第四十八章 花々弥々集う

二年目、はじまる

 灰色のずっしりとした曇りがちの空が、斑に早朝の朝焼けの色に染められていた。この時間にもかかわらず、歯車橋の脇にある内港は、雑踏そのものの状態だった。休みなく船が岸壁に寄せてきては、次々と対岸の労働者達を吐きだしている。時折、少し離れた場所から、興奮した犬が吠えるのが聞こえてきた。昨年末にはなかったことだから、つまりはここの新顔なのだろう。

 北に向かう乗合馬車を利用するウィーを見送ると、俺達三人はより東側の、川べりの方へと歩きだしていった。混雑する陸上より、船で公館に戻った方が早い。そして、ここらでいいだろうと足を止めると、揃って溜息を吐きだした。


「どうした?」


 俺の左右を固める二人に、問い質した。


「まだ傷が痛むのか」

「そうではござらぬ」


 憂鬱そうに首を振りながら、タオフィはまた溜息をついた。


「それより、拙者もマツツァも、不覚を取ったも同然ですからな。姫に叱責されるのは、避けられまいと」

「ああ」


 年末の、あのコカトリス討伐の戦いのことだ。ろくに視界がない中で、二人は刀で奴の鉤爪を受け止めた。ちゃんと後ろを守るべく踏みとどまったのだから、別に恥ずかしく思うような失態ではないのだが、その後のこちらからの反撃には間に合わず、それもあって、その後の俺の醜態にも繋がってしまった。


「それを言ったら、立場がないのは僕なんだが」

「婿殿は別に構わんのです」


 マツツァが言った。


「むしろ、一人、婿殿が突出するような状況を作ってしまった。いや、先陣切って突っ込むのは構いませんが、わしらが後追いもできない状態でとなると……続いたのがジュサ殿一人だったとなれば、それはもう、何をしていたのかと言われるのは確実かと」

「それに、デュコン殿も守れなかった故に」


 言われてみれば、そこはそうだった。光源を狙うこと自体は事前に伝えてあった。なのに光魔法による照明が掻き消されてから、状況に即応することができていなかった。幅の限られる通路、密集した俺達。ウィーの第一射の後、二人が硬直していなければ……具体的には、前に出て、コカトリスの突進を阻むべく、刀を前方に突き出しつつ、他の人間が動けるスペースを作っておけば、ああはならなかった。すぐ目の前まで肉薄されてしまったから、デュコンは嘴の一撃を受けてしまったのだし。


「なら、何も言わずに……も無理か」

「左様です」


 なぜなら、予定変更したビルムラールが、帝都に引き返したからだ。当然、そのことはヒジリの耳にも届いているはずで。


「まぁ、追い出されはせぬでしょうから」

「不覚は不覚ゆえ、やむを得ませんな」


 それから、また三人揃って溜息をついた。ちょうどその時、客を乗せようと一艘の小舟が、すぐ目の前に滑り込んできた。


「待ち侘びておりました」


 ラギ川沿いの西の入口から公館に戻ると、まったく一年前と同じように、屋敷の使用人達が勢揃いしていた。その真ん中で、青い打掛を纏ったヒジリが身を折った。


「思えば昨年は、夢のような日々でございました。願わくば、この一年もまた旦那様と共にできますように」


 なんてことのない挨拶なのだが、どうもその口調に引っかかりを覚えた。一年もの間、彼女の傍で過ごしてきたからこそ、察するところがある。脇に立つポトの表情がすぐれない。どうやら、俺達が不在にしている間に、別の問題が起きていたように思われる。


「変わりはなかったか」

「いくつかお知らせしたいことがございますが、まずはお部屋でお休みいただければと」


 つまり、纏めて報告すべきことが、いくつかあるとのことなのだろう。


「わかった。あとで部屋まで誰かを寄越して欲しい」


 俺は特に逆らわず、離れの自室に向かった。すると、なんとも手際のいいこと、テーブルの上には小さめのドームカバーが置かれていて、中には小皿、そこに握り飯が二つ。それと湯呑みに蓋がされている。浴室の風呂桶も、湯で満たされていた。ミアゴアの早業と、ファフィネ達の突貫作業の結果だろう。

 俺が何を欲するかを、ヒジリはこの一年でよく学習している。ティンティナブリアでは白米など食べる機会はないし、船旅とあってはしばらく入浴もできなかった。富貴など求めない俺だが、同時に快適を知り、これを好む人間でもある。

 どうするか迷ったが、まずは握り飯が完全に冷めてしまう前に、こちらを平らげることにした。お茶を飲んで一服してから、時間をおかずにすぐ歯磨きし、それから入浴を楽しんだ。帝都とはいえ、冬の冷たい空気ゆえに、温もりがじわじわと肌に沁みこむのがたまらない。

 乾いた服に着替え、満足してベッドの上で大の字になっていると、ちょうどいい頃合いに、部屋の扉がノックされるのが聞こえた。


「お疲れのところ、申し訳ございません」

「いや」


 二階の居室に、向かい合って座った。外からウミが障子を閉じると、そのまま遠ざかっていく足音が聞こえた。


「まずは魔物退治をなさったとのこと、お疲れ様でした」

「あ、うん……」


 思い出したくもない。いや、正直に言ってしまおう。


「どこまで聞いている?」

「ビルムラール様が、ご自分でここまでいらっしゃいましたよ。それで、どんな様子だったかを事細かに報告してくださいました」


 ああ、目に浮かぶ。彼は知識人でもあり、頭が悪いのでもないのだが、こう、世間の人の知恵というか、ある種の狡猾さがごっそりと抜け落ちることがある。


「あれは僕の判断がまずかった。それでも運よく魔物を討つことができたけど、何も自慢できるところはない」

「左様でしょうか」

「どこまで話が伝わっているかわからないけど」

「そうですね」


 ヒジリは頷いた。


「旦那様が危ないところだったとか」

「あ、ああ」

「ですが、その危機……周囲の者どもがいなければ、そもそも避けられたのではないかという気が致します」


 実のところ、その通りではある。恐らくだが、俺にはあのコカトリスの嘴は、ほとんど効き目がないはずだ。バジリスクの呪いも俺には通用しなかった。普通の魔物の普通の魔法であれば、世界の欠片に頼れば、力技で跳ね除けることができただろう。そして、少々の負傷も俺を倒す決定打にならない以上、一対一ならほとんど負けは考えられなかった。それもピアシング・ハンドを敢えて使わなければという条件付きの話なのだから。


「もし、ということを考えても仕方がない。みんなと行くことを決めたのは、僕自身でもある」

「そうですね」


 彼女の目に、一瞬、冷たい光が宿った。それは小さな苛立ちだった。


「念のために言っておくけど……ビルムラールさんは、学者で魔術師だけど、戦士じゃない」

「承知しております」


 そうなのだ。一連のミスの起点は、実は彼にある。魔物をおびき寄せて、前後から挟み撃ちにする作戦。これを無にしたのは、ビルムラールだ。治癒魔術の触媒となる花を見つけてしまった驚きがそうさせたのだが、戦士の視点でいえば、そんなものは後回しにするべきだった。あれがなければ、閉所に密集する失敗は避けられた。俺とジュサが『人払い』の魔法でコカトリスをやり過ごし、後ろから襲いかかることができたのだ。


「マツツァとタオフィにも、手傷を負わせることになった。済まなかった」

「旦那様」


 強い口調で、今度こそヒジリは非難がましく言った。


「順序が違いませんか」

「と、いうと」

「旦那様は、まず何より、自重なさらなかったことを反省すべきです」

「あ、はい」


 それも道理ではある。マツツァやタオフィは、借り物の郎党とはいえ、家来でしかない。そして主人には、家来を犠牲にしてでも生き延びる責任がある。今は仮にも一地方の領主であり、俺という個人に結び付けられている利権は決して小さくない。

 そのことに思いを馳せていると、ヒジリはまったく別のことを口にした。


「まったく……私を寡婦にしてしまうおつもりだったのですか」

「えっ? そこ?」


 俺の反応に、ヒジリも目を丸くした。

 いや、まぁ、俺が死んだら、それはそれで困るのか。モーン・ナーの呪詛と、それに紐づけられた魂の行方がわからなくなるから。そういう意味なら、理解はできる。


「婚約者の身で気にすることと言ったら、まずそこではないですか」

「いや、まるで普通の女の人みたいなことを」

「まるでも何も、私は女人ですが」

「は、はい、そうですね」

「あの、旦那様?」


 怪訝そうな顔をしていた彼女だが、すぐ切り替えたらしい。顔を伏せて言った。


「例の花の件については、フシャーナ様から連絡がありました」

「さすがにビルムラールさんも、それは言わなかったか」

「ええ。別のものを……精巧な動物の石像を見つけたから、旦那様を呼びつけたのだと、こちらにいらした時には、そう仰っておいででした」


 とすると、最初に報告を受けた時点のヒジリの怒りは、もっとずっと大きなものだったに違いない。

 それにしても、この問題をどうするかについては、正直、俺の手に余るところだった。立場からすれば、まずファンディ侯、ついで陛下に報告するべきところなのだが、それをするとフゥニ男爵領はメチャクチャにされてしまうだろう。といって、希少な治癒魔術の触媒を好きにさせるわけにもいかない。


「フシャーナ様からも、そのうちお話があるかと思いますが、既に旦那様とは入れ違いで、雇われの冒険者の一隊が、エキセー地方に向けて発ったはずです」

「そういう形にするのか」

「さすがは旦那様、もう察してくださいましたか」


 第一発見者が俺ではまずい。ビルムラールでも微妙だ。なぜなら、それぞれ六大国の王に仕える身分だからだ。しかし、帝都の学園の研究機関が派遣した冒険者が、治癒魔術の花を見つけたとすれば、話は違ってくる。帝都はその花と、栽培施設を買い取り、管理する。幾許かの金はデュコン、ファンディ侯、それに王に流れるが、触媒そのものの権利は学園が握ることになる。

 辻褄合わせはできる。ファルスとビルムラールは珍しいコカトリスを討伐しただけで満足してしまい、間抜けにも引き返してしまった。だが、その報告を受けた学園関係者が、仮説を立てて、別途冒険者を送り込んだ。そういうことにしてしまおう、というわけだ。


「それで、次のお話なのですが」

「うん」

「近頃、この公館の周りに不審者が現れるようになったようです」


 それでポトはあんな顔をしていたのだろう。つまり、取り逃がしたのだ。


「何をされた?」

「今のところ、目に見える被害はありません。ただ、屋敷の中を窺おうとしているようだったとのことで」

「手がかりは」

「今のところは、ほとんど何も。トエは若い女だと言っていましたが、タウラは中年女性だと」

「複数の人間が動いている可能性も」

「もちろんです。が、ポトに任せたところ」


 溜息一つ。


「これは、気をつけて過ごすしかなさそうだ」

「申し訳ございません」

「いや、心当たりもないし、相手もわからないのだから、仕方がない」


 間をおいて、ヒジリは表情を明るいものに切り替えた。


「よい知らせもございます」

「なんだ」

「ミアゴアが、旦那様のご指示で作っているもの……これも、学園の方に融通してもらった、その……実験用のネズミに飲食させたところ、特に害があるようなこともなく」

「毒性なし、か」


 予感はあった。

 あれだけ頑張っても種麹ができる気配がなかったから、帝都であっても、もう醤油の醸造は不可能ではないかと思っていたのだ。なのに迷宮攻略の際、謎の紙片が落ちてきて、それから急に、種麹らしきものができた。

 とすると、女神の介入でもあったのではないか、と考えるしかない。とはいえ、そう決めつけてしまうわけにもいかなかったので、安全性を確認するべきだと考えた。だが、やはりというか、今のところ、問題は起きていない。


「あれが一応、出来上がるのに、早くてあと半年ほどはかかる。それで使い物になるようなら、いつかティンティナブリアの名産品にしたい」

「その、旦那様、あれはそんなにおいしいものなのでしょうか」

「あくまで調味料だから、それ自体で味がよいとされるものではないが、香りなら、南方大陸で見かけるような魚醤などよりずっと上品なものになる。焼き魚の味わいも、また違ってくる。この世界には既に美味といえるだけのものはいくらでもあるが、その中の選択肢としたい」


 俺としては自然な考えを述べたのだが、彼女にとって親しみのある分野の話でもなく、理解が追いつかないのか、一瞬、無言になった。


「私にはよくわからないことではありますが、では、あれがうまくできたら、領民を富ませることがおできになると」

「そう考えている」

「私にできることがあれば、なんなりとお申し付けください。それと、最後に」


 ヒジリは、懐から一通の手紙を差し出した。


『前略


 貴ばれるべき方の下僕が、荘園と別宅の番人が、その主人の裾をとって拝礼致します。

 私は既に、この地の豊穣の上澄みを毎年のように、貴方の住まいへとお届けして参りました。

 けれども、ここにまた一つ、付け加えるべき収穫があることをお伝えしたく、筆を執りました。


 貴方が見出した少年は、驚くべき資質を備えております。

 私がクーの身柄を預かってからの三年半というもの、一日として同じ日がございません。

 彼はさながら黄金です。

 なんとなれば、黄金が小鎚で打てば打つほどに延びて拡がるのと、なんら変わるところがないからです。


 さりながら、いかなる知識と言えども、経験には及びません。

 一度、ハリジョンに立ち寄ったことを除けば、彼はまだ南方大陸しか知りません。

 そこで改めて未来の主人たる貴方にご挨拶させるためにも、またここ三年半の成果を試していただくためにも、帝都の千年祭に合わせて、クーを貴方の下へと送り出したく存じます。


 ただ、学びの最中にあって未熟ゆえ、いまだお側でお仕えさせるには時期尚早、吟味の後はまた、しばらく養育をお任せいただきますよう。

 成人してより後には、貴方の御許へと旅立たせ、そこで仕えさせようとの考えです。

 ちょうど留学を終え領地にお帰りになられる頃には、年若いながら大事を図るに足る賢臣がお側に控えていることでしょう。


 キトの地は平穏で、変わるところがございません。

 引き続き、この地の喜びが貴方の喜びともなりますように。


 それと秋摘みの茶葉を少々、お送りさせていただきます。

 世間では春摘みの茶葉を上等とするようですが、私としては、この時期ならではの引き立つ甘みこそ、得難い魅力であると思います。

 学業の合間に、お楽しみください。


 シックティル・コティブ』


 読み終えた俺は、手紙をそっと置き、ほっと息をついた。


「いかがでしたでしょうか」

「いい知らせだ。旅の仲間だった少年が、夏にはこちらに来るという」

「それは何よりです」


 ヒジリは立ち上がって、障子を開いた。


「そのお手紙と一緒に、茶葉が届いておりました。旦那様への贈り物でしょう」

「そうだな、なら僕が……いや、今日はミアゴアにお願いするとしようか。せっかくだから、最初の一口はみんなでいただこう」

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