女の戦

「お疲れですか、旦那様」

「いやな夢を見た」


 休みの日の朝、二階の畳の部屋で、俺とヒジリは来客を待ちながら、座布団に座ってお茶を飲んでいた。障子は開け放たれている。寒さはないが、天気は少し良くない。薄曇りといったところで、雨が降りそうな感じはないのだが。


「差し支えなければ、どんなものでしたでしょうか」

「……身に覚えのない女達に取り囲まれて、責任を取れと追い回された」


 始業式の朝に、正門の前で注目を集めてしまった。時間にしてみれば多分、二、三分ほどの出来事だったのではないか。だが、あれで俺についての噂が学内に広まったらしい。きれいどころの女はすべて、ファルスという奴のお手付きになっているとか。そんなわけがあるか。


 ところで、それぞれ身分も立場もある女学生達に向けられた噂でもあるわけで、これについての彼女らの姿勢はということになるのだが、その真偽を問われるとみんなそれぞれ、火に油を注ぐような反応をしてしまっていた。

 リリアーナは、関係を問われると「ファルスのことは大好き!」と満面の笑みで言い放ったという。対照的にヒメノは、顔を赤らめて無言で俯いてしまったらしい。実際には一線を越えるようなことは一切していないのに、これでは誤解が広まるばかりだ。

 ソフィアはというと「帝都へは、ファルス様を追ってきたようなものです」と涼しい顔で答えたのだとか。リシュニアは、下々の噂など気にかける風もなく「ご想像にお任せします」と片付け、マリータに至っては悪乗りまでして「高嶺の花にも物怖じせずに手を伸ばす、その気概だけは買ってあげてもよろしくてよ」と高笑いしたそうだ。


 去年にも噂はあった。同級生が俺を指差し、目が合ったら妊娠させられるとか、何か失礼な陰口を叩いていたりもした。だが、いまやこれは一部の人の想像という段階を超えて、もはや全校で共有される定説、常識となりつつある。


「そういうことにならないよう、前もってカエデやヒメノをお側に置いているのですから、そこはお気をつけいただかなくてはですね」

「あり得ない」


 リンガ村以来、俺は性的な意味で女に触れたことはない。オルファスカとか、ウェイシェとか、怪しい状況になりかけたのはいたが、すべて拒否して逃げている。


「ええ、もちろん。旦那様が、実は生真面目な方だというのは、私はよく存じておりますので」

「ヒジリとしては、どうなんだ」

「と申しますと」

「自分の婚約者に、こんな汚い噂が付き纏うというのは、気分のいいものではないだろう」


 そう言われると、彼女はキョトンとした顔で、数秒間、考えた。それから悪戯心の垣間見える笑みを浮かべて答えた。


「要するに、私の勝ちということですね」

「どうしてそうなる」

「だって、そうではありませんか。大勢の女達が旦那様に懸想して、その周りを取り巻いているのです。けれども、その旦那様の婚約者はといえば、この私にほかなりません。外からどれだけ何を言われようと、その女達が私に敵うわけがないのです。私はただ、城壁を乗り越えようとして足下にとりつく雑兵どもを見下ろしていればいいのです。してみれば、初めからこれは、勝ち戦ではありませんか」


 思わず目元を覆った。そうだった。こいつは根本的に武人、勝ち負けで物事を理解する。こういう発想をする生き物だった。


「私としては、旦那様が節度を持って学園生活を送られる分には、何も問題とは致しませんよ。お好きなようにお過ごしください」


 しかも、どうせ俺が、女の色香に迷って道を踏み外すなんてできないと、生真面目なのか小心者なのかは置いておいて、その辺も見越している。だからヒジリとしては余裕たっぷりなのだろう。


 足音が近づいてきた。トエが縁側に膝をつき、報告した。


「旦那様、ヒジリ様、お客様がお見えです」

「どうしたのですか」


 ご苦労、ご案内してください、とは言わなかった。というのも、トエの表情が冴えないからだ。


「いらっしゃるのはお二人と聞いておりましたが、三人目の……女性の方もおいででして」


 俺とヒジリは顔を見合わせた。


「構いません。ご案内してください」


 二階の居室に移ると、俺とヒジリはそこで来客を待ち受けた。身内同士の集まりということもあって、座布団の席次などなく、丸く配置されている。そこに二人並んで座って待ち受ける。

 ほどなく、ウミが部屋の前で膝をつき、障子越しに言った。


「お客様をお連れしました」

「お通ししてください」


 そうして左右から障子が開かれる。俺達は立ち上がって迎えた。

 三人の中で一番前にいたのは、やはりジョイスだった。俺の顔を一瞥すると、その視線はすぐヒジリに向けられた。口元には不敵な笑み、その眼差しにはおよそ友好的なものが感じられない。どんな奴だか、見極めてやると言わんばかりだ。

 続いてやってきたのはエオだった。彼は、とにかく物珍しそうに俺とヒジリを眺めた。だが、問題なのは三人目だった。


 すぐ後ろにいたウミとファフィネが遠ざかっていくのを確かめてから、ジョイスは言った。


「捕まえてやったぜ、不審者を」


 そこにいた三人目、それは憮然とした表情で俺を睨みつけるシャルトゥノーマだった。


 障子を閉じて、それぞれが座布団の上に収まった。だが、誰も何も言いださない。ジョイスとシャルトゥノーマの間に挟まれたエオは、最初、ぼーっと俺とヒジリの顔を見つめていたのだが、ふと、この異様な雰囲気にやっと気がついて、急にキョロキョロし始めた。

 これはまずい。ここにいる中で、いわゆる一般人は彼しかいない。この場はエオに合わせた対応で済ませなくては。


「あ、あー、エオ、よく来てくれた」


 咳ばらいをしながら、自分でもわざとらしいと思いながらも、俺はそう切り出した。


「隣に座っているのが、婚約者のヒジリだ。ヒジリ、こちらはカークの街の町長の弟、エオ君だ」

「ようこそ我が家までお越しくださいました」


 茶番でもなんでも、この場は丸く収めてしまいたい。


 ヒジリには識別眼の神通力がある。だから、ジョイスに神通力が備わっていることも、そしてシャルトゥノーマが人間ではないことも、とっくにわかっているはずだ。一方、今の俺の婚約者がワノノマの姫君という状況は、シャルトゥノーマに耐えがたいほどの認知的不協和を齎しているに違いない。ルーの種族の敵同然、その親玉みたいな奴と、どうして仲良くしているのかと。

 どれもこれも予定が狂ったから、モゥハに俺を殺してもらったり封印してもらったりするはずが、逆に面倒を見てもらう破目になってしまったからなのだが……確かに、ピュリスにいるディエドラには理解してもらっているものの、アンギン村に送り返した彼女には、まだ何も説明していない。

 ジョイスの件だけでもややこしくなるかと思っていたのに、もうそれどころではなくなってしまった。


「えっと」


 エオは、だが、挨拶に挨拶を返すこともできなかった。


「す」

「す?」

「凄いですよ! ファルスさん!」

「えっ?」


 拳を握り締め、腰を浮かさんばかりにしているエオは、自分の中の思いに振り回されていた。


「どうしてこう、ファルスさんの周りには、描きたくなるような人がたくさんいるんですか? ノーラさんといい、この前の女学生の皆さんといい」

「ちょ、ちょっと」


 いきなり地雷原に向かって突き進むのはやめてほしい。ジョイスも苦笑いしている。


「エオ、挨拶も抜きにそりゃあねぇだろ」

「あっ、す、済みません」

「いえいえ」


 ヒジリは余所行きの顔で笑って許した。


「褒められれば誰でも悪い気はしないものですけれども。作法も何もかなぐり捨ててとなりますと、これはつまり、本心からの言葉に相違ないのでしょう。気恥ずかしくはありますが、私としても嬉しくないなどということはありません」


 ジョイスは、やり取りをじっと見つめながら、言葉を探しているようだった。


「姫様、ちょっとよろしいですか」

「まぁ、旦那様のご友人なら、細かな作法など気になさらなくてもいいのです」

「じゃあ、遠慮なく」


 彼の表情には、どことなく緊張の色が見える。それはそうだろう。ヒジリの心がほとんど見えないから。他の手がかりはなくとも、これだけでも相手が強者である可能性を考える。それにジョイスは素人ではない。座っていてもきれいに背筋の立っている彼女が、何の心得もない相手に見えているわけがない。


「俺は、ファルスが南方大陸を旅してる最中、ずっと一緒だったんだ。聞いてるかい?」

「少しだけ存じ上げております。旦那様はキトから旅を始められて、カリ、ついで東に向かってキニェシ、関門城と大陸の中央を通り抜けたとのことで」

「その旅に俺もついていったんだ。そこの……メニエもそうだ」

「それはそれは、お世話になりました」


 シャルトゥノーマは何も言わない。この場のやり取りは、当面、ジョイスに任せるつもりらしい。


「魔物が出る大森林のど真ん中だ。命懸けだった。それに、ポロルカ王国についてからも、パッシャの連中と鉢合わせて、そりゃあ大変だった」

「はい。そちらは詳しく聞いております。皆様、魔王の手下を相手に勇ましく戦ってくださったとのこと」

「それでよ」


 ジョイスが軽く腰を浮かせた。いや、これは臨戦態勢だ。何かあったら、すぐ飛び退けるように。


「俺は修行だから望むところだったんだがな、そんな旅に、必死に食らいついていった奴がいたんだよ。ノーラっつうんだが」

「えぇ、ヌニュメ島でお会いしましたから、もちろん存じ上げておりますよ」


 ジョイスの姿勢の変化に気付きながら、ヒジリはますます笑みを深くする。武人特有の獰猛さのようなものが滲み出ているような気がした。


「だったらもう、わかるよな。あんた……どんな手を使って、そこにいるんだよ」

「ジョイス」

「うるせぇ」


 あんまりな言い方に俺が窘めるも、彼はこちらを振り向きもしなかった。


「付き合い長ぇからな。わかるんだよ。まぁ、最初は貴族の身分とか女とか、ちょっとそういうもんに目がくらんだのかと思わなくもなかったけどな。違ぇんだよ。ファルスを言いなりにするには、そういうモンで釣るより、ずっと簡単なやり方がある」


 なるほど。最初はノーラをないがしろにした俺に怒りが向いていた。だが、その原因が俺ではないらしいことに、ジョイスは気付いてしまった。ヒメノの心をうっかり読み取ってしまったから、俺が彼女に指一本触れまいとしていることもわかっている。

 俺が欲望で動いているのでないと、以前のままのスタンスであると理解した以上、行動の変容は、何か別の、外部からの圧力と考えるのが自然だ。


「どんな手も何も」


 ヒジリはとっくに開き直っているらしい。


「私がヌニュメ島にいらしたファルス様を見初めてしまったので、姫巫女のウナにお願いして、父であるオオキミに口添えしてもらって、降嫁するようにと取り決めていただいたのです」


 言葉は丁寧だが、態度はそうでない。いつになく好戦的に見える。


「身分を笠に着て思いを遂げようとするのは、姑息なやり方とお思いですか? ジョイス様、でも、それも戦い方というものです」

「上っ面の話はいい。あんたの目的はなんだ」

「あなたが目的だと仰っていることが、きっと上っ面なのですよ。どんなに蹴落とされようとも、いったんここに腰を落ち着けたからには、決してお譲りするつもりはありませんので」


 ジョイスは口元だけで笑いつつ、彼女を睨みつけた。


「そうかよ」

「ええ。これは女の戦というものです。殿方が横合いから何を仰ろうとも、変えられるものではございません」


 もちろん、こんな言い分を素直に受け入れるわけもない。ヒジリの説明を、彼も真に受けてなどいないだろう。


「まぁいい……あー、ファルス、フェイって覚えてるか。チー・フェイ」

「あ、ああ」

「あいつもこっち来てるんだが、どうする? この後、時間があるなら、あいつの顔も見ていかねぇか」


 ヒジリもまた、ジョイス達を納得させられるとは思っていなかった。彼女は俺に向かって頷いた。


「旧交を温めるのも大切なことでしょう。旦那様、私に気遣いなどなさらず、ご友人の皆様と自由にお過ごしください」


 そう言っておいてから、彼女は改めて、この場の唯一の一般人、エオに向き直って言った。


「旦那様のご友人なら、いつでも歓迎致します。ここを我が家と思って、お気軽にお立ち寄りくださいませ」

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