ルークの家庭訪問
幌を掻き分け、馬車を降りると、外の光が目を焼いた。よく晴れた日の朝だった。高いところに白い雲がうっすらとかかっていて、青空は春らしく優しげだった。
「どれ、着きましたぞ。荷物を下ろしますでな、お嬢様方にも出ていただかないと」
御者を務めていたポトが、回り込んできていた。
「僕も」
「いやいや、婿殿はまずご挨拶なさってください。これくらいは」
それで俺は、すぐ後ろにいる三人に振り返った。
引っ越しの翌日。オルヴィータが帝都に来たのに、タマリアに挨拶しないなんて考えられない。ついでにニドとも、それとこの春、こちらに住み着いたルークにも会わせたい。
ただ、それだけでは、この機会を活かしていることにはならない。どうせならとウィーとシャルトゥノーマも連れてきた。何が正解かはわからないながらも、少しずつ彼らを知り合いに、そして友人同士にしていかなくては。
さもないと、俺の周りで紛争が始まりかねない。そんな気がしてならない。リリアーナの態度を見ているうちに不安が募ってきたのもあるのだが、自分でも理由を説明できないながらも、あのデクリオンの夢を見て以来、特にそんな気持ちが強くなった。
扉をノックすると、すぐ内側から開けられた。
「やっほ! おはよ!」
「おはよう。オルヴィータを連れてきたよ」
俺の後ろから、フワフワのロングスカートを揺らしつつ、オルヴィータが追いついてきた。
「お久しぶりなのです」
「久しぶり!」
タマリアは満面の笑みで彼女に抱き着いた。もう何年ぶりだろうか。
「それと今日は」
「あ、ウィーちゃん! いらっしゃい!」
だが、そのすぐ後ろにもう一人、見慣れない女性がいることに気付いたタマリアは、そこで立ち止まった。
「ニドはいる?」
「あ、ううん、今、ちょっと」
席を外しているみたいな言い方だが。とにかくそれなら俺が紹介するしかない。
「こちら、彼女はシャルトゥノーマ。南方大陸の大森林で、僕らを助けてくれた。ニドは会ったことがあるから」
「そうなんだ!」
パッと進み出て、タマリアは手を伸ばした。
「よろしくね!」
「あ、ああ」
半ば戸惑いながら、シャルトゥノーマは握手を受けた。何しにここに呼ばれたのかもわからないという顔をしている。
だが、特にウィーとシャルトゥノーマは、結果的に問題児になりかねないのだ。前者は前科があるし、後者は人間社会における適応力に難がある。といって、そんな俺の不安など、彼女の頭にはないのだろうが。
「今日も食材を持ってきたよ」
「なんかいつも悪いね、お返しもできないのに」
「気にすることなんかない。僕としてはうちに引き取りたいんだけどね」
「うん……」
あれ? タマリアが、その笑顔を夕陽のように翳らせながら俯くとは。いつもなら、私は私で頑張るから! と元気に言い返すところなのに。
「そういえば、ルークは?」
「あ、今、ニドもだけど、ちょうどついさっき、すぐそこの家に入ったところで」
「え?」
なんだ、いないって、トイレにでも行ってたのかと思いきや。
「何やってるの?」
「んー、ちょっとね、家庭訪問?」
構わずタマリアが歩き出すので、俺もなんとなくついていくと、その家は扉が半開きになっていたので、中を垣間見ることができた。
スラムにはありがちな、貧しい家だった。古びた壁には乱暴に釘が打たれていて、そこに凹みだらけの鍋がかけられている。床板も、いつ拵えたのかわからない代物だ。昔の汚れが染みついて、モップで拭ったくらいでは取れなくなってしまっている。
そんな家の壁際には、丈の低い二段ベッドがあるのだが、そこに背の高い男……ルークの姿が見えた。彼は二段ベッドの上の方に横たわっている誰かを抱きかかえているように見えた。
「どうだい、婆ちゃん、つらくないか」
「ふん、なんだい、いつもいつも押しかけてきてさ」
二段ベッドの上の方には、一人の老婆がいた。頭にはフードをかぶり、粗末な服を着ている。ちょうど今、ルークが持ち上げて、そこに寝かしつけようとしていたのだろう。大人の男性なら、手をかけて飛び乗ることもできるくらいの低さなのだが、体の弱った彼女にしてみれば、階段があっても安全に寝床に戻るのが難しいに違いない。
一方、ニドはというと、入口近くの壁際で、腕組みしたまま、落ち着きなく足踏みしていた。
「顔を出しちゃ、あたしを抱き上げてばかりで、あんた、よっぽど甘えん坊なんだねぇ」
介助してくれているであろうルークに対して、この老婆は悪態をつくばかりだった。
「はっはは、そうなんだ。実は俺、お婆ちゃんっ子でさ」
「ったく、しょうもないね、あんたは」
「婆ちゃん、どこか痛いところはないか?」
「そんなものないよ、さっさとお行き」
「いやぁ、こうしてると落ち着くんだ。ちょっとくらいいいだろ? 甘えさせてくれよ」
何が起きているのか。俺は察した。
「ふん、まったく……」
ブツブツと小言のようなことを切れ切れに吐き散らす老婆だったが、そのうち、眠りに落ちたのだろう。静かになる。すると、ルークはそっと腕を抜き、体を離した。そんな彼に、家人が無言で頭を下げる。
「おっ」
家の外に出たルークは俺に気づくと、声をあげそうにして、慌てて口を噤んだ。家の外に出て、扉を閉じてから、やっと挨拶した。
「来てたのか!」
「ついさっきだよ。食材も持ってきた。みんなで食べよう」
「おぉ、悪いな」
そこで家の中から、いかにも生活に疲れていそうな主婦が、そっと出てきた。そして改めて頭を下げる。
「いつもありがとうございます」
「どうなさったんですか」
「お連れ様ですか」
彼女は俺に向かって説明した。その内容は、想像した通りだった。
「うちは足の不自由な母がおりまして……近頃は病気のせいで、一晩中、痛みを訴えることもありまして、怒りっぽくなっていました。何をしても文句しか言わない母に、私達もだんだん苛立つようになっていたのですが、そこでルークさんがいらっしゃいまして」
「おいおい、俺は何もしてないよ」
「不思議なことに、ルークさんが来ると、みんな穏やかになるんです。今も、食事の後の母をベッドに戻していただきましたし……それに、安心するのか、痛みがどうとか、そういうことも言わないで、静かに寝てくれるようになって」
「そりゃあさ、甘える孫みたいな奴の前で、痛い痛いなんて言わないよ、なぁ、おばちゃん」
ルークはカラッとした笑顔でそう言う。だが、もちろんニドは事情を理解している。目立たないように舌打ちしていた。
苦痛吸収の神通力だ。病気ゆえの苦痛を察知した彼は、口実を見つけてこの家に出入りするようになった。そして、苦痛を発する老婆に触れ、その痛みを軽減しようとしている。そのおかげで、スラムに暮らすこの一家は、互いに仲違いすることもなく、なんとか日々をやり過ごすことができているのだ。
「じゃあ、そろそろ」
頭を下げる主婦を後において、俺達はタマリアの家の前に戻った。
「今日は紹介したい人がいるんだ。ニドは知ってるよな、シャルトゥノーマのことは」
「おう、久しぶりじゃねぇか」
「まぁ、オルヴィータも、これからしばらく帝都で仕事をする予定だからな。せっかくだからと挨拶しにきたってわけだ……ん? どうした」
オルヴィータは、ルークを前に、目を見開いていた。
「すごく……大きいのです」
「はっはは、なんでかな、ここしばらくでいきなり背が伸びて、こんなにデカくなっちゃったんだ」
タマリアが家の奥から椅子とか、椅子の代わりになりそうな箱などを運び出してきていた。
「朝は食ったか? せっかくだし、パンと果物で軽く食べちゃおう。昼はちゃんと作るよ」
「おっ、楽しみだな。ファルスの手料理か」
俺達は輪になって、家の前に座った。
「最近はどうだ」
そう尋ねると、ルークは難しい顔をした。
「なかなか厳しいぞ、こっちは」
「困ったことがあるのか」
「こんなことを言うと、またお前がしゃしゃり出ようとするから、あんまり言いたくないんだが、ぶっちゃけ金がない」
俺は眉根を寄せた。
「そんなこと、あるのか? いや、手助けが必要ならいつでもするけど、それはそれとして、今はむしろ仕事がありすぎて大変なんじゃないのか」
「それがなぁ」
タマリアと顔を見合わせると、ルークは説明した。
「確かに今、千年祭のための建設事業はいっぱいあるんだ。ほら、チュンチェン区の大競技場とかさ」
「うん」
「けど、そっちが今、危なくて、タマリアとかは行けてないんだ」
「えっ?」
それは初耳だ。
「何か事故でも?」
「ああ、いや、建設現場なんて安全なわけないんだけど、そうじゃなくてさ」
彼は笑みを消して、真顔になって言った。
「暴動が起きた件は知ってるか」
「小耳に挟んではいる」
「あれなんだが、実際にはもうちょっと込み入った話なんだ。暴動というか、騒ぎは二度起きてる」
そもそも競技場の建設現場では、待遇の悪さが問題になっていた。日当は安く、しかも安全対策はなおざりで、怪我人が出ても保障らしいものはほぼなかった。それで不満を感じていた労働者達が、ある日、訴えを起こした。その日は、こちらの建設計画に関わっていた銀行の幹部が、視察と演説を行う予定だったのだが、まさにその演説が終わった瞬間に、一人の男が許可なく壇上に立った。
帝都の理念もいいが、俺達に安全と十分な給与をくれ。観客席からもブーイングが巻き起こったのだが、それはその場にいた帝都防衛隊がやめさせた。一部の興奮した人夫が、訴えを起こした男に同調して、壇上に雪崩れ込んだのだが、その場で抑え込まれ、或いは押し戻されたという。
「俺も働いていたからな。それは見ていたんだ」
ただ、この暴動めいたもので逮捕者は出なかった。工具で防衛隊に殴りかかったのはいなかったし、壇上にいた銀行幹部も無傷だった。そもそも、勝手に登壇した男も、話し合いを求めていたのだ。しかし、本当のトラブルは、この後に起きた。
「それから三日くらいかな。石灰の詰まった袋を運んでいた時に、いきなり後頭部に刺すような痛みが走って。あんまりひどいんで、ぶっ倒れちまった」
「それって」
「さすがにわかるよ。人が死んだらしいって直感した」
死んだのは、先の直訴に踏み切った、肉体労働者達のリーダー格の男だった。足場が崩れ、彼は真下に転落。高さはそれほどでもなかったのだが、落ちた先の板に太い釘の打たれた板が放置されていて、それが後頭部を突き抜いてしまい、即死したらしい。命綱もあったはずなのに、これはどういうことなのか。疑心暗鬼になった労働者達は、今度こそ憤激した。要は、余計なことを言う奴を黙らせたのではないかと。
次は、本気の暴動が引き起こされた。防衛隊も棍棒と盾を手に駆けつけ、かなり乱暴な方法で鎮圧せざるを得なくなった。逮捕者も何人か出たらしい。
それからも、競技場の建設そのものは続いている。待遇改善はないままだ。他に仕事もない貧しい人々は、そこで働かざるを得ない。とはいえ、いつまた暴力沙汰になるかもわからない。
「だから、あんまり仕事ができなくなっちゃって……」
タマリアが、スカートの裾を握りしめて、そうこぼした。
「俺の目が届くところにいればいいけど、それが難しそうだったら、さすがに危ないからな。みんなが興奮して暴れだしたら、巻き込まれちゃうから」
「今は、周りの人が助けてくれてるから、すぐ生活に困るってことはないんだけど、ね」
「前から言ってる。何かあれば、うちで引き取る」
「うん……」
だが、これは好都合かもしれない。頭の中で、先日の件を思い出して計算する。
「そんな深刻な時に、こんなどうでもいい話をするのは気が引けるんだけど」
と言っておく。
「今度、こっちに人を呼んでいいかな」
「人?」
「あー、その。暮らしていけないって話をしてる人の前で言うと、申し訳ないんだけど……ベルノスト様のことは覚えてるかな」
「え? もっちろん! あの長髪のイケメン貴公子でしょ?」
「そうそう、あの人」
ほっと胸を撫で下ろしつつ、俺は続けた。
「まぁ、こっちの深刻さからすれば全然軽い話なんだけど。千年祭の武闘大会に出る前に、まぁ練習相手が欲しいとか言ってて。で、それだったら、僕の周りの人……ギルとか、それにピュリスから他の知り合いも来てるから、ちょうどいいかなと思って」
「別にいいけど? なんでこっちに? ここ、スラムなのに」
本当はベルノストの側から、引っ越しの件もあって、また俺への返礼の意味もあって、タマリアをメイドとして採用することは既定路線なのだが、ここではその話を伏せることにする。でないと、また遠慮されかねない。
「おいしい話になるかもしれないから。近々、ベルノスト様は引っ越しをするそうだから、そこで新居で働いてくれる人も必要らしくて。うまくすれば、安定した仕事を取れるかもしれない」
「えっ! いいじゃん!」
「ちょうどいいな。工事現場の仕事は、そろそろタマリアには危なくなってきたし、そういうことなら、早めにやろう。それと、ファルス」
ルークが興味ありげに言った。
「その、ベルノストってのは強いのか」
「若手としては、やる方だよ。修行相手としては悪くないと思う。それなら、あとはギルも呼びたいな。いい勝負になると思う」
「ギル君も? 忙しくない?」
「忙しそうなんだけど、せっかくだし一度は」
ここには俺の都合もある。早めに……「社会」を構築しないといけない。そんな気がしているから。
「ジョイスも呼ぼうと思うけど、多分、あいつが一番手強いだろうな」
「えっ、誰それ」
「あのサルみたいな野郎か」
ニドが苦笑いを浮かべながら言った。
「そうそう、あいつ。帝都にちょうど来てるんだ。ニドはある程度、手の内を知ってるだろうけど、特に最初は、ルークはかなり苦戦するかもな」
「いいな! そういう奴に会いたいと思っていたんだ。楽しみじゃないか」
「じゃ、決まりでいいかな。ベルノスト様には、こっちのみんなに合わせるようにって、しっかり言っておく。まぁ、頭いい人だし、そこは心配してないけど」
話がまとまると、俺は腰を浮かせた。
「じゃ、早速、昼飯の準備を始めるよ。楽しみにしてて」
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