フシャーナからの宿題
煉瓦の舗装路が、照りつける陽光に半ば輝いていた。頭上を覆う青葉はまだ淡い色で、この上なく明るい青空が突き抜けて見えるかのようだった。街路に迫り出すようにして置かれた木の椅子やテーブルは、まだまだ元気があった。真夏の盛りともなれば、彼らでさえ気怠そうにするものなのだが、今はまだ春、傍目にはちょっと身軽になったようにさえ見える。
光復街の戦勝通りには、今日も若者達が溢れている。少子化に苦しむ帝都といえども、すべてがすべて、老人向けなんてことはない。というより、比較的裕福な層は子供を持つので、帝都生まれの青年達のいくらかはそれなりに余裕もあり、よってこのように若者向けの街の消費者になり得る。
そんな中、一人テラス席で紅茶を飲みながら、街の喧騒をぼんやりと眺めていた。やがて、通りの真ん中に突き立つ街路樹の向こうから、ゆらりと揺れる影が目についた。
注視していなければ、違和感に気づけないかもしれない。ゆったりとしたワンピース、つばの広い帽子はいずれもクリーム色。今時の流行りとはズレていそうな印象があって、微妙に浮いている。とはいえ、そこはそれほど変ではないのだが、やはり仕草だけはごまかせない。リラックスして街歩きを楽しむ若者とは違って、その振る舞いはあまりに淡々としており、無関心が滲み出ている。
俺が手を挙げて呼び込むまでもなく、あちらが気づいてくれた。まっすぐこちらに歩み寄ってくる。
「お待たせ」
「いえいえ、そんなに待ってません。何か飲まれますか」
「そうね、紅茶でも」
ウェイトレスがやってきたので注文を済ませると、フシャーナは俺の前に腰を落ち着けた。
「お疲れ様です」
「ホント、ここまで来るだけでどっと疲れを感じたわ」
「いつも研究室に篭りっぱなしだからですよ。運動しましょう」
「そういう意味じゃないわよ」
彼女は、通りを行き交う若者達を眺め渡すと、嘆息した。
「駄目ね、私」
「はい?」
「若作りしても、顔が老けてなくても、どうしても、どこか年寄り臭いって自分でわかっちゃうから」
以前、ここでケクサディブとも待ち合わせたのだが、それと比べると、なんとも対照的に思われた。彼は、誰がどう見てもヨボヨボの老人だったのだが、その様子は軽やかで、若者と一緒になって、流行歌に足踏みしていた。ところがフシャーナはというと、顔かたちは明らかに若々しいのに、身に纏う空気はずっしりと重かった。
「流行り廃りはありますからね」
「服装も? キツいわね……そっちじゃなくて、若者を見てるだけで、気後れしちゃうのよ」
本当の若者ではないから。その気持ちは、俺にもある。
「それにしても……やっと自由時間が取れたわ」
うんざりした、と言わんばかりに彼女は吐き捨てた。
「学園長の仕事って、そんなに忙しいものなんですか。いつも寝てるようにしか見えないのですが」
「普段なら、もうちょっと楽なんだけどね。私の場合は、いろいろ時期が重なって、始末しないといけないことがあったのよ」
「例えば?」
「あのね」
周囲を見回してから、彼女は小声で言った。
「老けない体で何年、学園長をやれると思ってるの。しかも、あなたのせいで人前に出ることになったでしょ。こんなの、あなたが卒業したら、私も自主退職するしかないに決まってるじゃない」
「それはご迷惑を」
「別にいいわ。もう、飽き飽きしてたし」
飽き飽き、か。
「好奇心がなくなったわけじゃないのよ?」
ウェイトレスがカップを置き、すぐ去っていった。
「知らないことも、できないことも、まだまだたくさんあるし。だけど、私の生きる世界は何も変わらない」
「まぁ、そうですね」
イーグーが言っていた通りだ。年老いることがないというのは、その人を普通の人の生存から切り離してしまう。時代を共有できないことが、本人を蝕んでいくのだ。
「それで、ようやく尋ねることができるんだけど」
「はい?」
「南方大陸を縦断したって話。ナシュガズ伯国のことは聞いてるけど、そんなところまで行った人なんかいないから、知りたいのよ」
「ああ」
俺は頷いた。
「簡単に言うと、関門城から南に直進して、ケカチャワン……ナディー川の上流なんだけど、そこから東方向に遡行して、それからまた南下する。現地でケフルの滝と言われている辺りを越えていくと、まもなくラハシア村があるんです。そこは人間の村なんですが、いわゆるペルィ、つまり理性のあるゴブリンが常駐してるんですよ」
「そんなのがいるの? 見たの?」
「もちろんです。彼、クヴノックとは、もう会えないんでしょうけどね。気のいい人でしたよ」
「人、ね……」
「人ですよ」
そこは強調した。
「その南には、沼地が広がっていまして」
「うへぇ」
「隠れる場所を選ばないと、地面からはワームが、頭上からは巨大な蟲が襲いかかってくるんです。そんな場所を一週間かけて渡るんです」
「えぇ」
そんなところを探検するなんて、まっぴらごめんという顔をしている。
「そこを抜けきったら、やっと獣人の村があるんですよ。ビナタン村っていって」
「遠いのね」
「更に南にカダル村、今度はリザードマンの村なんですが、ここが一応、あちらの亜人達の村々の中心です。川の流れの上にある浮島で、要塞みたいになってるんですよ」
自分が行くのはいやでも、そういう体験や事実には興味があるのだろう。フシャーナは俺の話に耳を傾けていた。
「そこから更に南に、風の民……よく亜人と言われるんですが、実際には水の民もいるんですけどね、その村が高台にありまして。その南はもう、無人の高山地帯です」
「まさか、そこを通ったの?」
「はい。ナシュガズはそっちにあると聞いたので……で、グリフォンだらけの岩場を抜けて、吹雪をやり過ごして、やっと山頂から降りた先に、その都がありました」
「都といっても、それじゃ、今は誰も住んでないんじゃ」
「無人でした。でも、統一時代の終わり頃までは人が住んでいたんですよ。それが、大森林の魔物の大量発生で、逃げ出してきたんですけど」
彼女は頷いた。
「やっと納得できたわ。確かに、統一時代初期の記録には、亜人達の投降を受け入れたみたいな記述があったのに、暗黒時代には、南方大陸北部に侵攻したことになってるんだもの」
「事実は悲惨でしたよ。多分、救いを求めた亜人達と殺し合いになったんでしょうね」
それから、残りの旅程も語ってしまう。
「恐らく大昔のルーク・ハシルアーは、もっと西寄りのルートで、川沿いに移動したんでしょう。だから南側の関門城の残骸もないところを通って、緑竜の生息地まで辿り着けたんだと思います」
「はぁ……」
頭を抱えた彼女は、呆れたように声を漏らした。
「あなた、よくそんな冒険をしたものね?」
「もう一度やれと言われたら、ちょっと嫌ですね」
「そこで不老の果実を得たのね。でも、わからないことが一つあって」
「なんでしょう?」
テーブルに肘を凭せ掛け、フシャーナが言った。
「不老の果実を得ても、死なないわけじゃないって言ったでしょ。どうしてわかるのよ?」
「それは、見たからです」
「見た?」
「本当の不老不死を実現した人がいて、その人は神性を帯びていました。詳しいことは言えないのですが」
だが、反応は劇的だった。掴みかからんばかりに身を乗り出して、尋ねた。
「ちょっと待って、それって」
「じゃあ、言える範囲で言います。確証はないですが、恐らくは東方大陸の精霊、あれを操ってるんだと思います」
「精霊? を? 操る!?」
「でも、何か大きな代償があるんでしょうね。その気になれば、彼から不死の力を奪うこともできたと思うんですが、やめておきました」
数秒間、彼女は考えを纏めてから、非難がましい視線を向けてきた。
「それ、でも、女神でも龍神でもない何者かなら、魔王の」
「魔王といっても、グラヴァイアやカインみたいなのもいるわけでしょう。彼はパッシャを相手に僕らと一緒に戦ってくれたんですよ」
ということにしておく。
使徒のことに触れると、報復されかねないから。
「その人の行方は?」
「わかりません」
「そう……」
ストン、と椅子に座り直して、彼女は肩を落とした。
「そんなに不死が欲しかったですか」
「え? ううん、違うの」
彼女は小さく首を振った。
「単純に、役目としてよ。この世界に降り立った魔王のすべてが把握されているのでもないし、もし害悪になるかもしれないのなら、手を打たなくてはいけないから。でも、私が不死ではないというのは、そう悪い知らせではないと思ってるのよ」
「死ぬのに、ですか?」
「ええ」
紅茶を一口飲んで、喉を潤してから、彼女は続けた。
「本当に不死だったら、いつまでも生きなくてはいけないもの。正直、あなたが現れるまで、どうしたらいいか、ずっとわからないで悩んでいたわ。こんな体でいつまでも学園長でいるわけにはいかないし、でも、その後をどうすればいいかなんて、何も考えてなかった」
「案外、抜けてるんですね」
「そういうあなたはどうなのよ。不老の果実を取りに行ったのは同じでしょ?」
「僕の場合は、だって」
永遠の若さと成功を手にするために危険を冒した彼女とは違う。
「自分を永久に封印したいから、だったので」
「ああ、そうだったわね」
目元を覆い、脱力しながら、彼女はテーブルに突っ伏した。
「で、結局、私と同じく、ただ長生きするだけの体になってしまったと」
「まぁ、はい」
実のところ、不老の果実は食べていないのだが……
しかし、ではどうして自分が不老になったのか。それがよく思い出せない。なんだったっけ?
「あなたは、じゃあ、この留学が終わったらどうするつもりなの?」
「普通に領地に帰って、復興事業の続きをやります。で、それが終わったら、ティンティナブリアを陛下にお返しして、まぁできれば身辺整理は済ませて、僕の関係者の将来もなんとかしたら、多分、ヌニュメ島に行くことになると思ってます」
「ワノノマの監視下に置かれるってことかしら」
「あちらからそうせよとは言われていませんけど、自主的に従おうかと」
俺の顔をじっと見つめて、しばらくしてから、彼女は言った。
「じゃあ、私も連れて行ってもらおうかしら」
「えぇ?」
「変に長生きしちゃう人間が、世界の他のどこにいればいいのよ」
もう一口飲んでから、カップをソーサーに戻す。カシャリと陶器の触れ合う音が耳に触れた。
「まぁでも、先にやることをやってしまわないとね。さっき話してくれた大森林の探検だけど、記録に残せる?」
「え? 僕が書くんですか?」
「他に誰に頼むのよ?」
降って湧いた災難というやつか。宿題が増えてしまった。
「ええと、ちょうど今、帝都に大森林の住人だった亜人が来てるんですが」
「いいわね! じゃあ、そのうち会わせて欲しいわ。それはそれとして、あなたにはレポートの提出をお願いするけど」
「どっちにしても書くんですか」
「仕方ないでしょ? 私は教授、あなたは学生」
澄まし顔で紅茶を飲むフシャーナと、がっくり項垂れる俺。そんな俺達の横で、若者達の軽やかな足音が響いた。
「私は私で、最後の仕事があるのよ」
「なんですか、それ」
「学園長の地位の引継ぎ。私の後はまず間違いなくケクサディブが務めるけど、多分、そう長いことかからないで後任が選ばれると思うから」
しかし、そうなると誰があの書庫を管理するのだろうか。
「どうやって選ばれるんですか」
「一応、学園長には次代を選ぶ権限があるんだけど、教授が全員反対した場合には、別の人が選ばれることになってるの。だから、私はケクサディブを指名できるし、彼が私の決定に反対しなければ、全員一致で私の指名に反対したことにはならないから、これは通せるのよ。でも、ケクサディブには、それができる後継者がいないから……多分、元の鞘に収まるのだと思うわ」
「元って?」
「クレイン教授」
「あの人ですか」
正直、いい印象はない。昨年の夏、彼女の提案した仕事のせいで、ギルは暴徒達の相手をさせられた。それに正義だなんだと言いながら、結果的にはやることなすこと、どれも依怙贔屓にしかなってないという気がしている。
「あんまり好意的ではいられないって顔ね」
「まぁ、そうです」
「でも、あの人が学園長になるのを辞退したから、私は今、その地位にいるのよ。前に少し話したと思うけど」
そういえば、そうだった。
「確か、あんまり話したくないって」
「ええ、そうよ。今でも気分が悪くなるもの」
「そんなにひどいことをされでもしたんですか」
「違うわ」
フシャーナは首を振った。
「私が、彼女を裏切ったのよ」
「え?」
「私も、元は正義党の支持者だったから。同じ派閥の女教授ということで、学園長になる余裕のない彼女の代わりに、私がその椅子に座ったのよ」
「じゃ、どうして」
フシャーナは俺の目をじっと覗き込んだ。
「こんな自堕落な私でも、ね。今の立場にある限りは、世界の守護者なの」
「はい」
「その守護者として、彼女の味方をすべきではないと考えた。だから裏切った」
珍しく、その眼差しには真剣さが滲んでいた。
「では、クレイン教授は悪人なんですか」
「そう思う? 彼女がどうして学園長になれなかったか、そういえば、知らなかったかしら」
胸の前で手を組んで、彼女は低い声で言った。
「父親の看病のためだった」
「確か、議員だった」
「ええ。そして、彼女は誰より親孝行な娘だったわ。だけど教授としての仕事もある。ろくに休みもしないで、別邸と学園の間を行き来して、普通の人なら到底務まらないくらいに頑張って、それでも学園長の仕事までは無理だからと、老い先短い父の傍にいるために、せっかくの機会を棒に振ったのよ。これは、悪人と呼べるのかしら」
わけがわからない。
だとすると、彼女は愛情深い娘だったということになる。ただの演出、ポーズ、なんてことはないだろう。最高のポストを手にする機会を目前にして、わざわざ善人を演じるメリットなんかない。
「それなのに? 裏切った?」
「ええ」
「なら……でも」
フシャーナが悪人かといえば、そんなことはない。昨年の夏、俺が魔王の手先ではないかと疑って、研究室に殴りこんだ時、彼女は死ぬまで抵抗することを選んだ。つまり、正義に殉ずる覚悟があったのだ。
「じゃあ、宿題を追加しようかしら」
「えっ」
「善とは何? そして美徳とは何なのか。そんな顔をしても無駄よ。そのうち、ケクサディブもあなたに課していたはずの問いだと思うから」
それから彼女は、通りを行き交う人々に目を向けた。
「ここは、居心地がいいでしょう? 春の日差しと微風、楽しみでいっぱいの若者達。理想の世界に見えるかもしれない。だけど、あなたはもう知っているんじゃない? 帝都には裏の顔もある」
「はい」
「闇ばかりが闇を生むとは限らない。欠けるところのない幸せから、この上なく光り輝く場所から、どうしようもなく闇が生まれるということを……知ってほしい。この街を去る前に、ね」
そう語る彼女の横顔は、しみ一つなくきれいだったが、同時に信じられないほど老け込んで見えた。
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