『金の梢』亭にて(下)
「ふぅ……お腹いっぱい」
憂鬱な気分のまま、ぼんやりする頭でここまできたのに、気がつけば、俺はこみあげる笑いを噛み殺すので精一杯になっていた。
時刻はそろそろ夕方。西の空は、限りなく黒に近い灰色と黄金色の混じり合う、この時ばかりの豪奢を見せびらかしていた。黒ずんだラギ川は、微かにその光を照り返す。その上を、時折、小舟が音もなく滑っていく。西に広がる町並みは色濃い影を落としていた。特に目を引くのはギルド支部で、あのソフトクリームみたいな真っ白な尖塔部分が、今は黄色く染まっていた。
夕暮れ時の微風はあくまで優しく、穏やかだった。辺りは静けさに包まれていて、この上なく快適だった。
そう、普通のカップルなら、いい雰囲気になるところだった。だが、俺の頭を占めていたのは、まったく別のことだった。
「どうしよう、結局、全部食べてしまいました。これじゃ、夕飯が」
その一言で、俺は思わず顔を背けてしまった。
「あ! ファルスさん、今、バカにしましたね!」
「ち、ちがっ……プフッ」
笑いをこらえているのがバレてしまった。
だって仕方ないだろう? 俺を元気づけようとして、いつもは行かない高級喫茶店に連れてきておいて。いざ、紅茶とお菓子が出されたら、その物珍しさに目を奪われて、最初は遠慮がちに、そのうち止まらなくなって、全種類味わうまで止まらなかったのだ。
夢中になってお菓子にがっついている様子が、微笑ましかった。というより……
「あー! ひどいです! だって、仕方ないじゃないですか! 残したらもったいないんですし」
「そ、そうだね、うん、プハッ」
「まだ笑ってる!」
……変に気を遣われたり、慰められたりするより、余程救われた気がする。
ここのお菓子やお茶は、俺が手がけたものではないが、それでもやっぱり、人がおいしそうに飲食しているのを見るのは好きだ。その人が素顔で喜びを表している。そのことが、俺の心を落ち着かせてくれる。これ以上に癒される何かなんて、あるだろうか?
どんなに立派なお菓子が目の前に並べられていても、彼女がいなければ、こうはいかなかっただろう。そして、どんな気配りも、真心に勝ることはない。本当に、ヒメノは心根のいい娘だ。改めてそう感じてしまった。
「……もう」
「ごめんごめん」
むくれた彼女は、少し恥ずかしそうだった。
「こんなに食べたら太っちゃいますね」
「問題ない。木刀を千回くらい素振りすれば。きっとサボってたんだろうし、そろそろ鍛え直さないと、アーノ辺りに叱られるんじゃないかな」
「考えたくないです!」
そう話してから、また俺達は笑いあった。
「ここ、いいね」
「気に入りました?」
「うん。でも、ちょーっとお高いからなぁ」
それで会話が途切れた。そのことが少しでも苦ではなく、俺もヒメノも、流れゆく夕暮れ時の微風に、黙って身を委ねていた。それは心地よい時間だった。
とはいえ、あまり遅くなるわけにもいかない。適当なところで切り上げて、それぞれ家路につくべきだ。特に、今は凶悪犯が学園に狙いを定めているらしいという話もあって、安全には気を配る必要がある。
それでさて、どうしようかと思い始めた頃、微かな足音を俺の耳が聞きつけた。階段の方からだ。さっきのウェイターが、何事か話している。多分、来客……いや、これは。
正面を見ると、ヒメノも気付いたらしい。だが、さすがに何も言わない。ベルノストが、やっとここにやってきたのだ。同じ店に来ちゃいました、というのもなんとなく居心地が悪いし、鉢合わせはしたくない。それで、うまくやり過ごそうと考えて、俺達はその場で大人しくしていた。
足音が近づいてきた。なんと、よりによって俺のすぐ背後、一段高い位置に設けられた席に、新たな来客を誘導したらしい。これでは、話し声が聞こえてしまう。
ただ、それが妥当な判断ということも言える。俺はベルノストと同じエスタ=フォレスティア王国の貴族で、彼の背中を刺すことは考えにくい。仮に話が聞かれてしまっても、その悪影響は最小化できると思うのが普通だろう。それに、俺達はもう十分、長い時間をここで過ごした。店側からすれば、すぐ帰るか、知り合いに挨拶するかのどちらかだろうと受け止めても不思議はない。
いや、もっといやな可能性を意識してということも考えられるか。つまり……俺達がそもそも、ベルノストの予約を事前に察知していて、その会話を盗み聞きするためにやってきたという推測だ。そんな振る舞いをアシストする必要があるのか? しかし、店側からすれば、俺の背後にグラーブがいないとも限らないのだ。
立ち去るタイミングをなんとなく逸してしまい、俺とヒメノは無駄に息を殺してその場にとどまっていた。
それからすぐ、背後でお茶が供されるときの、あの磁器の擦れ合う音が聞こえてきた。それが止んでしばらく……
「楽にしてくれ。お互い、何かと不自由な立場ではあるが、だからこそ、無駄に気疲れさせたくない」
「お気遣い、痛み入りますわ」
会話が聞こえてきてしまった。
それ自体は大した問題ではない。こちらがさっさと立ち去ればいいだけだ。ただ、どうにも相手の女の声色に、引っかかりを覚えた。ツンと澄ましたお嬢様。そんな印象を受ける。
「こちらに来て、もう四ヶ月にもなるか。どうだろう。帝都での暮らしに不自由はないか」
「ええ、寮のお部屋が手狭すぎることを除けば、さほどの不満もありません」
「それはよかった。我が国の王都ほど暮らしやすくはないにせよ、これも学生としての務めと思うしかない」
ヒメノにも、少し聞こえているらしい。さっきまで花咲くようだったその表情が、すっかり冷めきっていた。まるで陽が落ちた後、重たげに枝を垂らす樹木のようだった。
そんな顔になるのも無理はない。二人の会話の内容と口調が、あまりによそよそしすぎる。もともと距離のある関係なのは仕方がないとして、ベルノストがあれこれ気を遣って話しかけているのに、相手の娘がまるで受け付けようとしないかのような。
相手から歩み寄る気配がないのなら、自分が場を繋ぐしかない。少しの沈黙の後、ベルノストがやや上擦った声で話題を引っ張り出した。
「今年、入学できたのは運がいい。なんといっても千年祭がある。楽しい夏を過ごすことができるだろう」
「まぁ、ベルノスト様。まるでそこらの民草のような仰りようですこと」
やっぱり。明らかに棘がある言い方だ。しかし、ベルノストのどこに不満があるというのだろう? 見目麗しく、その血筋にはサハリア系の先祖がいるとはいえ家の歴史もあり、以前より太子の側近候補として立ち働いてきた。これ以上の優良物件など、そうそうあるものでもなかろうに。
「カリエラ、ここ帝都では貴族も平民もない。誰もが民草に過ぎない」
「建前でしょう?」
相手を見下すような物言いに、俺とヒメノは思わず目を見合わせた。
「お祭り騒ぎを喜ぶのは下々のすること、そうではありませんこと?」
「他意はない。まだこの都にやってきて、不慣れなそなたが少しでも楽しみを見つけてくれればと思って口にしただけのことだ」
取り繕おうとするベルノストに、このカリエラと呼ばれた女は容赦なく畳みかけた。
「切れ者と聞いていたのですが、少しお話をしただけでも、すぐに襤褸が出るものですね。であれば、噂は事実であったということですか」
「何の話だ」
「既にベルノスト様は、グラーブ殿下の寵愛を失っておいでだということです」
ここで昨秋の問題が響いてきてしまった。実態としては、取り立ててベルノストの過失が大きかったとは言えない事件だったのだが、そういう受け止め方をする人はいたのだろう。そしてカリエラは、そのような情報を聞きつけて、ベルノストと結婚するメリットは小さいのではないか、と考え、今、こうして揺さぶりをかけてきている。
それにしても、切れ者、か。少なくとも、最初からこうして自分の牙を見せびらかす女が切れ者であるとは、思えないのだが。
「根拠はあるのか」
「公館を出られるとか」
「留学生活も三年目だからな。殿下も、私に少し羽を伸ばすようにと配慮してくださったのだ」
その返答に、彼女は鼻で笑って感想を表明した。
「他にも気になることが」
「なんだ」
「なんでもベルノスト様は、以前、陛下の目の前で奴隷上がりの少年と剣の腕を競って、敗れたそうではありませんか」
俺のことだ。この発言、いまやティンティナブリアの領主になった人物を指しての話だと、彼女自身は把握できているだろうか?
「だとすれば、見放されるのも無理はないことと言わざるを得ませんね。血筋にも優れ、幼少期より大切に育てられ、学びの機会を多く与えられてきたはずの貴族の子が、奴隷ごときに敗れるとなれば、本人の怠慢は疑いようもありませんもの」
さすがに気分が悪くなる。俺がベルノストのキャリアに傷をつけてしまったのか。そんな思いが忍び込んでくるから。
だが、彼は淡々と述べた。
「敗れたことは事実だ」
「あら」
「それも、二度も」
「あらあら」
面白がるような相手の口調に対して、ベルノストはあくまで落ち着いていた。
「二度目は、事前にアルタール様の手ほどきまで受けて、一年以上我が身を鍛え直して、全力を尽くした上で挑んだ。それでも負けた」
この説明に、カリエラの嘲笑が止んだ。とすると、やはりこの女は大したことない。甘い下調べでベルノストに食ってかかったに過ぎないのだから。
「私が敗れたのは、相手のが優れていたからだ。それだけのこと」
「恥ずかしくは思わないのですか」
「思わない」
彼の声に、力みはまったくなかった。
「カリエラ、君は私に何を望んでいる?」
「そうですわね」
やや気勢を殺がれはしたものの、相変わらず強気な様子で、彼女は言った。
「あなたに先がないのなら、婚約破棄をお願いするつもりです」
「賢しらだった真似はしない方がいい」
あくまで静かに彼は諭した。
「私もお前も、王国の定めの下、一時、この自由の都にいるに過ぎない。そしてそれぞれに、貴顕の家の生まれゆえの責務を背負っている。私が望もうと、また望むまいと、婚約は結ばれる。その他のことも、どれもそうだ。軽々しい振る舞いは身を滅ぼすだけだ」
「ご忠告ありがとうございます、と言えばよろしいのかしら」
これはダメだ。完全にベルノストをナメてかかっている。だが、彼の力は、単にグラーブの側近であるという一点にあるのではない。同世代の平均に比べれば、遥かに優秀な若者なのだ。このカリエラとかいう女、こんな態度をとって、ただで済むと思っているのだろうか?
「内心を縛るつもりはない。ただ、私には役目もある。後々、醜聞に繋がるような振る舞いだけは避けてほしい」
「まぁ、言われるまでもありませんね」
「それさえわかってくれていればいい。夜も近い。そろそろ帰るとしよう」
それからすぐ、足音が遠ざかっていった。
俺とヒメノは、長い溜息をついた。
店の外に出る頃には、すっかり辺りは暗くなってしまっていた。ヒメノをそのまま放り出せる状況ではないので、最寄りの馬車の停留所を目指して、二人して歩いた。ここでも無言だったが、そこにさっきと同じような心地よさはなかった。
ベルノストの相手が、あんな女だったとは。貴族同士の結婚に愛がないのは、ある意味で普通のことではある。にしても、あそこまでとは。あんなやり取りを耳にしてしまったら、どんな男女だって、気まずくならずには済まない。
暗がりの中に、馬車を待つ人々が佇んでいた。ここで大丈夫だろう。そう思って立ち去ろうとした時、ヒメノが言った。
「あ、あの」
「はい?」
「私、思うんですけど、その」
しばらく目を泳がせながらも、彼女はなんとか続きを口にした。
「リリアーナさんは、そんな悪い人ではないというか、その」
「それは当たり前なのでは」
「そっ、そうですよね、私、何言ってるんだろう……あの、だから」
一言では言い表せない思いが、その表情に見て取れた。
「信じてあげてください。多分、それが一番大切なんだと思います」
俺は頷いた。
「ありがとう」
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