秘密の相談、そして手紙
「改めて、恐ろしい飲み物だな、これは」
公邸の奥まった一室で、ヘルがぼそりと言った。
「このひねくれものが。単に美味いと言えば済むものを」
「そんな言葉で片付けられるものか。お前はそれでいいんだろうがな、我々暗部としては」
手にしたティーカップを揺らしながら、ヘルは何かを恐れるかのように、低い声で呟いた。
「こんなものを迂闊に飲んでは……最初こそ、味などわからなかった。ただ、花のような香りだと思っただけだったが、これに慣れてしまったら、とても役目など果たせなくなる」
「そういうものか」
「そういうものだ」
丸いテーブルを囲み、これから四人で情報共有をするという状況で、カディムとヘルは無駄口を叩いていた。
「なかなかいい紅茶だが……ヘル、キトの秋摘みの茶葉があるが、欲しければ今度、持ってくる」
「やめてくれ、ファルス」
「遠慮しなくていい」
だが、彼は心底怖くてならないというように、体を強張らせて拒否した。
「こんな贅沢に心が動かされたら、暗部などすぐ狂ってしまう。なるほど、俺達を罪で縛るわけだ。でなかったら、欲のため、権力欲しさに、聖都でどんな真似をしでかすか、わかったものじゃない」
そう考えるのも不思議ではない。彼らがつらく厳しい任務に耐え得るのは、逆説的なことに、彼ら自身がまだ人でいたいからなのだ。それが抑圧から解放されて、即物的に利益を求めるようになったら、どうなるか? 思い出すのは、あの王都の内乱の際に出会った、スナーキーの姿だ。
ソフィアが説明した。
「この公邸ですが、暗部の方はヘルさんともう二人、あの御者の方と、あとは執事の方しかいらっしゃいません。カディムさんのことは、表向きにはシスティン家の家僕で、私についてきたということになっています」
「道理で人気がないと思った」
「この話は、使用人達にも聞かせられませんので」
全員、外に出るように命じておいたのだろう。神聖教国のトップシークレットがここにあるのだから、それも当然の対応なのだが。
「それで、ファルス様をお招きした理由なのですが……」
「何かできることでも」
「はい」
ソフィアは頷き、重々しく語りだした。
「魔宮で発見したものについて、帝都の中枢と共有したいのです」
「なんだって!?」
随分と思い切った決断だ。そんな真似をしたら、神聖教国は帝都に弱みを握られることになるのに。
「どうしてそんなことを」
「ここ数年で起きた、世界情勢の変化について、教皇は危惧の念を抱いています」
確かに、この短期間に世界地図の色は塗り替わっている。サハリア北東部の一角を占めていただけのネッキャメル氏族が、真珠の首飾り全域を掌中にしたばかりか、南方大陸北部にも食い込み、ついには名目上とはいえポロルカ王国の諸侯となって世界秩序の中での地位を確立した。ただ、そこを問題とするなら、帝都との情報共有より、俺に首輪をつけるのが先なのではないかと思うのだが。
「特に、南方大陸での政変には危機感を抱いているとのことでした」
「とすると、ある程度、詳しいことを知っている?」
ソフィアは顔を伏せた。
「表向きには広まっていないお話とはいえ、スーディアでも、ラージュドゥハーニーでも、古代の魔王、或いはそれに類するものが目を覚ましたと言いますから。背後にはパッシャの存在があったそうですが」
「そのパッシャは、もう壊滅したはずだが」
「はい。今は平和が戻ったのだと、むしろ脅威の芽が摘まれたのだと……人形の迷宮も滅ぼされましたし、世間ではそう受け止められているようですが」
彼女は、顔をあげると、俺をじっと見つめた。
「では、ファルス様は、本当にこの世界に平和が訪れたのだと、あとはせいぜい、愚かな為政者達が欲望のために無駄な争いをする程度のことしか起きないと、そうお考えですか」
これには答えることができない。俺は具体的に、どんな脅威が残されているかを知っている。その中にはもちろん、俺自身も含まれる。
「ということなのです」
返事がないのが返事。一人頷き、ソフィアは結論を述べた。
カディムも口を差し挟んだ。
「ファルス、まさか我が友の遺言を忘れたわけでもあるまい。確かに、古の魔王らしきものが甦り、人の世を掻き乱したというのは大した話だが……ヨルギズが恐れていたのは、あの程度のことだったのか? 私には、そうは思えん」
「楽観的に考えれば、その火種をお前が消して回ったと、そういう理解もできなくはないがな」
ヘルがそう言ったということは、つまり、俺の旅の真相は、かなりのところ、神聖教国の上層部には知られてしまっているとみるべきだろう。
「とはいえ、あまりに代償が大きすぎるのでは。聖なる都の地下に、よりによって魔宮モーがあるなんて」
「ファルス様、アヴァディリクの地下に魔宮があること、それ自体は、実はどうとでもなるのですよ」
目を丸くする俺に、ヘルが説明を付け加えた。
「つまり……聖女は邪悪なティクロン共和国の地下に、魔物の巣窟を発見した。だからこそ、そこに自らの本拠を置き、世界を守ろうとした。二代皇帝ウティスの時代に、迷宮の封じ込めは完了し、それから時間が経つにつれ、この事実が忘れ去られていった。だが、ウティスの扉の封印が解けた今、古代の事実が我々の目の前で明らかとなった、とまぁ、そういう筋書きだ」
「なるほど、凄い創作だ」
「問題なのは、サース帝、つまり裏切りのトゥラカムが、何者であったかという点だけであるからな」
だいたい納得はできた。しかし、そうなると……
「では、先に僕に話を通したのは」
「ファルス様も当事者でしたし、事前に伝えないでお話を進めるのもどうかというのと、あとは、ファルス様を通じて、信頼できる窓口からお話をさせて欲しいという考えがあってのことでした」
……ということになる。持ち込むのは重大な秘密。だが、本当にそんな交渉をしていい相手なのか? するとすれば、誰を選べばいい?
「これは、難しい話になる」
「やはり、そうでしたか」
「はっきり言って、帝都の政治は、そこらの王国に比べても、むしろ信用できない、腐敗しているといっていいくらいなので」
ボッシュ首相なんかに任せられるか? だが、選挙の結果次第では、またすぐ首が挿げ代わる。そして、秘密を知らせていいと思われるほど信頼できる政治家というものについて、俺には心当たりがない。
それに帝都は政治的に分断が進んでいる。正義党と立国党の対立は、今でこそ表面化していないが、それこそ互いを仇敵か何かのように思うほどになっている。ここで変な材料を投げ与えたら、それこそ相手を誹謗中傷する材料に使われかねない。
「むしろ、帝都というよりは、神仙の山とか、あっちの関係者の方が、ずっとまともだったり」
「そうなのですか」
「いや、はっきり言ってしまおうか。そちらが世界の秘密だと思っていることを、あちらの人間はもう知っている」
この事実に、三人は腰を浮かせかけた。
「ではなぜ言わないかというと、もっと深刻な問題が表面化するから。ただ、その辺を僕の一存であれこれ喋ってしまっていいのか、わからない。できれば、その話をするなら、そうだな」
俺はしばらく考えてから、結論を出した。
「じゃあ、こうしよう。学園長に話を持っていくというのは、どうだろう?」
「それは検討していましたけど」
「皇帝代理機関は、今、まともに機能してないらしいから。信用できそうなのが、フシャーナとその周囲にしかいない。女神教もダメだと思う」
それ以外だと、あとは……
「神仙の山の関係者、クル・カディにも話を通せるなら通した方がいい。あとはヒジリを通して、ワノノマの姫巫女とも繋がっておいた方がいいな。そっちは、折を見て相談してみる」
顔を見合わせた三人だが、やがてソフィアが口を開いた。
「学園長に相談するのはもう検討していて、実は手土産もあるんです」
「というと」
「クラン語とアブ・クラン語の辞書です」
それは価値がある。いわゆる第一世代のルイン語とされてきた言語だが、その正体含め、情報共有がされるとなると。書庫の貴重な蔵書が増えることになる。
「わかった。早めに教授には相談してみる」
「お願いします……ところで」
まだ何か話すべきことがあるのだろうか?
「昨年一年間の間は、いかがでしたでしょうか」
「えっ? いや、可もなく不可もなく、普通にこちらで学生をしていただけで」
「ああ、質問がよくありませんでした」
ソフィアは居住まいを正して、言い直した。
「ファルス様と接触して、その動向を確認するために、また友好的な関係を維持するためにも、教会の関係者が帝都に派遣されてきているはずなのですが、お会いしたことは」
「えっ!?」
身に覚えがない。
「誰、だろう……申し訳ない、全然わからなくて」
「え? いえ、ファルス様の顔見知りの方が……以前、ピュリスの管轄教会にもいらしたリン・ウォカエーという方が」
「あいつか」
俺はテーブルに突っ伏した。
「どうした、ファルス」
カディムが声をかけてくるが、俺は呆れて溜息しか出なかった。
「……一度も会ってないけど、今はどこに」
「変ですね? 都心部の教会の近くに住んでいるはずです。場所は今、お伝えしますね」
あの女を一人で帝都にやったら、仕事なんかしないで遊び呆けるに決まっているのに。こればっかりは、ドーミルも目が曇っていたとしか言いようがない。
「では、今夜はそろそろ」
「そうですね。積もる話もありますが、それはまた後日と致しましょう」
そうして、俺は公邸の馬車で帰宅した。
公館に引き返すと、北東の玄関口にヒジリが待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ、遅くなって済まなかった」
「いえ、なんでも神聖教国の関係者から、急に呼ばれたとのことで」
「真面目な話だった。大きな問題にも繋がることだから、できればどこかでヒジリにも知っておいてもらいたい。学園長にも共有しないといけない話になった」
「それはお疲れ様でした」
と頭を下げながら、しかし、彼女の手には一通の書状があった。
「それは?」
「実は本日、神聖教国の関係者という方から、旦那様へのお手紙ということで、こちらに持ち込まれたものなのですが」
「じゃあ、あれかな、今日、ソフィアが学園の正門の前で待っていたんだけど、そこで捕まえられなかったら、公邸まで呼びつけないといけなかったから」
家人を全員追い出さないとあの話はできないので、俺の訪問がいつでもいいということにはならない。是非とも今日の夕方に招待しなくてはいけなかった。
「どうせ大したことは書いてないだろうけど、一応、開封して確認しようか」
「えっと、旦那様、私も見てもよろしいのでしょうか」
「どうせ、今日とかに公邸まで来てくれとか、そんなことしか書いてなさそうだし」
そう言いながら、俺は封筒を手に取った。
「どれ……」
そうして、手紙を開いた。
『前略
ファルス・リンガ・ティンティナブラム殿
まずは、貴君の長年に渡る世界への貢献が認められ、ついに貴族の末席を占めるに至ったことを祝いたい。
もっとも、貴君の活躍からすれば、あまりに小さな賞賛、些細な報奨でしかなかっただろう。
我が国の将来にもかかわる重大な問題については、既にソフィアから直接、貴君に伝えるようにと命じてある。
だからこの手紙では、別の件について述べたい。
システィン家は旧貴族の家柄であり、その生まれであるソフィアは、まさに深窓の令嬢といえる。
いかなる場に置こうとも、そこには名誉を添えるだけであろう。
しかし、私はその上で、彼女を我が養女とした。
ゆえに彼女は、モーン・ナーを奉じる国の代表としての立場を帯びるに至っている。
私は、父としての権利を行使して、彼女の将来について、ある決断を下す。
ただ無論、その決定においては、彼女自身の同意も含まれている。
教皇である私、ドーミル・ヴァコラット・シフィリスは、貴君、ファルス・リンガ・ティンティナブラムに、我が娘ソフィアとの婚約を受け入れていただきたいと考えている。
熟慮の上での返答を希望する』
それからしばらく、俺とヒジリはその場に硬直し、立ち尽くすことになった。
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