不足を補う
明るい色の煉瓦の壁が目に眩しい。その敷地の内側には、ほとんど庭らしい庭がない。足下には砂利が敷き詰められていて、およそ潤いの欠片もないのだが、それを埋め合わせるかのように外壁の裏側や家屋の前面の壁には、彩り豊かなタイルが嵌めこまれている。そこには緑色の茎と葉を持つ真っ赤な花が描かれていたりする。
門から家屋までを繋ぐように迫り出す屋根は、緑色に塗られている。要するに、外壁も家の壁も木の幹をイメージしていて、緑の屋根はその葉だ。自然の豊かさがないところに自然を表現するこの様式からして、この家の元の持ち主は東方大陸西部沿岸地域の出身なのかもしれない。
「こりゃまた随分とかわいらしいっつうか」
「オモチャみたいなおうちでいいじゃない」
ニドとタマリアが、この門前に立った時の感想が、それだった。
「お前、こんな家があるのにろくに使ってなかったのかよ」
「仕方ないだろう。ノーラが確保しておいてくれたんだけど、普段は公館にいなきゃいけないんだし」
まさかこんな使い方をする羽目になろうとは、思ってもみなかったが。念のためと彼女がビッタラクを通して確保しておいた家は、こうして居場所をなくしたウィーの臨時の住まいとなった。ただ、彼女が一人で使うには、あまりに広すぎるのだが。
「もったいねぇなぁ。帝都は土地不足なんだからさ、俺もここに住んでいいか?」
「タマリアはいいけど、お前はダメ」
「ひっでぇ」
場所は悪くない。なにせ西一号運河の内側だ。公館ほどではないにせよ、充分、高級な住宅地にあると言える。この庭の狭さ、本当に大人一人が通れるくらいの幅しかないのは、地価が高いせいだろう。
「入ろう」
南向きの玄関、その鍵穴を回すと、重く大きな扉がゆっくりと開いた。中から、人が住まない家特有の、何か篭った臭いがする。
「一応、月一度は不動産屋の人が、清掃業者を派遣してきれいにしてくれていた、らしい」
入口は、いかにもフォレス風なエントランスだった。左右に階段、真ん中にカーテン。ただ、これだけでは家の構造はわからない。暗い藍色のカーテンをめくってみると、やはり帝都風というか、普通の造りではないとわかる。目の前は壁で、左右に廊下が続いている。つまり、ここから先は私的な領域だ。
それならと階段を昇って正面の扉を開くと、そこは中庭だった。来客をもてなすための場所で、小さなテーブルや背凭れのない椅子がいくつも置かれている。四角い中庭はオレンジ色のタイル張りで、ここでもまったく人工的な空間のままだ。この中庭を見下ろす四角い接待スペース兼渡り廊下を通って反対側に進むと、少しだけ広い空間がある。恐らくは家の主人の居場所だ。
主人の席の真下も同じく半屋外になっている。恐らく、一階の中庭は催事用なのだ。楽師や演者がこの下でお芝居をしたり、楽器をかき鳴らしたりする。それをこの二階から眺めて楽しむという想定なのだろう。
なお、この中庭を見下ろす廊下は、三階にもある。念のために確かめてみると、雨天に仮の天井を作るための支柱がいくつか用意されていた。客席はなかったので、本当にここは連絡通路兼用の陸屋根でしかないのだろう。
一階に戻って確認すると、敷地の東側には、一階にも二階にも、寝室らしきものがある。部屋の広さに差があったので、使用人用の部屋と、主人の家族が起居するところとに分かれているらしいとわかった。二階の中庭の奥側には厨房が設けられている。
では敷地の西側は、となると、多くは倉庫だった。事務室のようなところもある。また、運河に降りる階段が設けられていて、そこに小舟を停泊させることも可能になっていた。
「そこそこの規模の商家、ってとこか」
ニドがざっと見た感想を口にした。
「一人で使うにゃ、逆に持て余しそうだ」
「リンガ商会の人間を常駐させる必要が出てきたら、ここに住まわせることにするよ」
「んな見込みあんのか?」
「ロージス街道を復旧中なんだ。これが開通したら、帝都とティンティナブリアが海路で直接結ばれるようになる」
今、この場では、どうでもいい話だ。喋っていないと落ち着かない。
というのも、ここに連れてきた、ある意味で主役であるはずのウィーが、黙りこくっているから。おかげで、余計に俺まで気まずい思いをしている。
これが彼女を男に変えた五年半前であれば、なんてことなかった。全裸を見たとしてもまだ子供。変なことを意識する余地はなかったはずだ。しかし、今や肉体的な年齢はほぼ同じ。
何が困るかというと、彼女が俺を、異性を見る目で見たことだ。あんなアホなシチュエーションで裸を見たって興奮するはずがない。ないのだが、そこはやはり、気が抜けていたのだろう。というか、今まで感じて然るべきだったその手の欲望を、思い出すきっかけになってしまった。
「とりあえず、ウィー」
だが、一通りの説明はしなくてはいけない。
「これが新しい在留許可だ。今日からウィー・リンガスと名乗ってもらう。今年の春に、僕と一緒にティンティナブリアから来た、という話になっている」
この捏造のために、多少の悪事に手を染めなくてはいけなかった。入国時の事務処理に「手落ちがあった」という嘘をついて、入国管理局の役人に話をして、ウィーの情報を付け加えさせたのだ。もちろん、普通はそんなのは認められないし、理由を根掘り葉掘り尋ねられることになる。それを封じるために『魅了』の魔法を使って、相手の意識を逸らしたりもした。
「冒険者をやるなら、またペリドットからになる。帝都にいる限りは、実質的にアメジスト止まりだけど」
「……うん」
「お金その他、困ったことがあったら、うまく下校中の僕を見つけて話して欲しい。公館には来られると困る」
言うべきことは言った。次は、二人に頭を下げる番だ。
「本当に、迷惑をかけてしまって」
「まぁまぁ」
タマリアは気にしていなかった。
「しばらく預かって欲しいって言われて驚いたけど、随分助かったからいいよ。一度、肉を食べさせてくれるって言って、海鳥を獲ってきたときは驚いたけど。あんなにまずいものだったとは知らなかったよ」
「なんだったらここで暮らしてもらっても」
「せっかくだけど、追い出されない限り、自分でなんとかするから」
残念。恩返しはなかなかできそうにない。
タマリアはウィーに向き直って言った。
「ウィーちゃん、困ったことがあったら言ってね? 私が何とかしてあげるから!」
「ありがとう、ございます」
妙にしおらしくなったウィーが、実に危なっかしく感じる。
「っと、これで用事済んだみてぇだし、俺はまた、店に戻るわ。ファルス、お前ももうヤベェんじゃねぇの?」
「そうだな。遅くなるとまた、ヒジリに何を言われるか」
「じゃあ、今日は解散だね。ウィーちゃん、私達帰るけど、大丈夫?」
すっかりお姉さんだ。
力があることと、頼りになることは別なのかもしれない。
「はい」
「じゃ、またね!」
学校帰りの隙間の時間を活かして、なんとかウィーの問題を解決した。とりあえず、悩みの一つは片付いたのだ。
安堵に胸を撫で下ろしつつ、俺は公館に帰った。今夜もヒジリと夕食を共にしなくてはいけない。うっかりしていたが、これが事実上の門限なのだ。俺が遅くなれば、彼女も食事を遅らせることになるから。先日、無断でギル達とブイヤベースを食べて帰ったときには、ずっと彼女が待っていたので、気まずいどころではなかった。たとえ居心地が悪かろうとも、もはや逃げるという選択肢すらない。
帰宅してしばらく。自室に女中が訪ねてきて、夕食の準備が整ったと告げられた。
俺は自分の心に鞭打って、二階の和室に足を運んだ。
「随分食べるのがお早いのですね」
「あ、うん、お腹が空いていて」
「まぁ、そうでしたか」
この場にいるのが精神的にキツいから、早く食べて早く撤退するため。でも、そんなのもお見通しなんだろう。
せっかくミアゴアが用意してくれたご馳走なのだが、いまや胃の中で石のようになってしまっている。
「ウミ、片付けてください」
「承知致しました、姫様」
膳が下げられる。代わって二人の女中が出てきた。いつもと違う。彼女らが持ち込んだのは、お茶のお代わりだ。ということは、これから話し合いが始まる。何かを仕掛けられる。
身を固くする俺とは対照的に、ヒジリの顔にはうっすら笑みが浮かんでいた。
「旦那様がこちらにいらしてから、かれこれ四ヶ月ほどになりますか」
「それくらい、かな?」
「お傍でご様子をずっとこの目に収めて参りました」
それ、自分の肉眼ってだけじゃないよね? そう言いたくなる。
正確には誰が決定したかわからないが、ヒジリが俺の婚約者になってから、ワノノマの関係者は、俺の身辺を探り続けたはずだ。そうでなければ、俺があのユンイの子であるなんていうデタラメが、彼女の口から出てくるはずもなかったのだし。
「旦那様のお人柄がどんなものなのか、わかってきたつもりです」
「は、はぁ」
何をするつもり……
そう思った時、ふと気付いてしまった。中庭に人がいない。それだけではなく、隣の部屋にも、ほとんど人気がない。前もって人払いを命じてある?
「不器用な方なのは間違いありませんね」
「はい?」
「緊張することはできても、弛緩することができない。他の人においしい一皿をお出しすることはできても、自分が味わうことはできない。それが美徳とされる状況もないではないのですが、それは貴い者の生き方ではありません。やはり短所には違いないと思うのです」
図星だが、それはそれとして、疑問に思った点もあるので、俺は敢えて尋ねた。
「それはどうなのかと」
「はい、どこがおかしいと思われますか」
「人の上に立つ人は、まず己を空しくして他者を生かすために尽力せよという。なら、美味な皿を他人に、自分の皿は空であるというのが、まさに尊い身分の人間のあり方ではないのかな」
ヒジリは頷いた。
「その通りです。ただ、それは自ら選んでする場合においてのみ、そう言えるのではないでしょうか」
「というと」
「旦那様は、与えるかどうかをご自分で決めておられません。そもそも家長は家の中心に座し、他の家人より大きな器で食べ、また肩の力を抜いて安らぎ、当然のように号令するものです。それが急あれば誰より厳しいところに身を置くから、釣り合いが取れるのです。なのに旦那様は、そのような家長の振る舞いの上っ面をなぞるばかり。実のところ、取るべき時には取らず、なのに与える時には、なんとしても与えてしまおうと苦労なされる。これではまるで」
彼女は口元を覆って、吹き出してしまった。
「自ら望んで奴隷になろうとしているようなものではございませんか」
ああ、ここにミルークがいたら、また説教されそうだ。ファルスよ、お前は貧しい。
これでもかなり克服してきた方ではあるつもりだ。今、こうして不自由を受け入れているのも、俺の心は既に自由だから。けれども、不自由のルールで生きると決めている間は、やっぱりどこか不器用さが顔を出す。言ってみれば、ゲームをプレイしない決心はできても、ゲームの中でうまくやるコツは掴めていない。
だが、これについては、俺の方こそ言わねばなるまい。
「お互い様では」
「はて、何のことでございましょう」
「他の人が言うならいざ知らず。せっかく人形の迷宮も消え去り、パッシャもまた滅ぼされたこの泰平の世に、なお務めを果たそうとしている人が、僕にそれを言えるのか」
魔物討伐隊には悪いが、考え方によっては、彼らを危険な世界から遠ざけることができたということも言えるのだ。もう、多くの人が死と隣り合わせの暮らしをして、迷宮やパッシャと戦わなくてもよくなった。少なくとも、ワノノマの武人達にとってはそうだ。だが、そんな中でもヒジリは、モーン・ナーの呪詛を抱えたこの俺の監視という最前線に配置されている。
必ずしもこんな形にする必要はなかったはずだ。もう少しオオキミやウナが粘って、なんとしても俺をワノノマの将軍にするとかいって、島に閉じ込めてしまえばよかった。こんな帝都のど真ん中で、リスクを取ってお姫様ゴッコなんてしないで済んだのだろうに。
「……少々、齟齬があるようです」
「なに?」
ヒジリは袖口をつまんで両腕を開いてみせた。
「考えようによっては、悪くない暮らしだと思いませんか。ヌニュメ島をご覧になられたのなら、ご存じのはずです。皇族は華やかな暮らしをしていましたか。ですが、帝都にいる私はというと、実のところ、オオキミより贅沢をしているのです」
という言い方をしているが、一面を切り取れば、これは嘘でも何でもない。
ヒジリは魔物討伐隊を率いていた。魔物その他世界の敵と戦うための姫巫女候補なのだから、身分は高くとも富貴を楽しむというのとは無縁であったはずだ。それこそ危機に対応するため、海を渡り山を越え、常に危険のある方へと足を向ける日々だったのだ。それが今では、世界最大の都できれいな服を着て、召使どもに傅かれながらのお姫様ライフだ。
「その上、気の優しい婚約者まで与えてもらえて、よいこと尽くめです」
「そこは違う」
「おや、何が違うのでしょうか」
「オオキミは、あくまでワノノマの貴族の地位を与えようとして受け取られなかったから、別の形で褒賞を与えようとした。だから代わりに婚約を結ばせたのではないか」
この指摘に、彼女は目を伏せて、しばらく沈黙した。
つまり、俺はこう言ったのだ。ヌニュメ島に幽閉するという最善の案が難しそうだったから、最強の監視役をつけるという次善の策を選んだのだ、と。言外の意味は、多分伝わっている。
「そうではない、としたら?」
彼女は笑みを崩さなかった。
「ご自分のことを卑下なさるにもほどがございます」
「何を」
「旦那様」
目が見開かれる。
「婚約ではなく、正式に婚儀を済ませてしまいませんか」
それは……できない。二重の意味で、あり得ない。
「おいやなのですね」
一つには、ノーラのことがあるから。本当に、チュエンでユンイに出くわしさえしなければ。俺は何も知らずに帰国して、彼女の望みをなんであれ、叶えてあげることができたのに。またもし、あの件がなければ、ヒジリとの婚約も断って、代わりにノーラともどもワノノマの監視下に置かれるという選択肢だってあり得た。もっとも、それはそれで、ノーラには申し訳ないのだが。
「ですが、仮に旦那様に思うところがおありにせよ、それは果たしてどうにかなることでしょうか? 時間が経てば経つほど、お互いに失うばかりで何も得るところがないのではないでしょうか」
そして、ノーラのことをヒジリは織り込んでいる。姉弟である可能性があって、夫婦になる可能性がないのなら、むしろ早めに望みを断ち切った方が親切ではないか。これには反論できない。
「だからといって、本来、自由になり得た人を犠牲にする理由にもならない」
姫巫女候補の重い責務から半ば手を離して、平穏な日々を送るはずだったヒジリが、俺の監視のために操まで捨てなくてはいけないのか。
無論、俺が使徒なり魔王なりに手を貸すとか、狙われたとあれば、モーン・ナーの力を渡さないために、命を捨てて戦わなければならないところに違いはない。だが、それ以外のところで、人としての部分をそこまで諦めなければいけないのか。愛してもいない男、いざとなれば殺さなければいけないような相手と結婚までさせられるなんて。
「正直、犠牲になる覚悟はございますし、そのつもりでここまで参ったのですが」
「今はそれを犠牲だと思っていないと」
「その通りでございます」
今度は俺が苦笑する番だった。
「あり得ない」
任務でここまできたけど、案外いい男だったんで好きになっちゃいました、と言っているようなものだ。冗談にもほどがある。
確かに顔かたちに恵まれているのは自覚している。だけど、先日の俺の醜態はどうだった? 全裸で飛び跳ねるウィーを庇って脂汗を流し、土下座して許しを乞うていた。あれが女の惚れるカッコイイ男か?
「とはいえ、旦那様も、私では不足がおありでしょう。そこも考えてはおりますよ」
「不足?」
「一人で夫の望みを何もかも満たしてあげられる女人であればいいのですが、私はそうではないということです」
わけがわからない。
ヒジリほどの美女は、そう簡単に見つかるものではない。確かに物凄く怖い女ではあるが、それも欠点とは言えない。これまで担ってきた役目ゆえなのだから。では何が足りない?
「お急ぎになられなくてもいいと思うのです。少なくとも、まだ二年と半年以上、旦那様には考えるお時間がおありです。それまでにお決めください」
「ああ、そうする」
実際、耳が痛い話ではあるが、ノーラの件は、俺が決断すべき事案だ。俺がはっきりしないせいで、彼女に人生を棒に振らせるなど、決してあってはならない。
「で、せっかくそれだけの時間があるわけですから、それはそれとしまして、私もいろいろ物事を先に進めたいと思っているのです」
「他に何がある」
ヒジリは頷いた。
「不足を補うのですよ」
そして、彼女は手を打った。すると、隣の部屋に僅か一人残った気配が動き出すのを感じた。
「閉めなさい」
小さな影が部屋の入口に立つ。カエデは、初めて出会った時と同じように、白い和服のようなものを身に着けていた。髪はあれから少しだけ伸びている。
指示を受けて、彼女は神妙な表情で従った。障子を閉めてから、俺とヒジリの前に正座した。
「旦那様」
なんだろう。物凄く嫌な予感がする。
「カエデは元は武人の家の娘です。貴族の血筋ではございませんが、どこに出しても恥ずかしい身分ではございません」
ちらと見る。カエデの頬がうっすら赤く染まっている気がする。
「ただ、父母が相次いで亡くなり、身寄りがいなくなったために、一時期ヌニュメ島にて引き取っており、私も養育に携わりました。ゆえに武人の家の女としての心得がございます。かつては魔物討伐隊に加わることを志すほどでした」
まさか。補うってそういうことか。
「今は私が親代わりでもあり、主君でもあります。その私が誓って申しますが、カエデの素行に過ちがあったということはございません。確かに心身共に未熟なところはございます。少々気短なところもよくはございません。ですが、その分務めには忠実で、身を挺して役目を果たすことのできる娘でございます」
ヒジリは完璧な美女といっていい。教養もあり、実力もあり、美貌も備えていて、血筋も最高なのだから。しかし、ただ一つだけ、彼女になし得ないことがある。
「このカエデを、旦那様に差し上げます」
ヒジリにとっての唯一の不足。それは……
恐らく、贖罪の民と同じ制約を受けていること、だ。龍神の祝福を受けた者は大きな力を得て、また長寿を与えられるが、それと引き換えに生殖能力を喪失する。だから彼女は自力では母になれない。
だったら、他の女を宛がえばいい。普通に子供を産める女を。カエデなら、あれこれ文句をつける実家もない。好きにしても誰も何も言わないのだ。
「なんということを」
「もちろん、立場は側妾です。分限は弁えているはずです。そうですね、カエデ」
「はい」
声が震えていた。
「せっかくここまで立派に育って、普通にまともな結婚だってできるはずの娘を、よりによって」
「旦那様がご不満というならともかく、カエデの側に不都合などあろうはずもございません。既に数々の武勲を挙げられ、正式に貴族に叙された旦那様が、士分の家の娘を側妾にしても、釣り合いが取れないということはないのです。ましてカエデには身寄りもないのですから、先々を考えれば、願ったりかなったりというところではないでしょうか」
だが、さすがにこれについては黙ってはいられなかった。というより、半ば憤っていた。
「上っ面の話はどうでもいい。何かが……仮に何かが起こった時、真っ先に犠牲になるべきは、この自分だ。それに巻き込まれる覚悟は、あなたの立場までなら持つべきだといえるだろう。どうして気の毒な孤児まで、そんなところに引きずり込むんだ。親も子もいない、そんな人に重い責務を担わせるな。捨て石じゃないか。せっかく、せっかく人として生きられるのに、これからなのに」
そんな俺を見て、ヒジリは涼しげに微笑んだ。
「やはり、旦那様は……」
それからカエデの方に振り返った。
「どうですか、カエデ。私が言った通りでしょう」
「はい。精一杯務めさせていただきます」
どういうやり取りなんだ。
カエデもカエデだ。ちょっと前、俺がウィーを連れ込んだ時には血相を変えて怒鳴りつけてきたくせに。
「とりあえず、二階の部屋の東側の一室は、カエデに与えました。もちろん、旦那様の寝所でもあります。それからカエデには、旦那様のお部屋の合鍵も持たせることと致します。ワノノマ風のお部屋ではよくお休みになれないかもしれませんから、どちらを寝所としてもいいようにとの考えです」
「勝手に決めるな。親代わりだかなんだか知らないが、そうする必要もないのに一方的に一人の娘の人生を台無しにするなんて、絶対に認めないぞ」
ところが、カエデは俺にキラキラした瞳を向けてきた。
「ご主人様、いえ、旦那様」
ビクッ、と俺の肩が震える。
「よいご縁をいただきました。これから精一杯務めさせていただきます!」
何がどうなっている? 魔法……じゃないだろうし。そうだとすれば、俺が介入して解除することもできるのだが。どういうわけか、カエデはこの状況に納得してしまっている。
ヒジリはカエデに優しく語りかけた。
「よかったですね。ですがまだ一安心とはいきません。この上は、一刻も早く子を挙げてください。あなたの子は我が子同然です。よろしく頼みますよ」
「はい! ありがとうございます!」
頭の中のパニックが収まらない。
でも、カエデの心はともかく、ヒジリの頭の中を読み取るのは簡単ではない。つまり、俺に答え合わせはできない。
「さ、善は急げです。カエデ、早速旦那様をご案内なさい」
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