魔女の要塞にて
雲の少ない夜だった。空気にはまだ生温さが残っている。足下を見下ろすと、まるでガラスの床の上に立っているような、まるで夢でも見ているような、どことなく非現実的な感覚に襲われる。
空を舞う魔法は知っていても、それをここまで多用したのは初めてだった。そして、帝都の街を見下ろすのも、これが初めて。もう真夜中近い時間ということもあり、街の灯はほとんど消えている。遠く西の方に少しだけ明るい街区があるのだが、あれが繁華街なのだろう。そのすぐ近くにある帝都防衛隊の敷地は見分けやすい。真四角に城壁が突き立っていて、そこに等間隔に照明が点されている。
視点を右下に向けると、そこはほとんど真っ暗だった。ただ、星明かりを照り返すラギ川と、その運河が目印になる。特徴的な屋根のワノノマ旧公館、そこから北に出て、今はひっそりと静まり返る高級商店街と右側の寮……夏の社交の間は、商売にならないだろう……そこから右手方向にガランとした空き地が見えた。校庭だ。
あとはそこから逆算するだけ。例の、マホと歩いた渡り廊下がそこで、その向こうにフシャーナが身を置いていた別館がある。別館といっても、まるで要塞のような石造りの建物だったのだが。
彼女があそこにとどまっているという保証はない。もしかすると、夜はどこか別の場所にいるのかも。だが、そんなことはどうでもいい。彼女の研究棟なのだ。何か一つでも証拠や手がかりが見つかれば、それで十分。使徒の関与も考えられる以上、この際、合法性など二の次だ。
研究棟の前には誰もいなかった。だが、上空から確認すると、近くに巡回中の警備員がいる。今、渡り廊下を歩いていた。だが、次の瞬間、膝をついてそのまま眠り込んでしまった。これでよし。
俺は音もなく扉の前に降り立った。以前、マホが重くて開けられなかった扉だ。当然、今は施錠されているが……
バチン、と小さな金属音がすると、あとはもう、ドアノブを回せば簡単に立ち入ることができた。そして、後ろ手でまた鍵をかけておく。
さて……
フシャーナは俺の襲撃を予期しているだろうか? それが今ではないとしても、疑われる可能性に備えているのではないか? 少なくとも、そうであるという前提に立つべきだ。であるとするなら、それなりの対策をしながら先に進まなくてはいけない。
まずは以前、マホと来た時と同じように直進する。そして、扉を開けた。
罠はなかった。だが、これで疑惑は確信に変わった。
室内は蝋燭の灯に照らされていた。突き当たりにある机の上には、開きっぱなしの分厚い本が放置されている。入口の近くは相変わらず棚が並べられていて、細い通路になっている。そこにはいろんな色合いの鉱物や植物の標本が置かれているのだが、その中に紛れていたはずの、あの例の鏡は、きれいさっぱり姿を消していた。
机の上の本の中身を覗き込んでみる。大したことは書いてなかった。金属加工の際の手法について、図入りで説明しているだけのものだった。その他、何か書き物をしている最中だったらしく、紙とペンが置き去りにされている。そして入口からは棚に隠されてよく見えなかったのだが、左手の扉は開けっぱなしになっており、そこはすぐ下り階段になっていた。
明らかに、俺の襲撃を予期して、地下にある自分の縄張りに逃げ込んだのだ。
となると、ここまでは彼女の日常空間、ここから先は、危険な領域であろうと考えられる。最も恐れるべきは、何よりまず罠だ。しかも、フシャーナは魔術師だ。光魔術や土魔術に通じている以上、その手の魔法を利用した防衛線を張っているとみるべきだろう。
一通りの対策を頭の中で復習してから、俺はその下り階段に滑り込んだ。
下へ下へと向かう螺旋階段には、何もなかった。
それが途切れると、今度はまたまっすぐの通路に出た。照明がないので、真っ暗だ。だが、暗視能力に透視能力まで得た俺の目には、状況がよく見えている。ここから先、数メートル先は落とし穴だ。床の下に中空になっている部分が見えている。その先、左右の壁には弓矢が仕掛けられている。作動させるには、床の特定ブロックを踏む必要があるようだ。それと、この先にある扉、あれを開けると、やっぱりまた別の罠があるように見える。
問題ない。『飛行』の魔術はまだ解除していない。浮かんだまま通り抜ければ、通路の罠は無効化できる。そうして反対側まで辿り着き、扉に手をかけた。
開いた瞬間、渦巻く光が迸った。と思ったら、大きな影が頭上から迫ってきて……
弾き返されて、床の上に転がった。ただ、それも何かに絡まってしまったらしく、すぐ動きを止めている。
性質の悪い罠だった。部屋に一歩踏み込んだ瞬間に『閃光』、そうして硬直しているところを狙っての落石。咄嗟に飛び退く動きを封じるための『泥沼』の魔法まで用意してあった。俺でなければ死んでいても不思議はない。だが、俺の足はそもそも床に触れていなかったので土魔術の罠には引っかからなかったし、閃光も落石も予期していたので、扉を開けると同時に『魔力障壁』を展開した。おかげでダメージはゼロだ。
この大部屋の向かいに、また扉がある。その向こうは……
短い廊下を通り抜け、最後の扉を開けた。
「来たわね」
窓のない部屋。地下室にしては天井が高い。古びた棚がいくつかあり、そこにはさまざまなものが置かれている。書物はもとより、何かの器具や魔道具の部品のようなものもある。それと、あれは何かの模型……箱車のミニチュア版だろうか?
そんな部屋の突き当たりに、フシャーナは立っていた。但し、一人ではない。
「もう逃げ場はないようだな」
「勝ったつもりになるのは早すぎるんじゃないかしら。まだ、私には切り札がある」
怠惰な女教授の顔はどこへやら。いつになく真剣な表情で俺を見据えている。
「切り札というのは、そいつらか」
「私の研究の果て、魔術の精華……たとえ私が死んだとしても、この兵士達は止まらない」
この兵士達、というのは、彼女の左右に並び立つ、六体の人形だった。どちらかというと、ロボットと言った方がいいかもしれない。頭部には首がなく、半円形の瘤みたいなのが突き出ているだけ。胴体も丸みを帯びていて、背も低い。その表面は青緑色に錆びてしまっている。
「青銅製のゴーレム、とはな」
「剣なんかで切れると思わないことね」
かつての手痛い敗北を思い出す。思えばグルービーは、本当に途轍もない男だった。今までこの世界で生きてきた中で、誰より俺を圧倒したのは、彼ではなかったか。
だが、俺も当時のままではないのだ。教訓を忘れていなかったからこそ、対応策も準備してきてある。殊に、相手取るのがフシャーナであるとわかっている以上、この状況は想定されていなければならなかった。
「手袋を外して、何のつもり……えっ?」
次第に黒ずんでいき、光沢を帯びるに至った俺の両手を見て、彼女は小さく狼狽えた。『肉体硬化』の魔法の実演を目にするのは、これが初めてなのだろうか。
「や、やりなさい!」
命令を受けて、ゴーレム達が俺に向かって殺到する。
「ふん」
パワーはありそうだが、鈍重すぎる。それに、動きがいかにも素人だ。
円弧を描いてその腕が叩きつけられる。だが、それを容易く避けると、俺は構わず拳を打ち込んだ。ガイン、とゴーレムがその中空に金属音を響かせた。
「ええっ?」
もう一発。今度はギシッ、と軋む音。金属同士が擦れ合う、あの耳障りな音がした。
「ちょ、ちょっと!」
更にもう一発。バカァンと金属の蓋が砕けて割れて、床に散らばる。重要なパーツを破壊されたらしく、そのゴーレムはそれきり動きを止めて、床に突っ伏した。
「七年前ならいざ知らず。今の俺にこんなガラクタが通用すると思われていたとはな」
「え、え? 何を言ってるのよ」
俺は振り向きざま、もう一体のゴーレムにも拳を打ち込んだ。
「その前に、どうして人間のくせにそんな腕力があるのよ! 相手はゴーレムなのよ! 体重だって全然違うのに……あなた、怪力の神通力持ち!?」
「ごまかそうとするな。フシャーナ・ザールチェク」
このゴーレムどものおかげで、はっきり思い出した。
「お前が過去にしてきたことを、俺も少しは知っている」
「何を知っているっていうのよ」
「お前は、不老だな?」
俺が指摘すると、彼女はビクンと身を震わせた。
「そういう噂はあるみたいね」
「大森林の奥地、緑竜の出るところに自分で石碑を立てておいて、よく言う」
「なんですって!」
もう一体、ゴーレムを叩きのめした。機能停止して、ガランと音をたてながら床に横たわる。
「それだけじゃない」
「他にまだ知っていることがあるのかしら」
「ラスプ・グルービーにゴーレムを売ったのも、お前だな」
そう言いながら、更にもう一体。上から拳を叩きつけると、頭の部分が陥没して、そのまま膝をついて倒れこんだ。
「どこでそんなことを」
「とぼけるな」
「とぼけてなんか」
俺は構わず、事前詠唱しておいた『火球』を出現させて、固まっていた二体のゴーレムに向けて放った。
「きゃっ!?」
爆発が収まったあと、そこに残されていたのは、無残な金属の残骸だけだった。
「洗いざらい吐いてもらおうか」
「何を」
俺は答えず、最後の一体のゴーレムを殴りつけて、壁際に吹き飛ばした。
「お前が大人しく言われた通りにしないなら、何のことはない。殺すだけだ」
「お、お断りよ!」
すべてのゴーレムを撃退され、ついに武器がなくなった彼女だったが、それでも俺に盾突いた。とはいえ、勝利はおろか、逃げ道さえ見つからないのは自覚しているようで、声が若干、上擦ってはいる。
「お前の背後にいるのは誰だ? 使徒に関係することは放置できない」
「使徒……やっぱりそうなのね」
「白状しないなら、せいぜい苦しませて、何もかもを調べ上げてから死なせてやる」
どんな企てがあったのか。今の帝都の混乱を引き起こし、裏から状況を操り、俺を監視して……何がしたかったのだろう? はっきりさせないといけない。無闇に人を傷つけるのは望むところではないが、この件だけは別だ。もう、無意味に悲劇が繰り返されるのを見過ごしたりはしない。
「……殺すなら、殺しなさい」
ややあって、フシャーナは低い声で言った。
「私とて世界の守護者の一人! それが望んだ運命でなかったとしても! 魔王に屈するくらいなら死を選ぶ!」
「やっぱりお前は魔王と繋がっているのか! 吐け! 使徒はお前に何を……」
そこまで言いかけて、ふと、お互い会話が噛み合っていないことに気付いた。
フシャーナは目をパチクリさせて、おずおずと俺を指さした。
「使徒って……あなたも使徒なんじゃないの?」
「はぁ? いや、だって、お前は俺を見張ってただろう? 俺だけじゃない。俺の周りの人、ギルにも何か仕掛けていたはずだ」
「それはそう。だって、あなたは要注意人物だもの。クル・カディからの報告があったし」
「待て。それは女神教の方に届いた連絡じゃなかったのか」
「そんなの、あの色ボケ総主教が働くわけないでしょ? だから別口で神殿の関係者から相談が」
何か大きな誤解がある気がしてきた。
「え、ええと、まず、何? クル・カディからの連絡を総主教は無視して、学園の方に連絡が?」
「ええ。私は引きこもってたから、ケクサディブが受け付けた話だったけど」
「で、なんで俺の見張りを?」
「皇帝代理機関の一員としての責任は、学園長のものだから。それでケクサディブは、私の仕事ってことでわざわざあなたの学級の担任に据えたのよ」
ということは、フシャーナは普通に仕事をしていただけ。要注意人物ありとの報告を受けた副学園長から、本来の務めを果たせと言われて、俺を監視していたのだから。
いや、でも、まだ解決できていないことがある。
「じゃあ、噂を流したのはなぜだ」
「噂? なんの?」
「俺が正義党に与して、トンチェン区の再開発にも一枚噛んでいるという」
「今、初めて聞いた話だけど」
関係なかった? だったら、本当に誰が何のために流した噂なんだ?
「じゃ、じゃあ、これはどうだ。今、都内で立国党やら移民やらが暴れてる件」
「ええ、それは知ってる」
「連中を扇動したのは何のためだ」
「はい?」
彼女は肩をすくめた。
「逆よ」
「逆?」
「あのね、あなた、私がどうして引きこもってると思ってるのよ」
どうしてって……
「怠け者で、毎日眠いから?」
「違う!」
そりゃそうだ……
「今の上院議長は正義党、だけど下院議長は立国党。首相は正義党で、あとはギルドの代表と私と、あの色ボケジジィが皇帝代理機関を構成しているんだけど、要するに汚職と派閥争いがひどくて、あんな状態で何かを決定させたら大変なことになるから、病気を口実に閉じこもってたの。巻き込まれていいことは一つもないもの」
「それで眠そうな演技を」
「あれは演技じゃない。毎日、あの魔道具で都内を見張って、誰かが変な陰謀を企んだりしていないか調べていただけ。まぁ、そこに使徒モドキが追加されるし、担任の仕事もしなきゃいけないしで、忙しくて寝不足になったのは、そうなんだけど」
彼女は俺をじろりと睨んだ。
「クレイン教授のところに顔を出したでしょう?」
「え? ああ」
「あれで、ついに動き出したかと思って、本格的に監視をし始めたの」
それで、か。俺が初めてマホとこの研究棟を訪ねた時、あんなにも警戒心を見せていたのは。
「で、あなたはどの魔王の使徒なの?」
「いや、全然違うから。詳しいことは、ワノノマの旧公館にヒジリがいるから、全部確認してくれていい。モゥハとも会ってるし、別に魔王の手先なんかじゃない」
「ってことは、要するに」
俺とフシャーナは、同時に深い溜息を洩らした。
「無駄な努力をしていたのか……」
彼女は顔をあげると髪の毛をバリバリと引っ掻きながら、苛立ちを言葉にした。
「どうしてくれるのよ、これ」
目の前には、六体ものゴーレムの残骸が転がっていた。かろうじて動いているのは、うち一体のみ。あとは完全に動作を止めている。
「し、知らない。だって嗾けてきたのはそっちだし」
「忍び込んできたのはそっちでしょ」
「変な魔道具でこっちを監視してたのはそっち」
「それはクル・カディからの報告があったんだから、仕方ないじゃない!」
不毛な責任の押し付け合いが一段落すると、彼女はまた溜息をついた。
「本当に、忙しいばかりで、これじゃやりたい研究もできやしない……不老不死になったって、いいこと一つもないわね」
「えっ?」
いろいろ納得したところで、ポツリと漏らした一言が引っ掛かった。
「不老不死?」
「ええ、そうよ? さっき、あなたが言ってたじゃない。南方大陸の不老の果実を食べたんだから、もう私は不老不死になったのよ。もちろん、殺されたら死ぬんだけど」
俺は彼女をまじまじと見た。
ピアシング・ハンドの表示に変化はなく、やはりどう考えても、彼女は不死ではない。
「えっと、あの」
「なに?」
「不老ではあっても、そのうち死ぬはずなんだけど」
「はい?」
俺は首を傾げた。
「だって……あの、教授は神性を帯びてないじゃないですか」
「ど、どういうこと、それ」
「不老不死になった人は見たことあるけど、うん、その、不老の果実だけでは、数百年は若々しくいられる。でも、そのうち死ぬのは間違いないので」
「えっ、えっ、待って、嘘、それ本当?」
微妙な間が空いた。
「あの、教授」
「う、うん」
「まぁ、わかりました。噂は関係ない。移民と立国党支持者の暴動とも関係ない。こちらを見張っていたのは、神仙の山からの報告があったから」
「そう、ね」
「ちょっと、いろいろアレなので、後日また改めて」
「そうしましょ……なんか疲れた……」
お互い、いろいろ言いたいことはあるとわかっている。
だが、今はとにかく徒労感がひどかった。
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