ベルノストからの相談
今、座っている場所から、右手に見える通りを眺めやる。暗がりの中、重々しく垂れる赤いカーテンの向こうが、やけに明るく見えた。
暑くもなく、寒くもないこの季節。みずみずしい外の空気が静かに流れ込んでくるのが、いかにも優しげに感じられる。ただ、仮にも格式ある高級店としては、立ち入るものに場の変化を実感させないでは済まないらしい。微かにお香の匂いが漂っている。それに、薄いカーテンで仕切られた別室には、楽団が控えているらしい。客同士の会話を妨げず、しかも沈黙を不快にさせない程度に、弦楽器が長閑な調べを奏でている。
「忙しい中、済まんな」
「いえいえ、おかげで身軽になれますから」
俺の向かいに座っているのは、ベルノストだった。
「いくつか用事があってな。まぁ、まずは警告のような話からになるんだが」
「はい? なんでしょう?」
「エンバイオ家とは、今、どんな関係だ?」
明後日の方向からボールを投げつけられたような思いだったが、徐々に思考が追い付いてくる。
「リリアーナの件ですか」
「他に何がある」
「どんなも何も、関係というほどの関係は、もうないです。十歳になる少し前に、身請けの代金を支払って、旅に出ました。その後は一度、王都に立ち寄った際に、お嬢様の招きを受けて邸宅まで出向きましたが、それだけで。あとは旅を終えて帰国して、領地を賜ってからも特に連絡を取り合っていたり、ということはなかったので」
俺の回答に、ベルノストはしばらく無言のまま、思考の淵に沈んでいた。
「では、単に個人的好意だけで、あれだけ付き纏われているわけか」
「そういうことになります、ね」
「ふん、そういえば、確かに……初めて会った時にも、やけにお前を庇おうとしていたな、リリアーナは」
そうなのだ。それが今では、俺の懸念事項になっているのだが。
なんだかんだいって、骨の髄まで貴族な彼女は、自分の下僕を傷つけられるのを嫌う。いつもはヘラヘラしているくせに、俺やナギアが辱められたり、傷つけられたりすると意地を張るのだ。それは本来、決して悪いことではないのだが……
「だが、主従関係はとっくに解消したのではないのか」
「それだけのことでは、もうないのでしょう。僕としても、お嬢様のことは、いまだにお嬢様と呼んでしまいますし」
ベルノストはテーブルに肘をつき、俯いて、それからその長い髪を掻き上げた。
「ヒメノの件は、ワノノマ公認だそうだから、何かあっても大したことにはならないだろうと沈黙していたのだが、近頃のお前は少々やりすぎている」
「何もしてないですよ。ただ、周りが勝手に」
「わかっているが、外野から見ればということだ」
溜息が出る。そんなことを言われても。
「お前に群がる人間のうち、いくらかは動機が分かりやすいから、あまり問題視していないんだがな。アスガルにせよ、ソフィアにせよ、要はお前を自国の側に取り込みたくて動いている」
「え、ええと、まぁ」
ややこしい。彼の側からすると、そういう理解になるのだが、実質は少し違うように思われる。アスガルからすれば、取り込むも何も、最初から身内扱いだろうし、ソフィアについては、もしかすると……
「いいか、くれぐれも異性関係で不祥事を起こしてくれるなよ。前にも言ったが、都合のいい女が欲しければ、どうにか調達してもいい」
「いや、もう間に合ってますよ。ヒジリが用意してくれているんですし。まぁ、手出しはしてないんですが」
「別にお前を責めてはいない。あくまで警告だ。わかっていることだろうしな」
それより、今はリリアーナの問題か。彼女は俺に、何を求めているのだろう? 昔の俺は、彼女にとって心を許せる下僕だった。今も、別に求められれば甘やかすくらいは構わないと思っている。だが……
「ああ、そういえば、余談だが」
「はい」
「我が国としても、千年祭の運営への協力の一環として、人員を派遣することになったが、リリアーナもその一人に内定している。近々サロンで正式に発表する予定だ。大舞台での演奏を引き受けてもらうことになる。あの美貌だ。さぞかし注目されることになるだろうな」
それで話が一段落すると、彼は手元のティーカップを引き寄せ、一口飲んだ。
「それで、表向きの話……殿下のご命令で、お前に釘を刺すという件は、これで終わりということでいいな」
「は、はい」
ふっと一息つくと、ベルノストは表情を和らげた。
「じゃあ、お前が嫌でなければ、少し私の個人的な話をさせてもらおう」
「え、は、はい。どうなさったんですか」
「少し相談がある」
テーブルの上で手を組み、彼は身を乗り出した。
「実はな」
「はい」
「もうじき、お見合いをしなくてはいけなくなった」
「それはまた」
どんな顔をしたらいいか、わからない。本人があまり嬉しそうな顔をしていない。
「今年、入学してきた中に婚約者候補がいてな。父からの手紙も届いた。遠からず、お食事しながら顔合わせだ」
「お家の事情ですし、その辺はなんとも」
「これでますます不自由になるということだ。仕方のないことだが」
その代わり、彼はムイラ家の後継者としての立場を固めるのだろうし、妻の実家の後援も得られる。自由を引き換えに未来の地位を買っている。
「それと、引っ越すことになった」
「そういえば、今までどこに住んでいたんでしたっけ」
「公館の一室を貸していただいていたのだが」
「うっ」
これはきつい。側近だからということでグラーブのすぐ傍にいたのが、ついにそこから出されるとか。
「殿下は何を考えてそのような」
「言ってくれるな。以前のことは、私の失態でもある」
「いや、おかしいでしょう。それに、殿下は本当に利害を弁えておいでなのですか」
さすがにこれは、黙ってはいられなかった。
「側近中の側近と良好な関係を維持できていません、と言いふらしているのと変わりがないじゃないですか。君臣の間に溝がありますよなんて、自分から隙を晒しているようなものです」
「前向きに考えることもできるぞ。いつもいつも側近にお膳立てさせていたのでは、自分で人を見る目が養われない。ある意味、悪くない形だ。もし仮に私を側近から降ろしたくても、ずっと傍に置いていたのでは、いきなり最終手段をとるしかなくなってしまうかもわからない」
俺は目元を覆った。
「これだから貴族ってやつは」
「お前も貴族だ」
「いやぁ、爵位なんて、なんなら三秒で捨ててやりますよ。僕はそういうのが嫌いなんです」
「ふふふ」
翳のある笑みを浮かべて、彼は言った。
「貴族としては大いに問題があるとせざるを得ないが、お前のそういうところは、信用できるな」
「まぁ、本音ですから。人の世の役に立てるからって理由で一応、領主は引き受けましたけど。あんまり胸糞悪いことに首突っ込まされるなら、全部放り投げて、どこか遠くで一人、屋台で串焼き肉を売って暮らします」
「ははは」
彼は品よくナイフで目の前のケーキを切り分け、口に運んだ。
「殿下もな」
「はい」
「あれで何も考えてないのでもない。私に時間をくださったのだと思う」
「そうでしょうか」
「留学生活もあと一年で終わりだからな。これまでと同じことの繰り返しを、もう一年やったところで、お互い、得るところもなかろう」
「だったらいいんですけどね」
フォークを置く。陶器の皿と触れ合って、冷たい音が小さく響いた。
「それで、だ」
「はい」
「ここからが本題、相談というか、頼みごとになる」
「なんでしょう」
テーブルの上で改めて手を組み、彼は言った。
「お前の仲間達を、紹介してくれないか」
「仲間? 迷宮に潜る連中のことですか」
「そうだな」
「冒険者の真似事をしたくなったんですか」
俺もフォークを置いた。
「それもあるがな」
「他に理由でも?」
「千年祭の武闘大会に、私も出場するつもりでいる。だったら、修行の相手がいた方がいい。ならまず、お前とその仲間のところに首を突っ込むのが一番早いだろうと」
「なるほど、まぁ確かに」
手頃な相手がそれなりにいる。ギルなら、レベル的にも噛み合う。ただ、ジョイス相手だと、さすがにベルノストも遅れを取りそうだ。だが、だからこそ都合がいい。どちらにせよ、ベルノストにとっては、ほぼ全員が格上といえる。
何が違うかといえば、やはり実戦経験の有無だ。ギルは北部の辺境でオーガ相手に戦ってきたのだし、ジョイスに至っては俺と大森林を縦断している。ニドもパッシャの戦士だった。一方のベルノストは、そういう命のやり取りのようなものは、例の内乱の時くらいしかない。その辺で釣り合う相手がいるとすれば、ルークくらいではないか。
ラーダイとかコーザは……まぁ、全員が強いのばかりだと、逆にベルノストの心が折れてしまうし、これもちょうどいい。
「ただ、そんな上品な集まりではないと言いますか」
「そんなものは求めていない。こちらが合わせる側だ」
「そういうことなら、今度シーチェンシ区のスラムに行った時、みんなに話してみますよ」
「スラム? だと?」
さすがにそこまで格落ちする場所に俺が通っていたとは思わなかったのか、彼は真顔になった。
「いや、あの、僕の出自はご存じですよね? 寒村の生まれ、貧農の子ですよ。それが奴隷になって、たまたまエンバイオ家に買い取られただけの」
「ああ」
「奴隷収容所時代の仲間が、そこで暮らしているんですよ」
彼は目をパチクリし始めた。
「じゃあ、だが、しかし、もう奴隷ではないのだろう? なぜそんな貧しい暮らしをしているのか」
「みんなそれぞれ訳ありなんです」
「待て、じゃあこの前、殿下の警護を頼んだのも」
「ウィーは収容所仲間ではないですが、ニドとタマリアはそうですね。で、今、シーチェンシ区で暮らしてるのは、タマリアともう一人、顔を見せたことはないのがいるだけです」
彼は眉根を寄せた。
「なんだって?」
「いや、殿下の警護について、身分の低すぎる人間を使ったということはまぁ……でも、仕事はキッチリしてたし、裏切る心配もないから頼んだので」
「そういうことではない」
彼が問題にしたのは、別の点だった。
「では何か、お前は貴族になり、ワノノマの旧公館で何不自由ない暮らしをしているというのに、お前の友人達、自分で身を守ることも覚束ないような女性まで、スラムに放り出したままでいるのか。それで平気なのか」
「いやいやいや、そうではないですよ」
友の窮状を見捨てる冷酷な奴。確かに憤るのも無理はない。
「私はてっきり、お前のあの別宅で彼女らが暮らしているものだとばかり思っていたのだが」
「いえ、そっちに引っ越してくれと、生活の面倒も見ると、僕はそう言ったんですよ? なんなら領地とかピュリスの商会とか、そっちに行ってくれれば、仕事もちゃんと用意できるし」
「なぜそうしないのだ」
「本人がウンと言わないんですよ」
しばらく絶句していたが、彼は腕を組み、どっかと背凭れに身を預けた。
「なるほどな。お前と対等でいるため、か」
「そういう感じですね。自分のことは自分でするっていう考えなので」
彼は頷いた。
「悪くない。それくらい気位が高いのでなくては」
「まぁ、はい」
「お前の援助は受け付けない、でも、仕事ならやってもいいと、そういうことなんだな」
「ええ」
彼は口角を上げた。
「では、こうしよう。そのうちに、私もシーチェンシ区に出向く。その時、彼女の人となりを見て、問題なさそうであれば、採用しよう」
「採用? ですか?」
「さっき言っただろう? 公館を出るのだから、新居には使用人が必要となる」
「ああ、なるほど」
御曹司の屋敷でメイド、か。確かに悪くない仕事だ。
「でも、僕の手回しだと思って、遠慮するかもですが」
「私の立場になって考えてみろ。適当に求人を出すより、信用できる人間の伝手で使用人を雇う方が都合がいい。だいたい、事実として、お前が言い出したことでもない。もちろん、それでも断るのはあちらの自由だが」
「僕としては、それで彼女の稼ぎが増えて安定するなら、もちろん願ったりかなったりですよ」
「交渉成立だな」
彼は満足げに頷いた。
「ただお前に助けてもらうだけでは申し訳ないからな。これなら、お前の身内にも多少のうまみがある。気が楽になったよ」
「え、ええ」
貴族殺しの脱走犯罪奴隷だなんて、とてもではないが、言い出せそうにない。大丈夫だろうか、これ?
「準備万端整ったら、教えてくれ。今から楽しみだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます