教国公邸からのお誘い
帰宅できない。
それは切実な悩みだ。思えば前世でも、しばしばそれをつらく感じたものだ。一日の活動を終え、疲れ果てた体をねぐらに運び、そこに横たえるという、まさにその時に横槍が入る。トラブル発生からの残業もつらかったが、実は同様に、業後の飲み会も苦痛だった。休みたいのに、仕事の時の顔を保って、背筋を伸ばして座っていないといけなかった。
そして今、俺は、まったく別の理由によって、帰宅に困難が生じていた。
「ヒメノちゃんばっかりズルい! 今日は私! ね? ファルス?」
「ズルいも何も、私はヒジリ様にお任せされているから、こうしているんです」
「じゃあ、今日はヒメノちゃんが私に任せてくれればいいんだよ」
「そういうわけには参りません」
「どうして? どうして? ねぇ、今、ヒジリ様って人のせいにしようとしたけど、そういうこと言う方がズルくない?」
もはやすっかり学園の景色となってしまった。下校中の学生が「ああ、またやってる」と冷ややかな視線を俺達に向け、すぐ興味をなくして歩き去っていく。
そこらの有象無象なら、ヒメノはねじ伏せてしまう。だが、相手の身元が確かな場合には、なかなかそこまで踏み切れない。そしてリリアーナは、俺の旧主の娘だ。投げ飛ばしたら、ちょっとした問題になってしまう。だいたい、そうでなくても、昔からの顔見知りが俺に懐いているだけなのだから、力尽くで排除するということに正当性を見出しにくい。
こういうトラブルなしに帰れる日は、週に一日あるかどうかだ。つまり、別の職業学校に通うナギアが早上がりして、正門の前で待っている場合だ。逆に、ここに三人目以降が乱入すると、状況はもっとややこしくなる。ただ、今日はマリータもリシュニアも見かけない。
左右から手を掴まれながら、なんとか敷地の外を目指して、這うようにして進んでいくと、正門の外に小さく揺れる影が見えた。
「ごきげんよう」
夕陽を浴びて、三つ編みにされた金髪が輝いた。
初日は僧服で通学したソフィアだったが、今はちゃんと制服を着用している。ただ、そこはやはりセリパス教徒ということもあって、髪を隠すというポーズはやめられない。今は短い円筒形の、焦げ茶色の帽子をかぶっている。
「あ、ソフィアちゃん、こんにちはー!」
「はい、リリアーナさんは今日もお元気そうですね」
俺を掴む二人の腕に力がこもる。ライバルが増えた、という認識なのだろう。実際、入学式以降に、彼女が待ち伏せしていたことは、過去二回ほどある。ただ、その時は、二人が俺の両脇にいたこともあり、挨拶程度で済んでいた。
「それで、今日は」
「はい」
ヒメノからの問いかけに、ソフィアはゆっくりと頷いた。
「率直に申し上げます。本日は、ファルス様をお借り出来ませんか」
「えー!」
しかし、リリアーナの中では、今のところ、ソフィアは撃退しやすい相手だ。
「いいの? そんなこと言っていいの? ソフィアちゃんさぁ、セリパス教徒でしょ? それも司祭さんでしょ」
「司祭位の資格は取得しました。ただ、まだ正式に叙任されたわけではありませんが」
「どっちにしたって、そんな女の人が男の人と二人きりになるなんて、ダメなんじゃないかなー」
「それを言われると困ってしまうのですが」
と、本当に眉を八の字にして、苦笑いした。
「ですが、このままお待ちしていても、お時間をいただける様子がないので、少し強引にお願いするしかなくなってしまいまして」
「強引って、どうするの? 両腕は埋まってるから……ファルスの足か、首でも掴んで引っ張るの?」
「いえいえ」
居住まいを正すと、彼女は改めて一礼して、俺と二人に言った。
「実は、公務です」
「はい?」
「私を通して、ファルス様にお伝えしないといけないことがありまして」
ヒメノが真顔で尋ねた。
「どういうことでしょうか」
「申し訳ございません。教皇ドーミル直々の命令で……本来は、そのことも伏せなくてはいけないのですが」
ということは、魔宮に関わる話だ。
「二人とも」
色恋沙汰で片付けられるものではない。
「これは真面目なお話だと思う。悪いけど、今日はこの辺で」
「えー」
「リリアーナさん、ファルスさんを困らせてはいけませんよ」
「悪いが、ヒジリには伝えておいて欲しい。ただ、内容によっては、いや多分、詳しい話はできそうにないが」
神聖教国としては、暴露されれば国家転覆まであり得るほどのスキャンダルなのだから。ただ、神仙の山もモーン・ナーの真実は把握していたし、そうなれば当然、ワノノマの上層部、特に姫巫女周辺は、その辺を承知していることだろう。核心を語らないことで、察してもらうくらいはできそうだ。
ソフィアは正門の外を指し示した。
「馬車を待たせてあります。お疲れのところ、申し訳ございませんが」
「いや、この件は仕方がない」
真面目な話とあっては、二人も痴話喧嘩を続けるわけにもいかず、拘束はスルリと外れた。
「なるべくお時間は取らせません。では、こちらへ」
馬車は黒塗りの高級そうなものだった。窓はあるが、そこにカーテンを掛けられるようになっている。座席は、前後の壁にそれぞれ据え付けられていた。先にと身振りで勧められたので大人しく乗って奥に寄って座ったのだが、この距離間で男女が同じ空間にいるのは、問題がありそうな気がした。だが、ソフィアは構わず乗り込んできて、扉を閉じた。
「カーテンを閉じてください」
言われるままにすると、小さな声で詠唱するのが聞こえた。すぐ青白い光が点された。それとほぼ同時に、馬車が静かに走り出した。
「唾の届く距離にいるのは、よろしくないかと思うのですが」
俺がそう言うと、ソフィアは微笑んだ。
「そうですね、でも」
閉じられたカーテンに目を向け、笑みを深くする。
「誰も見ていないのですから、そんなことはなかったのです」
悪戯めいた口調に、軽い驚きもおぼえつつ、どこか安堵させられる思いもあった。出会った当初の、あの生真面目で融通のきかない頃の彼女を思い出す。この様子だと、その後の暮らしはきっと、そんな息の詰まるようなものではなかったのだろう。
「あれから、どうなりました?」
俺がそう尋ねると、彼女はまた噴き出してしまった。
「どうしてそのような仰り方をするのでしょう」
「いや、だって、礼儀というものが」
「以前は、ご自身を貧農の子だから、と仰っていましたけど、今は貴族になったのではありませんか。それとも、貴族になったらなったで、ご自身の品位を保つために、言葉遣いを選ばなくてはいけなくなったのでしょうか?」
「と言われても」
俺は肩をすくめて、こう言うのが精いっぱいだった。
「もともと、粗暴な物言いは、得意じゃない」
「そうなんでしょうね」
笑いを収めた彼女に、俺は尋ねた。
「ここで言えることなら……結局、あれからどうなった」
「差し支えありませんよ。私の身柄は、教皇の預かりとなりました」
ということは、実家を出たのだ。
よかったのかもしれない。あのまま、システィン家に留まっていても、気まずくて我慢できるものではなかっただろうから。
「ですから、今はドーミル教皇の養女という立場です。アヴァディリクの寄宿舎学校で学んでいましたが、成績良好ということで、特に帝都への留学が許されました」
成績良好……
そこは嘘ではないのだろうが、もちろん、それだけが理由でもないはずだ。
「その、猊下はお元気なのか」
「はい、それはもう。老いてますます盛んというのは、あの方のためにある言葉なのかもしれません」
いいことだ。彼自身にとってもだが、神聖教国の人々にとっても。ここでまた、指導者が入れ替わったり、病気で実権を失ったりすることで、過去の惨状を繰り返すのでは、救いがない。
だが、俺が知りたいことは……
「他の、ファルス様のお知り合いの方々となりますと、そうですね……クララ・ラシヴィアは赦免を受けて、今は聖都の学院で教鞭を執っています」
「それはよかった」
「ミディア様は……枢機卿に留任しています」
「なんと」
クビになってもおかしくないはずなのに。とはいえ、これは生殺しの飼い殺しだろう。
「但し、役職はありません」
「そんなところだろうとは思っていたけど」
死に体の枢機卿が一人いた方が、変に立場を得て権力を振るうライバル候補を増やすよりマシだろうから。
「他にも、ファルス様のお知り合いの方々はいらっしゃるかと思いますが……それは後でも構いませんでしょうか?」
「ええ」
ヘルやカディムについては、説明が難しい。移動する馬車の中で聞き耳を立てるものがいるとも思えないが、そこは用心したいところだろう。
「今はどちらの寮に」
「寮には入っていません」
「えっ」
「神聖教国の……公館に準じた施設がありますので、そこにおります。これからファルス様をご案内するのも、そちらになります」
ということは、この馬車も国の職員……いや。
自然と自分の表情が引き締まるのを感じる。そんな俺を、ソフィアはニコニコしながら見つめている。まったく、ドーミルはどういう教育を施したのだろう? 確かに、政治の中枢に近いところで、しかも魔宮の秘密を守りながらとなれば、多少の狡猾さは身につけるものかもしれないが。
「私としては、それより他のことが気になるのですけれども」
「他、と言うと」
「五年程前にお会いした時には、あんなに真面目そうなファルス様が、どうしてああまで不埒なことをなさるのかと」
女を左右に侍らせて……って、違う。
「あ、あれは本意ではなくて」
「こういう時、セリパス教徒というのは、本当に不自由なものだと思い知らされます。モーン・ナーの定めは大層厳しいものですから」
「とりあえず……わかった。この五年間で、あなたは人をからかうやり方を覚えた」
この指摘に、ソフィアはまた笑い出した。
しばらくして、馬車が止まった。
「さぁ、着きましたよ」
降り立った先は、まさしくあの国に相応しい、殺風景な庭だった。庭の隅にいじけた常緑樹が立ち並んで外からの視界を遮っているほかは、真四角の建物や真っ平らに仕上げられた石の床があるばかりで、無機質そのものだった。
御者は何も言わず、馬車を裏庭の方へと引いていく。他に使用人の姿もない。そんな中、ソフィアは一人、夕陽の影を斜めに浴びながら、まっすぐ聖印の刻まれた玄関に向かって歩いた。
彼女が扉を開け、それに続いて薄暗い、ガランとしたエントランスに踏み込んだ。小さなガラス窓が高い位置にあるらしく、完全な闇ではないものの、これでは普通の人にとっては不便だろう。だが、ソフィアには光魔術の心得がある。彼女に限らず、司祭達の多くがこの魔術を得意とする。それに、セリパス教の施設というのは、常に防衛を念頭に置いて構築されるものだ。思うに、この広々としたエントランスは、表向きの交際のために、客人を迎え入れる場合に備えて作られているのだが、普段は今見た通りの様子なのだろう。
とすると、俺は客人として扱われていない? いや、もう半分、答えは出ている。この公館にいるのは、つまり……
「ソフィア」
「はい」
「こんなに暗くしているということは、ここに連れてきたのか」
俺がそう指摘すると、彼女はしばらく黙って微笑み、それから片手を挙げた。
暗がりから、二人の姿が見えた。
「まさか帝都までやってくるとは」
「ふん」
歩み寄ってきた男、ヘルは、相変わらずの格好だった。彼の場合、頭巾を外すとあからさまな顔立ちが見えてしまうので、他の何者かになりようがないのだ。
「秘密の塊だからな、ソフィアは。黙って野放しにできるわけもなかろう」
という事情もあるのだろうが、逆に信用できる護衛をつけたという理解もできる。
「まったく、お前はいつもそうだ。いちいち皮肉を言わねば気が済まんのか?」
もう一人が窘める。
「私はありがたいと思っておるよ。まさか、地底から出られるだけでなく、海の彼方の都まで目にする機会を与えてもらえるとは」
「カディムまで」
「久しいな、ファルス。見違えたぞ」
こうして俺は、五年ぶりに、あの魔宮にて生死を共にした仲間達と再会することになったのだ。
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