女司祭は反省しない
まだ宵の口。暗い藍色の空を背景に、繁華街の軒先には、色とりどりの灯りが吊り下げられている。どこかから調子外れの歌声が聞こえてきた。寒さも緩んできて、この時間でも、冬場のあの吸いついてくるような冷たさはもう感じられない。そぞろ歩きをするには、ちょうどいいくらいだ。
もっとも、あんまりフラフラしていたら、パトロール中の帝都防衛隊に見つかって、また面倒な問答をしなくてはいけなくなる。浮ついた留学生が道を踏み外すのは、彼らにとっても失点になるのだ。
「毎晩、こんなところで遊び歩いていたとは……いや、前もそうだったとはいえ……」
切実な必要があって、こうして出張ってきたのだが、まるで進歩のない相手に、俺は呆れ果てていた。
「前にも、こうやって捕まえにいったもんだったっけ。ねぇ、ウィー?」
ところが、振り返ると彼女は不機嫌になっていた。
「楽しそうだね」
「えっ」
「ボクはずーっと一人でほったらかしにされてたのにさ」
そんなことを言われても、俺も遊んでいたわけではないのだが。
「新学期が始まって、身動き取れなかったんだよ。あちこち呼び出されて」
「ふぅん」
「何がいけないんだ」
「聞いてるよ」
小走りになって俺の横に並ぶと、彼女は顔を寄せてきた。
「学園ではいつも、複数の女の子達相手にデレデレしてるって」
「あ、あれは僕は何もしていない」
「でも、避けたりもしてない、と」
でも、こんな風に問い詰められるだけの責任が、俺にあるだろうか? 別に俺は、ウィーを妻にも側妾にもした覚えはない。いや、わかっている。お前は恋愛対象外だから、そういう意味では必要ない、目の前から立ち去れ……これを言えていないのだから、こうして食い下がってくるわけだ。
モテなかった前世では、いろんな女の子に好かれたら楽しいだろうな、と思うこともあったが、現実にそうなってみると、とにかく気ばかり遣う。本当に、ニドはどうやってあの暮らしを維持できているのだろう?
「あの、ウィー?」
「なに」
「その件もあるから、こうして連れて出てきたんだからね? これは、色恋沙汰では済まないんだから」
「わかってる」
帝都生活二年目に入って、とある問題が浮上した。ウィーが領地に留まってくれれば生じなかった面倒事なのだが、どちらにせよ、いつかどこかで解決すべきものではあったのかもしれない。
要注意人物が三人ほど、こちらにやってきてしまった。リリアーナ、ジョイス、そして、実はしばらく前からこの街にいたはずの、リン。彼らは全員、ウィーの顔見知りだった。問題は、ウィーの犯罪歴だけにあるのではない。そこだけなら、俺が泥をかぶって、過去を揉み消したと言えば辻褄は合う。まずいのは、彼女が一切、加齢していないこと。当時のままの若さを保っている点だ。
「ということで、雑だけど、もうさっき話した通りでいくから」
「うん」
こういうことだ。ウィーは王都の混乱を利用して国外に脱出した。追手がかかるのを恐れた彼女は、近隣諸国にいたのでは、すぐに発見されてしまうと考え、パラブワンから船でムスタムに渡り、そこからまたすぐに開戦前の真珠の首飾りを南下した。だがそこで、とある依頼を受けたことがきっかけで、ポロルカ王国での政変を企んでいたパッシャのメンバーに見つけられてしまう。そのまま殺されるはずだったが、彼らが気まぐれを起こしたため、実験目的で、とある魔道具によって封印されることになった。それから数年、魔道具が故障したおかげで、目を覚ましたウィーはそこから逃れて、帝都にやってきた……
この嘘のストーリーを、先に既成事実化してしまわないといけない。但しそれは、リンに対してのみ、だ。なぜなら、残る二人には、その嘘が通用しないから。ジョイスは、俺の嘘は見抜けないが、ウィーの心ならある程度読めてしまう。リリアーナに至っては、俺が肉体の置き換えができる事実を知ってしまっている。
つまり、最初の鬼門はジョイスということになる。秘密の一部を知る人間が増えるという意味で。とはいえ、会わせないで済ませるというのも、難しいだろう。彼の妹が俺の商会や領地で世話されて暮らしている以上、そちらとの縁は切れない。ウィーの身分も俺がロンダリングしたのだし、ノーラは秘密を知ったウィーを、目の届かない場所には行かせないはずだ。正直、そこの解決策はまだ、見つけられていない。
一方で、リリアーナも簡単とはいくまい。なんといっても実父とじいやを撃たれているのだ。あの性格なので判断が難しいところだが、もしかしたら、逆鱗に触れることもあり得る。以前、二度だけ彼女が真剣に怒りを表明するのを見たことがあった。ランの離婚の件だ。それと、俺が初めて王宮に入った時にも、珍しく融通の利かない態度を示していた。あれも、俺を追い出そうとしたことに抗議するためだ。普段はヘラヘラしているが、自分の下僕が侮辱されたり、傷つけられたりすることを許容するような性格はしていない。
「この店にいつも通っているらしい」
「懲りないよね、あの人も」
成長していないとも言う。俺が七歳の時、つまり、もう八年半くらい前から、何も変わっていない。もう三十二歳にはなっているはずなのに。
俺達は、ビルの脇にある階段に足をかけた。
扉を開けると、春先の爽やかな空気など、背後に押し流されてしまった。壁を隈なく照らす橙色の光。大勢の人の熱い吐息と、その濁った空気を少しでもましなものにしようとして焚かれたお香の匂い。時折、酒に満たされたグラスがテーブルに叩きつけられる音も聞こえてくる。騒々しい中で、それぞれが自分の言葉を伝えようとして、大声でやり取りしていた。
「あっちだ」
カウンター席や、周囲から見える場所に設けられたテーブル席もあったが、お目当ては木のパーティーションに区切られたブース席だ。それぞれのブースには、一人用のソファが二つ一組で置かれており、邪魔が入らないようになっている。一見すると、いかがわしいお店のようにも見えるし、事実、そういう用途で利用されることもあるらしい。
だが、この店の本当の存在理由は、別のところにある。
「ちっくしょう!」
「これも勝負事ですから」
目指すブースの方から、金貨が擦れ合う音が聞こえてきた。ちょうど決着がついたところらしい。俺達は狭い通路の片側に寄って、全身から熱気を発散する男を避けた。ちょうど今、ゲームに負けたばかりなのだ。気が立っていることだろう。
「行こう」
俺が小声で言うと、ウィーも頷いた。
「空いてますか」
俺が顔を出すと、中に座っていた女は顔をあげもせずに言い放った。
「カウンターで札を貰ってきてください。面倒なのは困るので」
「どういうことですか?」
「素人ですか? ここでは身分証明してもらってからでないと遊べないんです。負けたからって逆上して暴れるような馬鹿が出ないように」
「なるほど、よく考えられていますね」
俺の返答に苛立ったのか、ようやく彼女は顔をあげた。
「わかったら、さっさと……」
その動きが止まる。
俺ともう一人。だが、俺の顔を最後に見たのは五年以上前。すぐに一致しないのだろう。ところが、もう一人はというと、以前のままなのだ。
「まだこんなこと、やってたんですね」
「な、なっ、なんのこと」
「教会関係の知り合いもいるので、そちらに報告しておきますね。任務放棄で毎日遊んでましたって」
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
彼女のスタイルは少しも変わっていなかった。春先に身につけるような厚手のブラウス、壁には薄手のコートもかかっていた。これなら、都の中間層の単身女性にしか見えない。
「帰ろうか、ウィー」
「うん」
「ど、どういう……ま、待って! 待ちなさい!」
俺達は構わず外に出た。それからはわざとゆっくり歩いたのだが。間もなく、手続き一切を済ませたその女……リン・ウォカエーは血相を変えて追いかけてきた。
それから三十分後……
「……ということだったんですよ」
「ふむ、奇妙なこともあるものですね」
薄暗い居酒屋の個室で、俺が拵えた嘘に、リンは眉根を寄せていた。だが、そこまで興味もないのか、それ以上、追及してくることはなかった。
「それにしても、まぁ尋ねるまでもないかもなんですが、どうしてこんなところへ?」
「そんなの決まってるでしょう」
椅子の背もたれに身を預けて、彼女は俺を見据えた。
「とんだとばっちりです」
「とばっちり?」
「いえ、逆に好都合だったとも言えますが……あなたが旅立ってから、一度、ピュリスに戻ってきましたね」
「はい」
「それから数ヶ月後に、本国……ドーミルのクソ野郎から召喚命令が送られてきたんですよ。当然ですね。秘密をどこまで知っているのかと、そういうことを疑わないはずもないのですから」
重大な秘密を知る者が多ければ多いほど、彼にとってのリスクも大きくなる。対処を要するのは間違いなかった。
「ゴネてしばらく顔を出さないようにしていたんですが」
「どうしてですか? 余計に話がこじれるでしょうに。それに、秘密を知っていると正直に告げた上で、逆らわない態度を選べば、出世もできたはずですが」
「おぉ、汚らわしいファルスよ、私がそのような卑しい考えを持つと思うのですか」
溜息が出てしまう。
「そうではないんでしょう。教皇としては、魔宮の秘密にかかわる仕事を任せられる人が欲しい。身近にいて、自分が動けない時にもそちらを引き受けてくれるのがいるなら、聖都でそれなりの身分を確保してもいいくらいだ。だけどあちらで枢機卿とかに抜擢されると、窮屈な暮らしになりますもんね。少なくとも、あんなカードゲームなんかできなくなる」
こいつの発想など、見え見えだ。
「要はラクして遊んで過ごしたいだけだから、なるべく逃げ隠れしてたんでしょう。でも、いよいよマズいということで、仕方なくアヴァディリクまで出向いた。で、どうせなら聖都での仕事より、帝都に出て、そこで僕という危険分子の監視をしますと、そういう申し出をしたと」
「あえて俗塵に塗れてこそ。名より実を取る選択、世の安寧のため、欠かせない役目に就いたということです」
「それはちゃんと監視任務をこなしていればの話だと思うんですが」
だが、彼女は余裕たっぷりに言った。
「情報収集は一応、していましたよ?」
出されたミルクを一口飲んでから、続けた。
「大勢の女性と淫らな関係にあるらしいことは、既に」
「何もしてません」
「いやらしい。数年前から、こうなることはわかっていたのです。おお、不潔なファルスよ、あちこちの国の姫君を誑かし、それによって貴族の地位まで手にするなど、まさに現代に蘇った色欲の魔王」
「違いますから」
だが、彼女は首を横に振った。
「モーン・ナーに仕える者として、帝都があなたに汚染される危機を防ぐ責務があります」
「汚染ってなんですか」
それだったら、まずラギ川に沈む「王子様」からなんとかしてほしいところだ。俺はその件とはまったく関係ないが。
「世界最悪の色魔がいるということを広く知らしめ、民草に身を守る術を授けねばならないのです」
「なんですかそれ」
「ふふふ、その辺はそのうち、悟ることになるでしょう。私もただ遊んでいたわけではないのです」
ウィーが首を突っ込んだ。
「遊んでいたわけではないって……何をしていたのかは知らないけど、でもそれ、別にドーミル教皇の指示には含まれてないことじゃない?」
「うぐっ」
「それ、本来の仕事を放りだして、他のことにかかりきりになってたって、それ、遊んでいたというのでは?」
「すべては正義のためです」
俺もウィーも、これには呆れて肩をすくめた。随分と都合のいい正義だこと。
「でも、帝都に来て遊んで過ごすのは勝手にすればいいですが、もう別の人が来ちゃったんですよ? まずいと思いませんか」
「心配はいりません。あと半年、せめて半年、帝都にいられれば、私の願いは叶うのです」
「願い?」
「ええ」
彼女は居住まいを正して高らかに宣言した。
「千年祭のゲーム部門、世界一を獲るのはこの私です」
「そういうことか」
どうでもよくなってガクッと力が抜けた。
「好きにしてください」
「ええ、そうさせていただきますとも」
「ただ、ウィーの身元の件は、僕がいろいろ揉み消したんですが、これについて余計なことを言ったら……わかりますね?」
「私は黙っていてもいいのですが」
そこはわかっているらしい。
「いいのですか? 元総督の娘が、明らかにあなたのすぐ傍にいるのに、私に口止めしたところで、意味などないでしょうに」
「そこは別途、説得するしかないですね」
「手助けはしませんよ? 知りませんからね?」
そこは仕方がないし、リンにどうにかできることでもなく、また彼女の責任でもない。
「まぁ、こちらとしては言いたいことはそれだけです。こんなことではいつ、教皇が怒り出すかわかりませんが……せいぜい楽しくお過ごしください」
それだけ言うと、俺とウィーは席を立った。
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