混迷を深める俺の寝室

 久しぶりに豪勢な夕食を味わい、数日ぶりの入浴を楽しんで。自分の寝室に引き下がる頃には、もう日はとっぷりと暮れていた。まだ、体が火照っている。冬場の冷たい空気が、この熱を冷ましてくれるまで、のんびりと過ごすほかない。

 元伯爵の居室といっても、ガラス窓などないままだ。木の窓を開け放つと、もうすぐ満ちようとしている青白い月が、夜空に浮かぶ星々の輝きを霞んだものにしていた。盆地を覆う山の端の黒い輪郭が、薄っすらと浮かび上がる。音もなく流れゆくエキセー川の濁流が、暗闇の中に飲み込まれていく。その向こうに、微かに月光を照り返すティック庄の家々が見えた。

 一人きりで過ごす、静かな夜。思えば、これもしばらくぶりの感覚だ。もちろん、この領地に引き返す途中の旅の最中には、一人でいる感覚はなかったが、よくよく思い返してみれば、帝都にいる間もそうだった。旧公館は快適だったし、離れで寝るのは俺一人だったが、それでもあの屋敷には、いつも人の気配が絶えなかったように思う。

 この城は広大過ぎて、そういう人の呼吸を感じることがない。ガランとしている。ただ、今はそれが不思議と心地よかった。


 この落ち着く感じはなんだろう。一年近くを過ごした場所とはいえ、俺にとっては、人生の中の数ある仮住まいの一つでしかなかった。そして、領地の開発が済めば、いずれ本当にここを後にすることになる。それでも、実家のような気分でいられるのは、ここが静かな田舎であるというのと、あとはきっと、みんながここにいるからだ。


 室内に目を向ける。俺が不在の間にも、帰ってくる日のために、この部屋を整えておいてくれたらしい。まず、戸棚には俺の私物が見えるように並べられている。旅の間に使って、今ではボロボロになったポーチも、捨てられずに壁に掛けてある。

 居室の向こうにある寝室も、少しだけ様変わりしていた。ベッドと布団が別物になっている。前の、あの古びていながらも大きくて造りのしっかりした、伯爵のベッドは撤去されていた。これは嬉しい。オディウスが数々の強姦に手を染めた場所で寝るというのは、本当に落ち着かなかったのだ。ただ、そんな気分の問題なんかでベッドを作り直せというのも憚られて、そのままになっていた。

 新しいベッドは、シンプルかつ、なかなかシックな印象だ。ほとんど黒一色。前のベッドの四隅にあった支柱なんかはなく、本当に台の上にマットが載っているだけ。黒い枕、黒い掛布団。材質はなんだろう? 厚みはそれなりにある。マットも分厚いから、冬場の寒さを寄せ付けないだろう。


 だが、それより、気になるものがある。

 俺は、戸棚の中の銀色の輝きに手を伸ばした。


 ……これはなんだろう?


 銀色のゴブレットだった。どこで手に入れたものだったっけ? 思い出せそうで、どうしても答えが出てこない。ただ、大事にしていたらしいことは覚えている。ここしばらくずっと使っていなかったことも。

 理由は説明できないのだが、このまま持っていてはいけない気がする。でも、どう始末をつけたらいいかがわからない。


 形のない思考は、階下からの足音によって中断された。

 ノックの後、部屋に立ち入ってきたのは、ウィーだった。


「どうしたの? こんな時間に」

「うん……」


 彼女は、浮かない顔をしていた。


「その、ノーラさんに呼び出されて」

「え?」

「どこまで知ってるのかって言われたから、迷ったけど、昼間のこともあったから、全部話してきた」

「ああ」


 ピアシング・ハンドの存在を知っている存在。俺にとってはアキレス腱になる。だからノーラとしては、詳細を把握しておきたかったのだろう。


「ノーラは、ほぼ全部知ってるから、確認だけしておきたかったんだと思うよ」

「うん」


 だが、彼女は浮かない顔だった。

 何か言いかけて、口をパクパクさせてから、また下を向いてしまった。


「なに?」

「あー……ちょっとゆっくりしていっていいかな」

「ああ、いいよ」


 するとウィーは、寝室の方に向かい、ベッドの前で立ち止まると、それからゆっくりと腰を下ろした。


「えっ?」


 よっぽどフカフカで柔らかい素材だったのだろう。ずっしりと沈み込んだ。


「これ、凄いね」

「うん」

「こんな布団、見たことないよ。なんだろ、これ?」

「いや、僕も今日、初めて見たんだ。帰ってきたらこうなってて」

「そうなんだ」


 どうも変だ。ウィーは基本、思ったら即行動する、裏も表もない人だ。内心に何かを抱えたままでいられるようなタイプではない。俺の秘密を守れと言われたことが、そんなに負担だったのか? いや、それは前からそうだったので、今になって、こんなカチコチした挙動をする理由がない。


「ノーラに何か言われたの?」


 俺がそう尋ねると、わかりやすく肩を縮めてベッドの上で跳ねた。


「う、うん」

「まったく……脅すのもわかるけど」

「いやぁ……その、ノーラさんって、怖い人だね」

「ん? まぁ、ね」


 口外したら殺すとか、言ったんだろうか。ただ、それにしては……ウィーはそこまで小心者ではない。そんなことを言われたら、逆に怒り出すのではなかろうか。ボクを甘く見るな、脅されようとされまいと、することは変わらない、とか言い返しそうなのだが。


「はー」


 ウィーはそのまま、ベッドの上で横になってしまった。


「こんな柔らかいベッド、初めて」

「ははは、使う? 寝てみたい?」

「う、うん」

「そう。じゃ、僕は他で適当に空き部屋探して寝るよ」

「ちょ、ちょっと! そんなつもりじゃないよ!」


 まぁ、いきなり部屋にやってきて主人のベッドを横取り。そんな失礼はできないというのは、常識的な考えだ。


「何を見てるの?」


 ウィーに指摘されて、手にしていたゴブレットのことを思い出した。


「ああ、これ?」

「うん」

「これは……魔法のゴブレットなんだ」

「へぇ? 珍しいものを持ってるんだね」


 魔法としか言いようがない。中から飲み物がいくらでも湧いて出てくるのだから。


「何ができるの?」

「牛乳が好きなだけ飲める」

「地味に凄くない?」

「凄いんだけど……今は開けられなくなっちゃったんだ」

「え? どうして?」

「それが、よくわからないんだけど」


 どうしてもう開けられなくなったのか、ということを考えようとすると、思考に霧がかかる。はっきりとした説明ができそうにない。


「多分、人を殺し過ぎたせいだと思う」

「あ……」

「うん?」

「ごめん」


 ベッドの上で横になったまま、ウィーは謝った。


「そうだよね。ノーラさんからちょっとだけ聞いたよ。大変な旅だったって」

「他のことはいいけど、サハリア東部で戦った件は、絶対に口外しちゃ駄目だ。最悪の場合、僕の周りが暗殺者だらけになるからね」

「そ、そうだね」


 俺は視線をゴブレットに戻して、呟くように言った。


「でも、その件がなくても、多分だけど……これは、持ち続けていちゃいけないものだと思うんだ」

「どうして?」

「赤ん坊なら、子供なら、食べるものは親から貰わなきゃしょうがない。だけど、僕はもう大人になった。それなのに、いつまでも養ってもらってちゃいけない。だから、これは返さないといけない」

「返さないとって……誰に?」


 俺は首を振った。


「それがわからないんだ」

「変なの」


 俺は、ゴブレットを棚に戻した。


「これからどうする?」

「え?」


 俺の質問に、奇妙にも彼女はベッドの上で我が身を掻き抱いて硬直した。


「うん? ここで寝たいの?」

「えっ、えっ」

「そういう話じゃなくて、その……もう、これで正式にこちらで身分を得られるし、普通に元通り暮らしていくことはできる。この城の中で仕事を貰ってもいいし、好きに今後を選べるって話なんだけど」

「あ、そっち」


 他に何があると思ったんだろうか。

 身分ロンダリングは、こちらにくることで完成した。身元不明の女、ウィー・リンガスの所属は、現領主が保証した。ピュリスで総督を襲ったという、隣国でワーリア伯を傷つけて逃亡したあのウィー・エナは、もうどこにも存在しない。


「んー」

「好きに生きられるんだし、どこに行ってもいいんだけど」

「それは難しいんじゃないかな」

「どうして?」


 すっかりベッドの上で横たわったまま、彼女は答えた。


「だって、ボクはファルス君の秘密を、ちょっとだけだけど、知っちゃってるんだよ?」

「まぁ、そうだけど、それをいったら、ハゲの冒険者のまま、長年放置してきたわけだしね」

「というかさ」


 ここでウィーはヘソを曲げた。


「ボクが今更どこかになんて、行けるわけないじゃん」

「どうして?」

「だって……」


 見る間に顔が赤くなる。


「あっ」

「だから……その」


 そこで、ウィーが続きを言おうとした時、異変が起きた。


「ん?」


 何か言いかけたウィーが、急にその声を引っ込めた。


「どうしたの?」

「こ、このベッド、あれ? ノーラさんの猫とか」

「は?」

「何かいるの……わっ!?」


 今、目に見えてベッドが動いた。ベッドだけではない。黒い掛布団も。

 何が起きたのか。俺はベッドの上のウィーに一歩近づいた。その瞬間。


「きゃああ!」


 完全に想定外だったらしい。というより、俺もそうだった。

 黒い布団がいきなり意思を持った生き物にでもなったかのように、反り返ってウィーを簀巻きにした。かと思いきや、そのまま半回転してマットの上に彼女を叩きつける。それで終わらず、今度はマットと布団がガッチリ上下から挟み込んで、完全にウィーの動きを封じてしまった。


「なんだこれは!」


 布団に触れてみる。だが、カチコチに固まっていて、ちょっとやそっとでは引き剥がせそうにない。


「ウィー! 苦しくない?」

「そ、それは大丈夫だけど」

「押し潰されたりとかは」

「そこまでは……でも、出ようとすると」


 抑え込みだけは完璧、といった状態らしいが、別に絞め殺されそうになっているのではないようだ。一安心だが、さて、どうしたものだろう?


「とりあえず、助け出さないとだな」

「どうするの?」

「布団を剣で切り裂く」

「ボクまで怪我しちゃうよ!」

「じゃあ魔法で……」

「変わらないじゃん!」


 というより、これ、原因はなんだ? 誰がこんな……

 そう思った時、階下から足音が響いてくるのが聞こえた。この夜更けだというのに遠慮のない駆け足で、ついにノックもなしに、この部屋の扉を開けて踏み込んできた。


「おーっし、これでオレの思い通り……って、えーっ! なんで? なんでだ?」

「そういうことか」


 俺が罠に引っかからず、普通に部屋の真ん中に立っているのを見て、ホアは目を丸くした。


「道理でな。一年間も領地に帰らないでほったらかしにしたのに、会議の時にも、やけに大人しかったと思ったんだ。こんなことを企んでいたとは」

「ご、ご、誤解だ! なぁファルス、多分、その布団とベッドは、魔物の一種だと思うぜ! ぶった斬って片付けちまおう!」

「証拠隠滅か。ふざけろ、この野郎」


 回れ右して逃げ出そうとするホアを、俺は背後から羽交い絞めにした。


「うぉっ、振り切れねぇ! おかしいな、詠唱もなしでオレより力があるとか」


 魔力操作でストックしておいた身体操作魔術がなければ、俺が引きずり倒されていたところだ。そうなったら、逆にホアに押し倒されて襲われかねなかった。


「いいから、あの布団をどうにかしろ。このバカ」

「ブチ抜いてくれるんなら、なんでもするぜ」

「助けてよ」

「そんなにしてほしけりゃ、靴ベラでもなんでも使って一人で済ませろ、この色ボケが」

「乙女の純情をなんだと思ってるんだ! 血も涙もないのかよ。これだからイケメンってやつぁよぉ」

「助けてってば」


 混迷を深める俺の寝室に、更なる訪問者が追加されるらしい。開けっ放しの扉の向こうから、複数の足音が近づいてきていた。


「ナニやってるんだ、オマエラ」


 ディエドラとノーラが揃って顔を出したのだ。この惨状を目にして、ノーラは無言で深い溜息をついた。


 結局、ホアはノーラにこっぴどく叱られた後、ベッドの装置を解除して、ウィーを解放した。このベッドのマットと布団は、表面に黒竜の皮を用いたホア特製の一品で、装置が起動していると、ベッドの上に一定時間、誰かがいる場合に、その人を拘束するようにできているらしい。

 四人が帰った後、俺はやっと布団に入ることができた。そこで気付いたのだが、ウィーは香水をつけてきていたらしい。そのせいもあって匂いが残り、どうにも寝付けないまま、一晩を過ごさなくてはいけなかった。

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