謂れなき告発、始まる
しっとりとした秋の朝の空気。通用口から街路に出て、秋が深まるのを感じると、心まで洗われるような気がした。少しの爽快感と、同時に安心感のようなものが胸に満ちてくる。今日は何かいいことがあるんじゃないかと、そんな予感がした。
日常にも慣れてきた。この通りを北まで歩くと、そこにはヒメノが待っている。俺の姿を認めて、彼女は遠くから手を振ってくれた。
「そういえば、先週末のお休みは、どこか遊びに行かれたんですか」
「ああ、半分は仕事なんだけど、郊外の、あの顕彰記念公園の方まで」
「へぇ、いいですね。どうでした?」
「どうだろう。人によって好き嫌いが分かれそうだけど。催し物がある日を選んでいくなら、退屈しないで済むかも。でも、水路はちょっとよかったかな」
なんてないことを話しながら、心地よいペースで歩く。足の裏から伝わってくる、この地面を踏みしめる感触も好ましい。
「水路? ですか?」
「ボートに乗って、ほら、湖があるでしょ? そのあちこちから狭い水路に入れるんだけど、静かで気持ちよかった」
「いいですね! 私も行ってみたいです」
「行ったこと、ないんだ?」
地下道を出て右に。すぐ後ろから馬車が迫ってきて、馬蹄の響きと轍の音が通り過ぎていくのを待ってから、ヒメノは答えた。
「ないですよ。だって、一緒に行く人なんて……他にいませんよ」
「女の子同士で行ってもよさそうだけど」
「でも、周りはやっぱり恋人同士ばかりでしょうし、ちょっと……でも、それだとファルスさんは」
「あ、うん、えっと、念のために言っておくけど、お役目だったからで」
「わかってます。でも、よかったら今度」
お役目、と口実がつくからよかったものの。本当に、あの件はどうしたらいいんだろう。
前世では、モテなかったのが、正直、コンプレックスではあった。でも、今となっては、自分の決断で誰かが傷つき、悲しむことの方がずっと怖い。拒絶される側の気持ちが痛いほどわかるから。最初からモテていれば、そんなことを考えずに済んだのだろうか。
「そう、だね。近々また、例の厨房の作業が片付いたら、少し休みでも」
そこまで言いかけた時、周囲の風景が少しおかしいのに気付いた。
いつもより歩行者が多い。しかも、その多くが女性だ。大半は髪が肩にかからない短さだったり、或いは頭の上でお団子にしてあったりする。みんな速足で、迷わず目的地に向かって歩いているように見える。中にはバッグを抱えていて、それがもう中身を詰め込み過ぎているせいで、はちきれそうになっていたりするのもいる。
「これ、何か今日、催しとかあるのかな」
「なんでしょう? 集会とか?」
ヒメノも違和感をおぼえたらしい。怪訝そうに通行人の様子を眺めていた。
気を取り直して学園への道を歩き出すのだが、もう左に曲がればすぐ正門というところで、俺達の疑念はピークに達した。
「なにこれ」
「学園で何かあったとか?」
向かいから歩いてくる女性も、険しい表情を浮かべたまま、澱みない足取りで右折し、まっすぐ学園のある方へと進んでいる。果たして俺達も左折して歩いてみると、正門の前あたりに人だかりができているのが見えた。
近づいてみると、彼女らがプラカードを掲げているのがわかった。といっても、使いまわしのものらしく、ペンキも剥げかけている。ただ、文面があまりに不穏だった。
『性犯罪者を許すな』
門の前には、普段は見かけない守衛が立っていた。よく見ると、うち一人の顔には打撲の痕がある。この抗議者の集団に殴打されたのかもしれない。ただ、この先は学園の敷地内だ。学内の中のことは学生と教授の自治で決められるものとされている。実際に犯罪者であると確定しているなら、帝都防衛隊などの当局の人間が踏み込むこともできるのだが、ただの市民団体の人間が押し通ることなど許されない。
言い換えれば、学生であれば、素通りできるということだ。
門の内側にも、人だかりができていた。揃いも揃って女子学生ばかり。彼女らが取り囲んでいるのは……
「えっ」
ヒメノが目を見開いた。無理もない。性犯罪とは最も無縁であろう人物。ベルノストが人の輪の中心にいたのだから。
左右の女子生徒達から口々に罵声を浴びせられ、また質問を投げかけられているのだが、彼は難しい顔をしながらも、なんとか対応をしていた。だが、人だかりの向こうに俺の姿を見かけると、目を細めて小さく首を振った。
「行こう」
「え? いいんですか?」
「話がややこしくなるといけない。ベルノストに任せよう。僕らが捕まる方がまずいって、あれはそういう顔だ」
変にしゃしゃり出て、彼の仕事を増やしたのでは、却ってよくない。それで俺とヒメノは、女子生徒に見咎められないよう、そっと脇を通り抜けて校舎に入った。
だが、これはまだ始まりでしかなかった。なぜなら、自分の教室に立ち入った瞬間、金切り声が聞こえてきたからだ。
「答えなさいよ! あなたの身内のことでしょ!」
「だから、何のことかわからないと言ってるじゃない」
なんと、マホがアナーニアに食ってかかっている。すぐ脇にはケアーナが控えていて、この暴走を食い止めようとしているのだが、いったん火がついたらこの女は止まらない。教室内には他の生徒達もいるのだが、この剣幕に恐れをなしてか、誰も割って入ろうとはしなかった。
「どうしたんですか」
俺が尋ねると、矛先はこちらに向いた。
「出たわね、腰巾着」
「何のことかわからないけど」
でも、彼女の認知ではそうなるのか。アスガルとか、グラーブとか、そういう有力者に取り入るのがうまい奴、という。
「何を騒いでいるのか」
「知らないふり? 何も知らないの? 本当に? じゃ、恥も知らないのね?」
「いや、さっぱりわからない」
「校門の前で、あれだけ人が集まってるのに、どうして知らないのよ」
「どうしてもこうしても、自分に関係しているとは思わなかったから、無視してここまで来た。それで?」
俺が溜息をつきつつ説明を求めると、ようやくマホは言った。
「じゃあ、説明して。グラーブ王子の性暴力疑惑。何があったのかしら」
「はぁ?」
寝耳に水だ。グラーブが? 性暴力? 強姦したとか、そういう?
「なんのこと」
「ほぅら、ご覧なさい。そうやってごまかすのよ」
「本当に知らない。誰がどこでどんな被害に遭ったんだ?」
「あのね」
今度はマホが溜息をつく番だった。
「そんなの言えるわけないし、伏せられるのが当然でしょ? 帝都の法律、知らないの? 個人名が公開されたら、報復されるかもしれないし、そうでなくても被害者がつらい思いをするのよ? そういうことされた女なんだって知れ渡るんだから。場所とか日時とか、それだって個人を特定できてしまうから、一般公開なんてできるわけないじゃない」
そんな法律があったとは。
でもじゃあ、被告はどうやって弁護を頼めばいいんだろう? 圧倒的情報不足の中、やっていないことの証明をするなんて。
「公開されていないのなら、僕らが知るわけないだろう」
「でも、あなたは加害者の臣下だし、王女は妹でしょ」
開いた口が塞がらない。呆然として、言葉を失ったが、努めて理性を働かせて、俺は説得した。
「あの……あの、ね」
「なによ」
「滅茶苦茶言ってる自覚、ある?」
「はぁ?」
やっぱり、か。
「まず、被害者の個人を特定させたくないのなら……仮に僕らが事情を詳しく知っていたとして、こんな教室の中で、みんなが見ている前であれこれ喋ったら、まずいことになるんじゃないのか? 被害者の立場はどうなる? 治安機関とか裁判所の人が僕らを取り調べるというのならともかく、あなたは一個人であって。何の権限があって、こんな風に怒鳴り込むんだ?」
「うっ」
「それともう一つ。仮に殿下が実際にそういうことをしていたとして。どうして僕らが知っている? いや、百歩譲って僕とか他の側近が知っているとかなら、まぁわからないでもない。殿下が、何かまずいことをした後、尻拭いをさせたかもしれないから。でも、よりによって女性を襲った男が、そのことを自分の妹に話したりするかな?」
「むっ」
このバカ女には、いつも呆れさせられる。物覚えばかりいいのに、やたらと短絡的になる。近視眼的と言ってもいいか。どうしてこうなってしまうのか。
グラーブが強姦なんて、さすがにあり得ない。ストレスが溜まっていたとか、性欲を持て余していたのだとしても、彼の身分なら、いくらでも家臣達を使って捌け口を用意できる。無論、いくら身分があっても周囲の理解がない場合は、そんなことはできないのだが、タンディラールからして、俺にそれ専用の女を与えようかなどと提案してくるような男だ。なら、大事な王太子の身の回りに、その手の準備がないはずもない。それ以外だと、個人的な復讐とか、そういうケースも考えられるのだが、これまた自ら手を汚す必要性がない。
とすると、真っ先に考えられる可能性は……
「まぁいいか。関係ないんだけど、今日は委員長は?」
「は? コモ? 今日はまだ来てないけど?」
……グラーブに近づいた女性はといえば、俺の知る限り、まずレノが挙げられる。だが、彼女がグラーブを告発する? リー家の意向に背いて? それともリー家が彼を裏切った?
「とにかく、マホ」
「なによ」
「周りの人の迷惑だから、やめてほしい」
「なっ」
これでおしまいとばかり、俺は自分の席に向かって、そこで腰を下ろした。
「なんか大変そうだな」
横にいるギルがそっと言った。
「わけがわからない。あり得ないことだと思ってるんだけど」
「だよなぁ。でも、これだけ大騒ぎするんだから、何か手がかりっていうか、ネタというか、掴んではいるんだろうし」
この噂の火元はどこだろう? レノなら、恐らくリー家の屋敷にいるはずだ。放課後にひとっとびして頭の中を覗き見してやろうか。
「モテモテのお前じゃなくて、王子様にそんなスキャンダルなんてなぁ」
「モテモテってなんだ」
「モテモテじゃねぇか」
「仮にモテモテだったら、どっちにしたってそんな事件にならないだろう。無理やり襲う必要がないんだし」
俺とギルがぶつくさ言っている後ろから、ランディとアルマのカップルが近づいてきた。なにやら表情が硬い。
「うん? どうした?」
「なんでもないよ。大変そうだな、しがらみのある奴って」
「あ、まぁ」
返事をしかけた俺の手を、アルマがとる。そして素早く紙片を握らせてきた。
「その分、頼らせてもらえるのが、人の家臣としての旨味かもね」
「大丈夫そうならいいよ。お疲れ」
「ああ」
ギルは、ヘタクソな手紙の配達について、一切を目にしていながら何も言わなかった。俺はさっさと手の中の紙片を静かに開いて読んでみた。
“一限の後に図書室の入口で ケアーナ”
言われた通り、最初の授業の後に、俺は図書室の入口に向かった。そこには既にケアーナが先回りしていて、廊下の向こうに俺の姿を認めると、黙って小さく手招きして、倉庫前の薄暗い通路に呼び込んだ。
「それで」
「まだ詳しいことはわからないのよ」
ケアーナも情報なし、か。
「とりあえず、殿下は登校して、すぐにあの連中に取り囲まれたから、ベルノスト様が盾になってるうちに、裏口から公館に帰ったんだけど」
「それがよさそうだけど、他は」
「コモ君からの連絡は受け取ってる。詳しいことがわからないから、登校は差し控えるって」
「それが本当だとすると、レノが何かしでかした可能性は低そうな気が」
彼女も頷いた。
「レノが独断でやったのだとすると、さすがに大事過ぎるし。だって、校門の前の……見た?」
「え? ええ」
「あれ、公正実現委員会の連中だから」
それじゃあ、マホがああやって騒ぎ立てるわけだ。
「こっちと手を結ぼうかって動き出した実家の都合を全部無視して、こんな市民団体まで巻き込んで。これ、新聞に載るわよ」
「ヤバすぎるんでは、いや」
俺はそこでふと、冷静になった。
「手回しがよすぎる?」
「えっ」
「多分、これはレノじゃない……そんなこと、できるわけない」
「どうしてそう思うの?」
周囲を見回して、誰もいないのを確認してから、俺は気付いたことを口にした。
「レノは、元々、リー家の落ちこぼれだから。帝都では男も女も仕事をもたなきゃいけない。リー家も、男女関係なく、一番稼げるのが家長になる。だけどレノは、いい歳になってもろくに役に立ってないから、コモとか父親に見放されて、側妾候補として送り出されることになった。そんな無能な女が市民団体を動員するなんて、できることの範囲を超えている。それに、それでレノがどんな利益を得られるかも、はっきりしない。殿下との結婚は避けられるけど、実家に居場所がないのは変わらないんだから」
「言われてみれば、そう、ね」
となると、誰が?
「そういえば、あと一人、側妾になるのを承諾したのがいたとかって」
「え、で、でも。そっちは宮廷貴族の娘なのに? もっとあり得ないんじゃ」
それもそうなのだが。
こんな告発をしたら、実家の親がどんな大目玉を食らうか、わかったものじゃないのに。
「とにかく。調べるだけならできると思う。誰が引き受けた?」
「……ジュガリエッタよ」
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