性豪伝説、始動
通用口から外に踏み出すと、冬の終わりのカラッとした冷たい風が吹きつけてきた。けれども空は青々として、日差しに温もりを感じられる。本格的な春の訪れまで、あと少し。これからの日々を祝福するかのような快晴に、期待感のようなものが胸に満ちてくる。
通りの途切れる北の端まで歩くと、やっぱりそこにはヒメノが待っていた。俺の姿を認めると、手を振ってくれた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
いつものように並んで歩く。
「今日から二年目ですね」
「あっという間の一年だった気がする」
「私もです」
改めて、俺と彼女も奇妙な関係性だと思う。婚約者公認彼女って、なんなんだろうと。でも、こんな風に思ってはいけないのかもしれないが、これが案外心地よい。というのも、ヒメノはよく弁えていて、決して出過ぎた真似をしない。感情的に喚き散らしたりもしないし、色気を前面に押し出して迫ってきたりもしない。一言で片づけると、品がいい。
「でも、今年はのんびりできませんからね」
「何かする予定でも?」
「千年祭ですよ」
「みんなその話をするよね」
ヒジリの介入という要素を頭の隅に追いやって考えるなら、これはお見合いからの交際と変わらない。帝都の推奨する自由恋愛とは正反対だ。この街の男女は、出会い、愛し合って、その頂点で結婚をしようと考える。逆に俺とヒメノはといえば、お互い、そこまで感情的な結びつきがないところから、ゴールとしての結婚、ないしそれに相当する何かを意識して、日々の行動を共にしている。
恐らく、帝都の人々にあって俺達にないのは、相手への過剰な期待だ。距離のある関係だからこそ、相手への非礼を避けようとする。眼を閉じて抱きしめて、相手に満たしてもらおうとするのでなく……ちゃんと相手を見て、どうするかを考えることができる。その冷静さは決してロマンティックとはいえないが、必ずしも心の通わない冷たいものだとは思わない。
「千年祭には、いろんな競技や大会、展覧会が予定されているんですよ。世界中の衣類を集めた展示会もあるんです。だから、できたら私もそこに自分の品を、と」
「なるほどね」
「ファルスさんだって、他人事ではないと思いますよ。料理大会だってあるんですから」
それは見過ごせない。コーヒーか醤油か、どちらか一方でも、ここで宣伝できれば。となれば、出場も視野に入れるべきかもしれない。
「楽しみな一年になりそうですね」
「うん」
俺は頷いて言った。
「今日からもう、こんなにいい天気だし、きっと何かいいことがある気がする」
とはいえ、この心地よさに浸っていていいものか。そこを考えると、いつも決着がつかない。領地の、あのティンティナブラム城の冷たい石の部屋で、今朝もノーラは一人で……いや、子猫と起居している。そして俺を待ち続けているのだ。といって、これでお付き合いはやめにしましょう、なんて言い出したら、どんな顔をされるだろう?
大通りを西から東に歩く俺達を、馬車が追い越していった。それがすぐ目の前の停車駅で止まると、中から人が下りてくる。その中に見知った顔があった。
「おっ」
「おはよう」
鞄を肩に載せたラーダイが、俺達に気付いて片手を挙げた。
「今日も夫婦で通学か」
「ま、まだ夫婦じゃありません」
「確かにな。姫様方もこいつに首ったけなんだし、油断してたら盗られちまう」
リシュニアはともかく、マリータについては、根拠のないお話でもない。が、実際に何かやましいことがあるかといえばないので、ここは黙って済ませるべきでもない。
「そんなことにはならないよ」
「ふーん、まぁ、さすがのお前も、これ以上、女を増やすのはきつそうだしな」
「これ以上ってなんだ、これ以上って」
「だってよ」
俺達と並んで歩きながら、ラーダイは俺の肩を小突いた。
「まず、お前が居候してる公館のヒジリ様だろ? そこのヒメノさんもそうだし、あとはリシュニア王女と、マリータ王女と、それにウィーもお前の女だし、もうお腹いっぱいじゃねぇの」
「あのなぁ」
とはいえ、部分的には言う通りでもある。そんなつもりはなかったのだが、いつの間にか複数の女性と曖昧な関係になりつつあるのは事実だから。とはいえ、だ。
「それを本人の前で言うか? 僕をからかうのはいいけど」
「おぉ、悪い悪い」
「いえ」
ところが、ヒメノの立ち直りは早かった。とっくに涼しい顔をしている。
「確かに、私がしっかりしないといけませんね。ファルスさんに悪い虫がつかないように」
「それなんだが、だったら重要情報を教えるぜ」
何のことだろう? 俺も心当たりがなく、ヒメノもまたそうだったらしい。二人してラーダイの方に振り向いた。
「要注意人物が二人、今年から入学してくるって専らの噂でな」
「そんな物騒な奴がいるってこと?」
「ま、単に美人さんってだけだが」
なんだ、と肩の力が抜ける。
「僕から口説きにいくつもりはないから、要注意も何もないよ」
「そうしてくれよ。でないと、学園中の女がみんな、お前一人に独占されちまう」
そう言いながら、ラーダイは歩調を速めた。
「おい」
「まぁ、今朝はその美人さんを見てやろうと思ってな。だから、ちょっと急ぐんだ。また後でな!」
「あ、ああ」
ラーダイが先に行ってしまうと、俺達は無言になった。せっかくいい雰囲気だったのに、微妙な空気になってしまったのだ。
「あれ」
大通りから左に折れて、学園の前の細い通りに入ると、混雑している様子が見えてきた。
「やっぱり入学式もあって、混み合うものなんでしょうか」
「ああ、そういえば」
初日の帰路には、サロンへのお誘いもあったりした。この混み合う状況だったからこそ、俺も体をぶつけたラーダイに喧嘩を売られたんだった。ここに入学してくる人の中には、前もって先輩に挨拶したい人もいるだろうし、そうなると、人を待つ人でごった返すのにも不思議はない。
「さっさと通り抜けた方がいいかも」
「そうですね」
ところが、正門のすぐ前まで来た時、横合いから声をかけられた。
「ファルスさん!」
振り返ると、俺より一回り背の低い、まだ顔にあどけなさの残る若者が立っていた。か細い体に、ハンファン人らしい黒髪。制服の背中には、公式の鞄とは別のリュックを背負っている。
「エオです! お元気でしたか!」
カークの街の……記憶が甦ってくる。
「お久しぶり! そうか、今年入学だったか」
「はい」
「ここへは」
そこまで言いかけて、すぐ見つけることができた。一人で来たとは思われなかったから。
「よう」
エオを見守るように、少し離れたところに立っていた。金色の髪に赤い眼、灰色のカンフースーツと、この場所でも目立つ格好をしていた。俺が気付いたとわかると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「ジョイスか。久しぶり。ここまでエオの面倒を見てくれたんだな」
「まぁな」
だが、どういうわけか、表情がすぐれない。声色も低い。
「どうしたんだ」
「あぁ?」
「体調が悪いのでもなさそうだし……気がかりなことでもあるのか」
「んー……」
彼がまともに答えないでいると、俺のすぐ後ろに立っていたヒメノが前に出て、エオとジョイスに頭を下げた。
「はじめまして」
「なぁ、こりゃどうなってんだ」
だが、ジョイスはそれには目もくれなかった。責めるような口調に、内心、警鐘が鳴り響いた。ジョイスは視線をヒメノに移し、尋ねた。
「あんたが、ワノノマの姫様の、ヒジリって人か」
「えっ? いいえ、私はヒメノと申しますが」
「あぁ?」
ジョイスは、再び俺に視線を向けた。
「どういうこったよ」
「どういうって」
「お前、あっちこっちで女、誑かしてやがんのか」
そういう理解になる、か。どうしよう。誤解を解かないと……
「見損なったぜ。ノーラのことはどうなったんだよ」
「あ、う」
「一度、ワノノマの公館つったか、そこにお前がいるって聞いて、目の前まで行ったんだがよ。けっ、マジで腐ってやがったとは」
では、不審者はジョイスか? エオも、別に今日、ここに来たわけじゃない。試験だって一応あったから、ジョイスと一緒に帝都に来たのなら、少し前からこの辺にいたはずだ。
辻褄は合う。ジョイスには幻覚を見せる神通力があるから、不審者の姿を女に見せかけることもできる。
「じゃあ、どうして訪ねてこなかったんだ。嗅ぎまわるような真似をして」
「あ?」
「逃げ隠れする必要なんかないのに」
「なに言ってんだお前」
「ちょ、ちょっと、済みません!」
険悪になりかけた俺達の間に、ヒメノが強引に割って入った。
「あの! 喧嘩は」
「しねぇよ。ぶん殴ってなんとかなるような奴か、こいつが」
「そういうことではなくて」
「うぉっ」
ヒメノの手が、ジョイスの毛むくじゃらの手の甲に触れた。その瞬間、彼は驚愕に目を見開いて、慌てて後ずさった。触れられたせいで、意図せず彼女の意識の一部を読み取ってしまったのだろう。
「……んじゃ、あとでお前のいる、あの公館に行けばいいんだな」
「ああ」
「わかった。今日はこんなだしよ。忙しいだろ。あとで話は聞くだけ聞いてやる」
そのままでは感じが悪すぎると思ったのだろう。ヒメノの方に振り返ると、ジョイスは笑顔を作った。
「悪かったな」
「いいえ」
「心配しなくても、こいつとは長い付き合いだ。ま、何がどう転んでも、あんたが悪いってこたぁないさ。邪魔したな」
それからエオの方に向き直ると、ジョイスは言った。
「俺は学生じゃねぇし、中には入れねぇから、ファルス、面倒見てやってくれ」
「ああ」
「じゃあな」
それでジョイスは背を向け、片手を挙げて雑踏の向こうに消えていった。
「あのう」
一人、取り残されたエオが高い声で尋ねた。
「ファルスさん、そんなにいろんな女の人に手を……」
「そんなことはないんですよ!」
ヒメノが慌てて否定した。上擦った声で。
「ファルスさんはとても真面目な方で、そういうことは一切ありませんから!」
「そうですか」
「とりあえず、ここは混雑しているし、門の内側に入ってしまおう。入学式に間に合わなくなる」
それで三人で纏まって人混みを掻き分けながら、正門をなんとか通り抜けた。だが、門の内側も、変わらず混雑していた。すぐ右手にはエスタ=フォレスティア王国の関係者が、左手にはシモール=フォレスティア王国の学生達がいるのが、視界の隅に入った。
「これはひどいな」
「とりあえず、エオさんだけでも」
その時、何かが右肩にぶつかってくるのを感じた。
「えっ!?」
すぐ横で、ヒメノが戸惑いの声をあげる。
「わーい! ファルス、おっはよー!」
聞き覚えのある声。縮れのある金髪が、俺の目の前でふわりと揺れる。
「お、お嬢様」
「これから一緒に学校に通えるね! なんだか昔みたいだなぁ!」
急襲を浴びせてきたのは、リリアーナだった。しかし、声が大きい。これはわざと、周囲に聞こえるように喋っている?
混乱から立ち直ると、俺は慌てて反対側にいるヒメノに言った。
「こ、このお嬢様は、エンバイオ家の……昔の主人の」
そうしないと、力ずくで排除しかねない。でも、今回、それはいろいろと好ましくない。それより、こういう時には頼れるナギアがいてくれるはず……
「お知り合い、ですか」
「あ、ああ」
「ファルスのお友達の方? 私、リリアーナっていうの! よろしくね!」
これは一体、どういうつもり……
そこでハッと気付く。俺達の周りだけ、人混みから浮いている。周囲にいる人達が遠巻きにして、この騒ぎを見物し始めているのだ。いや、まさか。
「うわっ、早速一人目陥落かよ」
少し離れた場所から、ラーダイがそう呟きながら舌打ちしているのが見えた。要するに、この混雑する中には、評判のかわいい新入生二人を一目見ようとこの辺に留まっていた連中もいたらしい。そのうちの一人がリリアーナで、それがいきなり俺に飛びついているものだから、注目されてしまったのだ。
「お嬢様、ちょっと」
「誰探してるの? ナギアはここにはいないよー?」
「えぇっ」
「学園に入るお金なんか、ランが用立ててくれるわけないじゃん。そういうお供のための別の学校が、ちゃんとあるんだよ」
ということは、助けは来ない。
いや、ヒメノは俺を助けようとしている。ただ、見当違いなやり方なのが問題だ。反対側の俺の左肩をしっかり掴むと、俺を持っていかせまいとその場に踏みとどまった。
「そうですか! 私はヒメノと申します! 宜しくお願い致します!」
違う、そうじゃない。今は人混みに囲まれてしまっているから、とにかくここを脱しないと……
「どうなさったのですか?」
今度は右斜め前方から。すらりとした立ち姿の女性が、右手を差し出してきた。そして、柔らかく微笑みかける。
「ファルス様、こんなところで騒ぎを起こすと、通行の妨げになりますよ」
「はい」
リシュニアは、穏やかな笑みを崩さず、そのまま俺の右手を取った。
「とりあえずこちらへ」
なんか離れたところでラーダイが頭を抱えている。初日から三人も侍らせてとかなんとか言いながら。でも、俺だってこんなの、望んでいるわけじゃない。とにかく人目につかないところに逃れたい。
だが、その時、左側の集団から、周囲の手を振り払って突出してくるマリータの姿が見えた。今日も念入りに巻きに巻いた縦ロールが目立っている。
「ごきげんよう」
「お、おはようございます」
「それで、これは何の催しかしら」
決してイベントなどではない。ただ、人混みの向こうではラーダイが実況を続けている。学園の美女を独り占めするファルス、さぁ次はどうするのか、とかなんとか。それに聞き入っている連中も何人かいる。
「催しではないです。このままだと迷惑になるので……えっ?」
ざっと何が起きているかを一瞥して悟ったマリータは、黙って俺の左手を掴んだ。
「あ、あの?」
「なんでしょう?」
「どうしてそこで、僕の左手を掴むんですか」
すると、彼女は残った右手を口元に当てて、高らかに笑った。
「面白そうだからですわ!」
なんか、おかしなことになっている。いや、そうではない。
要するにこれは、ふざけているフリをした、何か意地の張り合い……
「むー」
リリアーナが本格的に俺の右肩をロックし、後ろに引きずり込もうとしている。だが右手はリシュニアに掴まれ、前方に引き寄せられている。左肩はヒメノに抑えられているが、左手は結構強い力でマリータに引っ張られている。
俺、綱引き大会に使うロープじゃないんだけど。これはどういう状況だ?
前世の昔話を思い出す。裁きの場で、子供の母親が誰なのかを巡って、二人の女が言い争いをする。それで偉い人が、本当に我が子だと思うなら、決して手を放さず自分の方に引っ張るがよい、我が子なら手放すまいと煽り立てる。それで二人の女は幼い我が子を左右に引っ張るが、子はその痛みに泣き出してしまう。それでつい、我が子の泣き声に心を苛まれた本当の母親は、うっかり手を放してしまう。これ、誰のエピソードだったっけ? 大岡越前? ソロモン王? っていうか世界のあちこちの民話が似通ってくる現象って、なんかそれを説明する概念とか用語があったような。なんて言うんだったっけ?
現実逃避している間にも、俺の体は四つの異なる方向に引っ張られ続けている。女達はみんな、その綺麗な顔で作り笑いしている。怖い。助けて欲しい。助け……
ハッと気付いて、俺は首だけで後ろに振り返った。
「エオ! 助けて……」
「え? なんですか?」
遠巻きに見ている人々のせいで人垣ができていた。そうして生じた空間に、エオはとっくにイーゼルを立て、この状況をデッサンし始めていた。
「なんで描いてるんだ!」
「理由が必要ですか?」
そうだった。そういう奴だった。
助けは来ないのか。いったいどうすれば。そろそろ本気で焦りだした時、背後からまた、小さな騒ぎが聞こえてきた。なんとか首を回して、そちらを見やると、この学園には似つかわしくない服装をした女が一人、立っていた。
「まぁ」
その女も、あからさまにこちらに注目していた。いや、それは無理もない。正門の真ん前で四人の女に取り押さえられている男だ。無視する方がおかしい。
だが、彼女は彼女で、相当に注目される格好をしていた。なぜなら、身につけているのが真っ白な僧服だったからだ。帽子をかぶり、その金髪を三つ編みにしている。自由恋愛の都たるこの街で、性的な潔癖さを示すセリパス教の聖職者の外見を選ぶというのは、それなりにインパクトがある。
「こんなところで、こんな風にお会いすることになるとは思いませんでしたが」
そして、俺は彼女のことを知っている。彼女もまた、俺を覚えていたらしい。
「ファルス様、いつか申し上げた通り、またお目にかかることができましたね」
世界の西の果てから、この帝都まで。ソフィアはこの若さで、留学の権利を勝ち得たのだ。
もう何年ぶりだろうか。あの頃は少女でしかなかった彼女が、今では立派な大人になっている。それでも、以前と変わらず……いや、以前にもまして、その佇まいには、折り目正しさと清らかさを感じさせるものがあった。
だが、感動の再会、というわけにもいかなかった。ラーダイは今度こそ悶絶しながら「二人目までファルスのものだった」とか向こうで絶叫している。加速度的に注目が集まってきて止まらない。
もはや自力で収拾できない状況を救ってくれたのは、前方から駆けつけてきてくれたフシャーナだった。
「なにやってるの!」
彼女はざっと辺りを見回すと、ずかずかと踏み込んできて、真正面から俺の髪を掴んだ。それこそ畑の大根でも抜くように、そのまま力を込めて俺を引っ張った。
「い、いたた!」
すると、俺を拘束していた四人の女の手が、するりと抜けた。
「迷惑だから! 騒ぎを起こさないでちょうだい!」
「僕、何もやってない……」
ともあれ、俺はそのまま校舎の方まで引っ張り込まれ、おかげでこの場はなんとか逃げ切ることができた。
ただ、この日以降、俺は何かと噂される身の上になってしまったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます