仕置きの時間(上)

 西二号運河の東側。西方貿易の要となるこの場所には、大きな倉庫がいくつも立ち並んでいる。海運会社ごとにそれぞれ区画を握っていて、昼間でも関係者以外は滅多に出入りしない。紫水晶の月も、もう半ばが過ぎた。すべてを圧する昼間の太陽の下、一切が死に絶えたかのように静まり返っている。ゴトゴト揺れる木の車輪の音だけが、やけにはっきりと聞こえた。

 馬車から降りると、容赦のない陽光が白いコンクリートの床に照り返されて、目を焼いた。


「お待ちしておりました」

「手間をかけさせてしまって、済まない」

「とんでもございません」


 ともすれば熱中症で倒れかねないほどの暑さの中、あえて屋外に立ったまま俺を出迎えたのは、アスガルだった。いつものように、その大柄な体にサハリア風の白衣を纏い、白い帽子をかぶっていた。


「それより、確かなのか」

「複数の証言を得ました。間違いないかと思いますが、万一の際には私が責任を」

「いや、いい。いざとなれば、僕がどうとでも始末できる」


 アスガルが俺を呼んだ理由、それは例の噂を流した犯人を見つけたこと。一切の事情を知った彼は、これを悪質なものと受け止めて、その人物を秘密裡に拉致監禁した。そこまでやってしまってから、俺に連絡してきたのだ。昼食を中断して慌てて駆け付けたのは言うまでもない。ただ、俺ならいくらでも取り繕える。魔術で記憶を消してもいいし、尋問にしても、無理やり心を読み取れば済む。


「それで」

「こちらへ。一応、木箱の中に閉じ込めてあります」


 彼は先に立って歩き出した。

 並び立つ倉庫、その中の一つの前で立ち止まり、彼は自ら扉を開け、俺に先に入るよう促した。続いて入った彼は後ろ手で入口を塞いだ。


「あれです」


 倉庫の中には、警備担当のサハリア人が数人。無論、全員がアスガルの郎党だ。

 一つだけ、小屋と言えるほどのサイズの木箱があった。そこに犯人を閉じ込めてあるのだろう。


「引っ張り出せ」


 それで、大きな木箱の前にいた男が無言で頷き、外側にかかってきた閂を外した。それから中に手を突っ込み、一気に引きずり出して、木箱の前の床に放り出した。


「いつっ!」


 乱暴な扱いに、その女は短く呻いた。

 それから、這いつくばったまま、ゆっくりと顔をあげる。


「あ、あっ! な、なんで? ファルス、あなたが」

「黙れ」


 その女……マホのすぐ後ろにいた男が曲刀を抜き放ち、彼女の首元に添えた。それで一瞬黙ったが、その眼差しにはまだ、反抗心のようなものが残っていた。

 事前に準備があったので、今回も詠唱は必要なかった。確かに彼女、マホ・アルキスは、俺についての噂を流している。あのファルスとかいう若い貴族は、正義党の議員と懇意にしているのだと……わざわざ彼女は変装して、立国党の支持者達が集まる場末の酒場に出かけていって吹聴していたのだ。


「もういい、わかった」

「何がわかったのよ。こんな真似して、ただで済むとでも」


 相手が俺とわかって、急に強気になった彼女だったが、その声が途切れる。糸が切れたみたいにその場に突っ伏した。


「自分が何をしたのか、わかっているのか」


 俺自身が驚くほど、冷たい声が出てきた。だが、湧き上がる怒りを抑える必要も感じなかった。


「あ……が……な、痛っ……」

「どれほど危ないことをしたのか、わかっているのかと訊いている」

「な、なによ、散々ラーダイとかにバカにされてるくせにぎゃぁぁっ!?」


 あれと一緒にできる話ではない。彼は、あくまで俺、ファルスという個人を腰抜けだと思い込み、笑いものにした。だが、それだけだ。


「バカにしたければしてもいいぞ」

「うっ……くっ、な、なに、この痛み」


 本当なら、この手でぶん殴ってやりたいくらいだ。


「でも、お前は、それとは知らなかったにしても、本当に危ないことをしたんだ。一地方を預かる領主が、王を裏切って勝手に独立する……もちろん、俺にそんなつもりはないし、殿下に釈明もしたが……万が一、誰かが真顔で受け止めたら、何が起きるかわかるか」

「知らないわよ」

「戦争だ」


 座り込んだまま、俺を見上げていたマホだったが、我に返って言った。


「すればいいじゃない」

「なに?」

「正義のためだもの。無駄にはならないわ。それに帝都の一部に向かって兵を起こすなら、それは世界に対する」

「寝言は死んでから言え」


 本当に、こんな気違い、殺してしまった方がいいんじゃないのか? そういう誘惑がさっきから頭に纏わりついて離れない。


「お前に戦争の何がわかる。死ぬんだぞ。兵士だけじゃない。進軍すれば、道沿いにある村も荒れ果てる。食料は現地調達だ。略奪なんか当たり前に起きるぞ。殺されまいと身一つで逃げた農民だって食べるものに困るから、盗賊になったりもする。仕方がない。そこまでしなければ、飢え死にする。戦が終わって村に戻ってきても、家々には火が放たれて、家畜も農具も、家財道具も何一つ残されていない。用水路も進軍のために埋め立てられていたりする。畑も踏み荒らされて、滅茶滅茶だ。何年間もかけて、普通の人々が苦しみながら生活を立て直すことになる。その過程でも、また大勢が飢えて死ぬ」


 俺の周りの人達も巻き添えになる。のみならず、何の罪もない領民も犠牲になる。

 それだけの喪失を覚悟しなければいけないだけの理由が、本当にあるのか? なるほど、これが例えば仮に、ティンティナブリアにパッシャの残党でも現れて、再びクロル・アルジンを復活させようとしているとかであれば、俺だって犠牲を顧みないかもしれない。恨みを買うことになっても、より大きな犠牲をなくすための必要経費として、受け入れなければいけない。

 でも、こいつは「正義のため」だとぬかしやがった。正義とはなんだ? そこに領民のための正義はあるのか。安全な帝都でぬくぬくと生きている一市民が、その勝手な精神的満足のために、顔も知らない大勢の農民を危険に晒す正当性がどこにある?


「貴族の地位にある俺が、領民を搾取している? 現場を一度でも見たのか。飢饉に苦しみ、盗賊団に悩まされている領地に私財をつぎ込んで、俺には何の見返りもない……でも、それはいい。お前はなんだ。何様だ? 貴族より偉そうだ。どうしてお前が、何も差し出さず、何の責任も負わないお前が……ティンティナブリアに暮らす大勢の人々の運命を、なぜ勝手に決めるんだ!」

「ファルス様」


 横から進み出たアスガルが、身を屈めて言った。


「もうよろしいでしょう」

「許せというのか」


 このやり取りに、マホは目を白黒させた。


「どうしてムールジャーン侯の嫡男が、ポッと出の男爵なんかに頭下げてるのよ……」


 驚愕する彼女を横目に眺めつつ、アスガルは俺に答えた。


「いいえ」

「では」

「はい。お任せくだされば後は……グラーブ殿には、見つけられなかったと報告しておきます」


 こっそり殺しておしまい、というわけだ。俺が今、ここで「よきに計らえ」と言ったら、本当にマホは闇に葬られる。

 消し去りたいのは、それはそう、それが一番シンプルで手っ取り早い。だが……


「今回は、やめておこう」

「よろしいのですか」

「手を汚させるわけにはいかない」

「そのようなこと」

「もし事が発覚したら、お前の身内に泥をかぶらせることになる。そうだろう?」


 要するに、マホ殺害犯には、どこか誰か、俺が顔も知らないサハリア人が名乗り出ることになる。さすがにそれは、受け入れがたい。

 いや、誰にも見つけられない形で彼女を殺すのは、俺にとって容易だ。自分でやるという選択肢は意識している。だが、そういうことではない。


「だとしても、このような振る舞いをただ許すのですか」

「もし、同じことがあったら、今度は消す」

「はい、命じていただければ」

「いや」


 そんな必要はない。


「アスガル、心配しなくていい。本当に、もっと簡単な方法がある。それも絶対に証拠が残らないやり方が。だから、わざわざこれ以上の手間をかけさせたいとは思わない」


 ピアシング・ハンドで消せば、ただの行方不明になる。ラギ川辺りに肉体を捨てれば、普通の水死体にもできる。

 でも、俺は今、平穏な暮らしを与えられている。それも、あれだけ殺して奪って傷つけて、普通の人の一生では考えられないほどの横暴さの末に。

 マホは害悪だが、まだ誰も殺していない相手を先んじて殺すという行いは、今のこの恵まれた境遇、平和な日々を与えてくれた周囲への裏切りになりはしないか。


「そこまで仰るのなら、これ以上は申しません。ただ、このまま生かして帰すとなると、余計なことを言い出すかもわかりませんぞ」

「一応、それもどうにかできるが」

「せめてそれくらいはお任せください」


 そして彼は、マホに向き直った。


「痴れ者よ。今回はファルス様が許してくださるとのこと、ありがたく思え」

「誘拐犯のくせに、何を偉そうに」


 アスガルが顎で指示すると、郎党達が寄ってたかってマホを抑え込み、無理やり頭を床に押し付けた。


「伏し拝んで感謝せよ」

「なっ、にっ、よっ」


 だが、あくまでマホは怖いもの知らずだった。いや、殺されないとわかって、強気になっただけなのか。


「そっちこそ、怖くて殺せないんでしょ。それでこんなチンピラみたいな脅しをかけて、どうにかなると思ってるの? ふん、弱みを握ったのはこっちなんだから」

「ほう」


 だが、アスガルは一切動じなかった。


「では、ここを出たら、どうするつもりだ」

「そうね、何をされたか全部ぶちまけてやってもいいし、あなたが頭を下げるなら、許してやってもいいわ」

「もちろん、謝罪などしない。貴様はネッキャメルの恩人を蔑した。本来なら今すぐ八つ裂きにすべきところ、ファルス様があえてお許しになられるということで、我らも手控えるというだけ」


 俺としては、こんな脅しに頼るつもりなどない。マホには『暗示』をかけておく。今日のことを人に話そうとしたら、声が出なくなる。文字に書こうとしたら手が止まる。それでもこのことを他者に語ろうとしたら、今度は遅延発動で『忘却』がかかる。

 少なく見積もっても、一年は効き目があるはずだ。


「どういう関係性なのよ? 恩人?」

「貴様の知ったことではない」

「そうね。じゃ、私が訴え出たら、どうするの? いくら貴族で留学生だといっても、こんな事件を起こしたら、ただじゃ済まないのよ?」

「どうもこうもない。貴様は殺す。世界のどこに逃れようとも、必ず追い詰めて殺す。それを妨げようとする馬鹿者がいれば、それも殺す。帝都がなんと言おうと構わぬ」


 アスガルの覚悟の根拠がどこにあるかを知る俺からすれば、マホの問いはまったく的外れだとわかる。


「せっかく世界秩序の一員に戻ったのに、それをフイにするのね? それでお父様のムールジャーン侯はどう思うかしら?」

「父も追認する。むしろやらねば廃嫡される。仮に爵位を剥奪されようが、帝都が我ら赤の血盟を名指しして敵と呼ぼうが、我々はファルス様と共にある」


 ここまで言い切る彼に、さすがにただ事ではないと悟ったのだろう。マホは言葉を失った。


「もしファルス様に仇をなすのなら、族長ティズとその配下十万、一人残らず息絶えるまで、すべてが貴様の敵となるものと心得よ」

「そこまで大袈裟な話にしなくていい」


 俺はマホに言った。


「社会運動でも政治活動でも、好きにやればいい。ただ、俺に関わるな」

「いったいどういう」

「お前が死ぬだけでは済まない話になる。できれば誰も犠牲にしたくはない。だからお前も今回、あえて見逃すことにした」


 俺が手を振ると、アスガルの郎党はマホを押さえこむのをやめた。


「行っていい。二度とこんな真似はしないでくれ。もし何かしでかしたら、次は予告なしに消す」


 それでマホは無言で立ち上がると、ノロノロと倉庫の外へとよろめきながら去っていった。

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