閨の戦い
東端の小部屋はすぐそこだった。カエデは頑として手を放そうとせず、目の前の障子を開け放った。
「さぁ、旦那様」
「さぁじゃない、さぁじゃ」
もうじき十五という若さで、いきなりこれはないだろう……とはいえ、それは前世の価値観だ。
承知してはいる。十六歳で母になるくらい、こちらでは普通だ。ついでにいえば、貴族の男に都合のいい女が宛がわれるのも普通。側妾がいるのも普通。そして、貴族に限らず一般家庭でも、家長その他責任者の命令で結婚相手を一方的に決められるのも普通だ。
例外があるとすれば、帝都の市民くらいなものだろう。だが、ここは帝都ではないか? しかし、ワノノマの公館の中でもある。何より、カエデ自身が自由を要求していない。婚約者公認、どころか後押しすらされている。つまり、倫理的な問題はない。
正直、性欲はある。思い出したくもないのだが、先日の事件のせいで変にスイッチが入ってしまった。だが、だからといって、一人の少女の一生を、ただの捌け口にしてしまうわけにはいかない。
いや、貴族という身分を考えれば、一人の少女の一生などという些細な問題など、気にすべきではない。側室の人生がどうなるにせよ、お家が絶える方が遥かに大きな影響を齎すし、それでなくても支配者の心身を健全に保つためなら、一人や二人の犠牲など、小さなことだ。
それはわかるのだが……ふと、セニリタート王の最期が頭をかすめてしまう。両派閥の思惑があったから、大筋で運命が変わることはなかったのだろうが、それでもドゥリアが凶行に走ったのは、まさにその小さな犠牲を払う側になったからなのだ。
戸惑う俺に、彼女はまっすぐ視線を向けてきた。
「では、旦那様は私にご不満がおありだと、そういうことでしょうか」
「う、む、そういうわけでは」
「慰み者にする値打ちすらないと、そこまで仰るのですね」
ここまで言われては。いや、気を強く持て。
「そうだと言ったら?」
「ご安心ください。明日の朝には、見事、きれいに自害して果ててみせます」
「ちょっと待った!」
心を読み取ったのでもないが、さすがにわかる。目つきに性格が滲み出ているから。ピアシング・ハンドの測定結果は、それを補完する。
この小柄な少女は、小さな武人でもある。どういう意図なのか、恐らくは体格の小ささを補うためというのもあって、少々の体術のほかは、槍術ばかりに特化して鍛えられている。それでも5レベル止まりだが、若さを考えれば十分に有能といえる。そして、戦闘以外の技術を伸ばした形跡がない。
本当に魔物討伐隊の一員になりたかったのだろう。そういう娘だから、明日死ぬということに抵抗がない。なんといっても武人の仕事とは戦うこと。やり遂げられなかった結果は、死に外ならないのだから。
「それはよくない」
「務めを果たせない者が穀潰しのまま、生き永らえる方がよくありません」
「なら、どうすればやめる」
「無論のこと、ご主人様が同衾して旦那様になってくだされば」
迷いがない。そうなるのが、そうするのが当たり前という、まさに不退転という言葉が似合いそうな顔で、俺にそう言った。
逆に俺はというと、じゃあわかったお前死ね、などと吐き捨てるわけにもいかない。つまり、気迫で負けている。そしてカエデには、勝ち負けを判断するのに必要な知識と経験があった。彼女は強引に俺の袖を引っ張り、部屋の中に引きずり込んだ。
室内には行灯が一つ。温もりを感じさせる橙色の光が、ほのかに畳の部屋を照らしていた。お香を焚いておいたのだろう、何やら甘い香りが漂う。そして真っ白なシーツをかぶせた布団が既に敷いてあった。
カエデは静かに障子を閉めて、なおも尻込みする俺を、布団の上に引っ張っていった。そうして強引に座らせる。
「往生際が悪うございますよ」
「それの何が悪い」
口先だけの言い逃れなら、できなくもない。
「華やかに散るのは雑兵の仕事。大将ならば、たとえ意地汚くとも逃げ延びて、次に繋げるものだろう」
「さすがはご主人様!」
俺の反論に、彼女は涼しい顔でやり返した。
「なるほど、まったくその通りでございます。見た目はいやらしくとも、生きて次に繋げるのが大将の心得、納得でございます」
「あ、えっと」
「では早速、次に繋げましょう」
世継ぎを残すのに手段など選ばなくてよいのだと。これには参った。
いや、待てよ?
「だとしたら、先日のあれはなんなんだ」
「あれと申しますと?」
「手段を選ばなくていいのなら、女を連れ込もうがなんだろうが構わないはずじゃないか。でも、誰より怒っていたのはカエデだった。言っていることとやっていることが食い違っているぞ」
指摘を受けて、ポカンとしていた彼女だが、すぐ手を打って頷いた。
「ああ。あのウィーとかいう、薄汚れた女のことでございますか。確かに見た目は悪くはありませんでしたが、場所柄も弁えず裸で飛び跳ねる思慮のない女など、旦那様には相応しくありません」
「うっ、いや、あれは」
「それに旦那様は、あの女を正式に側妾に迎えるつもりで、お連れになったのですか? 違うでしょう。ただ気まぐれに頭の軽い女をその美貌で誑かし! 無為に花を散らせて捨てるなど、まるで帝都の腰抜け男どもと変わるところがないではありませんか」
そこまで言われて、やっとカエデの道理がわかった。
「ヒジリ様とはいまだ婚約者のまま、ですがお家を絶やさないためには一刻も早く世継ぎが必要と、そういうことで旦那様がよくお考えの上で、正式に側妾を家に入れると仰せであれば、私も怒りだしたりなどは致しません。また本来、まず子を授かるべきはヒジリ様ではありますが、婚礼を済ませもせず、よりによって皇女に手を出すなど、これも見過ごせることではございませんでしょう。となれば、まず私がこの身を献じて、いずれの側にも不都合なきようにするのが、求められるお役目ではありませんか」
ヒジリや皇族への忠誠心。そして、何より「イエ」の存続を第一に考えるという、前近代的な発想がベースにある。
更に付け加えるなら、カエデは明言しなかったが、恐らく俺が側妾を他所から調達するくらいなら、自分がなった方がいいという計算もあるのだろう。つまり、ヒジリを正妻として立ててくれる真っ当な女が先に側妾になって、或いは子を産むのなら問題も起きにくい。だが、変なところから変な女がやってきて、最初に男児を挙げたのは私だ、私のが偉いんだと喚き散らしたらどうなるか。
俺とは価値観が違う。だが、これはこれで正論だ。
ヒジリは恐らく、俺に子をなさせることで、重石にしたいのではないか。愛する妻……側妾や愛人でも同じようなもの……それに我が子までいるとなれば、滅多なことは考えない。
性欲に溺れさせるもよし、我が子を囲んでの団欒に落ち着かせるもよし。ただ、俺が前世日本から持ち込んだロマンティック・ラブ・イデオロギーのようなものについては、恐らく理解が及んでいないのではないかという気もする。
要するに、カエデは愛情で動いているのではない。忠誠心と使命感。そしてその羞恥心や嫌悪の情は、主として性的なものにではなく、秩序からの逸脱に向けられているのだ。
「ということで」
ずいっとカエデは顔を寄せてきた。
「観念してお種をくださりませ!」
「ひぇっ」
貞操の危機だ。
掴みかかるカエデを間一髪避け、障子を開けようとして思いとどまる。逃走したら、翌朝、彼女は本当に遺体になっている。この部屋から出ることはできない。
「隙あり!」
閨房の格闘技……いや、普通にこれはもう格闘だ。背中に絡みつかれた。俺は振り払おうとして体を半回転させたが、しがみついてくる。
何もさせまいとして、俺は布団の上にダイブした。
「やっとその気になってくれましたか!」
冗談じゃない。なんだ、この色気のない迫り方は。
俺は枕にしがみつき、うつ伏せになって全力で彼女を拒んだ。
「む、そこは確かに布団の上、そこにいる限りは同衾したことになってしまいますね。ですが、何もせず済ませようなどと、考えが甘すぎます」
俺の背中に馬乗りになったカエデは、あろうことかご主人様の首に手をかけた。
「ちょっ、それ」
「さぁ、旦那様、始めますよ」
「グェッ」
まさかのキャメルクラッチである。
「ぐ、ぐるじい」
「さぁ、旦那様! ここは観念なさって大人しくお勤めをなさるか! それとも締め落とされてから服を剥ぎ取られるか! どちらになさいますか!」
武闘派の愛人、という奇妙なフレーズが酸欠の脳内を突き抜けていった。まったく、どういう運命だ? 仮に、この世界に転生する俺に「十五歳になったら、子種を求めてお前にキャメルクラッチをキメる少女と遭遇する」などと教えてやっても、到底信用などされなかっただろう。
ただ、俺を失神させたとして、服も剥ぎ取れたとして、その後、どうやって子種をもらうつもりなんだろうか。
とにかく……
「お、おれにも」
「はい?」
「譲れないものが、ある!」
きっちり極められてしまっている。いかな俺でも、ここから抜け出すのは難しい。
思い出せ。それでもこの苦境を切り抜ける魔法が、俺にはある。なぜなら、ホアが俺のために作ってくれた魔道具の首飾りをつけたままだからだ。
「何をブツブツ言って……きゃっ!?」
スルッ、とすり抜けて、カエデは盛大に尻餅をつき、半回転して、障子の組子の間を蹴り抜いた。
「いたた……えっ! だ、だだだ、旦那様ぁ!?」
カエデが驚くのも無理はない。身体操作魔術と水魔術の複合魔術、『肉体液化』だ。もっとも完全な液体というよりは、スライムのような不定形生物に近い感じだ。布団の上にいるが、別に魔法のせいでびしょ濡れになったりはしていない。着衣からもはみ出ていない。
とりあえず、拘束を逃れたので、魔術も解除して実体化した。なんだか体の感覚が大きく変わるし、この状態で動きたくなかったのもある。第一、変に動いたら服が脱げてしまって、首飾りも取れてしまい、魔術も解除されかねない。
「なんと珍妙な! それはなんという術ですか」
「ただの魔術だ」
「おぉ! さすがは旦那様! 武術に通じておいでとは聞いておりましたが、魔術にもお詳しいのですね!」
どうも変な方向にスイッチが入ってしまったらしい。やたらと興奮している。
「なるほどなるほど、閨は戦場であると……これはやりがいがあります!」
「待て、誤解するな! いいか? よく聞け」
俺は布団に突っ伏したまま、必死の説得を試みる。
「こういうのはな、たとえ夫婦といえど、その気になれなければできないものなんだ」
「そうなのですか」
「そうだ。だから首を絞めても、意味がないんだ。わかるか」
数秒間、その場にしゃがみ込んだまま、カエデは考えていたが、すぐ笑顔に戻った。
「わかりました! ファフィネやタウラにコツを聞いておいてよかったです!」
「なに?」
「こうすればいいと教わりました」
これはまずいかもしれない。当然ながら、カエデに房中術のスキルはないが、二人にはある。何か男を篭絡する術を仕込んだとすると……
カエデは一転して、うつ伏せになった俺の背中に、静かに寄り添った。
ノーラの件が片付いていない以上、他の女を抱くなどあってはならないこと。頭ではそう理解していても、うら若い乙女の肌は柔らかく、しっとりと熱を帯びていた。いい匂いが漂っていて、どうにも精神が掻き乱される。
「旦那様……」
首筋を指でなぞられた。ビクッ、と身を竦める。
「そこがいいんですね」
捕食される。そう思った。そして、その予感は的中した。
湿ったカエデの口が近付くのを感じ、そして……
「いっ……たァァァッ!」
ガブッ、といきやがった!
甘噛みじゃなくて、力いっぱい噛まれた!
「どうですか、旦那様!」
「痛い痛い! バカかお前!」
「えっ?」
「わっ、血が」
慌てて布団のシーツを当てて止血しなくてはいけなかった。とはいえ、皮膚の表面が切れただけで済んだが。
グッタリと疲れ果て、俺は布団に転がった。
「頼む、寝かせてくれ……」
「はい……」
タウラかファフィネか、どっちが指導したのか知らないが、いい加減な教え方しやがって。いや、それに救われたのか?
ともあれ、その夜は寝るだけで済んだ。
そして翌朝……
眠い目をこすりながら、学園の教室の扉をくぐった。
「おっ、ファルス、おはよう」
「ああ、ギル、おはよう……」
「なんだ? 変に眠そうにしてるけど、どうしたんだ」
「眠いんだ。昨夜、ほとんど眠れなかった」
そう言って、俺は自分の席に座り、机の上に突っ伏した。
「お前がそんな風になっちまうなんて一体……おわっ? なんだこれ、お前、首筋」
「ああ、噛みつかれたから一応包帯をってことで」
「噛みつかれたぁ? 誰に」
「……女に」
「オンナァ!?」
……あっ。眠くて頭がまわってなかった。
「あん? どうした?」
ラーダイが寄ってきた。
「うわっ、スゴい女に捕まったもんだな」
「いや、これは」
「ってか、この前の美人さんか?」
「いや、その人じゃなくて」
「もう新しい女に乗り換えたのかよ!」
釈明をする間もなく、コモもやってきた。
「すごいね。そんなに激しく噛みつかれるくらい、か」
「違っ」
離れたところにいる三人組の女生徒が、ヒソヒソと囁き合った。
「ほら、私の勘は当たるでしょ?」
「あの甘いマスクで女を騙すのね」
「そうして狂わせてしまうのだわ」
あらぬ誤解が広がっていく。
それをどうすることもできなかった。
屋敷に帰ると、ヒジリに祝福された。
血のついたシーツを見て、屋敷のみんなが勝手に「無事、初夜を済ませた」と思い込んだらしい。夜が明ける頃にはとっくに治っていたのだが、一応、通学前に、医者のフォモーイが、首筋の傷に薬を塗った。
なお、実際には思いを遂げていないカエデは、それから毎晩のように挑みかかってくるようになり、俺はしばらく寝不足に悩まされることになった。
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