午睡の時間
休日の朝。外からノックする音でやっと目が覚めた。
カーテンを開けると、すっかり夜が明けていた。青空に少し雲がかかっている感じだが、充分明るい。なのに、まだ眠気が残っている。
夜討ち朝駆けというが、カエデの執念は実に恐ろしかった。翌日も、その翌日も、倦むことなく務めを果たしにやってきた。初日を除いては離れの自室で寝ることにしたのだが、ヒジリから合鍵を与えられた彼女を遮ることはできなかった。一つ、救いだったのは、途中から寝不足でボロボロになったおかげで、性欲がゼロになったことだ。
とはいえ、こんな生活をしていたら死んでしまう。それでついにとうとう、昨夜、俺は扉に魔法をかけた。錠前を力魔術で固定し、鍵を差し込んでも回らないようにしたのだ。こうしてかろうじてカエデの襲撃を回避して、ようやく数日ぶりの快眠を味わえたのだ。
「今、開けます」
とはいえ、気がかりでないと言えば嘘になる。
「おはようございます、ご主人様」
やってきたのはファフィネだった。
「ああ、おはよう」
「朝食の用意ができております」
「ありがとう。あと」
「はい?」
自害とかしていたら怖い。
「カエデは?」
「えっ? 個室で寝ているかと思うんですが」
動いてないとか、息してないとか。
「……見てきてくれない?」
「ご主人様がご自分で行かれれば済むことかと思いますが」
俺は首を振った。
「寝かせてくれない。頼むから」
「あはははは」
笑われてしまった。
「じゃ、私が見てきますから、ご主人様は先にお食事をどうぞ」
「ありがとう……」
ヨタヨタ歩きながら、離れのダイニングに向かう。
テーブルの上にはトレイが置かれ、そこには茶碗いっぱいのホカホカの白米。こちらに来て初めのうちは、俺がフォレス風の食事を好むものと考えていたようで、パンが出されていた。だが、俺がすっかりあちらの食事に適応できているのを見て、何も言われない限りは普通に朝から白米を出してくるようになった。
隣にはお吸い物もある。今日のスープは……まるでお茶みたいな色をしているが、俺にはわかる。これは炒り玄米のスープだ。昆布と梅干を加えて煎じるだけの簡単なものだが、じわりとおいしい。体に染み込む素晴らしい一品だ。
そこに大根と胡瓜の漬物。別の皿には、玉葱や人参を中心とした野菜炒め。さすが、よくわかっている。熱に強い野菜とそうでないものをきっちり使い分け、きちんと栄養を取れるようにしてくれている。食べる楽しみも忘れない。今日も魚を一尾、実にきれいに焼いて出してくれている。
ここの料理人のミアゴアとは、一度しっかりと技術交流をしたいものだ。
沁みこむスープに心が飛んでいってしまいそうになった時、ファフィネが戻ってきた。
「お食事中、失礼致します」
「いや」
「カエデですが、自室でぐっすり眠っております」
「確かか」
俺は腰を浮かせた。
「自害などしていないだろうな」
「プフッ」
腰を折って笑いを堪えつつ、何度か喋ろうとして口を開いては、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせ、やっと声になる言葉を吐き出した。
「連日連夜、ご主人様を追い回して、疲れ切っているようですよ」
「そうか、それならよかった」
ほーっ、と息をついて、俺はストンと座り直した。
「今日はお休みだそうで」
「ああ」
「ごゆっくりお休みください……あ」
何かを思い出したような素振りに俺は問い質した。
「どうした?」
「マツツァ様が仰っていました。今日はもしかすると、一時、雨になるかも、と」
そういえばもう、碧玉の月になっていた。季節が廻るのは早いものだ。
「ああ、わかった。わざわざありがとう」
今日は予定がない。グラーブのサロンもお休み。リシュニアとの高級店巡りもなし。ギルやラーダイ達と迷宮に行く約束もない。ウィーの面倒を見る件も一段落したし、ニドやタマリアに会う用事もない。
久しぶりに時間がある。そして、俺にはやりかけの仕事がある。このダイニングは、俺にとっては憩いの場であると同時に、仕事場でもあるのだ。
「うん、ちょっと目が覚めた」
今朝もコーヒーを淹れて、飲む。素晴らしい贅沢だ。
このために、屋敷の北西部にある厨房の一部を、焙煎用の設備に作り替えた。どうしても十分な加熱能力を得るためには、この世界の素材では、大掛かりな装置が必要になってしまったのだ。
肝心のドリップの方は、布でやることにほぼ決まった。ペーパードリップの方がすっきりした味になるのだが、ネルドリップで駄目ということもない。これで確定とするつもりだ。
既に一通りの研究は済んだ。あとはこれをピュリスにいるセーンと、アリュノーの商館に留まっているワングのところに伝えるだけだ。既にそのための手紙は、ほとんど書き終えている。今日は仕上げてしまうつもりだ。
勢いよく立ち上がると、俺は自室に引き返した。
「確かに承りました」
昼前に、ようやく二通の手紙を書き終えることができた。となれば、あとは発送するだけ。こういう仕事を任せられる人はといえば、彼しかいない。周囲に使用人もいなかったので自分で探そうとしてウロウロしてみたら、西の表門の近くにいたトエを見つけることができた。
他の使用人がほとんどワノノマ風の服装をしているのに、なぜか毎日フォレス風のスーツを着ている奇特な執事は、俺から分厚い封筒を手渡されると、深々と腰を折った。
「そこには、使うべき道具についても事細かに書いてある。手紙が届きにくいのはわかっているが、これだけはどうしても先方になるべく早く手渡したい。利益の面も大きいが、これはただお金になるというだけの仕事ではない」
「ははっ。御心配はいりません。この屋敷にいる郎党を二人、別々の船に乗せてピュリスに送りましょう。それからアリュノーにも向かわせます」
「長旅になるが」
「なんの、姫君とその旦那様にお仕えするのですから、それくらいのことはなんでもございません」
改めて一礼すると、彼は手紙を手に背を向け、それから思い出したように言った。
「そうそう、フォモーイが旦那様の傷の様子を心配しておりましたぞ」
「もうとっくに治ったよ」
「私にもそう見えますが……いえ、最初から怪我などなかったようにしか見えませんでしたが……いやいや、余計なことを申しました。では、お手紙の方はしっかりとお送りしておきますので」
そうなのだ。『超回復』のおかげで、カエデに噛まれたところはその日の朝には治ってしまっている。それでも俺が、シーツについた血は噛みつかれて出血したものだ、と主張したので、無駄を承知でフォモーイが薬を塗ったのだ。しかし、なにぶんにも証拠が消えてしまったために、他の使用人はこのことを、俺の照れ隠しのようなものだと思っているらしい。
まさか冒険の最中に散々俺を助けてくれた能力が、今になって仇になるとは。
一仕事を済ませてほっとすると、急に疲労感をおぼえた。そういえば朝からずっと座りっぱなしで、全く休んでいなかった。それより陽光を浴びたい。そうだ、湿り気のある、温かな春の空気を胸いっぱいに吸い込みたい。
冷たく強張った体を自覚して、俺は右手の通路に出て離れを経由しながら、一階の東側の出入口から中庭に踏み込んだ。
まず耳に触れたのは、優しい水音だった。中庭の突き当たり、すぐ左手には小さな池があるが、そこには絶えることなく水が流れ込んできている。おかげで池の水が澱むことはないし、ボウフラなどが湧くのも防げている。その近くには、紫陽花のような花が植えられている。花が咲くまで、あと少しといったところか。
庭の南西には石燈篭があり、その薄暗い足下は緑色の苔に覆われている。庭の北西は水の流れを白い石で象って、その中に岩が雄々しく突き立っていた。そしてこの出入口から、右手にある縁側までは、不揃いな踏み石が並んでいる。右手に花をつけた木々を眺めながら、俺は縁側まで歩いていって、腰を下ろした。
やっぱり落ち着く。
この世界に日本っぽい文化を持ち込んだのは、やっぱり例の英雄だろうか。彼について、思うところはいろいろあるが、この点についてだけは感謝したい気持ちがないでもない。
足音が近付いてきた。
「あら、旦那様」
振り返ると、女中頭のウミがいた。
「日向ぼっこですか?」
「そんなところだ」
「まぁまぁ」
彼女は顎に指を当てて明後日の方向を眺めて、急に思いついたように言った。
「では、ここでお昼を召し上がってはいかがでしょう? 朝も遅いようでしたし、そんなにお腹が空いているのでもなければ、ミアゴアに言って簡単なものを用意させます」
「それ、いいかも」
「でしたら、早速申し付けて参ります」
パタパタと足音が遠ざかっていき、それほど経たないうちに、またすぐ彼女は戻ってきた。但し、手にはお盆がある。
湯呑みには程よく温かいお茶。白い皿の上にはお握りが三つ。更に、手を拭うためのおしぼりまで。
「ごゆっくりどうぞ」
それだけで彼女は引き下がっていった。そうして、辺りには静寂が戻ってくる。
中庭の四角く区切られた空を見上げる。まだまだ青空とは呼べるが、うっすらと白い雲がかかってきたようだ。時折、微風がゆったりと流れてくる。ぬるま湯のような、程よい温かさの湯豆腐のような風。土の匂いを感じられる風だ。そこに庭木の息遣いが入り混じる。
今、物凄く上質なひと時を過ごしている。ふと、そんなことに気付いた。
ゆっくりとお握りを手にして、一口ずつ、慌てずに食べる。粒のしっかりした、透き通った米。適度な塩味。この庭といい、お握りといい、決して贅を尽くしたものではない。にもかかわらず、これほど素晴らしいものはない気がした。
食べ終わっても、俺はしばらくそのまま縁側に座っていた。だが、ふと畳の上に寝そべりたいという気持ちになった。靴を脱ぐと、足の裏に解放感をおぼえた。そのまま転がると、体中が気持ちよく伸びた。
決めた。今日の午後は、ここで居眠りだ。
そう思い定めると、急に眠気がぶり返してきた。俺はそれに逆らわず、目を閉じた。
次に意識を取り戻したのは、どれほど経ってからのことか。小さな物音がしたので、片目をうっすら開けた。
さっきまでの明るい庭はなくなっていた。空は俄かに掻き曇り、濃淡のある灰色に染まっていた。そこからポツリ、ポツリと庭木の葉に雨滴が降り注ぐ。
最初はごく控えめだったその雨音は、やがて周囲のあらゆるものを楽器に変えた。拍手のような、漣のような音が風と共にやってきたかと思うと、屋根瓦を打つ甲高い音、重く沈んだ音が入り混じる。それはどこか剽軽で、まるで道化が喜びを全身で表しつつ飛び跳ねているかのようだった。
やや冷たい湿った空気が、ふっと頬に触れる。それが新鮮だった。
俺は今まで、雨をこんな気持ちで迎えたことなど、ほとんどなかったのだ。前世の俺にとっての雨は、通勤の際の憂鬱でしかなかった。だが、旅の最中の雨は、それどころではなかった。体を濡らし、冷やす雨というのは、恐れるべき危険の一つだったから。しかも物音を掻き消し、視界を遮り、覆い隠してしまう。
なのに今、俺は雨を、何かの演目のように楽しんでいる。こんな気分でいられるのは、いつぶりだろうか。
体の中に残っていた強張りが、また一つ解けていくようだった。しつこく居座る睡魔に逆らいもせず、俺は再び目を閉じた。
次に目が覚めたときには、もう夕暮れ時が近付いていた。いつの間にか雨雲は去り、また柔らかな光が中庭を満たしている。だがそこには、既に黄色いものが混じり始めていた。
根深い疲れもかなりのところ、抜けていったような気がする。それでもなお、まどろみ続ける快楽の中に沈んでいた。
俺は今まで、何をしていたんだろう?
そんな疑問が胸に浮かんだ。苦しいことも悲しいこともあった。だからああして、命懸けの旅に出て、永遠を求めた。だけど今の俺ときたら。ただ縁側に座り、畳の部屋で寝転がるだけで満たされている。
その程度のことなら、前世の俺にだってできたはずだ。休日くらいあったのだし、日がなボーっと寝て過ごせばよかった。もちろん、実際にはそれで気持ちが安らいだかといえば、そんなはずはないともわかる。
あの頃の俺と、今の俺と、何が違う?
今の俺は、運命を受け入れている。先々にあるのが幽閉でも、いっそ懲罰でも構わないと心に決めている。そんな不自由を受け入れているからこそ、逆に心は解放された。
だが、以前の俺はそうではなかったのだ。
どうして俺は、運命の女神に魅入られなければいけないほどに苦しんでいたのか。
俺だけじゃない。多くの人が、俺と同じように、泥濘の中を彷徨い続けていたと思う。でも、それはなぜだ? 俺は、その疑問に答えなくてはいけないのではないか?
思考が纏まらない中、俺は再び目を閉じた。
その時、ごく微かな足音に気付いた。
寝ている俺を起こすまいとして、遠慮がちにやってきたのは、ヒジリだった。彼女には青が似合う。今日も青い和服のようなものを身に着けているが、あの仰々しい打掛は羽織っていなかった。
音もたてずに、彼女は俺の頭の横にそっと腰を下ろした。視線が注がれている気がする。
疑問といえば、さっきのよりはずっと小さな疑問だが、彼女も不思議な存在だ。
俺を監視し、いざとなれば拉致したり処分したりするために派遣されたのではないのか? なのに先日は、婚約でなく正式に結婚してしまおうなどと言い出した。どう考えても、ヒジリが俺に愛情とか好意を持つ要素などないと思うのだが。その辺の町娘が身分と顔かたちに釣られて、というのならまだわかるが、彼女については今のところ、まったく合理的な説明ができない。
そんなことを考えていると、ひんやりとした指がそっと俺の頭に添えられるのを感じた。
どういうつもり……と思った瞬間、後頭部に温もりを感じた。俺は今、膝枕されている。
やっぱり、本当にわけがわからない。
今はまだ、わからなくてもいいのかもしれない。
穏やかにまどろんでいればいい。それで何も困らないのだから。
構わない。もう一眠りしてやろう。
そう心に決めて、俺はまた、全身から力を抜いた。
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