第四十六章 恋と醜聞

夏の恋の勝者

 漆黒の宇宙を彷徨っているかのようだった。地上は見えず、星々すら足下遠く、微かに瞬く。そんな中、離れたところに太陽のような金色の光が浮かび上がっている。歩み寄ってみれば、なんてことはない。ただの丸い金貨だ。それは展示用のガラスケースの中で、往時の輝きを放ち続けていた。

 この博物館の一室に光を齎しているのは、天井近くにある磨りガラスの窓だ。これが適度に光を散乱してくれるので、展示物を見るのに充分で、しかも無駄に明るすぎない。内装は黒御影石で仕上げられており、特にこういう金貨のような遺物が引き立って見える。そして石造りの重々しい建屋が、夏の終わりの蒸し暑さを遠ざけてくれている。


 珍しく朝早く目が覚めた。ミアゴアが手早く朝食を用意してくれたので、少し早めに公館を出た。授業まで間があるし、どうしようかと思った時に、図書館に併設されていた、この学内の博物館に足が向いた。

 内部に陳列されているのは、世界各地の遺物の数々だ。その中には統一時代以前のものも含まれている。俺が今、見下ろしていたのは、あのティクロン共和国の金貨だった。現代に流通している統一時代以後の金貨より、一回り大きい。表面には何かの文字が刻まれているが、俺には判読できなかった。


 初めて目にするのに、なんだか懐かしい。アイドゥス師のことを思い出したから。あの夜、あの牢獄の一室で、彼は残された僅かな時間を、俺のために費やしてくれた。でも、彼も最後に吐き出したかったんじゃないかという気もする。セリパシア帝国の正統が、まさか売春婦を土台にしているなんて、どこでも言えなかっただろうから。

 アイドゥス師の死は悲劇なのに、今、俺には静かに微笑む余裕がある。それは彼を軽んじているのではない。彼の最期は歴史の一部になり、歴史の中に生きる俺の一部にもなった。彼の肉体は既に朽ち果て、その魂もこの世界に残っているはずはないのに、どういうわけか、何かが今なおここに存在し続けている。


 ただ、そうすると、俺は彼の贈ってくれたものをちゃんと活かせているのか、と自問自答せずにはいられない。彼は俺の旅を肯定してくれた。あの時、彼は一枚の金貨を通して、この世界のありようを語ってくれたが、自分の中で理解を深めることができているだろうか。

 以前、ミルークが語ったことをタンディラールにそのまま伝えた時、彼に理由を問われ、俺はろくに答えることもできなかった。学んで覚えただけで、考えるときにその道理を当てはめる努力をしていなかった。愚かだった。ミルークはあくまで切り口、ヒントを与えてくれただけなのに。

 やっぱり、俺には何か、未解決の問題がある。そのことを、この輝く金貨が思い出させてくれた。


「おー、おはよう」


 教室に立ち入ると、俺の気配に気づいたギルが、突っ伏していた机から身を起こして挨拶した。


「お疲れだな」

「今日からまた授業だからな。休みのうちじゃなきゃ、一日中稼げねぇし。昨夜遅くまで居酒屋で皿洗いしてたんだ」


 相変わらずの苦学生っぷりだ。


「でも、例の……警備の仕事の稼ぎは?」

「ああ、あるよ。貯金してある。けど、いつ金がなくなるかもわかんねぇしな」


 俺も自分の席に腰を落ち着けて、一息。そこで、なんとなく居心地の悪い空気をやっと察した。女生徒の囁き声が、耳をかすめていく。教室の隅の方に固まっていた女子生徒が三人ばかり、俺の方を盗み見て、ひそひそと喋っていた。


「噂は本当だったのかしら?」

「ね? 気をつけておいて正解だったでしょ? うっかり妊娠させられるところだったわ!」

「シーッ」


 姦しいこと。まったく、彼女らの頭の中には色恋沙汰しかないんだろうか。

 ラーダイがしっかり言いふらしてくれたのだろう。おかげで今の俺は、姫様でも構わず口説く、稀代のナンパ師だ。


 でも、誰も俺の内心の戸惑いを知らない。前世では、女性に相手にされないことがコンプレックスだった。正直なことを言えば、自分だってモテたいと思った。顔がきれいで性格もいい女の子が次々自分に言い寄ってきたらきっと幸せなんじゃないかと。でも、それは妄想だから楽しいのであって、現実となればまったく違ってくる。

 ニドみたいに遊んで捨ててを繰り返せるならともかく、俺にそんな余地はない。一つには俺の心構えができていないということなのだが、もっと現実的に問題となってくるのが相手の身分だ。特にマリータ王女なんて、歩く爆弾みたいなものじゃないか。

 誰も傷つけずにきれいに決着をつける方法があったら、教えてほしいものだ。でも、自分でも気がついている。心の片隅では、こんな風に好かれていることに、小さな喜びを感じてしまっている。我ながら、なんて嫌な奴なんだろう。苦しい旅の最中には、ノーラの気持ちを察していても、あえて目を背けていたのに。安楽の中に身を置いた途端、小さな欲望が、まるで腐肉の中を蠢く蛆虫のように顔を出すのだ。


 と、そこで別の嫌な空気を感じ取った。じっとこちらに向けられる視線。その主は、もちろんマホだ。敵意と不安が入り混じった、何とも言えない表情。だが、何かを言い出そうにも、声を出せない。監視がてら、無言で魔術を発動させてみた。心の声が聞こえてくる。


《あり得ない、認めない、そんなこと、あってはいけない》


 はて、かなり取り乱しているらしい。


《あんな脅迫なんかに屈してはいけないのに、話そうとすれば口が開かないし、書こうとすれば手が止まる……あまりに恐ろしいことがあると、人はそのことを語ることもできなくなるというけど……認められない、認めたくない、私はそんなにも怯えているというの?》


 中途半端に頭がいいと、なんにでも理由をくっつけてしまうものらしい。単に魔術で行動を束縛したから言ったり書いたりできないだけなのに、こうしてマホは、感じてもいなかったはずの恐怖に自らはまりこんでしまった。もちろん、俺にとっては都合がいいから、その間違いを訂正してやるつもりなどない。

 やっぱり、敵意の方がずっとわかりやすいし、迷いも生じない。そしてそんな感想を抱いてしまう辺り、俺の精神にもどこか何か、いまだに不健全で脆弱な部分があるのだろうと再確認する。


「後期の授業、何取ろうかなぁー……」

「ギルの場合、難しいな。有力者に見初められるようなことで、となると」


 頭をバリバリ掻き毟ってから、ふと思いついて彼は手を止めた。


「だったら言語でも取りまくるか。いまだにハンファン語はよくわかんねぇし、サハリア語もカタコトだし。シュライ語とかワノノマ語なんかもうサッパリだ」

「ルイン語は相当に詳しいのにな」

「伊達に聖典読みまくってねぇよ。けど、今んとこ、何の役にも立ってねぇんだよなぁ」


 ギルはこれで、実は有用な人材になり得る素質が揃っている。血筋も一応名家の傍系で、偉すぎず卑しすぎず、ちょうどいい。体格は大きく、しかも鍛えている。それでいて頭が悪いかと言えばそんなことはなく、特に歴史書を読み漁っては日々知識を蓄えている。しかも誠実で勤勉ときた。貴人の従者としては、この上ない資質があると言える。

 となると、今のギルになくて、必要とされる能力は……


「乗馬、場合によっては操船、あとは」

「あん?」

「できれば魔法もかじる程度。風魔術がいいと思う」


 話についていけず、彼は首を捻った。


「なんだよ、それ」

「就職に役立つ技能の話。偉い人の従者になるなら、いつでも随行できるよう乗馬くらいはできないと。いざとなったら護衛の役目も果たすし、右腕として駆け回る必要も出てくる」

「おー、なるほどな」


 その時、教室にワッと小さなざわめきが起こった。扉の方に視線を向けると、そこには一人の女生徒が立っていた。


「あ、あの」


 まさかマリータが、と内心ビクビクしていたのだが、そこに立っていたのはヒメノだった。


「ファルス様……さんに、用事が」


 内気なところのある彼女が、か細い声でそう言うと、また教室はざわめきに包まれた。その理由がわからず、ヒメノの目が泳ぐ。もちろん、教室内の生徒達はこう考えているのだ。ファルスのやつ、これでいったい何人目なんだ、と。

 俺がグズグズしていると、ヒメノが好奇の視線にさらされ続けることになる。すぐ席を立った。


「どうしたんですか」

「あ、今日、なんですけど」

「はい」

「そちらの旧公館の方にお伺いしますので、できればご一緒に」

「えっ?」


 何の話だ?


「ええと、ヒメノさん、何かヒジリに陳情することでも」

「えっ?」


 ところが俺の質問に、ヒメノこそ不思議でならないという顔をした。

 なんだ、一人では言いにくいことがあるから、俺に同席してほしいとか、口添えしてほしいとか、そういう話ではないのか?


「ファルス様、何も聞いておいでではないんですか?」

「はい? あ、いや、何も。寝耳に水ですが、どんな用件ですか?」

「いえ、私も呼ばれただけなのですが」


 どうも要領を得ない。何の話だろう? これは何か、マツツァかタオフィか、誰かが俺に伝達し忘れた用事があるとかではないのか。


「わかりました。でも、済みませんが、今日は帰りが遅くなりそうなんです。多分この後、大事な用事が」

「いえ、構いません。では、それまでお待ちしてもよろしいでしょうか」

「それはもちろんです」


 放課後に、俺は恐らくフシャーナに呼び出される。未確定ではあるが、ほぼ確定だ。例の事件の後始末が、これから始まるのだから。そんなものは夏休みが終わる前に片付けておいてほしかったのだが、あちらにもいろいろ事情があったらしい。よってヒメノには悪いが、少し長く待ってもらうことになる。

 学期の始まりからあれこれと慌ただしい。ヒメノを見送ってから、振り返って溜息をついたところ、目の前にまた女がいた。


「わっ」

「少しいい?」


 珍しい。自分の席に戻ろうとする俺の前に立ち塞がっていたのは、なんとケアーナだ。


「なんですか」

「今日、暇?」

「これ以上、予定は詰め込めません」


 何を考えているんだろう。教室中の視線がこちらに集まっているのに。いや、これはわざとか?


「じゃあ、近々二人でお茶でも飲みに行きたいから、付き合ってもらえる?」

「何のためですか」

「野暮なこと言わないで欲しいんだけど」


 教室内のひそひそ声が、またざわめきに変わる。

 だが、この時点で俺はもう確信していた。


「わかりました。では、またそのうちに。明日以降なら」

「うん、お願い」


 ケアーナのこれは、恋愛関係ではない。逆だ。むしろ周囲からそう見られかねないことを承知していて、意図的に話しかけた。つまり、本当にここでは話せない、大事な秘密があるのだ。それも心を読み取れば、先んじて知ることはできるが、その必要はないだろう。察するに、俺に一仕事させたいというだけの話なのだろうから。

 今度こそ、ほっと息をついて席に戻る。その俺をギルがぼーっとしながら見上げている。


「女、女、女……」

「好きでこうなってるわけじゃないぞ」


 椅子に腰かけて、これからどうしたものかと考える。だが、今の状況は想定していたより良い。

 今も視線を感じるが、しかし、自分を売り込もうという女は出てこなかったからだ。ゴーファトは、自分が次期スーディア伯と決まった途端に女どもに取り囲まれたと言っていたが、俺にそれは起きなかった。なぜだろうと考えて、やっと思い至った。

 結果として、これは怪我の功名なのかもしれない。俺が貴族であるという情報と同時に、二人の王女に挟まれて下校したということが、知れ渡ったせいではないか。ラーダイに目撃されたくらいなのだから、他にも見ていたのがいても不思議ではない。

 いくら自分の容姿に自信がある女だとしても、まさか姫様と張り合えるなんて思っているようなのは滅多にいない。ましてや、リシュニアもマリータも、どこに出しても恥ずかしくない美人なのだから。


 そして、俺が教室内の話題の中心であり続けたのも、この瞬間までだった。

 扉の向こうから二人の姿が見えた時、周囲はワッと沸き立った。まるで芸能人が顔を出したかのように。


「マジかーっ!」

「キャーッ!」

「うおお、うまくやりやがって!」


 手を繋いで教室内に踏み込んできたのは、ランディとアルマだった。少し背が高くてひょろっとした印象のランディ、女性にしては背が高めの、縮れた長髪がよく似合うアルマ。夏の社交の際、コモについてきた二人だ。

 全然知らなかったのだが、他の生徒達はみんな把握していたらしい。要するに、俺があの夏の社交の時期、例の噂の出所を探るのに必死になっている間に、ランディはアルマと交際を重ねて、ついに口説き落としていた、というわけだ。


「彼女持ち一番乗りか。やるなぁ」

「お前らこれからどうすんの?」


 人だかりができている。そして矢継ぎ早に繰り出される質問に、ランディがはにかみながら答えていく。


「どうも何も、僕もアルマもやることは変わらない。二年後の公務員試験を目指して頑張るってだけだよ」

「二人揃って公務員って、手堅いよね」

「倍率結構高いと思うけど、頑張れよな!」

「ありがとう」


 ……なんだか負けた気がする。勝負でもなんでもないのだけど。いや、ここは素直におめでとうと言っておく。心の中だけで。わざわざ声をかけるほど深い関係性も、今のところはないのだし。


 その人だかりが、急に揺らいだ。


「はいはい、どいて。後期のホームルーム始めるから……あー、面倒」


 眠そうな顔をしたフシャーナが、ふらつきながら教室内にやってきたのだ。それで学生達も慌てて自分の席に戻っていった。


「コモ君」

「はい」

「これ」


 なにやら書き込まれた紙を数枚、彼に手渡すと、彼女は椅子に座って一度伸びをし、それから突っ伏して眠り始めた。

 その後の諸注意や連絡事項の伝達が、彼の手によって片付けられたのは、言うまでもない。

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