第四十九章 釘打ち事件

チェスの駒

 ここはどこだろう?


 古びた土壁。じめじめした土間。そこに置かれているのは、南方大陸風の、あの椅子というには丈の低い、幅広の台。すると、これは南部シュライ風の家屋だ。あのケナランの家を思い出す。しかし、こんな建物が、帝都にあっただろうか?

 どうにも頭がぼんやりして、何がどうしてこうなっているのかが、よくわからない。座ったまま、首だけ回して後ろを振り返ると、なんとびっくり、くっきりと青い空の下、赤茶けた乾燥した大地がどこまでも広がっていた。なのに暑さをまるで感じない。

 あまりの不自然さに、俺は居ても立っても居られず、起き上がろうとして……目の前に、一人の老人が座っているのに気付いた。


「お、お前は!」


 思わず腰を浮かせてしまう。真っ白な長衣を身につけ、円筒形の白い帽子をかぶった彼には、見覚えがあった。その老人は、俺を見ると、穏やかに微笑んだ。


「生きていた……いや、そんなはずは」

「目は覚めたかね」


 生きているわけがない。デクリオンは、あの日、ブイープ島での戦いの後、俺のすぐ目の前で息絶えた。なら、目の前の人物は……しかし、ピアシング・ハンドを使おうにも、何も表示されない。


「目は覚めたかね」


 何かを催促するかのように、彼は同じ言葉を繰り返した。


「お前は、どうしてここにいる」


 彼はゆっくりと首を横に振った。


「俺は、帝都にいたはずだ」

「ほう」


 彼は、まるで親戚のおじさんでもあるかのように、いかにも親しげに、軽く身を乗り出して、尋ねた。


「どうだね、毎日楽しめているかね」


 変だ。なぜか、心を掻き乱されるような気がする。


「……ああ。今までの人生で味わったこともないくらい、優雅に暮らしている」

「それはよかった」

「恨めしくはないのか」


 彼があんまりにも朗らかに笑うので、俺はそう問わずにはいられなかった。


「私が君を恨んでいると思うのかね?」

「恨んでいても、おかしくは」


 言いかけて、やめた。


「いや、お前は、俺を恨んだり憎んだりは、していない」


 そんな気がした。彼は大きく頷いた。


「そうとも。では、君は、私を憎んだり嫌ったりしているかね?」

「お前はパッシャの指導者だ」

「代行者と呼んでくれたまえ。それと、君の返事は答えになってない。私を嫌っているかどうかと尋ねている」


 呼吸を整えると、俺は今度こそ、ちゃんと答えた。


「嫌っては、いない。ただ、気に食わないところはあったが」

「ほう?」

「お前を信頼していたハイウェジを、騙して裏切った」

「ふむ、他には」

「スーディアでも、大勢の人を手にかけた」


 彼はまた頷いた。


「その通り、私は人殺しだ」


 それから、俺を指差した。


「君と同じくね」


 ドス黒い血が、胸の奥で跳ねた。


「そうだ」

「結局のところ、どうなのか、答えてもらいたい」

「何を」

「私は憎むべき悪だったのか、それとも君達の不利益になるから殺しただけなのか、どちらなのかね」


 二者択一を迫られたからといって、素直にその通りに返事をする必要はない。多少の狡猾さを思い出しながら、俺は言った。


「問いそのものが間違っている。俺がお前を憎んでいないということと、お前が悪であるかは必ずしも一致しない。君達の不利益といったが、お前は世界を滅ぼそうとしたんだ。悪を正義の反対とするなら、正義とはなんだ? 万人の利益じゃないか。だから、ここでいう君達というのは、俺やその周りの人達だけのことを指す言葉じゃない」


 すると彼は首を傾げた。


「私が問うたことを、もう忘れたのかね」

「なんだって?」

「亡者の声は聞いたのか」


 そうだった。正義を問題にするのなら、彼がかつて、ブイープ島の遺跡で投げかけたあの問い……理不尽に殺され、今は声をあげることもできない人々のことまで、考慮にいれなくてはならない。なぜなら、その部分を捨て去るということは……


「聞かないのなら、確かに君は正義だよ。大勢殺したからね」

「くっ」

「生き残った人々の支持さえ取り付ければ、みんなが君に賛成する。我々が悪になったのは、充分に殺しきれなかったからだ」

「そ、そうじゃない」


 俺は冷や汗を流しながら、答えを探した。


「お前に殺されなかった人々が、幸せに生きられるかもしれないじゃないか」

「ひどいことを言うんだね、君は」


 デクリオンは嘲笑った。


「無惨に殺された人々の死体の上で、生き残った人が仲良く晩餐会かね?」

「亡くなった人達を救うことはできない。でも、次は同じことにはならないかもしれない」


 俺は彼に言い募った。


「過ちはある。報われずに死んでいった人々もいる。だけど、少しずつでもみんな、前に進んでいるじゃないか。平和な統一期が終わって、戦乱の暗黒時代になった。でも、今は」

「君が殺しまくったおかげで、世界は平和になった」

「俺が汚れてないなんて言うつもりはない。今でも龍神の裁きから逃げる気なんかない。俺を罰するのは構わないが……でも、この世界がまた平和に、豊かになってくれれば、過去の悲劇はなくせなくても、未来の不幸は減らすことができる。そうやって少しずつでも、世の中はよくなってきた」


 彼は挑発的な笑みを収めて、ゆっくりと頷いた。


「我々の犠牲の上に、か」

「そう受け取られても仕方がない。だけど、憎むのは俺だけにしてくれ」

「いいや」


 彼はまた笑みを浮かべ、手を広げて首を振った。


「さっきも言ったが、君のことはまったく恨んでない。なんなら、我々の遺体を踏みつけにする人々さえもね」

「だったら、何が不満なんだ」

「我々以外の人々の無念を脇に置くならだが、未来の不幸は本当に減るのか、だよ」


 彼の瞳に、俺の姿が映っていた。その姿は……今の俺ではなく、四年前の、まだ少年だった頃の俺だった。


「減るはず、だ」


 おかしい。ここは、もしかして、現実ではない?


「魔王の手下どもがいなくなったんだ。俺がいる限り、タンディラールもティズも、互いに争うなんてできない。ドゥサラ王も、横暴な真似はしないし、できないはずだ。それの何が不満なんだ」

「君は善良だな」


 いきなり、彼はそんな脈絡のないことを言いだした。


「何を」

「だから人々を不幸にするものを取り除きたいと、そうすればみんな互いに手を取り合って、幸せに生きられるはずだと、無邪気にもそう信じ込んでいる。無論、そこに多少の失敗はあるとしても」


 すると、彼は俺との間にあるボードに手を伸ばした。いつの間にかそこには、こちらの世界でのチェスの駒のようなものが並べられていた。


「私は思うのだが、人間とは、これにそっくりではないかな」

「これとは」

「将棋の駒だ。見てわからないかね」


 騎兵をデフォルメした木彫りの駒。彼はそれを摘まんで、さも興味深いというように視線を落とした。


「見ての通り、将棋の駒は、戦争ゴッコに使うものだ」

「あくまで遊びだろう」

「だが、現実の人間の命も、これと同じように使われる」


 俺は首を振った。


「それは俺がさせない。どこの王が無茶をしでかしても、力で抑え込んでやる」

「王様なら、それで片付くんだろう」

「誰だったら、片付かないんだ」

「万人だよ」

「なに?」


 彼は駒をボードに戻した。


「人々は、君ほど善良ではない。彼らは自ら進んで戦争の駒になる。そうして、長い目で見れば、互いに互いを苦しめ合うだけになるのだが、自分ではそれと気付けない。それでいて、自分は愛に溢れていると、こんなにも家族や友人を愛しているのだと……自信たっぷりに言うのだよ。滑稽ではないかね」


 彼はまっすぐ俺を見て、尋ねた。


「愛とは、何かね?」


 言葉に詰まったが、彼は返事を待たなかった。


「君はそれを掴みかけている。だが、ほとんどの人には、そんなもの、どうでもいいのだ。やれ金が欲しい、女が欲しい、今の仕事がつらい……皮肉にも、君はそうではなくなった。大勢殺したから。それでお金持ちになったのだし、それに、気が済んでしまったんだろう?」


 彼は、俺の胸に指を押し当てた。


「君も、憎んで恨んで、気も狂わんばかりだったはずだ。特に、この世界に降り立った直後は」


 この世界に? どうして彼がそんなことを……いや。


「殺して殺して、自分の恨み以上の人を幽冥魔境に突き落として、やっと憎む気持ちが薄れたんだ。だけど、誰もが真似できるやり方ではないね」


 これは、夢だ。今、はっきりと自覚した。


「さて、しかし人々の命、その営みに、どれほどの値打ちがあるだろうか」

「それも問いが誤っている。価値そのものが、命とその営みから評価されて生じるものだから」

「だが、彼らはその命を、争いのために使い果たすのだ。とするなら、最上の価値は殺人にあることになる。してみると、価値を評価する主体が破壊されることこそが、最も価値をもつという、実に奇妙な結論になってしまうね」


 夢を見ているにすぎないのに、このデクリオンは、まるで本物みたいに喋っている。今の一言も、まさしく世界を滅ぼそうとした彼の行動とまったく矛盾しない。


「逆じゃないのか。価値の主体が人なら、むしろその人間を生み出すことこそ、最大の価値がある」

「ふうん? 君は……子供は好きかね? そういえば、側妾もいるらしいじゃないか。早く産ませてあげなくては、可哀想だよ」


 さも愉快、といった様子で、彼は俺の胸をつつきながら、そう言った。

 現実でないとわかっていても、そんなことをデクリオンに言われるとは思わなかった。


「だが、子供を産むというのも、要は戦争の続きではないかな」

「ばかな。仮に俺に子ができるとしても。血塗れになるのは、俺までで結構だ。さっきからお前は争いを前提に置きたがるが、そこに根拠はあるのか」

「あるとも。君も見たはずじゃないか。この大陸の大森林の奥で」


 俺は首を振って否定した。


「あれは大森林の……ならず者同士の出来事だった。なくすものもない、縛るものもない連中なら、ああなってしまう。だけど、ここは帝都だ。そんなバカなことが起きるものか」

「帝都こそ、その震源地だ」


 彼はもう笑ってはいなかった。


「君もなんとなくは気付いているはずだ。暗黒時代は、どこから始まったと思うのかね?」


 それはマルカーズ連合国……違う。


「帝都、だ」

「正解だよ。その通り。偽帝は、帝都が引き起こした問題に駆り立てられて剣を取ったに過ぎない。たった一人の狂人が世界を変えたのではない。大勢の人々に待ち望まれたから、ああなったのだ。そうして平和で豊かな時代は一度、終わりを告げた。しかし、多くの苦しみを経て、やっと今、再び世界は平和になろうとしている。君は、これをもってして、前に進んでいると言ったのだ。だが、それは正しいと言えるのかね」


 何を指摘しようとしているかに気づいて、俺は居心地の悪さをおぼえた。


「君のいうそれは、前進ではなく……ただの反復でしかないとしたら?」

「そんなこと、わかるもんか。前に進むと信じてやるしかないんじゃないのか」

「前に進めるのなら、ね」


 含みのある言い方に、俺は彼を覗き込んだ。


「何が言いたい」

「前に進むも何も、この大いなる行進に参加する権利をなくす人々も、少なからずいるのだよ。あたかも櫛の歯が欠けていくように……どこにも希望を託せないまま、ただ犠牲になるだけの人々が。そして、万人は自分がその貧乏くじを引かされまいとして、余計にひどく争うのだ」


 彼は、いかにも意地悪そうな笑みを浮かべた。


「不毛な繰り返しに過ぎないとすれば……それを終わらせてあげようとした私は、実に愛情深いことにはならんかね」

「歪な愛だな」

「ふうん? だが、私は君に言ったはずだ。決して終わりなどしない、と」


 彼がその言葉を発すると同時に、視界が歪み始めた。


「本当のところ、君には申し訳ないとさえ思っている」

「なんだって」

「我々がしくじったばかりに、大変な仕事を君に押し付けてしまった」


 どういうことだろう?


「我々は何のために生まれてきたのだろうね? だが、どんなに美しい言葉を並べ立てても……私達は現実には、将棋の駒だ。どうにかできるかね? 君には、この難問を残していくとしよう」


 けれども、彼はすべてを教えてくれることはなかった。視界がどんどん薄れていく。


「悪になろうとして悪に手を染める者などいない……本当の闇は……光の中にこそある」


 視界を光が埋め尽くし、眩しさに目を覆ったところで、何を見ているかに気づいた。

 離れの寝室の窓から垣間見える、青空だった。

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