水上デート

 前世でも、公園デートの目玉の一つが、ボート遊びだった。といっても、俺にその経験はない。お付き合いを試みた女性はいたのだが、俺も忙しかったし、相手も忙しそうだったので、そうあちこちいろんなデートスポットに出かけることもなかったのだ。

 ただ水の上にプカプカ浮かんで、何が楽しいのだろう? 俺にとってのボートといえば、やっぱりなんといっても大森林の探索だ。魚人間とか人魚とかが出てきては人を襲う、あの濁流を遡る……


「ボクらも行った方がいいのかな」

「うーん」


 ……今は護衛の仕事の最中だ。余計な思い出は脇におかなくては。


 周囲を見回す。ラギ川の水を引いて作られたこの人造湖。なかなかに複雑な形をしていて、大きくは半月状になっているが、そこから細かい水路があちこちに伸びている。周囲の地面の高低差も大きい。この乗り場は、英雄ナームの像の裏手、丘を降りた北側のすぐ先にあるが、湖の腹の部分、つまり水上からすると西側にある丘を見上げるところからになると、これがほぼ断崖絶壁になる。その天辺がどうなっているかというと、ナームの像からまっすぐ東に向かえば、湖を一望できるテラスに出られる。つまり、狙撃ポイントがある。


《ニド、今、どこにいる?》


 どちらかは殿下の傍にいる必要がある。だが、せっかく二手に分かれて行動しているのだから、一方は状況を俯瞰できる位置にいた方がいいだろう。


《展望台。王子様はどうも、舟遊びをしたいらしいぜ》

《お前がそっちにいるのか。そこまで引き返そうと思ったんだけど》

《悩みどころだな》


 少しだけ通話が途切れる。


《やっぱお前が王子様についていけよ。本当だったら、俺らが行った方がいいんだけどよ》


 それはそうだ。なぜなら、俺が魔術を使えば、ニドやタマリアの位置を遠隔でも把握できるし、視界を共有することもできる。最悪の場合は、飛行魔法で即座に駆けつけたりもできるのだ。その間、ウィーが高所から周辺の狙撃ポイントを監視する。


《お前も、それなりに注目される側の人間だからな……それがバタバタと、展望台からまた別のところへって駆け回ってたら、さすがに不自然だし、目立ちかねないだろ》

《身分なんて面倒なだけだな》

《そういうこった。じゃ、俺らが上にいるから、お前はとりあえず、余計なこと考えないで王子様んとこに張り付いてろ》


 俺が顔をあげると、ウィーは察していた。


「ニドと連絡したの?」

「ああ。あいつらが展望台にいるから、僕らはこのまま殿下についていこう」


 それで俺とウィーは、ボートの乗船口の前の行列に並んだ。


「漕ごうか?」

「しなくていいよ。それより、殿下から目を離さない方が大事だから」

「う、うん」


 やっぱり、どうもウィーの様子がおかしい。今朝からずっとだ。変に落ち着きがなく、ソワソワしている。俺達はカップルのふりをしているのだから、普通に振る舞えばいいのだ。男がボートを漕ぎ、女はただ座って、水上からの眺めを楽しむ……かのように見せかけて、殿下を見張る。


「でも、今のところ、何もなさそうだよ」

「そんな気はする」


 微風が吹き抜ける。湖上にはポツポツとボートが点在しているが、どれものんびりしていて、動きがない。一応、ピアシング・ハンドと精神操作魔術で確認は済ませてある。殿下を殺害できそうなのは、見える中には一人もいない。

 その向こう、岸辺の方はというと、緑の低木がぐるりと取り囲んでいる。更にその向こうは普通に公園の敷地で、通行人がいる。もしグラーブを暗殺したいのがいるとしても、あんな遠距離からでは難しい。しかも自分を隠し切れない茂みなんかに伏せていたら、近くにいる人に不審者と思われる。


「本当は、護衛だけすればいいなら、手抜きをする方法がないでもないんだけどね」

「え? なら、どうしてしないの?」

「殿下が見えなくなっちゃうから」


 精神操作魔術の『人払い』、今の俺があれを使えば、普通の暗殺者ならもう、殿下を視認すること自体が困難になる。


「それでいいんじゃないかな」

「まずいんだよ。今回のデートは、新聞にすっぱ抜かれることになってるんだから」

「ええ?」

「ああ、えっと、つまり、既成事実ってやつ。そうじゃないと、貴族の娘でもないレノが、殿下とお付き合いなんて、できるわけないから」


 周りのボートの中には、新聞記者もいる。もちろん、ベルノストが裏から手をまわしたからだ。都合のいいゴシップ記事を拡散するのが、彼らの仕事だったりする。その後の追加記事も、内容はもう決まっている。父王は頑として交際を許さない。正式な王妃は貴族の娘でなければならないから。殿下は反発。側妾として受け入れることで双方妥協。純愛ストーリーはここで幕を閉じる。

 心配しなくても、人の噂も七十五日。グラーブが学園を卒業する頃には、レノがバックアップをアウトプットしていることだろう。でも、誰も関心なんて抱かない。リー家はエスタ=フォレスティア王国とのパイプ構築の足掛かりを得る。そのままレノは日陰の女として、後宮の一角で暮らす。運よく男児に恵まれていれば、タンディラールもとりあえずは一安心だ。


「なんか、ややこしいこと、してるんだね」

「まぁ、ね。殿下も気の毒だとは思うよ。自分の気持ちなんて関係ないんだから」


 この辺の話は、タマリアには通じないだろう。でも、仮にも貴族の娘として生まれ育ったウィーには、理解がある。


「お世継ぎ、か」

「うん」


 さっきまでの落ち着きのなさが、少し収まった。代わりに、表情に暗い翳が差す。


「ファルス君は」

「え?」

「どう思ってるのかな」


 目的語が欠落している。


「どう……あっ」


 グラーブが移動を開始した。さすがにお喋りに夢中になっているわけにはいかない。

 俺が慌てて漕ぎだすと、ウィーも沈黙した。


 大勢の目に触れる湖面の真ん中から、水路の奥へと進んでいく。どうしてまた、そんなところへ、と言いたくなるのだが、これがデートであることを考えるなら、まったく当然の選択であるというしかない。

 左右は黒々とした岩壁に挟まれている。その無骨な壁面のところどころを、緑の苔がそっと彩る。小さな滝ができていて、飛沫をたてている。そこに柔らかな陽光が差し込む。頭上を緑の木々が薄っすらと覆ってくれているからだ。そんな湖面を、時折、爽やかな秋の風が吹き抜けていく。こんな気持ちいい場所に寄らないカップルなんて、不自然にもほどがある。

 そっと頭上を見上げると、橋が架かっていた。さすがはニド。タマリアを連れて、なんでもないという顔をして、そこに陣取っていた。狭い水路にグラーブが向かうから、高所に陣取ったままでは見失ってしまう。それですぐさま判断して、ここまで駆けつけたのだろう。

 垂れ下がる木の枝、その先の黄緑色の葉っぱが、透き通って見える。その下を、音もなくボートが滑っていく。水路は僅かずつ屈曲しているし、こういう枝葉に隠されるポイントもある。岩壁もまっすぐではなく、自然のままの窪みが残されている。護衛対象に近づきすぎてはいけないが、駆けつけられない距離にいるわけにもいかない。


「へぇ……」


 さっきまでの暗い表情がすっかり拭い去られて、ウィーはご機嫌に見えた。確かにこの場所は気持ちいい。憂鬱な気分を引きずるのは難しそうだ。


「こんなところがあったんだ」

「僕も初めてだし、知らなかった」

「もっと早く来ればよかった」


 どうやって、何しに、と言いたくもなる。

 とはいえ、誰か女性を口説くなら、なるほど、ここまで連れてくるというのも悪くはない。人目には付きにくく、景色は綺麗で、物音も滝の飛沫が消してくれる……


「ヒャッ」


 ウィーが息を呑んで、急いで自分の手を口に添えた。なんだ? 何かあったのか!

 と思って、漕ぐ手を止めて鋭く振り返る。そこにあったのは、襲撃を受けたグラーブでもなければ、水路に転落したレノの姿でもなかった。

 岩陰に一隻のボートが浮かんでいた。俺達とはまったく関係ないカップルだ。人目につかないと思ってか、彼らは抱き合い、熱烈な接吻を交わしていた。一瞬、あっけにとられたが、慌ててピアシング・ハンドで能力を確認する。問題なし。二人は暗殺者でもなんでもない。

 見落としとは、危なかった……と胸を撫で下ろしながら正面を向くと、ウィーが真っ赤な顔をして、スカートの裾を握りしめていた。


 水路を抜けると、鍋の底のような場所に出た。俺達は西側から入り込んだのだが、北側にまた、大きな湖の中央に出られる水路が繋がっている。周囲は岩壁に丸く囲われていて、その上には木々もない。つまり、狙撃手が伏せていたりもしない。

 グラーブとレノのボートは、そんな遮るもののないところを漂っていた。他に浮かんでいるのはボートが二つほど。しかし、いずれにも戦闘能力のある誰かは乗っていないし、護衛対象からは距離もある。余程のことがなければ、ここから二人を襲撃するのは不可能だ。できるとすれば『憑依』の魔法をかけた人物を経由して、更に魔法を使って攻撃、ということになるが……使徒や俺じゃあるまいし、そんなレベルの相手まで想定していたら、キリがない。

 遠くから眺めた限り、グラーブはレノとの会話を中断して、ボートの上で休んでいるようだった。表情からは、軽い疲労感がみてとれる。それでも口元には笑みを浮かべてはいるが。


「ねぇ」


 ウィーが俺に尋ねる。


「どうしたの?」

「あ、別に殿下に何かあったってことじゃなくて……関係ない話なんだけど」

「うん」


 雑談も、していけないということはない。視界の隅にはグラーブのボートが見えている。


「今の……その、なんていったらいいかな」

「今の?」

「だから、さ。ファルス君って、ワノノマのお姫様の、居候してるんでしょ」

「ああ」


 何のことかと思いきや。


「どんな気分なのかな、って思って」

「どんなって……慣れてはきたよ」


 いいも悪いもない。俺は、監視を受け入れるつもりで、あの旧公館に立ち入ったのだから。


「えっと、そうじゃなくって」

「うん?」

「やっぱり、このまま、お姫様と結婚して、貴族として生きていきたいのかなぁって思って」


 やっと質問の意図が理解できてきた。


「そういうことか。えっと……なんていうかな。まず、ティンティナブリアだけど、多分、復興が済んだら、すぐ陛下に返上するよ」

「どうして? 陞爵してほしいの?」

「いや、全然。そうじゃなくって……あー、なんて言おうか。でも、ウィーもあの、王都の内乱にいたんだし、わかりそうなものなんだけど」

「うん」

「あれでフィルシー家を取り潰したんだよ。せっかく直轄領にしたのに、それを陛下が手放すわけなくって。僕も別に、貴族の地位にこだわってるのでもないから」


 するとウィーは、不思議そうに首を傾げた。


「じゃあ、ファルス君に何の得があるのさ」

「別に得しなくていいんだよ」

「なら、領地を返上したら、その後は?」

「陛下は、僕を将軍の一人にしたいのかもしれないけど、多分、そうはならなくて……身の回りのことが片付いたらだけど、爵位も返上して、ワノノマまで行くことになるんじゃないかと思ってる」


 すると、ウィーは青い顔をして絶句した。


「どうしたの?」


 その顔が、歪む。はっと我に返った彼女は目元を抑えた。だが、隠し切れない涙の雫が頬を伝う。


「えっ? えっ! えぇっ」


 櫂を手放し、俺は慌てふためいた。


「な、何か変なこと、言った?」


 わけがわからない。爵位や領地に興味がないから、復興が済み次第、立ち去るというだけなのに。


「あ、も、もちろんウィーの身分は保証する。安全は確保するから」

「そういうことじゃない」


 涙声が、顔を覆う手の隙間から漏れてくる。しゃくりあげながら、やっとウィーは声を漏らした。


「そう、なんだ……そんなに」

「はい?」

「姫様のことが、そんなに……幸せに、ううう、なって」

「ちょ、ちょっと! なに勘違いしてるの?」


 うろたえつつも、ちょっと自分の挙動が目立ちすぎていないか、それより護衛対象は無事か、俺は慌てて周囲を見回した。

 俺に気付いたグラーブが、何か遠い目をしていた。会話は聞こえていないと思うが、仕草は見えている。


「勘違いって、なに」

「別に、ヒジリと結婚したくてワノノマに行くんじゃないよ」


 声量を抑えながら、俺はそっと言った。


「へっ?」

「見張られに行くだけだから。ほら、だって、その、ウィーも知ってるでしょ? 僕の……」


 俺が言葉を濁したことで、ウィーも何を話題にしているかを察したらしい。おずおずと覆う手を下ろし、涙の痕の残る顔でこちらをまじまじと見る。


「バレたの?」

「バレたっていうか、その、部分的にはなんとなく知られつつあるというか」


 俺は左右を見回して、より小声で言った。


「元々は、ヒジリは僕に好き勝手させないために送り込まれたんだから」

「そうなの?」

「表向きは、ヒジリが僕に一目惚れして、オオキミが折れてくれて婚約したことにはなってるけど。おかしいでしょ? 本気で僕のことを気に入ってそうしたのなら、どうしてヒメノみたいなのを僕にあてがったりするんだって」


 微妙な間が空いた。時が止まった。

 ではなぜ、そんなことのために急に泣き出したのか、という疑問に答えなければならなくなった。それは半ば自明だった。そして、それが自覚されてくるごとに、ウィーの表情はまた、目まぐるしく変化した。目を輝かせ、目を泳がせ、やっと俯いて、見る間に顔が赤くなる。


「え、えっと」


 何かを言い出そうとして顔をあげ、俺と目が合う。そして数秒間。


「わぁぁっ!」


 羞恥心に耐えられなくなって、ウィーは叫びだしてしまった。


「だって! だってしょうがないじゃないか! ボクは毎日毎日、君のことばっかり考えてたんだからさ! 今となっては、ボクのことわかってくれる人なんて、他にいないんだし! そんなわけないって、何度も自分に言い聞かせたよ! だけど、どうしようもないんだ! だって、君を見ると安心しちゃうんだもん!」

「ウィー! 声、声!」


 グラーブだけでなく、レノまでこちらに気付いてしまったらしい。とはいえ、一度会っただけの俺を認識はしていないようだが。


「あ、う、う」

「い、今、一応、護衛のお仕事中だよ?」

「ど、どうして」


 腰を浮かしかけていた彼女はガックリと沈み込みながら、嘆いた。


「どうしていつもボクは、やることなすこと間抜けになっちゃうんだ! こんなつもりじゃなかったのに!」

「そ、それを僕に言われても」


 どんな顔をしたらいいのかわからない。もう、恋の告白をされたも同然だから。


「でも、そうなんだ」

「そうなんだ、って何が?」

「決まった相手は……まだいないってこと」


 それを言われると、難しい話になる。悪いのは俺なのだが、果たしてこれまで身を削って俺の傍にい続けたノーラをどうするか、そこをなんとかしなければならない。普通なら、とっくに婚約でもなんでもして、という話なのだが、姉弟かもしれないという問題もあって……

 俺が何も言えずにいると、ウィーは涙を拭って、照れくさそうに微笑んだ。


 それからしばらく。

 グラーブのデートは無事に終わった。二人が迎えに来た家臣達に回収されたのを見届けて、一度、俺達は合流した。ニドはニヤニヤしながら俺とウィーを見比べてきた。タマリアはベルノストの美貌が気に入ったらしく、ああいうのが好みだと繰り返した。それから解散した。

 帝都には印刷技術が残されており、市民は新聞に目を通す。デートの翌日には、早速、密会のすっぱ抜き記事が掲載されていたという。

 なお、俺はベルノストを経由して、グラーブからのお小言をいただいた。王太子の護衛任務より女遊びの方が大切だとは、いかにもお前らしい、と。返す言葉もない。


 個人的には新たな問題を抱え込むことにはなったものの、これで一件落着……したはずだった。

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