朝の襲撃
いつものように制服に着替え、ミアゴアの用意した朝飯を手早く平らげて、出発を見届けるために裏口に陣取っていたファフィネに見送られながら、俺は公館を出た。そうして朝日の照らす道を歩く。今、俺は一人だ。けれども、この自由な時間は長続きしない。
一番橋の大通りに出ると、対岸に繋がる地下道が暗い口を開けている。その脇に、鞄を両手に人を待つ女の子がいる。その彼女が、俺に気付いた。
「あっ、おはようございます」
「あ、ああ、おはよう」
即席カップルとも言うべき俺とヒメノだが、初日のトラブルを別とすれば、以後はほぼ毎日一緒に通学している。ただ、待ち合わせ場所は公館ではなく、こちらになった。
「なんだか毎朝悪いなと」
「そんなことないですよ」
ふんわりと微笑んで、彼女は俺の右隣について歩き出した。
「ファルスさんは、私が守りますから!」
そういってガッツポーズをとってみせた。これには苦笑するしかない。
リシュニアやケアーナといった超のつくお嬢様ばかりが身近にいるから勘違いしてしまいそうになるのだが、留学生のみんながみんな、あんな立派な寮で暮らしているのではない。圧倒的大多数の学生は、もっと安価なところで起居している。それはヒメノも同様で、彼女は商社街の南、東の一号運河と二号運河の合流地点に近いところの、割と大きな寮で生活している。
そうなると、公館まで来てから通学するというのが、結構な遠回りになるのだ。これまでは朝の乗合馬車で商社街を縦断して、大通りを西に向かう途中の最初の停車駅で降りればよかったのだが、俺のお迎えがスケジュールに組み込まれると、もう一つ向こう側、一番橋の手前の停車駅まで馬車に乗らなければいけない。そこから更に歩かせるのは、さすがに申し訳ないので、地下道の前で待ち合わせということにさせてもらったのだ。
「寮での暮らしはどう?」
「慣れてはきましたけど、やっぱりいろんな人がいて、面白いと思います」
階段を下りながら、俺達は雑談を始めた。
「よくお休みの日になると、いつもワディラム王国の子達が、昼食会をしてくれるんですよ。朝からご馳走を手作りして。で、混ぜてもらえるので、それが楽しみです」
「へぇ、そうなんだ」
そんな返事をしながらも、内心では納得している。サハリア人の社会では、女が表に出ることはあまりない。ジルやキスカみたいに弓を片手に男達の間に交じって戦う、なんてのは稀なのだ。ましてや定住しての都市生活が当たり前になった西部サハリアの人々となると、その傾向は更に強い。彼女らは通学に際して制服を着用することさえ珍しく、その場合でも多くは髪を隠すスカーフを身につけていたりする。スカートの丈も長めにとる。膝が見えるのは娼婦の服。そういう価値観だから。
ただ、では一切社交もせず、引きこもって暮らすのかといえば、彼女らも生身の人間である以上、そんなのには耐えられない。女同士では、大いに着飾るし、遊ぶのだ。
「すごく親切ですよ。お料理の材料費がかかるからってお金を出そうとしても、最初は断られちゃいました。お客様だからって」
「そういう文化だからね。ものすごくプライドが高い。だからいつもニコニコしている」
ヒメノは、思い当たる節があるのか、黙って頷いた。
この手の文化における親切さ、人当たりの良さは、まさしくプライドの高さと隣り合わせだ。いわゆる日本の田舎の世話焼きとは、ロジックが異なる。
鷹揚に振舞うのは弱みを見せないため。怒りを露にしないのは、争いを避けるため。いったん真顔でやりあったら、どこまでもエスカレートしてしまうから。
「楽しそうだね」
「ファルスさんは参加できませんよ? 女の子しか招いてくれませんから」
「料理だけでも見せてほしかった」
「ふふふ、いつもそれですね」
もののついでに、気になっていることについて、もし知っていればという気持ちで尋ねてみた。
「そういえば、そっちにはフォレス系の人もいるんだっけ」
「はい? それはいますよ。一応、貴族の娘とか、そういう人も」
俺が気にしているのは、例のグラーブの側妾候補のことだ。ケアーナから説明されたので、名前と実家だけはわかっている。三人とも三年生で、王都住まいの宮廷貴族の家の出だ。家格は男爵だが、世襲が許されている。要は代々官僚を輩出している家系だ。そして、都合よくどの家にも後継者たる男児が生まれていないか、夭折している。近年の内乱の影響もあって、こうして断絶に向かう家というのが、割と簡単に見つかるようになっている。
ナラドン家の事情を思い起こせば容易に想像がつくのだが、そういう家の経済事情は、決して恵まれているとは言えない。官僚の仕事から得られる俸給が何よりの収入源で、お情け程度の年金があるだけなので、娘の教育などにお金をジャブジャブ注ぎ込むなどできないのだ。
「そっちの人達とは、接点はあるのかなって思って、ふと」
「私はないですね。エスタ=フォレスティアからきた先輩方のこととかですか?」
「あ、うん、ちょっと気になって」
顎に手をやり、考えながら歩いて、それからヒメノは答えた。
「そうですね。私の寮にも何人かそういう方はいますけど、あんまりご一緒することがないです」
「それは、別の集まりに顔を出してるとか?」
「いいえ。いつも外出なさっているみたいですよ。懐事情が厳しい人もいますから、お仕事をしていることもあるみたいです。これがサハリア系の女の子達とかだと、だから週末にお食事会をしたりするんですけどね。お金のない子はあれで食費も浮きますし、使わなくなった教科書とかも融通してもらえますから」
「なるほど」
アルバイトをしながらの苦学生、なんてこともあるのか。横の繋がりで金欠を乗り切るサハリア系の女子学生と、個人の努力で足りないお金を埋め合わせるフォレス系の学生、といったところか。
もちろん、そうはいってもギルほど貧しいのは、彼女らの中にはいないだろうが。
「今日も遅くなるんですか?」
「あ、悪いけど、教授に仕事振られちゃったから、蔵書の」
「問題ないですよ。刺繍の練習をしながら待ってますから」
ケクサディブはフシャーナのことを怠け者と評したが、どうやらそれは事実らしい。もう一台のゴーレムを補修するという名目で、そちらにかかりきりになっていた彼女は、書庫の清掃や蔵書の手入れなどの仕事を俺に丸投げした。放課後に顔を見に行くと、何か本を読んでいるか、ゴーレムをいじっているか、さもなければ居眠りしているかのどれかだ。
ただ、待たされるヒメノには申し訳ないが、その時間の半分くらいは、俺の調べものに充てられている。醤油の手がかりを求めて、片っ端から歴史書に目を通しているのだ。
で、どうも大昔、今から七百年ほど前には、そういった技術があった可能性がある。偽帝の最後の戦いに巻き込まれて、市内のいくつかの施設が焼け落ちたのだが、その中には公営食品工場も含まれていた。帝都の専売品を製造していたらしく、以後、それによる収益が失われたという記述に行き当たった。
ありそうな話だと思う。帝都には専売品が数多く存在していて、その多くが公営、ないし半官半民の企業によって営まれている。最初にその存在を知ったのはゲームの公式カードだが、他にも、例えば粉ミルク工場なんかがそうだ。ただ、こちらは暗黒時代を経て大陸の人々の生活様式が変わったために、今では輸出されることはほぼなくなってしまったのだが。
中央陸塊……このチーレム島は、本来、皇帝の支持基盤としての機能が求められる場所だ。しかし、大陸ほどの農業生産力など期待できない。だから、特に経済力を持たせるために、そうした専売事業を残しておいたのだろう。ただ、そのせいで醤油工場が他の大陸に建設されることもなく、統一時代の終わりと共に技術も失われてしまったのではないか。
地下道を抜けて、地上に出る。もう学園は目と鼻の先だ。
「……今日はいないといいですね」
ポツリとヒメノが呟いた。
だが、校門を越えて敷地内に踏み込んだところで、今朝も面倒な連中が待ち構えているのに気付いた。今回は合計四人の女子学生のグループだ。恐らく全員が帝都出身者。視線が一斉にこちらに向けられる。制服の紐ネクタイで、学年がわかる。全員、三年生らしい。
要するに、同級生の女生徒で俺に手を出す馬鹿者はいないのだが、噂だけ聞いた連中はとなると、必ずしもそうではなかったということだ。
「ちょっといいですか?」
無論、面識などない。だが、四人のうちの一人が、馴れ馴れしく話しかけてきた。
「なんでしょうか」
「私達、お茶会の活動をしていまして」
またこのパターンか。サークル活動の勧誘です、という名目で話しかける。もちろん、部員を増やしたいのではなく、俺を引っかけたいのだ。
つまり、これも彼女らの就職活動ということができる。学園に入ったはいいが、ただそれだけで、特にコネも何もなく、才能もないのに努力もしてこなかった。今から頑張っても、商社街の下っ端事務員になる未来しかない。それだって悪い人生ではなかろうが、彼女らはここで光り輝く王侯貴族の子女を目にしてきている。あわよくば、自分達もそちら側の一員になりたい。
成り上がりの新興貴族というのは、おいしい獲物に見えるらしい。その判断は、不自然とは言えないだろう。いろんなものに恵まれて育った生まれながらの貴族は、今更、女の色香一つに迷ったりはしない。簡単に手に入るものの価値は低いのが普通だから。しかし、高い地位を得たばかりの人物にとっては、必ずしもそうとは限るまい……まだ彼らには満腹していない可能性がある。ゴーファトが「サルの群れ」に追い回されたというのも、こうして自分がその立場になってみると、自然と理解できるというものだ。
「せっかくですけど、既に他のサロンに所属していますし、忙しいので」
「一度だけでも来ていただけませんか?」
そう言いながら距離を詰めてくる。今回の相手は、かなり強引な攻めを仕掛けてきた。いきなりハグするつもりらしい。
だが、その間にヒメノが割って入った。
「ファルスさんは、気乗りしないようですよ」
ここ数日、こういった形でずっとヒメノに守られてしまっている。言葉のやり取りはともかく、身体的接触はまずい。抱き着かれるのも絡みつかれるのも困るのだが、突き飛ばしたりするのも憚られる。何をしても、されても、こちらが悪者になってしまうのだ。
「あなたには関係ないでしょ。あなたは誘ってないから」
「関係あります。お引き取り下さい」
「あなたには話しかけてないって言ってるの。どいて」
「どきません」
眉根を寄せて、四人の女子学生がヒメノに手を伸ばした。だが、それはやめた方がいい。ヒメノは、なるほど、ヒシタギ家の娘としては軟弱な部類ではある。だが、近年まで現場で戦い抜いてきた豪族の家の出なのだ。最低限の心得はある。
彼女の頭の中にある武術の常識は、いわゆる道場拳法のそれではない。髪の毛は掴む、指はへし折るといった、なんでもありが常識だ。彼女は温厚で争いを好まないが、それはそれ、これはこれなのだ。一線を越えた時の反応が、帝都の甘ったれた女達に想像できる範囲にはない。
以前に一度、ヒメノの頬を張った馬鹿な女がいたが、小指を握られて路上に引き倒されていた。もちろん、露ほどの怒りも示さずに。まるで料理人が、客に出すために鶏の首を落とすとき、こういうのが本当は苦手なんだよね、と溜息をつきながらやるのと同じような感じで。
「この」
「その辺になさいませ」
女達の怒りのボルテージが上がり切る前に、その背後から冷え冷えする声が浴びせられた。彼女らが振り返ってみると、そこにはマリータ王女と、その取り巻きの女子学生達が居並んでいた。
「毎朝のように騒がれると、さすがに不快です」
分が悪いと察した女達は、睨み返しはしたものの、それが精いっぱいだったらしい。そのまま踵を返すと、速足になって立ち去っていってしまった。
ほっと胸を撫で下ろすが、すぐ別の問題が近づいてくるらしいと気付いたヒメノは表情を引き締め直した。遠慮なく歩み寄ってきたマリータは、俺とヒメノに声をかけた。
「ごきげんよう」
「おはようございます」
「毎朝大変そうですわね」
どんな顔をしたらいいかわからないのだろう。ヒメノは戸惑いながら、やっと言葉を返した。
「はい」
「ああいうのは、もうしばらくでいなくなるでしょう。くだらない夢を見ていられる時間もあとちょっとですから、すぐ就職のために動き出さなくてはなりませんからね。とはいえ」
その視線が、俺に向けられる。
「いかがでしょう……ヒメノさんと仰るのでしたっけ」
「はい、そうです」
「お手間なら、一日くらい、私があなたのお役目を肩代わりして差し上げてもよろしいのですよ?」
彼女の気持ちを知る俺としては、これには何とも答えようがない。だが、結論なら決まっていた。
すぐ後ろから、取り巻きが追いかけてきた。そして、身振りと表情で、そろそろ会話を切り上げるようにと急かしている。
「まぁ、気が向かれましたら、いつでもご相談くださいな」
そう言いながら、マリータは身を翻した。
今朝の襲撃は、どうやらこれで片付いたらしい。
この手の貴公子狙いの襲撃は、普通は年初に集中する。私達のサロンに入りませんか、というのがそれだ。この時には、玉石混交で手当たり次第に声をかけるものらしい。だが、蟻地獄のようなこの手の逆ナンパサロンでは、その後、身分その他条件のよろしくない男子学生はそっとスルーされるようになり、おいしい獲物だけが奪い合いになって、勝負がつく頃には自然と解体される。
ただ、だからこそ留学生の側にも対策があるのが普通だ。まず、愛人などを出国前に用意するというのが一つ。俺がそうされたように、派閥の長が即座に自分のサロンに学生を囲い込むのもそうだ。そして俺が自発的にそうしたように、身分をぼかす場合もある。
だが、時間経過とともに、後から身分が判明した場合には、こうして後期の授業が始まってからでも、捕食者が活動し始めることもある。
だから、結果としてヒジリの押し付けた彼女としてのヒメノは、俺の助けになってくれている。
「ふう、大変でしたね」
「いつもおかげで」
「もう、そんなのいいっこなしですよ」
俺に振り返り、笑みを浮かべて小さく手を振ると、ヒメノは校舎へと駆けていった。
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