試飲会
清掃の行き届いた厨房だった。大きな窓ガラスから、朝の光が燦々と降り注ぐ。ただ、少しだけ空気が篭っている気がした。まずは、窓を開け放ち、換気する。
利用者が俺一人しかいないのに、設備にかけたコストは明らかに過剰だった。調理台が合計六つもある。それぞれに包丁や鍋などが用意されている。どれも新品らしく、ピカピカだ。それと早速、今日の活動に必要な食材も、既に搬入されている。これも自前で買うとなると、決して安くはないので、素直にありがたい。
新年度に入ってよかったことが一つ。ついに料理の講義枠が解放された。が、申請したのは俺以外にいなかったらしく、さすがにこれでは、講師を雇おうというわけにはいかなかった。クレイン教授が後押しして、フシャーナが折れた形でこうなったのだが、こうなってみると彼女の見立ては正しかったというほかない。
構わない。必要であれば、俺は自分で修行するし、一人でどこにでも弟子入りすればいいと思っている。だが、まずやるべきことは……
昼時、日が高くなると、この調理室は少しだけ薄暗くなる。その頃には、一通りの準備を終えることができた。とはいえ、どれだけお客が来るかはわからない。多すぎてもお帰りいただくしかないのだが、少なすぎると困ってしまう。貴重な食材を使ってデザートを用意したのに、捨てたり持ち帰ったりするのは本意ではない。
一応、廊下のあちこちに掲示板に、今回の試みについて貼り紙をしておいた。どれくらいの人が目に留めてくれただろうか。
だが、心配は不要だったらしい。作業を終えて手近な椅子に身を落ち着けてしばらく、廊下の向こうから軽い足音が響いてきた。
「おっ? 一番乗り?」
意外にも、最初にやってきたのはケアーナだった。
「いらっしゃい」
「お客、いないね? 大丈夫? っていうか」
彼女は疑り深そうに室内を見回して、それから言った。
「本当に料理、できるんだ」
「むしろ本業なんだって。前にうちでパーティーしたのに」
「半年くらい前に、公館? の方で料理は見たけど、あれ、本当に自分で作ってたんだねぇ」
キョロキョロしてから、彼女は手近な椅子に座った。
「アナーニア様は?」
「来ないよ。チョコレートケーキなんかに興味はないって」
「それは残念」
お客は差別しない。どなたであれ、召し上がっていただくのだから、店に迷惑行為を働くのでなければ、頭を下げてお迎えする。俺の中ではそういう一線が引かれているのだが、相手がそれを汲み取ってくれるかどうかは別問題なのだ。
「一応、ダングの店でやり方を学んだんだけどね」
「えぇ? あれって王室が認めてるお店じゃなかった?」
「そう、そこで、ごく短い間だけど、コプローファさんの下で教わった」
「へぇ」
もっとも、今日の主役はチョコレートケーキではないのだが。
「ま、それよりさ」
「うん」
「ちゃんとお礼、言えてなかったからね」
「そういえば、どうだった? そろそろ王都の侯爵からそっちに連絡届いてそうだと思ってた」
昨年末に、俺がフゥニ男爵領で魔物を討伐し、それが領都に伝えられた。とすれば、ピハッサーが早速ファンディ侯に手紙を書き送っているはずだ。となれば、彼もケアーナが得点した事実を認識し、そのことを彼女に連絡するはずだ。いくら時間がかかるといっても、そろそろ何か届いている頃だ。
「バッチリだね! パパがベタ褒めだよ。私の手柄にもなったから、これでもう、変なところに嫁がされて終わりなんてことにはならないと思う」
「それはよかった」
「そうはいっても、実家よりは格の落ちる貴族の家しか嫁ぎ先はないんだろうけどね」
「その方がいいんじゃないかな。世継ぎがどうのとか、大貴族の家だと、相当に面倒臭そうだし」
「まぁね。あんまり貧乏なとこじゃなければ、文句は言わないよ」
「あけすけだね」
人生に何を望むかは本人の気持ち次第なので、彼女の自由ではあるのだが。
「あとは二年間、遊んで過ごすだけ! 人生楽勝!」
「う、うん……」
そこまで話したところで、また足音が近づいてくるのが聞こえた。
「ファールースー!」
「お嬢様」
「来たよ!」
特に個別に声がけはしていない。お客様は平等だから。しかし、彼女が気付かないはずはなかった。
「いらっしゃいませ」
「あ、もう他に来てたんだ」
「なんか私より挨拶が丁寧じゃない?」
ケアーナが微妙な苦笑いでそう言うのだが、こればかりは仕方がない。
「昔の主人のお嬢様だから、仕方ない」
「私もお嬢様なんだけど」
「夜会で堂々と奴隷だったんでしょとか言ってくれたので」
「えぇ」
「おかげで王都に縛り付けられたりしないで、旅に出ることができたので、本当に助かった……」
そこで、リリアーナの視線に気付いた。
「ああ、お嬢様、もちろん、今はわだかまりなんか何もないですよ。仲良くしてます。この一年で、言ってみれば仕事の同僚みたいなものになりました」
「うん」
……自分の下僕に対する不当な扱いを、彼女が看過するだろうか? ウィーの件が頭をよぎる。
「まぁ、そうだね。今も、年末にちょっとしたことで助けてもらったから。いやー、今振り返ると、あの時は、人生で最大の失敗をしたかも」
「むー」
リリアーナが唸っている。
「簡単に言うと、あれですよ。内乱の時、僕がルースレスを討ったでしょう? それで陛下が人前で僕のことを褒めちぎったものだから、侯爵がケアーナを僕にあてがおうとして、でも本人が嫌がったという、それだけの話なので」
「それ、あっさり言ってるけど、本当なのか信じられない話よね……『討った』って、その時点で九歳か十歳か、そんなものなのに」
「そうなると、うーん」
頭の中を整理し終えたのか、リリアーナはパッと表情を切り替えた。
「ま、いっか!」
そう、問題はない。ケアーナと俺の関係には距離がある。冗談を言えるくらいには親しいが、それだけだ。それに、過去に彼女が俺を奴隷呼ばわりせず、父の命令に従っていたら、それはそれで、別の形で俺がエンバイオ家から去ることになっていた。要するに、ケアーナはリリアーナに何の損害も齎していないし、これからもそうだろう。
「ねぇねぇ」
「なんでしょうか」
「今日の、新しい飲み物って、なに?」
「僕はコーヒーと呼んでいます。この世界のほとんどの人が味わったことのない、新しい味わいですよ」
とはいえ、いきなりブラックで飲ませても、おいしいとは感じてもらえないだろう。だからミルクを加える。必要なら、砂糖も入れる。
「こちらでよろしかったでしょうか……ああ、ファルス様」
思った通り、ソフィアも顔を出した。
「お邪魔しますね」
「いらっしゃーい」
俺の代わりにリリアーナがそう言った。
「先にいらしていたんですね」
「そりゃあね。ファルスが作る料理は、おいしいんだから」
「まぁ」
内心に小さな不安の細波が立った。リリアーナは俺の過去を知っている。そのことで、他の俺の知り合いより先を行っている……だが、その認識が崩されたら?
「遅くなりました! まだ始まっては……大丈夫みたいですね」
婚約者公認彼女が、この場に駆けつけないはずがなかった。ヒメノは、既に座っている三人に目をやり、挨拶した。
「こんにちは」
「まだ始まっていません。間に合ってますよ」
「よかったです。正直、ちょっと楽しみにしていたので」
「楽しみ?」
リリアーナが疑問を口にすると、ヒメノは答えた。
「以前、ギル様……ファルスさんのお友達の家で、海鮮鍋をご馳走していただいたのですが、それはもう、素晴らしい出来栄えで」
「まぁ」
反応したのはソフィアだった。
「私も、ファルス様がアヴァディリクまでいらした時に、コンソメというスープをいただいたことがあります。今でも忘れられない、信じられないような味わいでした」
「えっ、ちょっと待って、そんなにファルスって料理、うまいの?」
「むー」
思った通り、リリアーナが不満そうな顔をしている。
どうしよう。あとで何かフォローを入れるとか、対応を考えないといけないような気がしてきた。
そろそろ始めようか、と椅子から立ち上がった時、外からカツカツと廊下に響く足音が迫ってきた。
「お待たせしましたわ」
急いでやってきたのだろう。しかし、毎度のことながら、お供を振り切って一人でとは、マリータも無茶をする。
「今、始めようとしていたところでした」
「皆様、ごきげんよう」
挨拶すると、彼女は空いている椅子に座った。
「ねぇ」
リリアーナが、なんとも微妙な笑顔を浮かべながら、尋ねた。
「訊いてもいいかな」
「なにかしら」
「ファルスとは、知り合いなのかなって、ええと」
するとマリータは余裕の笑みを浮かべてみせた。
「ここは帝都で、その学園なのですから、遠慮はいりませんわ。話したいように話せばいいのです。それでファルス様との面識ですか? ええ、以前、レジャヤにいらした時に……鍋もフライパンも包丁もなしに、ファルス様が温かい料理を作ってくださったのを覚えておりますわ」
「ええ? 鍋も……って、どうやって」
「ふふふ」
どうしよう? 学園でコーヒーの試飲会をやろうと決めたのは、無論、いいところのお坊ちゃんお嬢ちゃんに宣伝させるという意味もあった。だからこれは想定通りの状況ではある。しかし、その代償に、なんか妙にギスギスした空気が醸し出されている。
この状況になることは予想できていて、だから一応、手は打ったのだが……
しかし、廊下の向こうから聞こえてきたのは、またしても女の話声だった。
「そうなんですか」
「責任よ。どこから持ち込まれた話であっても、開講を許可したのは私だし。それが受講生一名のみとなったら、活動内容を確認しないわけにはいかないじゃない」
声でわかる。フシャーナと、もう一人は……
「それよりあなたは? どうしてこっちに来たのかしら」
「妹が言っているのを聞きまして。せっかくだから覗いて行こうかと」
……リシュニアだ。いつものように、女ばかり集まってくる。まったく、どうしたらいいんだろう。
「あら? まだ始まってないのね」
「いらっしゃいませ」
「今日は前から仰っていた例の飲み物の試飲会ということでしたね。楽しみにしていました」
なんだろう。特にリリアーナの視線にどんどん迫力が増してきている気がする。でも、違う。誤解だ。なんか七人も女ばかり集まってきているが、別にそんなつもりはなかった。別にコーヒーが女性向け商品というのでもないのだし。
いやいや、ここは平常心だ。他のことならいざ知らず。これから俺は、飲食するものを供するのだ。なら、その他の一切は些事。脇に置く。
「ようこそいらっしゃいました。ではそろそろ……本日、皆様に味わっていただくのは、コーヒーという豆から抽出された飲み物です。苦みと酸味が特徴で、複雑な香りを楽しめるものなのですが」
「苦い? 苦いの?」
「なので、必要に応じて牛乳で薄めたり、砂糖を入れて甘みを加えたりします。また、お茶請けということで、こちら、チョコレートケーキも用意しました」
それから俺は、テーブルの上の覆いを取り払った。
「なにこれ」
「このような炒った豆を、粉になるまで磨り潰して、こちらの布を通して、熱いお湯をかけて抽出します。ただ、それとは別に、こちら……もうできているのがあるのですが、こちらは水出しですね。一晩かけて深煎りした豆を、これも細かく挽いて、水に浸けました」
「なんだかひどく手間がかかるのですね」
「こちら、割合浅めに焙煎した豆と、深煎りと、水出しと三通り用意しました。こちらには氷もありますので……酸味が嫌いな方は深煎りを、苦いのも苦手という方には牛乳を混ぜるなどして、楽しんでみていただきたいと考えています」
フシャーナが目を細めた。
「なんだか飲み物というより、薬に見えてきたわ」
「前にも他の人に言われましたね、それ」
「ですが」
マリータが口を挟んだ。
「独特の香りがありますね。味わいがまだ想像できないのですが、この香りだけでも面白いと思う人はいるかもしれません」
「まぁ、まずは試しに」
そこまで言ったところで、廊下の向こうから足音が響いてきた。一人ではない。
「やべぇ、遅くなっちまった」
「おい、まだ残ってる……」
七人の女達の視線が、入口に立つギルとラーダイに向けられた。思わず黙り込み、立ち止まる。
「いらっしゃい。まだ始めようとしていたところだ。好きなところに座ってくれ」
「お、おう、悪かったな」
女しか来ないんじゃないかと思って、声をかけておいたのだが、今頃になってやってくるとは。しかも、頭数の心配までしてくれていたらしい。
「僕らも試しに味わってみていいかな」
コモがそう言った。彼の後ろには、ゴウキやフリッカ、ランディにアルマも見えた。
「むしろありがたいくらいだ。おかげでお茶請けを余らせないで済むよ」
しかも、後ろから更にもう一人。
「空きはあるか? っと、結構、来てるな」
「先輩まで来るとは思ってなかったです。でも、ちょうどよかったです」
ベルノストがやってきて、これでちょうど十五人。もうこれ以上は難しい。お茶請けのケーキが足りなくなる。
しかし、グラーブの姿はない。要するに、ベルノストはまだ宙ぶらりんの状態なのだ。そのことを思うと、溜息をつきたくなる。
「では、何から出しましょうか」
「全部お願いしますわ」
マリータの言い出したことに、俺は少し戸惑った。だが、彼女は容赦なかった。
「試飲会なのでしょう? であれば、事前に想定していた形のものを、全部出すべきですわ。出されたものは、できるだけ味わって評価して差し上げますから」
彼女の一言で方針が決まってしまった。
「では、最初は水出しから……氷があるので、これと牛乳を加えたものをお出しします。一番、楽に飲めるものだと思いますので」
沸かした湯から抽出するひと手間がいらないから、という理由もある。そして、みんなが味わっている間に、追加のコーヒーを出せばいい。
「いかがでしょうか」
「おぉ? なんていったらいいのか、そうだな、うーん」
ラーダイが言葉を捻り出せない横で、ギルが言った。
「こう、真っ暗闇の中、静かに水の底に沈んでいくような、そんな味だな。悪くない」
ほっと胸を撫で下ろす。
「やりようによっては、広まるものかもしれませんね」
リシュニアも頷いた。
「ええ、これならいつでも献上品として受け付けて差し上げてもよろしいのですよ?」
マリータも太鼓判を押した。
「ねぇ、ファルスー」
「なんでしょうか」
「これ、どうするつもりなのかな」
我が意を得たりと、俺は力を込めて言った。
「千年祭に先立って、都内の食品業者に売り込みをするつもりです。思惑通りにいけば、きっと世界中の人がこれを飲みたがるようになりますからね」
「ファルス君」
アルマが湧いた湯を指差した。
「あったかいのもあるの?」
「ありますよ。じゃあ、今飲んでるのとは正反対のを今、出しますね」
今度は浅煎りの、温かいやつだ。
「どうぞ。火傷しないように」
「どれ」
ランディが一口飲んだ。
「うわ、酸っぱ! これ、見た目と香りじゃ、味が想像つかないな」
「え、そう? って、全然印象が違う」
ヒメノは渋い顔をしていた。
「これ、売れるんでしょうか……特にこの温かい方は、やっぱりお薬みたいです」
「いえ、これは、恐らく」
ソフィアは少しずつ味わいながら、言葉を絞り出した。
「使いどころが大切になりそうです。それと、苦みと酸味……そちらの、色の濃い豆の方が、苦みが強いんですよね」
「そうです」
「私なら、食事の終わりにこれを飲みたくなるかもしれません」
「えぇっ」
ヒメノは驚いているが、ソフィアは既に答えに辿り着いていた。
「ワノノマの食事は、そんなに脂っこいものがないと思うんですが、西方大陸では、どうしてもそうはいかないんです。特に冬場は野菜も限られます。肉も保存加工したものを調理して、という感じですから……そうなると、塩と油の多い料理を食べることになります。この苦みと酸味で、むしろすっきりした気分になれるんじゃないかと思いますよ」
「よい着眼点です」
マリータが頷いた。
「今回はケーキと合わせただけでしたが、こちらの二つだけを比べても、香りも味も違います。思った以上に繊細な飲み物だと思います。本当に使い方次第の飲み物だと思いますわ」
コモは早くも色気を出していた。
「ファルス君、これ、うちの商会で扱ってもいいかな? 僕の裁量で何とかなる範囲で、少しでも売っていきたい」
「もちろん、言ってくれれば、なるべく数量は確保するよ」
「でもこれ」
手元のカップを見下ろしながら、彼は眉根を寄せた。
「このまま持ち帰れるものなのかな」
「無理、かな……ああ、言い忘れていたけど、時間が経つと、ちょっとずつ味が落ちるので、この飲み物は」
「えぇ」
ケアーナが顔を歪めていた。
「冷めるとどうしても、嫌なえぐみとか、酸っぱさが増していくので」
「そいつは困った。うちのクビッキ婆さんに飲ませるには、じゃあ、君にうちまで来てもらうしかないな」
いずれにせよ、もうしばらくしたら、オルヴィータも帝都までやってくる。コーヒー販売の窓口を引き受けてもらうつもりだ。千年祭という機会を逃すつもりはない。
少しずつ飲んでいたベルノストが、俺に尋ねた。
「この飲み物だが、体に悪いということはないか。刺激が強いから、そこだけは気になる」
「夜、寝る前は避けてください。目が覚めてしまいます」
「ん? では逆に、夜更かししたい場合には」
「便利だと思います」
フシャーナが言った。
「それはいいわね。ファルス君、私に毎朝点ててくれないかしら」
「さすがにちょっと」
「毎朝眠いのよ。起きられるなら、助かるもの」
「夜更かししないで規則正しい生活を送ってください」
だが、彼女は首を振った。
「夜更かししたい人は私だけじゃない。みんな、起きてる間は頭をスッキリさせたいものよ? もしかすると、これは世界中に広まるかもしれないわ、冗談でも誇張でもなく」
「そのつもりです。僕はこいつで世界征服するんですよ」
俺の世界征服は、ここから始まる。
人の世に留まる間に叶えたい夢を形にする第一歩は、ここから刻まれることになったのだ。
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