほぼ全てが職場と自宅の往復であるから、バスなど乗ることも無いし、市役所は、ここに引っ越して来たときに一度行っただけである。場所も行き方もよく覚えていない。バス停を探し、乗るバスを調べ、時間を調べ、来たバスを入念に確認し、乗ったら乗ったで降りるバス停を聞き逃さないようにアナウンスに耳を傾ける。その間も、本当にこのバスで合っているのかビクビクする。やっと目的の停留所がアナウンスされ、ほっと安心してバスを降りても、そこからどう行っていいものか分からない。そう、早苗は方向音痴なのである。仕方なくスマホを開いて地図アプリで探す。その間、真人から手を離さなければならないので、ちゃんとそこにいるのか気が気でない。やっとの思いで「市役所」の看板を見つけた時には、がっくりと疲れが圧し掛かってきて、暫し放心しつつ、いっそのこと一人で来れば良かったなどと思うのであった。

 市役所の目の前にもバス停がある。それを見詰めながら、なぜ我が家の最寄りのバス停には、ここに止まるバスは来ないのか?納得のいかないものを感じた。




 市役所の業務は、もう始まっていた。中に入り入口の案内板を見ると、「生活相談窓口」というものがあったので、そこに行くことにした。

 目当てのカウンターを見つけると、もうすでに誰かカウンターに座り職員と話をしていた。この人の相談がいつ終わるかは分からないが、のんびりと待っているだけの心の余裕がない。

「すいません」

 早苗は、中の職員に直接声を掛けた。すると気づいた職員の一人が近寄ってきた。

「はい、おはようございます。どのようなご用件ですか?」

 早苗よりも少し若い女性だ。

「あの、この子の事なんですが」

「はい」

「ゆうべ、この子がうちの前に放置されていまして…」

 その一言で、女性の顔に緊張が走った。

「はい、少々お待ちください」

 そう言って、その女性が奥へ向かおうと振り返ったところへ、状況を察したかのように、早苗と同年代の男性が一人近づいてきた。

「お話をお伺いします。どうぞこちらへ」

 男性は、早苗と真人をカウンターの中へ招き入れ、パーテーションで区切られたスペースに案内した。

 そこは畳三枚ほどの狭い空間で、中央にテーブルと椅子が置かれていた。早苗たちは奥の椅子に案内され、向かい合わせでその男性が座った。

「私、大川と申します」

 男性は、名刺を取り出し早苗に差し出した。

<生活相談室 大川慎一>

 名刺には、そう書かれていた。

「まず、お名前とご住所をお伺いします。こちらにご記入いただけますか」

 いつの間に用意したのか、大川はクリップボードに挟まれた用紙を差し出した。早苗はそこに、早苗の名前と住所と携帯番号を記入し、大川に返した。大川はそれを受け取ると

「木戸早苗さんで、よろしいですか?」

と、ちょっと懐疑的な表情で聞いてきた。疑っているのか?とちょっとむっとしたが一応「はい」と答えた。大川は、やはり何か考えるように早苗を見つめたが、すぐに普通に戻って話を切り出した。

「では、木戸さん。早速ですが、詳しい事情を聴かせていただけますか?」


 早苗は、昨夜のことをそのまま話し始めた。

「ゆうべ、仕事から帰ってきたら、この子がドアの前に立っていたんです。知らない子だったんで、そのまま部屋に入ろうとしたんですけど、この子が『木戸早苗さんですか?』って言うんですよ」

「つまり、木戸さんには見覚えが無かったけれど、こちらのお子さん…えっと」

「真人です」

「真人くんは知っていたんですか?」

「はい、私もビックリしたんですけど、この子…真人くんがこれを突き付けてきたんです」

 早苗は、例の戸籍抄本を差し出した。大川は受け取り、目を通すと大きくため息を吐いた。

「この木戸香奈恵さんと言うのは」

「私の姉です」

「お父さんの笹本啓太さんは?」

「…知りません」

 早苗は、はっきりと言い切った。大川は、じっと抄本を見つめていた。そして、目を閉じてから言った。

「つまり、木戸さんのお姉さんである香奈恵さんが、真人くんを、自分の妹である早苗さんの家の前に、置き去りにして行った。ということですね」

 今、そう説明したところだ。

「そうです」

 早苗は冷ややかに言った。

「先ほど、真人くんのことはご存じないと言っていましたよね?」

「はい。姉とはもう十年以上会っていないので、結婚したことも子供がいることも聞いていませんでした」

「電話とか、年賀状のやり取りもなかったのですか?」

「はい、私としては縁を切っているつもりでした。姉からの連絡もなかったですし、住所も知らない筈だったんですけど」

「では、木戸さんはお姉さんの居場所は分からないわけですね?」

「はい、もちろん。あ、でも昨日この子のことを相談しに、交番まで行ったんですけど、その時に捜索願いみたいなものは出してありますから、何か分かれば連絡が来るかもしれません」

 大川は、ちょっと興味を持ったように早苗を見た。

「交番に行かれたんですか?」

「ええ、この子のことをどうしていいか分からなかったものですから。ほんとうは、警察に保護してもらいたかったんですけど、交番のおまわりさんは市役所に相談しろって言ってきたんです」

「ああ、そう言うことですか」

 大川は何か納得したように、うなずいた。

「で、木戸さんとしては、真人くんを引き取るつもりは無いと言うことですね?」

「はい、そう言うことです」

 早苗は、待ってましたとばかりにはっきりと答えた。

「うーん、このお父さんの方は、どうなんでしょうね?普通、お子さんの処遇を考えるとき、最初に父親のことを考えるものだと思うんですが」

 大川は、探りを入れるように早苗の方を見た。

「そんなことは分かりません。第一、姉は普通じゃありませんでしたし、姉とその笹本という人がどういう関係になっているのかも分かりませんから」

「そうですか。で、木戸さんのご両親には連絡なさいましたか?」

 大川にそう言われて、早苗もハタと気づいた。両親の存在を完全に忘れていた。香奈恵はなぜ、真人を実家に連れて行かなかったのだろう?香奈恵のことをあれほど可愛がってくれた両親なんだから、孫の面倒くらい喜んで見てくれることだろう。

「いえ、親とも何年も連絡はとっていませんので」

 これは本当だ。高校卒業と同時に、早苗は香奈恵を含む家族との縁を切った。家族には、早苗の住所も電話番号も知らせていない。両親も敢えて早苗のことを探そうという動きを見せていない。

「そうですか。じゃあ、ご実家の住所と電話番号を教えていただけませんか?こちらで連絡してみますので」

 早苗はちょっと躊躇した。

「分かりません。ちょっと事情があって忘れました」

 これも本当だった。早苗は、実家を出てから過去を忘れることに必死だった。就職して仕事を覚えるという未来づくりは、忌まわしい過去を忘れるのに良い助けとなった。おかげで今は、親の名前もすぐには出てこない。そして、思い出したくないから考えるのも嫌だった。

「住所もですか?」

「はい、住吉町だったと思います」

「市内ですよね?」

「はい」

 大川は、困惑のため息を吐いた。

「じゃあ、ご両親のお名前は?」

「すいません!思い出したくないのでこれ以上聞かないでください!市役所なんだから、それくらい調べられるでしょう?」

 早苗は声を荒げた。大川は困惑顔で低く唸り、しばらく黙り込んだ。

「では、あとの事はよろしくお願いします」

 早苗は、もうこれで自分の責任は十分果たしたと思い、席を立ちあがった。

「木戸さんが、真人くんの面倒を見れない理由は何ですか?」

 大川の、突然の攻撃的な質問に早苗はひるんだ。

「お姉さんが、妹である木戸さんに真人くんを託したというのには、何か理由があると思うんですけどねえ」

 この言葉で、早苗の頭に血が上った。

「何勝手なこと言ってんのよ!あの人の行動にまともな理由なんかあるわけないでしょう?もし、あんたの言う通りなら、直接会って事情を説明してからお願いして来るでしょう?あの人はそんなこと出来ないし、する気もないの!ただ、自分が持て余した子供を、嫌がらせで妹のところに捨てて行ったのよ!ゴミのようにね!」

「ちょっと待ってください!」

 突然、関係ない方向から声が聞こえてきた。二人が見ると、パーテーションの外に、さっき案内してくれた女性が鬼のような形相で立っていた。女性は、震える声で続けた。

「そんなひどい事、よく子供の前でいえますね?母親を失って傷ついた子供の心に、更に追い打ちをかけてるのが分からないんですか?」

 早苗は、その声に不敵な笑顔で答えた。

「そうだよ。私はこう言いう人間なんだよ。到底こんな子供を、まともに育てられる人間じゃあないんだよ。よーく、分かっただろう?」

 女性は黙ったまま、言い返せなかった。

「木戸さんが真人くんを見られない理由は、木戸さんの性格の問題と言うことですか?」

 大川が、冷静に質問を続けた。

「そうですよ。私に子供を育てる能力はありません。それに、考えて見て下さい。私があの子を育てるということは、私にシングルマザーになれと言うことですよ?世のシングルマザーがどれだけ苦労しているか、仕事柄よく知っているでしょ?普通、女性が未婚のまま出産を決意したら、みんな心配するでしょう?反対もするでしょう?それをあなたは私に勧めるのですか?」

「あ、そうですか。木戸さん、独身でしたか」

 早苗はカチンときた。

「状況的に見てわかるでしょう?離婚した姉と、同じ苗字なんですよ?絶対、分かって言ってますよね?」

「まあ、落ち着いてください。とにかく、今は真人くんの幸せのことを考えましょう」

 大川は、至ってマイペースだ。それが早苗の神経を逆なでした。

「この子の幸せなんか、私には関係ないんですよ!私の幸せも考えて下さいよ!」

「でも、真人くんに、罪は無いんですから」

「じゃあ、私に罪があると言うんですか?私に何の罪があるんですか?」

「木戸さんは、ご自分で道の選択は出来るじゃないですか。真人くんは、自分では何も出来ないんです。代わりに我々大人が何とかして上げなきゃならないでしょう?」

「なんで、その大人に私が含まれなきゃならないんですか?それは行政でなんとかしてくださいよ!」

「でも、木戸さんは真人くんの親族ですから」

「ええー?何ですか、その理屈は?扶養の義務がある親族って直系三親等じゃないんですか?だいたい親族って言っても、全然付き合いが無いんですよ?私の知らないところで起きた問題に、何で私が巻き込まれなきゃならないんですか?私の人生設計はどうなるんですか?」

 大川は、少し驚いた。

「どういった人生設計をお持ちですか?」

「なんでそんなことを、ここで言わなくてはならないんですか!あなたには関係ない事でしょう!」

 早苗はそう言い捨てると、足早にその場を後にした。もう、誰も何も言わなかったが、背中には痛いほどの視線を感じた。



「大川さん」

 早苗の姿が見えなくなった後、先ほどの女性は呆れたように大川に呼びかけた。

「なに?」

 大川は、パーテーションの中の椅子に座ったまま、ぐったりとしながら答えた。

「なんで、最初から児童相談所の方に繋げなかったんですか?来たときから、明らかに引き取る意志なんか見られなかったじゃないですか?」

「ふふふ」

 大川は、薄ら笑いを浮かべながら視線を真人の方へ向けた。

「何でかねえ。何となくこの子がさあ、あの人と別れたくなさそうに見えてさあ…」

 真人はそれを聞いて、はにかんだように苦笑いをした。

「真人くんは、あの伯母さんが好きかい?」

「はい。でも、おばさんって言うと、早苗さんは怒りますよ」

 真人は、すかさず答えた。

「え?そうなの?ずいぶん厳しいね」

 大川は、身を乗り出して嬉しそうに聞き返した。

「はい。でも、とても優しくて心配性です」

「ずいぶん、難しい言葉も知っているんだね。誰に教わったの?」

「テレビとか、本とかです」

「ふーん?お母さんは?」

 真人の顔が、にわかに曇った。

「お母さんは…」

 そう言ったきり、うつ向いて真人は口を閉ざしてしまった。

「お母さんは?」

「…」

 大川が聞き返しても、何も言わない。

「そうか、おかあさんのことは話したくないか」

 大川は、小さくため息を吐いた。

「じゃあ、早苗さんのことを教えてくれないかな?」

 真人は顔を上げ、大川を見た。

「どういうふうに優しかったのかな?」

「僕の服をキレイにたたんでくれました」

「そう?それから?」

「それと、トイレをおしっこで汚しても叱らないで、よく我慢したってほめてくれました。それに、朝ごはんも作ってくれました。それに、歯の磨き方や、箸の持ち方も教えてくれました。あと…」

「あと、何?」

 真人は、うつ向いた。

「怖い夢を見た時に、僕の手を握ってくれました」

「そう?それは良かったね。うれしかった?」

 真人は、うつ向いたまま首を傾げて言った。

「なんか、恥ずかしかったです」

 大川は、思わず微笑んだ。

「そうか、男の子だもんな」

 大川には、同じぐらいの歳の娘がいた。娘はかわいいものだが、男の子もいいな、と思った。ただ、この程度のことをしてもらって、優しいと感じるのは、よっぽど純粋な心を持った子供なのか、もしくはこういうことをしてもらった経験が少なかったかの、どちらかであろう。

「じゃあさ、心配性っていうのはどういうこと?」

 真人の顔に笑みが戻った。

「昨日早苗さんが、僕の服を洗濯しに行くと言って出かけようとしたんですけど、その時僕に絶対に外に出るなとか、誰も入れるなとか、必ず帰って来るから心配するなとか、何回もいうんです。それと、今日ここに来るときも、ずっと僕の手を握りっぱなしだったんです」

「そう?真人くんはうれしかったの?」

 真人は少し考えてから、嬉しそうに大きくうなずいた。

「そう?真人くんは早苗さんが好きかい?」

 真人は再び大きくうなずいた。

「じゃあ、早苗さんと一緒に暮らしたい?」

 その問いには一度動きが止まり、笑顔が消えた。大川も一瞬不安になったが、真人は真面目な顔で大川の顔を見つめながら、ゆっくりと大きくうなずいた。

「そうか。分かったよ」

 大川は、笑顔でうなずき返した。




            *


 早苗はようやくバス停にたどり着いた。スマホを駆使して、何とか来るときに乗ったバスの帰りのバス停を見つけたのだ。危うくタクシーのお世話になるところだった。

 運よくバスはすぐに来たので、乗り込むとすぐに空いている席にどっかりと座り込んだ。

「疲れた」

 思わず声に出てしまった。全身の力が抜けたように、体が座席に沈み込んでゆく。怒涛のような夕べからの出来事が、早苗の頭の中を駆け抜けて行く。

「フッ…」

 不意に、早苗の口元に笑みがこぼれた。真人のあどけなさ、そして自分の慌てぶり。他人には見せられないような、恥ずかしい姿だった。ついさっきの市役所での大立ち回りも、早苗自身信じられない姿だ。早苗の黒歴史として封印しておくことにしよう。

 過ぎてみれば、みんな良い思い出だ。今はもう、晴れやかな解放された思いで一杯だ。朝来たときの、あのバスの中での胃の焼けるような焦燥感はまるで嘘のようだ。あの時は、絶対に見失ってはいけないと、必死で真人の手を握りしめていた。連れまわされる真人の顔は、戦々恐々としていた。

 ふと、早苗はその時握りしめていた真人の手の感覚を思い出し、自分の手を見つめた。恐ろしく小さく、しかしその分柔らかく温かい、なんとも不思議な感覚だった。考えてみれば、他人の手を握ったのは中学生のあの時以来だろう。真人の手の感覚と共に、時折見せる真人の笑顔が早苗の脳裏によみがえる。そして、頭を拭いてあげたこと、夜中に手をにぎってあげたこと、歯を磨いてあげたこと、などなど次々と思い出されて来ると、さっきまでの軽やかな心がにわかに重苦しくなった。


 バスを降りれば、慣れない道とは言え自分のテリトリーだから、自宅へはすんなり帰れる。通勤の道とは逆方向なので、アパートの裏手から帰ることになる。さっさと着替えて会社に行こう。そうすれば否が応でもいつもの生活に戻る。そこでリセットだ。そう言い聞かせつつ、いつもの階段を上る。

 階段を上ると、部屋の前に誰かいる。早苗の足の動きが鈍くなり、呼吸が浅く速くなった。

 現れたのは大人の男性と男の子。そう、大川と真人だった。

「なんで?」

 思わず口を突いて出た。

「すいません、タクシーで来ちゃいました」

 大川は照れ笑いを見せながら言った。

「そうじゃなくて、何でここに居るのかって言うのよ!」

 また怒鳴ってしまった。普段、怒鳴ることなどまず無いのに。

「いえ、もうちょっとお話したいと思いまして」

 大川は、意地悪そうな笑顔を見せながら答えた。

「話なんてあるわけないでしょ?私は昼から仕事なんです。帰ってください」

 早苗は、二人を押しのけてドアを開けようとした。

「まだ十時ですから、ちょっとなら大丈夫でしょう?お時間は取らせませんから」

「大丈夫かどうかは、私が判断することです!大丈夫じゃありません!」

 早苗はドアを開け、中へ入ろうとした。

「ちょっとだけお邪魔させてください」

 大川は、早苗が締めようとするドアに腕を差し込み、無理やり割り込もうとした。

「何言ってんの?知らない男を入れる訳ないでしょう?」

 早苗が押し出そうとするも、大川は更に体を割り込ませてくる。

「知らないって、さっき会ったばかりじゃないですか?」

「あんたのことなんて、名前と職業しかしらないわよ!」

「そう、僕は市役所の職員、怪しいものじゃないです!」

「公務員に怪しい奴がいないなんて、伝説にも昔話にも聞いたことないわよ!」

 どんどん声が大きくなって行く。急に、大川が声のトーンを下げた。

「あんまり騒ぐと、近所に変な噂が流れるんじゃないですか?ここはおとなしく入れるのが得策かと?」

 早苗の声と動きが止まった。呆気にとられるとはこんな顔を言うのだろう。

「そんなセリフ、ドラマの中だけか、と思ってた」

 しかし、すぐに般若の形相に変わった。

「ふざけるな!出ていけ!」

 早苗は大川を一気に押し出すと、素早くドアを閉めた。すぐに鍵を掛け、中に上がるとバッグからスマホを取り出し、さっきもらった大川の名刺を見ながら電話を掛けた。

「あの、朝そちらに伺った木戸ですけど、なんかお宅の大川と言う人がうちに乗り込んで来て大騒ぎしているんですけど、何とかしてもらえないですか?」

 早苗は、語気を荒げながら早口で言った。すると電話の向こうの年配の男性が、おどおどした情けない声で話し始めた。

「えっとですね。大川はなんかさっき、突然辞めるとか言ってここを出て行ったものですから、こちらではもうどうすることも出来ないんですよね。そちらで何とか解決して下さい」

 早苗は、何を言っているのか理解できなかった。

「あの、それってどういうことですか?」

「ですから、先ほど大川が自主退職したものですから、こちらとしてはもうどうすることも出来ないのです、と申し上げました」

「じゃあ、なんでこどもを連れているの?」

「はい、理由は分からないんですが、子供も一緒に連れて出て行ってしまったんですよね」

 早苗は頭が爆発しそうになり、思わず大声で叫んだ。。

「そんなの、すぐ警察に通報しなきゃダメでしょ!」

 そしてすぐに玄関に駆け寄り、勢いよくドアを開けた。すると、二人はまだ玄関前に立っていた。

「あんたいったい何考えているの!その子をどうする気なの?」

 ドアを開けるなり、大声で怒鳴ると、意に反して大川と真人はニコニコと笑顔であった。

「な?ちゃんと開けてくれただろう?」

 大川が真人にそう言うと、真人は嬉しそうに

「本当だ、おじさんすごいですね」

 と答えた。

 早苗が一人、置いてきぼりを食ったようにポカンとしていた。

「じゃあ、ちょっとお邪魔します」

 大川は、放心したように立ち尽くした早苗をかき分けるように、玄関の中に入り込んだ。



「じゃあ、改めまして…」

 大川は、勝手に上がり込むと正座をして、早苗の方を向いた。

「先ほどは、大変失礼をいたしました」

 大川は、そう言いながら早苗に向かって深々と頭を下げた。いつの間にか隣には真人も座っている。早苗は静かにドアを閉めた。そして締めたドアに寄りかかりながら、静かに口を開いた。

「なぜあなたはそこまでして、私にその子を押し付けようというのですか?そこまでする理由は何ですか?昨日もその子に言いました。その子のことは、別に嫌いでも好きでもないです。ただ、私にはその子を養うだけの能力がないんだと。それに、私が養ってあげなければならない義務もないはずです」

「確かにそうなんですけれども、真人くんのことを考えると、親族である木戸さんと暮らすのが一番だと思うんですよね」

 早苗は頭を抱えた。

「なんでそうなるの?何も私でなくても、この子の祖父母がいるでしょう?」

「ええ、木戸さんのご両親ですね?」

「そうですよ。可愛い娘の子供なら、喜んで育てるでしょうよ?」

 大川は顔を曇らせ静かに言った。

「ご存じないようですが、木戸さんのご両親は、もうお亡くなりになっています」

 早苗は息をのんだ。

「え?なに、言ってる、んですか?」

 思わず言葉に詰まった。

「はい。七年ほど前になります。交通事故だったそうです。かなり大きな事故でしたので、ニュースでも報道されていました。お疑いでしたら、住民課で調べて見て下さい」

 大川は、至って真面目であった。早苗は時間が止まったように感じた。

 まったく思いもしない答えであった。ここにはテレビはあるが、テレビの番組はほとんど見ない。新聞も取っていない。インターネットでもドラマや映画ばかりを見ている。ニュースとは無縁である。親の死を、七年間も知らずにいたことになる。当然と言えば当然。ある意味自分もそれを望んでいたはずだ。親とは他人になったつもりでいたはずなのに、親の死を知り動揺する自分が意外だっだ。

「真人くんの親族は、お母さんと早苗さんだけです」

「父親がいるじゃないですか?」

 早苗は何とか逃げ場を探した。

「真人くんのお父さんについてはまだわかりません。しかし、香奈恵さんは笹本さんと籍を入れていないようなんです」

 香奈恵と笹本の関係については、早苗には全く分からない。意図的に目を逸らしていたのだから。

「では、なおさら市の方で取り計らっていただかないといけないですね」

「はい、他に方法が無い場合は、そう致します」

「私には無理だと先ほどから申しております!」

「もちろん、施設でも子供は問題なく育ちます。しかし、施設にも限界があるんです。やはり、家庭という環境には敵わないんですよね」

「それじゃあ、私にこの子の為に自分の人生を犠牲にしろと言うんですか?私はそんな人格者じゃない!」

 早苗は、憤りを抑えつつもその声が荒れるのを抑えることが出来なかった。

「私は、私なりに自分の今と将来のために、精一杯生きてきたんです。高校を出てから、地域にも社会にも周囲の人にも迷惑を掛けないようにしてきたつもりです。この子の不幸な境遇だって私に責任があるわけじゃありません。この子の母親と父親のしでかした問題じゃないですか?なぜ私が、その尻拭いをしなきゃならないんですか?例えば、私があの女に何か恩義のようなものがあれば、考える余地はあるかもしれないですけど、私には、恨みと憎しみしかないんですよ。正直、その子の顔を見るのだって辛いんですよ!」

 早苗が思いを吐き出しきると、暫しの静寂があった。ただ、早苗の激しい呼吸の音だけが聞こえていた。

「いろいろ、お有りだったようですね。お姉さんと」

 大川が、重苦しい空気をかき分ける様に口を開いた。

「ええ、まあ、いろいろと」

 早苗は、何となく気まずいものを感じながら、ぼそりと答えた。

「でしたら、木戸さんが一番真人くんの気持ちが分かるんじゃないですか?」

 大川が、痛い所を突いてきた。早苗が敢えて避けてきたことだ。

「お姉さんが特殊な方であろうことは、お話からお察しします。でも真人君は、そういう方を母親に持って、八年間もその監視の中に居たんです。どういう生活だったか、木戸さんなら分かって上げれるんじゃないのですか?心の傷を癒してあげられるんじゃないですか?」

 それは、早苗も薄々気づいていたことだ。しかし、敢えて気付かぬふりをしてきた。だから、どんな生活をして来たのか、どんな母親だったのか、詳しい内容を踏み込んで訊ねないようにしていた。知れば、どんどん感情移入をしてしまうことを知っていたから。

「でも…、それは…できません」

 それをしてしまうと、自分自身が崩壊してしまいそうだった。早苗は今まで、忘れることで自分を保ってきた。思い出せば、姉に対する恨みや憎しみ、恐怖に支配され、歩くことが出来なくなりそうだから。

「木戸さんなら、真人くんを愛することが出来ますよ」

 早苗は真人を見た。憎い自分の姉の子であると同時に、自分が初めて愛した男の子供。しかしその男は、早苗に最も辛い裏切りを与えた男である。そんな男の子供を、自分に愛せるはずは無いように思えた。ただ、考えようによっては、この子は早苗と同じ人間に捨てられた同じ穴のムジナとも言える。

「私は」

 早苗がつぶやくような声で話し始めた。

「もう誰にも知られず、ひっそりと生きて行きたい。何もいらない。衣食住に不自由しなければ、それ以上何も求めない。そう思って、今を生きています。一人で生きるのは簡単ではないとは思います。だから万一のためにお金を貯めて、保険に入って、老後のために年金保険も入って、将来なるべく迷惑を掛けなくて済むように準備しています。今はだれにも相手にされないけど、将来、老人介護施設に入ってしまえば、孤独死みたいなことも避けられるし、誰かに迷惑をかける心配もないでしょうから」

 早苗は、一旦言葉を止めてから大川を睨んだ。

「それなのに、こんな子供を引き取ってしまったら、そんな将来の準備なんか出来ないじゃないの?私の人生を、あんな女のために壊されてたまるもんですか!」

「早苗さん」

 突然、今まで黙っていた真人が口を開いた。

「僕が大きくなって大人になったら、仕事して、お金を稼いで、早苗さんのお世話をします。必ず、絶対にです。だから、子どものうちだけ、僕の世話をしてください。お願いします」

 真人の声は大きく、はきはきとし、ゆっくりと丁寧に、まるで台本のセリフを読むようであった。到底八歳の子供とは思えない。早苗は呆気にとられた。

「あんた、歳いくつなのさ?」

 早苗は皮肉を込め、あざけるような冷やかな笑みを浮かべて聞いた。それに対し、真人はちょっと考えてから答えた。

御八歳おはっさいです」

「!」

 早苗が目を丸くした。

「あんた、そんな言葉どこで覚えたの」

 御八歳。それは早苗にも聞き覚えのある言葉だった。しかしそれは、こんな子供が知るはずもない言葉だ。おそらく早苗の知る限り、日常会話で使うはずのない言葉である。

「お母さんがそう言えって言ってました」

「まさか」

「お母さんが少し前に、これから一年間、歳を聞かれたら『御八歳』と答えなさいって言ってました」

 早苗はゴクリと喉を鳴らした。

「それ、意味は知っているの?」

「歳が八歳のことですよね?」

 早苗の顔は、疑問だらけだった。

「なんであの女がそんな言葉知ってるんだ?落語なんか知りもしないくせに…」

 早苗が唯一その言葉を聞いたのが、落語の中でである。それもおそらく、それほどメジャーではない演目の。

 早苗は、早苗の父親が落語好きだったことから、幼いころから落語に馴染んでいた。対して、オシャレで華やかなものが好きな香奈恵は、落語などは無関心であったので、落語の話をするときだけは、父も喜んで早苗の方を向いてくれたのだった。言い換えれば、早苗が父親と強い接点を持つことが出来たものが、落語だけだったのである。それ以外はすべて香奈恵を中心として回っており、早苗はいつも蚊帳の外にいたのである。

 笹本と親しくなれたのも、落語を通してだった。笹本も、落語好きだったのだ。おそらく香奈恵は笹本を通して落語に縁を持ったのだろう。また一つ、香奈恵に早苗の大切なものを奪われた気がした。

「やっぱり、無理です」

 早苗の声は、先程とは打って変わった弱気な声だった。

「この子のことは、見られません。この子のことを見るようになって情が湧いて、もしそこに何か幸せのようなものを感じるようになりでもしたら、絶対にあいつが戻って来てこの子を奪っていくんです。分かっています。そうなんです。あいつはいつもそうなんです」

「まさか、そこまでは考えていないでしょう」

 大川は呆れたように言った。

「考えている、いないではなく、それがあの人の習性なんです。私から大事なものを奪っていく。あの人に係わっているうちは、私に平穏も幸せも来ないんです」

 大川はため息を吐いた。早苗は静かに言った。

「とりあえず、もう帰ってください。私は会社に行かなきゃならないので。この子のことはお任せします」

 早苗は、玄関のドアを開けて出て行くように促した。

「じゃあ、とりあえず戻ります」

 大川は、仕方なく真人の手を引いて外へ出た。

 早苗は、ドアを閉めるとドアに寄りかかったまま、じっとしていた。その顔は固く引きつり、膝が小刻みに震えていた。頭の中も、胸の奥も嵐のように渦巻いていた。大声で叫び、部屋の中を破壊してしまいたい衝動に駆られた。しかし、その思いはグッとこらえ、倒れるように膝をつき、両手で一度床を叩くことだけで抑えることが出来た。こんなにも自分が攻撃的であったとは、早苗自身も知らなかった。




            *


 「心ここに有らず」とは、今の早苗のことだろう。

 職場に着いても仕事が手に着かなかった。何をやっても真人のことが頭に浮かんできてしまう。真人の笑顔、手の温もり、必死な声。嫌悪感ではない。頭から離れない。常にそのことばかりが気になり、同じことを何度も、そしてより深く考えてしまう。こんな感覚、以前にも感じたことがある。中学の頃、笹本と付き合い始めたころだ。笹本と親しくなり、交際を始めた頃、笹本のひとつひとつが頭から離れなくなっていた。感情のコントロールが出来ない。涙が溢れそうになる。考えがまとまらない。

 周囲の同僚たちの戸惑いが肌にひしひしと感じられる。

―あの子を引取りたいんだろうか?―

 自分の心に浮かび上がる謎の疑問。いや、そんな筈がある訳ない。自分は子供が嫌いだ。それは事実だ。それに子供だけではない。他人が周りにいるだけで鬱陶しくて仕方がない。そんな人間が人の言葉もろくに理解できない子供なんかと一緒に暮らせるわけがない。


「木戸さん、ちょっといいかな?」

 案の定、砂田に声を掛けられ応接室に呼び出された。厳重注意かと早苗は覚悟した。

「まあ、座りなさい。緊張しないでいいからね」

 しかし、意に反して砂田の態度は非常に温和だった。

「何かあったんですか?」

 口調は至って静かだが、ストレートな切り口だ。

「夕べの突然の電話と言い、出社してからの挙動不審な様子と言い、明らかにおかしいから」

 早苗には弁解の余地が無かった。

「いえ、大したことは無いんですが、ちょっと、プライベートで心配事がありまして」

 プライベートという言葉は、これ以上踏み込ませないためには結構効果的な言葉だ。

「プライベートねえ…」

 予想通り、砂田も踏み込めずにいる。

「まあ、木戸さんは今まで特に問題もなく来ましたからねえ…」

 砂田は、小さくため息を吐いた。それに気づいた早苗は、なぜここでため息かと思い、つい砂田の顔を見た。砂田の顔は「困った」という表情だった。

「でもねえ、人間生きているからには、望まざる問題や事件というものは、必ず起こるものなんですよ。それは、人生が自分の思い通りに行かないものである以上、仕方のない事なんだよね。まあ、その大部分は、人知れずそっと自分だけで解決できるものなんだけど、中には自分一人じゃどうにもならないことも出てくるんだよ。そういう時はねえ」

 砂田は、少し間を置いてゆっくりと言った。

「周囲の人に助けを求めても良いんだよ」

 早苗はゴクリと喉を鳴らした。

「それは、具体的に何か手伝ってもらうだけじゃない。時間を貰うとか、話を聞いてもらうとか、間接的なことでもいいんだ」

 砂田は優しく微笑んだ。

「みんなそうなんだよ。病気なんかで体調を崩したときや、家族のことで問題や、おめでたいことがあった時なんかそうだよね?家族の都合で休みをもらうとか、決して悪い事じゃないよ。いいかい?木戸さんもこの会社に入って、もう十年以上だろう?その間、何度も会社のために無理をしてもらったことがあったと思う。残業や休日出勤とか、木戸さんとは関係ない事で取引先に叱られたこともあるだろう?だから、会社にも木戸さんのために無理をする道理があると思うんだよ。だから、なにか事情があるんだったら休んでも良いんだよ?有休もたくさん余っているでしょう?もちろん、木戸さんに休まれるのは会社としてはキツイけど、みんなでカバーできるし、それに対して文句を言える人間は、今のこの会社にはいないと僕は思うんだ。僕としても早くその問題を解決して、もとどおりの木戸さんに戻って仕事に就いてほしいから」

 言い終わると、砂田は静かに早苗を見つめた。早苗は視線を逸らし、もじもじしていた。間が持てず、ちらりと砂田を見ると、まだ優しい目で早苗を見ていた。

「あの、実は」

 早苗は、成り行き上仕方なく、夕べからの顛末をかいつまんで話した。

「お姉さんの子供かい?」

 砂田は、驚きの表情になった。

「いや、それは驚いた。僕はてっきり恋愛の問題かと思っていたよ。急に話し始めるから、どうしようかとドキドキしてたよ」

「え?相談しろって言うことじゃなかったんですか?」

 早苗は、拍子抜けした声で言った。

「いや、僕は少し休みを取ったらどうか、という意味で言ったんだよ」

 砂田は、笑いのこもった声で答えた。

「恋愛のことで、会社を休めと言うんですか?」

 早苗の驚きのこもった言葉に、砂田も驚きを込めて言った。

「おいおい、何言っているんだよ。今、家族のことで休むこともあるって言っただろう?じゃあ、家族のない人、独身の人なんかどうするの?独身の人は、家族を作らなきゃならんでしょう?恋人は家族の候補でしょ?だから、恋人とのことは家族のことと同じくらい大事なんだと思うよ?」

 変わった考え方をする人なんだと、早苗は感心した。思えば、十年以上この人の下で働いているが、仕事以外のことで話をした記憶がない。まあ、早苗自身がそれを拒否してきたのだから当然ではあるのだが。

「それに関しては、僕が出しゃばったことを言える立場じゃないから、木戸さん自身が良く考えて決めるように、としか言えないね。確かに、女性一人で子供を育てるのは大変なことだから、安易に引き取ることはお勧めできないよね。今僕が言えるのは、もしその子を引き取ったとすると、会社として、何ができるかと言うことなんだけど…。会社からは扶養手当が少し出るかな?でも、大した額じゃないし、あと、お子さんの入学進学には会社からお祝い金が出る。ただ、これは申請しないと出ないから、忘れずにするように。あとは、年末調整で扶養控除があるくらいかな?実際考えて見ると、家族が増えるのはあまりメリットがあるとは言えないよね。未婚率が上がり、出生率が下がるのも当然だわ」

 砂田のため息とともに、会話が止まり沈黙が続いた。

 しばらく会話が止まり、早苗が時間を持て余し始めたころ、突然砂田が口を開いた。

「よかったら、その子に合わせてもらえないかな?」

 早苗は突然の言葉に、その意味が理解できなかった。

「いや、この歳になると、子供がかわいくてねえ。自分の子供はもうデカくなって、かわいらしさのかけらもない、と言うか文句しか言わないからさあ」

 砂田は悪戯っぽく笑った。



            *


 大川は、早苗のアパートを出ると、真人を連れて自宅へ戻っていた。

 大川の自宅は、早苗のアパートの近くの賃貸マンションの三階だ。こんな近くに、木戸早苗が住んでいるとは驚き以外の何物でもない。大川は、てっきり早苗は市外に出て行っているものだと思っていたからだ。

 真人を連れて、強引に職場を早退してしまった大川だったが、出世を遅らせてでもやりたいことがあった。

 家には、大川の妻がいた。今は専業主婦だが、娘の志乃が小学二年になったのを機会に、そろそろパートに出ようかと考えているところだ。

「え?どうしたの?仕事は?」

 妻の真由美は当然のごとく驚いた。真由美は大川と同い年の三十一歳、中学の同級生だった。

「うん、ちょっと休暇を取った」

「え?どこか具合が悪いの?」

 真由美がそう言ったところで、大川の後ろから出てきた男の子を見て動きが止まった。

「え?誰?どこの子?えー!可愛い!」

 思わずしゃがみ込んで、撫でまわし始めた。

「何?あなたの隠し子?」

「んな訳ないでしょ!」

「だろうね。そんな甲斐性ないもんね」

「ああ、そうだよ!」

「で、真面目な話どうしたの?この子」

 真由美は怪訝そうに大川を見上げた。

 大川は、スーツ姿のままソファーにどっかりと座り込んだ。

「木戸早苗って覚えているか?」

 大川の口調は真面目なものだった。その雰囲気と出てきた名前で、ちょっと訳ありなことが真由美にも理解できた。真由美は眉をひそめた。

「木戸早苗って、中学の時の?」

 それは、真由美の記憶にもすぐに蘇る名前であった。

「木戸の子供?」

 真由美の顔には、もはや笑顔は無かった。

「いや、木戸早苗の姉の子供」

「木戸の姉って、あの、笹本の?」

 真由美の顔は、驚きに変わっていた。

「やっぱり君も、忘れられないか」

「何があったの?」

 真由美が深刻な声で尋ねてきた。

 大川が少し考えてから、リモコンを取りテレビを点けた。

「ねえ、志乃のビデオが有っただろう?」

 そう言いながらテレビの横にある棚を探し始めた。

「ああ、これなんかいいんじゃない?」

 察した真由美がアニメ映画のDVDを取りだした。

「真人くん、ちょっとアニメでも見ててくれないかな?その間にこのおばさんがお昼ごはん作ってくれるから」

「はい、分かりました」

 真人は、事情を察したかのように素直であった。大人の会話に係わってはいけないことは十分知っていた。

「でもおばさんっていう言い方は良くないって、早苗さんが言ってましたよ」

 その一言に、真由美は吹き出した。

「いいのよ、おばさんはおばさんなんだから」

 真由美は笑顔で台所に向かった。大川は真由美の後に続き、台所の入口に寄りかかりながら、真由美と真人の両方に視線を送りつつ、今日あった出来事を話し始めた。

 真由美は料理をしながら、その話を黙って聞いていた。


「じゃあ、木戸は結婚する気は無いって言っていたんだ」

 大川の話を聞き終わって、真由美はやるせない感じでそう言った。

「うん、そうだね。結果的にそうなるね」

 大川も力なく答えた。

「私さあ」

「うん?」

「木戸のこと、ずっと心に引っかかっていてさあ」

「どういうこと?」

 真由美は、言いづらそうに言葉を選びながら話し始めた。

「あの娘、性格はとってもいい娘だったのよ。優しくて、思いやりがあって。でも、内気でおとなしくて、ちょっと冴えない子だったから、女子の間でもちょっと見下されていたんだよね。もちろん誰も口には出さないよ。でも態度ではみんなから見て取れたよ。そんな木戸が、笹本と付き合いだしたじゃない?大事件よ。女子のヒエラルキーが一気に崩壊したのよ。笹本ってさ、はっきり言ってレベルが高かったじゃない?男子の中でもイケているっていうか、いわゆるイケメンでさあ、性格も明るくて話も上手でさあ」

「うん、わかるよ」

 大川が合いの手を入れた。

「女子のみんなが笹本に気が合ったわけじゃなかったんだけど、レベルの高い男子という点では一致していたと思うの。そんなハイレベルの笹本が、あの木戸ごときと付き合うなんてって言う、いわゆるあれは完全に嫉妬とか、妬みとか言うものだよね。誰も口には出さないけど、みんな心の中で嫉妬の炎を燃やしていたわけ。そしたら結果、ああいうことになったでしょう?みんな、溜飲が下がったというか、内心、大喜びだったわけさ。ひどい話だよね、女の嫉妬は」

「女だけじゃないよ、嫉妬が怖いのは」

「でも、本当なら慰めたり、愚痴を聞いてあげたりいろいろするでしょう?だって自分の彼氏を自分の姉に取られたんだよ?学校でも家でもそのどちらかに絶対合わなければならないわけでしょ?本人は地獄だよね?でも、クラスの女子は、みんな木戸のことを嘲笑ったんだよね。誰も慰めたり励ましたりしてあげないで、笑いものにしていたんだよ。これはもう苛めだよね。残酷すぎて話にならないよね。まったく、嫉妬は恐ろしいわ」

 料理をする真由美の目からは涙が溢れていた。

「しばらくして、私たちもやりすぎたことに気づいて、木戸に謝ろうとしたんだけど、その時にはもう、木戸は変わってしまっていた。木戸の心は閉ざされていて絶対に開いてくれなかったの。あの娘は周りがすべて敵になったと悟ってからは、自分から孤立の道を選んだのよ。授業以外では誰とも口を利かなくなったの。休憩時間もずっとイヤホンをして何かを聞いていた。無理やり話しかけても殺意のこもった目で睨んで出て行ってしまって。まるで、鉄の壁みたいだった。固くて、冷たい。でもあの娘はすごかった。絶対に学校は休まなかったんだ。休んでくれれば私も気が楽だったけど、あの娘は絶対に休んでくれなかった。みんな誰も木戸と話したりしない、いや、出来なかった。みんな木戸が怖かったんじゃないかしら?木戸がいると教室の空気が張り詰めるから、自然と木戸はいないことになったの。つまり、無視というやつ。それでも木戸は変わらなかったの。本当に強い人だったんだと思う」

 真由美の手が止まった。肩で息をしている。

「あの娘を変えたのは私よ。あの娘は優しい、いい娘だった」

 真由美がさめざめと泣き続けた。大川は、大きくため息を吐いてから口を開いた。

「何となくそれは感じたよ、俺も。とにかくあの時のクラスの雰囲気は、異常だった」

 大川は、ちらりと真人の様子を見て、アニメに夢中になっているのを確認すると、真由美の方に視線を移した。

「木戸ってさあ、男子に結構人気があったの知ってた?」

 真由美が、泣きはらした目で大川の方を振り向いた。

「何それ?」

「いや、それがね、木戸が笹本と付き合い始めた後、そんな奴がちょこちょこ現れてさ」

 大川は、思い出し笑いをするようににやけた。

「男にも変なプライドっていうか、変な意識があるみたいで、可愛くない女子を好きになるのは恥ずかしい?みたいなことがあるらしくてさ。君も言っていたように、木戸は地味だけど性格はいい娘だろう?それは男子の中にも認めている奴がいたんだ。で、木戸に対して興味はあるし、付き合いたい気持ちはあるんだけど、可愛くない…」

「ブスって言いなよ、はっきりと」

「そう、そういう女子に、自分から告白するのも何か体裁が悪いみたいな?そんな葛藤があるところに、笹本が木戸と急接近して付き合い始めちゃっただろう?みんな、落胆したらしいよ。その時点で木戸をどうかしようと思っても、笹本には敵わないからね」

「本当?誰なのそんなだらしない奴って?」

 真由美はあきれ顔で聞いてきた。

「松山とか、村田とか、あと溝口もそうなんだよ。口を割ったやつで三人だから、もっといたかも知れないね」

「溝口って、あの溝口?」

「そう、あいつ。あいつ結構イケメンなのに結婚しないの、まだ、木戸の事引きずっているのかもよ?」

「まさか!」

 真由美は笑い飛ばした。

「ところであなたはどうだったの?」

「何が?」

「とぼけないでよ。木戸のことどう思ってたの?」

「ははは、俺は当時から君一筋だったよ」

「何言ってるの、高校卒業してから再開した時、最初分からなかったじゃない」

「ははは、そうだったっけ?」

「ところで、木戸の反応はどうだった?」

 真由美の言葉に、大川の顔が真顔に戻った。

「俺を見た時の反応かい?」

「そう、嫌がってた?」

 大川の表情が暗くなった。

「全く気付かなかった」

「え?全然?」

「うん。顔を見ても、名前を教えても無反応だった。笹本の名前が出た時は、ちょっと雰囲気が変わったけど、何も言わなかった。まあ、おそらく知らないふりをしていたんだと思う」

「え?じゃあ、あの娘、私たちのことは忘れちゃってるの?」

「まあ、全部っていう訳じゃないと思うけど。ただ、あいつ自分の親が死んだことも知らなかったみたいなんだ」

「えー?だって、あんなに大きくニュースにもなったのに?親戚の人とか、お姉さんとかも、連絡しなかったって言うの?」

「おそらく、誰とも連絡を取り合っていなかったんじゃないかな?」

「じゃあ、笹本のことも?」

「うん、おそらく」 

「ところで」

 突然、真由美が大川の方を振り返った。

「出来ちゃったけど、料理。どうする?取り敢えず有るもので作ったから、煮込みうどんになっちゃった」

「この暑いのにかい?」

 大川が顔をしかめた。

「文句言わないの!すぐ食べるよね?」

「ああ、そうしよう」

 大川も、慌てて答えた。

「真人くんもお腹すいているだろうから」


 真人は、アニメに見入っていた。

「面白いかい?」

 二人が、うどんを運びながら愛想よく声を掛けると、真人は笑顔で振り返り、元気よく「はい」と答えた。大川は、その笑顔を見て少しほっとした。大川自身、今こうしていることが本当に正しいのか自信が無いのだ。ただ、偶然とも言える早苗との出会いに、いつも通りのマニュアルに沿った対応だけではいけないような気がしただけだった。

「うどんなんだけど大丈夫だった?」

 真由美が自信無さ気に言った。

「ぼく、何でも食べます!」

 元気よく、嬉しそうに答えてはいるが、その内容はどう解釈していいものなのか大川も真由美も複雑な気持ちだった。

「熱いから、気を付けてね」

「はい!」

 返事をしながら、真人は箸の持ち方で苦戦している。

「大丈夫?」

 真由美が心配すると、

「大丈夫です。今、箸の持ち方を練習しているんです」

 と答えた。

「そうなの?立派ねえ」

「はい。早苗さんが、将来のために箸はちゃんと持てるようにしなさいって言ってました」

「いつ、そんなこと言われたの?」

 真由美が不思議そうに聞いた。

「うーん、今日の朝です」

 二人の不可解そうな顔をよそに、真人はぎこちない箸使いでうどんと戦い始めた。

―これから、どうしたものか?―

 うどんをすすりながらも、大川の心は休まらなかった。


 食べ終わった真人は、すぐにアニメの続きに入った。女の子用のアニメだが、思いのほか気に入って見ている。

「俺と笹本が、仲良かったのは知ってるよな?」

 アニメに夢中な真人の後ろで、ソファーに座った二人は小声で話し始めた。

「うん。溝口とかといつも三、四人集まっていたよね」

「あいつ、見かけはチャラいけど、意外と誠実でいい奴なんだ。だから女子だけでなく、男の間でも人気はあったんだよな。俺もあいつのことは好きで、向こうも気に入ってくれていたと思う。それであいつとは、結構本音で話していたんだよね。でも、あの事件の少しあとから、俺に対してもちょっとよそよそしくなったんだ」

 少しの沈黙があった。

「実は俺、君にまだ話していないことが有ってさ」

「え?なになに?」

 突然のカミングアウトに真由美はあせった。

「実は、あの時笹本が俺に話してくれたんだ。あいつの気持ちを」

「笹本の気持ち?」

「うん、あいつも自分がどう言われていたかは知っていたから、俺には、本当のことを知ってほしいって。あいつも辛い立場だったんだよ」

「ええ?どういうこと?ちょっと教えてよ」

「うん、あいつが言うには、あいつは木戸のこと、これは妹の早苗の方な。そっちの方を本気で好きだったんだと。木戸のお姉さんのことは、噂には聞いていたけど感心なんか無かったんだって。それで、たまたま木戸の家に行ったときに、なぜかお姉さんがいたらしくて、木戸自身もなぜいるか驚いてうろたえていたんだと。木戸は、その日お姉さんがいないと思って笹本を連れて行ったらしいんだ。で、その日はお姉さんに挨拶だけして、そのあとは木戸と二人だけでいたんだと。ところがその後、なぜかお姉さんと偶然会うことが多くなって、そのうちにお茶とか誘われるようになって、それでだんだん関係が深くなって行って、ついに一線を越えちゃったらしいんだ。笹本も、始めのうちは距離を置くように努めていたんだけど、しだいにお姉さんの誘惑に勝てなくなって行ったらしいんだ。笹本は何度も言っていたよ。俺は木戸が好きだった。本気だったと」

「でもさあ、本気だったら最後まで拒否出来たんじゃないの?」

 真由美は呆れた口調で言った。

「それに関しては、本人も言ってたよ。自分に隙があったからだろうとか、なんで最後まで断り切れなかったんだろうかと。そんな思いがあって、結局自分が木戸を裏切ってしまったんだから、何も弁解はできないとか」

 大川は、ため息を一つ吐いて話をつづけた。

「でもさあ、考えて見ろよ。当時まだ中学三年だぞ?まだまだ子供が抜けきらない頃だろ?対して相手は高校二年だぞ?高二の女子と言えば中三の男子から見ればもう大人だし、かなりの美人だったと言うじゃないか。そんなのを相手に、それを求めるのは酷と言うもんだろうな。それに笹本によれば、そのお姉さんは非常に頭がいいらしいんだ。常に笹本の先へ先へと先回りをして、逃げ場をなくして行くらしいんだ。まあ、もともと笹本が女慣れしていなかったって言うのもあるんだろうけどな」

「え?そうなの?モテていたじゃない?」

「ああ、女子の人気はあったけど、なぜかあまり付き合ったっていう話は聞かなかったんだよなあ。ちょっと理想が高かったのか、奥手だったのかは分からないけど」

「じゃあさ、ひょっとして笹本も木戸がはじめてだったのかな?」

「うん、何回か付き合って欲しいって告白してきた女子はいたように思う。でもなぜかあいつは断っていたはずだ。結局、心にハマったのは木戸が最初だったんだろうな」

「でもねえー。木戸のどこが良かったのかねえ?」

 真由美は納得のいかない感じだ。

「女子から見た木戸はどうだったの?」

 大川は、ふと気になり聞いてみた。

「うーん、そうねえ。どうだろう。何ていうか、パッとしない目立たない娘だったよね。悪い娘じゃないし、嫌なタイプじゃないけど何か物足りない感じって言うか…」

「ふふふ、俺もそれには異論ないんだけど、笹本の意見は違ったよ」

「え?笹本?」

 真由美の反応に、大川は薄笑い浮かべていた。

「あいつが木戸と付き合い始めたころ、木戸のどこが良いかって話になったんだ。あいつはまず、木戸の笑顔が可愛いって言ってた。それと、木戸と話していると、ものすごく落ち着くんだって言ってたよ。何を話しても優しく受け止めてくれてすごく癒されるって…」

「ふーん?それはちょっと意外かな?」

「それと、木戸は優しさと冷たさの両面をもっている、とも言ってた」

「ふーん、どう言うこと?」

「うん、木戸は何かお願いしても、結構な率で断ることが多かったらしいんだ」

 真由美はそれを聞いて納得したようにうなづいた。

「そう、それはあった。ケチだって言ってる娘もいたよね」

「でも笹本は、本当に困っている人には木戸の方から声をかけて手伝ったり、助けたりしていたって言っていた」

「え?そうなの?」

「うん、それは俺も感じたことがあった」

「え?そうなの?」

 真由美の反応に、大川は思わず吹き出しそうになった。

「うん、詳しい事情は分からないんだけど、他の女子が先生に呼ばれて何か問い詰められているのを見かけたことがあったんだけどね。その子は何か弁解しているようだったんだけど、先生は機嫌が悪い感じでその子にずっと何か言っていたんだ。そこに木戸が仲裁する感じで加わって来て、先生に何かを話したら先生も納得して、その子に謝る感じでその場を去って行ったんだよね。その後、その子も木戸に嬉しそうにお礼を言っている感じだったんだ。それを見たとき、俺もなんか意外な感じがしたのを覚えてる」

「あー、それはあるかもね」

 真由美は、思い当たるようにうなづいた。

「笹本がそのことを木戸に聞いたら、木戸は『ただ、ずるい人が嫌い』だと言っていたそうだよ」

「なるほどねー」

「それと、木戸が『人が生きるのは、権利じゃなくて義務だ』って言ったの覚えてる?」

「ああ!言った言った!教室の空気も、先生の顔も凍り付いたんだよね」

「そう、そう、あれなんの時間だったか覚えてないんだけど、きっと先生もいい話をしようと思って始めたんだと思うんだけど、先生が『生きる権利云々』言い始めた途端、木戸が手を挙げて発言したんだよな?『生きるのは義務だ。権利なら放棄することが許されるはずだ』って感じで」

「そうだった、そうだった。その一言で先生の言葉が止まって、その後は木戸の意見について、と言うか木戸の性格についてボロクソに言って終わったんだったよね」

 真由美は愉快そうだった。

「笹本が木戸に興味を持ったのは、それがキッカケだったらしいよ。それで、付き合いだしてから、なぜあの時あんなことを言ったのか、理由を聞いたんだと。そしたら、特に理由は無かったって言ったんだって。ただ、前にそういうふうに考えたことがあったから、権利だったら放棄していいのか?っていう質問のつもりで言ったんだけど、まず、先生の話を聞いてから質問するべきだったと反省したとのことだった」

「そんな短絡的なところもあったんだ」

「でもね、笹本はそれが本音には聞こえなかったと言うんだ。それでしばらくして、二人の関係がかなり親密になって来た頃、改めて聞いたんだと。そしたら、その時の答えが衝撃的だったらしいよ」

「なんだって?」

「うん、それがね…」

 大川は苦笑いをした。

「あいつ教えてくれなかった」

「何よそれ、気を持たせといて」

「俺も同じこと言ったよ、笹本に」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「ふーん?じゃあ、意外と見かけによらない所があるのかねえ」

「うん、そうかもね。俺も今日会ってみて、別の意味でそれを実感した」

 大川は、しみじみと言った。

「今日の木戸は、俺の記憶にある木戸とは全然違った」

「それ!それ!どうだったの?どんな感じだったの?」

 真由美は、興奮気味だった。

「正直、最初会ったときは誰だか分からなかった。見た感じも、雰囲気も、話し方も全然違ってた。名前を見て改めて見直したら、確かに面影は残っていたね」

「どんな感じだったの?見た目は」

「そうだね、まあ、ひと言で言えば大人っぽくなっていたかな?まあ、我々も含めて当然なんだけどね。それにちょっと、垢ぬけて見えたっていうか、昔の野暮ったさが消えたと言うか。ほら、木戸も社会人だし、化粧もすれば、服装も気を配るだろう?みんな変わるんだよ。中学の頃とは違うんだよ。君も会って見たら驚くよ、きっと」

「ふーん?」

「それに、話し方もけっこう攻撃的で、自分の考えや事情ははっきりと主張して来た」

「そうなんだ。それは意外かな?」

 二人の会話が止まり、何となく、アニメに夢中になっている真人の後ろ姿を眺めていた。

「で、どうするの?この子」

 真由美が、決意したかのように言い出した。大川もやはりその話になるか、と腹をくくった。

「俺としては、木戸に引き取ってほしいと思ってる。この子も、それを望んでいることは確認しているし」

「でも、木戸は拒否しているんでしょう?」

「そうなんだよね。だから、困っちゃっているんですよ」

 大川はソファーの背もたれに寄りかかり天井を見上げた。

「無理なんじゃないの?木戸には、この子に良いイメージなんかないんじゃないかな?かえって二人にとって不幸な結果になるんじゃない?」

 真由美の言うことも一理ある。と言うか、その考え方が当たり前なのだ。

「それはそうなんだけどねぇ」

 大川は、静かにため息を吐いた。

 そこに大川の携帯に着信が入った。見ると、登録されていない番号である。固定電話だ。業務関連の電話の可能性があるので、ためらわずに出た。

「はい、大川です」

 電話の向こうから、聞き覚えのない年配の男性の声が聞こえた。

「突然お電話差し上げて申し訳ありません。市役所の方にお掛けしたら、直接掛けて下さいと申されまして、お電話番号を教えていただきました」

 電話の向こうの声は、いたって落ち着いた静かな語り口である。

「ああ、それはご面倒をお掛けしました。急な用が出来たもので休暇を取ったものですから」

「あ、休暇でしたか。お辞めになったとお聞きしたものですから、驚いていたんですけど」

「ああ、そうですか、ちょっといろいろ事情がございまして、話が複雑になって…」

 と、言いかけている所へ、電話の相手は割って入ってきた。

「ひょっとして、うちの木戸のことでご面倒をお掛けしているのではないですか?」

「え?」

 大川は、驚きで言葉を失った。

「申し遅れました。私、今朝、市役所でお世話になった、木戸早苗の職場の上司をしております、砂田と申します」

 大川は、状況を把握しきれず息も止まったままだった。

「先ほど、木戸から事情を聴きました。市役所では、木戸が失礼なことを申し上げたのではないでしょうか。代わってお詫び申し上げます。本人も突然のことで取り乱していたのだと思います」

 砂田の落ち着いた丁寧な口調に、大川の心も落ち着きを取り戻してきた。

「いえ、こちらも木戸さんのお気持ちを、十分にくみ取って差し上げられなかったものですから」

「これはお優しいお言葉を、ありがとうございます。つきましてはですね、もう一度お子さんを交えて、お話しする場を持たせていただけないかと思いまして」

 急な申し出に、大川は驚きを抑えきれなかった。

「え?ああ、そうして頂けると、こちらとしても何よりです。是非、お願いします」

「そうですか。では、まことに勝手なのですが、これから、お子さんに合わせていただくことは出来ませんか?」

―これから?―

 大川は、驚きの表情で声を失ったまま、思わず真由美の顔を見た。



「なんで、ここに来させるのよ!」

 リビングのソファーの上で、真由美は切れ気味で大川に詰め寄った。

「だって、ここが一番落ち着くだろうと思って」

「それは、あんただけでしょう?こっちは、今からビクビクしているわよ!木戸の家にあんた一人行けばいいじゃないの?」

 興奮気味の真由美の声に、真人が振り返って目を丸くして見つめていた。

「何でもないよ。今、早苗さんがここへ来るからね」

「え?本当ですか?」

 真人が嬉しそうに声を上げた。それを聞くと、真由美も何も言えなくなった。

「ただいま」

 突然、二人の背後から声がした。驚いて振り返ると、真人と同い年くらいの女の子、娘の志乃が立っていた。長い髪を後ろに束ねた可愛い娘だ。

「あ、お帰り!早かったね!」

 二人は慌てた。娘の帰宅をすっかり忘れていたのだ。

 しかし、志乃の視線は二人を通り越して、奥のテレビの前でこちらを振り向いている男の子にくぎ付けになっていた。

「こんにちわ」

 真人が挨拶すると、志乃は小さく会釈しただけで自分の部屋に入ってしまった。

「何?照れてる?」

 大川が不思議そうに眼で追った。

 しかし、志乃はドアの隙間から、こちらを覗いている。そして、手を少しだけ出して真由美の方へ小さく手招きしている。真由美が近づくと、小声で叫ぶように言った。

「誰?あのイケメン。なんでここに居るの?」

 真由美は、娘の思いがけない反応に笑いを堪えて説明した。

「あの子はねえ、お父さんお母さんの知り合いの子」

「ねえ、ちょっと紹介してよ」

 志乃が必死に頼み込んで来た。ちょっと笑いを堪えるのが苦しくなってきた。

「じゃあ、紹介するからこっちいらっしゃい」

 真由美にとっては、ほほえましい光景だが、大川にとってはどうだろうと思うと、一層笑いが込み上げてきた。

「真人くん。これ、うちの娘で志乃って言います。よろしくね」

 真人は立ち上がり、笑顔で

「木戸真人です。よろしくお願いします」

 と言いながら頭を下げた。

「そういえば、真人くんも二年生だよね?志乃も二年生なんだ。仲良くしてやってよ」

 大川が、思い出したかのように言った。それに対して、真人は張り詰めた表情で黙ってしまった。志乃は、その反応に失望したように真由美を見あげた。大川は、真人の黙り込んだ理由について、思い当たることがあったので言い方を変えた。

「真人くん、志乃とお友達になってくれるよね」

 真人は学校に通っていない可能性も考えられたのだ。その問いに、真人は笑顔になり元気に答えた。

「はい、こちらこそお願いします」

 志乃の戸惑いは、はにかんだ笑顔に変わった。

「今、アニメを見せてもらっていたんです。勝手に見てごめんね」

 真人の言葉に志乃は感動したようだった。

「そんなことないです。一緒に見ましょう」

 志乃まで、つられて敬語になっているのが微笑ましかった。


 二人がお菓子を食べながら仲良くアニメを見ていると、インターフォンが鳴った。大川が慌てて玄関へ向かった。ドアを開けると、スーツ姿の温厚そうな男性が立っており、その後ろに不機嫌そうな顔の早苗が立っている。さしずめ、上司の言うことには逆らえません、と言ったところか。




            *


「この子が真人くんですか?いやー実に可愛いお子さんです。こちらは、大川さんのお嬢さんですか?ああ、志乃ちゃんかい。志乃ちゃんも可愛いねえ。二人は、お似合いのカップルだねえ」

 砂田は、上がり込むなり子供たちに歩み寄り、久しぶりに孫を見た爺さんのように目を細めた。砂田の他愛無い社交辞令とリップサービスが、一人を舞い上がらせ、また一人の不安を煽ったりする。志乃は顔を崩して照れ笑いをし、大川は「何を余計なことを」と言わんばかりに顔をしかめた。

「いやいや、挨拶が遅れてもうしわけありません。最近子供が可愛くて仕方が無いものでして。私、先ほども申し上げました通り、木戸の上司をしております、砂田と申します」

 砂田は、姿勢を直して名刺を差し出した。

「私は、大川と申します。ちなみに、市役所を辞めたというのはちょっとした間違いでして」

「そうでしょう。何かの間違いだと思っていました」

 そう言って砂田は、笑顔で大川の名刺を受け取った。

「実は、先ほど木戸から簡単にではありますが、事情をうかがいまして、木戸は簡単に話を切り捨ててしまったようなんですが、ちょっと真人くんが可哀そうな気がしましてね、大事なことなのでもう少し話し合ったほうが良いのでは、と思ってこうしてお邪魔した次第なんです」

 砂田は至って穏やかに話し始めた。その隣で早苗は、今朝とは打って変わっておとなしく、別人のように小さくなって座っていた。

「大川さんも、こうしてご自宅に真人くんを連れて来られたと言うことは、やはり真人くんの処遇に何か納得できないものを感じられてのことだと思うのですが。いかがでしょうか?」

 砂田の言葉に、大川は大きくうなずいた。

「ええ、そうなんですよ。私としても、出来るならば真人くんを親族の方にお任せしたいと思いまして」

「ああ、そうですか。それは良かった。ただ、お分かりかと思いますが、木戸はまだ独りの身です。子供を一人、引き取るというのはそう簡単にできることではありません。今は、犬や猫でも余り物を食わせて置けばいいという時代じゃない。エサ代、病院代など馬鹿にならなかったりします。ましてや人間の子供なんか、着るものだ、教育だ、なんだかんだと、もう莫大な費用が掛かる。そしてそれ以上に手間がかかる。物とお金を与えて置けば立派に育つというものではありません。人間の子供は、手を掛け、心を掛けてこそ人として育つものです」

 怒涛のような、砂田の演説に大川も、真由美も、ただ聞き入るしかなかった。

「ですから、もし木戸さんが真人くんを育てようとするならば、絶対に周囲の手助けが必要になります。もちろん、私ども会社でも応援は致しますが、それはやはり微々たるものになってしまいます。そこで大川さんには、木戸さんに対して市、行政の方からどんな支援が出来るのかを詳しく説明頂きたいと思います」

 その言葉に大川は、グイと身を乗り出した。

「それでしたら、先ず里親制度を利用するのが良いと思います。経済的援助を受けられますので」

「課長、ちょっと待ってください」

 突然、早苗が横やりを入れてきた。

「私がお断りしたのは、経済的な理由だけじゃないんです。私には人を育てるだけの資質がないからお断りしたんです。おそらく私が引き取ると、精神的限界が来てあの子に虐待をしてしまうことになると思います」

「いや、木戸さんはそんなことしないよ。あなたは人を受け入れて、包み込んで、ちゃんと育てることのできる人だよ。私はずっと見てきたんだ」

 砂田は、力強く早苗に訴えた。

「いえ、違います。それは仕事だからやっていたことであって、プライベートでは、そんな立派なことは出来ないんです」

 早苗も必死である。

 そんなやり取りを、しばらく繰り返していたが、どちらも引かずに、平行線をたどっていた。すると、砂田があっさりと引いて、話しの流れを変えてきた。

「では、私が引き取るというのはどうでしょう?」

 座が、凍結した。全員の動きが止まった。

「どうしても木戸さんがダメなら、私が見ようと思います。うちの子供ら全然結婚しようとしなくて、孫の顔を見るのも期待薄となっています。家内とも、孫が欲しいねと話し合っていたところでしたので、いい機会だと思います。どんな子かと思って見に来てみたんですが、可愛くて行儀もよくて、賢そうじゃないですか?この子なら家内も気に入ってくれると思います」

 全員の凍結が解けて、激しく運動し始めた。しかし、どう動いて良いか分からずに慌てふためくだけであった。

 すると突然、大川が動きを見せた。すっくと立ちあがり、叫ぶように言った。

「砂田さん、申し訳ありませんが、ここで少しの間子供たちを見ていていただけませんか?私たちは、ちょっと向こうで話してきます」

 そう言い終わると、突然早苗の腕をつかみ、

「ちょっとこちらまでお願いします。込み入った話があります」

 と、言って早苗を引きずるように別の部屋へ向かった。

「志乃!ちょっと部屋、借りるぞ!真由美!君もちょっと来てくれ!」

 そう言われた志乃は、驚いた顔で何か言いたそうだったが、周囲の手前、何も言えずに唖然としていた。

「志乃ちゃん、ごめんね」

 真由美は、そんな志乃に両手を合わせながら、志乃の部屋へ急いだ。

「じゃあ、何して遊ぼうか?」

 残された砂田は、満足そうに二人を見比べて満面の笑みを浮かべた。




            *


 志乃の部屋は、女の子らしく可愛らしさにあふれていた。部屋全体を色調が明るいパステルカラーで優しい感じにそろえてあり、キャラクターのぬいぐるみやフィギヤも多かった。当然のことながら早苗の野暮ったい部屋とは雲泥の差である。

 早苗は志乃のベッドに座らされ、大川夫妻はその前の床に座り、気まずそうにもじもじしていた。

「強引に引っ張り込んで申し訳ない。子供達には聞かせたくない、込み入った話が合ったもんで」

 大川が、恐縮した面持ちで言った。

「私には、別に話す内容などないんですけど」

 早苗は、機嫌悪そうにつぶやいた。

 大川は気まずそうに頭をかいていたが、やがて意を決したかのように口を開いた。

「木戸さん。本当に私たちのこと、気が付いていないんですか?」

「?」

 早苗の反応は、まさしく「?」そのものであった。

「大川です。中学三年の時、同じクラスだった。そしてこっちが、やっぱり同じクラスだった森本真由美です。今は大川真由美ですけど」

 最初は困惑していた早苗も、しばらくするとその表情が次第に険しくなり、震えているかのような強張った表情になった。

「思い出してもらえましたか?」

 大川が、おそるおそる尋ねると、早苗は強張ったまま小刻みにうなずいた。それを見て、大川は安堵のため息を吐いた。

「黙っていてすいません。なんだか、ちょっと言いそびれちゃいまして」

 早苗は表情を変えず、目だけを忙しく動かして、二人を見比べていた。

「実は、笹本から木戸さんに伝えてほしいという伝言がありまして」

 その言葉に早苗の表情が変わった。面食らったような、驚きの顔になった。

「え?私も聞いてないよ!」

 真由美も驚いて大川の方を振り向いたが、大川はそれを無視した。

「ちなみに、木戸は笹本のその後のことは聞いているか?」

 早苗は目を見開いたまま、じっとしていた。

「笹本は、八年前、つまり真人くんが生まれてすぐに亡くなっているんだ」

 早苗の表情に動揺の色が見えた。大川はそれを確認すると、話を続けた。

「その時は、うちの志乃、娘も生まれたばかりで、真由美は実家に里帰りしているときだったんだ。突然笹本の母親から電話があって、笹本が会いたがっていると伝えてきたんだ。聞けば、その時すでに笹本は余命宣告されている状況で、入院中だと言うんだ。俺は慌てて病院へ向かった。その時点で笹本はまだ元気だった。元気そうに見えた。あいつも再会を喜んでくれた。そして奴は、すぐに言ったんだ。早苗に会いたいって。それからはずっと君のことばかりだった。奴は言うんだ。ずっと早苗が好きだった。本気だった。今でも好きだ。でも自分は、お姉さんの誘惑に勝てずに、早苗を裏切ってしまった、申し訳ないって」

 早苗は黙って話を聞いていた。

「君は信じるかどうか分からないが、笹本はもともとお姉さんには関心が無かったんだよ。たまたま木戸の家で会って以降、なぜかお姉さんと偶然会うことが多くなって、そのうち関係が深くなって、一線を越えてしまったと言うんだ。ただ、お姉さんの誘惑に勝てなかったのは自分の責任だから、木戸を裏切ったことに変わりはない。それが申し訳なくて、後ろめたくて、木戸のことを避けるようになってしまった。そしてお姉さんとの関係もずるずると続けてしまった。全部、自分の弱さが招いた結果だ。そう言って、自分を責めていたよ」

 早苗の表情は変わらなかったが、目から一筋涙がこぼれた。

「笹本は、お姉さんのことを恨んでいた。いや、憎んでいたと言うか、恐れてもいたかもしれない。何しろ笹本の人生はお姉さんに振り回され続けたようなものだったらしいんだ。深く愛してくれているようで、それでいて捕らえることが出来ないような。二人は、笹本が大学の頃から同棲していたらしい。笹本が卒業して、就職して、結婚しようと言ってもしてくれないんだそうだ。で、ある時妊娠したから認知届を出してほしいと言ってきた。じゃあ、結婚しようと笹本が言っても結婚はしてくれない。そして、認知届を出すとすぐに何も言わずに、突然いなくなったんだそうだ。その後しばらくして、笹本が健康診断で癌が発覚して、あとから聞くと、その時はすでに余命半年と言われていたらしい。それでいよいよ体調が悪くなり入院していたんだが、俺が行く数日前に、突然お姉さんが赤ん坊を連れてやってきたそうだよ」

 大川は眉をひそめ、ゴクリと喉を鳴らした。

「この時のお姉さんの言葉に、笹本は人生最大の恐怖を感じたと言っていた。お姉さんは、笹本に赤ん坊を見せながらこう言ったそうだ。『死ぬ前にこの子を見れて良かったね。あとはこの子に任せてお逝きなさい。これから、この子があなたの身代わりよ』って」

 この言葉に、早苗は目を見開いた。

「木戸はこれをどう捉える?笹本は、自分の代わりにこの子が弄ばれるんだと感じたそうだ。君もそう思うか?笹本は、こうも言っていた。お姉さんは、笹本が木戸に未練があることを知っていて、それで葛藤する笹本を見て喜んでいたんだと。本当にそんなことがあるのか?笹本は、病気で精神的に弱っていただけじゃないのか?あいつは俺にこう言ったんだよ。『あの子を守ってやってくれ。助けてやってくれ。早苗に託してくれ』って」

 大川の目は真っ赤に潤んでいた。早苗は何も言わずに何かを考えていた。

「俺は、あいつの言葉を信じ切れず、その後、何もできなかったんだ。でも、今日こうして木戸があの子を連れて来たのを見て、笹本の言葉が本当だったのかもしれないと、不安になっている。君はどう思う?」

 早苗は何も言わず、目を大きく見開いたままじっとしている。その視線は大川と真由美の間を通り抜け、くうを突いている。しばらくすると、ゆっくりと目を閉じ眉間にしわを寄せ、肩を細かく震わせた。

「分かりました」

 早苗が、震える声で言った。

「あの子は、私が引き取りましょう。責任をもって育てます。ですから、学校の件はそちらでよろしくお願いします。あの子、教科書も何も持たずに来ました。こちらで準備する物も、後程教えてください」

 そして目を開くと、大川夫妻のそれぞれを見比べながら、睨みつけるような眼差しで言った。

「それから、お二人に関しては、今後二度と私たち二人に係わらないでください。市役所の手続きなども、担当を変えていただくようお願いします」

 そう言い終わると、素早く立ち上がりドアへ向かって歩き出した。

「ちょっと、木戸!」

 大川が、引き留めるように叫んだ。早苗は振り返ると、二人を見下ろしながら静かに言った。

「はっきり言います。私はお二人が嫌いです。お二人だけでなく、あの時のクラスの人たち皆も。でも、感謝はしています。あの歳で、人間の醜さを知ることが出来たんですから。おかげ様で、今はしっかり割り切って生きています」


 早苗は部屋を出ると、子供たちと一緒にアニメを見ながらウトウトしている砂田に声を掛けた。

「課長。お待たせいたしました。話し合った結果、私がこの子を引き取ることにしました」

「おお、そうですか。まあ、そう言うことなら頑張ってください。仕事との兼ね合いは、遠慮なく相談していいですからね。僕も出来る限り協力しますから」

 砂田は嬉しそうだった。

「ありがとうございます」

 早苗は砂田に礼を言うと、真人の横にしゃがみ込み、肩に手を当てて微笑んで言った。

「真人、これから私と一緒に暮らすことにしたいんだけど、いいかな?」

 真人の顔に、満面の笑みが浮かんだ。

「はい、ありがとうございます!」

 真人は興奮気味だった。その姿を見た早苗も、何となく嬉しくなった。




 大川宅は静かだった。嵐が過ぎた後、と言う感じだ。大川夫妻はソファーに沈み込み、力なく放心していた。ただ、娘の志乃だけがブツブツ不満を言いながら、テレビのリモコンを操作していた。

「なんで真人くん帰っちゃうの?」

「なんかあのオバサン、ムカつくんですけど」

「せっかく仲良くなれたのに。あのじーさんもウザいし!」

「おとーさんも、おかーさんも、なんですぐに帰しちゃうの?」

 突然切れて、両親の方を振り返り悪態を吐くが、両親の疲れ切った姿を見て諦めてテレビに目を移した。

「どうだった?木戸の印象」

 大川は娘の言葉には耳を貸さず、隣の真由美に声を掛けた。

「ええ、想像以上でした。話を聞いているだけなのに、あんなに威圧感のある人ちょっといないわね」

 真由美の力ない答えに、大川は小さく微笑んだ。

「市役所ではあんなもんじゃなかったよ」

「お察しします。市役所もたいへんですね」

「ご理解いただけて、光栄です」

 二人で力なく笑った。

「でも、結局あなたの願い通りになって良かったじゃない?」

「うん。まあ、結果オーライかな?」

「でも、木戸ってあそこまで私たちのこと恨んでいたんだね」

「そうだね、それがあいつの拠り所だったのかもしれないしな」

「どっちにしても、私たちの責任なんだよね?」

 真由美の声は消えそうだった。

「まあ、これも何かの縁だし、君も何かと気にかけてやってくれ」

「うん,分かった。ところで、さっきの笹本の話、本当だったの?」

 大川の雰囲気が変わり、少し深刻な表情になった。

「うん、本当だ。当時、君がああいう状況だったから、ちょっと刺激が強いかなと思って言い出せなかったんだ」

「そうね、ちょっと強すぎたかもね」

「それに、俺自身どこまでが本当か迷っていたっていうのもあったんだ。俺はそのお姉さんにあったことは無いけど、そこまでひどい人がいるんだろうかって」

「そうね、聞いていて私もそれは感じたわ。でも、木戸は疑っている感じはしなかったよね」

「そうだね、俺も疑われたら証明のしようがないから、ビビリながら言っていたんだ。でも木戸は、あんな中途半端な説明で勝手に納得してしまった。本当に勝手にと言う感じだよ。きっと、彼女だからこそ感じ取り、納得できる何かが有ったのかも知れないね」

 二人がしんみりとしていると、不意に真由美が何かに気づいたように大川の腕を突いた。

「木戸って言えばさあ…」

 真由美の言い方は、何か自信無さげである。

「聞いてる?高校の時の噂」

「噂?」

 大川は真由美の言葉に自分の記憶を辿ってみた。

「木戸と同じ高校に通っていた娘に聞いたんだけど…」

「いや、その話は止そう」

 大川は真由美の言葉を遮るように、強めに言った。

「事の真偽はともかく、今更蒸し返すような話じゃないだろう。特に女性にとっては噂だけでも致命的なことになりかねない」

 大川の真剣な言葉に真由美も反論は出来なかった。

「うん、そうだね。気を付ける…」

 大川もやはり知っているようだ。真由美はそう理解した。真由美も大川も高校は早苗とは違う所へ進んでいた。しかし、噂と言うものは様々なルートを通して漏れ伝わってくるものだ。そして、それは必ずしも正確とは言いきれないので、どこまで信じて良いものか判断に悩まされる。やはり触れないことが最良の策なのだろう。


 そこに突然、大川の携帯が鳴った。相手は「溝口」となっている。

「あの野郎!」

 慌てたように携帯を取りあげ、スピーカーで繋げた。

「俺だけどさあ…」

 溝口の気楽な声が聞こえた。その声を聴いて、大川の気持ちも静まった。溝口のおかげで早苗と真人が暮らせるようになったとも言えるのだから。

「お前だろ、木戸を市役所につないだのは」

「あ、やっぱり木戸、そこに行ってくれたんだ。良かった!」

 単純に喜んでいる。

「いや、昨日さ、突然木戸がやって来てさ、びっくりしちゃったよ。あいつ、俺のこと全然気が付かなくてさ、一人で怒って帰っちゃったんだけどね、俺が帰り掛けにお前のところに行くように言っておいたんだよ。ちゃんと行ってくれたんだ、良かったー」

 相変わらずお気楽な奴だ。

「どうだった?あいつ、キレイになっていただろう?」

「おまえ、気にするところ、そこか?」

「え?だってビックリしなかった?すんごい垢ぬけたって言うかさー」

 全く、呆れた警察官だ。

「木戸だってもう社会人だぞ?化粧もすりゃ、服装だって気に掛けるさ」

「ああ、つまりもともと美人だったと言うことか」

 どういう発想か分からないが、これ以上言うと早苗を貶すことになるから打ち切ることにした。

「お前が気にするのはそこじゃないだろう?」

「なんで?」

「あの子のことは、気にならないのか?」

「あの子って?真人くんのことか?」

「ああ、そうだよ!」

「だって、あの子のことは、お前がうまいことやってくれたんだろう?」

「お前、何を勝手なことを言ってるんだ!」

「ええ?だって子供の処遇は俺の仕事の範疇じゃないし」

「それを言うなら、俺もその担当じゃない、児相につなげるのが普通だろう?」

「え?でもお前なら、クラスメイトの誼みでいい対応をしてもらえると思って」

「何を適当なこと言ってるんだ!」

「え?ひょっとして、何か不味い事になった?」

 急に溝口の口調が変わった。

「いや。別にそう言うことではないけど」

「じゃあ、うまく行ったんだ?木戸とあの子、一緒に暮らすんだろう?」

「一応な」

「じゃあ、問題ないじゃん。笹本の子供みたいだし、木戸も情が行くだろう?」

「お前、何言ってるんだ?お前も木戸と笹本の関係、知らないわけないだろう?」

「おお、もちろん。でも、木戸だって本気で笹本のこと好きだったんだし、子供のことは情が行くと思うんだけどな」

「木戸が笹本を恨んでいるとは思わないのか?」

「え?それはないでしょう。木戸は、ずっと笹本が自分に戻ってくるのを待っていたはずだよ。木戸には笹本を許す用意があったと思うな」

「何を、勝手な推測を…」

「いや、勝手じゃないよ。観察の結果さ」

「観察?」

「うん、俺あの後、ずっと木戸に取り入る隙を探していたんだ。でも、結局卒業まであいつの気持ちは、笹本に向いたままだった。そう言う心の傷を持った俺には分かるのさ、木戸の本音が」

「それ、本当か?」

「ああ、本当さ。で、俺、ついにヤケボックリに火がついちゃったから」

「ああ、『焼け木杭』な」

「うん、これからは警官と言う地位を利用して、木戸にとりいることにする」

「まあ、精々職を失わないように気を付けて」

「木戸の為なら職の一つや二つ…」

「お前何考えているんだ?」

「俺さあ、あの時木戸に何もしてやれなかっただろう?だから、今回は何か力になりたいんだ。好きな女一人護れない自分が情けなくて、警察官になったんだから」

「それは、初耳だな」

「だから、今回こうして再会できたのは運命だと思う。今回は全力で木戸早苗を守ろうと思う」

「そうか、じゃあ一言助言してやる。木戸にはお前が中学の時のクラスメイトだったと言うことは知らせないほうが良い」

「どう言うこと?」

「木戸は、俺たちの思う以上に、俺たちのことを恨んでいる。おかげで俺ら夫婦は、二度と関わるなと釘を刺された」

「マジで?うわ、絶対秘密にしよう!」

「是非、そうしてくれ。俺らはもう近づけないから、代わりにお前が木戸のことを見守ってやってくれ」

「おお分かった。任せとけ」

 そう言うと溝口は、声のトーンを変えて続けた。

「で、そういう訳で、今日お前の家行っていいか?今日のこといろいろ聞きたいしさ」

 大川の横で、ソファーに埋まるようになって二人の会話を聞いていた真由美が、指で丸を作って見せた。

「ああ、OKだそうだ」

「よかった。久しぶりに真由美ちゃんにも会いたいし、志乃ちゃんともね」

「志乃は、お前のことウザいって言ってるぞ」

「ああ、この頃の娘は何でもウザいで済ますんだ。『ヤバイ』とおんなじさ」




            *


 早苗の自宅に帰った真人は、何か浮かれているかのように見えた。母親に捨てられたのが昨日とは到底思えない姿だ。香奈恵がこの子にどんな扱いをして来たか、考えるだけでおぞましい。

 これから真人との二人の生活が始まる。手探りの生活だ。まずは、いろいろなものを準備しなくてはならない。そのために、大川宅を出るときに、砂田にしばらく会社を休みたい旨を伝えて置いた。砂田も快く了承し、有休の手続きをしておいてくれると言ってくれた。砂田の下で十年以上働いていたが、こんなに面倒見の良い上司だとは全く気付かなかった。

 帰り掛けに大型スーパーまで足を延ばし、真人が今夜から必要になる、最低限の物を買いそろえてきた。布団、着替え、食器、更にこれだけのものを抱えて持って帰るわけには行かないのでタクシーを使った。これだけでかなりの出費だ。しかも、これが始まりなのだ。これから延々と続く戦いの始まりだ。早くも後悔の思いが頭をもたげてきていた。

 部屋に入ると、早苗は浮かれた真人を呼び止め、自分の前に座らせた。

「真人、いい?これから一緒に暮らすけど、それについて少し言って置きたいことがあるの」

 真人は空気を読んだのか、笑顔が消え、真面目な顔になった。

「まずは、これから私の前で、あなたのお母さんのことを口にしてはダメ。昨日も言ったけど、私はあなたのお母さんとは姉妹だけど、あの人のことは嫌いなの。だから、ここではあの人のことを話題にしないこと。ただ、あなたがあなたの心の中で思ったり、もしくは私のいないところで誰かに話をするのは構いません。それから、私にはあなたの母親になる資質はありません。だから、私はあなたの母親になることはできません。だから、これからも私のことは早苗さんと呼びなさい。分かった?」

 早苗が、真人の目をじっと見つめながら言うと、真人は神妙な面持ちでうなずいた。真人にはかわいそうだが、最初にはっきりとさせておかないといけないと思ったので、遠回しにせず、ストレートに言うことにした。

「それから、今後生活して行くにおいて、必要なもの、必要なこと、やって欲しいこと、聞いてほしいこと、そう言うことがあったら遠慮なく言うこと。それが出来るか出来ないかは、私が判断します。そして、その理由を説明するので、なぜ出来るのか出来ないのか、理解するようにしてね。おそらく私は、他人の気持ちを理解するのが下手なのだと思います。だから、なるべく言葉で話してほしいと思います」

 ここまで言うと、早苗の雰囲気がちょっと変わった。少し難しい表情をして話を続けた。

「おそらくあなたは、これからいろいろな人からあなたのことを聞かれることと思うの。あなたの母親のこととか、どんな暮らしをしていたかとか、どう感じたかとか…。それに対しては、嘘や作り事は言わないで欲しいの。すべて正直に話すようにね?ただ、あなたが言いたくないこと、知られたくないこと、思い出したくないことなんかがあった場合は言わなくてもいいからね?『分かりません』とか、『覚えてません』とか言いなさい。あなたはまだ幼いから、先ずは自分を守ることを優先させるべきなの。人間、話したり思い出したりすることによって、心の傷が深まることもあるの。だからそう言う場合は、先ず自分を守ることを考えるようにね?それは、私に対してもそうだからね?私はあなたにすべてを知らせろとか、秘密は作るな、とは言いません。言いたくないこと、知られたくないことは誰にでもある事です。それは当たり前のことです。もし、話してくれる時は、私の為ではなく自分自身のために話してちょうだいね」

 真人には少し難しい話であったが、早苗の伝えたい内容は感じることが出来た。

「あとね…」

 早苗の口調が軽く柔らかくなった。

「夕べ気が付いたんだけど、私は意外と説教がましいところがあるみたい。だから、時々説教じみた、小言じみたことを言うと思う。その時は我慢して聞いていなさい。納得いかなくても取り敢えず受け入れて、その通りにしていなさい。もちろん私が間違っていることもあると思う。だから、納得できないときは、何が違っているのか、どこが問題なのか考えなさい。それがはっきりしたら私に言いなさい。ただ、基本的に少なくとも中学生までは、私の言うことに従いなさい。高校生になったら自分の考えを優先させてもいいです。それと、おそらく何を言っているのか分からないことも多いと思います。何を言っているか分からないときは、遠慮せず聞きなさい。真剣に聞いて分からないというのは、悪い事でも、恥ずかしい事でもないんだから。人はそれぞれ、考え方も、感じ方も、前提となる知識も違うし、先入観なんかもあるから、一度聞いた話だけで理解できないことも多いものです。だから、少なくとも私は何度でも説明します。そして、今、分からなくても良いこと、説明しきれないこともあるけど、その時はそう言います。でも記憶のどこかに留めて置くと、いつか分かるきっかけに出会うことが出来た時に、それを取り逃さずに済むことが出来ます。うーん。やっぱり説教がましいな、私。我慢してね」

 真人は優しく微笑んでいた。早苗は、その笑顔を見ながらも心が痛んでならなかった。大川の家を出てから、ずっと抱き続けて来た罪悪感。やはり、ここははっきりと言うべきだと観念して、真人の前で頭を下げた。

「あと、昨日の夜から、ずっとあなたのことを拒み続けてしまったこと、あなたを傷つけるような発言を繰り返してきたこと、本当に申し訳なく思います。ごめんなさい。あれはすべて、私に勇気がなかったことに対する言い訳でした。私に勇気がなかったせいで、あなたの心に必用のない傷を付けてしまいました。今は、あなたを見捨てずに済んでよかったと感じているし、こうしてあなたと暮らせることになったことを嬉しく思っています。どうか、私の暴力を許してください」

 真人は、こうべを垂らした早苗の首筋に抱き付いた。息も体も震えている。早苗には、真人が泣いていることが分かった。声を上げずに咽び泣いている。早苗は、真人が許してくれたと解釈して、真人の体に両腕を回し優しく抱きしめた。

「真人、ありがとう」

 二人はしばらくそのまま抱き合っていたが、真人の様子が落ち着いてきたのを見計らって、早苗は腕をほどき真人の顔を見て笑顔を作った。涙にぬれた真人の顔も、笑顔になった。

「さあ、夕飯の準備をしましょう」

 早苗は立ち上がり、寝室に入り着替えを始めた。

 もう、あたりは暗くなり、すっかり夜になっていた。早苗がいつも帰宅する時間に近かった。そして、昨日のこのくらいの時間に真人と出会ったのだ。やっと一日が経ったのだ。まだ一日だ。長い一日だった。



 真人は、箸の持ち方を練習していた。歯の磨き方も同じだ。早苗の指摘したことを真面目に是正しようと努力している。何ともいじらしい姿だったが、あまり指摘しすぎると真人がパンクしてしまいそうで、反省させられた。

 寝る前に、今日買ってきた布団を早苗のベッドの下に敷き、

「ここなら、いくらおネショしても良いからね」

 と言うと真人は

「僕は一度もおネショをしたことはありません」

 と、やや切れ気味に答えた。何でも、言われたことはそのまま受け止める、真面目な性格なのだろう。いままでも一人で頑張ってきたのかもしれない。立派だとほめてやりたい半面、潰れてしまわないかと言う不安も込み上げてくる

「心配しないで」

 早苗は優しい笑顔で、ふくれっ面の真人の頭に手を置いた。

「お漏らしなんてね、大人になってもすることはあるものなの。大も小も。ただ、誰にも言わないだけ」

 真人は驚きを顕わにした。

「早苗さんもですか?」

 その言葉に、早苗の目元だけから笑みが消えた。

「その質問は絶対にダメ。誰に対しても」

 そう言うと、早苗は笑顔に戻り真人から手を放した。

 真人はその言葉の意味を問いたかったが、口にすることができなかった。



 真人を寝かしつけた後、早苗は真人の寝顔を見ていた。同じ寝顔を、昨日とは違った思いで見ている。正確には、昨日も同じ思いだったのかもしれない。ただ、香奈恵に対する憤りと、今の生活を守りたいという焦りから、自分の本心から目を背けていただけかも知れない。真人は笹本の子である。大川の話を聞いて、今まで心の底にわだかまっていた、笹本の本音らしきものを知ることが出来た。これは、何よりも大きな事実だった。笹本が、本心から早苗のことを愛してくれていたかもしれないという、早苗が心の隅に持ち続けていた微かな期待に応えるものだ。早苗は中学生のあの時、笹本の謝罪と弁解を待っていた。もしそれが有れば、笹本とやり直す用意、嫌、やり直したいと願っていたのだ。すべてが香奈恵の策略であろうと言うことは、早苗も薄々気づいてはいた。しかし、笹本が早苗を避けるようになってしまったことから、早苗は笹本からも裏切られた立場となってしまったのだった。そして何よりも、早苗が家族や知人に会うかもしれないと言うリスクを背負いながらも、地方へ行かず地元に残り続けたのは、笹本に再び会えるかもしれないと言う密かな期待が心の隅に有ったからなのであった

 そして、更に大きな事実があった。香奈恵は、早苗のみならず、笹本までも振り回し、苦しめていたのだ。そして彼の死をも嘲笑い、その子供をも苦しめることを宣言してはばからなかったのだ。あの女は、周りの者を苦しめて、その姿を見て喜ぶ人間だった。悪魔のような女。次のターゲットは、真人である。これはもう、生きた香奈恵の呪いである。この呪いはどこかで絶たなければならない。それを確信した。

 香奈恵はいつか、真人を取り戻しにここにやって来るだろう。それは間違いないはずだ。そうすれば、香奈恵に直接会うことが出来るだろう。すべてはその時だ。その時に決着をつける。早苗は腹を決めた。方法は一つ。

 この時早苗は、その胸に確かな殺意を抱いていた。








       2.二人での生活




 早苗と真人の共同生活が始まった。

 真人の身の回りの物も粗方そろった。そうすると、大して何か増えた訳でもないのに、早苗には部屋の中が急に狭くなったような気がした。おそらく、物よりも真人の存在のせいなのだろう。物は大体部屋の壁際に寄せてあるが、人は部屋の中央部にいることが多いものだ。いつも何もない生活空間に、真人と言う存在がいるというだけで大きな変化である。そして、自分の家に他人がいるというのは、それだけで思いのほか圧力を感じるものである。それが例え、子供であったとしてもだ。自宅で気を抜けないのは、ちょっとしんどいが、そのうち慣れることに期待するしかない。


 真人の身の回りの準備が整った頃、早苗は真人を連れて交番に挨拶に行った。真人を引取ることになった報告をするためである。別に、早苗に警察へ報告する義務や義理があるわけではない。ただ、警察に認知されると言うことは、何かの時に頼りになると思えるから、少しでも顔を売っておきたかったのである。

 早苗が交番の中をのぞくと、四人ほどいる警察官の中に、あの晩応対してくれた二人もいた。早苗は、真人の手を引いて中に入り挨拶をした。

「こんにちは。先日この子のことでお世話になりました、木戸です」

「木戸さん!」

 早苗が言い終わるのも待たずに、この前の若い巡査が駆け寄ってきた。

「ああ!真人君も、いらっしゃい!」

 早苗は、若い巡査の勢いに圧倒されて、思わず後ずさりしてしまった。

「いやー、二人一緒と言うことは、一緒に住むことになったんですね?」

 何故か、この巡査は嬉しそうであった。早苗は不愉快極まりなかったが、警察を敵に回すのは得策ではないので我慢して続けた。

「はい、今日はその挨拶で来ました」

「そうですか。良かったですね。良かったね、真人君!」

 若い巡査は、嬉しそうに真人の頭を撫でた。早苗は不気味なものを感じたが、真人は嬉しそうだし、今後お世話になるかもしれないこの人たちには、多少なりとも愛想を振りまいておく必要があると思い、笑顔で応対した。

「この子も、これから小学校の通学などもありますので、少しでも関心を持っていただけたらと思いまして…よろしくお願いします」

 早苗は前回とは全く違う、いわゆる余所行きのスマイルで頭を下げた。

「ご心配なく!市民の安全を守るのが、私たちの使命ですので、是非お任せください」

 若い巡査は、胸を張って答えた。

 早苗は、改めてこの巡査の顔を見て、ふと眉をひそめた。

「あの、失礼ですが、お名前は…」

 早苗が申し訳なさそうに問いかけると、巡査は嬉しそうに答えた。

「はい、私は溝口と言います」

 早苗が、聞き覚えのある名前を頼りに記憶を巡らせていると、思い当たる記憶が蘇ってきた。じっと黙って溝口の顔を見詰めながら思いを巡らしていた早苗は、不意に笑顔を見せると溝口に向かって愛想よく言った。

「溝口さん、真人のことよろしくお願いします」

「はい!もちろんです!」

 溝口は、有頂天になっていた。早苗は、丁寧に挨拶をしながら交番を後にした。

「真人?」

 早苗は、交番を出るとすぐに真人に声を掛けた。

「なんですか?」

「うん、あの溝口って言うお巡りさん、真人はどう思う?」

「え?優しそうでいい人みたいですけど」

「そう思う?」

 早苗は何かを考えている。真人は不思議そうに早苗を見上げた。

「あのお巡りさん、ちょっと気を付けてね」

 早苗は意味ありげな調子で真人に言った。

「分かりました」

 真人は何を気を付けるのか分からなかったが、一応早苗に従った。真人には溝口がとてもいい人に思えていた。




「真人、行くよ」

 今日は、真人の初登校の日だ。真人が学校に通い始めれば、早苗も仕事に出られる。本当は、今日から職場復帰の予定だったが、通学路の帰り道も覚えなくてはならないので、明日からと言うことにした。

 担任の教師とは、昨日、児童相談所の相談員を同席して打ち合わせをしてある。

 児童相談所の相談員が真人から聞き取った内容によると、真人は小学校には入学した形跡がないとのことだった。ただ、一年生程度の読み書きは出来ることから、取り敢えずこのまま授業に参加して様子を見ようと言うことになっている。おかげで、早苗には自宅学習の指導をするという役割が回ってきたのだった。

 真人を見ると、ランドセルを背負って立っている。始めて会ったあの夜と同じだ。あの時は何とも憎たらしく見えた姿も、今日は何か胸に響くものを感じる早苗であった。真人はと言うと、この前は軽かったのに、教科書やノートが詰まっているせいで、ずっしりと重たくなったランドセルに辟易している。

 今日も手を繋いでいくが、今日はこの前とは違い、がっちりとではなく、心の余裕の分ゆったりと繋いだ手から、真人の手のぬくもりと柔らかさがひしひしと伝わってくる。そして早苗の心には、言い表せない充実感が溢れていた。

 一方真人の方は、重たいランドセルを背負わされ、必死で早苗に付いて歩いていた。


 学校に着くと、まず職員室を訪ねた。するとまずそこで、職員室の先生方に真人の紹介をされた。それには二人も面喰らい、緊張がピークになってしまった。

「大丈夫ですか?木戸さんも、すごい緊張してますね」

 担任が気にして声をかけてくれた。普通はここで、「お母さん」と呼ぶのだろうが、昨日の打ち合わせの時、母親ではないから何と呼びましょうか?と言う話となり、続柄である「叔母さん」も却下。「早苗さん」も馴れ馴れしすぎると言うことで、木戸さんに落ち着いた。ただ、真人との会話の中では「早苗さん」となるだろうとのことだった。担任は佐々木と言う男性で、早苗よりも少し歳下と思われた。真人のことを気にかけてくれ、第一印象は特に問題なかった。真人も良い先生みたいだと言っていたが、早苗は根がひねくれているので、そんな真人を鼻で笑っていた。人間には、必ず裏表があるものなのだ。そして、行き着くところは結局「わが身可愛さ」なのである。

 職員室を出ると、早苗はわざと佐々木に聞こえるように真人に向かって言った。

「たぶん無いとは思うけど、もし誰かに苛められたら、まずやめてほしいとはっきり言うようにね。もし、それでもやめてくれないときは、私に教えてね。先生に言う必要はないからね。先生はたくさんの子供を見ているから、とても忙しいの。だから、先生の手を煩わせないで、私に直接言ってね。そうすれば、私が溝口さんや、黒田さんに相談するから」

「溝口さんって、あのお巡りさん?」

「そう、最近まとわりついてウザい、あのお巡りさん。真人はあのお巡りさんのお気に入りだから、きっと力になってくれると思うから」

 そして黒田とは児童相談所の相談員のことである。

 担任の佐々木も、児童相談所に直結していると、いろいろやりにくいだろうから申し訳ないとは思うが、これを利用しない手は無いので、早苗はしっかり活用させてもらう所存である。

「苛めなんかないから大丈夫ですよ」

 佐々木が慌てて口を挟んで来た。

「何かあったら、遠慮しないでまず先生に相談してね」

 教室に案内され、佐々木の後について教室に入る。早苗も真人もガチガチになっていた。

 全体のあいさつの後、佐々木が黒板に「木戸まこと」と書き、真人のことを紹介してくれた。クラスの子らのどよめきの中、ニコニコと笑いながら小さく手を振る女の子が目に入った。大川志乃だ。

―大川の野郎、裏で手を回したな?―

 早苗は勘繰った。真人を見ると、真人も気づいたらしく、嬉しそうに笑顔になっている。早苗は、つい舌打ちをしてしまった。それに気づいた佐々木が、妙に慌てた感じになった。



 真人を置いて学校を後にした早苗は、まっすぐ自宅へ向かった。

 自宅に入るとそこには誰もいない。いつもの木戸宅の姿だ。その様を見て、早苗は大きくため息を吐いた。幸せな開放感が溢れてきた。本音を言えば、このために今日まで会社を休ませてもらったようなものだった。

 長い一人暮らし。それに慣れ切った早苗には、たった数日の真人との同居でも、ものすごい精神的負担になっていたのだ。誰もいない空間の開放感。久しぶりの感覚に浸りながら早苗は床に崩れ落ちた。

 本当に、こんな生活に耐えられるのだろうか?今更ながらそんな疑問が湧き上がる。自分との生活で、真人が幸せになるとは思えない。きっと、かえって多くの負担を背負わせることになるだろう。しかし、香奈恵をおびき寄せるためには、真人を囮にすることが一番だ。それがいつになるのか、何年先のことなのか、それは早苗にも分からない。あるいは、その前に早苗の方が崩壊するかも知れない。もしかすると、それが香奈恵の狙いなのかも知れない。ならば尚更負けるわけには行かない。何としても、香奈恵をここにおびき寄せて見せる。そういう覚悟が早苗の胸に込み上げてきた。

 真人を引き取る事を決めた翌日、警察の方から電話が有った。香奈恵に関する報告であった。警察が調べたところによると、香奈恵の自宅だったマンションはすでに引き払われた後で、その後の行き先はまだ分かっていないとのこと。警察は、自殺の可能性もあるとして心配していたが、早苗はきっぱりと否定した。

「あの人は自殺なんかしませんよ。相手を犠牲にしても、自分を犠牲にするような人じゃないですから。もし、百歩譲って自殺が有ったとしても、絶対に一人では死にません。必ず真人も道連れにするはずです」

 警察の反応は無かった。

「でも、むしろ死んでくれたほうが、こちらとしてはありがたいですけどね。まあ、その時は死体の引き取りはお断りさせていただきますので、よろしくお願いします」

 ここまで言うと、相手の方も何か言ってきたが、早苗は構わずに通話を切ってしまった。

 早苗も、香奈恵がどうしているか考えては見た。結果、今までも、そしてこれからも世間一般のシングルマザー、もしくは独身女性と言われる人たちのような生活はしていないだろうと言う結論に至った。苦労とか地道とか言う言葉を嫌う、早苗とは真逆な性格の人間だ。そんな生活はしない。あの美貌と狡猾さを備えているのだ。男などいくらでも侍らせられるだろう。そして、どこかの高級クラブなどでガッツリ稼いで優雅に暮らしているに違いない。

 真人の様子を見ても、着るもの食べるものに不自由していた様子はない。体格を見ても栄養に問題があったとは思えないし、着ていた衣服も早苗が買ってきたものよりも良いものである。しかし、物は与えても、おそらく世話はしなかっただろう。学校にも行かせず、家に閉じ込めて、誰かに最低限の面倒を見させていた、そんなところか。

 ただ、いつまでも香奈恵のことにとらわれている余裕はない。今後の生活設計を根本的に見直さなくてはならない。そのために今日、保険会社の人と会って相談することとなっている。他人を家に入れるのは嫌なので、外で会う約束だ。外に出るのも人に会うのも嫌だが、こればかりは仕方がない。

「それまでちょっとひと休み、ひと休み」

 早苗は、スマホのアラームをセットした。




            *


「木戸君」

「木戸君」

 休み時間、さっそく真人は人気者になっていた。しかし、真人の方は群がる女子達に怯えていた。何しろ、今まで真人の周りにいるのはいつも大人ばかりで、子どもと話すことなどほとんどなかったのだ。実は学校と言う集団の中に混じるということ自体が、期待よりも不安の方が大きかったのである。

「真人くん」

 そんな中、一人だけほかの子らとは違う雰囲気の声が有った。それは、「私はみんなと違うの、真人くんの知り合いなの」「あなた達みたいな一見いちげんさんじゃないの」と言う、自信と余裕に満ちた声…。

 大川志乃である。志乃が一気にマウントを取りに来た。

 真人も、多少なりとも知った顔があるとほっとして、当然笑顔も出る。この瞬間、志乃のステータスが決まった。

「私が学校の中、案内してあげる」

 志乃が真人を連れて廊下に出た。女子の中にブーイングが上がった。男子たちにもざわめきが起きた。明るく可愛い志乃は、男子にも人気が有った。

「この前はありがとう。一緒に遊んでくれて」

 廊下を歩きながら、真人が恐る恐る声を掛けた。

「ううん、私も楽しかったから。でも急に帰っちゃうから残念だった」

「そうでしたね、早苗さんが急に帰るって言いだして」

「今、あの早苗さんていう人と暮らしているんでしょう?大丈夫?なんだか変わった人だったけど」

「そんなことないですよ。早苗さんは優しい人です。とても楽しいですよ」

「そうなの?」

 志乃は納得いかない様子だ。いかにも不思議そうだ。

「あの人って、男受けするのかな?」

「どうしてですか?」

「この前、真人くんが帰った後、溝口さんて人が来て『早苗さん、早苗さん』て大騒ぎしていたから」

「溝口さんってあのお巡りさんのこと?」

「え?知ってるの?あのおじさんのこと」

「はい。よく早苗さんを訪ねてきます。早苗さんは迷惑がっていますけど、警察が近くにいることは、メリットもあるとか言ってます」

「私もあのおじさんは苦手」

「そうですか?僕は好きです」

「本当?ひょっとして真人くんは、嫌いな人いないんじゃないの?」

 その質問に、真人はつい怯んでしまった。嫌いな人はいる。いるけれどもその人を嫌うのは、普通の人から見ると異常であることは真人にも分かっていた。そして真人自身、その人のことを忘れようとしてるところだった。

「真人くん?」

 志乃が不思議に思って声を掛けた。真人は微妙な笑顔を見せることしかできなかった。


 教室に帰ると、教室の雰囲気が変わっていた。真人に対する男子の目が冷たい。そして、志乃に対する女子の態度も冷たくなっているように感じた。真人にも、教室内に何となく不穏な雰囲気が漂っているのが感じられた。




 午後、小学校の児童用玄関で早苗は真人を待っていた。十分ほど待つと担任に連れられて真人がやってきた。

 真人は早苗を見つけると、嬉しそうに駆け寄った。

「お待たせしました」

「いえ、こちらこそありがとうございました」

 担任のあいさつに、早苗は深く頭を下げて礼を言った。

「真人君、授業にも何とか付いてきているようでしたよ」

「そうですか?それは良かったです」

「今日は、真人君も慣れない環境の中にいて疲れていると思いますので、ゆっくり休ませてあげて下さい」

「そうですね」

 早苗は面倒くさいやり取りを何とか早く切り上げようと苦心していた。しかし、佐々木は簡単には引き下がらなかった。

「あの、確かお二人は、今回会うまで会ったことが無かったんでしたよね?」

「はい?」

 突然、深い所に踏み込んで来た佐々木に早苗は不快感を感じたが、そこは堪えて口を閉ざした。

「その割に、真人君はものすごく懐いてますよね?」

 早苗はドキリとした。

「お二人の距離感がものすごく近くて、もっと昔から親しい仲だったように見えますよね」

 言われてみて納得した。確かに真人の反応は異常ともいえる。

 いくら母親の指示で早苗のもとに来たとは言え、全くの初対面の見知らぬ大人にそうそう懐けるものではない。真人の今までの早苗に対する反応には、有って当たり前の遠慮や警戒、ためらいなどが全くと言っていいほど思い当たらない。

 早苗は返す言葉が見当たらず、じっと佐々木の顔を見詰めるほかなかった。佐々木は早苗に見つめられ恥ずかしそうに目を逸らした。

「それよりもですね。大川志乃さんとはお知り合いなんですよね?」

 佐々木の突然の質問に、早苗は驚きとともに自分を取り戻した。

「はい、お父さんに市役所で相談に乗っていただいたご縁で」

「そうですか。いえね、真人くんがクラスの女子に大人気でして、大川さんも男子に結構人気がありまして、その二人が仲良くしているものですから、クラスの雰囲気がちょっと微妙になりまして」

 早苗は思わず吹き出してしまった。

「そうですか、小学二年生恐るべしですね」

「いや、確かにそうなんですが、笑い事じゃなくてですね」

 担任も困り顔だ。

「真人、クラスのみんなに迷惑を掛けないように気を付けなさい。分かりましたね?」

「はい」

 真人は躊躇なく答えたが、担任には本当に分かっているとは思えなかった。

「そうね、まず明日は志乃ちゃんにクラスの男子の紹介をしてもらいなさい」

 早苗は真人に向かってそう伝えると、真人の手をしっかりと握り、担任に挨拶をして学校を後にした。


「真人?」

 帰り道、早苗は真人に話しかけた。

「はい」

「人間って難しいでしょう?自分は何もしていないのに、なぜか自分が悪者にされていることもあるんだよね」

「え?僕が悪者になっているんですか?」

 真人は驚いたようだった。

「そうみたいだね。でも気にすることはないさ。明日、人気者の志乃ちゃんが、男の子との間を取り持ってくれるから、みんな友達になってくれるよ」

 あとは、志乃が女子の間でハブられようがどうなろうが、早苗には知ったことではなかった。


 早苗が通学路に選んだのは、少し遠回りにはなるが広い道を通り、交番の前を通るルートだった。帰り道、交番の前を通ると中に溝口の姿が見えた。早苗は、真人の手を引いて交番のガラス戸を開いた。

「あ、木戸さん、真人くんも」

 案の定、溝口が嬉しそうに近づいてきた。

「おかげさまで、今日から学校に通うことになりました。朝はしばらく私が付いていきますけど、帰りは一人になるので、ひょっとすると迷ってこちらのお世話になることもあるかもしれません。その時はよろしくお願いします」

 そう言って、早苗は真人の頭を押さえつけながら、自分も頭を下げた。

「そうですか!いよいよ真人くんも、学校デビューですか!お任せください!僕が責任をもってご自宅までお届けします!」

 溝口は、意気揚々と嬉しそうに答えた。

「あ、はい。もしもの時はどうぞよろしく」

 これで帰りのお迎えの心配はなくなった。早苗は一安心した。




「真人。ちょっとお話あるからこっち来て」

 早苗は家に着くとすぐに、居間のテーブルに真人を呼んだ。真人は寝室にランドセルを置くと、すぐに居間に出てきた。

「はい、何ですか」

 真人が居間のテーブルに着くと、テーブルの上に白い小さな箱が置かれていた。

「うん、ちょっと大事な話」

 早苗の様子が少し改まっていた。真人はちょっと緊張して座った。

「あのね、もしかしたらの話なんだけど、今後、真人のところに真人のお母さんが現れるかもしれないの」

 真人の顔に恐怖が現れた。

「あの人のことだから、突然何をするか分からないの。だから、まず、声を掛けられても絶対について行かないこと。すぐにその場から逃げること。分かった?」

「はい」

「そして、声を掛けられなくても、姿を見かけただけでも私に電話してほしいの。だから、今日これを作ってきました」

 早苗は、目の前の白い箱を開け、中からスマートフォンを取り出した。

「本来、小学生に必要なものではないと思うんだけど、やっぱりあったほうが安心かと思って準備しました。緊急の時は、交番に連絡することも必要かもしれないからね。できれば、そんなことはない事を祈っているけど」

 真人も真剣に聞いていた。

「だから、いざと言うときのために、使い方に慣れる必要が有るから、明日から家に着いたら必ず、私に電話するようにしましょう。いい?」

「はい、分かりました」

 これが、取り越し苦労であってほしいと早苗は願っていた。しかし、真人が一人の時に拉致されてしまうと、手の打ちようがない。一応、位置情報の確認もできるようには設定してもらっているが、それもどこまで効果があるものか不明である。これを、交番に相談するべきかどうか迷っている所だった。




            *


 翌日、早苗は久しぶりに出社した。

 学校まで送り届けた真人は、学校の前で緊張を顕わにしていた。その姿は、愛らしくもあり、可哀そうでもあり、とても不思議な気持ちになった。

 職場の同僚には、砂田の方から事情の説明が有ったらしく、みんなから励ましの言葉を貰った。早苗には周囲から励まされるなどと言うことは、経験が無かったので、却って恐縮してしまった。しかし、そんな同僚の大部分からは、奇異の視線を感じられた。当然のことだろう。普通の感覚では、何を大それたことをやっているのかと疑問に思うだろう。もし早苗が第三者の立場なら、当然愚かな行為として鼻で笑ってしまうことだろう。早苗としては、今までの人生そのものが笑いものであることは自覚していたので、今更その種が一つ増えたところで何ら問題は無い。今までも、そしてこれからも、変わり者の女として生きて行くだけである。ただ、職場から追い出されないようにだけ気を付ければいい事だ。


 午後、真人から電話が有った。早苗に仕事以外で電話がかかってくるのは、初めてかもしれない。

「もしもし、真人です。今、うちに着きました」

 真人の、少し緊張した声に頬が緩んだ。

「はい、お帰りなさい。ちゃんと電話出来たね。偉いね」

「はい、練習通りにやったから簡単でした」

「そう?学校は大丈夫だった?」

「はい。みんな仲良くしてくれました」

「そう?それは良かった」

 何でもない、他愛無い会話がなぜか、とても心に染み入る感じがした。

「あのですね」

 真人の声に、ためらいの響きが見えた。

「ん?どうしたの?」

「はい、帰りに志乃ちゃんが一緒に来たんです」

「はい?」

 今、意味不明な言葉が聞こえた。

「志乃ちゃんが、一緒にうちに来たんです」

「え?だってあの娘、方向がちがうでしょう?」

「はい、でも、一緒に勉強しようって言って、ついて来ちゃったんです。家に上げても良いですか?」

 早苗はうろたえた。想像もしない状況になっている。

「いや、それはまずいんじゃないかな?男女が二人っきりになるなんてちょっと」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。

 とにかく、あの志乃と言う娘は油断ならない。早苗の考えの遥か向こうを行っている。完全に男を引きずり回す、早苗の一番苦手なタイプだ。

 突然、真人の方からガタガタと雑音が聞こえた。

「どうしたの?」

 心配になり、声を掛けた。

「もしもし、木戸さん?」

 急に大人の男の声が聞こえた。

「僕、溝口です。僕も一緒だから心配いりません。三人でお帰りを待ってます!」

 そう言って、突然電話が切れた。

 早苗一人取り残された感じだった。

 完全に裏目に出た。悔やまれる失態だった。すぐに仕事を投げ出して帰りたい心境だったが、昨日の今日で早退と言うのは、さすがに周囲の目が気になる。諦めるしかなかった。




 夕方、早苗は息を切らして自宅玄関のドアを開けた。こんなに帰路を急いだのは初めてかもしれない。

 早苗の目に飛び込んできたのは、テーブルを囲んで笑顔を見せ、仲良く座る三人の姿。テーブルの上には教科書やノートがあり、真人と志乃が向かい合って勉強中なのが分かる。そして二人の間に大人の男、溝口が二人を眺めるようにふんぞり返っている。三人とも、息を切らして玄関に立ち尽くす早苗に視線を向けた。早苗も、あまりの当たり前な光景に、何と言っていいか分からず硬直したままだった。

「お帰りなさい」

 真人が嬉しそうに駆け寄って来た。溝口も素敵な笑顔で見つめている。

「ただいま」

 早苗がつぶやくように答えた。そして三人を見比べながら、絞り出すような声で言った。

「な、なんであんたたちがいるのよ」

「なんでって?志乃ちゃんは、真人くんと勉強しに」

 志乃が大きくうなずいた。

「俺は、真人くんが迷子にならないようにお迎えに行ってここまで連れてきてあげたんです」

 溝口は、得意そうに言った。おそらく、常識的にはここで、早苗は深く礼を述べるべきなのだろうが、その時の早苗は如何せんそんな余裕は持ち合わせていなかった。

「お志乃!あんた、こんな時間までなにやってるの?外はもう暗くなっているでしょう?うちの人も心配するし、帰り道あぶないでしょう!」

 珍しく早苗が感情的になった。

「お母さんには、溝口さんが電話してくれたし、帰りも溝口さんが送ってくれるから心配ないでしょう?」

 志乃も攻撃的になっていた。この娘、大人を怖がるとか、大人の顔色を気にするとか言うことを知らないらしい。

「大体、あんたも何でここに居るのよ!仕事はどうしたの!」

 早苗の怒りの矛先は、溝口に向いた。

「おれ、今日休みだったんで」

「だからって、なんで独り暮らしの女の家に勝手に入り込んでいるのよ!非常識でしょう!」

「でも、一応電話でお断りしておいたんですけど」

 溝口は、明らかにビビっていた。

「一方的に言って、勝手に切っちゃったじゃないの!私は、許可なんかしてないから!」

 早苗は持っていたカバンを溝口に投げつけた。

 早苗は、興奮で頬を赤らめ、肩で息をし、目には涙を浮かべていた。

「早苗さん!ごめんなさい!僕がうちに入ってもらったんです!」

 真人が慌てて早苗に駆け寄った。早苗は、真人の泣きそうな顔を見て、やっと我に返った。早苗はしゃがみ込み、真人の頭を抱いて、茫然とした。

「ごめん。私が悪かった。ちょっと、どうかしていた。真人は悪くない。ごめん。ごめん」

 そして、視線を居間の二人に移した。

「ごめんなさい。真人のためにやってくれたのに…」

 早苗は力なく立ち上がり、寝室へと向かった。そして、

「ちょっと待っててね。今、着替えたら夕飯作るから、食べて行って」

 そう言い残し、寝室の戸を閉めた。

「いえ、俺らもう帰ります。早苗さん、お疲れでしょうから、ゆっくりと休んでください。また来ます」

 溝口が慌てたようにそう叫ぶと、志乃の手を引いて玄関に向かった。早苗は、驚いたが着替えを始めたばかりだったので、出るに出られず、もたついているうちに、二人は出て行ってしまった。



 暗くなった道を、溝口と志乃がのんびりと歩いていた。志乃は不機嫌そうだったが、溝口は何故かにやけていた。

「おじさん、なんか気持ち悪い。何をにやついているの?」

「えー?志乃ちゃん、分かんないかなあ?さっきの早苗さん」

「なに?さっきのヒステリー?」

「ヒステリーじゃないよ。ただの、感情の高ぶり」

「同じでしょう?」

「違うよ。ちゃんと自分で感情をコントロールしたでしょう?あれはね、俺たちが早苗さんの気持ちを無視して勝手にやりすぎたせいなんだよ。早苗さんも、大きな負担を背負っちゃったから、精神的に大変なんだよ。そこを理解して上げなきゃね」

「ふーん?」

 志乃は納得いかないようだった。

「でもね、ああいう所って、男の心を揺さぶったりするんだよね」

「え?何それ」

「志乃ちゃんも覚えて置いたほうが良いよ。さっきの早苗さんのああいう表情、男にはすごくかわいく見えてさあ、胸がキュンってなっちゃうんだよね」

「何?不整脈とかいうやつ?」

「いやー、まだそんな歳じゃないけどね」

 溝口は、余韻に浸るようににやけて見せた。その時の志乃の、何とも言えない不愉快そうな表情を、溝口は見ていなかった。志乃にはただの切れたおばさんにしか見えなかったのだから。

 そして、思い出したように志乃は呟いた。

「さっきあのおばさん、私のこと『お志乃』って言った。ムカつく」

 その言葉も、溝口の耳には届かなかった。




「さっきはごめんね」

 夕食をとりながら早苗は再び謝った。

「良いんです。断り切れなかった僕が悪いんです」

 真人が、御八歳とは思えない言葉で早苗を慰めてくれる。こんな年端もいかない子供に慰められると余計落ち込んでしまい、食事中にも関わらず、ついため息が漏れてしまう。見ると、真人はぎこちないながらも早苗の教えたとおりの箸の持ち方になっている。何となく、恥ずかしさから真人を見れなくなってしまう。

 元々この部屋は早苗の隠れ家であり、逃げ場でもあった。そこに他人が入り込むと言うことは、早苗の内面に踏み込まれるようなものである。そこに真人と言う、例え子供であっても他人が入り込むこと自体、精神的負担になっている所に、全く予期せぬ二人がこじ開けるように侵入してきたのだから、精神的限界を超えてしまったのだった。しかも、ドアを開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、真人の遠慮もためらいもない、素直な笑顔だった。それは、この数日間早苗が見てきたものとはまた違う笑顔にも見えた。早苗にとって真人が負担であると同様に、真人にも早苗が負担を与え、自然と早苗の顔色をうかがうようになっていたのだろう。遠慮していないようで、実はけっこう遠慮していたのかもしれない。結局どう取り繕っても、真人にとってはここは客地でしかないのだ。早苗よりも溝口の方が、気楽につき合えて当然だろう。

「真人は、溝口さんのこと、好きかい?」

 真人は、突然の質問に少し戸惑った様子だった。

「はい、僕は好きです」

 遠慮がちな答え方が、いかにも早苗の顔色を見てるな、と言うことを感じさせる。

「そう?楽しいの?」

「はい。すごく面白い人です」

 言い方に、遠慮が消えた。

「そう?溝口さんも忙しいから、あまり迷惑をかけないようにね」

「はい、分かりました」

 真人は嬉しそうに答えた。

「志乃ちゃんは?」

「はい、今日志乃ちゃんに、僕のことをクラスの男の子たちに紹介してもらったんですけど、みんなすごく話しかけてくれるようになりました」

「志乃ちゃんは親切にしてくれるんだね?」

「はい、すごく親切です。今日もいろいろ分からないところを教えてもらったんです」

「そう?じゃあ、仲良くしてもらいなさいね」

「はい」

 真人は、嬉しそう、と言うよりも楽しそうであった。

 友達の必要性は、早苗には疑問である。ただ、今の真人には友達と言う、早苗とは違う世界が必要なのかもしれない。考えて見れば、早苗も家庭と言う世界を抜け出して、「ひとり」と言う世界に逃げて来たのだ。真人にも、早苗と言う世界とは違う、別の逃げ場が必要なのかもしれない。

「真人?」

 改まった呼びかけに、真人は少し驚いた様子で箸を止め、早苗を見上げた。

 早苗は言うべきかどうか迷ったが、今後のことを思い敢えて言うことにした。

「ここには、お友達を入れないようにね」

 真人は不満そうな顔をした。

「子供だけでいるのは危ないの。何か事故が有ったら大変だから」

 真人はじっと何かを考えていた。

「早苗さん?」

「何?」

「今日みたいに、溝口さんが一緒でもダメですか?」

 真人のねだるような言い方に、早苗は戸惑った。

―必要なこと、物があったら遠慮なく言いなさい―

 それは何日か前に早苗が言った言葉だった。そんな言葉、おそらくこの子には必要なかったのだろう。この子は、他人から言われた言葉に無条件に従う子ではなく、自分の要求を主張できる子供だった。考えて見れば、出会ったあの日にその片鱗は見せていたではないか。

―この子は環境に流されない、したたかな子だ―

 真人の母親、香奈恵も自己主張の強い性格だったが、真人のようにストレートに自分の意見をぶつけるのではなく、のらりくらりと相手の心を誘導しながら自分の都合のいいように話を持っていくスタイルであった。おそらく真人は香奈恵ではなく笹本に似たのだろうと感じた。

 その真人は今、早苗だけではなく、志乃や溝口とも親しくなりたいと言って来ている。自分が真人くらいの年の頃にはどうだったろうか?そんなに友達と一緒にいたかっただろうか?早苗が小学生の頃は、学校から帰るといつも家で一人でテレビを見たりゲームをしたりしていた。親は仕事、姉は社交的だから小学生の頃から、いろんな友達と夕方まで遊びまわっていた。だから、夕方までは一人でいるのがほとんどだった。それが早苗にとっては安らぎのひと時で、一人で自由にしていた。そして、放課後誰かと遊ぶなどと言うことは、まずあり得なかった。なのに、真人はそこまでして友達と遊びたいのか。

―そうか―

 早苗は気づいた。早苗と香奈恵が違うように、早苗と真人も違うのだ。家族とは、考え方も好みも違う人間が、同じ空間に暮らすことなのだった。

「でも、溝口さんも忙しいから迷惑になるでしょう?」

「じゃあ、溝口さんが良いって言ったらどうですか?今日も溝口さんが学校まで迎えに来て、ここまで送ってくれたんです」

 真人もしつこく食いついてくる。意外だった。この子は自分とは全く違うんだと実感した。

「その時は電話ちょうだい」

「はい!」

 真人は安心したように笑顔になった。

「でも、無理にお願いしちゃダメだよ」

「はい、分かってます!」

 素直そうな顔をして、思いのほか押しが強い。親に似たのか、なかなか侮れない子供だ。ひょっとしてこいつ、本当は猫をかぶっているだけなんじゃないか?と言う疑問が、早苗の脳裏をよぎった。




 真人が布団の中で寝息を立てている。寝顔は至って素直そうな顔だ。この小さな幼い子供も、一つの人格であり、個性であり、早苗には理解できない世界を持っているんだと、今日思い知らされた。この子の思いに合わせれば、早苗はストレスに押し潰される生活を強いられ、早苗の思いに合わせると、この子に我慢を強いなければならない。これが職場なら、仕事と言う銘文が有るから答えは出しやすい。そしてそれに従いきれない者は、そこから逃げ出すことも出来る。しかし、私生活においては「家族」と言う名目以外何もなく、更に逃げ場もない。しかも、この安アパートでは隠れる場所もない。

 本当にまともな生活が送れるのだろうか。不安が恐れに変わりつつあった。早苗に子供を育てる資質がない事は、分かり切っていたことだ。そして、そればかりか他人と暮らすこと自体出来ない人間なのだと言う事実が明白になった。

 しかし、真人を引き取ることにしたのは、香奈恵をおびき出すのが目的だ。

 そうだ、そのために無理を承知で引き受けたのだ。真人はあくまでも囮としての道具でしかない。キレイ事ではない。復讐と社会の掃除のために選んだ手段だった。もう、人生は捨てたのだ。すべては、香奈恵を迎え撃つためにあるんだ。それを肝に銘じ、真人の寝顔を見ながら新たに決意を固める早苗であった。




            *


 次の日の午後、早苗のもとにまた真人から電話が掛かってきた。すでに早苗は、これを心待ちにしている所があった。スマホの着信の表示が真人の名であるのを確認すると、つい頬が緩んでしまう。周りの人に見られぬよう顔を伏せて電話に出る。

「もしもし早苗さんですか?」

「はい、早苗です」

「今、お家に着きました」

「はい、お帰りなさい。私もいつもぐらいの時間に帰るから、おとなしくお留守番していてね」

 顔だけではなく、声まで緩んでしまいそうである。

「はい、分かりました。それでですね、あの…」

 早苗の背筋に悪寒が走った。昨日の今日で、また溝口か?緩みかけた声が引きつった。

「なに?どうかしたの?」

 早苗の声が、自然といぶかし気になる。

「はい、あの…」

 真人の声にも怯えが滲んだ。

「今日は志乃ちゃんが来てまして」

「今日は?今日もでしょ?」

 平静は装って入るが、明らかに言葉にトゲがあった。

「はい、そうです。今日も来ているんですけど」

 真人の答えに、早苗は込み上がる憤りを抑えこんだ。

「溝口さんは居ないの?」

「はい、今日は志乃ちゃんだけです」

 早苗は深呼吸を一つ吐いた。

「昨日言ったでしょ?子供だけは危ないからダメだって」

 早苗には十分わかっていた。真人は断っているはずだと。おそらく、志乃がほぼ強引に押しかけてきているのだ。

「はい、そう言ってダメだってお願いしたんですけど…」

 やはりそうだった。志乃と言う娘は、いい子だと言うことにしてあげてもいいのだが、どうにも我の強いところがある。

「いい?真人。昨日も言ったように、子どもだけで居てもし怪我でもしたら大変なの。お願いだから今日は帰ってもらって」

 早苗は、極力優しくお願いした。

「早苗さん!真人君ひとりでもケガすることは有るんじゃないの?」

 電話の声が、突然甲高くなった。志乃の声だった。志乃が割って入ってきた。

「一人で居ても二人で居ても、ケガするときはケガするんですよ!でも、もしケガしたとしたら一人よりも二人の方が安心なんじゃないですか?」

 電話から聞こえてくる志乃の声は、ケンカ腰である。大人相手に物怖じしない、鼻っ柱の強い娘だ。その意外さに、早苗もつい気後れしてしまった。

「大体、私は女の子なんだから、怪我するような危ないことなんかしないんだから。ただ、真人君と一緒にお勉強するだけなの!そんなことより早苗さん!真人君を一人で留守番させておいて、可哀そうだと思わないの?」

 早苗はドキリとした。

「真人君、お母さんと別れたばかりで、それでなくても寂しい思いしているんでしょう?それなのに、賑やかな学校から帰って来て、急に一人になっちゃったらどれだけ寂しいだろうか、なんて考えないわけ?早苗さんが帰って来るのなんて、もう暗くなってからなんでしょ?真人君は、だんだん暗くなっていく中、早苗さんはいつ帰って来るんだろうって心細い思いをしながら、じっと待っているんだよ?そりゃあ、真人君は早苗さんに心配かけたくないから大丈夫ですって言うだろうけどさ、そんなの大丈夫なわけないでしょ!真人君は我慢してるんだよ!それ考えたら、私なんて真人君が可哀そうで黙って見ていられないんですけど!」

 見事に、早苗の一番痛い所を突かれた。早苗が気付いていながらも、敢えて気付いていないことにしていた事実である。早苗には返す言葉が無かった。早苗のスマホからは志乃の激しい息遣いが聞こえ続けている。そこからは志乃の興奮状態がひしひしと伝わってくる。

 ただ、早苗にも言い分はあった。

 放課後、児童クラブに預けると言う手段もあったが、終了時間が十八時である。そこは自宅からそこそこの距離があり、これから暗くなるのが早くなるのに一人で帰らせるのが忍びなかった。それならむしろ、自宅に閉じこもっていてもらった方が早苗としては安心だったのだ。

 しかし、それは全て早苗の都合である。真人の気持ちはどこにも反映されていないのも事実だった。

「あんたの親はなんて言ってるの?」

 早苗は、平静を保ちつつ何とか声を絞り出した。

「早苗さんに迷惑かけないようにしなさいって言ってたけど」

 志乃の返答はふてくされていた。

「もう十分迷惑かけてるでしょう?」

「何言ってるの?私は早苗さんのお手伝いをしているんだよ?早苗さんがいない間、早苗さんの代わりに真人君のお世話をしているんだよ?どこが迷惑なの?」

「世の中ではそれを余計なお世話とか、お節介と言うの!」

「早苗さん、小学生相手に難しい言葉使わないでもらえる?難しくて分かんないんですけど」

 志乃の声は、すっとぼけていた。

「木戸さん、大丈夫ですか?何かありました?」

 突然、背後から誰かの声がした。早苗が驚いて振り返ると、そこには同僚の女性が心配そうに立っていた。机の上にうずくまるようになって何かごそごそ言っている早苗を見て心配になったのだろう。

「あ、大丈夫です。ちょっと子供と話を…。仕事中に済みません。もう終わりましたので、申し訳ありませんでした」

 早苗は慌てて通話を切ってしまった。

「そう?電話はいいんだけど、具合が悪いのかと思って。何ともないならいいんだけど」

 女性は、怪訝そうに立ち去った。

 危ない所だった。早苗は対社会的、特に職場においては目立たない無害な人間を演じて行かなければならないのだ。例え真人を養うようになっても、あくまでも「無難」を貫いて行かなければならない。

 それにしても、あの大川志乃はどうしたものか。早苗は困惑していた。




 早苗が帰宅すると、志乃と真人は楽しそうにテレビを見ていた。

 その姿を見ると、昼間の志乃の意見も納得せざるを得ないものを感じた。帰りに買い物をして来たこともあり、時刻はもうすぐ七時になろうとしている。外はもう暗くなりつつある。この時間まで真人を一人にしておくのは確かに酷いと言えば酷いかもしれない。

 ただ、世の中にはそんな家庭はいくらでもあると言うのも事実である。しかし、一般的であることが正しいことかと言うとそれもまた違う。理想的だからそうしているのではなく、そうせざるを得ないからそう言う手段を取っているだけなのだ。多くの保護者は何も好き好んでそうしている訳ではない。そして、みんな苦労しているのだから、自分だけ特別扱いは出来ないと言う理論も成り立たない。皆と同じではなく、自分の道は自分で選ぶべきなのかもしれない。

 真人の楽しそうな顔を見ると、この志乃と言う小娘を真人のために利用するのも悪くはないかもしれないと思えて来た。それに、香奈恵のこともある。志乃が一緒にいれば、もし香奈恵が近寄ってきても志乃が食って掛かるだろうから香奈恵も手こずるかも知れない。

「お帰りなさい」

 真人が駆け寄って来て、その笑顔を早苗に向けた。それだけで早苗の中のもやもやがすっきりと消え去った。

「お志乃、さっきはゴメンね、電話、途中で切っちゃって」

 警戒した目で早苗を見詰める志乃を牽制するように、早苗は笑顔を見せた。志乃の表情の警戒が深まった。早苗の動きを見ているのだろう。

「職場の人に不審がられちゃってさ。仕事中に私用の電話はあまり良く思われないんだよね」

「じゃあ、僕の電話も良くないんですか?」

 真人は慌てていた。

「ううん、それは大丈夫。簡単に受け答えするぐらいなら大丈夫。さっきはちょっと長く議論しちゃったからね」

 早苗は笑顔を保ったまま志乃のもとに近づいて、ゆっくりと腰を下ろした。

「私もあれから考えたんだけど」

 早苗の優しい言葉使いに、志乃の顔の警戒が緩んだ。

「お志乃はここで、真人と勉強するだけなんだよね?騒いだりどこかに出かけたりはしないんだよね?」

「そうよ。真人君とお勉強して、時々休憩したりちょっとお話ししたり、そのテレビは今日の分のお勉強が終わったから見てただけ」

 志乃は、早苗の反応を気にしながら、ひと言ひと言慎重に答えた。

「そう?なら良いわ。今日、あなたのお家に行ってご両親と少し相談します」

 志乃の顔がいぶかしそうに曇った。



 早苗は、真人を連れて志乃の家の前に立っていた。賃貸らしいが鉄筋コンクリートのまだ新しい奇麗なマンションだ。のん気な真人に比べて、志乃の方はそわそわと落ち着きがない。これから何が起こるのか不安なのだろう。そして当の早苗も不安に揺れていた。前回ここに来たときに、ある意味啖呵を切ってしまった手前、どういう顔で逢えばいいのか困惑してた。

 志乃がインターホンを鳴らした。すぐに女性の声で返事があった。母親の真由美の声だ。

「私!早苗さんも来てるよ」

 志乃の声にも、不安が滲んでいるように聞こえた。

 少しすると玄関のドアが開いた。早苗のアパートのような薄っぺらなものではなく、もっと重々しいドアだ。

 ドアの向こうから真由美の笑顔が見えた。

「いらっしゃい。あー真人君久しぶり!いつも志乃と仲良くしてくれてありがとうね」

「僕の方こそ、志乃ちゃんのお世話になってます」

 真由美の笑顔に答えるかのように、真人も笑顔を返した。

「早苗さんもいらっしゃい。いつも志乃がお邪魔してごめんなさいね。良かったらちょっと入りません?」

 真由美は、笑顔はそのままに少し落ち着いた声だった。その笑顔のおかげで早苗も気持ちが楽になった。

「いえ、今日はここで失礼します。こちらこそ志乃ちゃんのおかげで真人が寂しい思いをせずに助かっています」

 真由美の笑顔とは対照的に、早苗の表情は非常に硬かった。

「いつも遅くまでお預かりして、ご迷惑じゃなかったでしょうか」

「いえ、うちの方は全く問題ないですよ。行き先もはっきりしてるし、うちの人も付き合いがどうので、帰りが遅いことも多いし、夕食も遅いから。ほら、今日もまだ帰ってきてないんですよ」

 そう言い終わると、真由美の笑顔は憂いを帯びた。

「早苗さん、あんまり厳しく考えないで、多少甘えてくれてもいいんだよ?正直、うちの志乃も真人君と仲良くして嬉しそうだし、宿題もしっかりやってるみたいだし、助かっているんだから。お互い様だと思って。あと、もし良かったらそちらだけじゃなくて、時々こっちで預かってもいいんだよ?」

 その言葉に志乃が歓声を上げた。早苗は慌てた。この夫婦とは、いろんな意味でなるべく馴れ合いたくなかった。




 帰り道、早苗と真人は手を繋いで並んで歩いていた。真人の歩調に合わせ、ゆっくりと。辺りはもうすっかり暗くなっている。寂しい夜道のはずなのに、真人は何となく浮かれているようだった。早苗も同じく浮かれているような気分だった。

 それは、早苗にとっては先程までの緊張を解きほぐすのに丁度いい雰囲気でもあった。

 こうして二人で夜道を歩くのは、最初のあの日以来かも知れない。あの時の状況は、早苗が真人を交番に連行するような感じだった。一刻も早くこいつを処分したいと言う思いしかなかった。人間に対する感情と言うものは、わずか数日でここまで変わるものなのだ。

 早苗にも分かっていた。それは早苗が愛情にあふれているとか、血の繋がりだとか、そう言う理由ではない。その理由はあくまでも真人の側にある。真人は、愛らしいその外見に加え、人懐っこい素直な性格を持っている。それゆえに早苗も真人を受け入れることが出来たのである。もし、真人の外見が悪く、言うことを聞かない、とっつき難い性格だったとしたら、早苗は決して真人を受け入れることは出来なかったことだろう。そう言う性格が持って生まれたものなのか、それとも生きるために身につけた術なのかは早苗にも分からない。ただ、そんなことに気を遣わず、気楽に自由に暮らせる環境を提供して上げたいと思う早苗であった。

 真人が来る前の早苗の生活も、何か不満があったわけではなかった。毎日、淡々と続く生活。それはそれで実に心地よいものだった。しかし、真人を迎えてまだ数日しかたっていないにも関わらず、早苗の生活に潤いのようなものが現れた気がする。人の幸せとは、いろいろな形があるものなのだと感じさせられる。

 志乃のことは、結局今のまま放課後早苗宅で過ごすと言うことで決着した。ただ、今までのように直接早苗宅へ向かうのではなく、一度志乃の家に寄って志乃のカバンを置いてから早苗宅へ向かうと言うことにした。

 まず、学校から各自の家に帰宅してから志乃が早苗宅へ向かうと言う方法もあったが、どうせなら真人が一人になる時間を減らしたいと思い、一緒に帰ると言う方法を提案した。真由美は大らかな性格なのか、早苗の提案を二つ返事で承諾した。


「こういうの、デートって言うんですよね?」

 真人の突然の発言に、早苗は驚いて真人を見た。真人は嬉しそうに早苗を見上げていた。その無邪気な表情に早苗も思わず笑顔になった。

「そんな言葉、誰に教わったの?」

 思わずついて出た言葉に真人の笑顔が固まった。答えたくないことは明白だった。早苗はそのまま何事もなかったように言葉を繋いだ。

「でも家族の間ではデートとは言わないかな?…」

 しかし、その後に「お志乃だったら」と言う言葉が出そうになったので、反射的に言葉を切ってしまった。何か、ものすごく認めたくないと言う感情が込み上げてきたのだ。

「僕と早苗さんは、家族なんですね?」

 そんな早苗の感情にはお構いなしに、真人が嬉しそうな声を上げた。早苗が見ると、真人ははにかんだ笑顔を見せている。

 母親にはなれない。真人にそう伝えた経緯がある。真人がその言葉をどうとらえたのかは分からない。もしかしたら早苗との関係を把握しきれずに悶々としていたのかもしれない。それで、一応家族であることを確認出来て安心したのだろうか。早苗の胸に、何か切ないものが込み上げて来た。

 早苗は、立ち止まるとしゃがんで真人の肩を抱き寄せた。

「そうだよ。私とあなたは、もう家族だからね。大事な家族。よろしくね?」

「はい、よろしくお願いします」

 真人の声は照れくさそうであった。




            *


 翌日の夜、早苗はいつものようにテーブルにもたれてテレビを見ていた。もう、九時も回っていたので真人の時間は終わり、早苗が自分の見たい配信映画を見ていた。

 すると、夜着に着替えた真人が早苗の隣にくっ付いて座り。一緒にその映画を見始めた。

 早苗は一瞬どうしようか迷った。その映画が、ちょっと大人向けだったからで、子どもに見せたくないようなシーンが出て来そうな内容だったからだ。早苗は、あまり恋愛やロマンス系の映画は見ない。男女の悶々とした感情の世界は、早苗には理解不能であり、時に苛立ちさえ覚えることがある。それ故、早苗の好みはそれとは違うジャンルの方に偏ってはいるが、ただ特にアメリカの映画は、どんなジャンルにも男女の絡みと言うものが付きもので、避けては通れないのである。

「寝なくて大丈夫なの?」

「大丈夫です」

 早苗としては、寝不足で授業中居眠りしても、それも経験だと思っているのでそれは別に構わなかった。

「これ、大人用だからあまり面白くないかもよ?」

 早苗は、軽く真人を牽制してみた。

「早苗さんと一緒なら、何でも面白いです」

 真人は、早苗の顔を見上げながら嬉しそうな笑顔を見せた。その顔を見て、早苗は思わず顔が融けるかと思った。

―あの顔でそんなことを言うのは反則だろう!―

 心の中で、思いっきり叫んでいた。そして、女でも鼻の下が伸びることを初めて知ったのだった。

―こいつ、天然ジゴロだ―

 早苗はそう確信し、末恐ろしいものを感じた。

 そんな早苗の動揺など、知る由もない真人は、早苗にぴったりと身を寄せ、軽く早苗にもたれかかるようにしてテレビを見ている。寝ているかと思い時々確認して見るが、思いの外真剣に見ている。こんな、大人の世界のどろどろとした話、見ていて分かるものかと不思議な感じがしたが、まあいいかと思い放っておいた。

 するとそのうちに、いよいよお約束の濡れ場が始まった。

 早苗は、まずいかな?と思う前に、どんな反応をするか気になってしまい、しばらくそのまま見させてみた。

 しばらく見ていると、早苗が見てもちょっと露骨すぎて不快に感じるようになって来た。少し先へ飛ばそうと思い、リモコンに手を伸ばした時、それまで黙って見ていた真人の体が震え出したような感じがした。興奮し出したかと気になって早苗が見てみると、真人は目を見開いて口を大きく開けて喘ぐようにしている。そしてすぐに怯えの表情が現れ、大声をあげて泣き始めた。

 早苗は驚いて、すぐに真人の顔を自分の方へ向け両腕で抱きしめた。

「どうしたの!」

 早苗も慌てて叫んでしまった。真人はただ泣きながら暴れている。これは泣いているというよりも、発作と言った感じである。

「大丈夫!怖がらなくていい!」

 早苗が叫んでも、真人には通じない。そのうちに真人は突然嘔吐した。早苗の腹に、生暖かい液体が広がった。

 早苗は咳き込む真人の両脇に手を入れて持ち上げ、真人を抑え込むように抱きしめた。

「忘れなさい!忘れて良いよ!嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、全部忘れなさい!しまって置かなくていい!全部捨ててしまいなさい!」

 真人は、どうしていいか分からないかのように、激しく手足を振り回している。早苗の力では抑えきれない。早苗は、両腕に力を込めて抱きかかえた。

「あなたはもう、変わったの!昔の真人じゃないの!ここに来る前のことは、全部無かったの!あなたはここで産まれたの!私と会ったあの時に今の真人が生まれたの!だから、昔の事は忘れなさい!あれは全部嘘だったの!作り話!悪い夢だったの!ここではあんな辛い思いはさせないから、私が守るから!大丈夫だから!私だけじゃない!志乃ちゃんもいる!溝口さんもいる!みんなあんたの味方だから!安心して!」

 早苗が思いつくままに真人に向かって叫んでいるうちに、真人も疲れたのか次第に大人しくなって来た。そして、しばらくすると早苗に抱き付いたまま寝入ってしまった。

 早苗は、しばらくの間そのまま動けずにいた。涙だけがとめどなく流れてくる。この子にいったい何があったのか。あの女は、いったい何をしたのか。早苗には何も分からなかった。いつも明るく、穏やかな真人の心の中にどんな悲しみがあるのか、今まで考えもしなかった。もしかすると、真人は早苗が思っていた以上に必死で救いを求めていたのかもしれない。

 真人を床に降ろし、夜着を脱がせてタオルで拭く。非力な早苗には、こんなことでも大仕事である。真人の身体に、痣や傷のようなものは無い。だからと言って、心も無傷だとは言えない。それも分かって上げられなかった。真人の明るさに騙されていた。

 何とか服を着せて、布団まで運ぼうと真人を持ち上げて見ても、持ち上がらない。必死に頑張って持ち上げても落としそうで歩けない。仕方なく布団を居間に敷き、その上に真人を転がして載せた。

 早苗には、真人一人持ち上げる力が無いのである。果たして自分に真人を守る力があるのか、疑わしくなってくる。ずっと涙が止まらない。悲しくて、悔しくて、どうすることも出来なかった。

 自分の衣服も着替えた早苗は、ベッドから早苗の布団を運び、真人の隣でくるまって寝た。真人は穏やかな顔で寝ている。まだ微かに胃液の酸っぱい匂いがする。明日の朝、シャワーをさせよう。そう思いながら、真人の小さな手を握った。





 ある日の放課後、志乃と真人は帰宅するためにいつものように二人そろって校門を出た。

「あっ!」

 真人が突然何かを思い出したように叫んだ。

「スマホ貰ってくるの忘れてた!」

 いつもは帰り掛けに志乃と二人で職員室に寄って、担任の佐々木からスマホを返してもらってから校舎を出るのだが、今日はクラスの子等と一緒に騒ぎながら教室を出たものだから、職員室に寄るのを忘れていたのだった。

「ちょっと行ってくるから志乃ちゃん待ってて」

 真人はそう言って校舎の方へ走って戻って行った。そして志乃は真人の後姿を黙って見送っていた。

 ところが、志乃がふと気が付くと、校門の反対側に女性が一人立っているのが見えた。つばの広い帽子をかぶり、大きめのサングラスをかけた大人の女性。その、顔を隠した状態でも、志乃にはその人がかなりの美人であることははっきりと分かった。そして若くは見えるが早苗と同年代くらいであろうことも。そして志乃は気づいていた。その女性が真人のことを見詰めていたと言うことを。

 小学二年生の志乃にも、所謂「女の感」はあった。

―このひと、真人を狙っている―

 志乃はその女に歩み寄ると、少々攻撃的な口調で話しかけた。

「おばさん誰ですか?」

 女は突然の出来事に驚き、明らかに動揺した表情で志乃を見詰めた。

「誰かのお母さんですか?」

 女は何も言わずに志乃を見詰めていた。志乃はこの女に対する不信を強めていた。女の反応が明らかにおかしかったからだ。

「誰か探してるならお手伝いしますけど」

 しつこく食い下がる志乃に恐れを成したのか、女は不意に志乃に背を向けるとその場を立ち去ろうとした。これに志乃が反応した。

「おばさん、真人のことを見てたでしょ!」

 志乃の叫びに女の動きが止まった。図星だったかと、志乃はほくそ笑んだ。

「おばさん、子どもが趣味の変質者でしょ?」

 志乃の予想外の言葉に女が吹き出し、肩を震わせて笑いを堪えた。

「何笑ってるのよ!」

 志乃がムキになって声を荒げると、女は笑いを堪えながらゆっくりと振り返った。そしてサングラスを外すと優しい笑顔で志乃を見た。

「お嬢ちゃん、あの男の子の彼女?」

 その笑顔は、志乃が今まで見た誰よりも美しい笑顔だった。志乃も幼いながら、テレビや雑誌で数多くの女優やモデルを目にして来た。皆それぞれ美しく素敵な人達だったが、今、目の前にいるこの女性は、その誰よりも遥かに美しく、ひょっとして志乃が知らないだけで、この人も女優か何かではないのかと思うほどであった。

「ごめんなさいね、あの子があんまり素敵な子だったのでつい見とれてしまって。でも大丈夫、おばさんはあなたの彼氏には手を出さないから、安心して」

 微笑みながらそう言う女の笑顔には、志乃では到底敵うことのない余裕のようなものを感じた。それはあたかも志乃を手玉に取るような余裕に満ちたものであった。そしてその雰囲気には、何となく早苗の意地悪さのようなものが重なって感じられたりもした。

「じゃ、さよなら。彼氏によろしくね?」

 最後に余裕の笑顔を見せると、女はそのまま去って行ってしまった。

 志乃は茫然とその後姿を見送っていた。敵対心と共に憧憬の念を持って。

「志乃ちゃん、どうしたの?」

 突然、後ろから声を掛けられた。振り向くと真人が立っていた。息を切らしている。きっと志乃を待たせるのを憂いて、急いで駆けて来てくれたのだろう。志乃は嬉しくなった。

「ううん、何でもない。じゃ、帰ろ?」

 二人はそろって歩き出した。

 志乃には、さっきの女が何者なのかは分からない。特に興味もなかった。ただ、真人のことを見詰めているのが気に食わなかっただけだ。真人のことを褒められたりするのは志乃も気持ちよかったが、しかし、関心を持たれすぎるのは気に入らない。とにかく、真人の周りには、真人に取り入ろうとする女子が多すぎた。同じクラスのみならず、他のクラスからも遠征してくる女子がいるのだ。志乃としては気が気ではない。更に問題なのは、真人自身があまりに社交的過ぎて、誰とでも親しく接してしまうのである。それは女子に限らず、男子に対しても同じなのだが、志乃としてはその度に身の縮む思いをさせられるのだった。

 それが今回、年上の奇麗な女性が真人に目を付けたのだから、放っては置けなかった。真人だって幼い小学生よりは、大人の美人の方が良いかもしれない。とにかく志乃は、真人が女子から人気がありすぎるのが気に入らなかった。だから今回のことも真人を付け上がらせることになるかもしれないような気がして、黙っていることにした。

 志乃は、真人の過去に対して何も知らされてはいなかったのだ。




            *


 ある日の朝の始業前のザワついた教室の中、自分の席にひとり座っていた真人のもとに数人の男子が近づいて来た。ちょっと、やんちゃなタイプの子達だ。

「ねえ、真人」

 普段、話しかけて来ない友人たちが話しかけて来たのを見て、真人は驚きと共に嬉しさをもって彼らを迎えた。

「お前、お母さんに捨てられたんだってな?」

 男子たちのリーダー的な立ち位置にいる曽根君が、ストレートに聞いて来た。その声は、当然周囲にいる他の子らにも聞こえ、周囲の視線が真人たちに集まった。

 真人はストレートな質問に多少驚きながらも、はっきりと答えた。

「はい、そうなんです」

 その表情は神妙だが、悪びれた雰囲気は無かった。

「それ、ひどい親だよな?」

「はい、確かにひどい親だったと思います」

 真人は、残念そうに答えた。

「お父さんも居ないんだろう?」

「はい」

「お父さんもお前を捨てたのかよ」

 真人はちょっと考えた。

「それは、良く分からないんです。なんか、僕がもっと小さいときに死んだらしいんです」

 周りの子らは、一気に引いた。小学二年でも、この話題が厳しいことは分かった。しかし、曽根君は更に突っ込んで来た。

「うちのお母さんが言ってたんだけどさ、そう言う複雑な家に育った子は、ろくな人間にならないから付き合っちゃダメなんだって」

 離れて女子と話をしていた志乃が、慌てて立ち上がった。すぐに駆け寄って割って入ろうかと思ったが、座ったまま曽根君たちを見ている真人の姿が、あまりに落ち着いているのを見て、ついその成り行きを見守ってしまった。

「それは、君のお母さんが言ったんですか?」

 真人が静かに言った。

「そうだよ」

 曽根君も静かに答えた。

「じゃあ、君もそう思ったんですか?」

「え?」

 真人の質問に、曽根君は戸惑いの色を見せた。

「君も、お母さんが言う通りだと思ったわけですか?」

 真人が繰り返し問いかけた。曽根君は、気を取り直して力強く答えた。

「そうだよ。俺もそうだと思うよ」

 真人はその答えを聞いて、残念そうに肩を落とした。

「そうですか。それじゃあ、仕方ないですね。分かりました」

「何が分かったんだよ」

 曽根君が困ったように聞き返してきた。

「何がって、僕と君は友達になれないんでしょ?」

 曽根君が少し怯んだ。

「…そうだよ…」

「うん。だから、もう話しかけなくていいですよ。僕も、君たちとは話さないようにしますから。それと、先生にはあとで僕の方から説明しておきますから」

「なんだよ!チクる気かよ!」

 曽根君が急に大声になった。

「え?チクるって?」

 真人には何のことか分からなかった。

「先生に言いつけるのかって言ってんだよ!」

「え?ダメですか?でも、先生に説明して置かないと、僕と君たちが喧嘩しているかと思うんじゃないですか?」

「お前、何言ってんだよ。これは喧嘩みたいなもんだろう?」

「え?違うでしょ?僕も君も、喧嘩になるようなことは、何もしてないですよね?」

 曽根君たちは、何も答えられなかった。

「だって、君のお母さんが、僕とは付き合っちゃいけないと言って、君もそうだと思ってるんだから、それは、君の家の方針ですよね?僕もその考えを、間違っているとは言い切れないから、反対出来ないんです。だから、これは喧嘩じゃなくて、君のお母さんの方針に従うだけなんです。だから、僕と君が話をしないのにはそう言う理由があることを、先生にも知らせて置かないといけないんじゃないですか?」

 真人の熱弁を離れて見ていた志乃は、予想外の展開に思わず見入ってしまった。

「何、わけわかんないこと言ってんだ。そんなこと、先生に言わなくていいんだよ!」

「なんで?先生にはきちっと説明するように早苗さんにも言われているし」

「そんなの、関係ないだろ?俺の言う通りにしろよ!」

「いや、ダメだよ。これはうちの方針だから」

「しつこい奴だなあ!」

「なんで、先生に言ったらだめなんですか?僕たちの考えじゃなくて、親の言いつけを守っていることなんだって、分かってもらった方が良いじゃないですか?」

 曽根君も引っ込みがつかなくなり、勢いで真人に詰め寄ったところで、担任の佐々木が入ってきた。

「どうした?何かあったのか?」

 真人の席を中心に、子供たちが集まっているのを見ての当然の言葉である。

 子どもらは、慌てて自分の席へ散って行ったが、佐々木は明らかに事の中心にいるであろう真人と曽根君を呼び止めた。担任としては、そのまま解散させて見なかったことにしたかったが、当事者に真人が含まれているために、そのまま見過ごすわけには行かなかったのだ。教師の頭を超えて、警察や児童何とかに直接話が行ってはたまらないからだ。

「何か、言い争っているようだったけど、どうした?」

 担任は、はやる気持ちを抑えつつ、なるべく優しい声で問いかけた。

「はい、僕と、この人の考え方の違いです」

 真人が冷静に答えた。

「まあ、言い争いとは普通そういうものだ」

 そう言いつつ、担任はひと呼吸おいて続けた。

「まず真人。まだ、曽根の名前は憶えていなかったんだな?」

「はい、曽根君って言うんですね。まだ分からなかったので、ごめんなさい」

 真人が曽根君に向かって頭を下げた。

「じゃあ、話してごらん?どんな考え方の違いがあったんだ?」

 真人は、事の次第を話して聞かせた。曽根君は不満そうに黙って真人の話を聞いていた。

 担任は、真人の話を聞いて困惑した。ちょっとデリケートな議題だったからだ。

「先生」

 真人が担任に呼びかけた。

「どうした?」

「はい。だから、僕と曽根君は付き合えないことになりました。だから、僕たちが話とかしなくても喧嘩じゃなくて、家の事情なんだと理解してください」

 担任は、明らかに面喰っていた。

「真人はそれでいいのか?」

「はい、残念ですけど家の方針ですから。僕がお願いしても曽根君が困るだけだと思いますし」

「でもねえ、曽根のお母さんの考えにも問題はあるし…」

「え?でも、早苗さんは学校の先生は、親の教育方針には口出ししないって言ってましたよ?」

 担任は、早苗の名が出て動揺した。

「口出しと言うか、話し合いはしなきゃねえ…」

 困惑する担任を見て、真人はため息を吐いた。

「そうですか。ではそれは先生におまかせしますので、結果が出たら教えてください。とりあえず、それまでは曽根君のお母さんの言う通りにしています」

 そう言い終わると、真人は黙って担任の顔を見詰めた。担任は、動揺を隠せぬまま言った。

「分かった。このことは、一応先生が預かっておく。じゃあ、二人とも席について」

 担任のあたふたした姿を見ながら、志乃は笑いを堪えるのに必死で、早く帰って早苗に報告したくてたまらなくなった。




 その夜、志乃が興奮気味に報告する話を聞きながら、早苗は満足げに笑みを浮かべていた。

「いやー、お志乃、良いもの見たねえ。私も見たかったよ。羨ましい。今度そう言うことがあったら、こっそり動画で取っておいてよ」

「ええー?私スマホ持ってないし」

「そっか、そりゃ残念だ」

 盛り上がる二人に対して、真人は沈みがちだった。

「早苗さんだったら、どうしてました?なんか、先生が困っていたみたいで、少し間違えたかなって…」

 真人は、心配げにこぼした。

「いや、私もおそらくほとんど同じ対応になったと思うね。基本、私は友達要らない派だから、その曽根君みたいなこと言われたら、願ってもない事だって思っちゃうし、先生公認で無視できるなら最高だよね?」

「でも、僕は友達欲しいです」

 真人の淋しそうな言葉を聞いて、早苗が優しく言った。

「でもね、そのまま曽根君と友達になっても、そういう考えを持っているんなら、問題ばかり起こると思うな。だけど、もしこれで曽根君の考えが変わったら、いい友達になれるかもしれないよ」

「本当ですか?」

 真人が嬉しそうに笑った。

「うん、その子の考え方が変わればね」

 早苗が真人の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「ところで…」

 早苗は志乃の方を見た。

「あんた、晩御飯どうすんの?また、食べていくの?」

 志乃はニッコリと笑った。

「まったく。うちの飯の何がいいんだか?自分んちの方がよっぽど旨いもの出るだろうに」

 ボヤキながら早苗は台所へ向かった。

「私は真人君と一緒なら、何でもおいしいよ」

 志乃が真人に向かって愛想笑いを見せた。真人も嬉しそうに笑顔を返した。

「それなら、是非一度、お志乃が作ってよ」

 早苗が振り向いて、包丁を志乃に向けながら叫んだ。

「それは無理」

 志乃は即座に切り捨てた。それを聞いて早苗も笑った。そして、二人に背を向けながら言った。

「真人、お志乃んちに電話して上げて」

「電話なら、早苗さんが帰る前にしてあります」

「あっそ」

 こんなやり取りが、最近お決まりになっている木戸家であった。


 早苗は、今の志乃の話を聞きながら、何とか平静は保ってはいたが、内心では真人の図太さに驚愕していた。




 早苗は、真人と志乃を連れて夜更けの道をのんびりと歩いていた。志乃を送りに行くためだ。真人と志乃は、楽しそうに話をしている。それを聞きながら歩くのが、何気に心地よく感じる最近の早苗であった。

 早苗が帰宅してから夕食を済ませると、結構夜遅くなってしまう。そういう状況で、志乃を一人で帰らせるほど早苗は鬼ではない。溝口がいるときはそれは溝口の仕事なのだが、溝口も暇ではないので毎日来るわけではない。なので、溝口がいないときは早苗が真人を連れて志乃の自宅まで送り届けるようになってしまったのだ。

 早苗は本来、こういう面倒なことなどするはずのない種類の人間だ。本人もそれは自覚していた。いや、本人こそそう思い込んでいた節がある。それがなぜか、三人で歩く夜更けの道も何かしら心に満たされるものを感じるようになってしまった。自分も毒されたものだとつくづく考えさせられる早苗であった。

 早苗と真人は手を繋いでいるが、志乃は早苗に対抗意識を持っているので早苗の手を取ろうとしない。だからと言う理由で、志乃は真人と手を繋ぐことになっていた。それで三人並んで歩いていた訳である。すると、

「あれ?志乃ちゃん?真人君?」

 突然、前方から来る女の子に声を掛けられた。その娘も母親らしき女性と一緒である。大人しそうだが賢そうな、顔立ちの整った子である。早苗が見るに、ちょっと癖のあるタイプだった。母親の方も上品そうな美人である。

「あ、鈴木さんだ!」

 真人が嬉しそうに言った。

 鈴木さんは、明らかに驚きの表情をしている。志乃は?と思って早苗が見てみると、志乃はまるで悪事を見抜かれたかのような表情であった。

希美のぞみちゃん、お友達?」

 鈴木さんの母親が娘に問いかけた。

「うん、そう」

 鈴木さんも気まずそうだった。

「こんばんは、同じクラスの木戸真人です。それと、大川志乃ちゃんです」

 真人が聞かれてもいないのに、べらべら話し始めた。

「今、うちで志乃ちゃんに勉強を教わってから、家に送りに行くところなんです」

 嬉しそうな真人とは対照的に、顔を強張らせている志乃が不憫に思えた早苗が助け舟を出した。

「鈴木さん?いつも真人がお世話になってます。これからもよろしくね?それでは、今日は遅いので失礼します」

 早苗は母親の方へ頭を下げると、真人の手を引いて歩き始めた。真人は名残惜しそうに振り返りながら手を振っている。

 真人は、警戒心のない人懐っこい性格だ。早苗に対しても、溝口に対しても、大川夫妻に対してもそうであった。しかしそれは、時に節操のない姿として人の反感を買うこともある。今の志乃がそうだ。

 志乃は、何も言わず黙々と歩いている。そして何故か、いつの間にか真人ではなく早苗の手を握っていた。

 空気を読む。

 そう言う表現がいつからあるのか早苗は知らない。しかし、そう言う言葉が生まれる以前から、そう言うスキルを求めてくるのが人間社会であった。早苗はその表現が嫌いだった。似た言葉に「行間を読む」と言うのもある。どちらも目に見えないものを理解しろと言う無理難題である。後者の場合は、まだ主に読書などの個人的場面にのみ該当するものだが、前者の場合は対人関係の中で出てくる状況である。しかも、それは突然やって来る。そして言葉にして説明や議論などすることの許されない状況である。そこに解釈の違い、個人差、などと言う言い訳は通用しない。明確な正解と言うものを要求されるのだ。そして、空気を読めない人間は、自然と扱いずらい人間と言う烙印を押されてしまうのだ。そして早苗自身、その類の人種なのである。

 真人もそうなのだろう。志乃の表情を見れば、会ってはいけない相手と会ってしまった、言うことは早苗でも分かる。鈴木さんの顔も、見てはいけないものを見てしまった、と言う困惑が見て取れた。しかし真人は、ただ知り合いに会えたと言う喜びしか感じていない。

―ああ、これを能天気と言うのだな―

 早苗は初めて実物を見た気がした。



 自宅に戻った志乃は、うろたえていた。真人と手を繋いでいたところを、鈴木さんに見られてしまったからだ。

 あの時自分はどんな顔をしていただろう?ニヤけて浮かれていなかっただろうか?

 今までも真人たちと出かけたことは有った。しかしそれは日中のことだったから、志乃もそれなりに周囲の目を気にしていた。だから、真人と直接手を繋ぐことはしなかった。しかし、夜はつい油断してしまっていた。まさかあそこで知り合いに出会うとは…。

 明日、学校を休みたかった。しかし、そうすると真人が何を言いふらすか分かったものではないので、そう言うわけにもいかない。

 苦悩の夜を迎えていた。



 志乃を送り届けた後、真人は早苗と二人で夜道を歩いていた。

 さっきよりも早苗の手をしっかりと握りしめ、ぴったりっと寄り添って歩く真人にとっては、この時間が早苗との特別な時間として大好きだった。

 もう夜になるとすっかり寒い季節となっていた。コートを着ても寒さは変わらないが、早苗といるだけで心は温かだった。

「さっきの子とは仲いいの?」

 早苗がそれとなく聞いた。

「鈴木さん?うん、クラスでは良く話す方です。とても話の面白い人ですよ」

「真人は鈴木さんが好きなの?」

 早苗は興味本位で意地悪な質問をしてみた。

「はい、大好きです」

 思いの外、即答であった。それで、早苗の好奇心にも火が付いた。

「志乃ちゃんとどっちが好き?」

 真人は早苗の顔を見上げた。その顔は「?」となっていた。

「どっちもですよ」

 そこにはごまかしなど無く、そのままの意味だと言う響きがあった。

「じゃあ、どっちの子と一緒にいるのが楽しい?」

 早苗は、明らかに真人の失言を待ち構えていた。

「だから、どっちも楽しいですよ?志乃ちゃんは長く一緒にいるから僕のこと良く知ってくれているので、気が楽なところもあるでしょ?鈴木さんは、まだあまり良く知らない分、僕の知らない事も話してくれるし、それに鈴木さんは色んな人のことを良く理解していてすごいんです」

 早苗は落胆した。それはそうである。まだ八歳なのである。恋愛ではない友人なのだ。優先順位をつける必要性などないのだった。少なくとも真人においては。まあ、おそらく志乃の方は若干違っていることであろうが。




            *


 翌朝、志乃が学校に着くと、すでに真人は周囲をクラスの友人たちに取り囲まれていた。

「志乃ちゃん!」

 女子の誰かが志乃が来たことに気づいて、志乃を呼びつけた。

―来た!―

 真人が来る以前、志乃は「大川」と呼ばれていた。それが、真人が「志乃ちゃん」と呼ぶことから、いつの間にかクラス中が志乃と呼ぶようになっていた。

「志乃ちゃん、真人君の家に遊びに行っているの?」

 志乃の予想した質問であった。

「遊びにじゃないよ。勉強を教えに来てくれるんだ」

 真人が弁護するように訂正した。

「僕、ずっと学校に通っていなかったから、分からないところが多いんです。それで教えてくれるために来てくれるようになったんです」

「そうなの志乃ちゃん?」

 皆の視線が志乃に集まった。

「う、うん。そんな感じかな?」

 志乃は必死に平静を装った。片や真人の方は、いつもと全く変りがない。志乃は真人の図太さを思い知った。

「何か、志乃ちゃんずるいんじゃないかな?」

 ひとりの女子が言った。

「え?」

 志乃にはその意味がピンと来なかった。

「だって、みんなも真人君の家に行きたいのに、一人だけ内緒で行くなんてさ」

「そうだよ、そんなの志乃ちゃん一人じゃなくて、みんなで交代でやればいいんじゃないかな」

「うん、私も行きたい」

「私も!」

 とんでもないことになってきた。これが早苗の耳に入った日には、志乃も含めた全員が出入り禁止になってしまい兼ねない。しかし、ここで志乃がやみくもに反対すると、いかにも真人を独り占めしたいかのように聞こえてしまう。確かにそれは否定できないのではあるが。

「ちょっと待ってください」

 慌てた真人が声を上げた。

「そんなことしたら、早苗さんが大変なことになります」

 皆の視線が真人に集まった。

「早苗さんは、他人がうちに来ることをものすごく嫌がります。志乃ちゃんが最初に来たときも大変なことになったんです。こんな大勢が代わる代わる来たら早苗さん死んじゃうかもしれません」

 真人の顔は怯えていた。

「じゃあ志乃ちゃん、すごい迷惑かけてたんじゃない?」

 誰かが呆れたように言った。真人はそれを聞いてハッとした。

「そうですね。最初は早苗さんもものすごく嫌がっていました。でも、そこを一生懸命お願いして、少しづつ早苗さんに慣れてもらって、最近やっと志乃ちゃんと仲良くなってくれたんです。だから僕はこれを壊したくないんです」

「そうね、確かにその早苗さんって、私たちにはよそよそしかったよね?」

 真人の言葉を聞いて、鈴木さんが思い出したように言った。

「普通、ああやって道端で偶然出会ったら、親同士もそれなりに挨拶とか世間話とかするものなんだけど、昨日はそれが全然なかったんだよね。あの後お母さんも、早苗さんのことをちょっと変わった人だねって言ってたし」

「そうなんです。早苗さんは他人と会うのをものすごく嫌がるんです」

「じゃあ、真人君の時はどんな感じだったの?」

 鈴木さんはちょっと慎重な雰囲気で言って来た。志乃はドキッとしたが、真人は全く動じる様子もなかった。

「そう、僕の時も本当に大変だったんです。早苗さんは絶対に僕なんか引取らないって抵抗していたんだけど、志乃ちゃんのお父さんが一生懸命説得してくれて何とか受け入れてもらったんです」

「じゃあ、真人君は志乃ちゃんのお父さんのこと知っているの?」

「はい、おじさんもおばさんも良く知っています。志乃ちゃんの家にも時々遊びに行きますし」

 一同が静まり返った。志乃と真人が特別な関係であることが分かったからだ。

「やっぱり、志乃ちゃんと真人君は特別な間柄なんだ」

 鈴木さんが不敵な笑顔を見せた。

「最初からそう言えばいいのに。じゃあさ、真人君?」

「なんですか?」

「真人君と志乃ちゃんはどういう関係なの?」

 鈴木さんは何か面白がっている。こんな雰囲気を早苗も時々見せることがあると、志乃は直感的に悟った。志乃の胸に嫌な不安なものが込み上げて来た。

「志乃ちゃん…?関係…?」

 真人は頭を捻っていた。

「僕にとっての志乃ちゃんは、とても大事な人です。僕に最初に出来た友達だし、僕が不安でたまらなかったあの時にすごく優しく励ましてくれて、そして約束してくれたんだ…」

 真人がそこまで言うと、突然志乃が真人を突き飛ばした。床に転げて驚いている真人を見下ろして志乃が叫んだ。

「あんた、何べらべらしゃべってんのよ!何でも言えば良いってもんじゃないのよ!必要な時に必要な分だけ話す。そう言う知恵が大事なの!ここの皆には関係ない事なんだから、いちいち全部話さなくてもいいの!覚えておきなさい!」

 志乃は憤慨しつつ鈴木さんに向き直った。

「鈴木さんも、他人の事情に首を突っ込まないで!私たちがどんな関係でもあなたには関係ないでしょう!」


 ちょうどそこに、担任の佐々木が入ってきた。佐々木は立ち尽くした。その場の状況を見れば、真人を中心とした事態であることが考えずとも明白であった。

 真人は素直でいい子である。それは間違いない。しかし、彼が来ることによってクラスが騒がしくなっていることも事実であった。一番問題にかかわって欲しくない子が、いつも問題の中心にいるのは何とも言えないものがある。

「どうかしたのかな?」

 佐々木は優しく問いかけた。

「大川が、真人を突き飛ばした!」

 一人の男子が大声で叫んだ。佐々木は耳を疑った。

「なに?」

 佐々木は、慌てて集まりの中に駆け寄った。

「大丈夫です!」

 真人も佐々木のもとへ駆け寄って、両手で佐々木を止めて来た。

「何でもないんです。みんなで話しが盛り上がって興奮しただけです」

 真人が必死で弁解してくる。何かを庇っているのは明白だった。

 他の子供たちは、速やかに各自の席に戻っている。かつて人だかりのあったところには、ただ一人志乃が取り残されているだけだった。

 佐々木もことを荒立てたくはない。ため息を一つ吐くと真人に向かって言った。

「分かった。その代わり、木戸と大川は後から職員室まで来るように」

「はい、分かりました」

 真人はしょげ返っている。佐々木も複雑な思いを抱えたまま授業に移った。

 志乃は一人、放心していた。

―危なかった。真人のバカ、きっとあの事まで言うつもりだったんだ―

 志乃と真人が始めて会ったあの時。二人の間ではある約束がなされていた。志乃にとっては何げない、その場の流れで口にした言葉であったが、きっと真人はそのまま真に受けているのだろう。あんなことを公にされたら、とてもじゃないがここにはいられなくなる。

―それにしても、あの鈴木さん油断できないな―

 志乃は苦々しく思い、素知らぬ顔で席に座る鈴木さんを見た。その横顔は薄ら笑いを浮べているように見えた。




「早苗さん、ほうれん草が好きなんですか?」

 夕食の支度をしている早苗に真人が質問した。

 今日は真人と早苗の二人だけである。今日は溝口が来てくれたので志乃は夕食を食べずに帰った。と言うか、溝口が来た日は夕食は食べずに帰ることになっていた。早苗が送って行くときは、送って帰って来てから夕食の支度と言うのも時間的に面倒なので、夕食後に志乃を送り届けることにしていたのだ。ただ、志乃もさすがに毎日早苗の所で食べて帰るのはまずいことは感じていたので、溝口が来た日だけは自宅で食べることにしていた。当然、溝口は常に夕食を食べれないので不満をこぼしているが、早苗も志乃もあえてそれを無視していた。

「え?」

 何の脈絡もない質問に早苗の方が驚いた。早苗が見ると、真人は眉間にしわを寄せて真剣な顔をしている。

「今日、先生が言っていたんです。早苗さんはほうれん草が何とかだって」

 早苗はよけい疑問が深まった。授業中に早苗のことを話題にするのかと。

「ちょっと真人。詳しく話してごらん?」

 早苗にとっては聞き捨てならない内容だ。その内容によっては厳重抗議しなければならない。

「今日、志乃ちゃんが僕を突き飛ばしたことで職員室に呼ばれたんです」

 それもまた衝撃の発言だった。

「あんた達何があったの?」

 早苗はもう夕食の支度どころではなかった。

「今日の朝、鈴木さんが僕と志乃ちゃんがどういう関係なのかって聞いて来たから、僕が説明していたら突然志乃ちゃんが僕のことを突き飛ばして来たんです」

 早苗には、それを聞いただけで大方の察しがついた。

―お志乃も大変だ―

 早苗は、素直に志乃に同情した。

「分かった。じゃあ、ほうれん草は?」

「そのことで、先生に志乃ちゃんと二人で職員室に来いと言われたから、志乃ちゃんと一緒に行ったんです」

「うん」

「それで、今日の朝、みんなと鈴木さんが夕べ僕と会った時のことを話してたことを先生に話したんです」

「うん。なるほど」

 少し分かりづらくなって来た。

「そこで、先生がどこで会ったんだって聞いて来たから、志乃ちゃんを送りに行く途中ですって言ったら、先生も志乃ちゃんがうちに来て僕に勉強を教えてくれているのを知っていたんです」

「うん。その事は私が先生に伝えてあるからね」

「はい。先生もそのことを言っていて、その時に先生が早苗さんはほうれん草が何とかって言っていたんです」

 これで早苗の疑問が解消した。おそらく真人が聞いたのは「ほうれん草」ではなく「報・連・相」のことだろう。満足した早苗はにっこりと笑った。

「うん、私はほうれん草は好きだよ」

 真人はまだ納得のいかない様子だ。早苗は更に付け加て、真人に向かって優しく言った。

「明日、先生に伝えておいて欲しいんだけど」

「なんですか?」

「うん、早苗さんが、『私は先生の部下じゃないからほうれん草は関係ありません。勘違いしないで下さいって』言っていたってね?」

 早苗は笑顔だったが、何となく言葉がとげとげしく感じる真人であった。



            *


 真人の朝の日課は、職員室に行くことから始まる。その日も登校後、すぐに職員室に向かった。

 真人が学校に通うようになってしばらくは、早苗が送り届けていた。真人にはそれがまた楽しい時間であった。他の子らのからかいの声も羨ましがられているようで、真人にとっては優越感のような感覚を持っていたのだ。早苗の出勤に合わせる関係で、結構早い時間の登校になるのではあるが、しかしその時どうしても少数ではあるが、真人の友人たちに会うことになる。早苗は他の子供には関心無いので当然無視している。ところが、子供らはどういう訳か早苗に興味津々なのである。中には、子どもらしい無神経さで早苗に絡んで来る子もいる。それが早苗にとっては恐怖に近いものがあるのだった。

「そのうち問題を起こしかねない」

 その一言で、真人は一人での登校を渋々了承したのであった。


 たまたまその日、玄関前で真人を見かけた志乃は挨拶しようと真人の後を追った。しかし、教室とは別の方向に向かった真人を、何処に行くのかと不思議に思いついて行くと、そこは職員室だった。

 入り口が開いていたので中をのぞくと、真人は担任の佐々木に話しかけていた。


「先生、おはようございます」

「おう、おはよう真人。スマホか?」

 二人の会話はごく自然で、特別なことではないことは志乃にも感じ取れた。

「はい、今日もお願いします」

 真人は服の襟の中から、首に掛けていた小さな袋を取り出すと佐々木に手渡した。それが真人のスマホであることは志乃も知っていた。志乃はそこで、真人がいつも帰りにも職員室に寄ってスマホを返してもらうことを思い出し、真人がこうして毎朝職員室に寄ってスマホを預けていることを知った。

「でもお前ら仲良いなあ」

「え?」

 佐々木の問いかけに、真人はちょっと驚いて聞き返した。

「いや、大川とのこと。お前らいっつも一緒にいるだろ?すごいな、と思って」

「はい、志乃ちゃんには本当にお世話になってます」

 真人の顔が笑顔で一杯になった。

「僕、志乃ちゃんがいないと生きていけないかもしれません」

「え?そんなにか?」

 佐々木も、照れもはにかみもせず肯定する真人に面喰らった。

「はい、志乃ちゃんはすごいんです。僕の気持ちを全部分かってくれて、僕が何も言わなくてもちゃんと助けてくれるんです」

「おう、そんなにか?」

「はい、僕、本当は最初、学校に来るのも、帰ってから一人で早苗さんの帰りを待つのもすごく不安だったんです。でも志乃ちゃんは、僕が何も言わなくても僕の気持ちを分ってくれて、早苗さんが帰ってくるまで一緒にうちで勉強を教えてくれたりしてくれたんです。はじめ、早苗さんはそれをダメだって言ってたんですけど、志乃ちゃんが一生懸命説得してくれて、早苗さんの許可を貰えたんです」

「ほう、それはすごいね」

「本当にすごいんです。あの早苗さんがほとんど何も言い返せなかったんです」

「え?本当か?それはすごい」

 佐々木にもそのすごさは理解できた。

「僕がこうして普通に学校に通えるのも、志乃ちゃんがいてくれるおかげなんです。志乃ちゃんがいるから他の友達とも仲良くなれたんです」

「そうなのか?」

「はい。僕はここに来るまでずっと一人でいたから、他の子供とどう接していいか分からなかったんです。だから、始めものすごく不安だったんですけど、志乃ちゃんを見た時に、ものすごく気持ちが楽になって…」

「そうか、大川とはもともと知り合いだったんだったな?」

「はい、おじさんのおかげで早苗さんにお世話になることが出来ました」

「うん、そうらしいな」

「その時も、僕、ものすごく不安で、もし早苗さんに捨てられたらどうしようって思っていたら、志乃ちゃんが言ってくれたんです。早苗さんが僕を捨てても志乃ちゃんはずっと一緒にいてくれるって。ずっと友達で、一緒に大きくなって、そして大人になったら僕のお嫁さんになってくれるって約束してくれたんです」

「おうおう、それはまたすごいな」

「はい、本当に志乃ちゃんはすごいんです。それで、僕はずっと志乃ちゃんに助けられてきたから、僕も志乃ちゃんを助けたり、喜ばしてあげたいと思ってます」

「そうか、それは大事にしてあげなきゃな」

「はい、志乃ちゃんは僕の宝物です」

「分かった。じゃあ、もう教室に行きなさい」

「はい」

 真人は一旦佐々木に背を向けたが、思い返したようにもう一度佐々木の方へ向き直った。

「先生」

「どうした?」

「今言ったことは、他の人には言わないでくださいね?」

「おお、分かってる。心配するな」

 真人は嬉しそうに職員室を出て行った。周囲の教員たちの温かい眼差しに見送られながら。



 職員室を出ると、真人は志乃と鉢合わせになった。

「あ、志乃ちゃんいたの?」

「うんちょっと」

 志乃はうつむいたまま、いつになく小声であった。志乃が職員室の中に視線を送ると、佐々木と目が合ってしまった。驚いた志乃は慌ててその場を駆け出した。

「あ、志乃ちゃん走っちゃダメだよ!」

 真人が叫んだ。


 真人が去った後の職員室は、興奮に包まれていた。

「いやー、真人君ってすごい純粋なんですね?」

「なんか、見かけだけじゃなくて、心も可愛いですよね?」

「私もあんなふうに言われてみたいわ」

 周りで真人の話をさり気なく立ち聞きしていた職員たちが、一斉に佐々木に話しかけた。

 しかし、佐々木にはそんな言葉は耳に入ってこなかった。佐々木は、先ほど志乃が駆け出す間際に見せた、あのうつ向いたまま頬を赤らめ、切なそうに目を潤ませた表情が、目に焼き付いて頭から離れずにいた。

 それは小学二年生とは思えないくらい色っぽく見えたのだった。



 佐々木が教室に入ると、雰囲気がいつもと若干違っていた。何か全体的に緊張しているような張り詰めた雰囲気である。しかし、その原因はすぐに分かった。クラスで起こる問題の中心には真人がいる。真人がやってきて以来、変なジンクスが出来てしまったようだ。

 真人の様子がおかしい。何かうつ向いて泣きそうな顔をしている。ついでに志乃を見ると、これもまたしおらしくじっとしてうつ向いている。いつもは明るい顔で前を向いている志乃が全く元気がなく、明らかに佐々木の視線を避けている様だ。

 佐々木はすぐに分かった。今朝の一件である。おそらく志乃は、佐々木と真人の会話を立ち聞きしていたのだろう。だとすると、あんな大胆な発言を聞かされたのだから、どうしていいか分からなくなるのは当たり前だ。それを知らない真人が志乃に話しかけても、まともな対応など受けられるはずもない。そんな志乃の塩対応に真人は打ちのめされたのだろう。そして、そんな二人のいつになく嚙み合わないやり取りと、今の真人のこういう状況を目の当たりにしたクラスの子等も、どうして良いか分からず張り詰めてしまったのだ。

 佐々木は、志乃の色気にふら付いている場合ではないことを悟った。

―さて、どうしたものか―

 佐々木は思案した末、志乃に声を掛けた。

「おい、大川。なんか調子悪そうだな。大丈夫か?」

 突然の佐々木の言葉に、志乃は驚いて佐々木を見た。佐々木の目は、優しく志乃を見ていた。

「ちょっと保健室に行って休んでなさい」

「僕が連れて行きます!」

 佐々木の言葉に真人が素早く立ち上がった。

「いや、木戸はいい、先生が連れて行く」

 真人が連れて行っては、逆効果になってしまう。

「すぐ戻るから、みんな静かに待ってなさい」

 そう言い残し、佐々木は志乃を連れて教室を出て行った。泣きそうな顔をしていた真人の表情が、心配そうな表情に変わった。

 佐々木はすぐに戻ってきて、戻って来るなり真人を指さした。

「木戸!」

「はい」

 真人は、名指しで呼ばれて驚いた。

「心配するな!大川は貧血か何からしい。少し休めばすぐに良くなるとのことだ。おそらく二時間目からは戻ってこれる」

 その一言で、真人に笑顔が戻った。

「はい、分かりました。ありがとうございます」

 佐々木もホッとし、クラスの緊張も解けたようだった。




            *


 季節は秋を過ぎ、冬になっていた。街中にクリスマスの色合いが深まり、必然的に子供らの心もサンタクロースが気になる時期である。


「うちにもサンタクロースって来るんですか?」

 台所に立つ早苗に、真人は下から見上げながら遠慮がちに問いかけた。

「どうしたの突然?」

 早苗のこの質問は、明らかに真人をからかうためのとぼけである。

「クラスのみんなが、サンタクロースが来るって騒いでいるんです」

「ふーん?何しに来るんだって?」

 早苗は料理をしながら、関心無さげに素っ気なく答えた。

「なんか、プレゼントを持ってきてくれるって言ってました」

「プレゼント?何を?」

「良く分からないですけど、みんなは欲しいものをお願いするみたいです」

「ふーん。みんなどんなものをお願いするんだって?」

 真剣な真人に反して、早苗はまともに取り合おうとはしていない。

「いろいろです。ゲームとか、おもちゃとか、スマホが欲しいって言う子もいます。あと、島田さんって言う子は、お父さんとお母さんが仲良くなるクスリって言ってました」

「え?」

 早苗の手が止まり、真人の顔を見詰めた。

「どういうこと?」

 さすがに早苗も気になり、話しに食いついてしまった。

「島田さんは、いつもお父さんとお母さんが喧嘩しているって悲しそうだったんですけど、この前、離婚するって言っているのを聞いたんだそうです。島田さんは、そんなの嫌だからサンタクロースに何とかしてもらうんだって言ってました」

 早苗は、それを聞くと思わず噴き出した。

「それは、サンタさんも大変だ、何とか頑張ってもらわないとね?」

 つい笑ってしまったが、子ども本人にとっては深刻な問題なのだからと、早苗も反省した。

「離婚って、お父さんとお母さんが別々に住むようになることなんですか?」

 そう問いかける真人の顔は、困惑気味の悲しそうな表情だった。早苗にも真人の複雑な気持ちが伝わり、いたたまれなくなった。そっと屈みこみ、真人の頭に手を回し頬を合わせた。

「世の中には、親の事情で子供が辛い思いをすることが多すぎるよね」

 早苗には、それ以上の言葉が出て来なかった。

「そうなんですね。でも、僕には早苗さんがいてくれて幸せです」

 真人の言葉には、裏も表も感じなかった。真人の素直な思いなのだろう。しかし、真人のこの真っ直ぐな心が早苗にはなぜかとても痛いのであった。


「で?サンタさんは来るんでしょ?ここにも」

 煮えを切らした志乃が、さっさとしろとばかりに捲し立てた。志乃は、真人と早苗が仲睦まじくしている姿が、なんとも言えず気に食わない。自分には決して入り込む隙のない事を、幼いながらも痛感させられるのだ。もし、早苗と真人が実の親子であるとしたら、志乃の感じ方ももっと違っていたかもしれない。志乃はまだ、嫉妬と言う言葉は知らなかったが、胸のうちで激しく騒ぐ何かを、何とも言えぬ思いで感じていた。

 志乃の言葉に、その存在を思い出したかのように、早苗が振り向いた。たまにあるこんな瞬間も、志乃の寂しさを煽った。

「うちは来ないよ」

 早苗は、ごく当たり前のように言った。真人は明らかに落胆していた。

「どうして!」

 志乃は叫んだ。それは疑問の問いかけではなく、抗議の発言であった。それに対して、早苗は悲しそうな笑みを浮かべた。

「うちは貧乏だからね」

 早苗の回答にも悲しそうな響きを持っていた。

「?」

 志乃は、絶句した。おそらく志乃が、生まれて初めて体験した絶句であろう。それは、志乃の持つサンタクロースに対する概念と相反するものだった。サンタクロースは、全ての子供に平等に来てくれるものであるはずだし、貧しい、可哀そうな子供にこそサンタクロースはやって来るのではないか?そんな思いが志乃の脳裏を駆け巡った。

「おや?納得いかないと言った様子だね?」

 早苗の言葉に、志乃はびくりとした。早苗の口元に、僅かだがいつもの不敵な笑みを見たからだ。これは早苗の持論展開の前触れである。志乃は思わず早苗から目を逸らした。

「いいかい?サンタクロースなんてね、ものすごい差別主義者なんだよ」

 早苗はため息交じりにそう言うと、ゆっくり立ち上がり包丁で野菜を切り始めた。

「考えてごらんよ。クラスの子等はどんなものを貰ってる?サンタクロースから」

 志乃は何も答えない。

「きっとねえ、その家の経済水準にあったものを貰っていると思うよ。お金持ちの家は高いもの、そうでない家はそれなりの物を」

 志乃は何も言わずにテレビの方を見ている。

「今はどう言ってるか知らないけど、私が子供の頃は、サンタクロースは夜中に煙突から入って来るって聞いたもんさ。時期的に冬だし、窓も玄関も閉まっているだろうから、まあ、他に入るところはないだろうからね」

 早苗は包丁を置いて、ガスに火をつけて鍋を載せた。

「でもさ、私も幼心に不思議だったんだ。日本に、そんな大きな煙突のある家なんかあるんだろうか?てね。まあ、映画やアニメでは見たことあったから、おそらく外国にはあるんだろうな、ぐらいには思ってたけど」

 早苗は鍋を火にかけたまま、今切った野菜をボウルの中に入れた。

「でもさあ、外国には暖炉とかあってね、大きな煙突があるのは分かるけどさ、人が荷物を持って出入りできるような大きな煙突が、全ての家にあるとは思えないんだよね。おそらく貧しい家には大きな暖炉なんか無くてさ、細い煙突なんじゃないかってね?」

 早苗がボウルの中で白くなった指を、さっき火にかけた鍋の中に入れると、ぱちぱちとはじける音がした。

「だから、あいつはもともと貧乏な家になんか行く気無いのさ」

 早苗がボウルの中から白くなった野菜を摘まみ上げ、鍋の中へ入れると鍋からザァ!と言う音と共に、はじける油と香ばしい匂いが広がった。

「お志乃のうちには、毎年サンタクロースが来るのかい?」

 早苗は、志乃に背を向け腕を組んでいる。

「うちには来るよ、ちゃんと」

 志乃の声は、何故か沈んでいた。

「だろうね?お志乃のうちは金持ちじゃないだろうけど、貧乏と言う訳でもないだろうからね。でもね…」

 早苗は、鍋を見ながらジッとしていた。

「世の中にはサンタクロースが来てくれない家もあるんだ」

 そう言いながら早苗は、鍋の中からきつね色になったものを菜箸で取り上げていた。

「真人!」

「はい?」

 真人はちょっと驚いた。

「手、洗ってさ、大根おろしてよ」

「はい!」

 真人は嬉しそうに洗面所に向かった。

「そういう家はね?子供が可愛そうだから、親が準備するんだ、プレゼント」

 その時、早苗は志乃を見ていた。悲しそうな目で。

 手を洗った真人がいそいそと戻ってきた。早苗は、皮をむいてある大根とプラスチックの卸し器を真人に手渡した。

「大根だけでいいからね。指はいらないから」

「はい」

 早苗がもう一度、白いしずくを垂らす野菜を鍋に入れた。

「だからね、そう言う家ではあまりいいものは上げられないんだ。もともと経済的に厳しいからさ」

 早苗が志乃の方を振り返った。

「まったく、サンタクロースが変な習慣を作るから、貧乏な家は余計な苦労をするんだよ。それでなくても年末は金がかかるんだ。正月になりゃ、お年玉だってある。子供は嬉しいけど親は大変だ」

 再び背を向けた早苗は、鍋からきつね色のものを取り出した。

「いっその事、サンタクロースの来ない家には政府がクリスマスプレゼントを配布してくれりゃいいんだよね。個人的なプレゼントは禁止と言うことでさ。それが平等ってことじゃないかな?」

 早苗はてんぷらの乗った皿をテーブルに運んだ。

「だから、うちでは私がクリスマスのプレゼントを買ってあげるんだ。サンタクロースの世話にはならん」

 早苗は台所に戻ると、てんぷらの鍋とは違う、もう一つの鍋のふたを開けて、お玉で味噌を溶かし始めた。

「お志乃にも何か買ってあげようかね?いつも真人のことでお世話になっているから」

「私はいいよ。早苗さんも大変なんでしょ?」

 そんな話聞かされて、もらえる訳ないだろうと喉まで出かかった。

「真人、ご苦労さん。うん、良かった。もみじおろしにはなっていないね。それ、小鉢に移して置いてね」

 味噌汁をトレーにのせて持ってきた早苗は、お椀をテーブルに置きながら嬉しそうに言った。

「日本の味噌汁は、沸騰させないのがミソなの」

 志乃の前にお椀を置いた早苗が、そっとつぶやいた。

 何のことなのかピンと来ていない志乃に、早苗もちょっと意外そうな顔をした。

「何で先に味噌を入れて置かないのかな?って思ってなかった?」

「ええ?そんなこと思ってないよ。今回は」

 志乃は,心外だとばかりに語気を荒げた。

「おや、そう?それは失礼」

 テーブルに着いた早苗は、笑いながらご飯をよそい始めた。

「じゃ、お待たせしました。食べましょうか」

 野菜と魚?の天ぷら。それと味噌汁だけの夕食である。いや、忘れていた。真人がおろした大根おろしもある。志乃の家の夕食と比べると、はるかに質素な夕食である。でも志乃はここの食事が好きだった。真人と一緒であるというのも理由のひとつだったが、それだけではない何かが気に入っていた。その何かが早苗なのかもしれなかったが、それは絶対に認めたくない事だった。

「うちの事は気にしなくていいんだよ」

 早苗が、食べ始めると同時に唐突に言い出した。

「さっきのプレゼントの話しさ」

 理解できないでいる志乃に気づいて、早苗が付け加えた。

「うちはまだまだいい方なんだよ」

 志乃の様子をちらちら伺っている。

「私は安月給だけど一応正社員だから固定給で、保険もしっかりしているし、有給休暇もある。それに僅かでもボーナスもある。でも、世のシングルマザーの多くは、子どもが何人もいたり、正社員になれずパートなんかを掛け持ちでやっている人もいるんだ。そうなるともう悲惨だよね、きっと…。私の小学校の時の友達にも…」

「え?早苗さん、友達いたの?」

 すかさず志乃が突っ込んだ。早苗は一瞬黙ったが、そのまま話を続けた。

「私が小学校の時に同じクラスだったにも、シングルマザーのお家があったの。その娘はクリスマスなんて来なければいいって言ってたわ。自分は、サンタクロースから嫌われているからって。いっそのこと、サンタクロースなんかいなければいいとも。そうすれば家にお金が無くてもらえないことになるから。悪い子だから、サンタクロースが来ないんじゃないことになるからって…」

 早苗は、突然声のトーンを変えた。

「ねえ、志乃ちゃん?」

 志乃はドキッとした。早苗が志乃ちゃんと言う時は、必ず裏がある。

「今日はゴメンね、いやな話をして。志乃ちゃんがクリスマスを楽しみにしているのは分るよ。みんなそうなんだから。でもね、世の中のみんなが楽しいことでも、全ての人がそうなんだとは思わないで欲しいの。それは、ほんの僅かな人かもしれないけど、辛い思いをしている人もいるんだってことを知っていてほしいの」

 早苗は箸を置いて志乃を見詰めた。

「あなたは利発で、聡明な子だと思うから言うの。クリスマスだけじゃないんだよ。お正月、誕生日、夏休み、ゴールデンウィーク。世の中が浮かれているとき、辛い思いをしている人がいると言う事。ほら、バレンタインなんてさ、もらえる子はいいけど、もらえない子は辛い日だよね。女の子なんかもっと深刻かもね?チョコレートを貰ってもらえる娘と貰ってもらえない娘。もらえないのも辛いけど、貰ってもらえないのはもっと辛いんじゃないかな?私には経験がないから分からないけどね。あと、親の仕事の関係で、みんなが休みの時が一番忙しいと言う人もいるの。そしてそんな人たちは、決しておかしな人ではなく、ごく普通の人で、たまたまそのことに関してだけ特別なんだと言う事を忘れないでね。言い方を変えれば、みんな同じじゃないと言う事なの。それぞれの感じ方、考え方、事情や環境によって違っていて、違っていて当たり前なんだって言う事を心に留めて置いてね」

「僕は、みんなが嫌がる事でもとても楽しいですよ」

 真人が嬉しそうに言った。

「うん?どんな事?」

 早苗が一応聞いてみた。おそらく、教室の掃除とか先生のお手伝いの事だろうと思っていた。前にそんなことを興奮気味に言っていたことがあったのだ。しかし、今回は予想とは違う答えが返ってきた。

「ふふふ、早苗さんと一緒にいられること」

 真人の顔は照れくさそうだった。しかし、早苗はその答えの裏を読んでしまった。

 真人の言うみんなが嫌がる事とは、母親と離れることを指すのだろう。早苗が以前、母親のことは口にするなと念を押してあったので、それで敢えて母親のことは言わず、早苗の名を出したのだろう。

―この子は、なぜこんなにも母親を嫌悪するのだろう―

 早苗の頭に焼き付いている疑問である。真人は、初めて早苗と会ったその時から、一度も母親を懐かしむ様子を見せたことがない。早苗が必死に拒むその時でさえも、母親のもとへ帰りたいと言う素振りも見せなかった。クラスメイトの島田さんは、親の離婚を阻止するために、今年のクリスマスのプレゼントを辞退しようとしているのだ。おそらくそれが子供の普通の姿であろう。まあ島田さんも、親が離婚してしまえば来年以降のクリスマスプレゼントは怪しくなってしまうのだから、今年一年だけ我慢する方が得策であるとも言えるのではあるが。

 志乃も早苗と同じことを感じていた。早苗と一緒にいるのは、母親に捨てられたからである。早苗と一緒にいられるのが楽しいと言うことは、母親に捨てられて良かったと言うことなのか?その辺のことを、うちに帰ったら母親にでも聞いてみようか、などと考えていた。


 真人は真人で、クリスマスにはいい感情を持っていなかった。クリスマスと言う言葉は知っていたし、その日が特別な日であることもテレビなどで知ってはいた。しかし、真人には全く関係のない日であったのだ。クリスマスが近くなると、母、香奈恵の帰りが遅くなった。そして帰らない日もあった。クリスマスの頃は香奈恵は帰宅するたびにプレゼントらしきものを持って帰って来ていた。もちろん、真人のためのものではない。香奈恵が男からもらったものである。それを一つ一つ真人に見せて自慢するのだ。当然香奈恵は酔っている。真人にとって香奈恵の帰りが遅いことは良かったのだが、酔ってプレゼントを開いて真人に絡んでくるのが鬱陶しくて嫌だったのだ。

 真人にとってクリスマスは憂鬱な日として認識されていた。しかし、友達の話を聞いていると、みんなクリスマスを楽しみにしているようだったので意外だったのだ。しかし、今早苗の話を聞いてみると、必ずしもクリスマスは華やかな楽しい日ではないことが理解できたところだった。


 早苗は話題を変えた。

「で?真人は何が欲しい?クリスマス」

 真人は、ちょっと考えるとすぐに答えた。

「腕まくら!」

 早苗も志乃も、理解できずに二人は顔を見合わせた。志乃の頭の中には、腕の形をした枕が浮かんでいた。

「なに?」

 早苗は思わず聞き返した。

「ほら、この前映画でやっていたやつです」

 真人の嬉しそうな言葉に、早苗の脳裏に思い当たる映画のシーンが浮かんできた。

 それはこの前の休日のこと、早苗が見ていた映画をいつものように真人も一緒に見始めたのだった。それはちょっと古い邦画で、単調な恋愛映画であった。その映画のワンシーンに、夏の昼間、母と幼児が一緒に昼寝をするシーンがあった。つまり、母親が幼い息子の添い寝をしていたのである。そのときに、その母親が横になり、床に伸ばした左腕にその子が頭をのせて嬉しそうに話をしていると言うシーンがあった。そしてそれを見た真人が、あれは何をしているのかと聞いて来たのだった。

「お昼寝だろう?」

 早苗が答えると、真人は

「あの、腕に頭をのせているのは何て言うんですか?」

 と聞いてくる。早苗は一瞬答えに詰まったが

「腕まくら…かな?」

 と、答えたのだった。そう言えば、そのシーンを見る真人の顔は、何となく羨ましそうだったかもしれない。

 それを思い出し、早苗は身震いした。

「なに?あれを私にやれってかい?」

 真人は、にっこりとうなずいた。

「なんで!」

 早苗は叫んだ。

「なんとなく、楽しそうに見えたからです」

 真人は少しはにかんだ笑顔で答えた。早苗にも真人の気持ちはわかる。他意はない。ただ単に子供が母親に甘えたいだけなのだ。おそらく、幼いころから、母親とのスキンシップもそれほどなかったのだろう。いや、却って真人の方が拒否していたかもしれない。しかし今、母親と別れてみて、そう言う子供の本能が蘇ってきたのかもしれない。

 早苗の本心としては断りたい。そんな恥ずかしいこと出来るはずがない。しかし、真人の気持ちを思うと無下には出来ない。心が揺れた。

「し、しばらく熟慮させてください」

 早苗は真人から目を逸らして、呟くように言った。

「はい、分かりました」

 真人は素直に受け入れた。嬉しそうな笑顔で。

「サンタさんは来るかなー?」

 早苗には、真人のつぶやきが嫌がらせにしか聞こえなかった。

 志乃は、うちに帰ったら腕まくらとは何かを母親に聞こうと考えていた。



 志乃は、真人がトイレに行った隙に、早苗にそっと聞いて来た。

「真人は本当のお母さんのことが嫌いなの?そんな悪い人だったの?」

 早苗には、良く分からないとしか答えられなかった。事実、早苗にもそのことは分らないのだ。

 幼い志乃にもその異常さが分かるのだ。いや幼いからこそ、母親を恋しがらない真人の気持ちが理解できないのかもしれない。ただ、志乃の場合は、母親の事よりもなぜそんなに早苗に固執するのかと言う観点から、一体母親は何をやったんだろうと思っているのだったが。




            *


 冬は寒い。寒いから冬なのかもしれない。

 冬の景色は味気ない。木々の緑も失われ、庭も道端も茶色に染まる。肌を撫でて行く風も、冷たく乾いた風になる。身も心も寒くなるそんな季節。

 それは、真人が迎える最初の冬であった。それまでの冬は、全て部屋の中で過ごしていた真人にとって、外の寒さを体験する初めての冬である。


「大丈夫?」

 余りに寒そうにしている真人を見る早苗は、本気で心配していた。

「大丈夫です。寒くて楽しいです」

 明らかな強がりを言いながらもまだ震えていた。

「行ってきます」

 真人が元気に出て行った。早苗は、何とも言えない胸騒ぎを感じながらそれを見送った。



 職員室に入った真人は、一斉に全教員からの注目を浴びた。

「おい真人、すごい格好だな、ここは北海道じゃないぞ」

 スノーウェアの上下に、毛糸の帽子とマフラーと言う出たちに、佐々木は目を丸くした。

「外が寒くてこんなふうになっちゃいました」

 笑顔で言う真人は、鼻をグズグズ言わせている。

「もう、鼻グズグズ言ってるけど大丈夫なのか?」

「大丈夫です」

 真人は、懐からスマホを取り出すと、笑顔で佐々木に渡した。


 教室に入ってもみんなが驚いた。

「真人君、すごい寒がりだね?」

 みんなが面白がって寄って来た。真人は照れ笑いをしながらスノーウェアを脱いだ。しかし、実はこの下にも発熱性のあるという下着を着ているのである。寒がる真人を見ながら、早苗が少しずつ買い揃えて行った末の結果であった。クラスのみんなは冷やかすが、真人にもそれなりの事情があるのである。

 真人は、早苗のもとに来る前はほとんど外に出ることが無かった。と言うよりも、外に出してもらえなかったのである。一日中部屋の中に閉じ込められ、香奈恵の気が向いた時しか外に出ることは無かった。だから寒い冬は、全く外に出ることが無かったのだ。真人にとって外の世界は、窓から見るだけの世界であった。そのせいか、真人は異常に寒さに弱い体質になっていたのだ。

 それに加え、香奈恵の部屋は暖房がしっかりしていてとても暖かであったが、早苗の部屋はすきま風だらけに加え、暖房は電気コタツと電気ストーブだけである。早苗曰く、灯油のストーブの方が温かいが、灯油を買いに行くのが大変なので電気ストーブを使っているとのこと。しかし、その日の寒さは真人自身普通ではないことは感じていた。ゾクゾクと体の中から震えが来るのである。家を出て冷たい風にあたると、鼻水も出て来た。

 二時間目くらいから、次第に眠気が襲って来はじめた。夕べ早く寝たのにおかしいなと思ってもどうしようもない。何となくだるくて友達との話にも身が入らない。いつも楽しみな給食も、今日は美味しくなかった。次第に寒さが激しくなって来るが、もう少しで授業も終わると思いじっと我慢した。

 帰り道、いつもは志乃のマンションも一緒に三階まで登るのだが、この日は疲れたと言って下で待っていた。この時、ついに真人は頭痛に襲われていたのだ。



「真人君!大丈夫?」

 真人の家に入り、帽子とマフラーを取った真人の姿を見た志乃は、思わず驚きの声を上げた。真人が真っ赤になって、顔をしかめていたのだ。

「うん、何か頭が痛い」

 真人は鼻を詰まらせながら、力なく答えた。スノーウェアを脱ぐ気力もなく部屋の中に座り込んだ真人を見て、志乃は慌てて真人の額に手を当てた。

「すごい熱があるじゃない!」

 志乃が悲鳴のような声を上げた。

「すぐ布団で寝なさい!」

 志乃が慌ててスノーウェアを脱がしたが、その時真人が震えているのに気づいた。志乃は慌てた。どうして良いか分からなかった。真人を布団に押し込んで、更に早苗のベッドから掛布団を引きずり降ろして真人に掛けた。

「早苗さんに連絡!」

 やっとそれに気づいた志乃は、真人に向かって早苗に連絡するよう指示した。

「あーっ!」

 しばらく布団の中でごそごそしていた真人が、かすれた声で叫んだ。

「スマホ貰ってくるの忘れた」

 その言葉に志乃もハタと気づいた。そう言えば、今日の帰りは真人が何となく元気が無かったので、職員室に寄らずそのまま帰ってきてしまったようだった。

 救いの道は絶たれた。早苗の帰りを待つしかない。

「お薬ないの?」

 志乃が泣きそうな声で聞いた。

「分かりません」

 真人の声も力ない。その声を聞いただけで、志乃は泣きそうになった。そんな中でも、頭をフル回転させ、自分が熱を出した時、母親が何をしてくれたかを考えた。

―頭を冷やす!―

 志乃の頭に最初に浮かんだ言葉がそれだった。すぐさま冷蔵庫に向かうと冷凍室を開けて中をかき回した。そして保冷剤を取り出すと、真人の頭の下に差し込んだ。

「ちょっと、ごつごつして痛いな」

 まことが不平を言うと、志乃は

「我慢しなさい!」

 と、しかりつけた。

 志乃はすでに半べそ状態であった。真人の容態に回復の様子が見られないのだ。志乃にはもうなす術がない。

「志乃ちゃん」

 真人の力無い声が聞こえた。慌てて笑顔を作った志乃は真人の顔を覗き込んだ。

「冷たすぎて、頭がいたんだけど」

 その言葉に志乃は、真由美が保冷剤にタオルを巻いてくれたのを思い出した。

「うん、これなら大丈夫そう。ありがとね、志乃ちゃん」

 何もできない自分に感謝してくれる真人に申し訳のない志乃であった。しかし、ここで志乃は大切なことに気づいた。

「真人君。わたし、お母さん呼んでくるから待ってて」

 志乃は真人にそう言い残すと、外に飛び出した。




 その頃早苗は、真人からの電話がない事にヤキモキしていた。こちらから電話をしてみても、圏外、もしくは電源が入っていないとのメッセージである。

 そこへ着信があった。慌てて表示を見ると、小学校とある。スマホを持つ手が震えた。

「もしもし、木戸さんですか?真人君の担任の佐々木ですが」

 佐々木の声はのんびりしていた。緊急性は感じられないので少しほっとした。

「今日、真人君がスマホ取りに来なかったんですけどどうしましょうか?五時くらいまでなら、僕も学校に居ますけど取りに来られますか?」

「では、真人は一応帰宅しているんですね?」

「ええ、教室には誰もいなかったですし、靴も上靴になっていましたから。それに、他の職員も大川と一緒に校門を出るのを見たと言っていました。あの二人は目立ちますからね」

「ああ、そうですか。私も連絡が無くて心配だったので、何度か掛けて見たんですが、ずっと圏外だったもので」

「ああそうですね。こちらで預かっている間は、電源を切ってもらっているものですから。もし、用事のある場合は、学校の方に掛けていただければ取り次ぐことは出来ますから」

 ああ、そうだった。学校に掛ければ良かったんだ。動揺して、頭が回らなかった。しかし、と言うことは自宅には帰ったが、スマホが無くて早苗に連絡できなかったと言うことか…。早苗はちょっと安心した。しかし…

 真人の性格からしてみて、そのままにしておくだろうか?律儀な性格だから、きっとスマホを取りに学校に戻る筈だ。なのにそれをしないと言うことは…。早苗の胸に不安が込み上げて来た。

 早苗は溝口に電話した。


 溝口は勤務の日だったが、早苗からの電話に嬉しそうに出た。

「分かりました。ちょっと見に行ってきます。すぐお知らせしますので待っててください」

 早苗からの連絡を受け、溝口も心配になりすぐに向かった。

 溝口は、到着すると玄関のドアを叩きながら叫んだ。

「真人!いるのか?志乃ちゃん?大丈夫か?」

 返事は無い。ドアノブを回すと、カギは掛かっていない。いつもそんなことは無いので余計に心配になる。ドアを開け中を見ると、真人の靴がある。さらに奥の居間に目を向けると、真人の物らしきスノーウェアが脱ぎ捨ててある。

「真人いるのか?」

 勝手知ったる他人の家。溝口は靴を脱ぎ上がり込んだ。居間にはいないので、寝室を見る。布団の中に真人を発見。ホッとしたものの、その様子はどう見ても普通じゃない。

「どうした真人!」

 駆け寄って見ると、どうやら熱に浮かされているらしい。

 すると急に外が騒がしくなった。聞き覚えのある声が騒がしく近づいてくる。志乃の声らしい。しかもどうやら泣いているっぽい。

 すぐにドアが開いて、泣き顔の志乃が跳び込んで来た。そしてその後ろから志乃の母親、大川真由美が。

「あら、溝口君。どうしたの?」

 真由美が驚いている。

「いや、俺は早苗さんが心配して見て来てくれと言うから来てみたんだけど。真由美ちゃんは?」

「いいからお母さん!早く真人を見てよ!」

 真由美と溝口の会話を、志乃が泣き叫ぶように遮った。

「うちは、こんな感じで…」

 真由美が志乃を指しながら、溝口に苦笑した。溝口もすぐに状況を理解できた。

「真人くーん、分かる?志乃のおばさんだよー」

 真由美は気さくに話しかけながら、真人の額に手を当てた。

「うわ、すごい熱だね」

 真人は熱で震えていた。

「おばさんがいいお薬持ってきたから、すぐ楽になるからね」

 真由美は、持ってきた手提げ袋からペットボトルを取りだした。

「先にちょっとお水飲もうか?」

 真人の体を起こして、ペットボトルの飲み口を口に当てたが、真人はあまり飲めないようだった。

「喉が痛いかな?」

 真由美の問いかけに、真人は小さくうなずいた。

「じゃあ、後にしようか」

 真由美はペットボトルを床に置くと、真人の身体を寝かせた。そして

「お薬、お尻から入れるからちょっと膝を抱く感じで横向いてね」

 そう言うと、慣れた手つきで真人のお尻に座薬を差し込んだ。

「はい、これでOK。少ししたら楽になると思うから、チョッと待っててね」

 真由美は笑顔で真人を励ますように言った。

「もう大丈夫なの?」

 志乃が、べそをかきながら真由美に聞いて来た。

「うん、取り敢えずはね。たぶん、熱は下がると思う。でも、明日にでも病院で診てもらった方が良いね」

 真由美が志乃の頭を撫でた。

「志乃ちゃん頑張ったね。お母さんに言いに来たのは偉かったよ」

 真由美も嬉しそうだった。

「溝口君」

 突然真由美に呼ばれて、溝口も驚いた。

「ここは私が見てるから、溝口君は仕事に戻りなよ。制服の警官に家にいられると、なんだか異様な感じになるからさ」

 溝口は照れ笑いをした。

「そうだな。真由美ちゃんがいてくれるなら、俺も安心だ」

「木戸の方にはそっちから連絡しといてね。真人君は、私が見てるから心配ないって」

「分かった。電話して置く。でも、さすが母親、手慣れたもんだね?」

 真由美がにやりと笑った。

「そりゃあそうさ。志乃がしょっちゅう熱出してたからね。この座薬も志乃用に常備していたんだ」

「え?志乃ちゃんもお尻に入れるんですか?」

 みんなの視線が真人に集まった。志乃が早苗の枕を真人の顔にぶつけた。



 溝口は、交番に戻るとすぐに早苗に電話した。

「だから真人のことは心配ないよ」

「じゃあ、風邪ってことなのかな?」

 早苗はまだ安心しきれないようである。

「おそらく。まあ、病院で診てもらうに越したことはないと思うけど」

「そうだね。明日は休ませてもらうようにする」

 早苗の声は力なかった。それは真人の事だけではない。真人のことと同時に、早苗の胸に収めてあったわだかまりがうごめき出したからだった。



 早苗が帰宅した時にはもう、真人はかなり元気になっていた。

「お帰りなさい」

 寝室から顔を覗かせた真由美が、明るく挨拶をした。早苗には、この真由美の明るさが羨ましかった。きっと何事にもくよくよせず、前向きに乗り越えていける人なのだろう。

「ただいま戻りました。今日は本当にありがとうございます」

 早苗は玄関で深々と頭を下げた。

「ううん、いいの。お礼ならこの子に言って上げて?真人君を心配して必死で走って来たんだから」

 真由美はそう言って、志乃の方を見た。志乃がはにかんだ顔を見せた。

「志乃ちゃん、本当にありがとうね。志乃ちゃんに怪我が無くて本当に良かった」

 早苗の目は潤んでいた。志乃は、早苗が真人のことになると人が変わることに気づいていた。いつも気の強い早苗が、真人のことを話題にするときは、必ず弱気になり動揺を見せる。早苗にとって、真人が最大の弱みなのだ。最初の時もそうだった。ここで真人と志乃が二人っきりになることを激しく拒んだ早苗だったが、志乃が真人の安全を訴えた途端、うろたえ始めたのだった。志乃の疑問。そんなに大事なら、なんですぐに真人を引取らなかったのか?

 志乃が初めて真人に出会ったとき、真人は深刻な事情を志乃に吐露した。自分には早苗しか頼る相手がいないのに、早苗は自分を受け入れようとしてくれないと。志乃もそのあと大人たちの会話を聞いた。早苗がどれほど頑なに真人の受け入れを拒否していたのか。ところが、早苗と志乃の両親が志乃の部屋から出てきた途端、まさしく手のひらを返したように真人を受け入れたのだ。そして真人も、なぜ初対面の人間にそこまで嫌われながらもこだわり続けたのか?志乃にとっては全く持ってミステリアスな二人なのである。志乃が割って入ることの出来ない、何かが有る二人なのだ。

「早苗さんゴメンね」

 唐突に真由美が謝った。

「時間あったから、何か夕食の準備でも、と思ったんだけど、あまり家の中を弄り回すのも失礼かと思って何もしてないんだよね」

「そんなこと気にしないでください。却って申し訳なくてそんなことしていただく訳に行きません」

 早苗はすっかり恐縮していた。

「実は、帰り道にお弁当を買って来ました。良かったら召し上がってください」

 早苗は慌てた様子で、レジ袋の中身をテーブルの上に広げた。

 志乃には、こんなよそよそしい早苗など違和感あり過ぎである。早苗が全く別人のように見えて、気持ち悪い。これが「猫を被る」と言うことか?と考えた。

「真人君、座薬を入れたら熱も下がって落ち着いて来たから、大丈夫だと思うよ。一応、念のため座薬一つ置いていくから」

 真由美の声はあくまでも優しく、早苗の不安を解こうと言う配慮が滲んでいた。真由美も経験上、子どもの発熱程母親にとって恐ろしいものは無いと言うことを知っていたからだ。

「今日は本当に助かりました。明日は会社に休みをもらってますから、病院に連れて行こうかと思います」

 早苗が、お茶を入れながら遠慮がちに言った。

「私が車で送ろうか?」

 真由美は至って気軽な感じだった。それに対し早苗はひどく慌てた感じで断ってきた。

「いえ、そんなことまでして頂かなくても…。タクシーで行きますから」

「そう?遠慮しなくていいんだよ?私も昼間は暇だから」

 真由美の言い方には、悪意は感じられない。早苗や真人のことを思って、善意で言ってくれていることは早苗にも良く分かった。しかし、早苗は固辞し続けた。真由美の表情も不満気である。意固地にもほどがある。なぜそんなに自分のことを避けるのか。真由美としては、過去の後悔もあるから、今なにか力になりたいと思っているのに。

「そう?じゃあそうして」

 真由美は、込み上げてくるさまざまな言葉を必死に飲み込んだ。真人や志乃の前で、喧嘩をするのを避けたかったからだ。

「じゃ、志乃ちゃんそろそろ帰ろうか。真人君も休まなきゃならないし」

 真由美は無理やり笑顔を作って、志乃に話を振った。

「おばさん、ごめんなさい。早苗さんは、他人との付き合いが苦手なんです。僕のことで精一杯なんです」

 寝室から真人が力ない声で弁解して来た。真由美も早苗も、驚いて寝室の真人に注目した。真人は薄暗い中、心配そうに早苗たちのことを見ている。

「ははは」

 真由美が笑い出した。そして

「病気の子に気を遣わせたらダメだよ」

 そう言って、ポンと早苗の肩を叩いた。

「じゃ、帰ろうか?志乃ちゃん」

 真由美は志乃の手を引いて立ち上がった。

「お弁当、遠慮なくいただいていくからね」

 早苗も急いで立ち上がり、玄関に出た。

「見送りはいいから、真人君の側に居てやりなさい。きっと、ずっと心細い思いをしていたんだろうから。あの子には、あなた以外ないんだからさ」

 振り返る真由美は、悲し気な笑みを浮かべた。



 早苗が真人の枕元に座ると、まことは嬉しそうに早苗を見上げていた。

「大丈夫だった?熱、辛かったでしょ?」

 早苗が真人の額を触ると、汗でぐっしょりとなっていた。

「着替えようか?」

 服を脱がせ、体や頭をタオルで拭く。体はまだ熱い。早苗の目から涙がこぼれた。

「早苗さんごめんなさい」

 それを見て真人が切なそうな声で謝った。早苗はそれを聞いて、慌てて真人の顔を見据えた。

「ううん。真人は悪くない。子供が病気になるのは子供のせいじゃない。しっかりと見て上げられなかった私の責任なんだよ。謝るのは私の方。ごめんね、しっかり見て上げれなくて」

 再び早苗の目から涙がこぼれた。真人がその涙を手で拭った。

「早苗さん、泣かないでください」

 真人の言葉は力なかった。早苗の動揺が伝わるのだろう。早苗はこれではいけないと思い、力強く真人を見詰めた。

「うん、もう泣かない」

 それを聞いた真人に、笑顔が浮かんだ。



 眠る真人の顔を見ながら、早苗の目から再び涙がこぼれた。今回は真人のための涙ではない。自分の弱さに対する涙だった。

 早苗は、今まで自分は強く生きて来たと自負していた。しかし、真人と共に暮らすようになり、自分は何と弱い存在なのかと痛感させられてばかりだった。真人のことに対する判断の一つ一つが、本当に真人のためになっているのか。いつも不安になる。自分の判断の誤りが、真人の人生を狂わせてしまっているのではないか、そんな思いが常に付きまとう。今回もそうだ。真人の様子に気になることはあった。異常に寒がる姿、不自然に明るくふるまう姿。気づいていながらも取り合わない早苗がそこに居たのだ。

 真人に何かあったら…。早苗はそれを考えると身震いする。一人で真人を見て行く自信がない。

 さっきも真由美にすがって、助けて下さいと懇願したかった。溝口に対してもそうだ。一緒に真人を守ってくれ、真人の父親になってくれと縋り付きたくなることもある。しかし、それは出来ない。やってはいけないことなのだ。早苗は人と深く関わるべき立場にはない。いずれ自分と関わった人間は、社会的に悪い立場に立たされる。自分は誰にも頼ってはいけないのだ。そんな思いが余計不安を掻き立ててしまうのだった。




 翌日、真人は学校を休んだ。もちろんそのことは、志乃も知っていた。今日は、早苗が病院に連れて行くとも聞いていたので、心配もしていなかった。しかし、昨日の真人のあの辛そうな顔を思い出すと、その度に胸が締め付けられるような感じがする。

 担任の佐々木も、志乃の神妙な顔を見ると気が重かった。

「大川」

 佐々木が廊下で志乃に声を掛けた。志乃はその声に気が付き、佐々木の方を見た。何か言いたげに見えたのは、佐々木の後ろめたさによるものか。

「真人のこと、すまなかったな。俺がもう少しよく見ていればもっと早く分かったかもしれないのに」

 志乃は暫し佐々木の顔を見詰めた後、ぼそりと呟いた。

「本当に、何処を見ているんだか…」

 志乃は、そう言い捨てるようにしてどこかへ去って行った。残された佐々木は、その衝撃で動くことが出来なかった。

―そんなことないですよ―

 そんな一言があるものと、当然のごとく思い込んでいた佐々木にとって、志乃の一言は全てを破壊する威力を含んだ一言であった。


 放課後、志乃は職員室へ寄った。真人のスマホを預かるためだ。

「佐々木先生」

 志乃に呼ばれた佐々木は一瞬怯えた表情を見せた。また志乃に何か言われるのではないかと言う不安を感じたからだ。

「真人のスマホ、預かっていいですか?これからお見舞いに行きますから」

 その言葉に佐々木は安堵のため息を吐いた。

 しかし、去り際の志乃の視線に冷たいものを感じたのは、佐々木の思い過ごしだろうか?あまりに気の弱い教師である。


 職員室を出た志乃は、そのまま急いで学校を出た。もちろん、真人に会うためだ。今日一日真人のことが気になり、何も手に付かなかった。

「お嬢ちゃん」

 志乃が校門を出ると、すぐに誰かに声を掛けられた。志乃が振り返ると、そこにはこの前の女の人が立っていた。その女の人は、ニコニコと親し気な笑顔で志乃を見ている。相変わらず見惚れるような美しさである。

「今日はひとり?彼氏はいないの?」

 女は親し気に語り掛けて来る。

「今日はひとり。真人君は風邪で休んでいるから」

 志乃の言葉に女の顔が曇った。

「あらそう?それは心配ね。だいぶひどいの?」

「いいえ、昨日は大変だったけど、うちのお母さんがクスリを上げたからすぐよくなったの。今日は病院へ行っていると思うけど」

「お嬢ちゃんのお母さんが?」

 女は意外そうな顔をした。

「うん。真人の家に誰もいないから、私がうちに戻ってお母さんを呼んで来たの」

「その子のお母さんは?」

「真人?真人君はお母さんいないの。早苗さんって人と一緒なんだけど、昼間お仕事だから私が真人君の面倒を見ているの。今日は早苗さんがお仕事休んで病院に連れて行くって言ってた」

 女の顔に笑顔が戻った。

「そう、お嬢ちゃんがあの子の面倒を見ているの?偉いね?」

 女は満足そうにため息を吐いた。

「お嬢ちゃん、お名前は?」

「大川志乃」

 志乃はつい、つられて答えてしまった。

「志乃ちゃん?可愛いお名前ね?じゃ、彼氏のこと大事にしてあげてね」

 そう言い残すと、女はその場を立ち去ろうとした。

「おばさん誰?」

 志乃が思い切って聞いてみた。悪い人には見えないが、気になったのだ。

「私?私はただの通りすがりのおばさんよ」

 女は魅惑の笑顔を残して立ち去って行った。志乃は大人の女の余裕のようなものを見せつけられ、少しショックであった。




            *


 冬休みがやって来た。もちろん真人たちのことである。

「明日クリスマスイブだけど、何かやるの?」

 朝から入り浸っている志乃が、早苗に問いかけた。その日、土曜日で家にいた早苗はテレビのリモコンを操作しながら、ちらりと志乃を見た。

「うん、明日は真人のプレゼントを買いに行く。お志乃も一緒に行こうよ」

 早苗の言葉は無表情だった。

「いや、そうじゃなくって、お祝いはしないのかっていう話!」

「なんでお祝いなんかするの?」

 早苗は面倒くさそうに答えた。

「クリスマスに何もやらないんだ…」

 志乃は軽蔑を含んだ顔をした。

「真人君、明日うちにおいでよ。一緒にクリスマスやろう?」

 真人の手を取り、志乃が懇願するように訴えた。

「クリスマスって何するの?」

 そう質問する真人は、嬉しそうだった。

「真人君クリスマスやったことないの?」

 志乃が憐みの声を上げた。

「テレビでは見たことあるけど、詳しいことは分らないんです」

 真人の言葉に志乃は言葉を失った。

「お志乃。この前も言っただろう?人それぞれなんだって」

 早苗の言葉は、静かに言い含めるようだった。

「真人?クリスマスと言うのはね…」

 早苗が真人の方に視線を変えて話し始めた。

「その意味を知っている人はあまりいないんだよ」

「え?どうしてですか?」

「何故かは分からない。何故かは分からないけど、クリスマスには美味しいものを食べて、騒ぐと言う習慣だけが世の中に広まってしまったんだ。だから理由はいらない。クリスマスは家族や友達や恋人同士が楽しく騒ぐための日なんだよ」

 真人は納得のいかない様子だ。早苗はそれを見て優しく微笑んだ。

「ほら、この前、夏にお祭りに行っただろう?あれと同じだよ」

「ああ、あのお店がいっぱいだった所ですか?」

 真人の顔に笑顔が戻った。

「そうそう。真人はあの日、あそこに何のためにお店が並んでいたか知らないだろう?」

「はい」

「でもあの時、真人はまた来たいって言ってただろう?」

「はい、また行きたいです」

 真人はその時のことを思い出し、心を躍らせながら答えた。

「だろう?理由は分からなくても、楽しければそれでいい。人間なんてそんなものなんだよ。例え、それが本来の意味とかけ離れていたとしてもだ。むしろ、そんなことを言い出すのは野暮やぼと言って、かえって鬱陶しい物なんだよ」

 真人は納得したようなしてないような、中途半端な顔をした。

「だからね、クリスマスと言うのはね、おいしいものを食べて、楽しいことをする日なんだよ。ただね、クリスマスらしい楽しみ方と言うか、ルールみたいなものが出来ているのがちょっと面倒くさいんだけどね」

「どんなルールですか?」

「うーん、取り敢えずキーワードをあげるとだね。『ケーキ』、『鶏のから揚げ』、『プレゼント』…かな?」

 真人は明るい顔を見せた。

「それと、その日の挨拶が『メリークリスマス』になる…だね」

 そんな会話を聞いていた志乃は、深く怪訝そうな顔を作っていた。

「じゃあ、プレゼントですけど!」

 突然、真人が嬉しそうに声を上げた。

「明日もらえるんですか?」

 真人は興奮気味であった。

「そうだね。明日買いに行こう」

 早苗も笑顔で答えた。

「いえ、そうじゃなくって」

 真人のその言葉に、早苗の顔から笑顔が消えた。

「腕まくら!」

 真人がはしゃぎながら言った。

―まだ覚えていたか―

 早苗は落胆した。しかし、早苗もただ黙っている訳ではない。

「そいつはねえ、おそらくこの辺りには売っていないと思うんだ」

 早苗の苦し紛れのごまかしが始まった。真人に自分のスマホを見せながら話を続けた。

「おそらく、通販でないと手に入らないと思うんだよね。だから、クリスマスには間に合わないんだよ」

 早苗のスマホには、各種「腕まくら」の商品写真が表示されている。

「早苗さん!それ違うでしょ!」

 志乃が目を輝かせて叫んだ。

「私、あの日うちに帰ってからお母さんに聞いたんだから。腕まくらってこういうやつのことでしょ?」

 志乃は、真人を床に押し倒すと自分も横になり、真人の頭の下に自分の伸ばした腕を差し込んだ。

「ね?真人君?そうでしょ?」

「そう、そう、これです」

 二人は盛り上がっていた。それを見ながら早苗は顔をしかめてつぶやいた。

「お志乃にやってもらえばいいじゃないの。私が許すからさ」

 しかし、真人は血相を変えて起き上がった。

「ダメです。志乃ちゃんには、やってもらうんじゃなくて、僕がやってあげるんです」

 衝撃の発言に、志乃は顔をこわばらせ、早苗も絶句した。

「あんた、何言ってるの?」

 早苗はやっとの思いで言葉を絞り出した。

「腕まくらは、みんな男の人が女の人にやってあげるんです。男がやってもらうのは、膝まくらです」

 早苗は、停止しそうな頭を無理やり回して解答を導いた。

「…み…溝口か?」

「はい、溝口さんがそう言ってました」

―あの野郎、ただじゃ置かない―

 早苗の目が鋭く光った。

「うちのお母さんも、同じこと言ってた」

 志乃はそう言いながら、大笑いしている。

「で、でも、それなら私が真人に腕まくらしてもらわなきゃならないだろうさ」

「いいえ、大人と子供の場合は、大人の人が子供に腕まくらして上げるんです」

 真人の表情は、何処かしら自慢気に感じられた。早苗は必死で逃げ道を探していた。

「と、とにかく…お志乃!明日、午前中に来なさい。何か買ってあげるから。そうだ、何か真人とお揃いの物を買おう!そうしよう!真人はちょっとおかしいから、お志乃が何が良いか考えて置きなさい。分かった?明日ね、明日」

 興奮気味の早苗は、言い終わると急いでテレビのリモコンを手にした。




 翌日のお昼前、志乃が意気揚々とやって来た。早苗が志乃と真人にお揃いの物を買ってくれると言っていたからだ。

「メリークリスマスです!」

 いつものように玄関を叩きながら、元気よく叫んでいる。

「何をていねいな挨拶をしているのさ。気持ち悪いね」

 玄関を開けた早苗は、怪訝そうに志乃をあしらった。

「早苗さん!今日はクリスマスプレゼント、ありがとうございます!」

 志乃は満面の笑みを浮かべていた。

「お、おう。じゃあ、行こうか。真人、行くよ」

 真人は見るからに元気がなく肩を落としている。

「早苗さん、真人どうしたの?」

 志乃が小声で早苗に聞いた。

「さあね?なんか昨日からあんな調子なんだよね」

 早苗はとぼけて答えた。志乃はそんな真人の横にすり寄り、そっと耳打ちした。

「大丈夫、私に任せておいて」

 ちらりと志乃に視線を向けた真人に悪戯っぽい笑顔を見せて、志乃が意味ありげに片眼を閉じた。



「お財布なんて地味なものがいいんだね?」

 早苗は志乃のリクエストに首を傾げた。

「あんまり目立たなくてさあ、いつも持って歩ける物って考えたら、お財布になったの。今の時期にもピッタリでしょ?」

 志乃がお年玉のことを言っていることは、早苗にもよく分かった。

 乗り気ではない真人の代わりに志乃が選んだのは、レザー製の四角い小銭入れ。紙幣もたためば何枚か入れられる物を色違いで選んだ。志乃は薄いピンクで、真人は薄いオレンジである。志乃の色のセンスに早苗はちょっと閉口したが、よく見てみると真人にオレンジは似合っているような気もするのが不思議だった。

「はい、じゃあこれはお志乃の分、いつも真人のお世話をしてくれてありがとうね」

 志乃は早苗から、奇麗にラッピングされた財布を受け取ると、満足げな笑顔を見せた。

「早苗さんありがとう。じゃあ、今日はお家でクリスマスをするから、私は帰りますね」

 志乃はそう言うと、急に真面目な顔になり早苗を手招きするような仕草をした。早苗がつられて屈みこむと、志乃は早苗の耳元に顔を寄せて囁いた。

「早苗さん?意地張ってると後で後悔するよ。真人に腕まくらして上げられる時期なんて、今ぐらいなんだからさ。もう少し大きくなったら、早苗さんにしてもらうより、私にしてくれるようになるんだよ。私も真人にひざ枕してあげるんだから。それに真人自身も傷つくと思うよ。早苗さんから愛されていないんじゃないかって。早苗さん、今日だけ真人のお母さんになってあげて」

 志乃は言うだけ言うと、早苗の耳元から自分の顔を離し、ニンマリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。



 その後も真人はずっと浮かない顔をしていた。帰りがけに寄ったスーパーでも、ケーキ屋さんでも、いつもなら目を輝かせて見て回るのに、今日だけは、その笑顔に輝きが見られない。それを見る度、早苗の心が痛んだ。早苗の良心に、さっきの志乃の言葉がグサグサと刺さって来る。

 家に帰ると、真人は明るさを取り戻したようだった。しかし、早苗の目には真人が無理をしていることは、はっきりと見て取れた。それがなおさら早苗の心を刺激した。

 せっかく買ったケーキも、鶏のから揚げも、何か味気なかった。テレビを見ていても、いわゆる気もそぞろと言うやつだった。テレビを見て笑う真人の姿も痛々しく感じるのは、早苗の思い過ごしではないように思える。

 夜になり、ついに早苗は決意した。腕まくらをしよう。

「さ、トイレ行っておしっこ済ませなさい」

 顔も洗い、パジャマに着替え、寝る準備を整えた真人に早苗が優しく言った。真人はいつもと違う雰囲気に少し戸惑い気味だった。何が違う?そう、早苗がベッドの上に横たわって居るのだ。

 戸惑う真人に、早苗は布団の上に伸ばした自分の左腕を軽くたたいて言った。

「どうぞ」

 それを見て、真人は急にはにかんだ表情になった。

「早くおいで、これをやりたかったんでしょう?」

 早苗は優しい笑顔を見せた。

「いいんですか?」

 真人が不安気に聞いた。

「うん、今日は特別」

 真人が恥ずかしそうにベッドに上がり、早苗の隣に横になった。そして頭を早苗の腕の上に。

「映画では畳の上のお昼寝だったけど、今時分は寒いからここで勘弁してね?」

「はい、ありがとうございます」

 真人が照れ笑いを見せた。

 早苗は自分と真人に掛布団を掛け、改めて真人の顔を見た。腕には真人の頭の重みと温かみが掛かっている。右手で真人の頭を撫でた。真人は恥ずかしそうに笑った。真人の顔が異様に近い。しかも向かい合っている。恥かしさとかよりも、何かしら愛おしさのようなものが込み上げてくるような、不思議な感覚だった。

―こんな簡単なことだったら、始めからやってあげればよかった―

 早苗は少し反省した。

「早苗さんの顔がすごく近いです」

 真人の声は小さくつぶやくようだった。

「腕があったかいです」

 いつもの元気な声ではない。囁くような声である。しかし、気持ちはいつも以上に伝わってくる気がする。

「今日、志乃ちゃんとお揃いの財布を買ったんですよね?」

「そうだね」

「なんかそれだけで、ものすごく志乃ちゃんと近くなった感じがしますね」

「そう?それは不思議だね」

 とても他愛無い会話である。

「でも、志乃ちゃんが選んでくれたのに、僕、嬉しかったけどお礼が言えなかったんです。申し訳ないと思ってます」

「じゃあ、今度会ったら『ごめんなさい』して、ちゃんとお礼も言おうね?」

「はい、そうします」

 顔が近いので、何となく小声になる。しかも、近い分相手の表情も良く見える。そのせいか、二人だけの世界に入り込んでしまうようだ。真人の取り留めのない話が延々と続いた。志乃のこと、学校での出来事、テレビ番組のこと、などなど多岐にわたるその内容は、いつもの真人の話しには出てこないような内容も含まれていた。それに対し返事をし、相槌を打つだけの早苗であったが、早苗にとっても、ものすごく充実した時間であった。

 すると突然、真人が早苗の肩に抱き着いて来た。何事かと思い緊張した早苗だったが、見ると、真人はもう寝息を立てている。話し疲れて寝落ちしてしまったようだ。微笑んだ早苗は、もう少しこの余韻を味わっていようと思った。

 しかし、真人の寝顔を見ているうちに、突然全身に力が入った。早苗の脳裏に、消去していたはずの過去の記憶が蘇ってきたのだ。その記憶が早苗の身体を震えさせた。そして、今まで温かく満たされていた心を、激しく締め付けて来た。

 腕まくらと言う、こんな簡単な行為を、なぜここまで拒んで来たのか。それは単に照れくさいとか、恥ずかしいとか言うだけのことではなかった。早苗の記憶が、心が拒ませていたのだった。



 早苗が中学三年生の頃、何度か真人の父、笹本啓太の家に誘われたことがあった。その時、一度だけ笹本の腕を腕まくらにしたことがあったのである。

 笹本の部屋で二人が話をしていたとき、何かのきっかけで笹本が自分のベッドに仰向けになり両腕を広げた。その頃、笹本とのことで有頂天になっていた早苗は、ノリのつもりで笹本の隣に寝そべりその腕に自分の頭を乗せた。身の丈をわきまえない、浅はかな愚行であった。そして笹本も驚き、照れくさそうではあったが、拒むこともなく嬉しそうにそのまま受け入れたのであった。照れた二人は二言三言交わしただけで、言葉が途切れた。早苗の頭には、笹本の腕の温もりが伝わってくる。横からも、笹本の体温が感じられる。早苗の胸に、何とも言えない温かみが込み上げて来た。喜びとも満足とも言えぬ、不思議な感覚。早苗には、これが「幸せ」なのだと感じられた。そして、自分は笹本を愛しているのだと再確認したのだった。早苗は、仰向けだった体を横に向けなおし、笹本と向かい合うようにした。笹本も体制を変え、早苗と向き合った。そして、早苗の頭に空いている腕を回すとそっと自分の胸の方へ引き寄せた。早苗は笹本に抱え込まれるように身を寄せた。笹本の体温と同時に、笹本の匂いが強くなり、早苗も思わず笹本の背に自分の腕を回し、その胸に自分の顔を押し付けた。笹本の腕にも力が入った。

 早苗の胸に、その時のときめきと興奮が蘇った。今まで、十五年以上忘れていた思いが、ありありと、生々しく蘇ってきた。そしてそれは今、喜び以上に悲しみとして、痛みとして早苗に襲い掛かってきた。早苗の目から涙が溢れ、噛み締めた口元から呻き声が漏れた。悲しみと羞恥と怒りと苦しみと、そして恋しさ。それらが全て織り交ざった複雑な感情が、嗚咽となって早苗の口から洩れ続けた。真人に気づかれぬよう、真人を起こさぬよう、必死に右手で口を押えて堪えながら。そして、早苗は思い知った。自分はまだ笹本に、真人の父親に未練があったのだと。

 その日は、早苗にとって最悪のクリスマスとなった。


 早苗は静かに眠りに落ちた。そのうちに、真人の頭をのせている左腕が痛み始めた。早苗が真人の方に視線を向けると、そこにいたのは真人ではなかった。

「啓太くん!」

 そこには早苗を見つめて微笑む、笹本啓太の顔があった。早苗の胸に、懐かしさが溢れた。

「何か久しぶりだね啓太君。元気にしてた?」

 懐かしさに嬉しくなった早苗が、明るく問いかけると笹本は何か答えたようだった。しかし、早苗の耳には何と言ったか聞き取れなかった。

「そうだ、聞いてるかな?私今、啓太君の子供、真人君を預かっているんだよ?」

 笹本は何か答えているが、相変わらず何を言っているかは聞き取れない。

「真人君、本当にいい子だね。きっと、啓太君に似たんだよ。私にも何か懐いてくれてるみたいだし。私、毎日楽しいよ。ありがとうね。真人君のこと、任せてくれて…」

 笹本は、何も言わずに悲しげな顔をしている。早苗の胸に熱いものが込み上げ、涙が溢れて来た。

「ねえ、啓太君。ここで一緒に暮らそう?私と真人君と三人で。私きっと、真人君の良いお母さんになれると思う」

 笹本は困惑した表情で黙っている。

「ねえ、私じゃダメなの?」

 早苗はべそをかきながら訴えた。しかし、笹本は表情を変えない。

「どうして私じゃないの?そんなにお姉ちゃんがいいの?お姉ちゃんじゃなきゃダメなの?ねえ、私じゃダメなの?私じゃダメなの?私にしてよ!お姉ちゃんとのことは、全部忘れるから!全部無かったことにするから!」

 笹本にねだるように、泣きながら訴えるその時の早苗は、大人の早苗ではなく、まだ中学生だった頃の幼い早苗に戻っていた。しかし、心では笹本を必死で求めているのに、何故か体は動こうとしない。すがり付こうとも、抱き付こうともしない。ただ、泣き叫ぶだけである。



 早苗が目覚めると、すでに朝だった。寝ていた筈なのに、心臓が激しく鼓動している。息も切れている。まるで運動の後のようだ。ぼんやりと覚えている夢の内容。それを思い出すだけで切なくなる。瞼に涙がたまり、頬も濡れている。

「ああ、泣いていたんだな…」

 早苗は悟った。声は出していなかったか?少し心配になった。隣には真人が寝ている。まだ寝息を立てている。それを見て安心した。

 夢の中だとあんな露骨なことを口にできるものかと、不思議な気持ちになった。まさか今になって、しかも夢の中で自分の本音を思い知らされるとは…。まさか自分が、あんなことを口走るとは思っても見なかった。あれが本当に自分の本心なのか、早苗には信じられなかった。しかし、そう思いながらも、夢の中で出会った笹本の顔を思い出すと涙がこぼれた。

 真人と出会って、もう半年近くになる。その間、真人を通して過去のことをいろいろと思い出すことがあり、精神的にダメージを受けることは多かった。しかし、夕べの衝撃の破壊力はそれまでの比ではなかった。今思い出しても叫び出したくなるほどだ。この思い、もう二度と記憶の奥にしまい込むことは出来ないのだろう。

―この子があんなことを望まなければ…―

 そう思いながら真人の顔を見ると、あの時の真人の嬉しそうな顔が思い出され、あの時の、声を潜めて語り合う、ないしょ話のような親密感が思い返された。確かにあの瞬間は、早苗も幸福だったのだ。楽しい時間だった。そして、時々腕まくらくらいしてあげてもいいかなとも思ったのだ。そう、この子に罪は無い。愚かなのは早苗と笹本とそして香奈恵なのだ。

 早苗が涙ぐみながら、悶々とそんな思いを巡らしていると、真人が目を覚ました。

「おはようございます」

 真人は早苗と同じ布団にいることに驚いたようで、はにかみとも緊張ともつかない顔をした。早苗は思わず微笑んだ。

「おはよう。いい夢見れた?」

 その言葉に真人が明らかに照れた。きっと照れくさい夢を見ていたのだろう。

「どんな夢見たの?」

「…忘れました」

 そう言う真人は、何か悪いことをした後のようにバツの悪そうな顔であった。自分のこともあるし、敢えて追及するのもかわいそうな気がした早苗は、からかうような笑顔を見せるだけで、ベッドから起き上がった。

「じゃあ、私は今日仕事があるから、お留守番お願いね」

「はい、分かりました」

 真人の返事は、いつもの元気なものになっていた。真人のその明るい顔が、早苗の弱った心に力と勇気をくれた。




 真人が一人で留守番をしていると、十時ごろ志乃がやって来た。

「お母さんが、真人君一人でいるなら、うちに来て夕べの残りでも食べようって言ってたよ」

 志乃の誘いに応じて、真人は大川宅へと向かった。

「志乃ちゃん」

 道を歩きながら、真人は志乃に話しかけた。

「なあに?」

「昨日は、可愛い財布選んでくれてありがとう。嬉しかったけど、お礼も何も言えなくてごめんなさい」

 志乃はそれを聞いても笑顔のままで答えた。

「いいよ。真人君、それどころじゃなかったんでしょ?」

「え?」

「腕まくらのことが、気がかりだったんでしょ?」

「志乃ちゃん、分かるの?」

「うん、すっごい顔に出てた」

 そう言う志乃の笑いにつられて、真人も笑顔になった。



「真人君いらっしゃい。メリークリスマス。風邪の時以来だね」

 真人が大川宅へ到着すると、母親の真由美が歓迎してくれた。

「はい、あの時は本当にお世話になりました。あの時は本当に死ぬんじゃないかって思っていましたから」

 真人は深々と頭を下げた。

「そうだろうね。あんだけ熱があったら大人でも死ぬ思いしただろうね。でも、無事に良くなって本当に良かった」

 真由美も嬉しそうだった。

「あとね、お母さん!」

 志乃が嬉しそうに言った。

「真人君、昨日、腕まくらしてもらえたんだって」

「えーっ、良かったねー!」

 真由美も嬉しそうな声を上げた。それを見て、真人は驚きの表情で真由美と志乃を見比べた。

「志乃ちゃんから、いろいろ聞いてるよ。腕まくらしてもらいたかったんだって?」

 真人が顔を強張らせている。

「真人君、それは恥ずかしいことじゃないんだよ。真人君や志乃ちゃんくらいの頃は、そう言うこと一杯やってもらうべきなんだよ」

 真由美は、そこで一旦言葉を切った。真由美としては、「腕まくらだけじゃなくて、おんぶや抱っこ、頬ずりなんかもいっぱいやってもらったら…」とかも言いたかったのだが、それを言って真人がその気になってしまったら、早苗がパンクしてしまうのではないかと思い、何とか思い止まった。

「まあ、甘えるのは子供の特権だからね」

 真由美は残念そうな笑みを浮かべた。


 三人は、夕べのケーキの残りを食べていた。志乃が席を外したすきに、真人が真由美に話しかけた。

「昨日の夜、寝ていたら早苗さんが泣いていたんです」

 突然の予想外の言葉に真由美は驚いて真人を見た。

「僕が、腕まくらしてもらったせいかもしれません。早苗さん、とても嫌がっていましたから」

 真人は肩を落とし、悲しそうな声になった。

「どんなふうに泣いてたの?」

 真由美は細心の気を使い、優しく尋ねた。

「良く分からないですけど、夜、目が覚めたら早苗さんも寝ていたみたいなんですけど、悲しそうに涙をいっぱい流していたんです」

 真人は、もう泣きそうである。

「きっと何か悲しい夢でも見たんだよ。大人でもそういう時はあるさ。だから、それは真人君のせいじゃないよ」

 真由美には、ほかに言葉が見つからなかった。

「そう言う時はね。何も言わないで、そっとしといてあげるのが一番なんだよ。そして真人君の元気な姿を見せて上げれば、早苗さんの気持ちも晴れてすぐ元気になるよ」

「そうですか?」

 真人は不安気に真由美を見た。

「うん、そうだよ。早苗さんはね、真人君が元気なら早苗さんも元気になれるんだよ」

「本当ですか?」

「本当だよ。親なんてそんなもんなの」

 真人が少し黙った。

「でも、早苗さんは親じゃないんです」

 真人の声には力が無かった。

「そんなことないよ。早苗さんはもう立派な真人君のお母さんだよ」

「でも早苗さんは、最初に会ったときに母親には成れませんって言いました」

 真人はいかにも残念そうである。

「そう?そんなこと言ったんだ。でもそれはね、あくまでもその時の早苗さんの気持ちだったんだと思うよ。早苗さんはおそらく、その時点では親になれる自信が持てなかったからそんなことを言ったんだよ。確かに、社会的な意味での母親になるには、いろいろな手続きが必要で、今の早苗さんはその意味では母親ではないかもしれない。でもね、私が見る限り今の早苗さんは、どこのお母さんと比べても負けないくらいの母親だと思うよ。つまりね、呼び名はお母さんじゃないけど、真人君に対する愛情は立派なお母さんだって言うこと。分かった?」

「分かりました」

 真人の顔が笑顔になった。

「それでね?親になってもさ、辛いことや悲しいことはいっぱいあるわけなの。泣きたいときもあるのよ。だから真人君も、早苗さんのそんなところを見ちゃっても、見なかったことにしてあげてね?」

 真由美がいたずらっぽい笑顔を見せた。

「はい、そうします」

 真人もすっきりしたようだった。

 真由美は、真人にはそう言ったものの、腕まくらと早苗の涙には何か関係が有るような気はしていた。過去の何かを思い出したのではないかと思い、つい、余計な詮索をしたくなるのだった。しかし、真由美が何をどう考えようが、どうなるものでもないことは分っているので、敢えて考えるのを止めた。そうだ、真人に言った通り、触れないで上げることが親切と言うものなのだ。




            *


 早苗は、先日の腕まくらの夢の一件以来、心に膜が貼ったようなぼんやりとした感覚で過ごしていた。

 今は冬休み、早苗の職場も御用納めを終え、年末年始の休暇へと突入した。暇な志乃は朝からここに入り浸っている。部屋の中は、この前の真人の風邪の一件で急遽購入した石油ストーブのおかげでとても暖かい。志乃は一応宿題をやると言う名目で来ているのだが、その実テーブルに教材を広げているだけで、真人といちゃついているだけにも見える。早苗はそんな二人を、ちょっと離れて壁にもたれながらぼんやりと見ていた。

「志乃ちゃん、ちゃんとお勉強しないとだめだよ」

 真人が時々意見するが、何となく浮かれた志乃は全く集中できずにいる。

―あの頃の私も、あんなところがあったかも知れない―

 笹本と会えるだけで嬉しかった。笹本が相手をしてくれると、舞い上がっていた。心が弾むとか、心が躍るとか、まさしくそんな心境であった。きっと周りから見ても、うっとうしかったに違いない。

―でも、本当に楽しかった―

 何故か目頭が熱くなる早苗であった。感傷的とはこういうことを言うのだろうか。年甲斐もなく…と恥ずかしくなるが、どうしても感情のコントロールが効かない。

 志乃が鼻歌を歌っている。かなり昔の歌だ。なぜこんな子供がこんな古い歌を知っているのか。おそらく母親か父親の影響であろう。それは、早苗と笹本が付き合っていたころに流行った歌である。笹本が好きで、このミュージシャンのCDを早苗も借りてよく聞いたものだった。早苗は音楽にさほど興味はなかったが、笹本の勧めるままにそのCDの内容は、しばらくの間早苗のコレクションに加えられていた。

 聞いてみれば確かにいい曲であり、恋に溺れる当時の早苗には共感できる部分も多かった。その頃何十回も聞いたその曲は、笹本との関係が壊れるとともに早苗の記憶からも、コレクションの中からも消えて行ったのだった。

 しかし、今こうして志乃の中途半端な鼻歌を聞いただけで、その旋律に引きずり出されるように、その時の記憶や感情も蘇ってくるのであった。あの時に見た景色、情景、心の形までが鮮明に…。歌が、曲が、その時の早苗の心と結び付けられていたのだ。

 心が震えた。心が冷たく震え、涙が溢れそうになり、思わず膝を抱えて顔を伏せた。息が震える。肩も震えていたかもしれない。志乃に向かって「やめてくれ!」と叫びたい心境であった。しかし、歌に罪はない。早苗が勝手にその曲と記憶を結び付けただけである。もちろん志乃にも罪はない。すべて早苗の愚かさに起因するだけなのである。

「志乃ちゃん、勉強中に歌はダメだよ」

 真人が志乃をやさしくたしなめた。真人がどんな顔でそう言ったのか、早苗には知ることが出来ない。今の早苗には顔を上げて確認する勇気はなかった。ただ、その声には早苗に対する気遣いが感じられた。おそらく真人は早苗の気持ちを察して志乃に進言してくれたのだ。

 また真人に心を見透かされたようだ。真人は早苗の気持ちを敏感に察知する。顔色を伺うのとはまた違う、そこには大人びた配慮があるのだ。そういう所は早苗から見て真人の怖い所だ。子供だと思って侮れない。蔑ろにできない。しっかりと早苗の気持ちと事情を説明しないと異様に不安がる。ある意味、大人よりも面倒だとも言える。

 早苗が、自分の無能さ、無力さを痛感する瞬間だ。



 夕食の後、テレビを見ながらぼんやりと考えた。どうすれば気が晴れるだろうか。いつも、こんな時何をしていただろうか?

 そんなことを考えているうちにハタと思い出した。銭湯だ。

 早苗のストレス発散の方法は、近所のスーパー銭湯だった。大きな湯船にのんびりと浸かり、サウナでしっかりと汗を絞れば気分は爽快になる。

―久しぶりに行くか―

 そうだった。真人がここに来てからずっと行っていなかったのだ。早速明日にでも行こう、と思った瞬間、今まで行けなかった原因が目の前にあることに気づいた。

 真人をどうするか。連れて行くか?連れて行って一人で男湯に?それも心配だ。では女湯に?法律上は大丈夫かもしれないが、真人が裸の女に囲まれて大丈夫なわけがない。どうする?

―溝口?―

 早苗の頭に真っ先に浮かんだのは、その名前であった。溝口に一緒に行ってもらい、真人と一緒に男湯に入ってもらえばすべて解決である。しかし、早苗の良心が痛んだ。そんなワガママ許されるはずがない。溝口の好意を利用するなどさすがに出来なかった。溝口のことだ、早苗が頼めば付き合ってはくれるであろう。しかし、それによって何かを期待させてしまうかもしれない。溝口との関係は、はっきりと一線を引いておくべきだ。早苗はそう考えた。

―銭湯はナシか…―

 早苗は小さくため息を吐いた。

 早苗はテレビを見て笑う真人の横顔をじっと見つめた。

―こいつを使うか―

 早苗は思いついた。世の中には、犬や猫をでて心を癒す人がいる。今、早苗のもとには犬や猫並みにで甲斐のある「真人」がいた。

―こいつをいじくり回してストレス発散だ―

「真人?」

 呼ばれた真人は笑顔のまま早苗を見た。

―ああ、これは愛で甲斐がある―

 早苗はほくそ笑んだ。

「明日、映画でも見に行こうか?」

 真人が狂喜したのは言うまでもない。



 翌日、早苗と真人は映画館にいた。冬休みの子供向けアニメの上映館である。早苗は劇場で映画を見たのは小学校以来かも知れなかった。劇場はけっこう混んでいて、午後からの席しか空きが無かったので、それまで時間つぶしに近くの散策をした。

 普段、買い物と言えば近所のスーパーか、ちょっと足を延ばしてショッピングモールである。こういう街中のシャレた店など見たこともなかった。華やかに飾り付けられた街並みは、早苗にとっても夢の世界で、真人以上に浮かれてはしゃいでいたかもしれない。真人と手を繋いで歩く繁華街は思いの外楽しかった。これだけで充分早苗のストレス解消に役立った。

 時間が来たので映画館へ向かう。指定された席へ真人と二人で座る。周囲はほぼ親子連れである。中には子供だけで来ている子らもいるが、大部分は子供連れの大人たちであった。意外と大人の男性が多いのにも驚いた。真人は劇場は初めてとのことだった。早苗も初めてと同じようなものである。二人は緊張しながら席に着いた。

 照明が暗くなった。真人が驚いて周囲を見回す。早苗も「ああ、そうだった」と思い出した。真人が不安気に早苗の手を探すように掴んで来た。早苗がぐっと真人の手を握ると、気が付いた真人が照れくさそうに笑った。

 映画の上映中、早苗はほとんど真人の顔を見ていた。真人の顔に現れるあからさまな喜怒哀楽は何よりも早苗の心を揺さぶった。時折、つないだ手に力が入る。真人の気持ちが早苗にも伝わるのだ。早苗は胸が熱くなった。

―この子がいれば、何もいらない―

 早苗の過去には色んなことがあった。そして、そのすべては早苗の記憶の奥底に封印してしまった。早苗には過去が無いのだ。しかし、今早苗にはこの子がいた。自分を裏切った奴らが残したこの子が、今の早苗の生きる支えになるのだ。そう確信した早苗であった。




 新年を迎えた。

 早苗は、大晦日から何をすると言うこともなく、真人と二人のんびりと過ごしていた。コタツの上には真人が作った小さな鏡餅が乗っている。これは昨晩、蒸かしたもち米をガーゼで包み、まな板の上で「すりこぎ」で搗いて作った餅である。多少いびつだが、真人が満足していたのでそのまま置いている物だ。これもまた、こんなものを見ながらほくそ笑む自分が嘆かわしくなる原因となっている。

 早苗のスマホが鳴った。見るとメッセージが入っている。溝口からだ。

内容は新年の挨拶。今日は仕事らしい。休みになったら挨拶に来ると言っている。

 早苗はその画面をじっと見続けた。いろいろな思いが心の中を駆け巡る。溝口が早苗に好意を持っていてくれるのは早苗自身も理解していた。そして今では早苗もその好意をまんざらでも無く感じていた。しかし、早苗の心の奥底には笹本に対する未練が残っていることは、身に染みて感じさせられている。それ故に溝口の好意に甘えることがはばかられる。そしてそれ以前に自分は親しい人間を作るべきではないのだ。これから早苗がやろうとしていることは、早苗の関係者に多大な迷惑をかけることになるのだ。特に溝口は、警察官と言う立場上、早苗とは一線を画さなければならない存在なのである。

 それは良く分かっている。その為に、なるべく溝口には冷たく接して来たつもりであった。しかし、真人のことを見てもらう関係上、完全に切ることは出来ないままに来てしまった。しかも、早苗の溝口に対する依存度は日に日に大きくなってきているのが分かる。

 早苗はしばらく考えて、スマホをしまった。返事を送るのは止めることにした。


 外を見ると天気が良かった。

「真人、初詣行こうか?」

 何となく、早苗自身がワクワクして思わず真人を誘ってしまった。今まで、初詣など行ったことも無いのにである。自分は何か浮かれてることに改めて気づいた。

 すると、真人のスマホに志乃から電話が入った。新年の挨拶だった。

「早苗さん!」

 電話で志乃と話していた真人が、突然早苗の名を呼んだ。

「志乃ちゃんも、神社に行きたいと言ってるんですけど」

 真人の口調は、遠慮がちだ。

「いや、私は構わないけど、元旦そうそう遊びに出て、うちの人は何も言わないのかい?」

 さすがに早苗もそこは気にしてしまう。真人はそれを受けて更に何か話し合うと、改めて早苗に向かって言った。

「おじさんもおばさんも、別に構わないって言っているそうです」

「え?そうなのかい?」

 真人の言葉に、早苗の方が目を丸くして驚いた。




 早苗と真人は、連れ立って志乃の家まで行った。早苗もついでと言っては何だが、今日くらいは挨拶すべきと腹を括り、大川夫妻と対面することにした。


「うちも今日ならいいんだよ」

 真由美が恐縮する早苗に説明した。

「明日からは、親戚なんかの挨拶があるけど、今日だけは何もないからのんびりしているからさ。うちの旦那も、飲み疲れで部屋で寝ているよ」

 早苗としては、だからこそ家族で過ごすべきなのでは?と思ったが、自分の過去を振り返っても、どの口がそんなことを言うものかと恥ずかしくなった。自分の頭の中に、家族などと言う言葉が浮かぶこと自体、焼きが回ったなと感じ、がっかりである。



「ほら、二人!もっとくっ付いて!腕組んで!」

 真人たちの後ろから、声を掛ける早苗。小さいが、地元の神社へのお参りである。知り合いに会う可能性も大きい。この前のように、クラスの友だちに出くわしてうろたえる志乃を見てやりたいと思い、煽っているのだ。

「あ、そうだ」

 早苗が突然思い出したように声を上げた。驚いて早苗を見上げる志乃に、早苗は笑顔を見せて屈みこんだ。その手にはポチ袋。

「ほらお志乃、おとし玉」

 差し出す早苗に、遠慮がちに顔をしかめる志乃。

「遠慮しなくていいよ。お志乃には特別だ。真人のことをいつも見てもらっているから。ほら、この前の財布に入れておくれよ」

 その言葉に志乃の顔に笑みが浮かび、嬉しそうに言った。

「ありがとうございます」

 そのはにかんだ姿を見て、なんともいえぬ喜びが早苗の胸に広がった。


「あ、お店が出てる!」

 境内入り口で真人が叫んだ。そこに、数件の露店が出ていたのだ。真人と志乃は嬉しそうに駆け寄った。その姿を見て早苗がフッと冷めた笑みをこぼした。

「早苗さん、今笑ったでしょう?」

 志乃がそれを見逃さず、早苗を睨みつけて来た。

「いや、まあ…ごめん。何かすごく可愛らしくて」

「ふん!どうせ、ガキだと思ってばかにしているんでしょ?」

 志乃は憤慨していた。変なところにこだわるものだと、早苗も困惑したが、子どもっぽく見られたくない志乃のプライドなのかと余計可愛らしく思えた。おそらく以前の早苗ならば、生意気な小娘と思い、かなり憤慨したことだろう。なんとなく、こんなふうになってしまった自分が恥ずかしく思えた。

 ただ、早苗が二人を見て笑ったのは、バカにしてのことではない。ちょっと思い出したことがあったからだ。それは、昔聞いた落語の演目「初天神」である。

 生意気な息子を連れてお参りに来た父親が、その息子に振り回されるはなしだが、そこで、露店で買ってもらいたい息子と買わせたくない父親の攻防が、面白おかしく語られるのである。

 詳しいことは分からないが、「初天神」は正月に掛かることの多い演目らしい。落語の中には、古典、新作を問わず生意気な子供が大人を翻弄する話が多い。現代のアニメなどにもそう言う類のものがあるが、普段ぞんざいにあしらわれる弱者である子供が、権力を振るう大人をやり込めると言う話は、古今を問わず意外と爽快に感じられるのかもしれない。

 若かった早苗は、その噺を聞いたときには腹の立つガキだと嫌気が差し、嫌いな演目だったのだが、今、真人たちの姿を見て、もう一度聞いてみたい気持ちが込み上がってきた。しかし同時に、そんな自分がまた怖いような感じもするのであった。

「さ、まずお参りしよう。それからおみくじ引いて、帰りにたこ焼きでも食べよう」

 早苗がそう言いながら、二人を追い立てるようにした。

「はーい」

 真人はご機嫌で拝殿の方へ向かった。すると、

「真人君だ!」

 不意に後ろから子供の声が聞こえた。振り向くと数人の子供らが真人の方へ走ってゆく。

―やっぱり来ていたか―

 早苗に笑みが浮かんだ。早苗の予想通り真人のクラスメイトも来ていたのだ。志乃の反応を期待しながらほくそ笑んでいると、少し早苗の思っていたのとは様子が違うことに気づいた。子供ら…?子供が五人いる。五つ子?いや、見回しても大人がいない。親はどうした?

 早苗の想像では、親子連れの友達との遭遇であり、友達のグループではなかった。なぜなら今日は元日である。

 戸惑う早苗に子供らは興味深げに近づいて来た。

「真人君、この人が早苗さん?」

 子どもの一人が真人に尋ねた。

「はい、早苗さんです」

 真人の返答に、子供らがどよめいた。

「志乃ちゃん、早苗さんって全然普通だよ?優しそうだし」

「そうだよ。うちのお母さんより全然いいよ」

「私もっと怖い人かと思った」

 子ども達は口々に感想を述べ、志乃を攻撃している。志乃はいったい早苗のことをどんなふうに言っていたのか。早苗は無言で志乃を睨んだ。志乃は素知らぬ顔をしている。

 それにしても、この子等は志乃がここに居ることに何の追及もない。ひょっとして、志乃と真人が対になっているのはすでに公然の事実となっているのだろうか?早苗は落胆した。

 しかしそれにしても、元日そうそう子供たちだけで遊びまわるのは感心できない。

「ねえ、君たち?」

 早苗は親し気に子供たちに話しかけた。その問いかけに、子供たちは何げなく早苗の方へ顔を向けた。しかし、真人と志乃は驚きのまなざしを早苗に向けた。なぜなら、早苗の口調が、あまりにも普通の大人だったからだ。いつもの早苗ならば、

「ねえ、君たち」

 ではなく、もっと高圧的に

「ねえ、あんた達」

 と、言うはずである。

 しかし、当の早苗はそんなことを気にすることもなく、子どもたちに続けて話しかけた。

「お家の人たちは、来てないの?」

 その言葉に子供らは、不思議そうにお互いの顔を見合わせた。

「うん、親は家にいるよ」

 ひとりの子が答えた。

「遊びに出て、何も言わないの?」

 早苗の表情は、怯えに近いものになっていた。

「うん、むしろうるさいから遊んで来いって言われた」

 その子は笑いながら言った。

 早苗は衝撃を受けた。早苗の頭の中にあった常識と言う名の器が、音を立てて砕け散った気がした。早苗の常識が、すでに常識ではなくなっていたのだった。

 正月は、家族がそろって過ごす。それが早苗の常識であった。早苗自身はそれを否定し、うっとうしく感じていたが、心の奥底ではそう言うものであると信じていたのだった。今まで隠してきた本音が顕わになると同時に、現実によってそれを瞬時に否定されてしまったのである。これが、世の常識なのではなく、たまたまこの子等だけが特別なんだと信じたかった。

 自分を否定され、志乃の醜態も拝むことが出来ず、思惑が外れてばかりの惨憺たる正月となってしまった。


 友達と別れ、三人は拝殿の方へ向かった。早苗も神社での参拝は、おそらく生まれて初めてだろう。ドラマなんかで見たことはあっても鳥居をくぐってお参りするようなことは無かったのだ。当然やり方など分からない。経験者である志乃にならって手を合わせた。

 別に早苗はお参りしたくて来たわけでもない。ただ、何となく浮かれた気分で、観光ぐらいの気持ちで来ただけだ。もちろん神様を信じている訳でもないから、ただ形だけ手を合わせたつもりであった。

 しかし驚いたことに、手を合わせた瞬間、真人の安全を祈る早苗があった。そして、日頃真人のことについて、自分の力に不安のあることなど次々と心に浮かび上がり、切実に助けを求めていたのである。

 自分のことなど、どうとでもなる。また、どうにもならなければ諦めればいい。しかし、真人のこととなるとそうは言ってられない。どうして良いか分からないことばかりで、不安が尽きないのだ。信じる信じないは別として、自分の無力さを実感した時、人は救いを求めるものなのかもしれないと感じたのだった。



「寒いから、うちに帰ってから食べようか」

 たこ焼きを買った早苗は、真人たちにそう言った。神社とは特に何もない所なのだと知った事と、また真人が風邪をひいたら困るのと、ここに居ると自分の弱さを思い知らされそうだったので、早く帰りたかった。

 真人と志乃は、さっき買ったおみくじの結果を見てはしゃいでいる。早苗は自分の分は買わなかった。真人たちには強がった言い訳をしたが、実際のところは、その結果に惑わされるのが怖かったのである。

「このおじさんたち、お正月からお仕事しているんだね」

 志乃が、帰りがけに早苗のコートの袖を引っ張って呟いた。

 早苗はそう言う志乃を見て、優しく微笑んだ。

「そうだね。世の中、いろんな立場の人たちがいるんだね。あのおじさんたちのおかげで、ちょっと楽しい時間が過ごせたよね?」

 志乃は嬉しそうにうなづいた。

 そんな会話の後、早苗は境内の露店を見渡して見たが、そこには団子屋も凧屋も見当たらなかった。時代というものを感じた早苗であった。




 早苗たちが初もうでに出かけ、いろいろな思いを感じているその頃…。

「既読が付いているのに、返事が来ない…」

 元日そうそう、交番の中で涙ぐむ警察官がひとりいた。







      3.中学生になって



 真人は中学生になった。

 早いもので、早苗と暮らし始めてからもう五年の歳月が過ぎていた。幸いその間、真人の周囲に香奈恵の姿は見られず、何事もなく平穏に過ぎたと言えるだろう。

 早苗も、真人との生活にすっかり慣れ、当初の心配も杞憂に終わり、早苗と真人の関係も実に良好であった。

 真人は、成長しても相変わらず美少年であった。小学校でも女子達から人気があったが、常に志乃ががっちりとガードを固めているせいで、他の女子達が取り入る隙を作らなかった。

 身体的にも成長し、小さかった体もかなり大きくしっかりして来た。身長はまだ早苗の方が大きいが、力はすでに真人が勝っていた。

 今の早苗にとって真人の成長は、早苗の希望であり、喜びであり、生きる原動力となってしまっていた。


 今日は真人の入学式である。

 早苗も思い切って休みを取り、入学式に参席することにした。卒業式の時も仕事を休んだのでいろいろな思いはあったが、同僚の勧めもあり、真人の成長を共に祝ってあげる意味も込めて休みを取った。この五年の間、早苗は保護者として十分な役割を果たしただろうかと言う不安はあるが、こんな環境の中で素直に真っ直ぐに育ってくれた真人を褒めてあげたいと言う気持ちもあった。

 制服に身を包んだ真人は、早苗にはまるで別人のように見えた。初めて真人を見たあの日のことが胸の中に蘇り、まさに感無量であった。思わず目が潤み、真人に冷やかされる始末だ。

「早苗さん、おかげさまで中学生になりました。今までありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願いします」

 そして、真人もまた目を赤く潤ませて丁寧に礼を述べた。

 入学式の朝である。


 二人並んで登校すると、志乃の家族と顔を合わせた。中学も志乃と同じ校区だった。

「マコトー!」

 志乃がいつもより陽気に声を掛けながら、駆け寄ってきた。志乃は五年生くらいの頃、髪を切った。もともと背中まであった髪を肩にかかる程度にしたのだったが、真人にはショックだったようで、密かに落ち込んでいるのが早苗には可愛くてならなかったのだった。そんな志乃も、ここ数年でぐっと大人っぽくなり、落ち着きが見えるようになっていた。口を開かなければの話ではあるが。

 その志乃の後ろには、大川夫妻が複雑な面持ちでこちらを見ながら立っている。その姿を目にして、早苗も戸惑いを感じた。

 最初のあの日、もう自分たちに係わらないでくれと釘を刺した早苗である。しかし、実際には志乃を通して夫妻にもかなりの世話を焼いてもらっていたのだ。そのことに対しては、早苗も正直感謝していたのだった。

 早苗は、感動の対面をしている志乃と真人をよそ目に、大川夫妻の方へ静かに歩み寄った。

「今日は、おめでとうございます」

 早苗は静かに頭を下げた。大川たちも黙って頭を下げた。早苗の出方を伺っているかのようだった。

 早苗は頭を上げると、そのまま話を続けた。

「今日、こうして真人が中学に進学できたのも、志乃ちゃんとお二人のお力添えがあってのことだと言うことは、私も実感しております。本当にありがとうございました」

 早苗は改めて深々と頭を下げた。

「よろしければ、今後とも引き続きご指導よろしくお願いいたします」

 頭を下げたまま話す早苗の声は、至って静かで落ち着いていた。言い終わった早苗は、頭を上げると静かに二人に視線を送ると、あとは何事もなかったかのように背を向けて真人たちの方へ歩き出した。

「お志乃、今日はおめでとう。制服可愛いね。似合ってるよ。真人、行こうか」

 志乃に笑顔を送った早苗は、真人を連れて立ち去って行った。

「何か、卒業式の時も同じこと言ってなかった?」

 真由美がぼやいた。

「真人君のことは頼むけど、自分のことは構ってくれるな…っていう所かな?」

 大川が残念そうにつぶやいた。

「そんなに根に持っているのかね?」

 真由美の言葉にも、やり切れなさが滲んでいた。




            *


「あのさあ、前から気になってたんだけどさ」

 真人が不満げに話を切り出した。

 場所は、自宅から最寄りのファミリーレストラン。入学式の帰り道、入学のお祝いにと言うことで昼食に来ていた。

「え?なに?」

 頬杖を突いたまま、真人のブレザー姿に見惚れていた早苗は、ハッとしたように真人の顔に視線を合わせた。

「何ボーっとしてるんだよ」

 頬杖を突きながら真人のことをぼんやり眺めている早苗に、顔を歪めながら真人が吐き出すように言った。

「あ、ごめん。今、あんたに見惚れてた」

 早苗が照れ笑いをした。

「朝から何回見惚れてるんだよ。全く」

「だってさあ、真人がこんなに立派になっちゃったから、何かすっごく不思議でさあ」

 こういう類の言葉は、子どもとして非常に反応に困るものである。真人が言葉に詰まっていると、それを察した早苗が笑みを浮かべながら体を起こし、ソファーの背もたれに寄りかかった。

「で?何が気になってたの?」

 その姿を見て真人の心が揺らいだ。早苗の姿に微かな「老い」を感じたのだ。しかし、真人はその思いを瞬時に握りつぶした。真人自身が認めたくない事実だったからだ。気になっているのはそんなことではない。

「あのさあ、志乃ちゃんのおじさんおばさんのこと」

 それを聞いて、早苗の表情がわずかに曇った。

「何か、避けているっぽく見えるんだけど」

 早苗は視線を逸らし、黙っていた。

「さっきの挨拶も、何か形式的な感じがしたし」

 真人は探るように早苗の表情を伺った。

「知りたい?」

 低く静かな声で答える早苗の視線は、真人の両眼に突き刺さっていた。早苗は、眉が下がり気味で目尻もやや下がっている。そのせいで一見すると頼りない印象を与えるが、真剣になった視線はかなりの威圧感を秘めた鋭いものとなる。それはそのまま早苗の本性である。大人しい奴と思い、舐めてかかるととんだしっぺ返しを食らう羽目になるのだ。

 早苗はこういう答えづらい質問を受けた時、必ずこういう反応をする。威圧的な表情で、こちらの意図を確認してくる。こちらは知りたいから聞いているのにである。おそらく、この無言の威圧で質問を撤回させようと言う腹なのだろうが真人も負けてはいない。

「うん、知りたいね。あの家には、いつもいろいろお世話になっているし、何か申し訳ない感じがするんだよね」

 早苗は真人を見詰めながらじっと考えていた。

「まあ、確かにそうかもしれないね」

 早苗は、不意に視線を逸らした。

「ただ、あんたが心配することじゃないよ。大川さんたちには、始めて会ったあの時にそういうふうに断りを入れているから」

「そういうふうにって?」

「うん?それは、私にはかかわらないでって言う事」

「なんで?」

 真人がしつこく食らいついてくる。

「何でって?あんたもあの時の状況は分かっているでしょう?」

「うん。それは何となくだけど」

「だからあんたを引取る代わりに、もう私には係わらないようにと約束したんだよ」

「いやいや、意味が分からないんですけど。何でそう言う話になるのさ?そんなに俺を引取るのが嫌だったの?」

 その言葉には、早苗の顔色が変わった。

「いや、あの時は、本当に、自信がなかったの…よ。でも、今は引き取って良かったと思ってるよ、本当に」

「じゃあ、大川さんにももっと感謝してもいいんじゃないの?あのおじさんが頑張ってくれたおかげで、早苗さんが気持ちを変えてくれたんだから。俺は本当におじさんには感謝してるよ」

 早苗の顔が、次第に気まずさを滲ませてきた。

「でも、ちゃんとお志乃の面倒は見てるでしょ?」

「それは、人として当然のことであって、今は家同士のこと言ってるの!」

 この時すでに、真人の気迫の方が早苗のそれを上回っていた。

「だから、分かるでしょ?私は他人との付き合いが出来ない人間なの!もう勘弁してよ」

「でも、溝口さんとはうまくやってるでしょう?」

「そんなことは無い。溝口さんも最初の頃はウザくてキモくて大変だったんだから。警察じゃなかったら、絶対追い返していたさ」

「そうなの?」

「そうさ」

「今は?」

「い、今はかなり免疫が出来た。うん」

 真人が、クスリと笑った。

「なにさ、その笑い」

 早苗がムキになった。

「いや、早苗さん、溝口さんが来ると嬉しそうだよ」

「いや、そんなことは無い。絶対ない。無い」

 真人は笑いを堪えていた。

「それは置いといて、志野ちゃん家のこと、もっとちゃんとしておいてよね。これから、先が長いんだから。俺に恥かかせないでよね」

 早苗は横目で真人を睨んだ。真人は薄ら笑いを浮かべている。

―何?将来、親戚付き合いするんだから、心しとけってか?―

「ガキが。何を生意気な」

 早苗が吐き出すように呟いた。

 早苗はつくづく思い知らされる。大切なものは、自分の弱点になる。それを他者から守るために、多くのことを割かなければならない。そしてそれが離れて行かないように繋ぎとめる労力も必要だ。

 今の早苗には真人がそれだ。自分でも恐ろしいくらい真人の顔色を気にしている。怒らせてはいないか。嫌われてはいないか。真人が機嫌を損ねてはいないか。もし、真人が悪の道に走ったら、早苗は自分が真人を引き止められるかどうか自信がなかった。常に子供の顔色を気にすっる。親としては最低だ。今の早苗は、おそらく自分が最も軽蔑する親に成り下がっていることだろう。

 またしかし、それとは相反する心がある事にも、早苗は気付いていた。

 不思議だった。こんなにも真人を愛しているのにもかかわらず、早苗の心が真人から離れて行っているような感覚に陥ることがある。なにか、自分と真人の距離が広がっているような、何か寂しい感じのような不思議な感覚である。それが何なのか早苗にも分からない。真人が成長し、子どもらしい可愛さがなくなったことに由来するものなのか?確かに、あの頃の子供らしい無邪気さは、今の真人にはもう見られないし、それを淋しく感じることもある。しかし、それ以上に大人になって行く真人に対する希望と感動は間違いなく早苗を満たしているのだ。

 真人の成長は間違いなく早苗の希望なのである。




            *


「真人君とクラスが別になっちゃったね」

 真由美は、自宅で昼食の支度をしながら志乃をからかった。

「うん、まいったわ。ちょっと作戦立てないと」

 志乃は真由美の挑発には乗らず、むしろ真剣な表情で考えていた。

「何の作戦だ?」

 着替えを終えて寝室から出て来た大川が、志乃に問いかけた。

「いや、放っておいたら真人にちょっかい出す女子が出てくるからさ」

「え?その心配?」

 真由美が台所から出て来た。

「いやいや、重大な問題だから」

 大川たちは、顔を見合わせて笑った。

「何それ。笑い事じゃないんだから」

 志乃は真剣だった。

「真人の人気は尋常じゃないんだからね!小学校の時でもほかのクラスの女子が、真人目当てでうちのクラスに来るんだよ?みんな、私の存在を知っているはずなのにだよ?」

 志乃の必死さに、大川が面白そうに口を挟んだ。

「まあ、確かに中学になれば女の子も大人っぽくなって来るだろうしな?他の小学校には志乃よりもかわいい子がいるかもしれないし」

 大川の言葉に、志乃の顔に焦りが現れた。

「それに、女子の先輩と言う強敵もいるしな」

「お母さん、どうしよう!」

 母親に助けを求める志乃は、泣きそうになっていた。

「あなた、娘いじめて何が面白いの?」

 そう言う真由美も笑いを堪えていた。

「心配するな、志乃。真人君は、そんな単純な奴じゃない。外見だけでお前と仲良くしていた訳じゃないと思うよ」

 大川も言い過ぎたことを自覚して、志乃を励ました。

「それは、私の外見が大したことないって言う事?」

 大川の励ましが裏目に出た。

「いやいや、お前は可愛いよ。少なくとも、お父さんたちは志乃は他の家の娘よりもずっと可愛いと思っている。むしろ心配しているのは外見よりも内面だよ」

「何それ。私の性格が悪いって言うの?」

「いや、悪いんじゃなくて、キツイって言うか、激しいって言うか」

「え?私ってそんなに性格に問題ありなの?」

「いや、そうじゃなくて、問題があるんじゃなくて、そう言う志乃と五年間も仲良くしてくれていたんだから、そう言う志乃の性格が真人君の好みだったんじゃないかなって…」

 大川の苦しまぐれの弁解を聞いて、志乃の顔に笑顔が浮かんだ。

「そっか。そうだよね。五年だもんね。並みの関係じゃないよね。フフフ」

 志乃の笑顔に、大川夫妻は安堵のため息を吐いた。




            *


 翌朝早く、早苗の家の呼び鈴が鳴った。早苗宅では、基本的に呼び鈴は無視だ。

「まことー!」

 それを熟知している志乃は、大声で真人を呼んだ。出て来たのは早苗だった。

「お志乃?こんな早くどうしたの?」

 早苗は驚いていた。

「いや、最初だから真人と一緒に行こうかなって思ったんだけど、先に行かれちゃ不味いかなって…」

 志乃は、照れくさそうに口ごもった。それを聞いて、早苗はすぐにピンと来た。

「そうだね。中学校は小学校と違って、奇麗なお姉さん方も多いだろうしね?」

 早苗は意地悪そうな笑みを浮かべたが、志乃は何も言い返せず、ただ顔をしかめているしかなかった。

「あれ?志乃ちゃんどうしたの?」

 真人が顔を拭きながら出て来た。

「あ、真人おはよう。今日ぐらい一緒に行こうかと思って」

 志乃は素早く笑顔になった。

「え?それなら連絡くれればよかったのに。せっかくスマホ買ってもらったんだから」

 それはそうなのだが、何と言えばいいか迷っているうちに寝落ちしてしまったのだ。志乃の顔がふくれた。



「じゃあ、行ってらっしゃい」

 早苗が、玄関から出て二人を見送った。

 寄り添って歩く二人を見ると、嬉しさと淋しさの入り混じった気持ちになる。制服姿の真人を見てから、真人の成長が嫌に気にかかり、真人が次第に離れていくような気がして、それがまた心の隙間の原因なのかとも思わされた。

 ふと見ると、志乃が真人の手をしっかりと握っている。

「ああ、あれはかなり必死だな」

 早苗の頬がわずかに緩んだ。志乃のあの積極性、真っ直ぐさ、早苗は正直羨ましかった。あの積極性があったなら、早苗の人生ももっと違ったものになっていただろうか。ただしかし…。

 それはまた真人のいない人生をも意味することになるのだ。早苗は、考えることが怖くなった。



「志乃ちゃん、今日は何かグイグイ来るね」

 真人は、志乃の勢いに気圧されていた。志乃の方は、何か難しい顔をしている。

「まあ、嬉しいけどね」

 真人のその言葉に、志乃の顔は笑顔になった。

「でしょ?」

 二人が緊張した笑顔で歩いていると、学校が近づいて来た。それに伴い生徒らの数が増えてくる。周囲の視線が次第に多くなって来た。その視線には、大きく分けて二種類のものがあった。一つは普通に珍しいものを見る目。もう一つは、完全に奇異なものを見る目であった。そして前者は同じ小学校出身の新入生。後者はその他、つまり志乃と真人のことを知らない生徒たちである。

「あービックリした」

 後ろからの声に二人が驚いて振り返ると、見覚えのある女子がいた。

 同じ小学校出身の鈴木だ。

「何?中学生になって、完全に彼氏彼女になったの?」

 志乃の顔が強張った。志乃自身が何となく怖くて、敢えて触れずに目を逸らしていた事実に、鈴木は何の躊躇もなく踏み込んで来た。鈴木には悪気は無いのだろうが、余計なお世話である。

「え?そんなことないよ」

 真人は即答した。何もそんな即答で一刀両断にしなくても…。志乃の目の前が真っ暗になりかけた。

「志乃ちゃんは、前からずっと俺の彼女だよ」

「ブッ!」

 鈴木が吹き出した。志乃の顔を見て笑っている。

「本当にあんたたち面白いわ。まあ、とにかくお幸せに。ただ、そんなだと他の女子に妬まれるよ」

 鈴木は、笑いながら歩いて行った。

 真人が志乃の顔を見ると、志乃は放心した顔をしていた。



 志乃は教室に入ると、覇気のない顔で席に着いた。このクラスには志乃の親しい友人がいないのだ。同じ小学校で知った顔は有るし、同じクラスになった事のある子もいる。しかし、仲の良かった子はみんな他のクラスに行ってしまったのだった。

「ねえ、大川さん」

 志乃の前の席の上野と言う娘が声を掛けて来た。この娘は別の校区の小学校の出身だが、席がすぐ前と言うことで、昨日からすでに親しくなっていた。

「今朝、一緒に来ていた人って、彼氏なの?」

―やっぱり見られてたか!―

 志乃の脳裏に後悔の念が走った。正直、やった本人が恥かしさで一番引いていたのだ。周囲にアピールするために敢えてやった事なのに、見られたことを後悔すると言う、おかしな結果になってしまっていた。

「うん、まあ、そんなとこ…」

 志乃は、羞恥心から苦笑いをしながら、小声で歯切れの悪い返答を返した。

「やっぱり?いいなあ。すごいイケメンの彼氏じゃない?もう長いの?」

 気まずくても、真人のことを褒められれば悪い気はしない。苦笑いが照れ笑いに変わった。

「最初に会ったのは、小学二年の時」

「そんなに?いつから彼氏になったの?」

 この質問に他意のない事は志乃にも分かっていた。普通考えれば小学校二年の時にたまたま同じクラスになって、それから親しくなり、仲良くなり、恋心が芽生え…と言った感じの流れがあって、どっちかが告白して、それで晴れて彼氏彼女の関係に…と言うのをイメージすることだろう。そして上野が知りたいのはそういうストーリーのはずだ。しかし、志乃の場合は、ある日突然自宅に真人が現れ、何日かしてこれまた突然に志乃のクラスに転校して来て、それからは志乃が強引に真人の家に押しかけ続けて今日に至っているのだ。何と言うか、幼いながらもほのぼのとしたロマンチックな関係が有った訳ではない。言ってみれば、真人が同じクラスになったのを幸い、志乃ががっちり首根っこを掴んで離さなかったようなものだ。

 答えに詰まる志乃を見る上野には、志乃が照れているとしか感じられない。興味津々で追及してくる。

「どっちが告白したの?」

「第一印象はどうだったの?」

「どこまで行ったの?」

 それは上野だけにとどまらず、すぐに周囲の席の他の女子達にも伝播して行き、いつの間にか志乃を中心に人山が出来ていた。

「一目惚れだったの?」

 そんな中、誰かの言ったその一言に志乃が反応した。

 それを見た周囲が一瞬静まった。

「え?一目惚れだったの?」

 そう言われると志乃は真っ赤になり、周囲には冷やかしの声が溢れた。

「まあ、あれだけ格好いいと当然だよね」

 志乃は机に顔を押し付け、両腕で隠してしまった。

 恥かしさに耐え切れず自分の顔を隠しながら、自分は真人に対して一目惚れだったのだと言うことを、初めて気づいた志乃であった。




            *


 ここに一人の教師がいた。名前を川村武司と言う。今回、真人たちが入学した中学校の社会科の教師だ。

 彼は今、非常に怯えていた。今年受け持つ新入生のクラスの名簿を確認している際に、気になる名前を見かけたのだ。

 今のところ真偽のほどは分からない。それが、川村の知っている「木戸まこと」なのか、それとも、単なる同姓同名で川村の知らない「木戸真人」なのか。

 誰にでも、他人に知られたくない過去と言うものがあるものである。川村にもそう言う時期があった。ただ、それに直結する存在が、職場であるこの学校の、しかも教え子として現れるとは、今まで考えもして来なかった。もし、この生徒が川村の知っている「木戸まこと」ならば、場合によっては川村が職を失う結果を招くこともあり得た。

 やっと慣れて来て、やりがいを感じて来たこの教師と言う仕事を失うのは何とか避けたかった。しかし、こればかりは蓋を開けてみるまでは、結果は分からない。ここ数日胃の調子がおかしく、なかなか寝付かれない川村であった。


 いよいよ、例のクラスの最初の授業の日が来た。しかも、一時限目からである。いや、むしろ朝イチの授業で良かったかもしれない。もし、午後からの授業だったりしたら、午前中の授業は全滅だったかもしれない。

 川村は、痛む胃袋を摩りながら教室の戸を開けた。歩いて教壇に向かう間、生徒らの顔をざっと見渡してみるが、良く分からない。生徒らの間には、ささやき合う女子の声が騒めきのように広がった。

 川村は、女子生徒に人気のある、いわゆるイケメン教師である。歳も三十前の若い方だ。しかし、このイケメンが今回の問題の原因にあることから、今回に限りイケメンである自分がうらめしかった。

「おはようございます。これから一年間、このクラスの歴史を担当することになりました、川村武司です」

 川村は、自分の名前を黒板に書きながら、自己紹介をした。

「これから出席を取りますので、名前を呼ばれた人は手を挙げて返事をしてください。その時顔もこちらに向けて下さいね。顔と名前を一致させますから。で、もし読み方が間違っていたら、その場で教えてくださいね」

 極力平静を装いながら、川村は出席簿を開いた。

 出席番号の始めから順番に名前を読み上げていく。生徒は言われた通り手を上げ、川村の方を見ながら返事をする。この瞬間、川村と生徒が一対一で顔を合わせることとなる。

 「木戸」と言う名は、出席簿の上の方にあるので、すぐにその順番が来た。川村の胃袋はもう限界にきており、ついでに心臓もフル回転になっていた。

「木戸まこと…で、良いかな?」

 無事に、声が裏返ることもなく呼ぶことが出来た。

「はい」

 すぐに返事が聞こえ、川村のすぐ左の一番前の席で手が上がった。よく考えれば出席番号順に並んでいるのだから、どの席かなどすぐに分かるのだった。

 川村は、その手を挙げている少年の顔を凝視した。じっくりと見た。おそらく他の生徒の時の何倍も時間をかけて見た。そして、自分の記憶の中にある、七歳だった少年の顔を引きずり出し、今、目の前にいる少年の顔と照らし合わせてみた。

 一致した。そっくりだった。あの時可愛い少年だった「木戸まこと」は、可愛い中学生の「木戸真人」になっていた。川村は、全身が冷たくなるのを感じ、膝が震え出しそうになった。そこで、大きく深呼吸をし、ゆっくりと息を吐くと膝の震えは止まった。


 真人は真人で、川村の視線が離れないのを不審に思い、その顔を見続けるうちにふと気づいた。

「あ…タケちゃん?」

 不意について出た言葉であったが、あまりに小さい声だったために、周りの生徒達には何と言ったかは分からなかった。しかし、川村の耳にはハッキリと聞こえた。あの頃自分が呼ばれていた、「タケちゃん」と言う名前が。

 二人は顔を見合わせていた。どれくらいの時間かは分からない。ほんの瞬間だったのか、何分も何十分もだったのか。

 真人は強張った顔でうつむいてしまった。

 そのあとの川村は、もうグダグダであった。どういう授業をしたのかも覚えていなかった。それどころか、最後まで出席を取ったのかさえ定かではない。とにかく何かをやって、終了のチャイムが鳴るのを幸いに教室を飛び出したのだった。

―もう終わりだ―

 川村はその日、体調不良を理由に早退した。



「おい、木戸、どうした?元気ないぞ。彼女と喧嘩したか?」

 休み時間、後ろの席の小杉が声を掛けて来た。

 真人は川村のことでかなり動揺していた。今まで心の奥に封印していた、過去の辛い思い出が脳裏をちらちらかすめていたのだ。

「いや、ちょっと気分が悪いだけ」

 真人の声に力がない。

「そう言えば、顔色悪いな」

 小杉も心配そうだった。

「じゃあ、元気の出る動画でも見るか?」

 小杉は自分のスマホを取り出すと、画面を操作して真人の前に差し出した。真人は癒し系か?可愛い系か?と思い、何げなくそれに目を落としたが、そこに映し出される映像を見ると体が硬直した。全身が小刻みに震え、呼吸が荒くなってくる。全身に冷や汗が溢れ、目の前がちらつき、激しい嘔吐感が込み上げて来た。

 これと似たことが昔あった。早苗に引き取られて間もない頃、一緒に映画を見ているときのことだった。あの時は早苗に必死に抱きしめられ、声を掛けられることによってしばらくして落ち着きを取り戻すことが出来た。

 あの時は映画の中のベッドシーンを見た時だった。今回は、小杉が気を聞かせて見せてくれたAV、しかもモザイクやボカシなどの無い、到底中学生では視聴できない類のものである。

 すぐに担任が呼ばれ、真人は保健室に連れていかれた。


 保健室のベッドで休んでいるうちに、気分は大分よくなって来た。しかし、川村のこともあり動揺は残っていた。

「真人、どうしちゃったの?クラスの人も急に倒れちゃったって言うだけだし」

 志乃がベッドの横で泣きそうになっていた。

 当然、小杉が見せた動画のことは公表されていない。真人もそのことを公にするつもりもない。小杉がやった悪意のない悪戯だと分かっていたからだ。

「もう大丈夫。かなり良くなってきたから」

 真人は少し考えてから志乃に視線を送り、話を続けた。

「志乃ちゃん」

 真人は落ち込んでいるかのように、その声は低く静かだった。

「何?」

「今日、学校が終わったら家に来て」

「うん、もちろん行くよ。何かあるの?」

「ちょっと、話したいことが有って」

 志乃は少し引っかかった。

「それ、今じゃダメなの?」

 今まで真人は、話しをするのに場所を選ぶようなことは無かったのだ。

「うん。他の人にはあまり聞かれたくないから」

 その言葉を聞いて、志乃はその話の深刻さを何となく感じ取った。

「分かった。必ず行く」

 そこへ、養護教諭の田口が入ってきた。

「木戸君、お家の人が電話欲しいって言ってるけど、どうする?出来る?」

「あ、はい。大丈夫です。電話します」

 真人はベッドに起き上がり、ポケットからスマホを取り出した。


「ちょっと、あなたが木戸君の彼女?」

 田口が、志乃の耳元でそっと囁いた。

「え?はい、そうですけど」

 突然の言葉に動揺した志乃が、赤らめた顔で慌てながら答えた。

「あんた達、職員室でも有名よ?何しろ入学式の次の日に、手を繋いで登校するなんて、中学生としては前代未聞よ」

「え?そうなんですか?」

 志乃は、恐縮しきっていた。

「まあ、うちの学校ではの話、だけどね」

「はい、すみません」

 田口は笑っていた。

「心配しないでいいよ。あなたたちのことは、小学校からも申し送りが来ているから」

「え?」

 驚く志乃に、田口は優しく微笑んでいた。

「詳しいことは言えないけど、あなたたちは極めて特殊な関係にあるし、ご家族の理解もあるから、あまり厳しく取り締まらないであげて欲しいという感じで。きっと、良い先生に恵まれたのね?」

 志乃は、嬉しそうに笑顔を見せた。

「でもね、少しは自嘲しないと周囲の反感を買って居ずらくなるわよ」

「あ、それはしっかりと実感しました」

 志乃は肩をすぼめた。

「先生、早苗さんが迎えに来ると言っています」

 真人が電話を終えたようだ。

「早苗さんって、木戸君のお家の方?」

「はい」

「そう?木戸君のご家庭にはいろいろ事情があるようね?」

「はい、いろいろご面倒をお掛けします」

 真人が頭を下げた。

「そんな恐縮しなくていいんだよ。ただね…」

 田口が苦笑いをした。

「その、早苗さん?の電話に、学校の電話を登録して置いてって言って置いて」

 真人は事情を察した。

「もう、電話取ってくれないから、職場を調べたりして大変だったんだから」

「すみません。よく言って置きます」

 真人は恐縮しきっていた。

「じゃあ、それまでここで休んでいなさい」

「早苗さんが来るなんて、そんなに心配してるの?」

 志乃は驚いていた。

「そうね、さっき電話した時も、かなり動揺していた感じだったから」

 田口もうなづきながら言った。

 真人にも、早苗が今の通話では平静を装ってはいたものの、声の調子だけでもかなり動揺しているのが手に取るように分かった。早苗も、昔のあの時のことを思い出したのだろう。

「それと」

 田口は志乃の方を向いた。

「あなたは、教室に戻りなさい。もう、授業は始まっているんだから」

「ええ?でもー」

 志乃は不服そうに口を尖らせた。

「ほら、さっさと行きなさい。あんたの彼氏には手出さないから」




 早苗は、青ざめた顔でタクシーで学校に乗り付けた。

 タクシーを校門前に待たせたまま、事務所の職員の案内で保健室に入った早苗は、真人の元気そうな顔を見て安堵した。

「今までこういうことはあったんですか?」

 早苗がホッとしていると、養護教諭の田口が早苗に問いかけた。

 早苗が見た田口は、早苗と同年代の優しそうな女性だった。漫画やドラマに出てくる養護教諭と言えば、若くてかわいい、もしくは色っぽい女性が相場だが、現実はこんなものだろうな、と思った。しかし、人としての深みがありそうで、早苗としては珍しく好感を持てた。

「はい、幼い頃一度だけ。その後は健康上の問題は見られなかったので失念してました。よく、話し合ってみます」

「やはり、精神的な何かかしら?」

「素人判断ですが、そうかもしれません。取り敢えず、病院で診てもらいます」

「それが良いですね。もし、何かこちらで力になれることが有れば、ご遠慮なくお話しください」

 早苗は真剣な視線を田口に向けた。

「はい、その時は結構無理なお願いをしてしまうかもしれませんが、よろしくお願いします」

 そう言うと、早苗は深々と頭を下げた。それを見た真人は、不思議な感じがした。早苗がこんなに丁寧に人と接するのをはじめて見た気がしたのだ。そしてそれも、自分が健康面で心配を掛けたせいかと思えて、申し訳ない思いがこみ上げて来た。

「じゃあ、担任の先生の方には、私から報告しておきますので、このままお引取り頂いて結構ですよ」

 促す田口に頭を下げて、早苗と真人は保健室を出た。

 校舎を出ると、ちょうどチャイムが鳴った。授業が終了したのだ。二人が正門前で、待たせてあったタクシーに乗り込もうとすると、校舎の方から声が聞こえた。二人はその声を聞いただけで、それが志乃のものであることが分かった。振り向くと一階の窓から志乃が手を振って叫んでいる。

「あの娘には、周りの目を気にする神経が無いのかね?」

「それだけ心配してくれているんだよ」

 早苗の嫌味にも、冷静に志乃をかばう真人だった。二人は志乃に向かって小さく手を振ると、タクシーに乗り込んだ。



 授業が終わった。志乃の耳には、授業の内容など全く入ってくるわけがなかった。消沈しつつも、真人の様子を見に保健室へ行こうと立ち上がると、窓際が何か騒がしくなっていた。

「ねえ、あれ大川さんの彼氏じゃない?」

 窓の外を見ていた上野と言う女子が、志乃の方を振り返って言った。志乃は反射的に窓際へ走った。

 窓の外を見ると、ちょうど真人と早苗がタクシーに乗り込むところだった。

「早苗さーん!」

 志乃は、おもむろに窓を開けると大声で叫んだ。傍から見ると、はしゃいでいるように見えるが本人は真剣で、早苗に真人のことを託す必死の思いがこもっていた。

「彼氏どうしたの?早退?」

「うん、なんか急に気分が悪くなったんだって」

 志乃はため息交じりに答えた。

「ああ、隣のクラスの話?あれ、大川さんの彼氏だったんだ。大丈夫なの?お母さんが迎えに来るなんてかなりなんじゃないの?」

「うん、たぶん大丈夫。さっき会ったときは、もうだいぶ良くなっていたから」

 ただ、志乃にもはっきりしたことは分らない。

「ああ、それで保健室に行ってたんだ。彼氏のお見舞いだったか」

 上野は羨ましそうだった。

「彼氏もかっこいいけど、お母さんもきれいだね?」

「え?誰が?」

 上野の突然の発言に志乃は戸惑った。

「誰って、彼氏のお母さん」

「え?早苗さん?どこが?」

「えー?キレイじゃん?若いしさ―」

「え?どこが?」

 志乃には理解できなかった。

「え?キレイでしょ?ここから見ても分かるよ?て言うかあんた、彼氏のお母さんにそんなこと言っていいの?ひょっとして関係良くないの?」

 上野は心配そうだった。

 志乃は愕然とした。巷ではあれを、美人の範疇に入れるらしい。早苗のことを美人だと思っているのは、真人だけだと思っていた。

「因みに、あの人真人のお母さんじゃないから」

 タクシーの走り去った正門を見ながら、志乃は呟くように言った。

「え?そうなの」

 そこにいた皆が、志乃を見た。

「うん、あまり詳しいことは言えないけど、真人は今お母さんの妹さんの所にいるの」

「叔母さんってこと?」

 その言葉を聞いて、志乃はびくりとした。

「その、『おばさん』って言葉は絶対にダメだから。その言葉を使ったらあの人激怒するから、みんな『早苗さん』ってちゃんと名前で呼んでるの」

「ハハハ、結構こだわる人なんだ。じゃ、お父さんは?」

 そう聞かれて、志乃はハッとした。そう言えば、志乃は真人の父親のことは何も聞いていなかったし、気にしたこともなかった。

「ううん、それは知らない」

 志乃が力なくそう答えると、質問した女子は怪訝そうな顔をした。




 放課後、志乃は急いで真人のところへ向かった。真人の体の具合も心配だが、話があると言っていたそのことが無性に気にかかった。

「真人いるー?」

 呼び鈴を押しても意味がない事は承知しているから、直接ドアを叩きながら叫んだ。

「来たね?」

 ドアを開けて顔を出した早苗が、嬉しそうな笑顔を見せた。見慣れた顔だが、昼間のクラスメイトの発言が気になり、ついつい食い入るように見てしまう。

―この人が美人か…―

 改めて凝視しても、志乃には今一つピンとこない。確かにブスとは良い難いが、いたって普通に見える。

「何ガン見してるのさ」

 早苗の笑顔が、真顔に戻ってしまった。眉間にしわを寄せ、怪訝そうに中へ入って行く。

 笑顔でごまかしながら、志乃は早苗の後ろに従った。

「いやさ、うちのクラスの娘がね、早苗さんを見て奇麗な人って言ってたから、どうなのかなー?って感じ?」

「ああ、そう言う事?」

 早苗が、志乃に背を向けたまま納得したようにうなずいた。

 志乃が中に入ると、真人が寝室から出て来た。今までベッドで休んでいたらしい。

「真人!ちゃんと休んでなよ!」

 志乃が、ベッドへ押し戻そうとした。

「いや、もう大丈夫だから心配しないで」

 真人は志乃の配慮をよそに、居間へ出て来ていつもの真人の席に腰を下ろした。

 長年の生活の結果、真人と早苗には座卓を中心とした定位置が出来ていた。そしてそれを基準に、志乃と溝口の座る位置も何となく決まっているのだった。

「病院で診てもらったけど、得に異常はないみたい」

「ほんと?よかったー」

 志乃が大げさなくらい安堵を見せた。

「さっきの話しだけどね」

 早苗が珍しく話を遮ってきた。志乃がつられて早苗の方を見ると、早苗も志乃を見ていた。至って真剣な顔だ。

「今どきは、アイドルの袋売りみたいなグループが多いでしょう?」

「早苗さん、外ではそう言う言い方しない方が良いよ」

 志乃が渋い顔で答えた。

「外ではこんな話しないよ」

 早苗もめんどくさそうに即答した。

「その袋売りのやつをね?全部こう、出してさ」

 志乃の視線が冷たいのに気づいて、早苗も言い直した。

「そのグループ全員の顔写真かなんかをね?こう、広げてさ」

 早苗は、テーブルの上で写真を広げる真似をした。

「それでね?その顔を、一人ひとりじっくり見て行ってごらん?」

 志乃にはその意味を計りかねた。

「そうするとね、その中に何人かは、これでアイドルか?って言うような娘がいるもんなんだよ。色んな意味で」

 志乃は、早苗の暴言に思わず顔をしかめた。

「これはね、誰かと一緒にやったり、口に出したりする必要は無いんだ。自分一人で見て、自分の主観で判断するんだよ」

 志乃は相変わらずしかめた顔で見ている。

「でもね、そんな娘にも需要があるからこそ、そこに存在しているんだろ?実際、そんな娘をも推しとする輩が一定数居たりするんだよね。もしいないなら、いつの間にか卒業とかしちゃうんじゃないかな?で、私が高校の時のクラスの男子とかかがやっていた、馬鹿丸出しの遊びでさ、グラビアなんかに載っている女の子たちの誰が良いかなんて言って、せーので指差すんだよね。アホらしくて見てられないんだけど、これが結構ばらつくんだよね?人数が多いほどね」

 しっかり見ているじゃないか、と志乃は無言で訴えた。

「それでさ、少数派の奴なんかに『ありえねー!』とか言うんだよね。ばかだねー?」

 早苗の笑顔とは対照的に志乃の顔は曇っていた。

「つまりね?美的感覚なんて言うものは、人それぞれなんだよ。料理と同じで、好みが出ちゃうのさ。大体ね?キレイと言う言葉自体その幅は広いんだよ?可愛い、美しい、清潔だ、バランスが取れている、などなど。その友達が私を見て、どの意味でキレイと言ったか分からないしね?ただ距離が離れていたからそう見えただけかもしれないし」

「志乃ちゃんは、『可愛い』かな?」

 真人がすかさず言った。

「あんたにはテレと言う感覚は無いのかい?」

 志乃は、顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。

「『可愛い』には、幼さが含まれるよね?日本の男は総じて奇麗な女より、可愛い女が好きなのかな?お志乃はまだ子供っぽさが抜けていないしね?」

「志乃ちゃんは、大人になれば美人になるよ」

「全くあんたは…」

 早苗は呆れて言葉を失った。志乃の笑顔がますます崩れた

 その途端、突然早苗の頭に香奈恵の顔が浮かびあがった。しかも、若い中高生の頃の顔が。

 香奈恵は当時から美しかった。いや、可愛い、美しい、愛らしい、それらすべてを備えていた。もっと言えば、その場その場で使い分けていたのかもしれない。幼いころから、時として恐ろしいほど美しい姿を現すことが多々あった。早苗は思わず身震いした。


「じゃあ、そろそろいいかな?」

 真人が真面目な顔で身を乗り出した。そろそろ本題に、ということだ。ただ、早苗がいつになくはしゃいでいるのは、それだけ心配してくれているのだろうと感じていた。

 真人は志乃の方を見た。志乃の笑顔が消え、深刻な表情に変わった。

「今日は心配を掛けたね」

 志乃は大きくかぶりを振った。

「え?心配してくれなかったの?」

「いや!そうじゃなくて!心配したけど、私は大丈夫って言うこと!」

 からかわれているのは分かっていても、つい、興奮してしまう。

「で、突然なんだったの?」

 声にも心配が現れていた。

「うん、そのことなんだけど」

 志乃を見る真人の顔は、いつになく真剣だった。

「早苗さんはもう気が付いていると思うんだけど…」

 真人がちらりと早苗を見た。早苗は、その視線を湯呑を持つ自分の手に向け黙っていた。

「俺、昔も一度同じようなことがあったんだ」

「え?いつ?」

「このうちに来て間もない頃」

「そうなの?全然知らなかった」

 志乃は意外だと言う顔をした。

「うん、それっきりなかったから、俺も何となく忘れてたんだ」

 真人は、改めて視線を志乃に向けた。

「実はさ…」

 志乃は黙って聞いていた。

「俺、女性の裸を見るとああなるみたいなんだ」

「はい?」

 志乃は自分の耳を疑った。何をこんな時に冗談を、と。

「まあ、裸を見るだけだったら、ただ気分が悪くなるくらいで済むんだけど…」

 真人は力なく視線を落とした。何か言いあぐねているようだった。テーブルの上に置かれた手が、細かく震えている。その手を早苗の手がそっと包んだ。それに気づいた志乃は、真人が話そうとしていることが、生半可なことではないことを悟った。

 真人は、意を決したかのように視線を上げた。

「もっと露骨な、例えば男女のセックスとか、そう言うのを見ると…昔の嫌な、とっても嫌だったことが頭の中に蘇って、吐き気とか震えとか、一気に襲ってくるんだ」

 そう言ってから、一つ大きく深呼吸をした。

「最初に気づいたのは、ここにきて間もない頃。早苗さんと一緒に映画を見ていた時。途中ベッドシーンが有って、それを見ているうちにおかしくなっちゃって、早苗さんに、忘れなさい、過去のことは捨てなさい、あんたはここで産まれたんだ、ここに来た日があんたの誕生日なんだって言われて、今までずっと忘れて、と言うか思い出さないようにして来たんだけど…早苗さんも気を使ってくれて、ずっとそういうものが目に入らないようにしてくれたのに、今日、後ろの席の小杉って奴が、いたずらでそう言う動画を見せてきたんだ。そしたら、急に頭の中に忘れたはずのことがいっぱい溢れて来て、ああなっちゃったんだ」

 真人はそこまで言うと、不安そうに志乃に視線を送りながら黙り込んだ。志乃には何を言っているのかピンと来ていない。それがいったいどういうことを意味するのか…

「真人!大丈夫だよ。私は気にしないから大丈夫」

 志乃は明るく答えた。

「志乃ちゃん」

 志乃の話を制するように早苗が口を挟んで来た。しかも、「お志乃」ではなく「志乃ちゃん」と来た。

 志乃が早苗を見ると、早苗は静かに志乃を見詰めていた。そして、志乃の手もつかんで来た。その手は予想外に柔らかく暖かだった。

「志乃ちゃんには、まだ分からないかもしれない。あなたはきっと、今のままの関係がこのままずっと続いても、何も問題ないと思っていることでしょう?でも、十年後、十五年後そんなこと言っていられないときが来るの。そいうときが必ず来る。だから、そう言うことを心に留めて置いてほしいの。あなたの心も体も今よりも成熟して、別の段階の付き合い方を願うようになったとき、真人はそれに応えられないかもしれないと言う事を」

 志乃は、何となく自分が子ども扱いされたような気がして、面白くなかったが、早苗の話し方が、いつもの話し方ではなく、何かものすごく懇願されているような不思議な雰囲気を持っていたために、言い返すことが出来なかった。

 何も言えず黙っていると、真人が再び話し始めた。

「俺がここに来る前、母親と二人でワンルームのマンションに住んでいたんだ」

 その言葉に、早苗が一番驚いた。真人がここに来る前の話をするのは初めてのことだったからだ。

 母親のことを話してはいけない。これは、早苗が最初に真人に命じたことである。それを守ってかどうか分からないが、真人はそれから一度も母親のことを口にしたことが無かったのだ。

「そこは、ここの二部屋を合わせたくらいの部屋で、基本的には俺とあの人の二人で暮らしていたんだ。あの人は夜の仕事をしていたらしく、日中は家にいて夕方出かけて夜遅く帰ってくる生活だったんだ。俺もその生活に引きずられて、あの人と同じ生活サイクルになっていた。だから学校にも行かず、ずっと家の中にいた。食事も、あの人は何もできないのか、したくないだけなのか分からないけど、いつもスーパーかどこかで買って来たものばかりだったんだ」

 ここまで話して、真人は少し躊躇する素振りを見せた。

「あの、さっき二人で暮らしてたって言ったけど、二人っきりと言うのはほとんどなくて、大体はもう一人…あの人の彼氏みたいな人達が一緒だったんだ」

 真人がうつ向いたまま、早苗と志乃の方をちらりと伺った。

「その人たちがいる期間は様々で、一晩だけの人もいれば、長い人は何ヶ月もいた人もいたんだ。ただ、その人達から何か酷いことをされたりしたことは無かった。俺に何かすると、あの人がすごく怒ったから。早苗さんも、ひょっとしたら俺があの人から虐待みたいなことをされていたと思っているかもしれないけど、そんなことは無かった。ある意味、俺は大事にされていたと思う…たぶん。男の人たちも、俺が喜ぶとあの人の機嫌がよくなるから、一生懸命俺のご機嫌取りをしてくれたんだ。そして俺も、争いになるのが嫌だったから、その人達に一生懸命愛想を振っていた」

 真人は、ここでまた大きくため息を吐いた。真人の呼吸が浅く早くなってきていた。

「で、問題となるのが、夜寝るときなんだ。夜と言っても、深夜だったり、明け方だったりといろいろなんだけど、ワンルームだから一部屋しかないでしょ?ベッドも一つ。そこに三人寝るんだ。分かるでしょ?何があるか。男の人たちはみんな嫌がるんだけど、あの人がそこでやらなきゃダメだって言うんだ。そして俺にもしっかり見てなさいって言うんだ。だから俺も怒られたくないから見るんだ。何やってるかなんて分からないよ。まだ、小学校にも入ってない頃だよ?分かるわけないだろ?ただ、ものすごく嫌だった。気持ち悪くて、怖くて、とにかく嫌で嫌でたまらなかった。見ているうちに、自分がどんどんおかしくなるのが分かるんだ。そして、酷いときはあの人が俺にも迫って来るんだ。俺に触って、服を脱がせて…」

「ダメ!もう止めて!」

 志乃が跳びついて真人の口を手で塞いだ。真人はすでに青ざめており、目を見開いたまま体が震え出していた。

「ウッ!」

 真人が吐きそうなそぶりを見せた。

「そんな事忘れて!全部嘘だから!そんなことは無かったの!悪い夢を見てただけ!お願いだからみんな忘れて!」

 叫ぶ志乃の目からは涙が溢れていた。真人は志乃の泣き顔を見て我に返った。

 真人は、志乃の手を自分の口から離すと照れくさそうに笑った。

「志乃ちゃん、早苗さんと同じこと言ってる」

 志乃は、ハッとして早苗を見ると、早苗も目に涙をためて唇をかみしめていた。

「ありがとう、もう大丈夫だから」

 真人は志乃の肩に手を置いてやさしく笑った。

「それでそのうち俺はおかしくなって、今日の昼間みたいなことが有って大騒ぎになったわけ」

 真人の口調が軽くなった。

「それからしばらくして、俺はここに連れて来られたんだ」

 真人は、笑顔で何でもない事のように言ってのけた。

「狂ってる」

 早苗が低い声で、吐き捨てるように言った。

「あいつは、本当に狂った化け物だった…」

 早苗は、そっと真人の身体を引き寄せ優しく抱いた。涙が溢れた。

 早苗は、自分の認識が甘かったことを悔いた。真人が受けた心の傷は尋常なものではなかった。姉、香奈恵に対する敵意、憎悪がより一層深まった。

 その様子を見ていた志乃は、真人を抱擁する早苗のことを羨ましいと思い、嫉妬する自分を浅ましく感じていた。




 夕食後、真人は志乃を自宅まで送って来た。

「ただいま」

 帰宅した真人が中に入ると、早苗はすでに片づけを終え、布団に潜り込んでテレビを見ていた。こういう姿を見ると、ただのずぼらな女にしか見えない。

「お帰りなさい。お志乃どうだった?」

「うん大丈夫、って言うか、何かしおらしかった」

「そう?」

 早苗は冷やかすような笑みを見せた。

「それでね、早苗さん」

「え?なに?」

 真人は、早苗がからかい始める前に先手を打った。早苗は不意を突かれたように驚いた。

「さっきの話しの続きなんだけど」

「まだ何かあるの?」

 早苗は眉をひそめた。

「うん、志乃ちゃんには知らせない方が良いかと思って」

 真人は深刻な顔をしていた。

「そう?じゃあ、聞こうじゃないの」

 早苗は布団から這いだし、テーブルに着いた。

「実は…さっき言った、あの人の相手の男の一人が、うちの学校に居たんだ」

 早苗の顔が一気に強張った。

「歴史の先生がそうだった。タケちゃんって呼んでた人」

 早苗の顔から表情が消えた。眼が三白眼になっている。腹をくくった顔だった。

 早苗はすっくと立ちあがると、自分のバッグからスマホを取り出し、どこかに電話を掛けた。

 少しの後、呼び出し音が消え、男の声が聞こえた。

「もしもし、夜分申し訳ございません。先生のクラスの、木戸真人の家のものですが」

 どうやら、相手は担任の教師らしい。真人は慌てた。

「歴史の先生のお名前をお教えいただきたいのですが。はい?川村先生ですか?そうですか。ではお手数ですが、川村先生にこちらまでお電話いただけるようお伝えいただけますか?この電話でも、真人の電話でもかまいません。今すぐに。ただ、メッセージではなく、非通知で構いませんから電話でお願いしますと。え?要件ですか?それは、川村先生ご本人にお聞きください。お待ちしております」

「早苗さん、どうするつもり?」

 真人にも大体想像はついたが、一応確認のつもりで聞いてみた。早苗は普段頼りなさそうに見える眉の間にしわを寄せ、キツイ攻撃的な目をしていた。

「どうするってきまってるでしょ。その人に、学校を辞めてもらうのよ」

 真人の予想通りの言葉だった。

「そうじゃないよ。俺はあの先生を辞めさせたいんじゃないよ。朝、その人に会ったのもあって、体がおかしくなったって言いたかったんだ」

「何をのん気なこと言ってるの?そいつの顔を見ると冷静じゃいられないってことでしょ?私はあんたの平穏を脅かす奴は、誰であっても排除する。たとえ、児童相談所の力を借りてもだ!」

 早苗が味方なのは、いつも心強く思っている。しかし、時々制御の難しいときがあるのがもどかしい真人だった。

「いや、ちょっと良く聞いてほしい」

 真人は制止するように、早苗の前に両手を開いて差し出した。

「確かに俺も動揺した。それは間違いないし、記憶の一部が蘇って、その影響を受けたのも事実だよ。でも、あの人、タケちゃんは俺にとって他の男達とは全く違うんだ。俺にとって、唯一の味方だったともいえるんだ」

 真人の真剣な訴えに、早苗の険しさがやわらいだ。

「あの頃、俺はほとんど家から出ることが出来ず、家の中に閉じ込められていたんだ。で、小学校に入る歳になっても通わしてもらえなかったんだ。何しろ、学校に行く時間は寝る時間だったんだから」

 早苗は無表情でじっと聞いていた。

「その時にいた別の男の人がランドセルを買ってくれて、小学校と言うものがあることを教えてくれたんだ。俺はすごく楽しみにしていたんだけど、でもあの人は結局一度も行かせてくれなかった。それからしばらくして何人目かの男がタケちゃんだったんだけど、タケちゃんはそんな俺を可哀そうに思ってくれて、あの人が仕事に行っている間に勉強を教えてくれたんだ。教科書も何もないから、タケちゃんが算数とか国語のドリルのようなものを買って来てくれて」

 早苗の顔がかなり柔らかくなって来た。

「だから、タケちゃんは他の男の人たちとは違って、俺の初めての友達みたいな感じで大好きだったんだ」

 早苗は、目を閉じてため息を吐いた。

「じゃあ、あんたはいったいどうしたいの?」

「いや、どうしたらいいか教えて欲しくて聞いてるんだよ」

「え?どういうこと?」

 早苗は混乱したように聞き返した。

「うん、実は、動揺してたのは俺よりもタケちゃんの方だったんだ。もう、動揺と言うよりも取り乱す寸前って感じだったよ。だから、どうやって安心させてあげたらいいかと思ってさ」

「じゃあ、あんたはその人と仲良くしたいって言うの」

 早苗の顔が、明らかに面倒くさいと言った感じになっていた。

「いや、今はもう先生と生徒の関係だから、個人的につき合いたいとかいう訳じゃないんだ。正直言って、お互い消し去りたい過去だと思うから、何もなかったこととして、他の生徒と同じに扱ってもらえればと思って」

 早苗の眉間のしわが深まり、鬱陶しそうな顔で考え込んだ。

「分かった、じゃあ、取り敢えず…」

 そこまで言ったところで、早苗のスマホが鳴り出した。早苗は「ちょっと待って」と、真人に合図をするとスマホを確認した。表示は名前ではなく番号であった。いつもならこういう場合は無視するが、今日はそうもいかない。

「はい、木戸です」

 早苗は、低く落ち着いた声で出た。

「あの、川村と申します。お電話差し上げるように申し付かったのですが…」

 川村は、怯えたような声だった。

「はい、無理言って申し訳ありません。実は、これから一度お目にかかれればと思いまして」

「…」

 無言の中に、川村のうろたえが聞こえて来るようだった。

「直接お会いして、お話ししたいことがあるんですが」

「あ、あの、香奈恵さんですよね?」

 その声は、か細く泣きそうであった。

 早苗はその声を聴いて、この人も香奈恵に怯える一人なのだと知り、哀れに思えて来た。

「いいえ、ご心配なく。私は香奈恵の妹で『さ、な、え』と言います。今、事情があって真人のことを預かっています。ですから、怖がらずに会ってください」

 スマホの向こうからため息のような音が聞こえた。川村の安堵が伝わってきた。



 待ち合わせは、早苗宅の最寄りのファミリーレストランを指定した。川村は少し時間がかかると言っていたので、おそらくここからは遠いところに住んでいるのだろう。可愛そうだがこの場合、女子供おんなこどもに合わせてもらうのが筋と言うものだろう。

 早苗と真人が二人で待っていると、電話がかかってきた。川村からだ。受けると、店に着いたという。入口を見るとそれらしい男がいたので、二人が立ち上がり手を挙げて知らせた。

「初めまして、川村武司です」

 川村は、緊張した面持ちだった。早苗の方だけを見て、真人には顔を向けずにいる。

「遠い所をありがとうございます。真人が一緒だと気まずいかもしれませんが、二人っきりで会う訳にもいきませんので我慢して下さい」

 早苗も丁重に挨拶した。

 席に着いても、川村は目のやりどころに困っているようだった。

「以前は姉が大変お世話になっていたそうで、ありがとうございます」

 早苗は嫌味を込めて頭を下げた。川村は反応せず、せわしなく視線を動かしながら喘いでいる。

「真人にもいろいろお世話して頂いたそうで…」

「香奈恵さんの妹さんなんですか?」

 川村が、早苗の話を遮って来た。それまで忙しなかった視線も早苗の顔に留まった。

「はい、そうです」

 川村の顔に笑みが浮かんだ。

「こ、声が香奈恵さんに似ていたんで驚きました。良かった。安心しました」

 川村は、自分の動揺を隠す素振りも見せなかった。

「姉が…香奈恵のことが怖いんですか?」

 早苗は哀れに思えて来た。川村は、その質問に驚いたようだったが、素直に答えた。

「そ、そうですね。今は、怖いかもしれません」

「今は?」

 川村はうつ向いて頭を抱えた。

「俺…ぼ、僕!僕、去年結婚したんです。もうすぐ子供も生まれます…」

「ご心配なく、今日はあなたをゆすりに来たわけではありません」

 早苗はすぐに川村の気持ちを察した。

「き、今日はいったいどういったご用件でしょうか?」

 川村は、やっと腹を括ったようだった。

「真人が、あなたにお礼を言いたいそうです」

 そう言われて真人が慌てた。

 川村が、怯えを含んだ目で真人を見た。

「真人君…立派になったね。最初、分からなかったよ。でも、よく見たら面影がある。あの頃から美少年だった。今は、もうイケメンだね」

 微かに笑うその目からは怯えが少し消えていた。

 その時点では、もう真人の方が怯えを抱えていたかもしれない。川村の顔を見ると、必然的にあの時のことを思い出してしまう。しかし、川村に対してはいいイメージの方が多いので、発作を起こすまでにはいかなかった。

「タケちゃん…」

 真人のその言葉に、川村の身体がびくりとした。

「その呼び方をされると、あの頃を思い出しちゃうね」

 川村は、つらそうだった。

「じゃあ、川村先生」

 そう言い直す真人に、川村は苦笑いを見せた。

「あの時は、本当にありがとうございました。おかげで、あの後学校に通うようになっても、何とかついていくことが出来ました」

 川村はハッとした顔になった。

「そうか、そうだよね。学校に通うようになれたんだよね?だから、ここに居るんだよね?そうか、良かったね」

 川村に、やっと嬉しそうな笑顔が現れた。

「あの時の、タケ、川村先生は僕の先生であり、唯一の友達でした。川村先生の話を聞いたり、一緒に遊んでもらうのがとても楽しくて、あの時期が一番楽しい期間でした。他のおじさんたちの時は、いつも緊張して気が抜けなかったんですけど、先生の時はとても気楽で快適でした」

 川村は照れくさそうに笑った。

「そうだったんだ?俺は真人君のおかげで今の仕事を選ぶ気になったんだけどね」

 それは、真人にも意外な言葉だった。

「あの頃、俺は何をやっていいか分からず、学校も行かずにちょっと荒れていたんだ。そこで香奈恵さんに出会ってお世話になっていたんだけど、真人君のお世話をするうちに、子どもに教えると言うことが楽しくなってさ、教師になろうって思って大学に戻ったんだ。真人君のおかげだよ」

 川村は、真人に素直な笑顔を見せた。真人も嬉しそうな顔をした。

「真人君は、いつから妹さんの所にいるの?」

 少し落ち着いたのか、川村の声から緊張が消えた。

 真人は早苗と顔を見合わせた。早苗はそれを受けて身を乗り出した。

「真人は、八歳の時に私の家の前に置き去りにされていました。それでいろいろあったけど、結局は私が引き取ることになったんです」

 川村は、気持ちに余裕が出来たのか、早苗の顔に見入っていた。

「声はよく似てますけど、お顔は似てないなーと思っていましたが、よく見るとやはり似てらっしゃいますね。ただ、性格は正反対のようですが」

 性格のことは、それは自他ともに認めている。しかし、顔のことは一度も似ていると言われたこともなければ、自分でも感じたことは微塵もない。

「そうですか。じゃあ、おそらく僕が捨てられて間もなくのことですね。真人君、優秀でしょう?僕が教えていても、覚えも理解も早くて、教えることをすぐに覚えていくんです。それで、僕に教師の才能があるんじゃないかって、勘違いしちゃったんですけど。でも、そのおかげで教師になる気になったんですけどね。まあ、実際にやってみると、なかなか理解してくれなくて困ってますけど。つまり、教え方が良かったんじゃなくて、真人君が優秀だったってことなんですけど」

 急に饒舌になった。

「でも、先生も気がかりじゃないですか?真人との事。結構恥ずかしい姿、晒したらしいじゃないですか?」

 急に馴れ馴れしくなったのが、ちょっと癪に障った早苗がきつい嫌味を言った。早苗のその言葉に、川村も我に返ったように硬い表情になった。

「ごめんなさいね。でも、それが今でも真人のトラウマになっているのも事実ですから。先生にもいろいろな事情がお有りだったとは思いますが、だからと言って真人が苦しんでいると言う事実を看過することは出来ません」

 川村の表情が一気に怯えたものとなった。かなり調子のいい性格のようだ。

「ただ、真人も先生にはシンパシーを感じているようですし、邪険にするつもりはありません。これを機会に、二人の過去は無かったものとして、全て忘れて下さい。真人にも同じことを指示してきました。私の家に来る前のことは、全て忘れるようにと。ですから先生もビクビクせず、他の生徒さんと同じように今回初めて会ったような顔で接してください。私は最初、先生に学校を辞めていただくように申し上げるつもりでしたが、真人がそれを望んでおらず、精神面でも大丈夫だと言うので譲歩します」

 川村は恐縮して頭を下げた。

「では、今日はこれで。遠い所、ご足労お掛けしました」

 早苗が立ち上がり、レシートを取ろうとすると、川村がそれを制した。

「あの、教え子にごちそうになるわけにいきませんし、ごちそうする訳にもいきません。ここは、各自で払うと言うことでお願いします」

 早苗はにっこりと笑った。

「そう言う杓子定規な人、嫌いじゃないですよ」


 支払いを終えた三人は外に出た。

「先生」

 歩き出した川村に、早苗が声を掛けた。

「奥様は姉に似てますか?」

 何と不躾な質問をする女かと、川村は少し不快になった。

「いいえ、似ていません」

 返事は不愛想だった。

「そうですか、先生は姉のことは怖いですか?」

 川村の表情が固まった。さっき、同じ質問を受けた。早苗の顔からは、その質問の真意は測れなかった。川村は答えたくなかった。答えずに背を向けることも出来たはずだ。

「怖い?確かに怖いと言えば怖かったです。今でも」

 なのに、何故か答えてしまう。

「ただ、怖いと言う表現が正しいかはわかりません。あの人は、美しくて、優しくて、暖かくて、男を虜にする人です。そしてそうなると、もうあの人から逃げられなくなるんです。言ってること、やってること、全てがおかしいと思っていても逆らえないんです。そして、あの人に捨てられると何故か、悲しさと共にそれ以上の安心と開放感が湧いて来て生き返った気になるんです」

 そこまで言うと、川村は二人に頭を下げて足早に立ち去った。

 川村は、香奈恵と同じ恐怖を今日始めて会った早苗からも感じていた。

 香奈恵は、男の情欲を操るのだと分かっていた。しかし、早苗の場合は何を操っているのかが分からなかった。なのに、何故か逆らえない怖さがあった。真人もまた、あの早苗に操られているのではないかとさえ感じていた。


 帰り道、早苗は川村の最後の言葉を考えていた。真人の父、笹本もやはり香苗に操られた犠牲者の一人だったのだろうか。香奈恵の狂気に振り回されながらも、香奈恵を切り捨てることが出来なかったのだろうか。




            *


 翌日の朝、志乃は真人を家まで迎えに行った。

 志乃と真人は入学式の翌日は一緒に登校したが、その次の日からは二人別々に登校をしていた。理由は簡単だ。自分と真人の関係を周囲に宣言出来たからであり、真人からの彼女認定を得られたからである。

 しかし、前日の真人の事件が気になり、早く様子を見たいと思ったので、家まで迎えに行ったのだ。

「今日は手、繋いでないんだね?」

 校門の近くで後ろから声を掛けられ二人が振り向くと、口元に笑みを浮かべた鈴木が立っていた。笑っていない目が不気味だった。

「あ、鈴木さんオハヨー」

 真人は明るく答えた。志乃も言おうと思ったがうまく声が出なかった。

 志乃は、どういう訳かこの鈴木が苦手だった。別に鈴木が志乃たちに敵対してくるわけではない。あまり詮索して来ないし、却ってアドバイス的な言葉をくれたりすることもある。なのに、何故か関わりたくない理由が最近分かった。

 鈴木は結構美人なのである。小学校の頃はあまり気付かなかったが、中学生になり、制服を着て、髪型も変わり、眼鏡も少しセンスの良いものに変えると、見違えるほど奇麗になっていた。それは、可愛いと言うよりも奇麗と言う言葉が似合っていた。

 性格も志乃とは違い、落ち着いた感じで、あまり騒ぐタイプでもない。成績もよく、理知的な雰囲気を持った女性である。

 そして何よりも見過ごせないのが、真人がなぜかこの鈴木にはものすごくフレンドリーなのである。基本的に真人は、志乃と志乃以外の女子とで話し方、接し方が違っていた。身内とそれ以外と言った感じで、他者との付き合い方には何となく距離のようなものを感じさせた。そしてそれが志乃の優越感を誘っていた。

 しかし、どういう訳かこの鈴木に対してだけは、その距離が感じられず、志乃に対するのとはまた違う、親密さのようなものが感じられるのだ。そして、それを見る度に志乃の胸に不安が込み上げてくるのであった。

「うん、何か学校であんまりやりすぎると、周囲の反感を買うとか言い出してさ」

 志乃の不安をよそに、真人がやり切れなさそうにこぼした。

「それは残念だったね?」

 真人の表情を見て、鈴木がクスリと笑った。口元を軽く押さえ、今度は目尻を少し下げて、顔全体が笑顔となった。それと共に、奇麗な顔が可愛い顔に変わった。

 鈴木の視線が志乃に向いたとき、その笑顔に怪訝さが滲んだ。明らかに志乃の顔を見て表情が変わったと言うことだ。残念ながら、志乃には自分の顔が見えないので、今自分がどんな顔をしているのか分からなかった。しかし、おそらくは鈴木の笑顔を消すほどの顔だったのだろうことは分かった。

「志乃ちゃん?」

 笑顔が消え、怪訝さだけが残った顔の鈴木が心配そうに言った。

「はい?」

 志乃は我に返った。それを見た鈴木に笑顔が戻った。

「ほら、彼氏が残念がっているから、手ぐらい繋いであげたら?」

 諭すようにそう言い残して、鈴木は先に行ってしまった。

 気が付くと、真人が心配そうに志乃を見ていた。その顔を見ると、志乃は急に笑顔になった。

「なんだ、残念だったの?」

 志乃のテンションが急に上がった。

「家帰ったら、手でも何でも繋いでやるから我慢して!」

 そう言うと、嬉しそうに真人の背中を叩いた。

「志乃ちゃん!そんな誤解されるような言い方しちゃ不味いよ」

 真人が慌てた。周囲を見ると、通り過ぎる人皆、好奇の目を向けていた。

 恥ずかしさに赤面しながら校舎に向かう志乃は、ふと思い出したかのように呟いた。

「そう言えば、鈴木さんってどこのクラスなんだろう?」

 それに気づいた真人が、普通に答えた。

「ああ、うちのクラス」

 志乃は一瞬、膝の力が抜けそうになった。



 教室に入った真人が席に着くと、後ろの席の小杉が声を掛けて来た。

「お前ら、家では手以外も繋いでるのか?」

「あ、おはよう。さっきの聞いてた?」

 真人は照れ笑いをした。

「ああ、みんな完全に引いてたぞ」

 小杉は面白くなさそうな顔をしている。

「おまえら、完全に不順異性交遊だろ?」

 小杉はそう言いながら、真人の背中を指でぐりぐりと押してくる。

「いや、それ誤解だから。俺らそう言うの無いから」

 真人が慌てて否定した。

「いや、もう世間の認識は完全にそうだから。すぐに、学校からも指導が入るから」

 小杉の指が一層強く押し込まれる。

「え?マジで?面倒くさいことになるな」

 真人の声が真剣なものになった。

「冗談だよ」

 小杉はそう言うと指の動きを止めた。

「え?」

 真人が後ろを見ると、小杉が真面目な顔になっていた。

「昨日のあれ、俺のせいなんだろ?悪かったな」

 小杉の声が神妙だった。おそらく真人の体調不良のことを言っているのだろう。

「昨日あの後、鈴木さんが言ってた。おまえ、ちょっと複雑な環境に育ったんだって?」

「え?うん、まあね」

 真人はどう答えて良いか分からず、苦笑いした。

「鈴木さんに、木戸には俺らが分からない色んな事情がありそうだから、気を使ってあげて欲しいって言われた」

 真人は黙って聞いていた。

「おまえ、ただのリア充じゃなかったんだな。もし、気を付けることあったら言ってくれよな」

 小杉の申し訳なさそうな顔を見て、真人も申し訳なさと共に嬉しさを感じた。

「ありがとう。別に普通につき合ってくれればそれでいいよ。ただ、あの手の物だけは、ちょっと勘弁してほしいかな?」

 真人は照れながら言った。

「分かった。気を付ける」

 神妙な小杉は、ちょっと可愛く見えた。

「小杉は優しいんだね」

 真人の言葉に、小杉は驚いたように真人を見た。

「別に優しいわけじゃないよ」

 小杉は愚痴るように言った。

「だって、あんなきれいな娘に言われたら、従うしかないでしょ?」

 真人は何を言っているか分からなかった。

「鈴木さんだよ!」

 小杉は真人の気持ちを察したように答えた。

「何でお前の周りは可愛い娘ばっかりなんだ?可愛い彼女にきれいな母親、しかも彼女だけじゃなくてあんなきれいな娘にまで気を使われて、一体どんだけハーレムなのよ?」

 真人は思わず吹き出してしまった。

「そうだね、俺は幸せな人間なんだね?ありがとう、気づかせてくれて」

 真人は笑いが止まらなかった。

「因みにだけど、昨日のあの人は俺の母親じゃなくて叔母さんだから」

「え?」

「俺、母親じゃなくて母親の妹さんに世話になっているんだ。ちょっと事情が有ってさ」

 真人はそう言い終わると席を立って、鈴木のところへ行った。鈴木は数人の女子達と話をしていた。

「鈴木さん?」

 真人が声を掛けると、一緒にいた女子達がざわついた。クラスの女子達は、みんな真人に関心を抱いているのだ。

「昨日、みんなに説明してくれたんだってね?ありがとう」

 鈴木はそれを聞くと、肩をすぼめて右手の人差し指を立てて、閉じた口の前に当てた。

「皆っていう訳じゃないの。小杉君にだけこっそりとお願いしたの」

 鈴木の言い方が悪戯っぽかった。

「え?なになに?何のお願い?」

 他の女子が騒ぎ出した。

「ふふん。私と小杉君だけのヒ・ミ・ツ!」

 その場に笑いとブーイングが響いた。

 鈴木は昨日、歴史の授業の時、出席をとっている時点から真人の様子がおかしいことに気が付いていた。それで、何気なく真人の方を見ていると、授業が終わったすぐ後に、小杉が差し出したスマホを目にした途端真人の様子がおかしくなったので、スマホに映っていた何かが原因であろうと推測したのだった。それと共に、何しろ中学生男子のこと、どうせろくでもない映像だったのだろうと察して、真人と小杉二人のために、その映像の内容は明らかにしない方が良いとアドバイスしたのであった。

「木戸君って真人君って呼ばれてるの?」

 女子の一人が騒ぎを無視して真人に聞いて来た。それを幸いと鈴木が話題を変えるために話に乗ってきた。

「そう。最初から真人君だよね?」

「ええ?何か理由があったの?」

「それはもちろん。彼女が最初からずっと真人君って呼んでたから、みんなも真人君って呼ぶようになったんだよね」

 場が一瞬静まった。

「彼女って…あの?」

 一人が恐る恐る切り出した。

「そう、隣のクラスの大川志乃ちゃん。志乃ちゃんも最初は大川さんだったんだけど、真人君が志乃ちゃんって呼んでるせいで、みんな志乃ちゃんって呼ぶようになったの」

「二人はいつから付き合ってるの?」

「それが何と、小学二年生から」

 鈴木は楽しそうだった。

「すごい」

「もう、幼な馴染みって感じ?」

「最初はどうやって知り合ったの?やっぱり家が近かったとか?」

「なんだか尋問みたいだね?」

 真人は困惑気味だった。

「ちょっと家庭の事情があってね、その時に志乃ちゃんのお父さんにお世話になって、その時に志乃ちゃんに出会ったんだよね」

「へえー?一目惚れみたいな?」

 真人もちょっと面倒くさくなって来た。

「もうあの頃のことはあまり覚えてないな」

「じゃあ、彼女にも聞いてみれば?」

 鈴木の意地悪そうな声が聞こえた。

 鈴木を見ると、鈴木は教室の入口の方を見ている。皆がその視線の先に目をやると、入口の戸に隠れるように不審者志乃が覗いていた。


「真人君が心配で見に来ていたんでしょ?」

 鈴木さんは意地悪そうな笑顔だった。

 志乃は真人のクラスの女子に確保され、教室に引きずり込まれて床に座らされていた。

「参考までに言うとこの二人、小学校の時は手を繋いだり、べたべたしたりはしてませんでした。おそらく、この志乃ちゃんが真人君を他の女子に取られるんじゃないかって心配して、彼女アピールをしたかったんだと思います。どうですか?志乃ちゃん?」

 鈴木に詰め寄られた志乃は、恥ずかしくて死にそうだった。真人も慌てていた。

「どうですか、志乃ちゃん?」

 再度詰め寄られた志乃は、怯えた顔で小さくうなずいた。

「と、言う訳なんで、二人の関係を邪魔しないで上げて下さい」

 鈴木は、志乃が認めるとすぐに聴衆に向かって訴えた。

「志乃ちゃんも、かなり背伸びして無理をしていると思うので。この娘は本来そんな大胆なことをする娘じゃないんです。不安がそうさせたことなんです」

 鈴木の訴えに、女子の皆がクスクスと笑い出した。

「分かったよ。彼氏には手出さないから安心して」

「なんだ、必死かよ」

 志乃に同情する派と、嘲笑う派に分かれたようだった。

「最初会ったときどんな印象だったの?」

 同情派と思われる一人が、志乃に声を掛けた。

「やっぱり一目惚れみたいな?」

 女子達は興味深々だった。志乃は突然のことにかなり動揺していたが、今は答えざるを得ない状況であることは理解していた。仕方なく、言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。

「一目惚れ?かどうかは分からないけど…ただ、何か衝撃的で、これはもう、宿命の人かな?って…」

「?」

「?」

「シュクメイ?」

「宿命?」

「何言ってんのこの人?」

「良いんじゃね?面白いから」

「宿命ね?」

「宿命カップルか」

「何か背負ってそうだね」

 その場が嘲笑に満たされた。

「じゃあ、彼氏の方にも聞いてみようか」

 誰かが言うと、みんなの視線が真人に集まった。

「え?俺?」

 真人は突然のことに少し怯えた。

「えっと、俺は…」

 慌てて当時のことを思い出してみる。

「とにかくあの時は深刻な状況だったから、志乃ちゃんを見た時は何か輝いて見えて、光と言うか、希望と言うか、安らぎと言うか…」

「なにそれ、女神か天使じゃない?」

 笑いが起きた。真人も照れ笑いをした。

「うん、確かにそんな感じかもしれない」

 真人が照れながらポツリと漏らしたその一言に、その場は静まり、周囲から笑顔が消え、みんな真人から一歩退いた。

―こいつ、ちょっとまずい奴なんじゃ?―

 そんな視線が真人に降り注がれた。

「私は、ただの刷り込みだと思うけどな…」

 鈴木がつぶやくように言った。その声に気づいて真人が鈴木を見ると、鈴木は真剣な顔をして真人を見ていた。

 真人が鈴木に声を掛けようとすると、ちょうど担任が教室に入ってきた。

「ど、どうしたんだ?」

 担任は明らかな動揺を見せた。

―木戸真人の周りには、何故か騒ぎが絶えない―

 小学校からの、異例の申し送りに有った言葉が脳裏を横切ったのだ。しかも、よく見ると騒ぎの発端になると言う大川志乃がいる。敢えて真人とは別のクラスにして、離して置いたのにである。

 集まっていたみんなは慌てて席に戻り、志乃は廊下につまみ出されてしまった。

 小杉は、事の顛末を横目で見ながら、心底真人のことを羨ましく思っていた。




            *


 ある休日の出来事。

 早苗は、久しぶりに買い物に出た。普段、休日と言えば外に出ることなどない早苗だが、時には買い物など必要に迫られて外出することもある。その日も着替えを買うついでに、いつもの大型スーパーで食料品や日用品を見て回っていた。真人はいつも通り志乃と一緒に出掛けているので、早苗は一人で少々寂しい心持である。

 そう、真人が小学生の頃は、いつも真人と志乃を引き連れての買い物であったので、うるさくもあったが賑やかで楽しい買い物であった。今は、自分一人でゆっくりと見て回れるのはいいのだが、やはり子供連れの客などを見かけると、ふと寂しさを感じることもあるのだった。そんな時、真人の成長は嬉しくもあるが、また、寂しさの原因ともなることを痛感する早苗であった。、

「あの…」

 早苗は背後から声を掛けられたような気がして、何気なく振り向いた。

 見ると、後ろには中学生くらいの女の子が立っていた。細ぶちの眼鏡をかけた、端正な顔立ちのきれいなその娘は、明らかに早苗の方を見て不安気に会釈をしている。

「ひょっとして、木戸早苗さんではありませんか?」

 早苗が怪訝そうに見ていると、その娘は遠慮がちに問いかけて来た。早苗はすぐに理解した。おそらく、真人の友達か何かだろう。

「そうだけど、あなたは?」

 不愛想な早苗の対応にも、その娘は怯むこともなく、却って安心したような笑顔になった。

「私、真人君と同じクラスの鈴木です。昔、一度お会いしたことあるんですけど、覚えていらっしゃらないですか?」

 やはり真人絡みの子だった。しかし、真人の友達などあまり関心が無かったから覚えていない。授業参観にも何度か出席はしているが、真人以外はほとんど目に入っていないのが事実だ。

 はて?と頭を捻ったところ、鈴木と言う名に聞き覚えがあるのに気づいた。

「あー、昔、夜お志乃と一緒にいた時に会った、あの娘か」

 真人と一緒に暮らし始めた頃、志乃を送りに真人と三人で歩いているときに出くわした娘だった。志乃のうろたえる姿と共に早苗の記憶に蘇ってきた。あの頃も可愛い娘だったが、今はきれいな女子になっていた。

 早苗が思い出したのを見て、鈴木は嬉しそうに笑顔を見せた。

「思い出していただけて光栄です」

「あの時は眼鏡を掛けていなかったよね?」

「あ、そうかもしれません。三年生くらいから目が悪くなり始めたものですから」

 鈴木の笑顔が恥ずかしそうになった。

「こんな美人がいるなら、お志乃もうかうかしていられないね?」

「えー?そうですか?私にもチャンスありますか?」

 鈴木が嬉しそうに話に乗って来たので、早苗も少し驚いた。しかも、美人と言われたことを否定しない。

「おや、鈴木さんも真人を狙っているのかい?」

「ええ、勿論です。多いですよ、うちの学校、真人君狙いの女子」

 早苗の嫌味にも、ひるむことなく突っ込んでくる鈴木である。早苗の好奇心が頭をもたげた。

「でもまあ、あの二人の間には入り込む余地なんか無いですね?残念ながら」

 鈴木は明るい声でさらりと流した。

「それはどうかねえ?」

 早苗は意地悪くつぶやいた。それに対して鈴木は、少し拗ねた振りをして答えた。

「そうですよ。誰もあの二人の間に割って入るなんて、出来ると思ってないですよ」

「ほう、なんでそう思うのかねえ?」

「え?だってあの二人、その辺のカップルとは全然違うじゃないですか?」

「だから、何処がそう見えるんだい?」

「うーん、なんていうかな?ただ惚れた晴れたで浮かれているカップルじゃなくて、もっと深い信頼と言うか…、極端に言うと兄妹のようなって言うかなんて言うか…」

 鈴木が言いあぐねているのを見て早苗はクスリと微笑んだ。その笑顔は、おそらく志乃や真人の前で見せるそれとは、また異なる笑顔だったであろう。

「ほらね?あの子等は今、兄妹的な結びつきが強いとも言えるだろう?どんなに仲が良くても必ずしも恋人として完璧だとか、理想の夫婦になれるとか言うふうには決めつけられないんだよ。愛情なんて言うもんはね、親子、夫婦、兄妹、友人、それぞれ似ていても色合いなんて違うものなのさ。ただ、どれもみんな愛情と言う言葉で一括りにするから区別がつかなくて、自分たちの愛情がどの部類に属するものなのか判断できなくなるんだよ。あの二人だって、今、自分たちがどんな感情で引かれ合っているかなんて、理解していやしないんだよ。それは私も同じことだけどね。それにさあ、あの子等はまだ中学生だろ?今後どんな関係になるかなんて、だれにも分からないのさ。だいたい、中高生のカップルのどれだけが将来結婚するかなんて、誰にも分かりやしないんだし…。これからの人生の中で、お互いの見つめ方なんていくらでも変わっていくんだからね。これから先、もっと別な人と出会う可能性だってあるんだし。まあ、鈴木さんが、今だけちょっと恋人気分を味わいたいとかいう程度なら、ちょっと無理だろうけどね」

 鈴木は、早苗の言葉を聞いて少し驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔を見せると悪戯っぽく目を光らせた。

「えー?それって早苗さんの経験からの意見ですか?」

 鈴木の言葉は、子どもの軽率な発言を装ってはいるが、その目の奥の輝きは、早苗の反応を見ているのが明らかだった。

 早苗の額から冷たい汗が流れた。鈴木が早苗に向けた目は、早苗が幼い頃よく見た香奈恵の目とよく似ていたように感じたのだ。香奈恵が相手を言い包めるとき、相手の真意を探るときなどに見せる目である。鈴木は早苗のご機嫌取りで声を掛けたわけではない。何か目的をもって、例えば何かの情報を探ろうとして、早苗を揺さぶってきているのだ。ここで例え早苗が憤慨して、すずきを叱責したとしても鈴木にとってはそれはどうでもいいことなのだろう。何しろ早苗は鈴木の友達の保護者であって、直接は何の関係もない存在なのだから。

「それは、どういう意味なのかな?」

 早苗は冷静かつ率直に訊ねた。中学生と言う子供ではなく、鈴木と言う一人の人に対して。

 鈴木は手応えを感じたのか表情に余裕が出た。そして遠慮がちに言った。

「わたし、ちょっと聞いているんです。真人君のお父さんのこと」

 その言葉に、不覚にも早苗の顔が強張った。

―なぜ?どこで聞いた?―

 鈴木の言葉の真偽よりも、まず鈴木が知っている理由に関心が行った。鈴木は、早苗の顔色の変化から、主導権を取ったことを感じ取り安心したのか、僅かに不敵な笑みを浮かべた。

「わたし、小学校の頃から志乃ちゃんのお母さんとお話しする機会がちょこちょこ有ったんですよ。ほら、参観日の時とか、お買い物の時にたまたま会ったり。ちょうど今みたいな感じで?」

 鈴木は、何げない会話を装いながら、じっくりと早苗の反応を観察している。早苗にはそれが痛いほど感じられた。しかし、あまりの突然の展開に、自分を律することが難しい状況になっていた。

「それでそういう時に志乃ちゃんや真人君の話題が出ますよね?そんな話の中で、たまに真人君のお父さんやお母さん、それと早苗さんのことも出てきたりしたんですよ」

―あの女か―

 早苗は落胆した。志乃の母親を罵倒する気持ちが湧き上がったが、この鈴木が相手なら会話を誘導されて、つい、口走ってしまうのも仕方のないことかと諦めざるを得なかった。

「あれも確か、早苗さんが中学生の時のことでしたよね?」

 鈴木の視線は笑っていない。何かの探りを入れながら早苗の反応を見続けている。早苗には鈴木の真意が読めなかった。悪意なのか、それとも単なる好奇心なのか。

「やっぱり、中学生くらいの頃の恋愛なんて、一時的な感情でしかないんでしょうか?」

 鈴木の無邪気とも無神経とも思える言葉が、早苗の心に無造作に突き刺さる。しかし、早苗の感情は意外といきり立たず、思いの外冷静だった。それはおそらく、早苗自身も同じような思いを持っていたためであろう。早苗は、何も言わずに鈴木を見つめた。鈴木には、その表情からは秘めた感情は見いだせなかった。

 早苗は何も言わずに鈴木に歩み寄ると、自分の左手を鈴木の肩に載せた。

「あなた、賢い娘ね。とても中学生とは思えないくらいだわ」

 早苗の表情も言葉使いも、憤りのようなものは見られない。恐ろしく落ち着いた眼差しで鈴木の顔を見つめている。鈴木は恐れも威圧感も感じることなく、ただ黙って静かな、しかし鋭い早苗の瞳の奥を見つめていた。

「私は、恋愛とかそう言うものには関心がない。だから、真人が誰と付き合おうが知ったことではない。ただ、その相手が真人のプラスになればそれで善し。マイナスになると感じたら、容赦なく排除するだけ」

 早苗の静かな表情に、何か深刻さのようなものが滲んで来た。

「鈴木さん、お願い。真人の力になってあげて。真人は私たちのせいで無意味な不幸を背負ってしまったの。そしてあの子の周りには、今も危険が迫っているかもしれない。だから、あの子が困った時、辛い状況に落ち行った時、あなたの知恵と知識で真人の力になってあげてね。その為に必要な情報は、いくらでも提供するから。ただ、それはこんなところで話せるような内容ではないの。もし必要なら連絡ちょうだい。落ち着いたところでゆっくりと話すから」

 早苗は言い終わると、確認するように少しの間鈴木の目を見つめてから、そっと手を下ろした。その顔は、優しい微かな笑顔であった。

 鈴木は予想もしない展開に戸惑っていた。この戸惑いは、自分ではなく早苗の方が見せるはずだったのだ。早苗はもっとうろたえて、鈴木を罵倒するはずであった。子供のくせにと、何も知らないくせにと、他人の事情に首を突っ込むなと。

 早苗は言った、お前は真人の敵か?味方か?と。早苗は言った、早苗にとって自分の過去などどうでもいい、ただ真人の将来が大事だと。早苗は言った、鈴木の知恵で真人を助けてくれと。

 鈴木は立ち去る早苗の後姿を、何か憧れのようなものを感じながら眺めていた。


 早苗は鈴木に同情のようなものを感じていた。彼女は非常に賢いのだろう。それは、単に学力があるというのとはまた違う。知恵が回り、知識もあり、人の考えも手に取るように分かるのかもしれない。おそらく友人はおろか、周囲の大人たちさえも見透かすことが出来るのだろう。そして彼女は自分の賢さ、優秀さを自覚している。しかし、彼女はその自分の力をどう使っていいのか分からずにいる。そこが彼女の賢さだ。

 鈴木がその気になれば、大人も子供もみんな手玉に取り、言い包め、利用し、弄ぶことも出来るはずだ。しかし彼女は、そう言うことに魅力を感じなかったらしい。鈴木は真人のことを時間をかけ、ゆっくりと少しづつ真由美から聞き出していた。どの程度まで聞き出したかは分からない。しかし、ある程度イメージをつかむまでは知っていることだろう。かなり、忍耐のいる仕事だ。ところが彼女は、その知識をどう使っていいのか分からなかった。その知識を使って、真人や早苗を弄ぶことも出来たはずなのに。

 鈴木は早苗に聞いて来た。この情報をどうしたらいいですか?と。短絡的に暴走せず、他人の意見を聞いてみる。誰にでも出来ることではない。人は自分の力を、自分の優越感のために乱用しがちだ。鈴木はその危険性を、おそらく本能的に感じ取ったのだろう。有り余る能力を、どう使っていいか分からない。それもまた哀れなものである。使い方を誤ると、知恵や知識が人を狂わせることもあるのだから。




            *


 その日はいつもと変りなく、早苗は職場で仕事に勤しんでいた。

 午後三時を過ぎた頃、勤務中の早苗のスマホが鳴った。電話の着信である。

 真人からの帰宅コールが無くなってからすでに久しい。最近では真人との連絡もほとんどチャットで済ませているので、電話での着信は珍しくなっていた。

 早苗は、当然真人からの電話だと思い、何か急ぎの用件かとすぐにスマホを取りあげた。そして着信の表示を見ると思わず眉をひそめてしまった。その着信は真人ではなく、「川村先生」となっていた。

 川村とは、あの一件以来連絡を取っていない。早苗としても連絡するつもりは無かったが、念のためにと思い名前を登録して置いたのだった。もし、あの時登録せずに放って置いていたら、この着信は黙殺されていたことだろう。

 早苗は暫しためらった後、通話をタップした。

「もしもし木戸さん?川村です」

 繋がると同時に、スマホから早口の男の声が響いて来た。それだけで急用なのが分かる。

「はい、木戸です。慌ててどうかしましたか?」

 早苗は、敢えて落ち着いた声でゆっくりと答えた。

「大変なんです!香奈恵さんが現れました!」

 早苗の呼吸が止まった。心臓も止まっていたかもしれない。しかしそれとは対照的に、僅かな時間の間に頭の中にはいろいろな言葉が飛び交っていた。

「ちょっと待って、今、場所を変えます」

 頭の中を駆け巡る、さまざまな言葉をかき消してそう言うと、早苗は席から立ち上がりすぐさま駆け出した。走りながら頭と心を整理して、これからの会話に備えた。

「お待たせしました。詳しくお願いします」

 会社の外に出た早苗は、大きく深呼吸をしてから川村に話しかけた。

「はい、実はですね…」

 少し時間を置いたことで、川村の気持ちもすこし落ち着いたようで、ゆっくりと説明を始めた。

 川村の説明によると、最近職員室の教員の間で学校周辺に出現する、謎の美女の噂が話題になっていたらしい。年恰好から、おそらく生徒の母親ではないかと言う予想であったが、その正体は不明であった。しかし今日、川村がそれらしい女性を見かけたのだが、それが間違いなく香奈恵だったと言うのである。

「間違いないですね?」

「間違いありません。サングラスとかしていましたけれど、間違いなく香奈恵さんです。助けて下さい。お願いします」

 川村は完全に怯え切っている。おそらく、自分のことも暴露されると思っているのだろう。

「先生、ご心配なく。あの人の目的はあなたではなく真人ですから、見つからなければ問題ないと思います」

「え?真人君?何の目的で?」

「先生、ご報告ありがとうございました。少し考えさせていただきます。先生も、あの人に見つからないように精々お気を付けください。あと、この事は真人には黙っていてください」

 早苗は、川村の質問には答えず一方的に切ると、建物の壁に寄りかかったまま、ずるずるとしゃがみ込んでしまった。

 暫し呆然としていた早苗は、何かに気づいたそぶりを見せると、改めてスマホを取り出し「連絡先」を開いた。そして一人の名前を見つけると、迷わず発信した。その相手は小学校六年の時の真人の担任である。

 呼び出し音が続いた後、聞き覚えのある男性の声が聞こえた。

「はい、加藤です」

「お仕事中、申し訳ありません、私、三月まで先生のクラスでお世話になっていた…」

「はい、分かりますよ。木戸君の…早苗さんですよね。まだ名前登録してありますから」

「あ、そうですか、恐れ入ります。今、お時間よろしかったでしょうか?」

「ええ、大丈夫ですよ。木戸君、どうかしましたか?」

 早苗は緊張を押し殺して話を切り出した。

「実は、本当につかぬことをお伺いしたいのですが」

「はい、何でしょう」

「真人が在学中の時の事なのですが…」

「はい」

「学校の近所で、ものすごく奇麗な女性が目撃される、などと言う噂があったりしませんでしたでしょうか?」

「…」

 加藤は反応しなかった。あまりにも唐突すぎて理解できなかったかと、早苗は少し後悔した。

 しかし、すぐに電話の向こうから苦笑するかのような声が聞こえて来た。

「いやー、親御さんもご存じだったんですか」

 加藤は照れくさそうに言った。

「職員の間だけの噂だと思っていたんですけど。いえ、確かにありましたよ」

―やっぱりか―

 早苗は落胆した。

「それは、いつ頃からの事でしたか?」

「そうですねー。はっきりとは分かりませんが、僕が知ったのは三、四年前だったと思います。若い男性教諭の間で、誰の母親だろうって盛り上がっていたんですよね」

「先生もご覧になったことはお有りでしたか?」

「いえ、僕は無いんですよね。そんな頻繁に現れるわけではなかったですから。目撃情報自体は年に四、五回ってところだったと思いますよ」

「そうですか。最近も現れたりしますか?」

「どうでしょうね。僕が最後に聞いた話では、卒業式の時だったと思いますから、まだ最近ですよね」

「卒業式?」

 早苗の声が震えた。

「そうなんですよ。ああそう、それで式に参席しないで外で眺めているだけだったらしいので、お母さんではないんじゃないかって話が出て、今度見かけたら声を掛けてみようってことになったんでした」

 ここまで話して、加藤はやっと早苗の質問の意味に気づいた。

「あの、もしかして」

「ありがとうございました。この事は、先生もお忘れになってください」

 早苗は、早口で挨拶すると慌てて通話を切った。

 早苗は、しゃがみ込んだまま震えていた。怒りか恐怖か、その理由は分からない。卒業式には早苗も出ていた。その早苗と真人のすぐそばに香奈恵がいたのだ。今まで考えもしないことだった。早苗と真人の、幸せ且つ平穏な生活のすぐ間近まで、狂気が迫っていたのである。

 震える早苗の身体中から嫌な汗が溢れて来た。

 そう考えると、いつも志乃を側にくっ付けて置いたのは正解だったのかもしれない。そう気付いた早苗はもう一度スマホを取り出した。



 その時志乃は、自宅から早苗の家に向かう途中だった。

 放課後、真人と一緒に学校を出て、途中で別れていったん自宅へ帰ってから着替えて、改めて早苗宅、つまり真人の家に向かう、と言うのが中学になってからのパターンになってきた。

 最近では、真人と志乃のことは生徒の間でも周知の事実となり、多少真人の周りに女子がいても気にならなくなってきていた。ただ、鈴木だけは何故か気を許せないところがあるのだが。

 志乃がご機嫌で歩いていると、スマホの電話の着信があった。珍しく通話の着信だ。中学の入学祝いに買ってもらったスマホで、クラスの人との連絡先の交換をして連絡先も増えはしたが、音声通話で使う相手といえば、ほとんど真人である。今回も、真人から「早く来い」と言う催促の電話かと思い、笑顔でスマホの表示を見たが、見た瞬間眉間にしわが寄った。相手が早苗だったのだ。

 早苗とも一応連絡先の交換はしてあった。おそらく一生使うまいと思っての交換であった。早苗もそう言っていた。なのになぜ?

 志乃は立ち止まり、着信音を響かせながらじっと考えた。しかし、ここで無視するといろいろとこじれてくるのも間違いないので、とりあえず出て見た。

「さなえさーん、真人と手以外も繋いでいいかな?」

 志乃としては早苗の先手を打ったつもりであったが、早苗の反応は志乃の予想とは全く異なるものだった。

「ああ、志乃ちゃん?」

 この一言で、ただ事ではないことは分かった。冗談を言っている場合ではない。何か問題が発生したのだ。

「どうしたの早苗さん。何かあった?」

 志乃もあせり気味だった。

「真人は?真人はどうしてる?」

 早苗の声は意図的に落ち着こうとはしているが、上ずっているのがはっきりと感じられる。

「真人ならたぶん家にいるんじゃないかな?私も今向かっている所なんだけど」

「そう…あの、志乃ちゃんお願いがあるの」

 この言い方は、早苗の心がかなり弱っているに違いないと感じた。

「明日から、朝、真人のこと迎えに来てあげてもらえないかな?」

「え?それは良いって言うか、むしろ嬉しいけど」

 志乃はつい、照れ笑いをしてしまった。

「ああ、そう、良かった。理由は後で説明するから。今、仕事中なので…え?あ!仕事中だった!ごめん!私戻らなきゃ!じゃあ、明日からよろしくね!」

 早苗にしては珍しく慌てている。志乃には今、早苗に、そして真人にも何か重大な問題が発生していることが理解できた。志乃の心が騒いだ。

「あ、あと、この事は真人には内緒にしておいて、お願い!」

―それは無理!―

 志乃は反射的にそう思った。志乃は、自分でも隠し事などできない性格だと分かっていた。何事においても、すぐに顔に出てしまうのだ。しかし、それを早苗に伝えることは出来なかった。早苗は一方的に通話を切ったのだ。切る直前、早苗の激しい息遣いが聞こえた。

―ああ、何処か走ってるな―

 志乃はその雰囲気で察することが出来た。




 早苗は、その後も香奈恵のことが気になって仕事が手に着かなかった。早苗は精神的に動揺すると、すぐ行動に現れる傾向があるらしい。今まで、自分は図太い方だと思っていたが、真人を引取ってからは精神的な脆さを痛感するようになっていた。

 何とか仕事を終え、帰路に就く中、早苗は川村に電話を掛けていた。

「川村先生、今よろしいですか?」

「はい、大丈夫です」

 川村の声は、早苗に怯えているようにも聞こえる。

「あの、例の女性の噂なんですけど、いつ頃から始まりましたか?」

 川村は少し考えてから答えた。

「えーと、それは今年の入学式の時からです」

 予想はしていたが、改めて確認すると早苗の身体に震えが起こった。

「式の後、職員の間で今年の新入生の母親の中に、すごい美人がいると言う騒ぎが起きたんです。それも一人からじゃなくて、数人の男女教員からなんです。ただ、教室の中や説明会にはそれらしい人はいなかったので、親戚か何かなのかと一年の担任を持つ男性教諭が残念がっていたんです。で、その後二、三度登下校の時間帯に見かけた教師がいまして、それでちょっと不審者ではないかと言う意見も出て来たんです」

 早苗は考えた。小学校では年に四、五回、それが今は入学からひと月ちょっとで二、三回も目撃されている。もうかなり危険な状況ではないのか?

「それで僕も今日、たまたま見つけたんです。少し離れたところから校門の方を見詰める香奈恵さんを」

「それはいつ頃のこと?」

「さっき電話した、少し前です。僕は怖くなってどうしていいか分からなくなったんですけど、一応早苗さんにも報告しておいた方が良いかと思いまして」

 報告と言うよりは、おそらく助けを求めてのことだったのだろう。

「で、その時、真人は?」

「その場にはいなかったと思います。そんなこと気にする余裕は無かったですけど。僕は担任は持っていないので、授業以外で生徒と会うことはあまりないから、真人君がいつ帰ったかとかまでは分からないんです」

 早苗は川村が「そんなこと」と言ったのが引っかかったが、精一杯の誠意で黙って飲み込んだ。しかし、それでもうそれ以上話す気持ちが失せてしまい、何も言わずに通話を切ってしまった。

 早苗は混乱していた。香奈恵は何を求めているのか察しがつかない。成長した真人を見て執着心が増したのだろうか。しかし、そもそも真人を手放した理由自体分からないのだ。今、何をしたいのかなど分かるはずもない。

 もし、このまま不審者として事態が発覚すれば、警察や児童相談所が動き出すことになる。それで排除してくれればいいが、実の母親に引き渡すなどと言う話にもなりかねない。ここは何とか表沙汰にならないようにした方が良いと考えた。

 早苗はその足で交番へ向かった。

 交番に着いて中をのぞくと、ちょうどいいことに溝口がいた。早苗が覗いていると、溝口もそれに気づいて嬉しそうに外へ出て来た。

「早苗さんお久しぶり…」

「溝口さん、お願いがあります」

 溝口の挨拶が終わるのも待たずに早苗が用件を切り出した。面喰らった溝口に手招きして、中から見えない所まで移動してから事の次第を説明した。

「じゃあ、学校周りをよく確認して、真人のお母さんがいたら連行すればいいんですか?」

「そうじゃないの。事件にはしてほしくないの。あの人が真人に近づかないようにしてくれればいいの」

「と言うと、具体的にどの程度?」

「だから、警官が学校の周りをウロウロしてたら、近づきずらいでしょ?で、もし見張っているようだったら、声を掛けて帰るように促してくれればいいの。だからあまり大事おおごとにしないで、できれば溝口さんだけにお願いしたいの」

 事情が事情なだけに、早苗の態度は演技抜きの切羽詰まった表情である。当然溝口の心も動かされる。

「それだけでいいんですか?」

 溝口としては、納得のいかない様子だった。

「はい、後はこちらでいろいろ考えますので」

「分かりました。できる限りやってみたいと思います」

「それと、真人にはこの事は内緒にしておいてください」

 そう言ってから、早苗はもう一度頭を下げると交番を後にした。



 早苗が帰宅すると、台所に灯りが点き換気扇が回っていた。そしてカレーの臭いがする。

 不安を抱きながらドアを開けると、志乃がエプロンを付けて台所に立っている。

 真人は部屋の中に座っていた。

「お帰りなさい」

 そう言いながら見せる笑顔は、昔と変わらず早苗の心を癒してくれる。この笑顔を守りたい。早苗の心に改めてそんな思いが込み上げる。

 志乃が、おたまで鍋をかき混ぜながら、もの悲しい目で早苗を見ていた。志乃も状況が分からず不安なのだろう。早苗の胸に申し訳ない思いが込み上げて来た。しかし、ここでは敢えて何も言わずに普通にやり過ごすしかない。

「お志乃、何やってんの?」

「志乃ちゃんが夕飯作るって、張り切っちゃってさ」

 真人が困惑気味に言った。

「なに?今更私におべんちゃらかい?」

 からかうように言いながら見る志乃の後姿は、「何かしてないと、ごまかせないんだよ!」と訴えていた。早苗は涙が溢れそうになった。

「たまにはお姑さんのご機嫌取らないとさ」

 早苗の想いを察してか、志乃はため息交じりにそうこぼした。

 それを聞いた真人と早苗は、吹き出してしまった。


 志乃のカレーはそこそこ美味しかった。

「まあカレーなんて、焦がしたり、ルーの量を間違えたりしなければ大体美味しいもんだからね」

 早苗は嫌味しか言わない。

「大丈夫だよ。問題なく、十分に美味しいからね」

 真人は上機嫌だった。

「早苗さんのカレーとどっちが美味しい?」

 志乃の質問に、真人のスプーンが止まった。

「え?志乃ちゃん、うちを揉めさせるためにこれ作ったの?」

 真人の顔は真剣だった。

 それを見て、志乃も早苗も笑いを堪えていた。

「この手の質問の答えは、今から用意しておいてよね」

 志乃が皮肉っぽく釘を刺した。



「じゃあ、そろそろ送っておいで」

 食事も終わり一息ついた頃、早苗が真人に向かって志乃の送りを指示した。

 それに対して、真人は何も言わずに早苗の顔を見ていた。いつもなら、何も言わなくても二人が勝手に連れ立って出かけるはずであった。中学に入ってからは、真人が一人で送りに行くようになっていたのだ。

 早苗はどうしたのかと思い小首をかしげた。

「どうしたの?さすがに泊めるわけには行かないよ?」

 早苗の冷やかしにも真人は無反応だった。

「どうしたの?まだ何かある?」

「何かって、早苗さんこそまだ話があるんじゃないの?」

 真人の目は真剣だった。隣では志乃が困ったような顔で二人を見比べている。早苗は言葉に詰まった。

「どう見たって二人ともおかしいじゃないか。志乃ちゃんなんか今日ずっと泣きそうだったよ。志乃ちゃんに隠し事なんて無理なんだよ。彼女を苦しめないでよ」

 真人は悲しそうに訴えた。志乃はもう泣きだす寸前の顔である。早苗はどうすることも出来ずにうろたえていた。

「じゃあ、俺から一つ話したいことがある」

 真人が煮えを切らしたように口を開いた。

「今、うちの学校周辺で、時々謎の美女が出没すると言う噂が立っているらしいよ」

 その言葉に早苗の心臓が止まりそうになった。今日二度目である。

「今日の帰りも現れたらしくてさ、その話は職員室でも把握しているらしいよ。生徒はただ面白がっているだけだけど、先生方は不審者の可能性も視野に入れて少し警戒しているみたい」

「え?どういうこと?」

 志乃は、訳が分からないと言う感じでうろたえている。早苗は驚愕の面持ちで凍り付いている。

「志乃ちゃんは悪くないし、俺も責めてないよ。悪いのはみんなこの人なんだから。俺も今日ずっと気になっていたんだけど、追及したら却って困らせるかと思ってどうすることも出来なかったんだ。俺の方こそゴメン」

 早苗は頭の中が真っ白で何も考えられず、弁解も何もできる状態ではなかった。

 真人は、改めて早苗を睨みつけるように見つめながら話を続けた。 

「うちのクラスに小杉って奴がいてさあ、そいつも少し前に見たって言っていた。誰かのお母さんかと思って羨ましいなあって思ったそうだけど、誰にも声を掛けずに帰って行ったそうだよ。で、そいつの話しでは、最近、特に男子生徒の間では話題になっているんだって」

 真人は、早苗の顔に自分の顔をグッと近づけた。

「この話聞いて、早苗さんはどう思う?」

 真人の目が、早苗の目の間近で睨んでいる。

「俺は、その女はあの人じゃないかって思うんだけどさ!」

 真人は決して怒鳴ったり、恫喝している訳ではない。しかし、もう子供ではない、ひとりの男としての威圧感があった。

 早苗も自分の考えの甘さを痛感していた。場所は中学校である。小学校ではないのだ。発情し始めた若い男が、女の色香に対してどれだけ敏感なのか考えていなかった。教師が気づくなら、男子生徒も気づくのは当たり前である。早苗もついに観念した。

「真人もお志乃もゴメン。悪かった。私の考えが間違っていた。真人ともしっかり相談するべきだった。本当に申し訳ない」

 早苗が頭を下げた。

「お志乃も、辛い思いさせて申し訳なかったね?真人の事ばかり考えて、お志乃の気持ちをないがしろにしていた。本当にごめんね」

「いいの、大丈夫。私も真人に心配かけたく無いって言う、早苗さんの気持ちは分かるから」

 志乃は、鼻水をすすりながら答えた。

「志乃ちゃんが許すなら、俺ももう何も言わないけど、一体何があったの?今日」

 真人の言葉から威圧感が消えた。

「川村先生から、その件で電話がありました」

 しょげ返った早苗が、真人に今日の顛末を説明した。

 早苗の話を聞きながら、真人の表情は次第に深刻なものになって行った。


「あの…」

 志乃の震える声が聞こえた。

「ひょっとしたら、私も会っているかも…」

 二人の視線が志乃に向いた。

「いつ?」

「もうだいぶ前。まだ小学校の時。最初は、まだ二年生の時かな?真人が学校に忘れ物をして、一人で取りに戻った時、キレイな女の人が真人のことをじっと見ているのに気が付いたの。で、私は子供好きの不審者だと思って声を掛けたら、可愛い子がいたから見ていただけって言って行っちゃったの。二回目は、真人が風邪で休んだ日。今度は向こうから声を掛けて来たの。今日は一人なの?って。で、私が真人は風邪で休んでて、これからお見舞いなんだって言ったら、それは心配ね、大事にしてあげてねって言って行っちゃったの。その後も何度か見かけたけど、話しかけられることはなかったかな?私はきっと真人のフアンなんだろうって思ったんだけど、あれがお母さんだったのかな?」

 二人は沈黙した。

「そうかもしれないね?」

 真人が重苦しく言った。

「そんな深刻な状況だったんだ。全然気が付かなった。じゃあ、俺は志乃ちゃんに守られていたかもしれないんだね?」

 真人は熱い眼差しで志乃を見た。志乃ははにかんだ表情を見せた。

「まあ、その可能性があると言うだけのことだけど、取り敢えず明日の朝からお志乃が迎えに来ることにしたから」

「え?そうなの?志乃ちゃん大変じゃない?」

 真人は心配そうに志乃を見た。

「ううん、私は大丈夫。むしろ、ちょっと嬉しいくらい」

 志乃は照れ笑いをした。

「だって、私が送って行くわけにもいかないだろう?まあ、私は構わないけどさ」

 早苗が意地悪そうに微笑んだ。

「お志乃には申し訳ないけど、しばらく真人は一人で外にいないようにしたいと思うの。だから、帰りも二人一緒に帰ってきて欲しいんだけど大丈夫かな?」

 志乃と真人が顔を見合わせた。

「それは大丈夫だよね?小学校の時と同じ感じで志乃ちゃんの家を経由してくれば…ね?」

 真人の目配せに志乃はうなずいた。

「それはいいけどさ」

 真人が早苗の方に向き直った。

「このままの状態をずっと続けていくの?」

 もっともな質問である。どこかで何とかしなければと言うことは早苗も分かっていた。

「もちろん、それについてはこれから考えます。何らかの形で決着を付けないといけないと思うから」

 早苗の表情が僅かに変わった。真人があまり見たことのない表情だった。

「じゃあ、そう言うことでさっさと送っといで!」

 早苗が二人を見ながら、玄関を指さした。

「でも…」

 志乃が遠慮がちに声を上げた。

「帰りは真人一人になるけど?」

 三人は顔を見合わせた。



 涼しい夜道を、志乃は早苗と一緒に歩いていた。志乃と早苗が二人だけで歩くのは初めてかもしれない。何となく新鮮な感じがした。

「これから毎日早苗さんと二人で歩くんだね?」

 志乃が不思議そうに言った。

「まあ、当面の間だと思ってよ。すぐ何とかするから」

「別に嫌なんじゃないよ。ちょっと不思議な感じがするだけ。小さいときは、何となく早苗さんに反発してたけど、最近はそんなことないから、何か親近感を感じるんだよね」

 それを聞いて、早苗は顔をしかめた。

「私も、お志乃のことは、生意気な小娘としか思えなかったけど、今じゃ真人のそばにいてくれて感謝しているよ」

「やっぱりそんなふうに思ってたんだ」

 志乃が笑った。

「それからね…」

 早苗が少し神妙な感じになった。

「私は恋愛に関してはあまり経験がないから、何とも言えないんだけどさ…」

 志乃は何の話かと思い、それとなく早苗の顔を見た。早苗は前を向いたまま話している。

「真人と手以外の所を繋ぐのは、少し慎重にやってね」

 志乃は思わず叫び出しそうになった。

「いや、それはあくまでも冗談だから、本気にしないでよ」

 志乃の方を見た早苗の顔は、笑ってはいなかった。

「違うの、これは真面目な話。別に今のことを言っているんじゃなくて、これから先のこと。人は大人になると男女の付き合い方がより深いものとなるのは正常なことなの。でも、真人は体はそう言うふうに成長しても、心がそれについて行けない可能性があるの。あくまでも可能性であって、その時になって見ないと分からないんだけどね」

 志乃は口を尖らせてうつ向いていた。

「お志乃だって、自分の裸見られて真人にゲロ吐かれたらショックでしょ?」

 志乃は、声にならない悲鳴を上げて顔を引きつらせた。

「だから、お互いのために慎重に判断してね」

 早苗の表情はどこまでも真面目だった。




            *


 次の休日、早苗は珍しく外出した。行き先は、二度と行く気のなかった早苗が生まれ育った地域だ。

 早苗は気が付いたのだ。笹本の両親、即ち真人の祖父母は今もあの頃の家に住んでいるのではないかと。それで一度確認して見ようと思い、来て見たのだ。

 もう二度とこの地域に立ち入ることは無いと思っていたのだが、背に腹は代えられず、こうしてやって来てしまった。いやな思い出しかないこの地域ではあるが、あの当時とはかなり変わってしまい、全く別の町のような気持ちになれた。

 早苗はまず、恨み深い中学校にやって来た。

 早苗は笹本の家に行ったことは二度程あった。最初は学校の帰りに笹本に連れて行ってもらった。二回目は休みの日だったので、学校で待ち合わせてからである。その時に笹本の両親に会い、挨拶もした。向こうは覚えていないと思うが、幸せで有頂天になっていた早苗はその時のことはよく覚えていた、と言うよりは思い出した。楽しかった思い出も、今となっては辛いと言うよりは、虚しい思い出といった感じであった。

 早苗は、曖昧な記憶であったが、ここから辿って行けば笹本の実家にたどり着けるのではないかと考えたのだ。

 忘れていた校舎の姿は、実際に見てみるとあの時のままであることが分かった。変わらぬ姿のその校舎を見ると、辛い記憶が蘇るものかと思っていたが、不思議となにも感じるものは無かった。気持ちが整理されたものなのか、それともそんなことよりももっと重要な現実が、目の前にあるせいなのかは分からない。

 校門の前に立ち、僅かな当時の記憶を頼りに歩みを進めていく。十余年の歳月を経て、町並みは結構変わっていた。記憶のずれもある。想像以上に難しい挑戦であった。

 幾度も同じ道を行ったり来たりしているうちに、見覚えのある看板が目についた。「菊屋」と言うラーメン屋である。

 古びたその店の成りは、今はもう営業していないのかもしれないが、そこは当時、笹本の行きつけのラーメン屋だと言っていたのを思い出したのだ。そしてそこは「家から徒歩一分だ」とも。

 そうだ、この店の角を曲がって、その並びのずっと奥の角の手前から三軒目…。

 無かった。

 その付近には、まだそれ程古くないアパートが建っていた。

 それを確認すると、早苗はその足で調べてあった興信所へ向かった。もちろん、笹本の両親と香奈恵の住所を調べてもらうためだ。




            *


 ある休日のこと、真人は早苗からの電話を受けていた。場所は大川宅。

 その日はいつものように午前中から志乃の家に遊びに来ていたのである。平日は真人の家に志乃が入り浸る代わりに、休みの日は真人が志乃の家にいることが多かった。もちろん二人っきりでデートのようなものを楽しむことはあるが、それも元手のいることなので、資金のない中学生としては、どちらかの家庭に留まるしかないのが現実であった。

 真人は、早苗からの電話を切るとつい苦笑いをしてしまった。それを見た志乃が、真人に声を掛けた。

「早苗さん、何だって?」

 真人は台所で志乃の母、真由美の手伝いをしていたところだ。真由美が昼の支度をすると言うので、その手伝いである。

「うん、今晩溝口さんが来るから早めに帰って来いって」

 三人の顔に笑みがこぼれた。

「早苗さんも強情だよな。二人っきりで逢って上げりゃいいのにさ。溝口さんもかわいそうだよ」

 真人が愚痴っぽくこぼした。

「じゃあ、帰らなけりゃいいじゃん?」

 志乃は、他人事だと思って勝手なことを言う。

「そんなことしたら、おそらく溝口さん部屋に入れてもらえないよ」

「ああ、それはあり得るね」

「早苗さんも『溝口さんが来るから、ゆっくり帰って来てー』とか可愛いこと言ってくれれば、俺も帰らないでここに泊めてもらうのに」

「それは、きっとうちの旦那が許さないわ」

 真由美が笑いながら、透かさず突っ込んだ。大川は今日、ゴルフとかで外出している所だった。大川が家にいるときは、真人ものんびりしていられないことが多い。小学生の頃から、釣りだ、キャッチボールだと連れ回されることが多く、志乃がいつも文句を言っていたものだった。

「おばさん、この野菜は適当に切っていいの?」

 真人が、洗った野菜を手に聞いてきた。

「ああ、うん、そう、食べやすい厚さでいいから」

 真由美がそう言う前に、真人はピーラーでニンジンをむき始めた。真人にとってはいつもの事なので、もう遠慮は無くなっていた。

「真人君ごめんね、志乃がこういうこと全然やらなくて」

「いいんですよ。いつもごちそうになって、迷惑かけているんですから」

 真由美は、若い男(男の子?)が隣にいるので何となく浮かれていた。普通なら、息子の彼女と台所に立つというシチュエーションが一般的だから、息子のいない自分には経験できないことだろうと思っていたのだが、思いの外、娘の彼氏が隣にいると言う予想外の状況になり、この時間が楽しみなのであった。

「ナポリタンって言うのはパスタの大発明だと思うんだよね」

 真由美が嬉しそうに言った。

「麺さえあれば、大体冷蔵庫の中のものとケチャップで何とかなっちゃうんだよね。あ、ごめんね。手、抜いてるのばれちゃったね」

 真由美がおどけて笑った。

「いえ、こちらはごちそうになっている身分ですから、お気になさらず」

「そう言えば、真人君は何でも食べるんだったっけ?」

 真由美は、真人が初めてこのうちに来た日のことを思い出していた。

「何のこと?」

 キッチンを覗いていた志乃が、興味深げに聞いて来た。

「ほら、真人君が初めて来た日」

「え?あの五年前の?」

「そうそう、あの時お昼に作ったのが、なぜか煮込みうどんになっちゃったんだよね。夏だったのに」

 真由美が照れくさそうに笑った。

「『なっちゃった』って、自分で作ったんでしょ?」

 志乃が有り得ないと言った顔をした。

「うん、そうなんだけどさ、何となくそうなっちゃって、一応真人君に確認したら、『僕は何でも食べます』って言うからちょっと驚いちゃって、すごく印象に残っているんだよね」

「俺、あの日叔母さんが作ってくれたうどんのこと、今でも時々思い出すんです」

 真人の突然の言葉に、真由美は思わず手が止まった。

「それまで、うどんと言えばカップ麵ばかりだったんです。だから、うどんってこんなに太くて柔らかくて、おいしいものだったんだって、なんか目から鱗って言うんですか?そんな感じになったんです。ここには自分の知らない世界があるんだって。すごい希望が持てて、もう、あそこには絶対帰りたくないって思えたんです」

 パスタを茹でる鍋が噴きこぼれた。真由美は思わず真人の顔に見入ってしまっていたのだ。あわてて火を弱めてから真人の方を見ると、真人は黙々とニンジンを切っていた。

「あそこって、お母さんのところ?」

 真由美が何気ない声で尋ねたが、真人は答えずに手を動かしていた。その顔には、言い過ぎたことに対する後悔のようなものが現れているように、真由美には見えた。

―あそこには帰りたくない―

 それは、母親に捨てられて良かったと言うことなのだろうか。

「真人君…」

「俺もいつまでも早苗さんのそばにいられるとは限らないんですよね…」

 真人は、真由美の言葉を遮るように話し始めた。

「俺も、将来の進路によっては早苗さんと離れることになる場合もあると思うんですよね。もちろん、俺自身は早苗さんの老後まで見るつもりではいるけど、俺の人生でも俺一人で決められないこともあると思うので」

 真人の口調は神妙なものだった。

「だから、出来れば早苗さんのことは、溝口さんにお願いできれば気が楽なんですけど」

 すると、二人の背後から声がした。

「何?私なら早苗さんと一緒でも全然かまわないよ?っていうか、むしろ当然そうなるものと思ってるし」

 二人がふりむくと、台所の入口に不思議そうな顔で志乃が立っていた。

 真人と真由美は顔を見合わせて笑った。

「志乃ちゃん、ありがとう。でも、おじさんがいなくて良かった」

「えー!真人君、そんなこと気にするんだ?」

 真由美が驚いたように言った。

「もちろん配慮してますよ」

 真人が笑って答えた。

 真由美には、真人が不自然なくらい強引に話題を変えたのがありありと分かった。真人にとって、母親といた頃のことは禁句なのだろう。どういう環境だったのかも気になるが、知ってどうなることでもないことも分かっていた。平凡な自分の人生の中で、こんな身近に複雑な境遇にある人々がいることも不思議な気がした。そう、真由美にとっては真人のことも早苗のことも、あくまでも他人事ひとごとなのである。


「そう言えば、お昼が麺類のことって結構多いよね。なんで?」

 志乃が思いついたように真由美に聞いた。

「さあ?気のせいだよ、気のせい」

 真由美は相手にしなかった。




            *


「早苗さん」

 夜、ベッドに入った真人が、改まった口調で早苗を呼んだ。小学五年くらいの頃から、ベッドは真人に譲り渡し、早苗は居間に布団を敷いて寝るようになった。かつて早苗の寝室だった六畳間は、それからは真人の勉強部屋となり、早苗は居間のテレビで映画などを見ながら寝るというスタイルになっていた。

「うん?どうしたの?」

 いつもと違った雰囲気に、居間の布団にくるまった早苗が頭をもたげた。

「うん、あのさあ」

 何となく、言いづらそうな感じが見て取れる。まさか、香奈恵の件かと思いドキリとした。

「俺の父親のことなんだけど」

 そっちか!と、違う意味でドキリとした。

「みんな知っているみたいなんだけど、なんか触れないように気を使っている感じがしてさ。なんか、まずい人なのかな?」

 早苗の胸に、「ついに来たか」と言う観念の思いが湧いた。

「みんなって、お志乃の家の人?」

「それと、溝口さんも」

「そう?そんな感じがする?」

「うん」

 早苗は、暫し考えた。

「やっぱり感じるか。そりゃそうだよね」

「やっぱり、何か問題あるの?」

「恥ずかしい過去だよ」

「どんな?」

「知りたい?」

「うん」

「やっぱりそうだよね」

「うん」

「…」

「言いづらい?」

「…」

「…」

 早苗は少し黙ったのち、ゆっくりと寝床から起き上がって真人の横に座った。

「ごめん。私の口からは恥ずかしくて言えない」

 真人は落胆したような表情を見せた。早苗は続けた。

「ちょっと、お志乃の家の電話番号、分かる?」

「え?分かるけど」

「ちょっと、電話してよ。私が話すから」

「今?」

「うん、今」

 真人は、時間を気にしながらもスマホを取り出し発信した。早苗はそれを受け取ると、自分の耳に当てた。

 しばらく経ってから、女性の声が聞こえた。真由美である。

「夜分恐れ入ります。木戸早苗です。真人がいつもお世話になっています」

 真由美は、かなり驚いている様子だった。それは当然だろう。早苗から直接電話があるなどと言うことは、想像すらしていなかったであろうから。

「こんな時間に大変恐縮なのですが、大川さんにお願いしたいことがございまして、今、大川さんのご都合はよろしいでしょうか?」

 早苗の問いかけに、真由美が不安そうとも、怪訝そうともとれる声で返事をすると、少しの沈黙の後、大川の声が聞こえた。

「ご無沙汰しています。木戸です。夜遅く申し訳ありません。いつも真人がお世話になっています」

 早苗はしばらく電話のやり取りをした後、スマホを切ると真人に返した。

「と言うことで、明日、お志乃のお父さんに聞かせてもらってね」

 そう言う早苗の顔は、なにか切なげであった。

「一応、大川さんには知っていること全部、包み隠さず話してほしいと言って置いたから、ちょっと長くなるかもしれないからね。覚悟しといて」

 真人は心配そうに早苗を見た。

「大丈夫、心配しなさんな、難しい話じゃない。中学生の頃の恥ずかしい話だから、あんたももう分かる歳だと思うから」

「いや、俺のことじゃなくて、早苗さんがどうなのかと思って」

 早苗は、少し驚いた顔をしたが、すぐに小馬鹿にした笑顔に変わった。

「なに生意気言ってるの?まあ、どっちみちあんたには、どのタイミングで話そうか迷っていたところだったから、ちょうど良かったのさ」

 そう言って早苗は立ち上がり、真人に背を向けると居間の方へ向かって歩き出した。

「もう寝なさい」

 背中越しに、早苗が言った。




 翌朝、いつものように志乃が、けたたましくやって来た。

「全く、あの娘は無駄に元気良いね」

 早苗はあきらめ顔でつぶやいた。

「黙ってりゃソコソコ可愛いのに、全く残念な娘だわ」

 真人がドアを開けると、志乃は真人に掴みかかる勢いで迫った。

「ねえ、お父さんが真人を連れて来いって言ってたけど、どうしたの?昨日の電話は何だったの?ねえねえ、真人?」

「分かった、分かった。とにかく外に出て。歩きながら話すから」

 子犬のようにまとわりつく志乃を、真人が適当にあしらいながら外に連れ出した。いつも見る光景だが、よく真人はうんざりせず付き合っていられるものだと、早苗はつくづく感心していた。

 我慢強いのか、心が広いのか、それともああいうのが好みなのか。そんなことを考えながら、思わずにやける早苗だった。そして、そんな自分を鼻で笑いながら、心の隅で、今日、真人がどんな顔で帰ってくるものかと考えたりもしていた。

 実は昨晩、早苗はあることに気づいていた。なぜ最近、真人との間に距離を感じるのか。それは、真人が笹本に似て来たからだった。夕べのやり取りの中で笹本を思い出した状態で真人を見ると、笹本の面影をそこに見ることが出来たのであった。そう気が付いた後、早苗の胸に理由の分からない、言い知れぬ不安が込み上げてきたのだった。



 そんな思いに打ちのめされて、ひとり居間のテーブルに突っ伏していると、ガチャリと玄関のかぎの開く音が聞こえた。真人が忘れ物をして帰ってきたのかと玄関に目をやると、開いたドアから溝口が顔を出した。

「え?」

 早苗は一瞬、何が起きたか理解できなかった。突っ伏したまま、目を丸くしてじっと見ていると、溝口が泣きそうな顔になった。

「早苗さん、大丈夫ですか?」

「あんた、何やってんの?」

「早苗さんが心配で来たんですよ」

 確かに溝口は、心配そうな顔をしていた。

「そうじゃなくて、なんでカギを持っているのかってこと」

「あ、これ?これはさっきここに来る途中で真人くんに会って、その時早苗さんが落ち込んでいるから慰めてあげて、と言われて渡されたの」

「なんで?」

「うん、俺も聞いたんだけど、真人くんが言うには、早苗さんが落ち込んでいるので、呼んでも出てこないかもしれないから、これで開けて入ってくださいって、頼むように渡されたの」

 早苗はあきれ顔になった。

「あんた、それでなんで呼び出しもせず、いきなりカギを開けるのさ?」

「あ…」

「もし、私が着替え中だったら、私は迷わず110番していたけどね」

「あ!」

 溝口の顔が引きつった。

「あんた、職を失う所だったね」

「はい、そうでした」

 溝口は、しょげ返った。

「まあいいわ。上がって」

「え?」

「どうしたの?慰めに来てくれたんじゃないの?」

 早苗はからかうように言った。

 溝口は、早苗の顔色を見るように、恐る恐る居間に上がった。居間には早苗の布団が敷きっぱなしで、しかも半分めくれ上がっていて、あたかも今起きたばかりのような状態だ。早苗を見ても、ノーメイクで髪もボサついているし、着衣も明らかにパジャマ兼用のTシャツとスェットパンツだ。こちらも起き抜けと言った感じである。溝口の目には、あまりにも艶めかしく見えた。

「まったく、本当に真人は気が利くわ。今、本当に落ち込んでいて、困っていたところなの」

 うろたえる溝口をよそに、早苗は力ない声で言った。その様子に溝口も只ならぬものを感じ、膝をついて四つん這いの状態で早苗の近くににじり寄った。

「真人に聞いた?」

 相変わらずテーブルに突っ伏したまま、早苗が問いかけた。溝口は少し緊張した。

「真人の用事のこと?」

 神妙な面持ちで聞き返した。

「そう。夕べ、あの子が父親のことを知りたいって言うから、お志乃のお父さんにお願いして、話してもらうことにしたの」

「大丈夫なんですか?」

「何?真人のこと?」

 フッと早苗は冷ややかに笑った。

「あの子は大丈夫よ。そんなヤワな子じゃない。それに、知らなきゃならない事でしょう?自分の父親のことなんだから。ただ、今まで知らせる時期が分からなかっただけのこと。そして今、あの子が知りたいと思った。だから、今知らせるべきだと思ったの。本来なら私が話してあげるべきなんだろうけど、自分のことだからちょっと照れくさくてね、お志乃のお父さんにお願いしちゃった」

「真人くん、分かりますかねえ?」

 溝口は、心配な様子だ。

「何言ってるの?もう中学生だよ?実感できなくても、理解はできるさ。だって、私たちもまだ中学生だったんだから」

「まあ、早苗さんがそう言うなら大丈夫なんでしょう」

「うん、心配ない」

「それじゃあ、なんで落ち込んでいるんです?早苗さん」

「真人のことじゃないよ。あの子には何の問題もない。自分のことで落ち込んでいるの」

「早苗さんのことで?」

「そう。苦しいの。辛いの」

「何がです?」

 早苗は急に黙り込んだ。何かを考えているのか、気持ちを整理しているのか、じっと宙の一点を見つめていた。

 溝口がじっと待っていると、早苗は急に突っ伏したまま顔の向きを逆にして溝口から顔を背けるようにした。

「あのね」

 早苗は意を決したかのように話し始めた。

「最近、真人が大人っぽくなったでしょう?」

「そうだね、中学になったら急にね…」

 溝口は、話を合わせるように答えた。

「背も高くなって、体格もしっかりして来て、声変わりもして、大人になったなあって感じると同時に、私、なぜか急に距離を感じるようになったの」

「距離?」

「うん。距離って言うか、なにか近寄りがたいって言うか、うまく言えないんだけど。もちろん、あの子のことは変わらず好きだし、大切に思う。でも、それなのに何か拒否と言うか、反発と言うか、そんなものを感じるようになったの」

「…」

「それで、夕べあの子の父親のことを話題にしたとき気が付いたの。あの子、笹本君に似てきたんだって…」

 溝口は、緊張した面持ちで黙っていた。

「あなたもそう思うでしょう?溝口君?」

 早苗は、向こうを向いたまま訊ねた。溝口は、何と答えて良いか分からず絶句していた。

「今までありがとうね。でも、私分かっているから、隠さなくていいよ。中学の時、笹本君や大川君と仲の良かった溝口君でしょ?」

「そっかあ。いつから分かっていたんですか?」

 溝口は、少しほっとしたように答えた。

「最初の頃からよ。溝口って名前聞いたとき、すぐに思い出したわよ。その前に、大川君とか森本さんとか会っていたから」

「なんだ、そうだったんですか」

「そう、だからもう敬語は使わなくてもいいよ」

「うん分かった」

「で、溝口君もそう思うでしょう?真人が笹本君に似て来たって」

「うん、それは俺も気づいていた」

「そのせいなんだよね。真人と彼を重ねていたんだと思う」

「それは、真人に憎しみを感じると言うこと?」

「そうじゃないの」

 早苗は、はっきりと否定した。

「溝口君、あの時私に行ってくれたでしょう?笹本君が本当に好きなのは私だって」

 溝口は、中学生の頃のあれのことだと感じた。

「もちろん覚えているさ。あれは俺の一世一代の言葉だったんだからな」

 それは中学のあの時のことだ。笹本が、早苗から姉の香奈恵に乗り換えた後、クラスで早苗が孤立してしばらくしたころのこと。

 溝口は、放課後帰り道で早苗を呼び止めて言った。

「笹本はそんな悪い奴じゃない。あいつが本当に好きなのは、木戸早苗だ。こうなったのは、きっと何か事情があるはずだ。笹本に直接聞いてやってくれ。そして、もう一度やり直そうと言ってやってくれ。きっとあいつもそれを待っているはずだ」

 と言うような内容のことを。しかしその時、早苗はそれを無視したのだった。

「ごめんね。私は、その精一杯の言葉を無視したの。今になって、あなたが言ったことが正しかったと分かったの」

 早苗の声は震えていた。

「あなたの言う通り、あの時は私から笹本君のところへ行かなければならなかったんだね。笹本君は私の許しを待っていたんだよね。私が本当に彼を愛していたならば、私から彼に詰め寄って彼の真意を問い質していた筈だよね」

 早苗の顔は見えないが、声は明らかに泣いていた。

「なのに私は意地を張って、謝るのは彼の方だと決めつけて、彼の方から頭を下げて来るのを待っていたんだよ。私が負った傷を、私が受けた痛みを癒しなさいって、彼を無言で攻め続けていたんだよ。私が彼を追い詰めて、私が彼の行き場を奪っていたのよ!私が一番悪かったのよ!ただ自分だけが被害者みたいな顔をして、勝手に逆恨みしていたんだよ!」

「早苗さん!もうやめろ!もういい!もうわかった!」

 溝口は興奮する早苗に近寄ると、早苗の肩に触れた。早苗が暴れ出すかと思ったのだ。それに対して、早苗はびくりと反応するとその手を避けるように体を起こした。

 早苗は溝口と目が合うのを避けるかのように正面を向いたままだったが、その目は赤く泣き腫らしていた。呼吸も震えている。

「もういいんだよ。分かっているから。早苗さんの辛い気持ちも、みんな」

 溝口は、噛み締めるように言った。

「でも、私も怖かったの。こんな私が笹本君に好かれているなんてやっぱり勘違いだったんじゃないかって。お姉ちゃんの方が目的だったのは本当だったんじゃないかって。みんながそう思っていたように、私もそう思えちゃったんだよ」

「そんなことないよ!」

 早苗の言葉を遮るように、溝口が叫んだ。

「早苗さんは、男からも好かれていたんだよ」

 その声に驚いたかの様に、早苗の動きが止まった。

「そうなんだ。早苗さんを好きな男はいたんだよ。他にも」

 溝口は声のトーンを下げ、愚痴るように言った。

「俺も、その一人だったんだよ」

 早苗は顔を上げ、溝口と顔を合わせぬようにじっとしていた。

「あの時俺は、早苗さんに笹本の事は忘れて、俺と付き合わないかって言おうと思っていたんだ。でも結局そこまで言う勇気が無くて、せめて笹本とやり直してくれたならって思って、ああ言うことを言ったんだ。でも」

 溝口は大きくため息を一つ吐いた。

「結局、俺は何も出来なかったんだ。笹本も、木戸も、クラスのみんなもおかしくなっているのに何もできなかった。その時のクラスのことは全部諦めて、高校でのやり直しに期待して、時の過ぎるのをただ待っていたんだよ。それで、そんな弱い自分が嫌で、誰かを守れる自分になりたいって思って、警察官になったんだ」

 早苗はゆっくりと振り返り、溝口と目を合わせた。

「偉いね、溝口君。おかげで私たち、十分守られました。感謝しています」

 早苗の顔が、はにかんだ笑顔になり赤く染まった。それを見た溝口は、途端に恥ずかしくなり急いで話題を変えた。

「いや、あの時、真人くんを連れた早苗さんが、交番に訪ねて来た時はビックリしました。で、ものすごく運命を感じて、この二人の力になりたいと思って、何とか二人が離れなくて済むように、無理やり市役所の大川に繋げたんだ」

「それであんなに不親切だったんだ」

 早苗は笑った。

「あ、やっぱり気分悪かった?」

「うん、マジでムカついた」

「悪かったね」

「ううん。でも、おかげで真人を手放さずに済んだから、今では感謝している」

「よかった」

 二人は向かい合って照れ笑いをした。

「因みに、あの前から私のこと知っていたの?」

 早苗は、何となく気まずくなって話しを変えた。

「いや、実は俺、あの少し前に移動になって来たばかりだったから、あの時まで知らなかったんだけどね。ただこの家は長く住んでるし、昔、電話番号を聞きに来たことがあったんだって?交番に」

「うん、ここに引っ越して来たばかりの時に」

「その時から、この前の通りは巡回のコースになっているらしいんだ」

「え?そうだったの?」

「うん、因みにだけど、早苗さんはうちの交番では有名人だから」

「え?どういうこと?」

 早苗の戸惑いに、溝口が薄笑いを浮かべた。

「そりゃあ、交番に電話番号を直接聞きに来る人自体レアだしね。その時受け付けた人が、十代のいたいけな少女が、一人暮らしが不安で交番に助けを求めに来た、と言うことでいたく感動したらしくて、今でもしっかり申し送りされているんだ。それに早苗さん、外で警官に出会ったら、道でもコンビニでもどこでも挨拶するでしょう?あれ、ものすごいアピールになっていて、会話したことが無くても、顔と名前が一致するという珍しい住民だったんだよ」

 早苗の顔が、真っ赤になった。

「だからさあ、昔、真人くんを連れて飛び込んできたときに、俺と一緒にいた人、あの人なんか、早苗さんが帰った後、『どこがいたいけなんだか』って笑ってましたよ」

「それ、マジ?」

 早苗はショックを受けた。

「マジですよ」

「いや、その話は聞きたくなかった。もう、あの前は通れない」

 早苗は、落胆していた。

「大丈夫ですよ。俺が、十年前はいたいけだったんですよってフォローして置きましたから」

 早苗は、きっとこいつはしっかりフォローしたと思っているんだろうな、と思うと微笑ましかった。

「で?何?今日は手ぶらで来たの?」

 早苗は、笑いを堪えながら話を変えた。

「あ、そうそう、ちゃんと持ってきました。早苗さんが腐っていたから忘れてました」

 溝口は、玄関に置いてあったレジ袋を取りに行き、早苗の前に置いた。出て来たのはビールとつまみだった。

「私、酒止めたの知っているよね?」

 早苗はキツイ眼差しで溝口に抗議した。

「いいじゃないですか。今日は酒の力を借りましょうよ」

 そう言いながら溝口は、ビールの缶を開け早苗に差し出した。

「私を酔わせて、どうしようって言うのかな?」

「別に変な意味じゃないですよ。気分を晴らそうってことですよ」

 早苗は苦笑いをして、ビールに口をつけた。

「私は飲んだら攻撃的になるからね」

 その言葉に、溝口は一瞬言葉を詰まらせた。

「分かりました。今日は、俺が的になって全部受け止めます」

「ありがとう。頼むよ」

 そう言ってから早苗は、雰囲気を変えてしんみりとして続けた。

「…て言っても、私そこまで飲んだことはないんだよね。あんまり付き合い無いから、お酒を飲むきっかけがなくてさ。二十歳を過ぎてから、職場の宴会なんかの付き合いで口にするようになったんだけど、うっかり本性が出そうになったことがあってから、そういう場では控えるようにしてきたんだよね。ただ、飲んだ後は寝つきが良かったりしたこともあって、自宅で時々寝酒として飲むくらいだったね」

「早苗さん、やっぱり本性隠していたんですか?」

「当たり前でしょ?何しろ、私の生活信条は『無難』なんだから」

「なんですかそれ?」

「何事も当たり触りなく、無難にって言うこと」

「へえ、なるほどねえ」

「でもあんた、休みだからって朝から酒飲んだりして、警察官として気が咎めないの?」

 ビーフジャーキーを片手に、ビールを煽る溝口に向かって、早苗はあきれ顔で言った。

「警官だって酒は飲みます」

 溝口は嬉しそうだ。早苗と差し向かいで飲めてご満悦なのである。

「いや、でも、緊急の呼び出しとか無いの?」

「会っても、こっちが優先です」

「いや、なんか警官として最低の発言だね」

 そう言う早苗も笑顔だった。

「なに言ってんですか?さっき言ったじゃないですか?俺が警官になったのは、早苗さんを守れ無かったのが悔しかったからなんだって。だからさあ、ここに配属になって、早苗さんがいることを知って、しかも職場全体が早苗さんを護る雰囲気になっているって知って、これは俺の運命だって、使命なんだって感じた訳よ」

 早苗はそれを聞きながら、目を閉じてじっと考えていた。

「私もね、そうなんだよ。真人を守るために引き取ることにしたんだよ。あの時、大川君から笹本君のことを聞いてね、最後までお姉ちゃんに弄ばれた笹本君のことを知って、私は、笹本君のことは護ってあげられなかったから、せめて真人のことは護ってあげようって決めたの」

 そう言って早苗は、缶のビールを飲み干した。

「だから、絶対にあの女には真人を渡さない!」

「そうだよ、絶対に諦めちゃダメだからね」

「分かってる。だから溝口君。真人のことお願いね、真人の力になって上げてね」

 早苗は溝口を真正面から見据えて言った。溝口は突然の真剣な早苗の要請に気圧されつつも、嬉しそうに答えた。

「もちろんだよ。心配するなって」

 勝手に気をよくした溝口は、自然と盛り上がり、職場の愚痴や、武勇伝などを語り始めた。

―長くなるな…―

 早苗は覚悟を決めた。




 二人の酔いが回り、溝口の武勇伝が底をついた頃、遠くから女性の甲高い声が聞こえて来た。

「あれ?お志乃かな?」

 その声は、次第に近づいてくる。

「まったく、あの娘にはGPSとか必要ないね。どこにいてもすぐ分かるわ」

 そういう早苗の顔は嬉しそうだった。

 志乃の声が玄関の前まで来ると、すぐにドアが開いた。鍵はかかっていなかったのだ。

 最初に顔を出したのは真人だった。真人は中を見るなり苦笑いをした。続いて志乃の顔が現れた。そして中の様子を見ると、今まで忙しく動いていた口が開いたままとなり、言葉が止まった。

「志乃ちゃんを黙らせるとは、二人とも大したもんだわ」

 真人が嬉しそうに言った。

「珍しいね、早苗さんがお酒を飲むなんて」

「ははは、溝口君が私を酔わせて、なんかしようとしてるの」

「だから、そんな下心は無いですってば!」

「ええ?じゃあ、もうちょっとゆっくり帰ってくれば良かったかな?」

 真人は愉快そうだった。

「まあ、確かにちょっといい雰囲気になってたかな?」

 溝口は、かなり出来上がっていた。

「真人がもっと気を利かせて、ゆっくり帰ってくればよかったんだよ」

 三人がふざけていると、志乃が甲高い声で一喝した。

「ちょっと!酔っぱらいの戯言はやめなさい!そんな場合じゃないでしょう!真人も、話合わせなくてもいいから!そこの酔っぱらい二人も、もっと真面目に真人の気持ちとか聞いてあげてよ!」

 酔っぱらい二人は、お互いを見合って苦笑いをした。それから早苗は、志乃をいたずらっぽい目で見た。

「ごめんね志乃ちゃん、ちょっと昔の事を思い出して、感傷的になってたのよ」

「何が志乃ちゃんよ。どう見ても感傷的って言う雰囲気じゃなかったんだけど」

 志乃は不満そうだ。早苗は真人の方へ視線を移した。

「なんか、言いたいことある?真人」

 早苗と真人の目が合った。真人から笑顔が消えた。

「そうだね。正直、自分があんな女の子供なんだと思うと、情けないね。あいつ、俺だけじゃなくて、周りの人みんな不幸にしているじゃないか。なんか早苗さんにも、みんなにも申し訳なくて」

 その言葉を聞いて、早苗は悲しい顔でしばらく考えていた。

「真人、ちょっとこっちおいでよ」

 早苗は、自分の隣を指した。真人が言われるままにそこに座ると、早苗はテーブルに肘をついたまま、体を真人に向けて顔を真人に寄せた。

「真人?」

 早苗がまっすぐに真人の目を見つめながら問いかけた。

「何?」

「確かにあんたは親に恵まれなかったね。母親は死神のような女で、父親は死神に取りつかれた哀れな男。でもね、母親はとんでもない奴だったけど、父親はとてもいい人だったんだ。あんたは、残念ながら会うことが出来なかったから、分からないだろうけど、私は実際に会っているから良く知っている。誰にも好かれて、飾らなくて、思いやりがあって、格好良くて、素敵な人だったよ」

 早苗は、片手で真人の頬を軽く触れた。

「あなたは、そんなお父さんにとってもよく似ている。母親似じゃない。父親似だよ。だから自信を持ちなさい」

 真人は、じっと聞いていた。

「あなたのお父さんは、不幸な人生だったかもしれないけど、立派な、素敵な人だった。優しくて、賢くて、真面目で、誠実で…。もう一度言うよ?。あなたはそれを知らないけど、私は良く知っているの。そして、あなたはその人によーく似ているの。それを信じて誇りなさい。私がそれを認めるから。あなたは、笹本啓太の子供なの。彼を知っている人はみんな彼を良く言うわ」

 早苗は、もう片方の手で真人の肩をつかみ、真人の目を覗き込んだ。

「私は、あなたのお父さんを信じてあげることが出来なかった。それは、私の罪です。そして、あなたの母親は、私から大切な人を奪った。それによって、私は傷つきました。でも、それによって今、あなたはここに居る。あなたを産んでくれたから、私はあの人を許し、私に対して行った許しがたい行為を不問にすることが出来ます。私の受けた痛みがあなたをこの世に迎えるためのものだったと思うと、却って嬉しく思えます。そして、あの女があなたとあなたの父親を苦しめた結果、私はあなたを得ることが出来ました。だから、あなたには申し訳ないけれど、これまでのことはすべて目をつぶります。でも、これから先もあなたを苦しめるならば、私は絶対に許さない。だから私は徹底的に戦う。あなたのお父さんの無念を晴らすために。私とあの人の大切な、あなたに幸せな未来が来るように」

「早苗さん?」

 真人は真剣な顔だった。早苗は、何か目を覚まされたような感覚になり、今、何があったのか整理するのに少しの時間を要した。

「…」

「早苗さん、お酒臭い」

―ああ、ついしゃべり過ぎたんだな―

 早苗はそう気が付いた。

「そう?かなり飲んだからねえ。久しぶりに飲んだから、かなり効いてるみたい……今日はもう寝るね」

 早苗はにやけ顔でそう言うと、這うようにして布団に向かい、

「私、先に寝ます。みんなも今日は遅いから泊まっていきなさい。じゃ、おやすみなさい」

 そう言い残すと、布団に潜り込んだ。

「まだお昼じゃないの!」

 志乃が叫んだ。

「何なのよ、この人!あんないい話をした直後になんでこうなるの?真人も何なのよ?何がお酒臭いなの?真人?」

 真人は、志乃の言葉を無視するように身を翻し、早苗が潜り込んだ寝床の方へ体を寄せると、早苗の枕元に両手をついて、布団に潜り込んだ早苗の顔を覗き込むようにして声を荒げた。

「早苗さん!あの女に人生踏みにじられたのは、あんたも同じだろう?今のあんたの言葉を借りれば、俺はあんたの犠牲の上に産まれて来たんだろう?俺の気持ちはどうなるのさ?これ以上俺のために犠牲にならないでくれよ!だから、俺のこと心配するのもいいけどさあ、もっと自分の人生も大事にしてくれよ!頼むよ!」

 その声は、普段温厚な真人には似つかわしくないくらい力強いものだった。志乃も溝口も息を飲んだ。真人がこんなにも感情的になり、大声を出すのをはじめて見たからだ。しかし、早苗は何も反応せず、顔を布団に埋めたままだった。

 我に返った真人は、志乃たちが凍り付いているのを見て、気まずそうに笑った。

「ごめん、驚いたでしょう?なんか、酔っぱらいがゴチャゴチャうるさかったから、つい…」

 溝口が、真人の肩をポンと叩いた。

「すまん。俺がもっとしっかりしていれば…」

「いや、みんなこの人が悪いんですよ。他人の気持ちを全然理解してくれない」

 真人は早苗を睨みつけていた。

「まあ、そう言うな。俺には早苗さんの気持ちもわかる。早苗さんには早苗さんの事情があるんだよ」

「それを言うなら、俺にだって事情はあるよ。俺だって早苗さんを失いたくないし、今みたいに何かに囚われて生活しているのは、見ていて辛いんだ」

「囚われているって?何に?」

「そんなの分かんないよ。最近、何か変なんだよ。昔と違うんだ。俺が小学生だったころは活気があって、もっと生き生きしていたんだ。最近は、何かに遠慮しているって言うか、何かから目を背けているみたいなんだ。ある意味…」

 真人は、ためらうように言葉を切り、視線だけを早苗に向けた。

「人生を諦めているみたいな」

 溝口と志乃は、顔を見合わせた。

「そりゃあ考えすぎだろう。真人」

 志乃の反応を確認してから、溝口は否定的に言った。

「ただ早苗さんは、お前と笹本…お前の父親を重ねているんだよ。さっきも飲みながら言っていたんだ。絶対、笹本の分まで真人のことを守るんだって」

「それが囚われているんだよ」

 真人が語気を強めて言い返した。

「俺は父親の代わりじゃないんだ。それに…」

 真人は言葉を濁した。

「それって、真人のやきもちじゃないの?」

 言いあぐねる真人の隙を突くように、志乃が割って入った。

「真人って意外とマザコンなんだ」

 志乃は冷やかすように笑った。

 真人は真剣な顔で志乃を見つめた。志乃の笑いが消えた。

「マザコンが悪い事なの?」

 その言葉に怒りや感情的なものは無かった。

「マザコンの詳しい意味は分からないけど、子どもが母親を大切に思ったり、独占したいと思うのは当たり前じゃないの?早苗さんは否定するだろうけど、俺は早苗さんのことはずっと母親だと思ってきた。だから、俺は自分も幸せになりたいけど、早苗さんも幸せになって欲しい。そんな、過去に囚われて自分の幸せを捨てるような、そんな人生を歩んで欲しくないんだ」

 志乃も溝口も何も言わなかった。

「今回、父親のことを知りたいって言ったのも、そこに何か理由があるのかなって思ったからなんだ。もともとそんなこと知りたいとは思っていなかったんだ。俺には父親がどんな人間かは、あまり関心なかったから。だって、俺の親は早苗さん一人だし、ここに来る前のことは、出来れば無かったことにしたいって思って来たし、ここで産まれたんだって思うようにしてきたんだ。でも、今日の話を聞いて…」

 真人は明らかに何かを言いあぐねていた。

「俺が父親に似ていたって関係ないじゃないか」

 真人の口調が変わった。

「とにかく、今、生きている俺たちが幸せにならなくちゃ意味がないんだよ。溝口さん!」

 溝口が驚いて、眼をむいた。

「早苗さんのことをお願いします」

 真人が溝口の腕をつかんで顔を覗き込んだ。

「俺には何も出来ないんです。溝口さんが何とか早苗さんを幸せにしてあげて下さい!」

「あ、ああ、わかった、わかった…」

 真人の迫力に押されて、溝口はのけぞりながら答えた。

「今日はいくら飲んでもいいですから、俺、ビールでも何でも買ってきますから」

「いや、いいよ。きっと売ってくれないから」

「何なら、いま、そこの布団に潜り込んで一緒に寝てもいいですから」

「いや、まだ職を失いたくないから」

「真人!何あせっているのよ?真人が言うと冗談に聞こえないんだから。溝口さんも困るでしょ?」

 志乃が慌てたように割って入った。

「そうだよ、真人、なんか変だぞ今日は」

 溝口は困惑して言った。

「真人の気持ちも分かるけどさあ、早苗さんがそんな力づくで何とかなる人じゃないのは、真人が一番分かっているだろ?」

 真人は興奮が冷めたように、一気に沈み込んだ。

 三人は沈黙した。溝口も志乃もどうしていいか分からずに、互いに目配せをするだけだった。

「志乃ちゃん」

 不意に、真人が口を開いた。

「な、なあに真人?」

 志乃は、うろたえ気味に返事をした。

「気晴らしにどこか連れてってよ」

「どこかって?」

「どこでもいいよ。なんか気が滅入っちゃっているから、どこかで何か話でもしよう?」

「え?私でいいの?」

「何言ってるの?そんなの志乃ちゃんしかいないでしょ?他に誰がいるの?」

 志乃の表情が明るくなった。

「うん、じゃあ行こう。元気にしてあげる」

 そう言うと、嬉しそうに立ち上がった。

「え?俺は?」

 溝口が驚いた。

「溝口さんは、もともと早苗さんを慰めに来たんでしょう?ここに残ってしっかり慰めてやってください。別に、布団に潜り込めとは言いませんから」

 志乃は嬉しそうに先に出て行った。

「じゃあ、カギは貰っていくので、早苗さんが起きるまでここに居て下さいね」

 そう言い残して、真人は志乃と一緒に出て行った。



 部屋の中に静寂が起こった。外からの往来の音がいつになく耳につく。溝口は壁に寄りかかり、大きくため息を吐いた。

「早苗さん、真人ったらあんなこと言ってるよ」

 早苗は返事をしなかった。

「早苗さん、顔出してよ」

「…」

「早苗さんの泣き顔見たいからさ」

「泣いてないし」

「じゃあ、笑い顔見せてよ」

「…」

「顔見せてよ」

「ダメ」

「さみしいからさあ」

「別に、布団に入って来てもいいんだよ。大人なんだから」

「…」

「…」

「早苗さん。あんまり俺のことイジメないでよ」

「…」

「…」

「…ごめん…」

 重苦しい雰囲気が、部屋に満ちた。早苗はいつもこんな感じだ。本気か冗談か分からない言動で、お茶を濁す。避けられているのか、ためらっているだけなのか、溝口はいつも迷ってしまう。

「真人、立派に育ったじゃないか。早苗さん頑張ったよ」

「あの子は、もともとがああなんだよ。私はただ、飯を食わせただけ。何も出来なかった。お志乃や溝口くんにも助けられたし」

「そんなことないよ。俺が真人の父親になってやろうかって言うチャンスを狙ってたけど、結局来なかったもんね」

「…」

「早苗さん。家の鍵、どこ?」

「なんで?」

「いや、ちょっとビール買ってこようかと思ったんで、鍵、締めて行こうかと思って」

 早苗が布団から出て起き上がった。

「早く帰って来てよ」

「分かってる。そこのコンビニだから」

「じゃあ、ついでにから揚げも買ってきて。朝ごはんも食べないでビールばっかり飲まされたから、頭おかしくなったんだわ。あと、ウィスキーも、溝口君のおごりで」

「はいはい」

 早苗は、のそりと起き上がると寝室の方へ入って行った。が、すぐバッグを片手に出てくると、もう片手でバッグの中からカギを取り出した。

「はい」

 そう言って差し出す手に溝口が近寄ると、早苗の身体はわずかに後ろへ引き下がる。いつもと同じ現象だ。早苗が意図的にやっているのか、無意識なのか、どちらにしても溝口は早苗との距離を痛感せざるを得ない瞬間である。

 外に出て、カギを掛ける。思わずしゃがみ込んで泣きたくなる。

 この付かず離れずの関係はいつまで続くのだろう。




 志乃が真人に送られて帰宅した頃、まだ外は薄暗かった。


「遅かったな、真人君どうだった?」

 志乃が帰宅すると、いきなり大川が志乃に問いかけて来た。

「どうって?」

 志乃は面倒くさそうに答えた。

「どうって…。大丈夫だったかな?と思ってさ」

「何が?今朝の話のこと?」

 志乃は不機嫌そうだ。

「そうだよ。それしかないだろう?」

「んー、大丈夫じゃないの?ってか、真人は早苗さんのことの方が心配みたいだから。まったく…、早苗さん早苗さんって、子供じゃあるまいし…」

 苛立った様子で答えながら、志乃は食器棚の下の扉を開けると、中からスナック菓子を取り出し、勢い良く封を切った。

「あー、もー、またイラついてー。もうすぐ晩ご飯なんだからお菓子食べないの!」

 台所から真由美が顔を出した。

「イラつくと、すぐやけ食いするんだから。太ると真人君に嫌われるよ!なにか有ったの?」

 真由美が心配そうに聞いた。

「真人は、太ったぐらいじゃ嫌ったりしません!。もうさあ、あの二人見てると何か無性にいらいらするんだよね。なんか、お互いに遠慮し合っているって言うかサー。特に最近おかしいんだよねー」

 志乃は、スナックをバリバリ食べだした。

「まあ、早苗さんも大変なんじゃないのか?真人君も大きくなってきたし、扱いとかも気を遣うんじゃないのかな」

 大川が、志乃からスナックの袋を取りあげた。

「そんなもんかねえ?」

 志乃は、不機嫌そうに大川を睨みながらソファーにのけ反った。

「早苗さん、そのうち壊れちゃうんじゃないかな?」

 しかし、志乃のそのつぶやきは、大川にも真由美にも届かなかった。

「真人君には、変わった様子は無かったのか?」

 大川が改めて聞いてきた。

「もー、こっちは真人君、真人君かよ!真人はあの話なんかなんとも思ってないよ。真人は早苗さんのことだけが心配なの!早苗さんのことをもっとよく知りたいから、自分の出生のことも知ってみたかっただけなのよ、きっと」

「なんだ、それで志乃がヤキモチか?」

 大川の言葉に、台所の真由美も吹き出した。

「うるさいなー。はっきり言うけどねー、私達にはあんな話どうでもいいんだからね。当事者には申し訳ないけどさあ、あれはもう過去の終わった話でしょ?もう終わったこと!結果として今、ここに真人がいる。それで十分なの。過去を反省するのはいいけどさ、もし、早苗さんと真人のお父さんがうまく行っちゃってたら、真人は生まれてこなかったんだからね。真人の存在を否定しちゃうことになるんだから」

 志乃がそう言って二人を睨みつけた。

「ちょっとさあ、二人とも『もしあの時、早苗さんと真人のお父さんがうまく行ってたらなあ』なんて考えないでよ!それはさあ、真人が生まれなければ良かったってことなんだからね?私だって生まれてないかもしれないんだからね?過去をやり直したいなんて考えないでよ!まったく…」

 志乃は改めて、ソファーに寄りかかり胡坐をかいた。

「早苗さんの不幸の上に自分が生まれたみたいなこと言われてるんだから、真人も複雑な気持ちなんじゃないかな?」

 大川は眉間にしわを寄せて、黙ったまま志乃を見詰めた。真由美も台所から出てきた。志乃は、二人の顔を見て、ちょっと言い過ぎたような気がして、付け加えるように呟いた。

「まあ、そこんところは、早苗さんがちゃんとフォローしてくれたけどね。あの人はさすがだわ」

 真由美が驚いた。

「早苗さん、なんて言ってたの?」

「え?うーんと。早苗さんのことを傷つけたのは許せないけど、そのおかげで真人が生まれてくれたから帳消しにできるとか、むしろ感謝してるとか何とか。でもこれから真人を傷つけるならそれは許さない、とかも」

 真由美と大川は顔を見合わせた。

 志乃は、ふと思った。

―私と早苗さんって、考え方が似ているのかな?いや、私が早苗さんの影響を受けているのかも―

「もしかしたら、真人君のお母さんが接触してくるかもしれないから、志乃も気を付けて上げてね?」

 真由美が心配そうに志乃に言うと、大川も志乃を見ながらうなづいた。

「もーっ!何みんなしてビビってんのよ!接触してきたら何なのさ?」

 志乃が叫んだ。

「もし、真人のお母さんが勝手に真人を連れて行ったら誘拐だし、早苗さんに真人を返すように言って来ても、早苗さんには決定権ないんだから、児童相談所が許可しないとだめなんでしょ?真人だってそんなの望んでないんだし、簡単に許可する訳ないでしょ?もしだよ?もし、児相が許可して真人が連れて行かれたとして、それが何なのさ。真人がお母さんに監禁されるわけじゃないでしょ?私が毎日会いに行くよ。遠い所でも毎週会いに行くよ。そしてもし、何か問題があったら、私がお母さんと戦ってやるさ。もし、真人が辛かったり、悲しかったりしたら、私が慰めたり励ましたりしてやるよ。私ひとりじゃない。児相もいるし、早苗さんだっているし、溝口さんだっている。お父さんお母さんだって助けてくれるでしょう?たかが女一人におどおどして、だらしないったらありゃしない!真人は一人じゃないんだよ!早苗さんも、私も、警察官も、みんな真人の味方なんだよ!その女が何かしたら、ただじゃ置かないよ!」

「でも、あの人は普通じゃないからな」

「あああああ!もう、みんなおかしいよ!だいたいさあ!私は、あの話聞いていて、イライラして腹立ってきたんだよ!一番問題なのは、真人のお父さん!自分がどうしたいのかはっきり言わなかったこと。次に悪いのは、早苗さん!早苗さんがお姉さんのところに行って、あの人は私のものだから手を出すなって言えば良かったの。その二つしか問題は無かったの!今回は、二つともはっきりしてるでしょう?真人はお母さんにNOと言えるし、早苗さんもダメ!っていうでしょう?あとは何の問題があるのさ?」

 娘の暴言に、大川は眉をひそめた。

「まあ、実際お父さんも、直接その早苗さんのお姉さんには会ったことがないんだけど、かなり危ない人みたいだよ」

「だから?」

「世の中、怖い人もいると言うことだよ。実際、ストーカーや変質者による事件は起きているし」

「確かにねえ…」

 志乃は、ソファーにもたれかかったまま考えた。

「おかしい人間はいるみたいだもんね?」

 実際に見たことは無いが、ドラマの中にはちょくちょく出てくる。特定の人に執拗に付きまとい、その人の人生を狂わせていく存在。もし、真人の母親がそんな存在だったとしたら。

「もし、その人が本当におかしい人で、真人が本当に危険な目に会いそうならねえ…」

 志乃は真顔になった。

「まあ、頑張るしかないかな?」

 真剣な顔で、力なく言った。

「どういうふうに頑張るんだ?」

 大川は、問い詰めるように迫った。志乃は大川と真由美の顔を交互に見ながら困ったような顔をした。そしてついに

「分かんなーい!」

 志乃は両手を上げて叫んだ。

「もういいからご飯にしよう?お腹すいちゃった。じゃないとお菓子食べちゃうよ」

 大川夫妻は、落胆したような、ホッとしたような面持ちでため息を吐いて立ち上がると、薄笑いを浮かべながら台所へ向かった。

「おい、お前も手伝いなさい」

 小言を言うように志乃に指示をする大川の顔には、安堵の表情が浮かんでいた。志乃が何か爆弾発言でも、しそうな気がして冷や冷やしていたのであった。

 志乃は志乃で、言いたいことも言い切れず、もやもやする物を胸に抱えていた。

―死んでもらう―

 そんなこと、いくら志乃でも親の前で口にすることは、はばかられたのだった。

 冗談や負け惜しみではなく、本当に場合によっては殺して排除すると言う選択肢も十分にあり得ると思った。一生つきまとう異常者。真人の安全を思うと、外すことは出来ない選択肢だ。

―ただ…―

 もし、それを実行してしまうと、当事者だけの問題ではなくなってしまう。警察が真人たちのことをすべて調べ上げ、裁判などを通して全て公開されてしまい、更にマスコミによる容赦のない追及が待っている。真人の生い立ちは、マスコミにとっては格好の餌となり得るだろう。現実的に考えて、デメリットの方が多く、あまり得策とは言い難い。

―早苗さんも、同じこと考えていたりして…―

 志乃は一人ほくそ笑んだ。

「なに、変な笑いしてるんだ?」

 大川が、気味悪そうに尋ねた。

「何でもなーい」

 そう答えると、志乃の頭からはその話題は薄れて行った。




 真人が、志乃を送り届けてから家に戻ったころは、もうあたりも暗くなっていた。

 早苗からは、真人一人で外出しないように言われているが、今日はうっかり時間が遅くなってしまったので、志乃を先に送り届けてから真人一人で帰ってきた。先ほどの様子では、早苗も溝口も、志乃を送り届けるのは無理であると考えたのである。


 真人が玄関の前に立っても、玄関の窓も、台所の窓も暗いままだった。出かけたのか、寝ているのか。ドアノブを回すとカギはかかっている。もしかして?と思ってベルを鳴らしてみるが、反応は無い。一応責任は果たしたと思い、カギを開けてドアを開いた。

 薄暗い中には酒の匂いが漂い、テーブルを挟んだ二人が死体のごとく倒れていた。

―酔いつぶれただけか―

 真人は、ため息を吐きながら中に入り灯りを点けた。

「溝口さん?溝口さん?今日、泊まっていくの?」

 真人は、早苗のことは放っておいて、溝口の肩をつついた。溝口は低くうめき声をあげているが、なかなか起きようとしない。

「ほら、寝るなら俺のベッドの方へ行って」

 溝口はのそりと起き上がった。

「いや、帰る」

「ええ?大丈夫なの?」

「ここに居ても、辛いだけだから…」

 ぼそりと呟く溝口の言葉に、真人は何も言えなかった。

「まあ、取り敢えず座って、少し休んでからにして。今、コーヒー淹れるから」

 やかんを火にかけてから溝口を見ると、目を閉じたまま壁に寄りかかっている。早苗を見ると、横になって丸まって寝ている。しかし、眠っているのか、寝たふりをしているのかは定かではない。

 真人はテーブルの上にマグカップを二つ置いた。溝口と早苗の分だ。ドリッパーが一つしかないから、溝口の分から淹れた。

「溝口さん、コーヒー入りましたよ!」

 早苗の分を入れながら、真人は溝口に声を掛けた。

「あー、スポーツドリンクが良かったなー」

 溝口が、頭をふらつかせながら言った。

「文句あるなら、家に帰ってから飲んでください!」

 真人は適当にあしらいながら、早苗の分にお湯を注いでいた。

「真人…ありがとね…」

 溝口がつぶやいた。

「いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます」

 真人も小声で返した。

「ごめんね、俺の力不足で…」

 溝口は、泣きそうな声だった。

「そんなことないですよ。あの人が強情すぎるんです」

 真人の声には、あきらめが滲んでいた。

「早苗さーん!コーヒー入りましたよー!」

 大きめの声で呼んでみたが、反応は無い。居留守と狸寝入りは早苗の常套手段である。寝ているかどうか、分かったもんではない。

「ニガ!」

 溝口が叫んだ。

「砂糖、入ってないじゃん」

「テーブルの上にあるじゃないですか。それくらい、自分でやってくださいよ」

 真人は早苗の寝床に近寄り、軽く早苗の肩を叩きながら優しく言った。

「早苗さん、どうするの?このまま寝るの?歯ぐらい磨いたらいいんじゃないの?」

 溝口は、そんな真人の姿をぼんやりと眺めていた。

 真人は変わっている。

 溝口がつくづく感じていることだ。真人は早苗に対して実に甲斐甲斐しい。そしてそれは、早苗だけにではない。志乃に対しても同じだ。志乃はいい娘だが、溝口から見て鬱陶しく感じることも多い。しかし、真人はそんなそぶりも見せず、すべてを受け入れる。一見、優柔不断にも見えるが、自分の考えははっきりと持っていて、周囲に流されている感じもしない。おそらく早苗の教育によるものよりも、早苗の言う通り、持って生まれた性格なのだろう。

 今は志乃とべったりだが、志乃だからそうなのだとは思えない。それは、たまたま志乃が最初に出会ったというだけのことであろう。あの時志乃とは出会わず、その後に別のと出会っていたならば、きっとその娘とも同じようにうまくやって行ったことだろう。そう考えると、志乃は運が良かったのか、それともこれが運命だったのか、溝口はそんな悪戯な考えを巡らすようになった。その裏には、自分と早苗の関係が、どこまで行くのが運命なのか考えてしまう所にもあるのだ。

「真人、もう帰る」

 溝口はふらつく足で立ち上がった。

「うん、今、送ってく」

「いいよ、いいよ、早苗さんのこと、見て上げて」

 溝口は、壁に寄りかかりながら玄関まで歩き出した。

「何言ってんですか、足元ふら付いているじゃないですか」

 真人は溝口に近寄ると、靴を履こうとする溝口を抱えるように支えた。

「ちょっと溝口さん送って来るから、静かに寝ていてね!」

 溝口を抱えて外に出た真人は、中を覗き込んで早苗に声を掛けるとドアに鍵を掛けた。

 真人は、溝口の左腕を自分の首にかけて、自分の右腕を溝口の腰に巻き付けて支えた。真人も背が伸びたが、まだ溝口の方が大きい。体もがっしりとしていてたくましい。真人にとっては、まだ溝口は大人の男であった。

 真人にとって溝口は、早苗のもとに来てから最初に親しくなった大人の男だ。それまで、真人の母親の知り合いの男とは数多く出会ってきたが、溝口はその誰とも違っていた。それまでの男たちからは、軽くあしらわれているような不快感を感じた。しかし溝口には、真人のことをしっかりと受け止めてくれるような安心感があったのだった。それ故、真人は自然と懐くようになり、真人はいつしか溝口に、自分が知らない父親像を見ていることに気づいていた。そう言うこともあり、溝口と早苗の関係もうまく行くことを幼いころから願っていた。


 溝口の住む寮までは遠い。少なくとも今のこの状態で歩いて行けるような距離ではない。タクシーを捕まえることになる。

 早苗のアパートから出て大通りに出ると、歩道沿いにマンションの花壇があり、タイル張りで腰かけるにはちょうどいい高さになっている。真人はそこに溝口を座らせ、自分も横に座った。

「ん?どうした、真人。もう疲れたか?ここでタクシーを拾うからもういいぞ」

 まだ、焦点の定まらない溝口が、もつれた舌で言った。

「いや、ちょっと話があって」

 真人が真剣な表情でつぶやいた。

「話?なんか言い残したことがあるのか?早苗さんのことはごめん。本当にごめん。俺も情けないわ」

「いや、そうじゃなくて」

「何?他になんかあるの?」

 溝口が真人の顔を見ると、いつになく深刻そうに見えた。

「何、志乃ちゃんと何かあった?」

「いや、早苗さんのこと」

「早苗さんの、何?」

 真人はうつ向いて、歩道を見つめるように話し始めた。

「俺、かなり前から心配していることがあってさ」

「うん、何」

「早苗さんが、俺を引取った理由なんだけど…。それは、いろいろあると思うんだけど。その中に、俺を囮にしようって言うのがあるんじゃないかって…」

「?何言ってんだ?」

「早苗さん、あの時言ってたんだ。俺のことを引取って幸せになると、俺の母親が俺を奪いに来るって。早苗さんの幸せをぶち壊しに来るって」

「ああ、それはそうだ。早苗さんは、そのことを恐れていることは間違いない」

「それでそのあと、志乃ちゃんの家でおじさんと話した後、突然俺を引取ると言い出したんだ。おそらくその時、俺が今日おじさんから聞いたような、笹本さん、俺の父親のことを聞いたと思うんだ」

「ああ、そうらしいよ」

「その時、俺も何で突然そう変わったかは分からなかった。ただ、俺を引取ってくれることがうれしかったんだ」

「…」

「でもね、それから少しして、家のごみの中に変なものがあるのを見つけたんだ」

「変なもの?」

「うん。タオルとか、布切れを丸めたもので、何か刃物で切られていたんだ」

「ほう…」

「俺、それを見た時、早苗さん、あの女を殺す気なんじゃないかって思えたんだ。俺を引取れば、あの女は必ず現れる。だからその時、あいつを殺そうって考えてるんじゃないかって」

「いやあ、それは考えすぎじゃないかな?早苗さんはちょっと気性の激しい所はあるけど、そんな大それたことのできる人じゃないよ。それは取り越し苦労だ」

 溝口は全く相手にしなかった。

「そうなんだよ。俺もずっとそう思って来た。でも最近、特にここ最近の早苗さんの様子を見ていると、何かおかしいんだ。何か思い詰めているようなんだ。溝口さん、何か聞いてない?」

「いやー、何も聞いてないな」

 溝口は眠そうだった。

「実は、俺の母親が学校の近くで、結構な頻度で目撃されているらしいと言う情報があったんだ。そんなのもあって、早苗さん思い詰めているんじゃないかって」

 溝口は何も反応しなかった。

「俺も、この考えはばかげていると思う。でも、その可能性も含めて、早苗さんのことみてやって欲しいんだ。おかしなことをしないように、関心持ってあげてもらえませんか?」

「うん分かった。確かに最近の早苗さんはちょっとおかしい。俺が責任もって良ーく見守ってあげましょう!」

 眠気を堪えながら溝口は叫んだ。

「お願いします。溝口さん」

 真人は、溝口の腕をつかんで頭を下げた。

「よし、お前の気持ちは良く分かった。任せなさい!じゃあ、俺はここでタクシーを拾うからもう帰れ。帰って早苗さんのこと見てやれ」

 溝口は勢い良く立ち上がるとそう言いながら車道に近づき、向かってくるタクシーに手を挙げた。

 タクシーの窓から手を振りながら去っていく、溝口を見送る真人の心には、二人の温度差のようなものが感じられてならなかった。



 真人が部屋に帰ると早苗は起きていた。寝床に座り、壁に寄りかかり、視線は宙を泳いでいた。その顔は泣いた後のようにも見えた。眼が腫れ、目の周りに涙の痕のようなものが付いている。

「泣いてたの?」

 真人は、テーブルを挟んだ向かい側に座った。

 早苗はかぶりを振った。鼻をすする音が嘘を物語っている。

「夕飯どうする?何か買ってくる?」

 またかぶりを振った。

「俺、腹減ったから何か買ってくるね」

 早苗と目が合った。

 早苗の顔が歪んだ。口元が震え、目から涙が溢れだした。それとともに震える口から激しい嗚咽が漏れた。

 真人は慌てて駆け寄り早苗の肩に手を当てた。

「やっぱり泣いてるじゃないか。無理に我慢することないよ。今日は色んな辛いこと思い出したんだろう?全部吐き出しなよ」

 早苗は真人にすがりついた。

「ごめん、今日だけ、今日だけ泣かせて!明日から頑張るから!」

「うん、また頑張ろう?」

 真人は早苗の背中をさすりながら優しく言った。

「こういうことはさあ、意地張らないで溝口さんにしてあげなよ。今日だって、きっと待ってたと思うよ、ずっと」

 早苗は、真人の胸に頭を当てながら、細かく頭を振った。

「年甲斐もなく初心うぶなんだから…」

 早苗が泣き止むまでには、かなりの時間がかかった。その間、真人は空腹を耐えるしかなかった。




            *


 翌週の週末の朝のこと。

「真人!行くよ!」

 玄関のドアを叩きながら叫ぶ、志乃の声が聞こえる。

「真人、うるさいからさっさと出なさい」

 早苗は布団の中からけだるい声で諭した。今日は休日で、早苗も真人も休みである。

 謎の美女の一件以来、二人がペアでいることが奨励されたことで、志乃は今までに増して真人にべったりとなっていた。

 幸い、その後は謎の美女の目撃情報も無く、さかりの付いた男子中学生と男子教員の落胆を誘っていた。早苗としては、あくまでも鳴りを潜めているだけで、いつまた現れるか油断できないものと踏んでいる。

 真人は、志乃と一緒にどこかへ出かける予定だとかで、朝からバタバタしている。それがデートなのか何なのか、二人がどこまでの関係なのかも早苗には分からない。

「全くもう、あの子の声はデカいんだから、いつもうるさくてたまらないんだよ。おかげで目が冴えちまうじゃないか。お願いだからどこか外で待ち合わせておくれよ」

「何、長屋のおかみさんを気取っているんだよ。じゃあ、行くからゆっくり休んでね」

 真人が優しく言って出て行った。志乃の楽しそうな話し声が少しずつ遠ざかり、小さくなっていく。

 真人が大きくなり、手が掛からなくなった頃から真人は外出が多くなった。それが早苗に対する気遣いであることは、早苗にも分かっている。真人は自己主張の強い性格になったが、しかし早苗に対しては優しかった。成長するごとに真人の気遣いが多くなり、不思議と嬉しさに合わせて寂しさも感じるようになって来ていた。

 こんな日も、遠ざかる二人の気配を感じながら、早苗は寂しさを禁じ得ないのだった。

 ひとりが寂しい。あれだけ求めていた「ひとり」が、今では寂しさに変わっている。皮肉なものだ。老いに対する不安が見え隠れして来ている。

 早苗の休日は、ネット配信の映画とドラマ三昧だ。どこにも出かけず、一日家に籠るのが早苗の休日の定番である。昔はDVDを借りに出かけるついでに、買い物などもすることが出来たが、最近はテレビでネットの配信が見れるようになったおかげで、外出の機会が皆無となってしまった。それでも真人が小さかった頃は、真人を口実に外出の機会はあったものだ。その頃は面倒くさいと、口では不満たらたらだったのだが、今思うとそうして真人の嬉しそうな顔を見ながら、多少なりとも生きる張り合いと言うものを感じていたのかもしれない。

 あの頃恋しかった休日のテレビ三昧が、今、手元にあるのになぜかあの頃のようにワクワクする高揚感が感じられない。ひょっとすると、真人が来てからの五年間に、早苗の一生分の喜びを消費してしまったのではないだろうかとさえ感じてしまう。

 例え香奈恵が真人を奪って行かなかったとしても、このまま真人が成長していくだけで、いつかは早苗の手を離れ、巣立って行ってしまうのだ。どちらにしろ、自分は一人に戻ることになるのだろうな、などと思う早苗であった。

 早苗の寝床はテレビの前になっていた。昔奮発して買ったこのテレビが、早苗の唯一のパートナーである。今日も映画と海外ドラマ漬けだ。

 しばらく見ていると、飲み物が切れていることに気づいた。ついでにお菓子も欲しいなと思い、向かいのコンビニに買いに行こうかと、財布を持って玄関を出た。

 ドアを開けると、そこに見知らぬ女が立っていた。スーツ姿の知的な雰囲気をまとった、五十代くらいの女だ。驚きの表情をしたその女は、明らかにこの部屋を尋ねて来ていた。

―しまった!―

 早苗は後悔したがもう遅い。今更、居留守も使えない。おそらく何かのセールスだろうぐらいに考えた。

「どちら様?」

 仕方なく早苗は、わざと大儀そうに言った。

「早苗ちゃん?」

 女は少し自信無さげに尋ねた。早苗は背筋に悪寒が走った。名指しで来た。しかも「早苗ちゃん」などと言う呼び方をする人間は極々限られた人間だ。と言うことは、単なるセールスではない。

 女は早苗の強張った顔を見て、安心したような笑顔になった。その笑顔はとても優しかった。しかし、その笑顔が却って恐怖を誘った。

「久しぶりです。私、弁護士の筒井です。覚えてますか?」

 女は、懐かしそうに優しく言った。

 早苗はその言葉に、心臓の止まる思いがした。

 早苗は怯える目で弁護士を名乗る女を見つめ、刃物でも突き付けられたかのように立ちすくんでいる。女はその様子を見ながら、語り掛ける言葉を選んでいるかのようにじっと早苗を見つめていた。

「ごめんなさいね、驚いたでしょう?」

 しばしの沈黙の後、女は意を決したかのように、申し訳なさそうにゆっくりと口を開いた。早苗は相変わらず怯えた顔で黙っている。女は愛想笑いのように無理やり作った笑顔を見せた。

「早苗ちゃん、すっかり大人になったね?想像していたよりもずっと大人だったわ。驚いちゃった」

「何の用ですか?」

 早苗は驚いた表情を変えることなく、震える声で言った。その言葉に女の笑顔が消え、少し悲しさを帯びた。

「ごめんね。辛い過去を思い出させちゃったかな?」

 突然早苗の顔に、怒りのようなものが現れた。

「用がないならお引き取りください!」

 早苗が叫びながらドアを閉めようとすると、女は慌ててそれを手で押さえ、懇願するように叫んだ。

「お願い!閉めないで!」

 早苗はそれを黙って睨みつけていた。女は続けて叫んだ。

「今日は、あなたのお姉さんの代理人としてきました」

 早苗の顔に驚きと怒りの表情が加わった。そして、突然狂ったように何かを叫びながら、ドアを閉めようと激しく引っ張り始めた。女はそれをさせまいと抵抗しながら早口でまくし立てた。

「お姉さんは、息子の真人くんとの同居を希望しているの。もちろん、早苗さんとの同居と言うことも含めて。これからは親子二人もしくは、親子と姉妹の三人での生活を希望しているの。だから今日は、その件に関して相談しようと思って来たの」

「何、勝手なこと言っているの?そんな大事なこと、なんで本人が直接来ないんですか?」

 早苗は声を荒げた。

「お姉さんは、今あなたにお会いすることに、不安を感じているみたいなの」

 女の口調は、慌ててはいるがとても丁寧だった。

「不安?」

 早苗の耳にその言葉が引っかかり、早苗の抵抗が止まった。

「そう。お姉さんは今あなたに会うと、あなたに殺されるのではないかと勘繰っていたわ」

 早苗が女の目を見ると、それは真剣な目だった。早苗にはその目を見続けることが出来ず顔を背けるしかなかった。何よりも、この女とはこれ以上関わりたくなかった。

「それで、早苗ちゃんとの交渉はすべて、私を通して行いたいと言ってるの」

「そんな相手と、よくも同居だなんて言えたもんだね?」

「それはあくまでも、早苗ちゃんが同意して下さったらの話。あなたがどうしても、真人くんを手放したくないと言うならば、三人で一緒に暮らすという選択肢もあると言うことよ」

 早苗の思考は停止寸前であった。動作を拒否したかのように、言うことを聞かない体を無理やり動かして、いきなりドアを閉めた。

「そんな話する気はありません。帰ってください!そして真人を渡す気は無いとあいつに伝えて下さい!」

 早苗は、腰が抜けたかのように床にへたり込んでいた。肩で息をし、心臓がパンクしそうなくらい激しく暴れている。

「真人には手を出すな!何かしたら、ただじゃ置かないよ!」

 ドアにすがりながら、絞り出すように叫んだ声は、かすれてあまりに力ないものであった。

「勿論です。こちらも、あくまでも話し合いで決めようと思っています。手荒なことは考えていないから安心して」

 女の冷静な声が帰ってきた。

「とにかく帰れ!話すことは何もない!帰れ!」

 精一杯叫んだつもりでも、早苗の声はかすれて響かなかった。貧血のように気分が悪くなってきた。もう抵抗する力もない。

「分かりました。また出直してきます。今後は、この電話で連絡しますので、電話番号を控えて置いてください」

 女の淡々とした声と共に、郵便受けから名刺が一枚現れた。そして、ドアの向こうから遠ざかる足音が聞こえた。

―そう言えば―

 早苗の頭に思い当たることが浮かんだ。数日前から、知らない番号の着信が早苗のスマホに有ったのだ。早苗は、覚えのない電話は無視するし、メールは拒否している。

「こいつだったのか?」

 不安と絶望から、早苗は玄関の土間にへたり込んだまま、動けなくなっていた。

「なんで今になってあいつが出て来るんだ」

 あの女、筒井と言う弁護士は、早苗が忘れていた忌まわしい過去の生き証人である。今まで完全に消去していた筈の記憶が、あの女に会った瞬間に、滝のごとく頭の中に流れ込んで来た。そして、記憶と共にその時の様々な感情が。くやしさ、悲しさ、痛み、恨み、恥かしさ、そして絶望。

 しかし、その絶望から立ち直らせてくれたのは他ならない、あの筒井弁護士であった。しかし、その筒井には常にあの出来事の全てがまとわりついている。筒井を思い出すと言うことは、あの出来事の全てを思い出すことなのだ。

 その筒井が香奈恵の代理人として、早苗のもとにやって来た。香奈恵も筒井の存在は知っているはずだ。それで敢えて筒井を選んで早苗のもとへ送り込んで来た訳だ。筒井に悪意のないことは早苗にもわかっている。筒井はただ、かつての依頼人の姉に、妹との関係を取り持って欲しいとか何とか言われてやって来ただけなのだろう。早苗と香奈恵の関係など知る筈もないのだ。そう、全ては香奈恵の仕組んだ事だ。

 早苗は込み上げる激しい感情を必死にこらえ、口を押え、激しく嗚咽した。嗚咽し続けた。

 早苗の人生とは何だったのか…。こんなにも隠したいこと、忘れなければ生きて行けないようなことばかりとは。過去を思い出すたびにいつも辛く苦しい思いをする。こんな人生に意味はあるのか。もうこの世から消えてしまえば良いのでは?

 いや違う。早苗そのものの命に意味がないとしても、その存在には重要な意味が一つだけあった。

 真人だ。真人を護るために今の早苗がいるのだ。







      4.凶行




 翌日、早苗は会社に退職届を提出した。

「え?どういうこと?急にどうしたの?」

 突然のことに上司は慌てた。以前上司だった砂田は、昨年無事に定年退職をして、別の男性が課長として早苗の上司になっていた。早苗としては、恩義のある砂田ではなく、よく知らない男だったので、その分気が楽だった。その課長にとっては、経験の長い早苗に頼り切っていた訳で、早苗を失うことは大事おおごとなのである。早苗は、申し訳なさそうな表情を作った。

「一身上の都合です」

 課長はあからさまに嫌な顔をした。

「で、いつまで出来るの?」

「今日付けでお願いします」

 課長の顔が驚きに変わった。

「いや、それは困るんじゃないかな?せめて引き継ぎの時間ぐらい必要だと…」

「お言葉ですが」

 早苗は、課長の言葉を遮るように口を挟んだ。

「うちの課では、もし何か有って急に誰かが抜けてもいいように、やるべき仕事は一通りこなせるように準備しています」

「しかし、人数が減ると…」

「私が減った分は、次の人が来るまで、課長がフォローして下されば何の問題もありません」

 その後、課長は何も言わなくなった。

 早苗は、真人を引取った時から、こういう事態は予想していた。それで、いつでも辞められるように準備を整えて来たのだった。近年、早苗が事実上の最古参として、仕事の切り盛りをするようになっていたので、環境づくりは比較的楽だった。最後に、課長の交代があったので、それを幸いに新しい課長をキープの要員として、仕事を与えずに飼いならして置いたのだった。



 その数日後、興信所から香奈恵の居所が分かったとの連絡があった。早苗はすぐ興信所に向かった。


 早苗は、興信所と言うとドラマの中に出てくるところのイメージしかなかったが、実際に行ってみると胡散臭さは全くなく、ごく普通の事務所であったので驚いた。

 受付の女性に要件を伝えると、丁寧に中へ案内され、パーテーションで区切られた小さい部屋に通された。これは前回調査の依頼に来たときと同じだった。早苗が中の席に着くと、間もなく担当の調査員がやって来た。二人が挨拶を交わすと、すぐに本題に入った。

「今のお住まいは、ちょっと遠い所でした。ここからだと電車で一時間弱でしょうか。お仕事は地元の高級クラブにお勤めで、お店でも人気のあるお方なようでした。今の住所と職場になったのは、お子さんを手放して一年くらいしてからのようですね。お住いのマンションなどからして、収入は結構なものと思われます。身なりなどを見ましても、それを伺えます」

 調査員はそう言いながら、数枚の写真を順番にテーブルに広げた。

 住んでいるマンションの外観、勤め先のクラブの様子、そして今現在の香奈恵の写真。早苗の記憶の中の香奈恵とは違うが、それでもあの頃の面影を残し、且つ大人の落ち着きを備えた、美しい香奈恵だった。真人が持っていた写真とも違う、もっと洗練された美貌であった。

「交友関係は広いようですが、今、特定の男性がいる様子はありませんでした。ですから、当然お住まいもお一人のようです」

「では、会いに行くとすればいつ頃がよさそうですか?」

 早苗は、今、一番知りたい核心を突いた。

「そうですね…」

 捜査員は、ちょっと考えてから続けた。

「お仕事が、夕方から深夜までですから、おそらく午前中は休んでいることと思われます。私たちが調査している間も、出かけるのは早くてもお昼ごろで、大体は夕方の出勤まで外出することはありませんでした。あと、日曜日はお店が休みですから、外出していることが多いかもしれません。ですから、訪問なさるなら平日の午前中が寝込みを襲う形になりますが、在宅の可能性が高いかと思います」

 早苗はその説明を聞きながら、少し考えてから調査員に尋ねた。

「お店からの帰りは何時ごろでしたか?」

「そうですね、出勤の時間はまちまちでしたが、帰宅の時間は大体深夜一時半から二時の間でしたね」

「そうですか」

 調査員は、早苗の質問が続かないのを確認してから、早苗の前に大きめの封筒を差し出しながら言った。

「詳しい調査の内容は、こちらに入っています。お持ち帰りになってご精査下さい。ご質問等がありましたら、お気軽にお電話いただければお答えいたします」

「ありがとうございます」

 早苗はそれを受け取った。

「あとですね」

 調査員は付け加えるように早苗に呼びかけた。

「別件でご依頼いただいた住所の件ですが」

「あ、それも分かりましたか?」

 早苗は驚いたように返答した。

「はい、住所だけでよろしかったんですよね?」

「はい、そうです」

「こちらに…」

 調査員は普通の封筒をテーブルに置き、早苗の前に差し出した。

「ご両親のお名前は、笹本純一さんと基子さんです。ご両親ともにご健在でした」

 早苗の目頭が熱くなった。こぼれそうな涙をこらえてバッグから封筒を取り出し、調査員の前に差し出した。

「こちら、調査料の残金です。ご連絡いただいた経費も一緒です。お改め下さい」

 早苗は、請求書と領収書を受け取ると丁寧に礼を述べ、事務所を出た。

「これで、いつでも行動に移せる」

 早苗は不敵に微笑んだ。

 早苗にはもう時間が無かった。先日、児童相談所から連絡があり、香奈恵の弁護士が訪ねて来て、真人を引取りたいとの申し出があったとのことだった。それで、近々相談所の相談員が面談に向かうと言っていた。香奈恵の生活状況によっては、真人を引き渡さなければならなくなるかもしれない。その前に決着を付けたかった。早苗はそのまま、香苗の住むその地に向かうべく、駅に向かっていた。下見である。




             *


「真人!」

「何?」

 早苗が興信所へ行った数日の後、夕食後しばらくしてからのことである。寝室で机に向かっていた真人は、早苗に呼ばれて居間を覗いた。

 いつもなら、テレビの前の布団の中で横になっているはずの早苗が、外出でもするような奇麗な格好をしている。しかも化粧までして。

「あれ?どうしたのその恰好」

「うん、ちょっと出かけようと思って」

「え?こんな時間に何処?」

 真人もさすがに驚いた。

「さっき、高校の時の友達から連絡があって、今こっちに戻っているから、夜にでも会えないかって言うからさ。ちょっと行って来る」

 早苗はそう言い残して、そそくさと出かけようとした。

「ちょっと待って!」

 真人は、早苗の腕をつかんで引き止めた。その力は、早苗を止めるに充分であった。

「早苗さん、友達なんかいないじゃないか」

 真人の表情は険しかった。

「何失礼なこと言ってくれるのよ!私だって友達ぐらいいるんだよ!」

 早苗はむきになって言い返した。

「何言ってんだよ。そんな見え透いた嘘、通じる分けないだろう」

 真人は真剣に食って掛かってきた。

「何年一緒に暮らしていると思ってんだよ!あんたにこんな時間にわざわざ出かけて会いに行くような友達も、気持ちもない事ぐらい分かってるんだよ!」

 いつになく攻撃的な真人に圧倒される早苗だった。

「何かすごい失礼なこと言ってるんですけど」

「失礼じゃなくて、事実だろう?」

 真人の顔は真剣だった。

「…」

「なんだよ、俺に言えないような用事かよ!」

「あんた、私の彼氏かよ」

 早苗は苦笑いをした。

「彼氏よりも、近い存在だと思っているけど?」

 真人の目は恐ろしいほど真剣だった。

「分かったよ。ちゃんと言うから、手、離してよ」

 早苗は真人の手を振りほどいた。真人の身長は、まだ早苗よりも少し低い。しかし、早苗の腕をつかむ力は想像以上に強かった。

「誰にも言わないでよ?」

 早苗は、気まずそうに言った。

「それと…笑うんじゃないよ…」

「わかってるよ」

 真人は、いつになく弱気な早苗に、何か只ならぬものを感じた。

「実は、溝口君に会いに行こうと…」

 早苗はうつ向いて、小声になった。

「え?こんな時間に?」

 真人は、不覚にも単純に驚いてしまった。

「あんた今、中学生だろう?」

 早苗の話が急に変わったので真人は戸惑った。早苗の頬が、心なしか赤らんでいる。

「で、もう中学生なんだなあって思いながら、あんたの将来のこと考えていたらさ、このまま高校、大学、就職って行けば、いずれはここを出て行くんだなって思ったわけ。そしたら、私もいずれは一人になるんだなあって思ったら、ちょっと感傷的になってさ、淋しくなったんだよね。まあ、昔は最初からそのつもりだったんだけどね?あんたと一緒に暮らしたおかげでさ、一人になるのがものすごく不安になったんだよね。それで、まあ、どうしたもんかなあって考えてさあ、まあ、いろいろあって溝口君に相談したら『俺が面倒見てやる』って言ってくれたの」

 真人は、目を見開いて聞いていた。

「でもさあ、ほら、私ってこういう性格でしょう?それに男の人と親しくした経験もないわけで、不安の方が多いからさあ、ちょっと練習させて下さいってお願いしたわけ。それで、今日がその一日目で…、と言う訳なんだけど」

 真人は、つい涙がこぼれそうになった。この偏屈が、ついに普通の女性の仲間入りをする気になったんだ、と感無量であった。

「それなら、何もこんな時間でなくても昼間ゆっくりと会えばいいじゃないか」

「そうなんだけどね。何しろほら、二人とも恥ずかしがり屋だからさあ、結果が出るまでは内緒にしようと言うことにしたんだよね。特に、お志乃なんかさあ、冷やかしたり、イジッて来たりしそうだから」

「何言ってるんだよ!」

 真人が、突然反発した。

「志乃ちゃんは、そんなことしないよ。誤解されやすいけどさあ、志乃ちゃんは、本人が真剣にやっていることは、絶対にからかったり馬鹿にしたりはしないよ。俺が保証する」

「それはゴメン」

 早苗は、嬉しそうに笑った。

「でもさあ、しばらくそっとしといてよ。溝口君にも知らない振りをしておいてあげて?変なテレや緊張でおかしくなったりしても嫌だから」

「うん、分かった」

 真人はすっきりした笑顔で答えた。

「そう言うことなら俺も協力するよ。ゆっくり頑張ってよ」

「ありがとう。それから、これからもこういうこと時々あるから、お願いね」

「うん、何か俺もうれしいよ」

「じゃあ、行ってくるね」

 早苗は照れて顔を伏せながら、逃げるように玄関に向かった。

 真人は笑顔で見送った。この五年間の二人のやり取りを見ながら、子供心にもどかしく思っていたのに、やっと心を開いてくれたのだ。真人の心の重荷が、一つ降りたような安堵感があった。




 玄関を出た早苗は、熱く火照った顔を押さえながら階段を下りた。あらかじめ準備していたことをしゃべっただけなのに、死ぬほど恥ずかしかった。

―真人が純粋で良かった―

 早苗はつくづくそう思った。早苗自身、嘘は苦手だ。しかし、こんな時間に家を出て来るには、それなりの理由が必要になる。それを踏まえた苦肉の策だった。

―何とか今回で決着がつけばいいんだけど―

 同じ手は何度も続かないだろう。そのうち、この話は溝口の耳にも入る。そうすれば作り話なのがばれる。おそらく、持ってあと一回か二回。真人も感はいい。早苗が仕事を辞めたことにも気付くだろう。何よりも、早苗自身の心臓が持たない。

 早苗は、駅へ向かうため、バスに乗った。目的地は、駅から電車で五十分ほどの駅。その街に香奈恵が住んでいる。

 これから、その香奈恵に会いに行く。もうすでに心臓の高鳴りが治まらない。手足も震えている。何とか気を落ち着けなければいけないとは思いつつも、どうにもならないものだ。

 今の早苗には、真人に対する未練はなかった。先日やってきた弁護士の筒井と出会って、早苗は自分が封印していた過去を取り戻してしまったのだ。早苗は過去のある事件により、男を恐れる体質になっていたのだ。今まで何となく感じていた感覚が、筒井との出会いによってはっきりと自覚できるようになってしまった。

 つい先ほど、家を出るときに真人に腕をつかまれたのだが、その時もはっきりと恐怖のような衝撃を受けたのだった。腕をつかむ真人の手の力、そして微かに鼻を突いた「男の匂い」。もう真人は子供ではなく「男」になっているのだ。これ以上真人と暮らしていくことは出来ないであろう。この事実は、早苗の心に残る未練を断ち切り、踏ん切りをつけるのに大きな助けとなった。

 駅に着き、時刻表を確認しホームへ向かう。時間は予定通り、最終便にはまだ余裕がある。ホームのベンチに座りじっと考える。これからどうするか。どういう手順で実行するか。今まで何度も、何度もシュミレーションして来たことを、もう一度反復する。




 早苗が乗った電車は、終電のせいかそこそこ混んでいた。震える体に、不安と迷いで胃が痛み、息苦しさも感じる。そんな揺れる心を奮い立たせながら、これからやるべきことを頭の中で繰り返す。

 早苗にあとは無い。会社も辞めてしまった。もう、引き返すことは出来ない。

 目的の駅に着いた。まだ、0時過ぎだ。駅の近くのコーヒーショップでコーヒーを飲みながら時間をつぶす。今は深夜でもやっている店が多くて助かる。香奈恵が住むマンションも幹線道路沿いにあり、コンビニや牛丼屋など深夜でもやっていそうな店に囲まれていた。暗いところで待たなくて済む分助かるかもしれない。

―うまく行くだろうか…―

 常に頭をよぎる疑問である。

―絶対にうまく行く!―

 湧き上がる不安を、根拠のない確信で締め出そうと意気込む。


 真人を引取ってからすぐに、その練習はして来た。居間の柱にタオルの巻いたものをテープで張り付け、包丁で切りつける。香奈恵の身長は、おそらく早苗と変らないだろう。早苗の喉と同じ高さにタオルを取り付ける。

 どうやって香奈恵を殺すか?。早苗には「包丁で刺す」しか思いつかなかった。では、何処をどのように?腹を刺す?どのように?力のない早苗が、衣服の上から致命傷になるほどの傷を与えられるだろうか。包丁を両手でしっかり押さえ、駆け寄って体重をかけて差す。背後はダメだ。背中は硬そうだ。できれば一撃で致命傷になるところがいい。腹?となると、正面から襲い掛かることになる。

 などなど考えた結果、柔らかくてむき出しになっている、喉を搔き切ることにした。背後から近づき、声をかけて振り向いたところを包丁一振りで喉を搔き切る。

 もちろん、これはあくまでも机上の空論である。早苗には人殺しの知識などほとんどない。やって見なければ分からないことは良く分かっていた。しかし、それを承知で何度も何度も練習をして来た。真人が大きくなってからはなかなかできなかったが、会社を辞めてからは、真人が学校に行っている時間に密かに練習し続けてきた。それは何も、技術の上達のためではない。早苗の迷いを消し、洗脳するためである。

―大丈夫だ。絶対できる―

 早苗は、今一度自分に強く言い聞かせた。



 一時になったので、香奈恵のマンションに向かうことにした。外は寒くはない。しかし、早苗の身体は細かい震えが止まらない。胃も痛い。腹がねじ切れそうだった。

 マンションに到着すると、下見の時の計画通り、植栽の立ち木の陰に身を隠した。ここからならば、車道からマンションの入り口までが見渡せる。それに下見の時には分からなかったが、暗くなってから見るとここはちょうどいい具合に陰になっていて、外灯の当っている部分からは暗くて見えなくなっていた。

 車道からマンションの入口までは二十メートルほどあり、入口の風除室の自動ドアを入るとオートロックになっていて、そこで解錠の操作をしてからエントランスに入ることになる。早苗が狙うのは、オートロックの解錠の瞬間である。

 じっと息を凝らし、気を静めながら待つ。その時が来たら、迷わずに実行する。ためらいや迷いは厳禁である。バッグから包丁の入った箱を出し、箱を開け包丁を出した。切れ味の良い高級品である。切れ味確保のために買い替えたばかりだ。練習に使っていたものと同じ物なので手には馴染んでいる。それを震える右手で握り、そしてそれを落とさないように、震える左手で持参したビニールテープを巻きつけた。


 一時半ごろ、一台のタクシーがマンションの前に止まった。ドアが開くと女性が一人、電話をしながら降りてきた。香奈恵である。顔は、興信所から提出された写真で確認済みだ。昔と変わらない、いや、昔よりも美しくなっていたが、早苗の記憶にある香奈恵と同じ香奈恵であった。

 香奈恵は、スマホを耳に当てたままタクシーを降りると、運転手に片手を上げて挨拶しながらマンションに向かって歩き出した。早苗は飛び出すタイミングを見計らっていた。

 香奈恵の姿を見た瞬間、早苗の震えは止まった。今、早苗は驚くほど冷静だった。五年間の想いが、今、叶おうとしている。

 香奈恵は、おあつらえ向きに襟のないワンピースを着て、髪を上げている。喉元があらわになり、どうぞここを狙ってくださいと言っているように、早苗には感じられた。

 香奈恵は自動ドアの前で立ち止まり、電話で話し中である。いい具合に早苗に背を向けている。タクシーも立ち去った。周囲には誰もいない。絶好のチャンスだ。

 早苗は植栽の陰から姿を現した。香奈恵までの距離は十五メートルほどある。バッグを足元に置き、包丁を持った右手を香奈恵から隠すように後ろに回して、足音を立てないように気を配りながら、小走りで香奈恵に駆け寄った。そのために、今日はスニーカーを履いて来ている。

 香奈恵はまだ電話に夢中だ。

「木戸香奈恵さん!」

 間近まで近寄ってから、香奈恵に声を掛けた。香奈恵は反射的にこちらを振り向いた。眼があった。

 十年ぶりに見た姉の顔は、驚きのためか目を見開いていた。化粧で飾られてはいたが、早苗が最後に見たあの頃と変わらないようにも見えた。瞬間、早苗の心は高校生の頃に戻った。そして、時間を遡るかのように、幼かった頃まで記憶のページが捲られていった。

 早苗のもっとも古い記憶。最初の記憶の中の幼い香奈恵は、幼い早苗を可愛がってくれたものだった。早苗も香奈恵を慕っていたように思う。どこで何がどうなって、こういう関係になったのか…。

―雑念!消えろ!―

 迷いは厳禁。ためらってはいけない。もう、すでに決めたことだ。今更考えることは何も無い。

 早苗は右腕を上げて構えた。何度も練習して、一番よく切れると思われた方法で、腕を振った。

 香奈恵は右手にスマホを持ち、耳に当てたまま左側から振り向いていた。香奈恵の喉はがら空きだった。

 早苗の振った包丁は、引き込まれるように香奈恵の喉の左を捕らえた。早苗の手に確かな手ごたえがあり、包丁を振りぬくのに合わせて香奈恵が倒れた。

 衝撃でスマホは宙を舞い、尻もちをついて右手を突いた香奈恵は、早苗を見つめながら左手で自分の喉に触れた。脈打つ血が噴き出すように溢れ、見る見るうちに左手とドレスを赤く染めて行った。口元がわずかに動いて、何か言ったようにも見えたが、早苗には何も聞こえなかった。そして、激しく咳き込むと口から血があふれ出た。香奈恵はすぐに、力なく崩れ落ちて行った。ただ、顔だけは早苗の方に向けられ、力なく開かれた目で早苗を見つめていた。その顔は、血に染まりながらも、苦痛に歪むこともなく、白目を剝くこともなく美しいままだった。

「お姉ちゃん、あんたは血まみれでも美しいよ」

 早苗の顔には笑みが浮かんだ。その言葉も香奈恵には聞こえているのか分からない。しかし、早苗には香奈恵の口元にも笑みが浮かんだように思えた。

 事はあまりにあっけなく終わった。今までの緊張は何だったのか。

 早苗は安堵のため息を吐いた。

「待っててね、お姉ちゃん。すぐそっちに行くから」

 そう言ってから、すぐに思い直したかにように付け加えた。

「でも会えないか。私は同じ場所には行けないもんね。まあ、会いたくもないけどさ」

 苦笑した早苗は、右手の包丁を自分の喉に当てた。しかし、少し間を置いて腕を下ろした。

「ごめん。最後にちょっと、真人の声だけ聴かせて?」

 倒れた香奈恵に向かってそう言うと、植栽のところに置いたバッグまで戻り、バッグの中からスマホを取り出すと、包丁を握る右手の小指で操作し始めた。

 通りかかった通行人が悲鳴を上げた。そして、早苗と目が合うと何か叫びながら走り去って行った。




            *


 真人はスマホの着信音で目が覚めた。

 まだ辺りは暗い。壁の時計を見ると、まだ二時前である。真人はてっきり志乃からの電話だと思った。

「あいつ、こんな時間に何考えてるんだ?」

 不満たらたらスマホを見ると早苗からであった。真人は一気に目が覚めた。

「早苗さん?どうしたの?」

「真人?寝てたんでしょ?ごめんね。ちょっと、今日帰れなくなったからさ、その連絡」

 早苗の声は異様に落ち着いていた。落ち着いているというよりも、気が抜けていると言った感じである。

「帰れないって、何かあったの?」

「うん。でも心配ないよ。全部、うまく行ったから。もう大丈夫だからね、もう、何も心配ないからね」

「何?どうしたの?何があったのさ!」

 真人には、何かとんでもないことが起きていると言うことが分かった。

「真人、今までありがとうね。あんたのおかげで楽しい人生だった。ありがとう、ありがとうね」

「早苗さん、今どこ?何があったの?溝口さんは?」

 電話の向こうが何か騒がしい。人が騒いでいるようだ。真人は気が狂いそうになった。

「早苗さん!早苗さん!」

 遠くにパトカー?のサイレンの音が聞こえている。

「真人、化粧箱の中、見てね」

「何?化粧箱?」

 電話の向こうで誰かの叫び声が聞こえる。男の声だ。

―あんた!その手に持っているものを捨てなさい!―

 真人の耳にはそう聞こえた。

「真人、さよなら」

「早苗さん!早苗さん!」

 真人には、叫ぶことしか出来なかった。

「グフッ」

 電話から、嗚咽のような不気味な音が聞こえた。それに続いて、激しい衝撃音がした。

―スマホが落ちた?―

 真人はそう感じた。それは早苗に何か異変があったと言うことだ。電話の向こうからは、引き続き悲鳴や叫び声が聞こえる。救急車を求める声も混じっている。真人は、全身の力が抜け、目の前が真っ白になった。

 真人は何も考えられず、ただ電話の向こうの音を聞いているしかなかった。

「もしもし、聞こえますか?」

 突然、電話から男の声がした。溝口の声ではない。

「はい!」

 真人は反射的に返事をした。

「あなた、この電話の持ち主の知り合いですか?」

「そうです!家族のものです!いったい、何があったんですか?あなた、だれですか?」

 真人は泣きそうな声になっていた。

「警察のものです。まずこの電話の持ち主の名前を教えてください」

「き、木戸早苗です」

「木戸早苗…、あなたは?」

「木戸真人、早苗さんの…子供です」

「そうですか。お母さんは今、事件に巻き込まれて重傷を負っています」

 真人は心臓が止まりそうになった。

「どうなったんですか?大丈夫なんですか?」

「正直、どうなるか分かりません。今、救急車が来たので、病院に搬送します」

 電話の向こうから、救急車のサイレンが聞こえて来た。

「そこ、何処ですか?すぐ、そっちに行きます!」

「そうしてもらえると助かります。こちらも、いろいろ聞きたいことがありますので」

「場所を教えてください!」

 真人は泣きそうな声で叫んだ。

「その前にもう一つ、『木戸香奈恵』さんと言う人は分かりますか?」

 警察官は、何かを読み上げるように香奈恵の名を挙げた。真人の心臓が止まった。息も出来なかった。

「もしもし?聞こえますか?」

「さ、早苗さんのお姉さんです。どうかしましたか?」

 真人は震える声で尋ねた。

「この方も一緒に倒れていまして、こちらはもうすでに亡くなっています」

 そこで真人の記憶は途切れた。




 真人は、溝口に抱えられて病院の廊下のベンチに座っていた。どうやってここまで来たのかは思い出せない。一緒に溝口がいると言うことは、溝口に連れて来られたのだろう。

 そうだ、さっき医者から早苗の様態について説明を受けたのだった。確か、ここに着いた時には、すでに早苗の治療は終わり、病室に運ばれた後だった。

 命に別状はないと聞き、今は真人も落ち着いている。ずいぶん泣き叫んだらしく、目がしょぼつき、声もかすれて喉が痛い。

 溝口が取り次いでくれたおかげで、麻酔から覚めて意識が戻れば、面会させてもらえる。ただ、喉を負傷しているため、しばらくは会話が出来ないとのことである。

「真人?」

 溝口が、放心状態の真人に声を掛けた。

「少し気持ちが落ち着いたら、事情聴取に協力して上げてくれ。警察も、早く事件をまとめなくちゃならん。これはもう、殺人事件なんだ。下手なごまかしは通じないぞ。警察は、徹底的に捜査する。だから、捜査に協力することが、早苗さんのためになるんだ。真人の知っていることは全部、正直に話してくれ。俺もそうするし、志乃ちゃんのおじさんやおばさんにもそうさせる。だから辛いかもしれんが、頑張ってくれ」

「うん、分かってる」


 警察の聴取は、真人に気を使っているのか溝口の付き添いを許し、優しい言葉使いでゆっくりと行なってくれた。おかげで真人も、落ち着いて細かく説明することが出来た。ほぼ全て、正直に話すことは出来たが、一つだけ、早苗が当初から殺意を抱いていたように感じていたことだけは、口にすることが出来なかった。真人自身心苦しくはあったが、これを言ってしまうと早苗の立場が危うくなるような気がしてならなかった。溝口はそのことに気付いているだろう。真人が溝口に伝えた内容なのだ。

 そして、真人の事情聴取が終わった後、溝口が一人で聴取を受けている。きっと話してしまうことだろう。到底隠すことなど出来ないのだ。早苗の今後のことを考えると不安で頭がおかしくなりそうだった。

 廊下のベンチに一人座り、真人はポケットからスマホを取り出すと、志乃の電話番号を出した。




            *


 その朝の志乃は、いつもより早起きだった。

「あれ?どうしたの?なんか用事でもあるの?」

 母親の真由美が、驚いて声を掛けた。

「うん、何か夢見が悪くてさ、ちょっと早めに真人のところ行こうかと思って」

「ふーん?」

 真由美は、今どきの中学生も「夢見」なんていう言葉を使うんだ?と感心しながら、朝食に着く志乃を見ていた。そんな言葉、真由美自身、使った記憶が無いのだ。

 真由美は、自分の娘に志乃と言うちょっと古風な名前を付けたことを、少し後悔している。その思いは、志乃が成長するほどに強まっていくのだった。明るく活発なこの娘には、もっと今どきの可愛い響きの名前の方が似合っている気がする。この名を選んだ夫の話しでは、子供の頃実家にあった古いマンガのヒロインから取ったと言う。何でも、可愛くて勉強はできるが、性格的にちょっと抜けている所のある娘らしかった。その娘が真由美に似ていたので、つい選んでしまったと言うことだ。真由美はその話を聞いてがっくりしたのだったが、しかし、当の志乃本人は、この名前が結構気に入っているようだった。一時期、早苗が「お志乃」と呼ぶことを不満そうにしていたが、最近はそれにも慣れ、日本人らしい、いい名前だと自慢気に言っていたことがあった。

 何にしても、両親とは似ても似つかない不思議な娘であることは、真由美にとってうれしくもあり淋しくもあることであった。

 真由美がそんなことを考えていると、テーブルの上を見ていた志乃の顔がテレビの音に反応し、テレビの方に向きを変えた。それにつられて真由美もテレビに目をやると、二人の目がテレビに釘付けになった。

「…殺害された木戸香奈恵さんは、自宅マンションの入り口前で首を刃物で切られた状態で死亡しており、現場には首から血を流した別の女性が倒れていました。この女性が右手に包丁を持った状態であったことと目撃者の証言により、警察はこの女性が木戸さんを殺害したのち、自殺を図ったものとみています。自殺を図った女性は被害者の妹で、木戸早苗容疑者三十六歳で、すぐに近くの病院に搬送され、命に別状はないとのことです…」

 それを聞いた二人は、時間が止まったかのようにその動きが停止した。

 すると、凍り付く二人の間に電話の呼び出し音が響いた。その音は、志乃のバッグから聞こえる。バッグはテレビの前のソファーの上にある。取りに行こうとするが、体が思うように動かない。まるで夢の中で走っているようだった。這うようにしてたどり着いた志乃は、震える手でカバンを開け、何度も落としそうになりながらスマホをとりあげて表示を見た。真人からだった。志乃の目から涙がこぼれ、嗚咽が漏れた。

―真人が助けを求めてる―

 志乃は大きく深呼吸をすると、涙も嗚咽も一気に飲み込んで、震える手でスマホの着信をスピーカーで繋いだ。

「真人?こんな早くどうしたの?」

 志乃は、何もなかったかのように受けた。

「ああ、志乃ちゃんだね?志乃ちゃんの声だ」

 真人の声は、安堵したような声だった。しかし、いつもの真人とは明らかに違い、かなり動揺しているのが分かる。

「うん、そうだよ。何かあったの?」

 極力平静を装いながら語りかけた。

「すぐ、こっちに来てくれないかな?」

「うん、今行こうと思ってたところ」

「あ、いや、家じゃなくて病院の方」

―病院?―

 志乃の頭は少し混乱した。しかし、すぐに事情は呑み込めた。さっきのニュースで、早苗は病院に搬送されたと言っていた。つまり真人は、すでに事件の連絡を受けて、早苗のもとに行っているのだ。

「え、そう?うん、分かった。どこ?場所を教えて?」

 真人が、住所と病院名を言うと、横で聞いていた真由美が急いでメモを取った。志乃はそれを確認すると話を続けた。

「ちょっと遠いね。着くまで時間掛かるからさあ、その間に真人の方の状況を聞かせてよ」

 真由美は車のカギを取り、寝室の大川に何か話をしている。

「いったい何があったの?ゆっくりでいいから、私に聞かせてよ?」

 志乃は、やや遠慮がちに聞いた。

「うん、実は夕べ、早苗さんがお母さんを殺したんだ」

 真人は淡々とした口調だった。テレビで聞いてはいたものの、真人本人から直接聞くと、事実であることが決定づけられ衝撃が大きかった。

―なんで、自分でやっちゃうかな?あの人―

 志乃は、湧き上がる感情を懸命に押し殺して、冷静に話を続けた。

「お母さんって、真人のお母さん?」

「うん、五年前に俺を捨てた母親」

 志乃は、電話で話しながら真由美と一緒に玄関へ出た。

「それは、間違いないの?」

「間違いない。死体も確認した。お母さんだった」

 真人の声が震えた。

 志乃たちは、大川に見送られながら家を出た。

「早苗さんはどうしているの?」

 号泣したい衝動を堪えながら、志乃は聞いた。

「今、病室で寝ている。自分で自分の首を切ったんだって。治療は終わって、まだ眠っているって」

「様態はどうなの?」

 二人は車に乗り込み、ドアを閉めると真由美がエンジンを掛けた。

「あれ?今どこ?」

 真人にも、エンジンの音が聞こえたらしい。

「今、車に乗ったところ。お母さんの運転で、今からそっちに向かうからね」

「ああ、そう?気を付けてね」

「うん、ありがと。で、早苗さんの様態は?」

「ああ、そうだね。大丈夫、命に別状は無いってさ」

 志乃も、隣で運転する真由美も、ホッとため息を吐いた。

「よかったー」

 志乃の声は、絞り出すような声だった。

 すると突然、電話から真人のむせび泣く声が聞こえて来た。

「真人、どうしたの?」

 真人は答えず、ただ嗚咽のみが聞こえる。

「真人!真人!」

「どうしよう…」

 聞こえて来た真人の声は、かすれた、力ないものだった。

「どうしよう、早苗さんが人殺しになっちゃった」

 そこまで言うと、言葉が嗚咽に戻った。志乃には言うべき言葉が思い浮かばなかった。

「真人、泣かないで。それは、早苗さんが全部分かってやったことなんでしょう?真人が心配することじゃないわ。真人は心配しなくていいのよ」

「俺、知ってたんだ」

 真人が嗚咽しながら言った。

「え?何を?」

「早苗さんが、お母さんを殺そうとしていたことを」

「え?」

 志乃には、言っている意味が分からなかった。

「早苗さんは、包丁で人を斬る練習をしていたんだ。それを知っていたのに、止めさせようとはしなかったんだ。言おうと思えば、いくらでも言えたのに」

「真人、止めて、もういいから」

 志乃にも、話題を変えないとまずいことは分かった。しかし、真人は止める術を知らなかった。

「俺きっと、早苗さんにあの人を殺してもらいたかったんだ!俺も、あの人を殺したかったんだ」

 真人の嗚咽が、号泣に変わった。明らかに興奮して、錯乱状態になっている。

「真人!そこに誰かいないの?近くに誰もいないの?」

 とにかく助けを求めたかった。誰でもいい、真人を押さえつけ、なだめる誰かが。

―真人!どうした?何かあったのか?―

 電話の向こうで誰か、男の人の声がした。志乃にも聞き覚えのある声。その人が、真人をなだめてくれている。

「溝口さん!溝口さん!聞こえますか?志乃です!」




 溝口は興奮する真人を見つけると、慌てて抱きかかえて、落ち着くようになだめた。すると、真人の持っているスマホから人の声がするのに気づいた。志乃と名乗っている。

「もしもし、志乃ちゃん?」

 溝口は、真人からスマホを取りあげるとすぐに応対した。

「志乃です。あー良かったー。溝口さん居たんですね?」

「ああ、俺も真人と一緒にここに来たんだ。早苗さんのことは、もう聞いているのか?」

 溝口が落ち着いた口調で対応してくれたおかげで、志乃も落ち着くことが出来た。

「うん、今、簡単に真人から聞いた。最初はテレビのニュースで知ったんだけど」

「そうか、もうニュースになってるんだ」

「うん。で、今お母さんと一緒に、そっちに向かっているから、真人のことお願いします」

「ああ、そうか。気を付けて来いよ」

「あと、お父さんは仕事で来れないから、ちょっと電話して状況を説明して上げてもらえる?」

「分かった、そうするよ。あと、真人のことは任せといて」

 電話を切り、大きくため息を吐いた志乃は、やっと安心できた。そして、生まれて初めて溝口のことを頼もしく感じることが出来た。

 電話を切り、安心した志乃は急に涙が溢れ止まらなくなった。




            *


 志乃たちが病院に着くと、すでに病院は受付を開始しており、待合室には人が集まり始めていた。入り口前にはマスコミらしき人々もいる。

 志乃たちは、溝口に出迎えてもらい、何食わぬ顔で早苗の病室の近くの廊下までやって来た。そこのベンチには、真人が茫然とした様子で横たわっている。

「真人!」

 真人を見つけた志乃は、真人に駆け寄るとその首筋に抱き着いて泣き出した。

「志乃ちゃん?」

 真人は、驚いたように志乃の名を呼んだ。

「真人、良かった。無事でよかった!」

 志乃は、泣きながら叫んだ。

「志乃ちゃん、来てくれたんだね。ありがとう」

 真人は、志乃に抱き着かれたまま起き上がり、志乃の背に手を回した。

「そっか、おれがさっき電話したんだっけ?」

「なによ!忘れてたの?人がこんなに必死になって来たのに。こっちは、心配で死にそうだったんだから…」

 志乃は、泣き顔のまま真人の顔を睨みつけた。

「覚えてるよ、ちゃんと。志乃ちゃんに、近くに居て欲しくて電話したんだ。ここ、遠いから、場所も教えなきゃって思って」

 それを聞いて、志乃の顔が笑顔になった。

「そうだよ。それで正解だよ。電話くれてありがとうね」

 真人にも笑顔が見えた。しかし、その笑顔にも生気は見えない。

 真人は、二人の前に立っている真由美の姿に気が付いた。真人は志乃を離して立ち上がると、会釈をした。そして、

「おばさんも、忙しい所をありがとうございます。早苗さんが迷惑をかけて、申し訳ありません」

 そう言うと、改めて深く頭を下げた。

「何言ってるの?真人くんが謝ることじゃないわ。頭を上げてちょうだい」

 真由美は、真人の肩にやさしく手を置いた。

「それより、早苗さんの方はどうなったの?」

 真人は重苦しい顔で、小さく頭を横に振った。

「まだ何も…」

「そう?じゃあ、待つしかないね」

 真由美は、ため息交じりに答えた。

「おっ、人数が増えたかな?」

 背後から声がした。皆が振り向くと、目つきの良くない男が立っている。刑事の西島だ。

「西島さん、こちら早苗さんの友人で、大川真由美さんと、その娘さんの志乃ちゃんです。真人の気持ちが安定すると思って来てもらいました」

 溝口が、紹介がてら説明した。

「そうですか。あまり認めたくはないですが、まあ、仕方ないでしょう。とにかく、あくまでも木戸容疑者は、殺人の容疑者であると言うことを念頭に置いておいてくださいね」

 西島が厳しい顔で言うと、志乃は明らかに敵意を示し、何か言おうとした。

「志乃ちゃん!」

 溝口が、たしなめるように志乃の名を呼び、小さく頭を振って知らせた。

「木戸容疑者の意識がはっきりしてきて、こちらの取り調べも一段落しましたので、医師と私の立ち合いを条件として、少しの時間なら面会を許可しますが、どうしますか?」

「もちろんお願いします。ご配慮感謝します」

 溝口が深々と頭を下げた。




 病室に入ると、すでに医師と看護師らしい二人が立っていた。早苗は起こされたベッドにもたれていた。喉には分厚いガーゼのようなものが貼られ、その下にはバンドで固定されたプラスチックのパイプのようなものが喉から出ている。

 早苗は、真人たちが入ってきたことに気が付いたのか、力なく目だけを真人たちに向けた。その目は心なしか潤んでいる。それは罪への後悔のためか、真人たちへの懺悔の思いか、それとも自分が死に切れなかったことへの悔いのためか、その真意は分からない。

「早苗さん。あの人を殺す練習はしても、自分を殺す練習はしてなかったんだね?」

 真人は悪戯っぽく笑ったが、周囲の他のみんなは真人の言葉にギョッとした。

「早苗さんが間抜けで良かった」

 真人はベッドの横に膝を突き、布団に顔を付けて泣き出した。早苗は布団から腕を伸ばし、真人の頭を優しくなでた。その場が何となく和んだその時、突然志乃が憤慨しだした。

「ちょっとあんた達、何をしんみり、いい雰囲気になっているのよ!」

 そう叫ぶと、いきなり真人の襟をつかんでベッドから引き離すと、真人に向かって怒鳴りつけた。

「真人!あんたこの人が何やったか分かってるの?下手すりゃあんたまで死なせるところだったんだよ!この人は!」

 そう叫びながら、志乃は早苗の方を何度も指さした。更に、真人を突き放すと早苗の方に向き直り、早苗に向かって攻撃し始めた。

「早苗さん!あんたいったい何考えてるのさ!別に私は真人のお母さんのことは知らないけどさ、それって絶対殺さなきゃならないものだったの?殺さなきゃ真人は幸せになれなかったの?その人が真人に辛く当たるなら、私が真人を守ってやったのに!早苗さんだってそうでしょう?溝口さんだってそうだよ、みんなで真人を守って上げれるじゃないの!今の真人は昔みたいに一人じゃないんだからさ!それに、もしどうしても殺さなきゃならないんだったらさぁ、なんで真人に殺させなかったのさ?」

 一同、息を飲んで志乃を見た。

「いい?真人はねえ、早苗さんが人殺しになるよりも、自分が人殺しになるほうが楽なんだよ!早苗さんのためなら、自分の母親ぐらい殺せるよ!そういうやつなんだよ!いい?早苗さん?真人はこれから、一生あなたを人殺しにさせてしまったという、負い目を背負って生きて行かなきゃならないんだよ?あんたこれどうすんのさ!真人のこと考えるなら、あんたが辛くても真人にやらせるべきだったんだよ!それでもし、真人が生きて行くのに問題があってもあたしが守ってやるよ、あたしが真人を食わせて行ってやるよ!なんで分かんないのさ!真人にとってあんたが全てなんだよ!なのにさあ!その上、何で死のうとしたのさ?早苗さんがいなくなったら、真人がどうなるか、考えなかったの?そんなことになったら、絶対に真人はおかしくなっちゃうし、最悪、後を追って行っちゃうかもしれなかったんだよ?そんなこと考えなくても分かるでしょ?早苗さんのやったことはね、真人のためでも何でもないんだよ!全部、早苗さんの自己満足だったんだよ!」

 志乃の顔は、涙でぐっしょりと濡れていた。

「だからさあ、早苗さんは償わなけりゃダメなんだよ。これから刑務所入ってしっかり反省して、出てきたら真人に罪滅ぼしをしなきゃだめだからね。分かってる?刑務所でたらさぁ、何年かかってもいい。何十年かかってもいいからさ…、幸せになってよ」

 ここまで言うと、志乃はその場に泣き崩れた。そして叫んだ。

「だって、早苗さんが幸せにならないと、真人は幸せになれないんだもん!私ひとりじゃ、真人を幸せにできないんだよ!」

 志乃の号泣が始まった。真由美は困ったように志乃を抱きかかえた。

 溝口は、西島にすがって懇願していた。

「これは、子どもの戯言でして、どうか穏便に…」

 早苗は…。

 早苗は、じっと目を見開いたまま天井を見つめていた。ただ、その目からは涙が溢れ、頬を濡らしていた。


 病室に重苦しい空気が立ち込めた時、入り口のドアを誰かがノックした。ドアに視線が集まるとドアが開き、制服の警官が顔を出した。

「西島さん、ちょっと…」

 そう言って警官は、西島に向かって手招きをした。西島はドアの方へ向かうと、外へ出てドアを閉めた。

 そして、そのドアはすぐに開き、西島が戻ってきた。しかし、今回はその後ろからスーツ姿の見慣れない女性が入ってきた。髪を肩まで伸ばした、五十代と思われる優しそうな女性である。

 見知らぬ女性。しかし、早苗だけはその女の顔を見て、目を見開いた。その顔には、驚きと共に恐れも現れていた。女も、早苗と目が合うと軽く会釈をした。

「弁護士さんがお話があるとのことです」

 西島がいぶかしそうに紹介すると、弁護士と言う言葉に、皆がその女に注目した。女は、その場のみんなの顔を見渡しながら言った。

「私、木戸香奈恵さんの代理人をしていました、筒井と申します」

 筒井は、真人に視線を向けた。

「あなたが真人君ね?」

 そう言うと、女は名刺を取り出し、真人に差し出した。真人は立ち上がり、それを受け取った。

「早苗さんとは、以前一度、君のことでお会いさせてもらっていたんですよ、真人君?おそらく、聞いてはいないと思いますが」

 筒井は、落ち着いた笑顔で真人を見詰めた。

 真人は、何のことかと少し考えたが、すぐに理解して驚きのまなざしで早苗を見た。真人には、ここしばらくの早苗の様子の異変の理由が分かったような気がした。早苗は、ただ怯えた視線を筒井の方へ向けていた。

「どうでしょう?真人君、早苗さん。私を早苗さんの弁護人として雇っていただけませんか?」

 病室内がどよめいた。

「お願いします!」

 真人は、すぐさま叫んだ。深い考えなどない、早苗を助けたいだけの、いわゆる藁にもすがる思いからであった。

「ちょっと待て!」

 溝口が真人の腕をつかんだ。すると、筒井が溝口のその腕に、それを制するように手を当てて、溝口を見た。

「費用の事でしたらご心配なく」

 筒井は、余裕のある笑顔で皆の顔を見回した。

「真人君のお母さん、木戸香奈恵さんには、結構な額の預金があります。それらは、香奈恵さんがなくなった今、全て息子さんの真人君が相続することになります。更に」

 筒井は、早苗に視線を向けた。

「香奈恵さんは、真人君を受取人として、多額の生命保険にも入っておられました」

 早苗の顔が青ざめた。そして、強張った顔で筒井を見詰めていた。

 筒井は、視線を真人に移し、笑顔を作った。

「ですから、弁護費用に不自由することはありません。よろしいですね?」

 真人は大きくうなずいた。筒井はそれを確認すると、視線を早苗に移し、早苗の返答を待った。早苗は強張った顔のまま、じっと筒井と真人を見比べていた。

「いかかですか?お任せいただけませんか?早苗さん?」

 筒井は、静かながらも圧力を感じる声で早苗に迫った。

 早苗の顔が泣きそうになった。筒井が視線を落とすと、筒井の右手を早苗の左手が握りしめていた。筒井が視線を早苗に戻すと、早苗は救いを求めるような必死な顔で筒井に何かを訴えかけていた。口が激しく動いている。

「お」

「ね」

「が」

「い」

 その口の形は、確かに「おねがい」と言っていた。

 筒井の表情が悲しみに満たされた。筒井は身をかがめ、早苗の耳元に口を近づけて何かささやいた。

―あの事は、真人君には秘密と言うことですね?―

 それは小さく、他の誰にも聞こえないように配慮されていた。早苗は激しくうなづいた。筒井は悲しそうな笑みを浮かべると、再びささやいた。

―もちろんです。安心して、秘密は護ります―

 筒井が早苗の耳元から顔を離すと、早苗は泣きそうな顔のまま激しく口を動かした。それは「絶対に!」と見えた。

「分かってる。心配しないで。今でも、私はあなたの味方だから」

 筒井が早苗の目を見据えてそう語る声は、落ち着いた温かみのある声だった。

「だから、私にあなたの弁護をやらせて」

 早苗は、真人と筒井の顔を見比べながらしばらく考えていたが、ついに観念したかのように小さくうなづいた。

「分かりました。ありがとうございます」

 満足そうにそう言うと、筒井は視線を西島に向けた。

「申し訳ございません。五分で結構です」

 そう言って、西島の前に自分の手のひらを広げて見せた。

「五分で結構ですので、依頼人と二人にさせて下さい。その後、私から木戸香奈恵さんに関する情報を、警察の皆さんにお伝えしたいと思います。ですから、五分だけ時間をください」

 西島は不満そうに舌打ちをすると、おとなしく外に出て行った。

「申し訳ありません。他の皆様も席を外してくださいますように」

 筒井は促すように、皆を急き立てた。

「あ、真人君と、あと先生も出来れば残っていただきたいです」

 筒井は真人と医師を呼び止めた。



 筒井は、椅子を早苗の枕元に置くと、その横に立って早苗に向き合った。

「まず、この度は私の気が回らず、残念な結果になってしまったことを、深くお詫びします。申し訳ありませんでした」

 筒井は、低い静かな声でそう言いながら頭を下げた。早苗も、真人も驚いた様子でそれを見ていた。

 頭を上げた筒井は、椅子に腰を下ろすと改めて早苗を見た。

「実は、私にはこういうことになることを予見できていたはずだったんだよね」

 筒井は、残念そうにため息を吐いた。

「私がもっと事態を真剣に捉えていれば、早苗さんのことを止めることが出来たと思うの」

 筒井は、自分の肩越しに、背後にいる真人に顔を向け、

「真人君にも、本当に申し訳ない事をしました」

 と言いながら頭を下げた。

 早苗と真人は何も言わずに、と言うよりも、何も言えずに黙っていた。

「お二人とも、突然私のようなものがしゃしゃり出て来て胡散臭く思っているかと思うんですけど、別に私は香奈恵さんの遺産が目当てと言う訳でもないんですよ。実は香奈恵さんから、もし自分に何かあったら、早苗さんの弁護をしてあげて欲しいとのお話があったんです。まあ、さすがにそのときは、私も冗談だと思ってしまったんだけど」

 早苗と真人の表情に驚きが現れた。

「早苗さんも覚えていると思うけど、私が真人君のことで伺ったとき、あなたは『なぜ、本人が直接来ないのか』と言うようなことを言ったでしょ?それに対して私が、香奈恵さんは『あの娘は私に会ったら私を殺すと思う』と仰っていた、と言ったと思うんだけど。実は、香奈恵さんが私にその話をしたその時に、もしもそうなったら早苗さんの弁護をしてやってくれと言われたの。まあ、その時の香奈恵さんの様子もふざけたような言い回しでしたので、私も本気にしてなかったんだけどね。でも、今回こういうことになって見て、ひょっとしたら香奈恵さんは、こうなることを予期していたのではないか、と私は感じているの」

 筒井は少し言葉を詰まらせた。

「手短かに言います。真人君、早苗さん。香奈恵さんは、真人君を手放したことをずっと後悔していました。しかし、一緒に暮らしていると、真人君を不幸にしてしまうとも、感じていました。香奈恵さんは、こう仰ってました。自分は、何故か意図的に他人を傷付けてしまう。そして、いつもやってしまってから後悔するんだと。それは本気で思っていたようで、香奈恵さんは、心療内科で治療を受けていたそうです。私は、症状や治療の内容など詳しくは聞いていませんが、何年か通っていたらしいです」

 二人は何も言わずに聞いていた。筒井は、小さくため息を吐いてから話を続けた。

「香奈恵さんは本来、ご自身の状態が好転してから真人君を迎えたいと考えていたらしいんだけど、その治療に効果が現れなかったようで、もう待ち切れなくなったとのことでした。それで、真人君と二人で暮らすのを諦めて、早苗さんを含めた三人で暮らすことも考え出したそうです。早苗さんが自分のことを制御してくれることを期待したわけね」

「そんな勝手なことを…」

 真人が、吐き出すように呟いた。

「ええ、それは香奈恵さん自身も承知していて、それでどうするべきかと私に相談して来られたわけなの」

 筒井は恐縮そうに言った。

「まあ、私としては早苗さんと児童相談所、それと医師の三者の意見を聞きながら最善の策を探そうとしていた所だったんだけど。ただ、今気になっているのがね、真人君の件と合わせて香奈恵さんの資産の管理を任されたことなのね。その時は、香奈恵さんの精神状態が悪化した場合を心配しての事かと思っていたんだけど」

 ここまで話して筒井は、何も言わず早苗と真人の顔を順に見回してから、

「お二人も何となくお分かりよね?」

 と、含みのある言葉を言ってから、話しを続けた。

「軽率なことは言えませんね。これはあくまでも、私の想像でしかないんだけど、その時点でご自分の資産を、真人君に譲る準備をしたかったのではなかったのかと思えちゃうの。もっと言えば、香奈恵さんはもうご自分の死を覚悟していた…ひょっとすると早苗さんに手を掛けられることも予想していたのではないか…いえ、むしろそれを願っていたのでは?と…。実際、香奈恵さんが精神的に弱っているのを、直接拝見する機会もあったし。それで私も心配はしていたのだけど…」

 沈黙がしばらく続いた。

「とにかく」

 突然、筒井が気持ちの整理が付いたかのように、はっきりとした口調で口を開いた。

「今後は早苗さんの弁護に全力を尽くします。早苗さんも、気持ちを整理して、取調べの準備をしていてください。私はこれから、警察の方に香奈恵さんのことを説明してきますので、後程また」

 そう言うと筒井は立ち上がり、頭を下げた。

 早苗も真人も、退室する筒井を見送る気力もなかった。筒井の話が、あまりに意外だったからだ。真人も混乱していた。香奈恵とはいったいどんな存在で、何を求めていたのか。そして、早苗がこの話を聞いて何を感じ、何を考えているのか。

 真人は、早苗の顔色をそっと伺ってみる。早苗も真人の顔を見ている。その目は怯えているようにも見えた。顔も強張っている。明らかに動揺している。真人の胸に不安が込み上げて来た。早苗が取り乱すのではないかと言う不安だ。

「気分は大丈夫ですか?」

 突然聞こえた声に、二人は驚いて声のする方を見た。いつの間にか早苗の枕元に白衣を着た医師が立っていた。筒井が気を使って残してくれた医師である。動揺する早苗を気遣って、声を掛けてくれたのだ。

 そのおかげか、早苗の顔から不安が消えた気がした。真人も少し安心し、布団の中から早苗の手を取り出ししっかりと握った。

「早苗さん、迷わないで。早苗さんは俺のためにやってくれたんだ。俺は嬉しいよ。世の中のすべてが早苗さんを非難しても、俺は早苗さんを支持する。早苗さんは俺にとって正義なんだ。ありがとう」

 早苗の目から涙がこぼれた。微かに口が動いた。真人の目には、その動きが「ありがとう」に見えた。違うかもしれないが、真人はそう受け取った。




            *


 早苗はじっと考えた。香奈恵はいったい何を考えていたのか。早苗は今まで必死になって香奈恵に対して抗って来たつもりであった。しかし、結局はすべてが香奈恵の策略通りに動いたに過ぎなかったのではないか。

 理由は分からない。ただ香奈恵は、早苗に真人を預けて育てさせ、それを確認したらあとは早苗に自分を始末させるつもりだったとも考えられる。ひょっとすると、早苗が死に切れず生き残ってしまうことも予想していたのかもしれない。

 真人の指摘通り、早苗は自分を殺すことに対しては具体的な計画を立てていなかった。香奈恵の殺害に対しては、かなりの練習をして来た。しかし、自分に関しては、とにかく香奈恵を殺した後は自分も死ぬ、程度でどのようになどの具体策は考えもしていなかった。

 それ故、香奈恵の殺害時、凶器を落としたりしないようにテープで固定したことが仇となることに気づかなかった。実はあの持ち方では自分の首は切れない、否、切りづらいのである。あの場面では、包丁を持ち替えなければならなかったのだ。しかし強引にそのまま切りつけたため、力が入らず傷が浅くなってしまったのだった。

 実際、早苗の自殺が失敗したのは、早苗にとって最大の誤算であった。なぜなら、早苗が生き残ることによって、関係者すべてに重荷を背負わせてしまうことになったから。それならばいっそのこと、香奈恵の殺害そのものを失敗したほうが、まだましだったと言える。そうすれば、早苗は殺人未遂と言うことになり、真人を含む関係者が背負う負担もかなり軽くなっていた。そして香奈恵のことは、志乃の言う通りみんなで協力して真人を守って行ってやれば良いのである。

 しかし、現実は香奈恵が死に、早苗は生き残ってしまった。そのせいで、周囲の人たちは、殺人犯木戸早苗の面倒を見なくてはならなくなってしまったのだ。おそらく早苗は十年以上服役することになるだろう。その間に真人を含む関係者は気持ちを整え、環境も整理して新たな生活を始めることだろう。そこへ刑期を終えた早苗が突然帰って来るのだ。それはもう、重荷以外の何物でもない。

 おそらく、真人は歓迎してくれることだろう。そして、まだ付き合っていれば、志乃も受け入れてくれるかもしれない。しかし、その他の人々にとって早苗は、彼らの平和を乱す以外の何者でもないのだ。それまで良好であった、真人を中心とした人間関係が、早苗の帰還によって全て崩壊してしまうことになる。

 それ故、早苗は自殺と言う手段を選んだ。早苗が死んでしまえば裁判も行われない。警察が捜査して終わりだ。そうすれば詳しい込み入った事情はマスコミ等に公表されることは無い。そして何よりも、それですべては終結するのだ。もう、蒸し返されることは無い。関係者も殺人犯の友人知人である。家族親族ではない。真人だけは親族となるが、真人も、狂った叔母に母親を殺された被害者でもある。悲しい思い出としてしまって置けるのだ。

 しかし、早苗が生き残ってしまったために裁判をしなければならなくなった。殺人事件だから、おそらく非公開裁判は難しいであろう。つまり、事件とそれにかかわる事細かな内容の発表、つまり検察と弁護士による、真人のプライバシーの発表会が行われるのだ。早苗が最も心配するのはそのことで、自分はどうでもいいが真人のプライバシーまであからさまにされるのを避けたいのである。その内容は、容赦なくマスコミによって面白おかしく公表される。未成年だなどと言って容赦はしてくれない。名前と顔写真以外はすべて晒されてしまう。そしてそのマスコミの最後の良心をも踏みにじるように、インターネットが包み隠さず公開してくれる。

 そして、早苗が生きている限り早苗の現状を報じるメディアが出てくる可能性さえある。いつ蒸し返されるか分からないのだ。

 早苗は、真人の人生から香奈恵と言う脅威を排除したつもりであった。しかしそれは、かえって真人に早苗の犯罪と言う重荷を背負わせてしまうことになってしまった。

 早苗自身も、現実は香奈恵の策略に乗っかり、一生逃れることの出来ない頸木くびきに繋がれてしまったのである。俗に言う「人を呪わば穴二つ」というやつだ。

 結局早苗は、香奈恵に弄ばれるだけの人生だった訳だ。


 そんな絶望感を味わいながらも、早苗の心の片隅ではこんな思いも抱いていた。

―まあ、死ぬのはいつでもできるか…―





「それとですね、西島さん…」

 筒井が、木戸香奈恵から受けた依頼の件と、その他筒井が知る香奈恵に関する情報などを全て説明したのち、改めて西島に語り掛けた。

「なんですか?」

 西島は、今筒井から受けた説明に困惑していたところに、まだ何かあるのかと鬱陶しい思いを抱きながら聞き返した。

「早苗ちゃん…木戸容疑者のことなんですが」

「はい、何でしょう」

 筒井は少しためらいを見せていた。

「彼女の取り調べに対しては、少し配慮をお願いしたいと思いまして」

「はあ?」

 西島は、少し気分を害したように声を上げた。

「はい。出来れば女性の方に、取調べをお願いできないかと」

 筒井の言葉に、西島は眉をひそめた。

「実は、彼女は男性恐怖症である可能性が考えられるのです」

 それを聞いて、西島は沈黙した。筒井はやや口籠りながら続けた。

「あまり詳しくは申し上げたくないのですが…。そして、出来ればこの事は、彼女の周りの人には秘密にしていただきたいと思います。実は、早苗ちゃんは高校生の時に、ある事件に巻き込まれまして、精神的にかなりの傷を負っているんです」

 西島を始め、同席していた警察官が息を飲んだ。

「彼女は裁判で戦いました。刑事でも民事でも…。彼女のご家族は反対しました。しかし、彼女は私を立てて戦ったのです。おそらく彼女は相手と差し違えるつもりで臨んだのだと思います。その結果、彼女は本人の想像していた以上の傷を負いました。その後しばらくして、私も気になったので一度連絡して見たんです。そうしたら、気持ちは大分落ち着いて来たけれど、今でも男性が怖いと言っていました。それと、事件のことは思い出したくないので、今後連絡はしないで欲しいとも」

 筒井の言葉は次第に力ないものになって行った。

「つまり、先生はその時に、彼女の弁護をしていたんですか?」

「はい、そうです。それで今回彼女のお姉さんから依頼を受け、妹との和解を取り持って欲しいとのことだったので、私も喜んで引き受けたんです。実際、そんな複雑な関係だったとは思いもしなかったものですから」

 筒井はやるせない様子でため息を吐いた。

「それで、私は彼女に会うのを楽しみにしていたんです。もう十年以上経って、もう彼女も立ち直って元気にしているものと思って…。でも違ったんです。私を見た彼女は完全に凍り付いていました。恐怖に凍り付いていたんです。私は彼女の過去をこじ開けてしまったんです。その時の彼女は半狂乱でした。私はとんでもないことをしてしまった。そう感じました。彼女の心の傷はまだ癒えていなかったんです。傷も痛みも無いものとして、目を逸らして来ただけなのです。だから私の出現によって、傷の存在に気づいてしまったんです。だから、今も男性を恐れていると思います。おそらく、日常生活の中ではある程度距離を取っているから、表面には現れないで済んでいるかもしれません。でも、取調べの時は個室の中で、否応なく高圧的な雰囲気になってしまいます。早苗ちゃんがそれに耐えられる保証はありません。彼女は自分の罪を隠す気持ちは無いと思います。きっと素直にすべてを自供すると思います。ですから、彼女が話しやすいように環境を配慮してあげて下さい。お願いします」

 筒井は、力なく深く頭を下げた。

「そして、この事は是非ここだけの話にしておいて下さい。特に真人君には知られないように。彼女が一番恐れているのはその事のようです。先ほども、そのことを必死に懇願してきました」

 西島は深いため息を吐いた。筒井は話を続けた。

「理由は分かりません。本当に、真人君だけには秘密にしたいんだと思います。それで、もし真人君に知られたら…。彼女の性格上、人格を保っていられなくなるかもしれません」

 筒井は鋭い眼差しで言い切った。







      5.信書



        <遺書>



―真人へ―


 真人、突然のことで驚いたでしょう?あなたに前もって説明できなかったことは、本当に申し訳なく思います。でも、分かるでしょ?あなたに言ったら絶対反対されるし、ひょっとすると自分がやるとか言い出し兼ねないから。あなたに反対されると、やっぱり私も決意が揺らぐと思うんだよね。そして、あなたにやらせるわけには行かないから、中止するしかなくなると思うの。

 でもこの事はもう、あなたに出会ったときから決めていたことだからやめるわけには行かなかったの。何しろ、あなたを引取ったのはこの事のためだったんだから。

 ごめんね。あなたはあの人をおびき出すための囮だったの。囮にするためにあなたを引取ったの。あの時は本当に思い付きで、具体的なことは何も考えていなくて、じゃあその後はどうするの?とか、あなたがどう思うのか?とか、私がいなくなったらあなたがどうなるか、なんてことは考えもしていなかったの。無責任でしょ?

 私の動機は分るよね?この前、大川さんから私とあなたのお母さんとの関係は聞いているでしょ?私の人生を踏みにじったあの人を許せなかった。更に、私の愛した人までも弄んでいたと聞かされたら、もうその憎悪は抑えることができなかったの。そして、あなたを復讐のための道具にしてしまったの。

 あなたはきっと傷ついていることでしょう。結果的に、私もあなたを見捨てたことになるんだから。それは私も分かっていました。でも、私は私の復讐を優先したの。ごめんなさい。

 でも誤解しないでね。前にも言ったけど、私は姉のことは憎んでいます。でも、あなたのことはそれとは別です。この前は、好きでも嫌いでもないと言ったけど、今は訂正します。あなたのことは大好きです。


 今回のことを実行するにあたって、具体的に計画を練っているうちに、初めてあなたのその後のことをどうするかと言う問題に気が付きました。でも幸い、あなたはもう子供じゃないからそんなに心配する必要は無いと思っています。身の回りの人たちも、良い人ばかりだからきっと力になってくれるでしょう。

 そうは言ってもあなたの保護者となって面倒を見てもらうにはあまりに申し訳のない人達です。それで今回、笹本さんご夫妻にお願いしてみることにしました。分かるよね?あなたのお父さんのご両親。あなたのおじいさん、おばあさんです。

 私も昔、二度ほどお会いしたことがありますが、とても優しくて心の広い方々でした。いままでどこにお住まいか分かりませんでしたが、さる方に調べていただいたら住所が分かりました。市内です。お二人ともご健在とのことです。

 それで昨日、笹本さんに手紙を出しました。あなたのことをお願いするためです。笹本さんにとってあなたは孫にあたり、愛する息子さんの忘れ形見です。きっと大切にしてくれると信じています。手紙にはあなたの写真と電話番号を同封しておきました。後日、連絡があると思います。もし来なかったら、住所を書いておきますので、直接訪ねて行くように。

 そして、もし出来るならば、笹本さんの養子にしていただきなさい。そして、木戸との関係は無かったものとして生きなさい。そして幸せになりなさい。

 あなたには申し訳ないことばかりです。でも、私にとってこの五年間は、人生において唯一、人間らしく暮らせた期間だったと感じています。

 本当にありがとう。幸せでした。


                              早苗



  真人様





―志乃ちゃんへ―


 志乃ちゃん、今まで大変お世話になりました。

 思い返せば、志乃ちゃんには私の足らない部分をいろいろと補ってもらっていました。真人のことで、私には気づき得ない真人の気持ちを察して、私に教えてくれてありがとう。

 悔しい話ですが、私はあなたの性格に嫉妬していた部分があるように思います。あなたの、その物怖じしない、遠慮しない積極性。ウザいと感じることもあったけど、もし私にその性格があったなら、こんなに拗れた面倒くさい事態にはならなかっただろうなと、何度も感じました。

 真人には、私のような開き直った、冷めきった人間よりも、あなたのような活気に満ちた人の方が必要なのだと思います。そう言う意味で、一番初めにあなたと出会えたことは、真人にとって何よりも幸運なことだったと思います。そして、あなたが真人のことを気に入ってくれて、取り入ってくれたこともそうです。あなたが普通の女の子のように、遠慮がちに接してくれていたならば、真人の性格だけでここまで親しい間柄には成れなかったことでしょう。


 今回、私はとんでもない罪を犯そうとしています。それは社会に対しても、真人に対しても顔向けできないことです。個人的な恨みのために真人を裏切って、見捨てようと言うのです。真人が傷つくのは目に見えてます。そしてそれは、志乃ちゃんにとっても許しがたいことでしょう。私にも、本当はやるべきではないと言うことは分っています。でも、やらずには、いられないのです。やらなければ、やらずに我慢し続ければ、いつかどこかでもっとひどい事態を招くような気がするのです。

 こんな私があなたにお願いできる立場ではないことは、良く分かっています。しかし、志乃ちゃんしか頼れる人がいないのです。真人の身寄りは笹本さんと言う、真人の祖父母に当る方にお願いしました。笹本さんはきっと真人を大切に見て下さるでしょう。でも、真人の心を見て上げられるのは志乃ちゃんだけだと思っています。住む場所は今よりもかなり離れてしまいますが、どうか真人に寄り添い支えてやってください。私が見るに、志乃ちゃんは知ってか知らずか、真人に対して妹のように甘えながら、時には姉のように引っ張ると言う高度な技を使っていました。これは誰にでも出来ることではありません。今後も、同じように力になってやってください。

 今後、あなたたちがどういう関係になって行くかは、私にはわかりません。二人の人生はまだ長いのです。特に若いうちは、心も環境も変化が激しいものです。どんな人と出会い、どんな環境に立つことになるかは予想できません。だから、二人が必ずしも今のままの関係でいなければならないと言うわけではないのです。場合によっては、もっと良い別のパートナーに出会うかもしれません。それも人生なのです。ただ、もしそうなっても二人は仲違いせず、兄妹のように、姉弟のように支え合って行って欲しいのです。どんな環境に有っても、真人には志乃ちゃんが必要なのは変わらないんだと私は信じています。

 手紙であるのを良いことに、反論も許さず一方的にお願いばかりを押し付けてしまいました。きっと腹立たしい思いでこれを読んでいることでしょう。でも、真人に罪は有りません。あくまでも真人は被害者です。狂った叔母に自分の母親を殺されたのです。どうかそんな真人を、志乃ちゃんの愛で温かく守ってあげて下さい。お願いします。



                              早苗



  大川志乃様





―溝口くんへ―


 溝口くん、今まで本当にありがとうございました。

 溝口くんの存在があったおかげで、今までくじけることなく何とかやってこれました。心が弱くなり、折れてしまいそうな時、いつも溝口くんの力を借りて乗り越えて来ました。

 それなのに、いつも軽口をたたいてぞんざいに扱ってしまい、ごめんなさいね。私はまともな人間ではありません。そんな私が溝口くんとあまり親しくしすぎる訳にもいかず、一線を引いておきたかったのです。頼るときだけ頼って、何のお返しもしないなんて最低の人間でしょ?溝口くんは、もっと早くに愛想をつかして離れて行くものだと思っていたのに、しつこく付き合ってくれるから、ついつい悪いと思いながらも頼り続けてしまいました。ちょっと良い人すぎますよ、溝口くん。


 今回のこと、真人を引取った時からすでに考えていました。と言うよりも、この事を目的に真人を引取ったようなものです。真人を利用したようなものですから、心苦しいし、申し訳ない思いですが、私の殺意はそんな思いを超えていたようです。溝口くんなら分かってくれますよね?私の気持ち。ずっと、私を裏切った笹本くんを恨んでいたのに、笹本君もあいつに弄ばれていたなんて、そんなこと知ったらあいつのこと放って置けるはずないでしょ?五年間黙っていられたのが不思議なくらいです。

 真人のことは、笹本くんのご両親にお任せしようと思います。私も二度ほどお会いしてどんな方だったかはよく覚えています。とても優しく心の広い方たちだったと思います。おそらく私のことは覚えていないと思いますが、一応手紙を出して真人のことをお願いする旨のことは伝えておきました。きっと真人の方に連絡が行くことでしょう。真人には、笹本さんの養子にしていただくよう伝えることにしています。真人には、木戸の問題を背負ってほしくないので。溝口くんも真人が「笹本真人」として、新しい人生を出発できるようにサポートしてあげて下さい。私の最後のわがままです。

 私は人殺しの極悪人ですが、真人は母親を殺された被害者です。警察官が力を貸しても何の問題もないですよね?

 あと、志乃ちゃんのこともお願いします。こういうことがあって、志乃ちゃんの心が真人から離れてしまっては困るので。真人には今後の人生においても志乃ちゃんは必要な存在です。

 最後まで頼りっぱなしになってしまいました。でも、もうこれで終わりです。私のワガママももう終わりです。溝口くんもこれからは、私と言うしがらみから解放されて、自由に生きて幸せになってください。

 今までありがとう。



                              早苗



  溝口様


追伸

 やはり、思い切って白状します。

 溝口君は、いろいろな時に私の態度に冷たさを感じたのではないですか?それは事実かも知れません。でも、それは溝口君が嫌だったのではなく、私が男性そのものを拒否してしまう体質だったのです。自分でも忘れていました。過去のトラウマです。最近ある事でそれを思い出しました。笹本くんの件とは全く関係ありません。知らず知らずのうちに傷付けてしまったのではないかと思い、申し訳なく思っています。それで、最近の真人に対する距離感も、そこから来ていたのだと思うと納得出来ました。つくづく自分が情けなくなります。





―大川さん御夫妻へ―


 この度はお騒がせして申し訳ありません。きっと、多大なご迷惑をおかけしていることと思います。

 お二人にはこの五年間お世話になりっぱなしで、何の恩返しも出来ぬままになった事をお許しください。最初にお会いした時、今後関わらないで欲しいなどと大きな口を叩いておきながら、その後もお力添えを頂きながらも、素知らぬ顔を貫いておりました。真人からも再三何とかしろと言われ続けておりましたが、生来の強情さ故、頑なに拒み続けてしまいました。

 改めて、この五年間のお気遣いとお力添えに心から感謝いたします。そして、最後の最後にこのようなご迷惑をおかけすること、申し訳なく思います。

 このような立場で加えて申し上げるには、あまりに心苦しいのですが、真人のこと、今後ともよろしくお願いいたします。真人にとって、一番力になれるのは志乃ちゃんです。真人には、志乃ちゃんの存在が無くてはならないのです。真人は、あくまでも母親を殺された被害者です。しかもまだ中学生、私が言えた義理ではありませんが、あまりにショックが大きすぎると思います。どうか温かい心で助けてあげて下さい。

 真人の今後のことは、笹本くんのご両親にお願いしようと思っています。調べた結果、お二人ともご健在でした。一応、手紙で真人の存在と、会っていただきたい旨はお伝えしてあります。大川さんからもお口添えいただければ感謝です。

 大川さん、真由美さん、志乃ちゃんのご多幸をお祈りいたします。




                              木戸早苗



 大川慎 一 様

   真由美様







        <笹本夫妻へ宛てた手紙>



 拝啓

 残暑の厳しい日が続きます。笹本様ご夫妻に有られましてはいかがお過ごしでしょう。

 この度は、突然のお便り失礼いたします。

 私、中学三年生の頃、笹本啓太君と同じクラスだった、木戸早苗と申します。二度ほど笹本君からご自宅へのお誘いを受け、お邪魔したことがあるのですが、ご記憶いただいておられますでしょうか。あと、申し上げづらい言葉を使わせていただけば、木戸香奈恵の妹でございます。

 姉の香奈恵が、笹本様ご家族に多大な迷惑をおかけしたと言うことは風の噂に伺っております。私も十年以上姉と音信を絶っておりましたので、詳しい事情は存じ上げてはおりませんが、姉の素性を知る身として、ある程度はご理解差し上げられるものと存じます。姉の数々の非礼を、姉に成り代わり心よりお詫び申し上げます。


 さて実は私、五年ほど前に、そんな姉の息子の真人まこと君を預かることになりました。要は、姉が私の自宅前に真人君を置き去りにして行ったと言うものでしたが、その時真人君が持っていた書類から真人君は香奈恵と笹本君の子供であると知りました。しかし、姉は行方不明、笹本君もすでにお亡くなりになっているとの事実を知り、紆余曲折の末、私が預からせて頂くこととなったというものです。

 当時八歳だった真人君も、今は中学生になりました。しかし最近、とみに笹本君に似て来たように思い、一度笹本君のご両親にもお会いして頂いたほうが良いのではないかと思い立ちましたもので、それで失礼とは思いつつも、る機関に御住所を調べていただき、この手紙を差し上げることになった次第です。

 差し出がましいようですが、真人の写真を同封させていただきました。きっと、笹本君の面影を御感じになられることと存じます。私が最初に出会った頃から、最近の物までです。いつも一緒に写っている女の子は大川志乃ちゃんと言って、真人の彼女みたいな子で、笹本君と仲の良かった大川君の娘さんです。大川君は市役所に勤めていて、真人を預かるに際していろいろと協力してもらったご縁で、志乃ちゃんとも親しくなり、今でも仲良くしてもらい、真人の支えとなってもらっています。


 お察しいただけることと存じますが、真人にとって身内と言える存在は現在、私だけです。そして恥ずかしながら、私はまだ独り身です。周囲の人はみんな優しく大切にしてくれますが、もう少し身内、親族と言える人を持たせてあげたいと思うのが、今の私の正直な気持ちです。

 真人は本当にいい子です。こんな私が育てたのにも関わらず、真っ直ぐに育ってくれました。とても賢く、成績もいつも上位です。

 そこで、大変不躾なお願いだとは承知しています。きっと真人の母親は、笹本君のご両親にとっては許すことのできない仇かも知れません。でも、真人は写真でご覧いただく通り、明らかに父親似です。笹本君に似ています。どうか一度、お二人のお孫さんとしての真人に逢って上げて頂くことは出来ないものでしょうか。勝手なお願いと思われるかもしれませんが、是非、ご検討下さいますよう、心よりお願い申し上げます。


 僭越せんえつながら、別紙にて真人の住所と電話番号をお知らせさせて頂きます。電話番号は、真人のスマートフォンのものです。真人もお二人の存在は存じておりますし、笹本君のことも話してあります。一度だけでも連絡をして上げて頂けることを願って止みません。


 突然のお便りにも関わらず、一方的なお願いばかりになりましたこと、心よりお詫び申し上げます。

 それでは、笹本様ご夫妻のご多幸を心よりお祈りいたします。


                                敬具


          ○○月○○日



                              木戸早苗


 笹本純一様

   基子様







      6.事件の後



 その日の朝も、笹本夫妻にとってはいつもと変わりない朝であった。

 年寄りの朝は早い。早く目覚めた朝は、二人そろって近所の散歩に時間を費やすことにしていた。運動不足の解消のためにと始めた習慣であったが、始めてみると近所であるにもかかわらず知らない景色が多く、知っていたつもりがいつの間にか変わっていたりなど、思いの外楽しくなりその範囲も時間もどんどん拡大するようになっていた。

 家に帰れば小腹も空いてちょうどいい具合である。妻の基子が朝食を準備する間、夫の純一はソファーに腰かけ、お茶を飲みながら新聞に目を通す。定年を迎えた純一と、それに合わせてパートを辞めた基子は、取り敢えずしばらくの間、仕事に追われないのんびりした生活をしようと言うことにしていた。


 そんないつもと変わらないのんびりとした朝のことである。朝食を終えた後、二人はテレビでいつもの連続ドラマを見ていた。

 ドラマが終わり、純一がトイレに行って用を足して廊下に出たところ、リビングで基子が騒ぎ出した。

「お父さん!お父さん!早く来て!」

 二人は、啓太が死んだ後もお互いをお父さん、お母さんと呼び合っていた。

 ゴキブリでも出たのだろうぐらいに思った純一は、のんびりとトイレを出た。リビングに入ってみると、基子が血相を変えてテレビの方を指差している。

「あれ!あれ!」

 てっきりテレビの画面にでもゴキブリが張り付いているのかと思い、テレビに目を向けた純一の目に飛び込んで来たのは、「木戸香奈恵」の文字であった。何事か理解できずに硬直した純一の目に次に入ってきたのが、「木戸早苗」そしてその名前の後ろには「容疑者」の文字が。

 状況を理解しきれずに立ちすくむ純一に、基子が震える声で言い放った。

「早苗ちゃんが、あの女を殺してくれたんだよ!」

 やっと理解できた純一が基子の方を振り向くと、基子は口に手を当てて涙を流していた。

「夕べ、早苗ちゃんがあの女のマンションに行って、そのマンションの前であいつの首を切って殺したんだって。その後、早苗ちゃんも自分の首を切ったんだけど命に別状は無いんだって」

 それを聞いた純一は、目を見開いたまま大きくうなずいた。そして、少し考えた後たどたどしく言った。

「じゃあ、早苗ちゃんは生きているんだな?」

 基子は頭を上下に激しく振った。その顔は、もう完全に泣き顔だった。

 純一は、ソファーの上でさめざめと泣く基子の横に座り、その肩を抱いた。そして、そのまま純一もむせび泣くのであった。

 木戸香奈恵。それは二人にとっては忘れることのできない、そして許す事の出来ない名前であった。自分たちの子供を弄び、地獄に突き落とした、死神のような女なのだから。

 二人の間では、香奈恵の名は暗黙のうちに禁句となっていた。今更思い出しても、罵っても、糾弾しても、何がどうなる訳でもないことは、二人が何度もぶつかってきた現実なのであった。もちろん、今でも脳裏をよぎることはある。しかし、それを口にすることは無い。そうすることで、やっと心の平安を保つことが出来るようになったのである。

 早苗の名もそうである。二人にとってはとても未練のある名であった。もし、啓太が香奈恵ではなく、早苗の方を選んでいたならば…。しかし、それもまた今更口にしたとて、どうなる事でもないことなのである。早苗のことは、二人の心に深く残ってた。とても喜ばしい思い出と、残念な思い出として。


 早苗は、啓太が初めて家に連れて来たガールフレンドであった。啓太は、幼いころから親の欲目抜きに誰もが認める美少年であったが、どういう訳か中学生になっても女の子を家に連れて来ることは無かった。そんな啓太が中学三年になって、やっと連れて来たのが早苗だったのだ。息子がイケメンであるが故に、派手な変な女に引っかかるのではと、心の隅で心配していた二人であったが、連れて来たのが早苗であったため、外見に囚われず、女性の内面を見る目があるものと、我が子ながら感心したものであった。まだ中学生であり、このまま結婚するとは思えなかったが、今、こういう女性を選ぶなら、将来も変な女性を選ぶ心配は無いものと思っていた。

 二人も早苗が気に入っていた。しかし、どういう訳か二回ほど会っただけで、その後プツリと早苗の顔を見ることも、その名を聞くことも無くなったのであった。まあ、中学生の男女交際とはそんなものかと、ある意味微笑ましく思っていたのだが、その後しばらくしてやって来たのが香奈恵であった。

 二人は愕然とした。何しろ華やかを絵にかいたような美しさなのである。いかなる男をも誘惑しうるその美貌を前に、二人の心に嵐が吹き荒れた。二人の想いよりも何も、当の啓太の表情に早苗の時のような輝きが見られなかった。それは、親の目から見ても、本人の望まぬ関係であることは察するに難くはなかった。

 その後のことは、今更言うまでもない。二人の望まぬ方へ望まぬ方へと流れて行ったのである。


「早苗ちゃん、私たちの仇を討ってくれたのね?」

 基子は鼻水をすすりながら言った。

「いや、そうじゃないだろう。きっと自分のためにやったんだよ。あの女のことだ、早苗ちゃんの恨みをかうようなこと、啓太のこと以外にも山ほどやっていたんだろう」

 純一が吐き出すように言うと、基子は純一を見上げて言った。

「でも、結果的に私たちの恨みも晴らしてくれたんでしょ?早苗ちゃんに何かお礼は出来ないかしら?」

「そうだな、おそらく彼女も俺たちのことは覚えていないだろうけど、何か力になれることはあるかもしれないな」

 純一も基子の言葉に納得した。

「じゃあ、まず警察に行って事情を聞こう。彼女に有利な証言が出来るかもしれない。そうだ、弁護士を雇おうか?国選じゃなく、良い弁護士を」

 そこで純一は、あることに気が付いた。

「早苗ちゃん、ご両親亡くなっているよな?」

 基子も思い出したようにうなづいた。

「じゃあ、世話してくれる人もいないかもしれないな」

 純一は、心配げにため息を吐いた。

「お父さん…」

 基子が純一の腕をつかんで震える声で呼んだ。純一が見ると、基子が興奮した顔で純一を見ている。

「どうした?」

 純一が驚いて尋ねた。

「あ、あの子…あの子どうなったのかしら?」

 そう言う基子の声はかすれていた。

「あの子?」

 そう言われてハッとした。香奈恵と啓太の子供。純一は直接見たことは無かった。しかし、話しには聞いていた。最後に香奈恵が啓太の所に来た日のことを。

「まさか、子どもまでは殺さないだろう…」

「ええ、ニュースでもそんなことは言ってなかった」

 二人は顔を見合わせた。

「じゃあ、警察で保護しているかも!」

 純一が叫んだ。

「会いたい!会えるかしら?」

「会えるさ、俺らの孫なんだから」

 純一が、基子の腕をつかみ返した。

「行こう!すぐ準備して!」



 二人は、まだ見ぬ孫のことに思いをはせつつ準備を整えた。

 二人が準備を整え、玄関から外に出たところに郵便配達員がやって来た。

「郵便です」

 基子が手渡された郵便を見ると、最近では珍しい手書きの封書であった。宛名は純一と基子の連名である。裏返して差出人を見ると「木戸早苗」とあった。

 基子は体を強張らせながら、後ろで玄関の鍵を掛けようとしている純一の腕をつかんだ。

「どうした、郵便なら後にしなさい」

 そう言いながら基子を見ると、基子は驚きに顔を引きつらせながら手紙の差出人を見せている。その様子に只ならぬものを感じた純一が、目を細めてその差出人を見た。純一は「あ!」と声を上げるとその封筒を奪い取り、玄関を開けて中に入ると座り込んで封筒の封を切った。口の開いた封筒を手荒にひっくり返すと、中から数枚の写真が滑り落ちて床に広がった。

 そこには幸せそうな大人になった早苗と、明るく元気そうな男の子と女の子が成長しながら写っていた。二人は、息を震わせながらその写真を取りあげ見入った。

 基子は床に置かれた封筒を拾いあげ、中から折りたたまれた便箋を取り出すと、それを広げてしみじみと読み始めた。そしてすぐに嗚咽すると、それは号泣に変わって行った。

「どうした」

 純一の問いかけに対し、基子は手にしている便箋を差し出すことしかできなかった。純一が便箋を受け取ると、基子は号泣しながら写真を眺め始めた。


「これは…」

 純一が手紙を読みながら唸るように呟いた。

「俺らに真人君のことを頼んでいるんだよな?」

 その言葉に、基子は泣きながら純一の顔を見て、何度も大きくうなずいた。

「きっとそうですよ。自分がこういう事になるから、真人君のことを私たちに託そうと思って事前に手紙を書いてくれたんですよ」

「じゃあ、すぐに電話して、どこにいるか聞きなさい。すぐ会いに行こう」

 興奮している純一が、基子に詰め寄った。

「電話って、私がですか?」

 基子は戸惑っていた。

「そうだよ。こういうことは、女の方がいいんだよ」

 純一に強引に携帯電話をつかまされたとは言え、基子自身も真人の声を聞いてみたいと言う衝動に駆られていたのも事実であった。

 基子は、便箋に記された番号をひとつづつ確認しながら注意深く入力し、最後に息を止めて発信ボタンを押した。




            *


 真人は、志乃たちと一緒に病院一階のロビーでぼんやりしていた。

 制服姿の志乃が隣に座り、真人に寄り添いながらしっかりと手を握ってくれている。その温もりが真人の心を落ち着かせてくれる。しかし、これからのことを考えようとしても、何も考えることが出来ない。「考える」と言う力を、家に置いて来たのかと思うほど何も考えられない。

 ロビーのテレビでは、ニュースの度に早苗の事件のことを報じていた。どこで手に入れたのか、先ほどのニュースでは早苗と香奈恵の写真まで映されていた。ひょっとすると、警察が真人の家を捜索した時に手に入れたものかも知れなかった。真人がこの病院に到着してすぐ、警察の要請で家の鍵を渡してあったのだ。警察は捜査協力と言っていたが、その時の真人には、何も判断する余裕などなかった。後になって、あれは捜索のためのものだったんだと気が付いた。しかし、もうどうでもよかった。あの家のことは、もう真人の心から完全に離れてしまっていた。もう、あの家に早苗が帰ることは無い。早苗のいないあの家はただの薄汚い安アパートだ。何の未練もない。自分がこれからどうなるのかも考える気にすらならない。ただ、こうして志乃と寄り添っていることだけが、今の真人の全てであった。

「ちょっと失礼」

 真人の安らぎを踏みにじるかのように、無遠慮な男の声がした。

 目の前には、警察の西島が立っていた。手に何か持って、真人の方へ差し出している。

「君の家を捜索したら、化粧箱の中から未開封の手紙が出て来たそうだ。それぞれ宛名が書いてある。遺書かも知れない。皆さんに渡すから、取り敢えず読んでから、改めて提出してください」

 その手紙は真人だけでなく、志乃、溝口、大川夫妻の分があった。

 真人は自分の分を受け取ると、急いで封を破り中身を取り出し開いた。便箋三枚の手紙は、早苗の直筆で書かれていた。それを読むうちに、真人の身体が細かく震え出した。そして読み終わると、隣でやはり早苗からの手紙を読んでいる志乃を突き飛ばすような勢いで立ち上がった。驚いて志乃が見上げた真人の顔には、明らかに怒りが現れていた。真人は脱兎のごとく駆け出し、階段を駆け上がった。

 真人の向かう先は、もちろん早苗の病室である。息を切らし病室にたどり着いた真人は、病室の前に立つ警察官を突き飛ばしドアを開けた。中では筒井が接見をしている所で、早苗はノートとボールペンを持ち、筆談をしているようだった。

 真人が早苗のベッドの横に駆け寄ると、先ほど突き飛ばされた警察官が飛び込んで来た。

「お前、何やってる!」

 警察官は当然激怒している。察した筒井が、慌てて警察官をなだめに入った。揉める筒井と警察官をよそ目に、真人は早苗を睨みつけると、手に持った早苗の手紙をベッドに叩きつけた。

「あんた、何考えてんだよ。何だよこの手紙!こんなもの俺に押し付けて死ぬつもりだったのかよ!ふざけるなよ!」

 真人の絶叫は震えていた。

「あんた、いっつもこうなんだ。俺の気持ちを無視ばかりする。こんなことされると、俺が辛くなるとは思わなかったのかよ。俺はあんたの重荷にはなりたくないんだよ。あんたには、俺と一緒に幸せになろうと言う考えはないのか?俺だけが幸せになって、俺が嬉しいとでも思うのか?分かんないのか?俺はあんたに引き取られて、あんたと一緒にいることで幸せになれたんだ。あんたが嬉しそうにしてくれるから嬉しかったんだ。なのに、あんただけ悪者になったまま居なくなっちまったら俺はどうすりゃいいのさ?」

 真人は一歩踏み込んで、早苗に詰め寄った。

「あんた、どうせ死ぬことなんかいつでもできる、とか思っているんだろう?」

 早苗は視線を逸らした。

「いいさ、死にたきゃいつでも死ねばいい。俺もすぐそっちに行くから」

 早苗は怯えた視線を真人に戻した。

「はっきり言う。俺はずっとあんたのそばにいる。刑務所に入っても、出て来るまで何十年でも待つ。そして死ぬまで面倒を見る」

 真人は、更に顔を寄せて言った

「そう言う約束だから」

 早苗の顔から表情がなくなった。その目は大きく見開かれていた。そして早苗の耳には、五年前の真人が言った、あの一言が響いていた。

―僕が大きくなって大人になったら、仕事して、お金を稼いで、早苗さんのお世話をします。必ず、絶対にです。だから、子どものうちだけ、僕の世話をしてください。お願いします―

 必死に懇願する幼い叫び。早苗に向けて救いを求めて伸ばされた小さな手。しかし、早苗はそれをも一度は払いのけたのだ。この幼い命に、幾たびか絶望を与えた事実は消えない。早苗もまた香奈恵と同じ。真人を見捨てているのである。そして、自分の復讐のために改めて真人を拾い上げたのだ。早苗は知っていた。自分には、真人と共に幸せになる資格などないと言うことを。

 ああ、そうだ。真人と共に幸せを感じながらも、早苗はいつも心のどこかで常に感じていたのだ。真人に対する罪悪感。この、幼い少年に与えてしまった心の傷。取り返しのつかない罪。それが日に日に大きくなり、もう、隠しきれなくなったのだ。成長するにつれ感じて来た距離感。それは笹本に似て来たり、自分のトラウマのせいだけが原因ではなかった。早苗自身が後ずさりしていたのだ。もうこれ以上、この無垢な魂に触れることが出来なくなり、そしてそこから逃げ出すために、敢えて必要でもない凶行に及んだのだ。真人のためにと言う、お為ごかしで香奈恵を道連れにして。

 いつしか早苗にとって、香奈恵は自分を映す鏡となっていた。そして自分とは対照的に、絶対的に真人に寄り添う志乃に、真人を委ねたかったのだ。志乃に対する嫉妬と憧れはそう言うことだったのだ。

 奇麗ごとで塗り固めていた自分の本音があからさまになった。すべての原因は自分にあった。早苗の全身が、「絶望」と言う言葉に染まっていた。全てが空になり、涙も出ない。自分がこのまま風化して行くような感じがした。


 早苗には、もう「死」と言う選択肢は許されなくなっていた。早苗が死ねば、真人が正常でいられなくなってしまうからだ。真人の今の発言と、先ほどの志乃の訴えにより、早苗もそれに気づくことが出来た。早苗の存在は、もう既に早苗ひとりのものではなくなってしまっていたのである。五年と言う歳月のうちに、真人と早苗の関係はもう切り離すことの出来ないものとなっていた。早苗の脳裏に、はるか昔に悟った言葉が蘇ってきた。 


―生きることは、権利ではなく義務である―


 それはまだ、早苗が幼かったころに悟った言葉である。

 早苗が小学生の頃、祖母が死んだ。母方の祖母だった。病気である。あまり親しくしていた訳ではなかったので、特別悲しいという訳でもなく、あまり実感のない死であった。だからという訳でもないが、葬儀に関わるその時の両親や親せきの様子を客観的に見ることが出来た。そして、それらを見ているうちに感じることがあった。

「人が死ぬといろいろ面倒なんだ」

 人が死んだということではなく、その始末をするのが大変なのだ。幼心に、人が一人死ぬと、僅か数日の間にこんなに多くのことをしなければならないのだと驚いた。そして早苗は、自分が祖母が死んだことを悲しむよりも、「人が死ぬと面倒だ」と感じていることに激しいショックを覚えたのだった。そしてそれが、早苗が自分自身に絶望を感じた最初の瞬間となったのである。

 それからしばらくして、家族でテレビを見ていた時のことだ。ドラマの中で、ある女性が自殺しようとしているのを、主人公たちが必死で説得する、と言うシーンがあった。その時、いろいろな言葉で説得していたのであったが、最後に出てきたのが

「あなたが死ぬと、あなたを大切に思っている家族や友人が悲しむ」

 というような言葉であった。早苗はその言葉に衝撃を受けた。

 つまり、自分のためではなく、家族、友人のために死ぬのを諦めろと言うのである。その女性も死にたいほどの苦しみを抱えているのに、それを解決せず、とにかく家族友人を悲しませないために「苦しみながら生きろ」と言うのである。それを聞いて早苗は悟った。人は自分の幸せのためではなく、他者の平穏ために生きなければならないのだ。人に自分の意志で死ぬ権利はない。生きるのは義務なのである。

―死ぬことも許されず、死んで迷惑になるならば、迷惑にならないよう目立たずひっそりと生きていこう―

 その時、早苗の人生観が確立したのだった。

 そう、早苗には死を選択する権利はない。今までも、様々な絶望の中、仕方なく生き続けてきた。これからも、真人や多くの人々の悲しみや苦しむ姿を見ながら、そして自分自身も苦しみながら生き続けてていかなければならない。自分の意志で死を選択することは許されないのだ。




 真人のスマホが震えた。電話の着信らしい。志乃からか?と思いスマホを取り出してみた。表示されたのは名前ではなく携帯電話の番号である。電話をくれるような知り合いは、全て連絡先に登録してある筈だ。取り込み中だし切ろうかと考えた瞬間、ふと思い当たることがあった。

 着信を押し、スピーカー通話にした。

「はい」

 真人が慎重な声で電話を受けると、電話の向こうから不安そうな声が返ってきた。

「もしもし、木戸真人君ですか?」

 電話の声は、年配の女性である。非常におどおどした声である。真人は早苗に目をやりながら答えた。早苗はぼんやりと正面の壁を見ていた。

「はい、そうです。真人です」

 電話の向こうから嗚咽が聞こえた。しばらくそれが続いた後、嗚咽が震える声に変わった。

「笹本です。私、あなたのお父さんの母親です」

 最後は声になっていなかった。早苗の表情に変わりは無かったが、涙が一筋こぼれた。

「僕のおばあさんですか?」

 真人は、不安気にゆっくりと問いかけた。

「はい!そうです!」

 祖母を名乗るその声は、叫ぶようにそう言うと号泣に変わった。

「もしもし、真人君」

 声が男に変わった。

「初めまして、私は君のおじいさんに当るものだ」

 祖母とは対照的に落ち着いた声である。

「突然ごめんよ。今さっき、早苗ちゃんから手紙が届いたんだ。君の電話番号が書いてあって、居ても立っても居られなくて電話しちゃったんだ。驚いただろう?」

「いえ、僕も今さっき、早苗さんからそう言う話を聞いたところだったので、もしかして?と思って電話を取りました」

 真人の声は優しく落ち着いているが、その目は激しく早苗を見据えていた。早苗は無表情のまま涙をこぼし続けている。

「そうかい、早苗ちゃんから…。で?ニュースを見たよ。早苗ちゃんはどうなの?大丈夫なのかい?」

「はい。今ここで聞いています」

「そこに居るのかい?ちょっと電話変われるかな?」

 祖父の声に力が入った。

「いえ、今、喉をケガしていて話は出来ないんです」

 真人は残念そうに答えた。

「え?そうなのかい?ニュースでは、命に別状は無いって言っていたけど」

「ええ、喉以外は大丈夫で、状態も安定しているとのことです」

「ああ、そう。それは良かった。じゃあ、早苗ちゃんに聞こえるように電話を近づけてくれるかな?」

「はい、わかりました」

 真人は、持っていたスマートフォンを早苗の前に置いた。

「どうぞ」

 真人がそう言うと、祖父は話し始めた。

「早苗ちゃん、こんなこと真人君には言えないけど…。ありがとうね。啓太のかたきを取ってくれてありがとうね」

 早苗は顔を歪め、両目から涙を溢れさせた。

「でも、真人君は仇じゃないよ。私たちの孫だ。大切な孫だよ。手紙くれてありがとう…」

 祖父の声は力なく途切れた。

「もしもし?」

 真人はスマホを取りあげて話し始めた。

「真人です。早苗さん、激しく泣いてます」

「そうかい?ちゃんと伝わったかな?」

 祖父は心配そうだった。

「大丈夫だと思います。それと、ちょっとお願いがあるのですが」

 真人が話題を変えた。

「ものすごく失礼なお願いだと思うんですけど」

「どうしたの?」

「これから、こちらに来ていただく訳には行きませんか?」

「え?行っていいのかい?」

 祖父の声は驚きと喜びが入り混じっていた。

 真人は、こちらから伺えないことの詫びと、病院の名前を伝えると電話を切った。

「弁護士さん。それと…」

 真人が振り返ると、西島が不機嫌な顔で立っていた。

「刑事さんも。これから、笹本さんがこちらに来てくださいます」

「笹本?」

 西島は眉をひそめた。

「大川さんから聞いていませんか?早苗さんの中学時代の元カレで、殺された木戸香奈恵の恋人で、僕の父親の笹本圭太」

 西島に、納得の表情が浮かんだ。

「そのご両親が、今からこちらに来て下さいます」

 西島の目が大きく開いた。

「弁護士さんも、刑事さんも、そのお二人から木戸香奈恵がどんな人間だったか、しっかり聞いてくださいね」

 真人は、早苗からの手紙を西島に差し出して言った。

「これ、さっきの早苗さんからの手紙です。お渡ししますけど、これ、全部大嘘ですから。全部この人の妄想ですから。こんなもの、何の参考にもなりませんよ」

 言い終わると、手紙を西島に押し付けて病室を出た。早苗には目もくれずに。

 真人の行き先は、もちろん志乃の待つロビーである。




 志乃は早苗からの手紙を読み終わり、真人の帰りを待っていた。突然何も言わずに飛び出していった真人であったが、志乃には早苗に抗議しに行ったのだと分かっていた。志乃も手紙の内容に非常に不愉快だったからである。

 すると、志乃のスマホに着信があった。見ると、相手は同じクラスの上野だった。上野は志乃と同じクラスで、志乃の前の席に座っている娘だ。クラスで最初に仲良くなった娘で、今でも一番親しいと言えるかもしれない。

―心配して電話くれたのかな?―

 心温まる感じもしたが、考えて見れば学校のみんなもニュースでこの事は知っているはずだ。みんなどう思っているか、急に怖くなった。少し迷ったが、上野は心配してくれているはずだと信じて通話にした。「もしもし、志乃ちゃん?私、上野。今、電話大丈夫?」

 興奮気味の声である。

「うん、大丈夫。電話ありがとう」

 志乃は、努めて冷静に応対した。

「ああ、元気そうで良かった。大変なんでしょう?今朝ニュースで見たよ。みんな大騒ぎしているよ…」

 そこで急に騒がしくなり、上野の声が途切れた。

「あ!志乃ちゃん?」

 突然声が変わった。誰か別の人がスマホを奪ったらしい。

「私、鈴木です!分かる?」

 何と鈴木だった。興奮したその声を聞いただけで、どんな顔で話しているか目に浮かんでくる。

「ごめんね。私、志乃ちゃんも真人君も電話番号が分からなくって。志乃ちゃんのクラスで聞いたら、上野さんが協力してくれたの。すぐ、次の授業が始まるから簡単に言うよ」

 電話の向こうが、ざわついているのが聞こえる。

「早苗さんのこと、学校中で話題になっている。警察の人も先生方に真人君の話を聞きに来たみたい。みんないろんなことを言ってるけど、よく聞いて!私たち、同じ小学校のみんなは真人君の味方だよ。早苗さんのことは警察に任せて、私たちは勝手な詮索はしない!真人君のことは、いつもの真人君として、同じように接する!うちらの小学校のみんなに確認した。だから、真人君の気持ちの整理が付いたら、絶対に学校に来て!待ってるから!」

 チャイムの音が聞こえる。

「じゃあ、授業が始まるから切るね。あとで私の電話番号送るから、都合のいいときに電話ちょうだいね。じゃあ、志乃ちゃんもがんばってね」

 電話が切れた。志乃は一言も言えなかった。一方的に怒鳴り散らして、電話を切った鈴木だった。いつもの冷静な鈴木からは想像もつかない声だった。志乃の目頭が熱くなった。

 志乃は、学校のことなど考えもしていなかった。そう、学校も大変なのだ。鈴木はそんな状況の中、真人の戻って行く環境を作ってくれた。あとで心からお礼を言おう。そう思った。




 真人がロビーに着くと、志乃が立ち上がり笑顔で迎えてくれた。志乃の目には、今の真人の姿が生気を取り戻したかのように映っていた。

「真人!早苗さんにガツンと言って来たの?」

「ああ、もちろん」

 真人も笑顔だった。

「それより志乃ちゃん。おばさんも、溝口さんも」

 真人は、志乃と一緒にいる真由美と溝口にも目を向けた。

「もうすぐここに、笹本さんが来てくれることになりました」

 真由美と溝口は驚きの声を上げた。

「笹本さん?」

 志乃だけがピンと来ていなかった。

「うん。ほら、俺の父親のご両親。所謂、俺のおじいちゃん、おばあちゃん」

 そう言われて志乃も、手紙に書いてあった名前を思い出した。

 真人が、はにかんだ笑顔になった。

「向こうから連絡があったのか?」

 溝口が嬉しそうに言った。

「はい、さっき早苗さんの手紙が届いたとかで、そこに俺の電話番号があったそうです」

「この事は知っているのか?」

「はい、ニュースで見たようです。早苗さんの様態も気にしていました。あと、早苗さんのことを、親し気に『早苗ちゃん』って呼んでいたんですけど…」

 真由美と溝口は目を見合わせた。

「笹本さん、早苗さんのこと覚えていたのかな?」

「うん、そうかもね。でも、この事はどう捉えているんだろう?」

「それに関して、早苗さんに、仇を取ってくれてありがとうって言ってました」

 全員驚いた。

「おじいさんの方とお話ししたんですけど、とても早苗さんのことを心配していらしたし、早苗さんと話がしたいと言ってくれたんです。でも、早苗さんがああいう状態だから、声を聞かせるだけ聴かせたんです。そしたらおじいさんがありがとうって言ってました。それと俺のことは仇じゃなくて、大事な孫だって…。きっとあの二人は早苗さんの力になってくれると思います」

 真由美と溝口は沈黙した。真人の雰囲気が、想像したものと違うからだ。二人は当然、真人は祖父母の存在を知って、自分のことをどう思ってくれるだろうかなど、自分との関係を気にするものと思っていた。しかし、真人が実際に見せた反応は、わざわざ名乗り出てくれた祖父母を早苗のために利用できないかと思案しているような姿だった。

 何処までも早苗が全てなその姿は、何か不気味なものさえ感じられた。

「志乃?どうしたの?」

 真由美が、何かそわそわして、気もそぞろな志乃に気づいた。

「わたし、どうしたらいいのかな?」

「どうしたらって?」

 真由美はそう言ってから、その意味に気が付き、つい笑ってしまった。思えば、志乃が早苗以外の真人の親類に会うのは初めてのことだ。どう対応していいものか、悩ましい所なのだろう。

「大丈夫よ!あなたのことは、私がちゃんと説明するから」

「俺からも、紹介するよ」

 真人も、志乃の気持ちを察してか、励ますように言った。




 すると、筒井がやって来た。ちょっと慌てている。

「あ、みなさん。ちょっとお話があります」

 みんなが筒井の方を見ると、筒井はグッと近寄り声を潜めた。

「病院の中にも、患者さんに紛れてマスコミの人が入り込んでいるようです」

 真人たちはハッとして周囲を見回した。

「学校の方も、警察が来ているみたい」

 みんなの視線が志乃に集まった。

「さっき、学校の鈴木さんって娘が電話くれて、そんなこと言ってたの」

「え?鈴木さん?」

 真人が聞き返すと、志乃は口を尖らせ目を逸らした。

「鈴木さんが、学校も大騒ぎになっているけど、小学校の時の友達はみんな真人のこと待っているから、落ち着いたら必ず学校に来てねって」

 志乃は、説明しながらも何故か真人の顔を見れなかった。

「そうか。学校も大変なのか…」

 真人の声が沈み込んだ。

「それで、西島さんが警察署の方に部屋を準備してくださいましたので、取り敢えずそちらの方に移動してほしいとのことです。笹本さんも来られるそうなので、もう少しお話を聞くことになるかもしれないと言っていました。それに…」

 筒井が申し訳なさそうな顔をした。

「真人君の場合、ご自宅の方も面倒なことになっていると思われます」

 全員の口から「あー」と言う、ため息にも似た声が漏れた。

「真人君」

 筒井が真人を呼んだ。

「良かったら、私に笹本さんの電話番号を教えて頂戴。警察署の住所をお伝えしたいので」

「あ、はい」

 真人は、スマホを開いて筒井に伝えた。

「笹本さんには、私からも早苗さんや真人君のことでいろいろご相談したいこともありますのでね」

 筒井が真人に視線を送りながら、合図するようにうなづいた。




            *


 車は静かに走っていた。道は少し混んでいる。

「向こうに着いたら何か食べようね?」

 出発してすぐに、真由美が言った。真由美の車には、真由美の他、真人と志乃の三人が乗っている。志乃も真由美も朝食を食べ損ねたそうだ。考えて見ると、真人もそうだった。時計を見ると、もう昼近くになっている。何かぐったりと疲れが出て来た。

 少し前に、真由美が音楽を掛けてくれた。静寂がいたたまれなかったのだろう。真人も少しほっとした。流れる曲は、志乃が好きだと言っていたミュージシャンの曲だった。そう言えば、もともと真由美が好きな曲で、家でよくかけているから志乃も好きになった、と言っていたのを思い出した。真由美が若かった頃の曲なんだろうか?真人には馴染みのない曲だったが、今では志乃のおかげで何となく覚えてしまっている。

 この曲は早苗も知っているんだろうか?真人はボンヤリ思った。志乃が歌っているのをどんな気持ちで聞いていたんだろうか。そんなことを思っていると、早苗のことが思い出され涙が出そうになる。

「真人のお母さんって、どんな人だったの?」

 志乃が突然、ひとり言のように話しかけて来た。

「どんなって…」

 真人は口籠った。そう言えば、早苗に言われて以来、香奈恵のことは思い出さないようにしていたから、急には思い出せなくなっていた。志乃も、きっと関心は有ったのだろうが、敢えて聞いてこなかったのだろう。気を使わせて申し訳けなかったと思った。

「真人はどう思っていたの?好きだったの?嫌いだったの?」

「え?」

 突然の確信を突いたような質問に、真人は戸惑った。

「私の印象では、早苗さんも真人も、お母さんのことを憎んでいたように見えたから」

 志乃の言葉には、感情のようなものが感じられなかった。

「そうだね。憎いし、嫌いだった」

「虐待とかはあったの?」

 ものすごいストレートな質問に、真人はやや面食らっていた。

「いや、特に一般的に言う虐待と言うのは、無かったかもしれない」

 嘘ではなかった。ある意味、香奈恵は真人を大事にしてくれた。病的なところは有ったが。

「じゃあ、何が憎かったの?どうして嫌いだったの?」

 真人は驚いた。志乃の質問にもそうだが、答えに詰まる自分自身に驚いた。

 真人が答えに詰まり黙っていると、志乃は真人の手をぎゅっと強く握った。志乃はうつむいているので、その表情は真人には分からない。

「じゃあ、早苗さんは?」

「え?」

 突然の予想外の質問だった。

「早苗さんのどこが好きなの?」

 志乃のヤキモチか?と思ったが、ゆっくりと真人を見上げる志乃の目は、恐ろしいほど冷静であった。

「いや、ほら、早苗さん優しいし、包容力があるし、面倒見もいいじゃないか?」

 いつもと雰囲気の違う志乃に動揺した真人は、たどたどしい答えしかできない。

「でもさあ」

 志乃はしっかりと真人を見据えていた。その顔つきは、いつもの可愛い志乃ではなく、凛として美しくさえ見えた。

「そう言うことって、ある程度期間が経ってから分かるものじゃないの?」

 真人には、その意味が理解できなかった。

「わたし、最初に会ったあの日、聞いたんだよね。お父さんと溝口さんの話」

 おそらく、真人と志乃が最初に会った日のことだろうと真人は思った。

「真人、初対面の早苗さんに、必死にお願いしたって言うじゃない?『僕を引取ってください!』って」

 そうだ。その通りだ。真人は必死だった。ここを失うと、命は無いくらいに深刻だったのだ。

「私、その時はそんなものか、くらいにしか感じなかったんだけど、時間が経っていろいろ考えて見ると、すごく不自然って言うか不思議な感じがするようになったの」

 志乃の目に憂いが現れた。

「八つくらいの子が親に捨てられた次の日に、初対面の人にそんな気持ちになると思う?昔お世話になった、親戚のおばさんじゃないんだよ?昨日始めて会った人なんだよ?」

 真人は心の中で反論した。実際、前の日に母親に言われたのだ。この人を逃すと、お前に命は無い、と。

 しかし、同時に真人の心にも疑問として浮かぶ思いがあった。本当にそれだけだったのか?本当に母に言われた言葉だけで早苗にすがったのか?初めて早苗を見た時に何を感じた。何を?

 そうだ、今なら言葉にできる。それは、「懐かしさ」「郷愁」である。自分は今、この人の所に帰ってきたのだと言う感覚だった。真人の頭は混乱した。

―私ね、最近思うことがあるの―

 志乃は、その言葉が喉元まで出かかっていたが、それを言葉にすることはどうしてもできなかった。志乃が昔から真人に対して抱いていた疑問。それに関して、最近ある思いが志乃の心の中に形となってまとまって来ていたのだ。ただし、それを言葉にすることが何を意味するのか、真人の気持ちを害することになるのではないか、そう思えてならなかった。

 志乃は何も言わず、真人を抱きしめた。真人は、前で運転する真由美のことが気になったが、志乃の気持ちを察してじっとしていた。おそらく志乃にも様々な思いが交錯しているのであろうと思われたからだ。

 志乃は何も言わずに、真人を抱きしめる腕に力を込めた。ただ、その腕は細かく震えていた。




            *


 笹本夫妻が真人たちのもとへやって来たのは、真人たちが食事を済ませてしばらくしてからのことだった。警察署に着くとまず、警察からの事情聴取を受け、それから筒井の案内のもと真人たちの待つ部屋へとやって来た。

 ドアを開け入室する筒井の後ろから入って来た老夫婦を目にした真人は、慌てて立ち上がるとその老夫妻のもとへ歩み寄った。

 三人は暫し無言で見つめ合った。

「真人君だね?」

 最初に口を開いたのは、笹本純一であった。

「はい、木戸真人です」

 真人は、はっきりとした口調でそう言うと、深々と頭を下げた。そして純一は、真人に優しく触れると、震える声で言った。

「初めまして、私は笹本純一、そしてこっちが笹本基子。君の祖父母だ」

 基子は涙で言葉にならぬ様子である。

 真人ははにかんだ笑顔で頭を上げると、二人の顔を見比べた。

「はい、お二人の孫の木戸真人です。お会い出来て嬉しいです」

 真人の声もわずかに震えていた。

「先ほどはお電話いただき、本当にありがとうございました」

 真人は再び頭を下げた。

「三人とも、そんなに硬くならないで、もっとリラックスしましょう。さ、座ってください」

 筒井が気を利かせて三人に椅子をすすめた。

 その言葉に少し落ち着いたのか、夫妻は周囲の人たちにも会釈をした。そして基子は、その中に志乃の姿を見つけた。

「あなた、大川志乃ちゃん?」

 突然、自分の名を呼ばれて驚いた志乃は、緊張に顔を強張らせてうろたえた。

「写真の通り、素敵なお嬢さんね。早苗ちゃんのお手紙にありましたよ。真人君の彼女なんでしょ?」

 志乃は何も言えずに真っ赤になった。

「笹本さん、こちらが志乃さんのお母様で、大川真由美さんです。早苗さんと啓太さんの同級生だったそうです」

 筒井がすかさず紹介した。

「そしてこちらが、やはり啓太さんたちの同級生だった溝口さん。今は警察官をされていますが、今日は真人君のことで、特別に休みを取って駆け付けて下さいました」

 筒井の紹介で真由美と溝口も頭を下げた。

「このお二人と、あと、真由美さんのご主人大川慎一さんは、真人君が早苗さんに引き取られた当初から、ずっとお力添え下さった方々です」

「本当にありがとうございます」

 筒井の紹介を受け、笹本夫妻は声を揃えて感謝を伝えた。

「えっと…」

 夫妻の思いを他所に、真人が待ちきれないかのように口を開いた。

「あの、僕はお二人を何とお呼びしたらいいんでしょうか?」

 その声には、照れとためらいが感じられた。

「もちろん、じいちゃん、ばあちゃんでいいんだよ」

 純一が嬉しそうに答えた。

「はい、じゃあ、おじいさん、おばあさんは早苗さんと親しかったんですか?」

 やはり、早苗に関する質問であった。真由美も溝口も眉をひそめた。笹本夫妻も、周囲の反応を気にするかのように見回した。その様子を見て真人は言葉を続けた。

「早苗さんと、僕のお父さんと、僕の母親の間にあったことは、一応聞いています。だから、おじいさん達から見た早苗さんのことをお聞きしたいんです。僕が知る限りですが、早苗さんのことを早苗ちゃんと親し気に呼ぶ人は初めてだったものですから」

 笹本夫妻は、顔を見合わせると軽く微笑んで真人の方へ向き直った。

「いや、私たちも親しかったと言う訳じゃないんだよ。会ったのも私は一回だし、家内も二回くらいなんだよ。早苗ちゃんと言う呼び方は、啓太…君のお父さんがそう呼んでいたから、私たちもそう呼んだだけなんだけどね」

「そうなのよ。でもね、私たちが受けた印象はものすごくよくてね、うちの息子も女を見る目は確かだったと、とっても嬉しかったのよ」

 この話を聞いて、その場に居合わせた全員が信じられなかった。少なくとも、多くの人の早苗に対する第一印象は、「関わりずらい」と言うような感覚のはずであるから。特に真人においては、早苗が第三者との間には、必要以上に壁を作るのを何度も見て来たのである。

「第一印象はどんな感じでした?」

 真人が率直な質問をした。

「第一印象?」

 二人は少し考えた。

「まあ、普通の可愛らしい女の子…かな?」

「そうですね。私も啓太がはじめて連れて来た時は、特別美人と言う訳でもなく、でも落ち着いていて、信頼のできる子だな…みたいな感じだったと思います」

 基子は記憶を辿るようにそう言うと、すぐににっこりと笑って話を続けた。

「でもね、話してみると、なんて言うのかな、誠実って言うかな?言葉に真実味があるって言うか、よくあるでしょ?言葉だけで取り繕っているって言うか…。そう言うのではなくて、ちゃんと自分の気持ちや考えとして言っているなって分かるの。それとね、啓太のことを、『この人は社交的に見えるけど、本当は人と接するのが苦手な人だ。だから人と接すると、ものすごく疲れると思う』って言ったの。本当にその通りで、あまり人と接したくない、ちょっと人見知りなところがあるくせに、いい振りして社公的な振りをしていたのよ」

 基子は嬉しそうに、そして懐かしそうに話している。

「それでね、途中で紅茶を入れ直そうと思って台所に立ったら、早苗ちゃんも立ちあがって『お手伝いします』って、一緒に来るの。それもご機嫌取りとかじゃなくて、ものすごく自然に来るもんだから、なんか、本当の娘か家族みたいな気持ちになっちゃったんだよね。で、その日の夜、あんまりうれしかったもんだから主人に話したの。そしたら主人もぜひ会いたいから休みの日に連れて来いって騒ぎ出してね、しばらくしてから休みの日に連れて来てもらったの」

「そうだったな。家内があんまり自慢するものだから、悔しくてねえ。会えた時はこっちの方が緊張でガチガチだったのを覚えているよ。そしたら、家内とはもう仲良くなっていて、親し気に話とかしているもんだから、余計に悔しくてさ、でもすぐに私とも仲良くなってくれて…」

 嬉しそうに語る純一の顔が急に曇った。

「でもそれっきりだったな」

「そうですね。それっきりでしたね」

 基子の表情も重苦しくなった。

「きっと、鉛筆で描いちゃったんだろうなって、家内と言っていたんですよ」

 純一は、苦笑いをしながら力なく呟いた。するとすぐに、基子がたしなめるように言った。

「そんなこと言っても、若い人達には分からないですよ」

 そして、続けた。

「そのあと、啓太の口から早苗ちゃんの話を聞かなくなって…。まあ、しょせん中学生のお付き合いだからね、そんなもんかと思って、親ばかりがその気になって騒ぐのもなんだし、敢えて何も聞かないで置いたんだけど、しばらくして現れたのが香奈恵さん。早苗ちゃんのお姉さんだったんですよ」

 笹本夫妻は、お互い顔を見合わせて肩を落とした。

「その後、啓太はずっと香奈恵さんと付き合っていたみたいだけど…。

何となく啓太自身が楽しそうじゃないって言うか、迷いを持っているように見えて…。それは私たちが、香奈恵さんに良くない先入観を持ってしまっているせいなのか、とも思っていたんだけど」

 そこで基子は急に泣き崩れた。そして純一が引き継ぐように口を開いた。

「啓太はずっと、香奈恵さんに対する不満や悪口は言わなかったんです。しかし、突然香奈恵さんが行方不明になり、そして何の連絡も無いまま啓太は健康診断で癌が見つかり、余命半年を知らされたんです。それで、啓太の様態が悪化し本当に先が無くなった頃、突然あの女が現れたんです。赤ん坊だった真人君を連れて…。その後、啓太はもう精神的におかしくなり、あの女に対する恨みと早苗ちゃんに対する謝罪ばかりを繰り返したんですよ」

 そこまで言うと、純一は大きくため息を一つ吐いた。

「だから私たちにとっては、あの女は恨みであり仇だったんです。でも、そんな奴のことで私たちの人生をこれ以上奪われるのも腹立たしいので、啓太を看取ったのちは、私たちの記憶からあの女のことは消すように努力しました。でもね」

 純一は悲しそうに真人を見た。

「今日、ニュースで事件のことを聞いて真っ先に考えたことは、早苗ちゃんの安否と君の存在のことだったんだよ」

 純一の目から一筋涙がこぼれた。

「早苗ちゃんの力になれることは無いだろうか。あの時の子供は誰が面倒見るのだろうか。それを思うともう、居てもたってもいられなくなって、ここに来て君のことを確認しようと思って外に出たところで、早苗ちゃんの手紙が届いたんだ。それで電話したのが、さっきの電話だ」

 純一は立ち上がり、真人のところまで歩み寄り頭を下げた。

「今までほったらかしにして申し訳ない!どうか許してくれ。決して君が憎かった訳ではない!君の母親に関しては、申し訳ないが今も許せない。しかし、君には何の罪もない事だし、恨みも何もない。何しろ、私たちにとってはたった一人の大切な孫だ。どうか、君の近くに居させてくれ。お願いします!」

 基子も泣きながら歩み寄り、深々と頭を下げた。

「待ってください。やめて下さい。僕も、おじいさんおばあさんには何の恨みもありません。お二人が母を憎むのは当然のことですし、僕自身母親に対するいい感情は持っていません。むしろ嫌いでした。それに、お二人のことに無関心だったのは僕の方です。自分の父親や、親戚のことについて、あまりにも無関心でした。早苗さんに言われるまで考えもしなかったもので」

 真人は慌てて、二人をなだめるように言った。

「そして、それは僕の方からお願いしたいと思います。早苗さんからも、今後のことは笹本さんを頼りなさいと言われていますから」

 純一と基子は顔を見合わせて微笑んだ。

「ただ、それに関しては学校のことや、あと児童相談所の方とも相談しないといけないと思うので、ゆっくりと進めましょう」

 真人は落ち着いて、淡々と説明した。その落ち着き具合には志乃も真由美も唖然とした。



 真人は笹本夫妻を席に着かせると、改めて早苗に関する質問を始めた。

「あの、先ほどの話によると、早苗さんとはものすごく和やかに、親し気に接せられたようですが…」

 真人の言葉は、不安気な問いかけになっていた。

「ええ、そうですよ?そう、何と言うか初対面とは言えない感じで、とても気楽にお話しできる娘でしたよ?」

 基子は、少し不思議そうな表情である。

 真人は、困惑の面持ちで志乃、真由美、溝口、そして筒井の順に見回した。その全員がみな同じ表情をしていた。

「あの、実はここに居るみんな、そのお話にとても驚いているんです」

 真人が、申し訳なさそうに笹本夫妻に向かって言った。

「僕たちの知っている早苗さんは、人見知りと言うか、人嫌いと言うか、人と和やかに会話を楽しむような人ではないんです」

 真人の言葉を受けて、基子は少し考えてから言った。

「啓太も言ってました。早苗ちゃんは控えめで、少し人見知りなところは有るって。自分からは人の中に入ってけない性格だけど、でもちょっと気持ちが通じると、ものすごく思いやりがあって面倒見の良い娘だって。でも」

 基子は少し顔を曇らせた。

「この写真」

 そう言ってバッグの中から封筒を取り出すと、中から数枚の写真を出した。

「今日、早苗ちゃんから届いた手紙に入っていたものなんだけど、全部真人君と志乃ちゃんの物ばかりなんだけど、一枚だけ早苗ちゃんが写っているものがあるでしょ?それを見て、早苗ちゃん、確かに大人になって奇麗になっているけど、昔のような柔らかさって言うか優しさみたいなものが薄れて、昔より険があるなって感じたの。で、あの後、いろんな苦労を経験したんだろうなって考えちゃったの、私も」

 真人はその時、今まで忘れていた母親の言葉が脳裏に蘇った。

『真人?ここの早苗おばさんは良い人だから、心配しないでいいからね。優しくて、情が深くて、相手のことをよく考えて、気持ちを分かってあげることが出来て、他人のために何かを出来る人なの。私はいつもあの娘が羨ましかった。あの娘は私が持っていない、私が欲しいものを全部持っていた』

 それは五年前、早苗の部屋の前で、香奈恵が真人を置いて立ち去る直前に言い残した言葉である。

―やはり、それが早苗さんの見えざる本性なのか― 

 真人はうれしくもあり、悲しくもあった。そう言う早苗の本質が、環境の力により歪められ、早苗はしだいに心を閉ざして、歪んだ偏屈な性格になってしまったと言うことなのだ。

 溝口も、早苗の本当の姿を褒められて嬉しかった。そして、「自分は最初から知っていたさ」と内心自画自賛していた。




 その日の夜、真人は笹本のマンションへ行くこととなった。真人のアパートが騒がしいことと、笹本夫妻のたっての希望でのことであった。

 真人たちと別れた、志乃、溝口、真由美の三人は大川の待つ志乃の自宅、つまり大川宅へ集まった。一応、今日仕事でこれなかった大川への報告と言う理由であったが、結果的には溝口を慰める会になってしまった。

 終始重苦しい雰囲気の中、志乃が早々に退席して自室の方へ引っ込んで行った。志乃も真人と別れて以来暗く沈み込んでいたのだ。

―鈴木さんに電話しなきゃ―

 夕方、志乃が自分のスマホを確認すると、鈴木の電話番号がショートメールで送られて来ていた。志乃としては、おじさんおばさんといるよりも鈴木と話していたほうが、気が紛れるような気がしたのだ。


 志乃が自室に引っ込んだところで、溝口が泣きそうな声を上げた。

「あのさあ…これ見てくれないかな?」

 そう言って差し出したのは、溝口に当てた早苗の手紙である。今日、警察から手渡されたものだ。

「これ、木戸のやつでしょ?あんた、ちゃっかりコピー取ってたの?」

 真由美が驚いて言った。

「当たり前だろ?内容はどうあれ、初めて早苗さんからもらった手紙なんだからさ」

 溝口はいじけたように愚痴った。

「見ていいの?」

 真由美は、何か勘繰っている言い方である。

「別になにもまずい事は書いてないよ。ただ、最後の追伸の所を見て欲しくてさ」

 そう言われて、大川と真由美は二人並んで目を通した。大川夫妻は困惑した顔を見合わせた。

「木戸はさあ、ずっと背負っていたんだよな、心の傷を。誰にも言えず、ずっと一人で。あんなに強気で、気丈に振舞っていたのに…。俺、何も気づいてあげられなかった。なにもわかってあげられなかった。支えてあげることも、護ってあげることも何も出来なかった。俺、本当に情けない」

 溝口の声は力なく震えていたが、溝口が高校の時の噂を知っているのかどうかまでは分からない。

 大川も真由美も、重苦しいものを心の中に感じていた。ひょっとしたら、自分たちは今まで、触れてはいけないものに触れていたのではないか?早苗の存在は、それ自体が誰も触れてはいけないものだったのではないか。触れず、関わらず、そっとしておいてあげるのが、彼女に対する最大の誠意だったのではないか。二人には、そんな後悔にも似た思いが溢れていた。




            *


 その後、真人は笹本夫妻に引き取られることとなった。笹本夫妻の住所は同じ市内ではあるが、真人たちの住所とは距離があり、校区も違っていた。

 学校が変わることに難色を示した真人の意向と、笹本夫妻の住むマンションでは三人で住むには手狭であるなどの事情と、裏で志乃が真人と離れたくないと真人に泣きついたことなどから、夫妻が今の学校の校区に引っ越すと言うことに落ち着いた。

 しばらくホテルを借りて三人で暮らした後、ほとぼりが冷めた今は笹本夫妻の引っ越し先の選定と準備のために、早苗のアパートに暫定的に祖母と二人で住んでいる。祖父の方は早苗のアパートと祖父たちのマンションとを行き来している。真人の本心は、このアパートに住み続けて早苗の帰りを待ちたかったが、ここに三人で暮らすのは無理なのは分かっているから何も言わずにいた。

 学校の方もいろいろ言う生徒たちもいたが、それと対立する形で真人を擁護する友人たちがいてくれたおかげで、さほど問題もなく通うことが出来ている。

 早苗の方は半月ほどで退院し、声も出るようになって検察での取調べに素直に応じていると言う。


「真人君、面会の許可が下りたよ」

 筒井から真人のもとに連絡が入った。真人は、早苗の声が出るようになったと聞いてから、すぐに面会の希望をしていたが、児童相談所が難色を示したため実現出来ずにいたのであった。




 久しぶりに見る早苗は、少しやつれているようにも感じた。ただ、ノーメイクにぼさついた髪、それといつものスウェットの格好は、いつも自宅で見る、見慣れた姿と変わらなくも見えた。ただ、二人の間に立ちはだかる透明のアクリル板が、現実の立場と言うものを思い知らせてくる。

「笹本のおばさんと住んでいるんだって?」

 早苗は暗い笑顔で言った。その声はいつもと変わらなくも感じたが、少し話しづらそうな印象を受けた。しかし、前のめりに両肘をついて、少し小首をかしげたその姿、更にちょっと悲しそうに眉をひそめた表情は、昔、真人が困った時、悩んだ時、話を聞いてくれる時の早苗の顔であった。真人の胸が熱くなった。

「うん」

「あのアパートに?」

「うん、今は」

 すると早苗は、いつもの皮肉っぽい笑顔を見せた。

「あんなボロアパートじゃなくて、あの女が残してくれた金で、マンションの一つも買ってあげれば?」

 いつもの早苗らしい皮肉だ。真人は少し安心した。

「笹本さんは、あの女の金の世話になど絶対にならん!って言って譲らないよ。全部俺の将来のために取って置きなさいって言ってるよ」

 早苗の笑みが消え、悲しい表情になった。

「そうかもしれないね。あの二人にとっては…」

 早苗が悲しそうに真人を見た。

「すまないけど、あんたが代わりに親孝行して上げてね」

「誰の代わりだよ?」

 誰の?と聞かれて、言った早苗本人が戸惑った。早苗なのか、笹本啓太なのか。自分はどっちのつもりで言ったものなのか。早苗は視線を落とし沈黙した。

「今度、笹本さんも面会に来るって言ってたよ」

 早苗の眉がピクリと動いた。

「そうかい?それは楽しみだね」

 そう答える笑顔には動揺の色が溢れ、その装われた平静には強がりがはっきりと見えていた。

「会って、いろいろと積もる話を聞いてあげなよ」

 真人の言葉には、説得するような重々しさがあった。

「昔、早苗さんと会えなくなって残念だったそうだよ。なぜ、早苗さんじゃなかったのか、早苗さんだったらどうなっていただろうかって、何度も何度も考えたっておばあさんが言ってるんだ。毎日毎日…」

 早苗が潤んだ目を真人に向けると、真人はやり切れないと言った表情で早苗を見つめていた。おそらく祖母は、孫に出会えた嬉しさと共に、胸の奥にしまい込んだ忌まわしい思い出の一つ一つを思い出し、それを孫の前に吐露することにより恨みを解いているのであろう。

「あの女の被害者がここにもまだ居たんだよね」

 真人はそんな祖母の姿をどんな思いで見つめているのであろうか。早苗には、早苗や志乃に対してそうであったように、真人は祖母に対しても、寛容と忍耐で向き合って上げているのだろうと思えてならなかった。

「ちなみに、あの人の葬儀はちゃんと済ませたからね」

 突然の言葉に、早苗の顔に驚きの色が浮かんだ。早苗の頭の中には香奈恵の葬儀のことなど微塵もなかったのだ。

「そう?それはご丁寧なことだったね。迷惑をかけた」

 早苗はあえて素っ気ない対応をした。

「うん、筒井先生が、葬儀はちゃんとやったほうが心証がいいとか言っていたからね」

 早苗は渋い顔で聞いていた。

「本当に形だけだよ。俺と志乃ちゃんの家と溝口さん。それに学校の先生と友達が何人か来てくれた」

「そう?」

 やはり、笹本の方は出席しなかったらしい。早苗は複雑な表情だったが、何も言わなかった。

「あと、遺骨は早苗さんの親と一緒の所に入れることにした」

 早苗はその言葉に驚いて、ハッとしたように真人を見た。真人はそれを見て、してやったりと言った顔をした。

「早苗さん、自分の親の墓なんて、考えもしてなかったんだろう?」

 早苗は言葉が出なかった。

「早苗さんの実家のあったところの近くのお寺に、納骨堂を借りていたんだよ、あの人が。きちんと監理費も払っていたそうだよ。筒井先生が調べてくれたんだ。それで、四十九日を過ぎたらそこに一緒に入れてもらうことにした。これからは俺が管理費を払う。と、言ってもあの人の残した金だけどね」

 真人は冷めた笑みを浮かべた。早苗は悲し気に目を伏せた。

「あとね…」

 真人の意味ありげな言葉に、早苗が再び視線を向けた。

「そこは、四つまで入れられるらしいから、あと一つ余裕があるそうだよ」

 真人はそう言うと、真人には珍しい嫌味な笑顔を浮かべた。しかし、それを聞いても早苗には笑えなかった。


「保釈の申請しようか?両親のお参りもしたことないんでしょ?」

 僅かな沈黙の後の、真人の突然の言葉に早苗が驚いたように真人を見た。

「出来るんですよね?先生」

 真人が後ろに控えている、付き添いの筒井に向かって問いかけた。突然の出番に驚いた筒井であった。

「はい、勿論。ただ、今回は殺人なのでまず許可されることはないでしょうね」

 筒井は、冷静に答えた。そして早苗は苦笑いをした。

「いや、いいよ。親には何の思い入れもないからね。それに有罪は決定しているし、今出たら外の世界に未練が出来ちゃう。今は、ただじっと裁きを待ちたい心境なんだ。世の中の普通の人から見て、私が取った行動はどの程度狂っているものなのか、客観的な意見を聞きたいと言うか…」

 語尾を濁す早苗の言葉に、早苗の心の迷いを感じる真人であった。おそらく早苗は、全てを終えて冷静になった今、本当に香奈恵を殺す必要があったのかと言う疑問にぶつかっているのであろう。

 それを聞きながら真人はじっと早苗を見つめ、黙っていた。早苗がその様子を気にして真人に注目した。真人はそんな早苗の様子を見て、僅かに微笑んだ。

「じゃあ、とにかく反省してよ。しっかりと時間を掛けて自分の罪と向き合ってね」

 いつになく生真面目な、当たり前な真人の意見を、早苗は不思議に感じた。

「笹本さんに聞いたよ。中学生の頃の早苗さんのこと」

 真人は冷やかすような笑顔を見せた。

「普通の可愛い女の子だったそうじゃないか?」

 早苗は怪訝そうに眉をひそめた。

「その話を聞いた後、志乃ちゃんのおばさんが思い返してみたんだってさ。そうしたら思い出したって言ってたよ。早苗さんは無口で控えめで大人しかったけど、今みたいに偏屈でも強情でもなかったし、確かに相手のことを気遣ってくれる優しい面があったって。でも、その後の豹変が激しかったから、そっちの印象が強くてそう言う人なんだと思い込んじゃったみたいだって」

 真人は悲しそうな目で早苗を見た。

「早苗さん、笹本さんとのことが辛くて、周囲の人の仕打ちが辛くて、自分を守るにはそう言う偏屈な、強がった生き方をするしかなかったんだろう?でも、もうそんな虚勢を張る必要はないよ。おそらく、これから早苗さんに対する社会の対応は冷たくなると思う。でも、これからは俺が守る。早苗さんが出てくるころには、俺ももう大人になっているはずだから。早苗さんにもう強がりは必要ないよ。気を張ったり、身構えたり、そんなことはしなくていい。早苗さんは、早苗さん本来の姿でいればいいんだよ」

 真人のいつになく強気の発言に、早苗は圧倒されていた。

「俺、小さいときからどういう訳か、ずっと早苗さんの幸せを願っていたんだよ。早苗さんの笑顔が見たくて、早苗さんが喜ぶ顔が見たくて、そして、溝口さんとうまく行って欲しくて…」

 真人は早苗をじっと見つめた。

「こんなことになって、溝口さんとのことはもう無理だろうけど、俺は諦めない。早苗さんには絶対に幸せになってもらう」

 早苗の顔は固く強張り、異様なものを見るかのように真人を見ていた。

「十年か二十年か分からない。でも、俺は待っている。そして、あんたの刑期を少しでも短くするために何でもする。志乃ちゃんにも、笹本さんたちにもみんなに証言してもらう。あいつがどんなにひどい奴だったか。俺にどんな酷いことをしたのか。そしてこれからの俺にどんな危険が迫っていたか。俺は、俺の恥もみんな晒すつもりだ。あんたのために。だから、裁判を中止させようなんて絶対に考えるなよ。そんなことしたら、すぐに俺も後を追いかけるからな。まあそうなれば、俺も父親と早苗さんと三人一緒にいられるから、それもありだけどね」

 早苗の顔に、怯えの色が加わった。

「早苗さん、俺に笹本さんの養子にしてもらいなさいって言ってただろう?それも考えて見たけど、やっぱり止めた。俺は早苗さんの子供になる。早苗さんの養子にしてもらう。早苗さんのことをお母さんと呼ばせてもらう。そうすれば、もし俺に子供が出来れば早苗さんの孫になるだろう?俺があんたに孫を抱かせてやるよ」

 目を輝かせ、嬉しそうに話す真人とは対照的に、早苗の顔には不安と恐れの色が滲んでいた。真人はきっと、真剣にそう思っているのだろう。しかし、本当にそれは可能なんだろうか。早苗には恐ろしい疑問であった。思春期の今、真人にはあれだけのトラウマが残っているのだ。今後本当にその傷が癒え、子どもを作ることが出来るのだろうか。早苗もまた、似た傷を持つ身としてその難しさは痛いほどわかる。

―結婚や子供のことは、あせらずに時間を掛けて慎重にしたら?―

 そう言う言葉が口から出かかったが、言葉になることは無かった。言えなかったのか、言わなかったのかは早苗にも分からない。

 それは、いずれ真人が成長して行くと、必ず突き当たる問題だ。パートナーとなる女性は、そんな真人を理解してうまく付き合ってくれるのだろうか?おそらくそこには、辛い仕打ちが待っているに違いない。しかし、そんな事態になったとしても、その時早苗には傷ついた真人を慰めることも、支えてあげることも出来ないのである。早苗は、この時自身の選択が誤りであったことを思い知らされた。香奈恵を排除するよりも、真人に寄り添い、護ってあげるべきだったのだ。

「あんたが出所する頃には、おそらく俺も社会人になっていると思うから、俺がしっかり養ってやるよ」

 真人の優しく力強い言葉が、早苗の心に突き刺さる。真人は一途に早苗を守ろうとしてくれる。しかし早苗はそんな真人を退けるような行動をしてしまう。すべて裏目に出ているのだ。

 早苗の目から止めどない涙が溢れ、嗚咽が込み上げて来た。早苗にはもう泣くことしか出来なかった。




 面会の時間が終了した。と言うよりも、泣き崩れる早苗を見て刑務官からストップが掛かったのだ。

 筒井は何も言わずに早苗を見送った。二人の会話に参加せず、第三者として見ていた筒井には、早苗の様子の変化が良く分かり、ちょっと気にかかった。最後、出て行く早苗の姿は、筒井が知り得るどの早苗とも違う姿だった。まるで今まで彼女を支えていた軸のようなものが折れたように、弱々しく見えた。次の接見の時に、少しメンタルのチェックもしなければならないと感じていた。

 筒井は、もともとはもっと軽い気持ちで引き受けた依頼であった。姉と妹の和解の手助け。それだけのつもりであった。早苗との再会も懐かしさから来る楽しみだけであった。それがこんな根の深い重苦しい事件の入口であったとは、まったくの想定外であった。

 ただ、この早苗と言う既に三十半ばの女も、筒井にとっては女子高生だったあの頃と同じに見える。家族も友人も、だれにも頼ることが出来ず、ただ一人、気を張り詰めて生きて来たこの女はもう壊れる寸前にしか見えない。いやもうすでに壊れているのかもしれない。

 この女、木戸早苗は正直で真っ直ぐな性格であったのだろう。それ故、降りかかる火の粉を振り払うと言う術を知らず、それをまともにかぶって来たのだ。彼女の身を護るための技は、「忘れる」であった。火の粉を被り火傷をしても、その事実を忘れる。火傷の痛みもなかったものとして記憶から消す。それによって、傷も痛みもなかったこととして自分の心を護って来たのだ。しかも彼女の性格は、物事を悲観的に捉える傾向がある。今回のことも、普通の人ならば殺害までは考えなかったかもしれない。早苗の被害妄想じみた姉に対する恐れがなしたことなのだろう。そして今、彼女の傷ついたその精神はもうガタガタで、限界を超えてしまっている。いつ、崩れ落ちてもおかしくない。筒井はそんな早苗を何とか守ってあげたいと思っていた。

 そして、この木戸真人と言う少年も普通ではない。どこと言う訳でもない。何かが違うのだ。この少年が言っていることやっていること、何処か危険な匂いがする。この少年からも目が離せない気がする。

 早苗と真人、歳も立場も違う二人が、お互いの幸福を願い合う。しかし、その姿は向きも形も歪な愛情による結びつきである。二人の関係を外から見る立場として、その歪さ、異様さがはっきりとわかる。今後、それがどのように展開し、どのような形で終結するのか、筒井には想像もつかない。ただ、見守るだけである。

 しかし、果たして本当に終結など出来るのであろうか。筒井は激しい胸騒ぎを感じていた。




            *


 その日の放課後、志乃は鈴木を誘って自宅の部屋にいた。真人が早苗の面会があると言うことで、学校を休んでいたからだ。

 早苗の事件以来、志乃と鈴木はぐっと親しくなっていた。

「志乃ちゃん、気持ちの整理はついた?」

 鈴木が志乃のベッドに腰かけて、心配そうに声を掛けた。志乃は床に座り、窓際の壁に寄りかかっている。

「うん、私はね…」

 そう言う志乃の声には力がない。事件の後、志乃の元気がないのは顕著である。鈴木には、却って真人の方が以前の元気を取り戻しているかのように思えた。

「志乃ちゃん、なんだかんだ言っても早苗さんと親しかったから、ショックも大きいでしょうね」

 志乃は、悲しそうな目で鈴木を見た。

「そうね。私、思っていた以上に早苗さんのこと好きだったみたい。早苗さんが人を殺したって言うことよりも、早苗さんとはもうしばらく会えないんだって言うことの方が寂しくて。こういうのが心に穴が開いたみたいって言うのかなって…」

「?真人君のことは?」

 鈴木が不思議そうに聞いた。

「え?」

「真人君のことは、心配じゃないの?」

 志乃は、鈴木の問いかけの意図が分かり、悲しそうに微笑んだ。

「真人のことは心配ないよ。優しそうなおじいちゃんおばあちゃんが近くに居てくれるし…」

 それを聞いて鈴木はフッと微笑んだ。今度は志乃が、それを見て不思議そうな顔をした。

「真人君がおじいちゃんたちと一緒に住むことになった時の志乃ちゃん、すごかったよね」

 鈴木が笑いながらそう言うと、志乃も照れくさそうに笑った。

「そうだったっけ?あの時は私も必死だったからさ。早苗さんだけじゃなくて、真人まで離れて行っちゃうのかって…。あの時は真人のことよりも、自分のことで精一杯だったんだよね、今思うと」

 鈴木は、志乃の顔をじっと見つめた。志乃はそれに気づき眉をひそめた。

「志乃ちゃんって、思った以上に繊細だったんだね?」

 鈴木がしみじみと言った。

「鈴木さん、何かシレっと失礼なこと言ってる」

 志乃が苦笑した。

「ごめん。でも、何か想像していたのと違う」

「ふふふ、実はね、私もそう思ってたんだよね」

 志乃は、自嘲するように微笑んだ。

「最初、事件のことを知った時は、真人がものすごく動揺していたこともあって、私が何とかして上げないといけない!って言う衝動みたいなものがあって強気でいられたんだけど、次第に事件のことが分かって来て、いろんな人が集まって来るうちに、ああ、私には何も出来ないんだなって、早苗さんの深刻な気持ちも何も理解してあげられてなかったんだなって、そんな思いが込み上げて来てさ…」

「そうだよね。私たちはまだ子供だからね」

 鈴木が切なそうに言った。志乃は悲しそうな笑顔のまま鈴木を見た。

「鈴木さんこそ、私が想像していたのと違ったよ」

「え?そうなの?」

「うん、鈴木さんはどっちかって言うと、他人のことを冷めた目で見ているって言うか、客観的に観察するタイプなのかと思ってた」

 鈴木が苦笑いをした。

「意外とそうかもよ」

「ううん、でも今回、真人のことで、ものすごく積極的に動いてくれたでしょ?」

「ああ、まあね」

「正直、あの時は私も、おそらく真人も、学校とか周りのことなんかまったく考える余裕なんか無かったんだよね。だから鈴木さんから電話もらった時、ああ、鈴木さんは真人の帰る場所を守ってくれたんだって、すごく嬉しかったんだよ。おかげで真人もすぐに学校に溶け込むことが出来た。ありがとうね」

 鈴木は、志乃の言葉に照れくさそうな笑顔を見せた。

「そりゃあ、まあ、真人君は私たちのアイドルだからさ…」

「え?アイドル?」

 驚く志乃に、鈴木は悪戯っぽい笑顔で答えた。

「だってそうでしょう?真人君ってあのビジュアルで、言動とか持ってる雰囲気が独特でしょ?見ていて飽きないんだよねー。結構いるんだよ?真人ウォッチャー」

「真人ウォッチャー?」

 志乃には初めての言葉であった。

「うん、そうそう。真人君の日常のいろいろを観察して、報告し合って情報交換するグループ」

―ストーカー?―

 志乃が蒼ざめた顔で鈴木を見た。

「そう言う我々、真人ウォッチャーズの中では、志乃ちゃんも注目の的なんだよ」

「え?」

「だって二人を見てると、まるでラブコメのドラマでも見ているみたいだからさ」

 鈴木の笑顔が輝いた。志乃は何も言えずに口を開けたまま黙っていた。

「だからさあ、真人君が転校しないで残ってくれたのは、私たち的にもラッキーだったんだよね」

 鈴木は、おどけた笑顔を作って志乃に見せた。

「だからさ、これからも二人の楽しいラブラブを一杯見せつけてね」

 明るく笑顔を見せる鈴木の言葉のどこまでが本気なのかは、志乃にも分からなかった。志乃には、これはおそらく鈴木流の照れ隠しなのではないかと感じられるのだった。

 鈴木は、志乃の切なそうな顔を見て、観念したように口を開いた。

「本当はね、早苗さんにお願いされていたの、真人君の力になってあげてって」

 志乃の目が丸くなった。鈴木は、照れくさそうな顔で志乃に笑顔を見せた。

「ちょっと前だったんだけど、買い物中に偶然早苗さんと会ったことがあったんだよね」

 志乃が意外そうな顔をした。

「本当に偶然だったの。私も本当に早苗さんかどうか自信が無くて、不安に思いながら声を掛けたんだけどね。早苗さんも小学生の時に会ったときのことを思い出してくれて。で、私、その時ちょっと意地悪な質問をしたんだよね、早苗さんに」

「え?どんな?」

「うん。真人君の過去のことについて詮索するようなことを…。その時の私は少し早苗さんを怒らせて、そんなうろたえた早苗さんを見て笑ってやろうみたいな、いやらしい思いがあったんだけどね。でもね、早苗さんはそんな私の気持ちを見抜いてか、優しく言ったの。私の知恵と知識を使って、真人君を守ってあげて欲しいって」

「へえ?そんなことを?」

「うん。今思えば、あの時早苗さんもう決意していたんだと思うの。事件のこと。だから、誰でもいいから真人君の味方が欲しかったんだろうなって」

「そうかもね」

「それであの朝、ニュースで事件のことを知った時にすぐに何かしなきゃって思ったんだよね」

「そうだったの?やっぱり早苗さんはすごいよなあ。敵わないよ、早苗さんには」

 志乃は思いをはせるように天井を見上げた。しかし、すぐに

「やっぱりそのせいかな?」

 志乃はそう言うと、視線を鈴木の方へ戻した。。

「何かさあ、最近真人との距離を実感しちゃってさあ」

 そう言う志乃の声は震えていた。

「結局、真人には早苗さんしかいないんだよね。早苗さんが全てで、私は早苗さんの添え物でしかないんだよね」

 志乃は横を向き唇を震わせていた。

「そんなことは無いでしょう?真人君は、志乃ちゃんに夢中だったよ」

 鈴木は慌ててそう言いながらも、それがいかにもその場を取り繕うだけの言葉であることを感じていた。

「何言ってるの?鈴木さんだって感じていたでしょ?真人にとっては早苗さんとの関係が大前提で、その前提の上に私を含めたすべてのものが存在しているの。私は決してあの二人の間には入れないの…。それは、小さい頃からいつも感じていた」

 志乃は震える唇を固く閉じると、瞼も固く閉じた。そしてその瞼からは大粒の涙がこぼれた。

 鈴木にも志乃の言葉の意味は理解できた。真人と早苗の関係には鈴木から見ても一種独特のものが感じられた。それは、親子ともまた違う何かが。

「鈴木さん…」

 しばらく涙を噛みしめていた志乃が、突然震える声で鈴木を呼んだ。

「鈴木さんは、真人のお父さんと早苗さんの関係について聞いたことある?」

 鈴木は突然の質問に戸惑いながらも、取り繕うように答えた。

「うん、マスコミの報道でいろいろ言っているからね」

 志乃はそれを聞いても何も言わず、少しの間じっとしていた。

「私、昔からずっと不思議だったことがあるの」

 不意に志乃の話が再開した。

「真人はなんで、あんなに早苗さんに懐いていたんだろうって。昔は私も、真人は早苗さんに母親を求めているんだと思って納得していたの。でも、それも何か違う感じがして…」

 その疑問は鈴木も何となく感じたことはあった。

「真人ったら、最初から早苗さん早苗さんってすごかったんだってさ。うちのお父さんが言ってた。絶対に引き取らないって譲らない早苗さんに対して、大きくなったら自分が早苗さんの世話をするから今だけ面倒見てくれって。八歳の子供がだよ?それも、初対面の叔母さんにだよ?異常でしょ?それに、真人のお母さんのことも」

 志乃は、眉間にしわを寄せて、小首をかしげた。

「お母さんのことはあまり話題にならなかったから私も良く分からないんだけど、真人はお母さんのことを恋しがる様子を見せたことがないの。それに会話の端々に、お母さんと離れて暮らすのが嬉しいみたいな言葉が…。実際、少し前に真人のお母さんが真人の周囲で見かけられた時も、真人も早苗さんもものすごく怯えていたんだよね。それで私には真人がお母さんのことを憎んでいたとか、恐れていたように感じられたの。実際この前、そのことを真人に確認したら、そんな憎んだり恐れたりするような虐待とかは無かったけど、どういう訳か、母親に関しては憎しみの感情が有ったって。それに、あの事件の時も自分の母親が殺されたと言うことよりも、早苗さんが殺人犯になったって言うことにショックを受けていたの」

 鈴木は黙って聞いていた。志乃は鈴木の方を見て歪んだ笑顔を見せた。

「鈴木さん。私これから変なこと言うね。私の妄言だと思って黙って聞いててね」

 鈴木は何も言わずにうなづいた。

「私ね、真人のそう言った早苗さんやお母さんに対する感情の全ては、真人のお父さんの物だと思うの」

 志乃は鈴木の反応を確認するようにゆっくりと言った。鈴木は黙って聞いていた。

「真人のお父さんは、早苗さんのことを愛していたけど早苗さんのお姉さんの誘惑に勝てずに早苗さんを捨てる形になった。しかし、そのお姉さんの方は、お父さんのことを繋ぎ留めつつも弄ぶようにした。それで、お父さんは早苗さんに未練を持ちながらも、お姉さんに束縛されていた。だからそんな早苗さんに対する愛情とお姉さんに対する憎しみが、情念となって自分の遺伝子に刻み込まれたんじゃないか…って。そして、その遺伝子を受け継いだ真人は、先天的に早苗さんを恋い慕い、自分の母親を恐れ、憎むようになったんじゃないか…と」

 二人は何も言わずに見つめ合った。鈴木は否定も反論もせず、ただ黙って志乃の歪んだ笑みを見つめていた。

 「馬鹿らしい」そんな一言で切り捨てることも出来た。しかし鈴木にはそれが出来なかった。反発したい理性が働きながらも、何故かしっくりと受け入れてしまう感情もまた存在するのだ。

 暫し見つめ合った二人は、いずれどちらからともなく冷めた笑顔を見せて視線を逸らした。

「因縁話だね」

 歪んだ笑顔でそう呟いたのは鈴木だった。







          結び



 早苗はひと通り話し終わると、真希に向かって優しく言った。

「これはあくまでも、私から見た内容だよ。あとは、お父さんやお母さん、あとお志乃とか、いろんな人に聞いて見たらいい。そうすれば、より真実が分かるかもしれないね」

「じゃあ、おばあちゃんは何年ぐらい刑務所にいたの?」

 話しを聞き終えた真希が、神妙な顔つきで尋ねた。

「うん、それがね?五年の判決が出たんだよ」

 早苗が驚いた表情で言った。

「それって長かったの?」

「いいや、その反対。予想では最低でも十年以上、おそらく十五年ぐらいだろうって言われてたの」

「ええ?そんなに?」

 真希は驚きの声を上げた。

「うん。だってね、周到な計画を立てて、何年も殺意を持ち続けた結果、相手がちゃんと手順を踏んで交渉して来ているのを、自分だけの妄想で犯行に及んだんだから、全く情状酌量の余地が無いって言うもんだろう?」

「そうなの?」

「ああ、そうさ。客観的に見れば、被害妄想に狂った女が犯した殺人なんだよ」

 早苗の顔は悲しそうだった。

「じゃあ、なんでそんなに軽かったの?」

「それがね、良く分からないんだけど…、たまたまその時の裁判員が私に同情的だったんじゃないかな?それと、弁護士先生の話しの持って行き方が上手かったのもあるかも」

「ふーん」

「ただね…」

「なあに?」

「その一審の判決が出た時は、当然みんなは検察が控訴するものと思っていたんだよね。だから、それを見越して裁判員は極端に短い量刑にしたんじゃないかと思ったんだけどね、私は。どうせ検察は納得しないで控訴するだろうって。」

 早苗は少し考えるふりをした。

「ところが何故か検察が控訴しなかったんだよね…」

「どうして?」

「それが良く分からないんだよね。一応検察は一審の判決が社会の下した判決であると言っていたんだけど…。ひょっとすると、被害者に遺族がいなかったって言うのも有ったのかもしれない。うちは家族はみんな死んでいたし、親戚とも付き合いが無かったから、遺族と言えるのは私と真人だけだったからね。それに、被害者の周囲の人たちもみんな、被害者よりも私の方に同情的だったらしいしね。まあ、ある意味可哀そうな人だったんだよね、あの人は…」

 早苗は視線を落とし、少ししんみりとした。

 真希は、真剣な眼差しで早苗のことをじっと見ている。そして、意を決したかのように口を開いた。

「おばあちゃん?」

 その問いかけに、早苗はハッとしたように真希に視線を向けた。

「今はどう思ってるの?お姉さんを殺したこと」

―ああ、本当にこの娘は母親そっくりだ―

 こういうふうに、普通は聞きにくいことをごく当たり前のように聞いてくる性格。早苗としては、とても好きだった。この娘の母も若い頃そういう所があった。大人になってからは、自重じちょうすることを覚えたようだが、昔は早苗も驚かされたことがあった。真希も成長すれば、きっと分別が付くものと早苗は信じている。

「正直、殺すべきではなかったと思ってる」

 そう言う早苗の顔は、厳しかった。

「そしてそれ以前に、私の人生そのものが間違っていたんだ。裁判を通じて、そのことを痛感させられたよ」

 真希を見つめる早苗の眼を、真希も神妙な面持ちで見つめていた。

「私は、あまりにも自分に拘り過ぎていたんだ。まだ若く、幼かった友人たちの過酷な仕打ちに心を閉ざし、自分以外をすべて敵だと決めつけてしまっていた。それ故に、誰も信じず、頼らず、すべて自分だけでやっていた。だから、真人のことも自分一人で解決しようとしてしまった。それが間違いだったの。あの時、最初は姉に対する恨みから殺意を抱いたとしても仕方なかったかもしれない。衝動的な思いとして。でも、それから五年の間に、私の気持ち自体変化していたんだよ。真人を中心とした周囲の人たちとの関わり合いに、何か心地よいものを感じていたんだ。にも拘らず、最初に抱いた殺意に囚われ続けて、現実を見失ったまま突っ走ってしまったんだよね。本来は、お志乃の言う通りみんなの力を借りて真人を守ってあげなければならなかったんだよ。そして、それは可能だった筈なんだ。もう、真人は一人ではなかったんだから。私の短絡的な行動で、真人にまったく意味のない苦労をさせてしまったんだ」

 早苗の顔はいつしか悲しみに満ち、その目は赤く潤んでいた。

「今は分かる。人は一人では生きられないんだと。人は人と係わってこそ、人たり得るんだよね…。私は…生き方そのものを間違ってしまった。私が心を閉ざし続けたばかりに、周囲をみんな敵にしてしまって、余計な敵や争いを生じさせてしまった。そしてそのせいで、道を踏み外した人もいた。本当に申し訳ないことをしたと思うよ。私に及んだ災いは、結局自分自身で招いたものだったんだ」

 早苗のその視線は、真希を通り過ぎてくうの一点を見つめていた。

「刑務所の中でもその事ばかり考えていて…そのせいで精神的にかなりまいっちゃってね、出て来てからもしばらく真人に迷惑をかけたもんさ」

 早苗が切なそうな目で真希を見た。そこにあるのは、真希が初めて見る早苗の表情であった。

「そしていつしか考えるのを止めた。それには答えがない事に気づいたから。裁判で罪を宣告され、罰を受けた。別に、それで罪を償ったとは思わない。でも、もう蒸し返すことを止めた。つまり考えるのを止めた。そして月日が流れ、真人と希美さんが結婚してあなたが生まれた」

 早苗の顔が笑顔になった。

「可愛かった。可愛いを超えて感動的だった。私、生まれたての赤ん坊を見るのが多分初めてだったんだと思う。そしていろんな思いが巡る中、思ったんだ。私は取り返しのつかない多くの罪を犯した。でもそれによってこの子が産まれたんだから、過去の是非を問うのは止めよう。今のこの娘の存在が全てなんだって」

 早苗の笑顔は、いつも以上に優しかった。しかし、真希には何を言っているのか良く分からなかった。早苗の言葉はいつも回りくどい。ただ最近分かってきたことは、照れくさいことは遠回しに言う傾向があると言うことだ。

「真希ちゃん?」

 早苗が優しく呼びかけた。

「なあに?」

「私がなんでこんな話をしたか分かる?」

「……」

 真希は、黙って何も答えなかった。早苗はわずかな笑みを浮かべて言った。

「私は別に自慢するつもりで話したわけじゃないの。これはもうみんなが知っている話だから、いずれあなたも必ず聞くことになると思うのね。それが身内からならまだいいんだけど、外の人から聞いた時にそれをあなたが知らなかったなら、戸惑ったり混乱したりするでしょう?それにそう言う人たちは、意外とあなたを傷つける目的で言ってきたりするものなのよ。だから予めそう言うことを知っておいて、心の準備をしておいた方が良いと思ったの」

 早苗の顔は泣き出しそうなほど強張っていた。それを見るだけで真希にも早苗の気持ちが理解できた。

「私はね、あなたに生まれながらに『人殺しの孫』と言う重荷を背負わせてしまったの。それはきっとあなたのこれからの人生の大きな障害になる。申し訳ないね。本当に申し訳ない。ごめんなさい」

 早苗は、気持ちを整えるように大きく息を一つ吐いた。

「だから、誰か別の人から中途半端な話を聞かされる前に、私の口から詳細な事情を話しておきたいと、ずっと思っていたの。そしたら思いの外、今日あなたの口からその話が出たから、やっと話すことが出来た。ありがとうね、私にチャンスをくれて」

 真希はにっこりと笑った。

「私もね、これでやっとスッキリしたの」

「おや、どう言うこと?」

「だってさ、笹本のおばあちゃんと、お母さんの方のおじいちゃんおばあちゃんの、おばあちゃんに対する態度が全然違うから変だなあって思っていたからさ」

 真希が口を尖らせながら訴えた。それを見て早苗は思わず苦笑いをした。

「そうだろうねえ。笹本さんは当事者だったけど、鈴木さんの方は全く関係ない立場だからねえ。真人と希美さんの結婚の時も、私のことでかなり揉めたしね」

「え?そうだったの?」

 真希が驚きの声を上げた。

「そうだよ。だから、あの二人の結婚式には出させてもらえなかったんだよ、私」

「え?ひどーい」

「いや、世間体を考えれば当然のことだよ。誰も自分の娘を犯罪者の家族に嫁に出したくはないだろう?まあ、私も出たいとは思っていなかったから、それで話がまとまるなら安いもんさ」

「え?何で出たくなかったの?」

「出たくない、と言うのは言い過ぎかな?正確には出られるなんて考えてもいなかった…かな?だって私は一度死のうとしていたんだから、真人の結婚式なんて見られなくて当然なんだよ。こうして幸せそうな二人や孫の顔を見ていられるのだって贅沢な話なんだよ」

 真希は、早苗がいつも家の中で静かにしているのに、なぜか嬉しそうにしている理由が分かった気がした。


「そう言えば、なんでお父さんはお志乃さんと結婚しなかったの?すっごいラブラブだったみたいだけど」

 真希のその言葉に、早苗はムッとした顔を見せた。

「こら!いつも言ってるでしょう?あの娘にお志乃って言っていいのは私だけだって!ちゃんと志乃おばさんって言いなさい!」

「だって言いにくいし、おばさんって言ったら怒るんだもん」

 真希は不満そうに口答えした。

「いいんだよ。私が許すから、おばさんおばさんって連呼してやりなさい。もし、何か言われたら、早苗さんの命令ですって言ってやりな」

 真希は、いつも早苗と志乃が軽口をたたき合っているのを見ていた。二人は本当に仲が良かった。真希の父、真人に対するのとも、また違っていた。早苗と志乃の間には、遠慮とか気遣いとかそう言うものが全くない、友人のような本音の関係に思えた。真希の母に対しては、真希に対するのと同じような感覚を受ける。言ってみれば早苗の庇護の対象みたいな。

「で?なんで志乃さんじゃなかったの?」

 真希の好奇心に、早苗は困惑のため息を吐いた。

「それについては、本人たちに直接聞きなさい。私のあずかり知らない所で決まった話だからさ」

「えー?お父さんに聞くの?そんなこと」

 真希が思いっきり嫌な顔をした。それを見て、仕方ないなあとばかりに早苗は思いを巡らした。

「真人か…。まあ、あの子に聞くのはちょっと可哀そうか…。希美のぞみさん…も…ちょっと無理かな?やっぱりお志乃か。お志乃しかいないな」

 早苗は真希に向かって吐き出すように言った。

「お志乃だ、お志乃に聞きなさい。なんで真人をふったの?って、あの娘なら喜んで教えてくれるよ」

「えー!お父さんがふられたの?」

 真希が歓喜の声を上げた。早苗の顔が青くなった。

「あの、今のは無かったことに。お志乃に聞くまでは黙っているように。いいね?真希ちゃん?」

 早苗が真顔で懇願して来た。

「むふふ、分かった」

 真希が含み笑いを見せる。何か企んでいるのが見て取れる。とにかく真希は感がいいし、頭が切れる。そしてそれをもって、他人を翻弄するところがある。知恵と知識の使い方が、まだ分からないのだ、真希の母親がそうであったように。早苗は仕方なく言葉を続けた。

「真希ちゃん?男と女の関係と言うものはね、傍から見ると笑い話みたいなことでもね、本人たちにとっては真剣な、ある意味命を懸けたことなんだよ?周りには面白おかしく見えても、本人達には辛く苦しいこともあるかもしれない。真人とお志乃と希美さんの関係にも、いろいろな悲喜劇があったと思う。そしてそんな中、それぞれが必死になって行くべき道を選んできたの。それをどう思うか、どう判断するかは人それぞれかも知れないけど、傍から何だかんだ言うべきでもないことなの。でもねえ、一番大事なことはね…」

 早苗が静かな目で真希を見た。真希の顔から笑みが消え、真剣な顔になった。早苗は優しく、そして嬉しそうに言った。

「結果として、その泣き笑いは全て、あなた『木戸真希』をこの世に生まれさせるためのものだったんだよ」

 早苗の瞳は、どこまでも深く暖かだった。







                              ―終―

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