加護を手放す
一人で周辺をぶらつこうかと思って外に出たのだが、ノーラも差し迫った用事がないのか、俺についてきた。いつも忙しそうにしている印象があるが、考えてみれば今は年初、大方の仕事は一段落ついていてもおかしくはない。もっとも、今の時期を過ぎたら、今年は今年で激務になる。夏に向けて一切を整えておかねばならないのだから。
いや……
「次の年末は、のんびり慌てずに帰りたいもんだね」
「さぁ、どうかしら。暇になればいいんだけど」
そうではなく、俺がいるから、時間を割いてくれているのかもしれない。そう思うと、申し訳ない気持ちが募ってくる。
ノーラはそろそろ適齢期だ。俺が留学から帰ってくる頃には、もう真剣に相手探しをしなければならない。せいぜいそこから一年くらいが勝負だろう。
ただ、だからといって、どこに嫁入りさせればいいのか? 俺の中の感情を全部無視したとしても、あらゆる選択肢が非合理的に思われてくる。だってそうだ。ノーラは知りすぎている。セリパス教の真実も、使徒の存在も、そして俺の力のことも。こんな危険人物を、他所の家にリリースして済ませるなんて、不可能ではないのか?
与えた能力を全部引っこ抜き、魔術で記憶を部分的に抹消すれば、一応、カバーできなくもない問題だ。ただ、それは部分的にノーラを殺す行為でもある。裏切りと言ってもいい。彼女が自分で、抱えたものの大きさに耐えきれないから、と訴えてきたのならともかく、そうでもないのにこちらの独断でこうした処置をするのは、いかがなものか。
要するに、どんな選択をしても、必ずどこか、人倫の道に悖る結果になる。彼女の意思に反して記憶を消すのか。飼い殺しにするのか。それとも……異母姉である可能性を承知しながら、側妾という日陰の身分を受け入れさせるのか。
だが、先送りできるのも、あと三年ほど。本当に、どうしたらいいんだろう。
階段を降り、一階のロータリー部分まで降りてきた。別にそうする必要とか、用事があったのでもない。なんとなくだ。
すると、橋の向こう側に煙の筋が立っているのが見えた。火災? にしては燃えるものもないはずだが。自然と足が向いた。
「何してる?」
「おっ、ファルスか」
そこにいたのは、ガリナだった。相変わらず似合わないメイド服に身を包んでいる彼女は、焚火の前で、腰に手を当てて立っていた。
「何って、メシの準備? まぁオヤツみたいなもんだ」
「ギィ」
彼女の足下では、ペルジャラナンがしゃがみ込んでいた。彼が落ち葉に着火したのだろう。そして今も火加減を保ってくれている。
「芋でも焼いてるの?」
「おう。なんか去年から異常気象で、麦とかも勝手にバンバン生えてきやがるわ、今もその辺掘ったらいくらでも芋が見つかるわ、どーなってんだかな」
その、正体不明の芋。だが、食べることに不安はないらしい。
「そんなわけのわからないもの、食べて平気なのか」
「今んとこ、誰か腹壊したとか、そういうことはまったくないな。ホント、これじゃ働くなんてバカらしいっつうか、まぁ掘りだしたりする手間だけはかかるんだが……こんな食うに困らないって、あるもんなんだなって驚いてるぜ」
そろそろ食べ頃らしい。ペルジャラナンは袖をめくって、そのまま手を焚火の中に突っ込んだ。
「いやぁ、こいつ、役立つよなぁ」
腕組みしながら、ガリナはウンウン頷いている。
「最初、見た時はビビッたけど、言うこと聞くし、火をつけるのも楽だし、それに愛嬌もあるもんな」
「ギィ」
「ハッハハ、かわいいなぁー、こいつぅ」
そう言いながら、ガリナはペルジャラナンの丸くスベスベした頭を撫でる。
その気になれば、軍隊でもなければ取り押さえることもできない怪物なのだが、彼はあくまで従順なキャラで通している。つくづく処世術に長けたトカゲだと、改めて感心させられるやら、呆れるやら。
焼かれた芋は金属の器に盛られて、今もホカホカと湯気をあげている。見た目は前世のサツマイモに似ている。
「もうちょい冷めたら、籠に入れてみんなで食うんだ」
「味はどう?」
「甘いぞ。だからもう、牛乳と一緒にこいつを食うのが、毎日の楽しみでな」
「それはよかった」
「ああ」
彼女は眼を閉じて頷いた。
「食うもんねぇってのは、最悪だからな。人間、食うもんさえありゃあ、なんだかんだ我慢できるもんだ。けど、それがねぇと」
真顔になった彼女が、木枯らしに髪を掻き乱されながら、言った。
「何すっかわかんねぇ」
彼女の背景を思い出す。オディウスの搾取によってキガ村は窮乏。彼女の夫は、妻を売り飛ばす決断をした。だが、それだけにとどまらず、まだ幼い彼女の娘を用水路に投げ込んで片付けてしまおうとした。それで我慢の限界に達した彼女が、夫を石で撲殺してしまったのだ。
「あの、そういえば」
「あん?」
「キガ村には、あれから」
「帰れるわけねぇじゃんよ」
そうだとは思った。しかし、領主たる俺が既に赦免を与えているのだ。大手を振って帰ってもいいはずなのに。
「それはやっぱり、親戚の目があるからとか」
「まぁそういうのもあるんだけどさ……やっぱ一番キツいのは、娘だな」
「娘さん? どうして?」
「そりゃお前、決まってんだろ」
腰に手を置いて、さも当然と言わんばかりに、彼女は言った。
「物心つく前に、実のオヤジ殺してどっかいった女がな、今更母親ですなんてツラ、できるかよ」
「そんな。でも、それは仕方ないんじゃ」
ガリナが殺人犯にならなかったら、その娘も今頃、この世にいないのだから。
「娘さんは、今、どうしてるとかは?」
「自分じゃ行けねぇから、リーアに確認してもらった。姉貴の家で居候して、今年で十三歳になるってよ」
「無事でいるのは何よりだけど」
「まぁな。あたしとしちゃあ、あとは娘が立派に育って、無事、結婚でもしてくれりゃ、思い残すところはねぇな」
話が一段落したところで、道の向こうにまた小さな人影が見えるのに気づいた。
「おっ。お疲れぇ!」
そう言いながら、ガリナは駆けていく。向こうからやってくる白衣の女性は、両手に手提げ袋を抱え込み、リュックも背負っていたのだ。
「こんなに貰ってくるたぁ、思わねぇじゃねぇか」
「いえいえ、これくらいでしたら」
「いや、重いだろ」
ティック庄から戻ってきたのは、シーラだった。見れば、牛乳の詰まった壺が二つずつ、両方の手提げ袋の中に入っていた。
「こりゃへたばるわ。おーい、ペルジャラナン!」
「ギィ」
「ちょっとこれ、手提げな、持ってくれ。リュックと芋はあたしが運ぶからよ……シーラ、お前はちょっと休んでから来い。心配しなくても、食う分は残しといてやっからよ」
「はい、ありがとうございます」
「っと、じゃあな!」
この場で一休みするシーラを置いて、二人は食べ物を手に、城の中へと歩き去っていった。
「ふぅ」
ほっとした。こちらに帰ってから慌ただしくて、あまり顔を見る機会もなかったし、じっくり話すこともできなかったのだが、相変わらず元気そうなのは、よかった。
それはそれとして……
「ノーラ」
「なぁに?」
「この人、確か、チャルと一緒に来た」
「そうよ」
一応、俺が主人らしい。こちらの視線に気づくと、シーラは丁寧に身を折って挨拶した。
「ああ、いい。固くならなくても。さっきのガリナを見たと思う。他所の人の目がなければ、いつもあんな感じだ」
「ありがとうございます」
こうしてみると、どこかの貴婦人のようにしか見えない。服装こそ白いワンピース一枚なのだが、その顔立ちには、ただの美貌という言葉では片付けられない何かがある。慈母のようでもありながら、乙女のようでもあり、年齢すらよくわからない。
「ところで、シーラと言ったか」
「はい、ご主人様」
「これまで、どこにいた? つまり、チャルとこちらに来る前のことだ。どこかで会ったことがあるような気がしてならない」
「私はアルディニアの田舎におりました」
ほとんど答えになっていない。アルディニアは、タリフ・オリム以外のすべてが田舎なのだから。
「それがどうしてこちらに? あちらの王都でチャルに拾われたとのことだったが」
「住んでいた小さな村がオーガの群れに荒らされました。それで暮らしていけなくなり、王都に出ていくしかなくなってしまったのですが、そこでチャル様に親切にしていただいたのです」
一応、筋は通っているように聞こえるが……
「解せないな。それならリント平原から南に出て、レジャヤにでも行けばよかったんじゃないのか」
「チャル様が、アルディニアのどこかでお仕事を見つけたいというご希望をお持ちでしたから」
「道中、野の草花や果物で飢えを満たしたと聞いている。そういったものを見つけるのが得意なのか」
「なにぶん、人の少ない田舎におりましたもので」
やはりどこか奇妙な印象がある。よしんば魔物に立ち向かう武勇がないにせよ、野外でいくらでも食べるものを見つけられるほどの知識や技術があるのなら、わざわざ王都に出る必要もなかったのではないか。
「いや、なんというか……そのような生き方ができる人物も見たことがないでもないのだが……そういう人は、あなたのように、真っ白なきれいな肌などしていない」
「雪深い土地にいたおかげでしょうか」
釈然としないが……
「それでは、あなたの得意とするところは、料理と、あとは野草を見分ける知識ということか」
「ファルス、シーラはいろんなことに詳しいの」
横からノーラが口添えした。
「歴史のことでもなんでも、尋ねるとだいたい知っているのよ」
「では、教養がある、と」
俺が気付くことは、ノーラも気付けることだ。教養もあって、山歩きの知識もある。それでいて、この美貌と気品。
いや、だとしても、手が荒れていないという時点で、彼女が労働者ということはない。となれば、どこかの貴種であろう可能性が高い。それが身元を隠して、この城に紛れ込んだ……
「ご主人様」
シーラは改めて身を折った。
「どうあれ、今はご主人様にお仕えする奴隷の身の上です」
「そうか」
とはいえ、悪人にも見えない。本当に、よくわからない。
「そうだ」
俺はさっきから握りしめたままになっていたゴブレットを取り上げてみせた。
「では、これは知っているか」
シーラは、俺の手にあるそれを見ても、眉一つ動かさなかった。
「昔、手に入れた魔法の品だ。なんと、飲み物が無限に出てくるという。だが、しばらく前に使えなくなってしまった」
「そうなのですか」
「この品を使うには、罪に手を染めないことが必要だった。だが……憎しみから人を殺めてしまった。そうしたところで、亡くなった人が帰ってくるわけでもないとわかっていたのに」
「はい」
彼女はあくまで淡々としていた。
「どうすればいいと思う。これを手にする資格はもうない。だが、手元に残ってしまっている。自分でもうまく説明できないが、このままではいけないという気持ちが抑えられないんだ」
シーラはしばらく考えてから、その口を開いた。
「ご主人様、罪の穢れのない生涯は、誰もが夢見る素晴らしいものです。ですが、同時にそれはあまりに難しいこと」
そう言いながら、彼女は城に繋がる橋の上を歩いていき、川を指差した。
「ご覧ください」
そこには、いつものカフェオレ色の濁流があるばかりだった。今日は水量も控えめで、流れも静かだった。
「この水の中には、大勢の魚達が泳いでいます。中には川底の苔を食べて生きるものもおりますが、他の魚を追い回して食べるのもいます」
「そうだな」
「誰も傷つけずに生きて死んでいけるとは限りません。むしろ、心身が育って力を増したなら、そのようにしなければ生きられないのです。人もまた同じです。生まれて間もない頃は母が与えてくれる乳を飲み、子供であるうちは父が持ち帰った肉を食べて育ちます。でも、大人になれば、自ら山に分け入って獲物を狩り、或いは他の動物達の糧となる野草を摘み、そうして自らの飢えを満たさねばなりません。まさしく、生きることは苦しみに外ならないのです」
いちいち納得せずにはいられない。俺のこれまでの人生のほとんどは、そうした苦しみそのものでできていたのだから。
「では、生きるのをやめてしまうべきでしょうか? ご主人様、私達が揃ってこの川の流れに身を投げ出せば、死に絶えることができます。もう苦しみはありません。いかがなさいますか」
「それは、するべきではないと思う」
「なぜでしょうか」
死ぬのが怖いから、だろうか? それはそれで、自然な答えだと思う。誰しも死を恐れるものだ。それは俺だって変わらない。
だが、一方で、それでも必ず最後には死ぬという運命もまた、避けがたく存在する。そんな中で、敢えて死を引き延ばすべき理由があるとすれば、それは何か?
「……まだ、答えはご用意できないようですね」
「そうらしい。ただ」
俺は自分の両の手に視線を落とした。
「こうまでして今日まで生きてきたことを、無にしてはならない。そんな思いはある」
「大変結構でございます」
シーラは頷いた。
「ご主人様は既に、無垢ではございません。同時に、誰かの庇護の下におかれるべきものでもないのです。生きるがゆえの矛盾、混ざり物のない善を望みながら、日々、その身に穢れを積み重ねていく身の上となったのです。ですが、それをこれ以上、悲しむべきでしょうか。心身が育つ前に、若くして世を去るべきだったとでもいうのでしょうか。人の身に生まれた以上、避けられないことではなかったでしょうか」
「違いない」
「だから、ご主人様がなさるべきことは、その身の上に相応しく、庇護を手放すことなのです」
俺は、手にしたゴブレットを改めて見つめた。だからこれを手放したかったのだと、納得はできた。
「しかし、だからといって。これを、ただ、路上に抛り捨てるのが正しいとは思えない」
「いかにもそうです」
シーラは頷いた。
「あなたは既に心身とも育ちきり、また人の世の身分においても、大勢の上に立ってこれを庇護するものです。あなたは受け取るのではなく、与えなければなりません」
「どうすればいい」
「この川をご覧ください」
内海に注ぐまで、どこまでも滔々と流れゆくエキセー川。よく晴れた冬の日の昼日中、遠くに眺めれば陽光を照り返し、いかにも安らぎに満ちていた。
「この川に沿って、多くの人々が、そして木々や動物達が暮らしています」
「ああ」
「彼らの幸せを、富を、そしてその健やかなることを願って、手にしたものを投げ入れてください。本来それは、そのためにあるものなのですから」
正直、俺は少し戸惑った。これだけの価値のあるものを……という思いがなかったのでもない。
だが、どうしてシーラは、このように言い切ることができるのか。しかし、正しいことを述べているようにも思われた。
「あっ」
次の瞬間、俺は右手を振り切って、ゴブレットを川に投げ込んでいた。
それが濁流に飲み込まれて、すぐ……
「えっ!?」
ノーラが驚いて声をあげた。
無理もない。カフェオレ色の濁流が、見る間に真っ白に染まっていき、その色が薄まってきたと思ったら、今度は底まで見通せるほどの清水に入れ替わってしまったのだ。
「よいことをなさいました。これでこの地のみならず、広く大勢のもの達が潤されることでしょう」
それだけ言うと、シーラは背を向けて、城の中へと去っていってしまった。俺とノーラは、それを呆然と見送るばかりだった。
その翌日、俺は再び旅路に着いた。ウィーを伴ってピュリスに馬車で向かい、それから船に乗って帝都に帰った。旧公館に帰り着いたのは、蛋白石の月も終わりの頃だった。
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