平和のために
改めて、そこは寒々しい空間だった。窓はなく、薄汚れた白い壁に囲まれている。その壁の隅の方には、今も金属の残骸が山と積まれたままになっている。木製の棚が反対方向に押しやられているが、そこにあるのは工具の類ばかり。そこに無理やり、簡素な椅子と机を持ち込んで、即席の会議場とした。だが、ここで語られる話題の重要性と比べると、いかにもみすぼらしかった。
頭上には、青白い魔術の光が点されている。その下で、三組六人の男女が三角形を描くように置かれたテーブルに肘を置き、世界の秘密の取り扱いについて、今後の方針を確かめ合っていた。
「そういうわけだから」
フシャーナは、苦々しげに言った。
「モーン・ナーの正体は、ずっと前から帝都の中枢では既に知られた事実だったのよ。でも、それを公開するようなことは、今まで一度も起きてはいないわ。ただ、それは帝都の政治家達が健全だからではなくて……今となっては、その事実に何の値打ちもないから。選挙の争点になるようなものでもないし、これを材料に神聖教国を恐喝するようなことをしても、お互い、ただでは済まないでしょう?」
「現状では、どなたがこの事実を把握しておいでなのでしょうか」
「本当なら皇帝代理機関全員に共有されるべき話なんだけど……私と、女神教の総主教……この前、クビが挿げ代わったばかりなんだけど、あとはギルドの代表が知ってるわね。ボッシュ首相はどうだったかしら。両議会の議長は、多分、知らないままだと思うわ。それどころじゃないだろうし」
そうして認識のギャップを埋めたところで、フシャーナは改めてソフィアに尋ねた。
「で? ドーミル教皇はなぜ、今になってこんな決断をしたのかしら」
「世界の危機が迫っているのではないか、と恐れているからです。こちら、写しですが、ご覧ください」
内容なら俺も知っている。しかし、こちらの方は、フシャーナもケクサディブも、ヒジリも初見だろう。
「これは、魔宮の地下にやってきた、私の古い友人、ヨルギズが書き残した遺言だ」
カディムがそう説明する。
「真実を知った、と書いてあるが、それが意味するところは、どうやら一つではない。読み取れようか」
「ふむ……」
ケクサディブが眼鏡に手をやり、目を細めた。
「確かに……モーン・ナーの正体を知ったこととは別に、ヨルギズというこの司祭は、何かを恐れているように見える。サース帝がトゥラカムなる人物だったこと、ウィーバルもまた異世界の神であったことなどは、モーン・ナーの正体に纏わる事実の一つに過ぎないが……彼が気にかけているのは、そこではない」
フシャーナも頷いた。
「ここね……『かつての英雄は、ただ雑草の葉と茎を切り伏せたに過ぎない』……これがギシアン・チーレムを意味するのは明白で、だから世界の災厄は終わっていないと。でも、それ自体は昔の帝都の指導者達も知っていたことだわ。だからこそ、統一時代にも神官戦士団が各地を巡っていたのだから」
「気になるのはここじゃわい……『最後にして最大の災厄が、色なき色の破壊者が、なおも身を潜めて刻が満ちるのを待っている』『その時、モーン・ナーの憎悪は、地を焼く炎となる』……ということは、少々ややこしいが、モーン・ナーとは別に、色なき色の破壊者なる何者かがいるのではないか、ということになる」
それについては、俺に心当たりがある。使徒だ。或いは、彼の背後にいる何者かが、それに当たるのだろう。しかし、それを口に出すことはできない。では、どうすればいいのか?
ソフィアが口を開いた。
「ファルス様がこの数年間、世界中を旅して、多くの危険を除いてくださいました。スーディアでも、ラージュドゥハーニーでも、ここ数百年で記録に残る限り、最大級の災厄が引き起こされたと思っています。では、ヨルギズが恐れたのは、パッシャのことだったのでしょうか」
ヒジリが引き取って言った。
「その程度のものではないのではないか、というのが教皇のお考えであると、そう仰りたいのですね」
「はい」
「とはいえ」
溜息をつきながら、ケクサディブが言った。
「そのために何ができるかとなると、難しい話ではありそうだがね」
「ポロルカ王国での被害がどれほどだったかは聞き知っているけど、あんなクロル・アルジンなんてバケモノがまた現れたら……帝都の防衛隊はもちろんのこと、ご自慢の神聖騎士団だって、手も足も出ないでしょうよ」
俺も頷いた。
「目の前で見てますから。緑玉蛇軍団、およそ五千人の兵士が詰めていた城塞が、ほんの数秒間で跡形もなく……爆風で、離れた所にいた僕らも吹き飛ばされるほどで。現場に行ってみたら、地面がまだ灼けるように熱くて、それ以上近づくことさえできませんでした」
「剣とか槍とか弓とか、そんな武器で戦おうなんて、それ自体がもうばかげているわね」
「発想を変えるべきです」
ヒジリの声に、他の五人が振り返った。
「クロル・アルジンのようなものが現れてからでは、ほとんど人間にできることはありません。ですが、事の起こりはどこだったか、それをよく思い出していただきたいのです」
「面目次第もない」
「責めているのではなく……もし、悪事をなそうとする者がいて、それに絶対的な力が既にあるのなら、なぜ正面からこの世界を滅ぼそうとしないのでしょうか? 実際には、パッシャは段階を踏んで計画を遂行したのです。帝都からあの怪物の材料になるものを盗み出し、女神の封印を解くためにスーディアで実験をして。しかも、その上で念を入れて、世界各地の権力に食い込もうともしていました。おわかりですか」
フシャーナも、意図を理解して、溜息交じりに言った。
「まず、邪悪な何者かは人の世の綻びに付け込もうとする。そう言いたいわけね」
「はい」
そうだろうか? あくまで俺の中だけの疑問だが、ヒジリのこの考えには賛成半分、反対半分といったところだ。なぜなら、この世界の真の強者達は、そんな面倒なことをしなくても、甚大な被害を齎すことができるからだ。
例えば、俺が手加減なしに暴れたら? ノーラに与えた腐蝕魔術の魔道具を回収すれば、大都市は次々と、すぐ人の住めない汚染された土地になる。腐蝕魔術の中には『疫病』という術も含まれていた。見境なく人を殺したいだけなら、なんでもできてしまう。それがなくても、俺には束縛の魔眼もある。あれを遠慮なく使えば、目に入った範囲すべてが石に変わる。高速飛行の魔法と併用すれば、被害を加速度的に広げることも可能だ。
そして恐らく、そういうデタラメができてしまう俺よりも、使徒達は強い。以前、アルディニア王国の宮殿で、使徒は、こんな街など三日で瓦礫の山だと言い放った。今の俺でも、それくらいはできる。なら、使徒にも当然にできるのだろう。
では、なぜそのようにしないのか? なぜ、自分より弱いはずの俺を、わざわざ手間をかけてまで従わせようとしていたのか? その謎は、実はまだ、解けていない。
「その意味では、帝都は……本当に申し訳ないけど」
「存じております」
「世界の守護者が、聞いて呆れる。我ながら恥ずかしいったらないわ」
ソフィアがおずおずと言い出した。
「あの」
「あら、悪かったわね。ここでは遠慮なく話してちょうだい」
「駄目なところはどうしようもありません。できることを考えましょう」
彼女の申し出に乗る形で、カディムが言った。
「実は、こちらから提供したいものがある。既にファルスから聞いているかもしれないが、クラン語とアブ・クラン語の辞書ができた。ここ二年かけて、我々がなんとか形にしたものだ」
フシャーナは目を細めた。
「ありがたいお話だわ。書庫の足しになりそう」
「神聖教国は、長らく帝都とは距離を置いてきましたが、これを機に、少しずつでも連携をとっていけるようにしたいと、教皇は仰せでした」
「考えようによっては、いい時期でもある」
ケクサディブも同意した。
「東部サハリアも、ちょうど政治的勢力が統一された。もう一度、各国間の結びつきを強めていくには、悪くない」
「それであれば」
俺には、切れるカードが二枚ある。
「ロージス街道の復旧が、ほとんど終わっています。この夏にも、帝都とイーセイ港の間を船で繋いで、西方大陸の奥まで物流を繋げられるようにしようとしていまして」
「神聖教国としては、逆に仲間外れにされないようにしないといけなくなりそう」
「ミール王は、これでタリフ・オリムを玄関口とした交易に頼らなくても、東からの通商路を活用することもできるようになるのですが……そのままでは、だから、そういう話になるのですが」
「胸糞悪いけど、ボッシュ首相あたりを利用するのがいいかしらね。平和の架け橋、なんて点取りには都合いいもの」
神聖教国の側にも、アルディニア側にも、仮想敵国との関係改善を望まない勢力が存在する。彼らを黙らせ、しかも顔を潰さず、名前だけは帝都に取らせてやろうということだ。
「それともう一つ、ご相談が」
「何かね」
「古代の言語について……今、クラン語などの話が出ましたが、ルー語とメルサック語については、どなたかご存じの方はいますか」
この俺の発言に、他の参加者は目を見合わせた。
「えーっと……ケクサディブ、あなた、知ってる?」
「お前さんはまったく、専門外のことも少しは調べておけ。ルー語はあれじゃな、イーヴォ・ルーの信徒達の言葉じゃが」
「それは私が知っている。だが、メルサック語というのはわからんな」
「旦那様、私もそれは存じませんが」
これはいい切り口かもしれない。俺は、使徒のことを公言することができない。だが、色なき色の破壊者なる何者かに迫る手がかりなら、まだあったのだ。
「僕が飼っている……いえ、実は人間と変わらないのに、そういうことにしているだけですが、砂漠種のリザードマンのペルジャラナンが、現地にいた時、仲間内で使っていた言葉です」
「ふむ、それで、その言語がどうかしたのかね」
「人形の迷宮の奥にいた、レヴィトゥアというリザードマンの王は、何かの神に仕えているようでした。もしかすると……」
彼らは顔を見合わせた。
「こっちに呼べる?」
「そのつもりでした。千年祭に合わせて、帝都に招こうと」
「お願い。それと、辞書の件ね、ソフィアさん」
「はい」
「こちらはありがたくいただくわ。その見返りに、あなたにも書庫への立ち入りを許可するということで、どうかしら」
「ありがとうございます」
一通り話し合いが片付いた。この暗い地下室に、ようやく弛緩した空気が流れる。
「では、今日はこの辺にしましょうか」
「お疲れ様でした」
いうなれば、今日の会合は密約のためにある。世界平和のためにということで、これまで帝都に反発し続けてきた教国が、基本姿勢を変えたということなのだから。記録には残らないものの、歴史的な事件といえるのかもしれない。
それにしても、世界の安定という面からみると、どう考えても俺は監視対象であって、守護する側ではない。自分がどうしてここにいるんだろうと自問自答したくなったりもするのだが、もう、そういうものと思うしかない。
自分で自分の奇妙な立場に思いを馳せていると、フシャーナから声をかけられた。
「あ、そうだ」
「なんですか」
「例の……」
フシャーナは左右を見回して、少し濁した表現で伝えてきた。
「一時帰国の時に見たっていうアレとかいろいろ」
「ああ」
「その件で、また後日、確認をしたいから」
「わかりました」
それだけのやり取りだったのだが、なぜか彼女の隣にいるケクサディブがニコニコしていた。それに気付いたフシャーナが、思い切り彼の足を踏みつけた。
奇妙な振る舞いだったが、長時間の話し合いで疲れ果てていたのもあって気にも留めず、俺は席を立った。
フシャーナの管理する棟から外に出ると、既にとっぷりと日が暮れていた。
「おぉ、気持ちのいい夜だ」
カディムがそう言う。
「どうですか、地上での暮らしは」
「んん? 楽しいぞ! ただ、誘惑が多いから困るな。右を向いても左を向いても人間がおる。おいしそうだと思う自分をいかに抑えるかが問題だ」
「勘弁してくださいよ、それだけは」
吸血衝動からの人攫いなんかされたら、大問題になる。
「そういえばファルス様」
ソフィアが話しかけてきた。
「この前、お手紙もお送りしたのですが、目を通していただけましたか?」
何食わぬ顔で、冷や汗の出ることを言ってくれる。
「え、あ、あっ、ああ」
「お時間はありますからね。お待ちしています」
「さて、ヘルのやつをあんまり待たせてもいかん。さっさと馬車に乗らねばな」
「ええ。では、ファルス様、また学園で」
こうして二人は去っていった。
「旦那様……」
春先の冷たい夜風が一吹き。
「何の話とは申しませんが、オオキミの気配り、のびのびと学業に打ち込めるようにと、敢えて猶予をくださったこと……無下にはなさらないものと信じております」
「あっ、は、はい」
「では、私達も帰りましょうか」
シャルトゥノーマとヒジリの件といい、ウィーの件といい……俺の周りで利害の対立が、じわじわと表面化しつつある。世界の平和もいいが、俺の身の周りの平和もなんとかしてほしい。
そんな思いを抱いたところで、助け舟はどこからも出されるはずもないのだが。
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