『金の梢』亭にて(上)
窓の外が、やけに眩しい。世界が黄色く染まって見える。眠くて仕方がないのに、眼が冴えてしまう。そして、ひたすらボーっとする。一日の授業が終わったばかりだが、頭の中には何も残っていない。
昨夜は別宅から公館に戻って、遅めの夕食を済ませた。もともと少し前からヒジリは憂鬱そうにしていたが、あちらでの一件を説明すると、更に塞ぎ込んでしまった。それで気持ちが落ち着かず、俺はそそくさと彼女の前から退出して、自室に引きこもった。だが、一睡もできなかった。
こんなことは、かつてなかった。いつもヒジリは整然としていて、乱れたところがなかった。なのに今は、何かと物思いに沈みがちだった。心当たりはと言えば、やはり先日のリリアーナの電撃訪問なのだが、彼女の暴走ともいうべき振る舞いを報告しても、憤るでもなく、見下すでもなく、ただただ悩ましげな顔をするばかりだった。
もちろん、悩んでいるのは俺も同じだ。記憶の中のリリアーナは、ちょっと狡賢くて、物覚えはよくて、快活で……それが今では、妙に怒りっぽいというか、喧嘩っ早いというか。いったい何が彼女を変えてしまったのだろうか?
いや……
『どこに行っちゃったの?』
……それは、彼女にとっての俺もまた、そうなのだ。
あれは、かつて彼女が知っていたファルス、期待していたファルスの姿から、現実の俺が遠く隔たっていたからこそ、出てきた言葉だ。
しかし、そうなると、確かに俺は遠くに行ってしまったのかもしれない。そもそも物理的に。フォレスティアを離れてセリパシアを旅して、その後もサハリアに渡り、南方大陸を歩き回った。しまいには世界の果てにまで辿り着いてしまった。
その過程で、俺の心も変化を遂げた。その自覚はあった。ただ、思わぬところで、想定以上のギャップが生じていたのだとしたら?
「ねぇ、ファルス」
だが、俺の中で、リリアーナの地位というか、値打ちというか、それを意識して変更した覚えはない。彼女はかつての主人の娘で、俺のことを大切にしてくれた人。主従の縁は切れたが、手が届く限り守りたいという思いはある。
その辺は、リリアーナも同じだったのではないか。ただ、俺の身分は大きく変わった。それで、不安があったからこそ、ああして非常識な呼び出し方をしたのだ。俺はそれに応えた。立場はどうあれ、プライベートでは今でも大切な人だと思っていると、そう意思表示した。
「ちょっと、聞こえてる? もしもーし」
どうしても整合性のある答えが浮かんでこない。いや、気持ちに余裕がなくて、しかもよく眠れていないから、そのせいなのかもしれないが。
ウィーの件だけなら、半分は理解可能なのだ。父を殺されそうになったというのは、小さな体験ではない。復讐心に駆られたから、ということもできる。だが、では、ヒジリにああまで噛みついたのは、何が……
「起きて。ねぇ、暇?」
髪の毛を鷲掴みにされて、ようやく意識が現実の世界に戻ってくるのを感じた。
「なに……」
俺を揺り起こしたのは、マホだった。
「暇かって聞いてるの」
「いつ?」
「今日じゃないわ。週末。休みの日の前日の夜」
数秒間、考えてすぐ結論が出た。
「おやすみなさい。また今度」
「ちょっと!」
机に突っ伏して寝ようとした俺を、マホは無理やり引き起こした。
「暇かって訊いてるの」
「暇、だからって、なんで僕が時間割かなきゃいけないの」
寝惚けていても、その程度の判断ならできる。マホに関わっていいことなんて、何一つない。
「ムッ」
「帰って寝よう……」
「ちょっと待って! だってあなた、女には目がない好色家でしょ? だったら耳寄りの話があるわ」
「ウッ」
先日の揉め事の数々を思い出してしまった。
「女、いらない……」
「え? あ、あなたが? おかしいじゃない! 嘘つかないで。そんなわけないわよね」
俺の前まで回り込んで、マホは無い胸を張って、俺の都合も無視して言った。
「週末の夜にね、公正世界実現委員会が後援する半官半民業者の、お見合いパーティーがあるの」
「はぁ」
「でも、男性参加者が足りないの。このところ、定員割れが続いてて、このままだと政府の監査と注意があるかもしれなくて」
「大変そう」
「特別に参加費その他は棒引きでいいわ。あなた、顔だけはいいから、サクラで入ってくれないかしら」
何かと思ったら。アホらしい。
「そんなの興味ない……あっ」
急に覚醒した。
「じゃあ、本当に結婚したいと思ってる知り合いなら、紹介していいのかな」
「えっ? でも、そんな人、いるの? 帝都の市民じゃないとダメなんだけど」
じゃあ俺もダメじゃないか。あ、だからサクラなのか。身分を偽装して参加させるつもりだったんだろうか。
「市民も市民、ちゃんとした市民権持ちの若い男性」
「いいわね! じゃ、週末には連れてきてくれるかしら」
「ふぁい」
俺はヨロヨロと席から立ちあがり、廊下に出た。
「お疲れ様……大丈夫ですか?」
校舎を出たところで、ベルノストと立ち話をしていたヒメノに声をかけられた。
「ひどい顔だな。どうした」
「あれ? 先輩」
ヒメノはいつも、俺が帰る時に待ち合わせているから、ここにいるのに不思議はないのだが、ベルノストがいるのは意外だった。
「どうしてこんなところに?」
「今日は、例のお見合いの日でな。少し時間を潰していた」
そういえば、前に聞いたような気がする。今年入学した女子学生の中に、彼の婚約者になる予定の令嬢がいるのだとか。
「どこで会うんですか? 前にお話した……」
「いや、あそこも悪い店じゃないが、それより一段上等なところだ。『金の梢』の屋上テラスで、お茶とケーキをいただくことになっている」
「へぇ」
高級喫茶店というやつだ。多分、帝都でも最上級の店の一つだろう。これより上等な場所となると、これはもう、北東部の大富豪の屋敷の中にしかない。つまり、プライバシーを金で買うような連中の、カスタマイズされたサービスだ。つまるところ、この世で最も高価なのはカスタマイズ製品であって、不特定多数に向けた商品というのは、どこまでいっても真の高級品の一歩手前止まりになる。といっても、それでも『金の梢』には、それなりの格式があるとみなされているのだが。
そういえば、俺はろくに外食してなかった。コーヒー豆をそういう店に扱わせようとしているのに、一度も視察すらしていないというのは、問題ではないか。
「たまたま顔を合わせたから、ちょっとここで話をしていたんだ。別に用があるとかじゃない」
「じゃあ」
「ああ、お疲れ様」
俺とヒメノは、そのまま校庭に出て、正門をくぐって学園の敷地外に出た。
「あの、ファルスさん?」
「へ?」
トボトボと歩いていた。学園横の路地だ。
「本当に大丈夫ですか?」
「はい?」
「上の空ですよ?」
「あ、済みません」
「そうじゃなくって」
気の抜けている俺を見かねてか、突然、ヒメノは俺の手を強く握りしめた。
「そういえば、私、まだどこにも連れて行ってもらえてないですよね」
「はい?」
「郊外の……ほら、顕彰記念公園にも行ってみたいって前に話しましたし」
「あっ」
婚約者公認彼女と言いながら、言われてみれば、確かに俺は、恋人らしい扱いをしてあげていない。デートらしいデートにも誘っていない。いや、誘うわけにはいかないのだ。自分からヒメノを口説こうとするなんて、そんな道に外れたことが、どうしてできるものか。
しかし、口説かないのもまた、ひどいことなのかもしれない。
「ご、ごめんなさい」
「じゃあ、今日はどこかに連れて行ってくれますよね?」
「ま、まぁ」
「じゃあ、お金は私が出しますから、どうせなら私達も『金の梢』にでも行ってみませんか? 一度、見てみたかったんですよ。一人で入るようなところじゃないですし」
そこまで言われて、やっと思考が追いついた。申し訳ない。ヒメノは、先日の件で思い悩んでいる俺を気遣って、わざと遊びに連れ出そうとしてくれている。
「いや、僕が……どんなお茶やケーキが出てくるか、料理人としては知っておきたいし」
「じゃあ、半分こで! 行きましょう!」
どこに行ってもよかったのだが、実のところ、ヒメノにも遊びに行く場所のレパートリーなんかなく、それで適当にさっきベルノストが名前を挙げたところを口にしてしまったのだろう。行き先が同じになっていいんだろうか、ということが意識をかすめていったのだが、寝不足の頭では深く考えることもなく、そのままなんとなく、目的地に向かった。
「ようこそお越しくださいました。ご予約はいただいておりましたでしょうか」
だから……緑色のチュニックをきれいに着こなすウェイターが、地上五階の屋上テラスで丁寧に腰を折ってから、さっきまで半ば眠っていた頭が、急に覚醒したような気がした。
もしかして、予約なしでは入れないところだったとか? でも、確か一度、リシュニアに案内してもらったことはある。一年くらい前だ。ただ、それから一度も立ち寄ったことがない。
「いえ。席の空きはありますでしょうか」
「二名様でしたら、ご案内できます。お客様は、ファルス・リンガ様でお間違いなかったでしょうか」
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、一度見ただけの俺の顔を一年後にも覚えていることに驚かされた。これが一流というものか。貴族の館の使用人なら、そういうこともあるものだが……
「では、こちらへどうぞ」
屋上のテラス席は、大きなプランターに埋め尽くされていた。席と席の間隔を保つためだが、なんといっても屋上は狭い。前世の鉄筋コンクリート製のビルの屋上ではなく、石造建築の上階なのだ。面積を広くとったら、強度自体が不足してしまう。それでこの狭い中で、来客同士、互いが視界に入る状況を防ぐために、そこここに段差を設け、その狭間を低木や花々で埋めている。もちろん、そのせいでますます席数は限られる。よってそれに見合ったお値段になる。
緑色の絨毯を踏みしめて、案内された先にあったのは、繊細な木彫りの椅子とテーブルが置かれた、西向きの席だった。ラギ川と対岸の市街地を見下ろせる上等な席だ。無論、そのままでは西日に照らされることになるので、適度に光を遮るようにと、そちらにもプランターが据えられている。
「お茶を」
「畏まりました」
メニューなんてモノはない。すべてお任せだ。上等というのは、そういうことなのだ。
前世で、庶民レベルの贅沢というと、焼肉屋に行くとか、ちょっとおいしいラーメン屋に行くといった選択肢があったのだが、あれは本当に庶民用の贅沢なのだ。洗練されているとは言えない。なぜなら、肉の焼き加減も素人の客任せ、味の調整に用いるタレとか……ラーメンの場合は、客席に用意された胡椒などがそれに当たるのだが、雑なカスタマイズをユーザー自身に委ねているという意味で、不完全なのだ。
本当の上質というのは、その逆をいく。カスタマイズは、やるとすれば職人の領分になる。そして、出来合いのもので勝負をかける。素人の変な足し算引き算など、させてはいけない。その意味で、何を飲食するかを選ばせるというのも、同様に排除されるべきものとなる。
ほどなくして、カートがすぐ近くまで押されてやってきた。ウェイターがそっとトレイを持ち上げて、供するべき品を置く。それ自体、透き通った宝石のような色をした紅茶が、玉のように艶やかな、それでいて薄く繊細なカップの中で、波一つ立てずにいる。それからティースタンドが真ん中に据えられた。食べ残すことは前提で、小さな一口サイズの、色とりどりのケーキが犇めき合っていた。
無言で一礼すると、ウェイターはそのまま去っていった。
「はー……華やかですね」
「ワノノマの文化だと、こういう感じにはならないだろうし」
色鮮やかな衣服、贅を尽くした食がないのでもないが、基本はもっと慎ましやかなスタイルが一般的だから。それは、ヒメノのような豪族の娘であっても変わらない。
「西方大陸だと、こういう感じのは、割と見かけるから。でもそれは、別にあちらが特に豊かとか贅沢ということでもなくて、美意識の違いだと思う」
「面白いですね」
ふと、夕食の時間がそう遠くないことを思い出す。だが、ヒメノとのデートなのだ。まさか、ヒジリが文句を言うとも思われない。出されたケーキも、全部食べる必要はないだろう。
「じゃ、味わってみようか」
「はい!」
それで俺達は、お茶とケーキに手を伸ばした。
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