俺が社会的に死んだ日
「はやくはやく」
「待って、もうちょっと落ち着いて」
「はやくはやく」
「だから、こんなところで元通りにできるわけが」
お尋ね者のウィー、もとい上級冒険者ケルプ・アーツは、俺の袖をしっかり掴んだまま、決して放そうとしなかった。数秒に一度は「元に戻して」と壊れたラジオのように繰り返し、落ち着かせようとすると急かしてくる。
「順番がある。まず、女物の服を用意して、それから家……公館はよくないな、できればもう一つの……となるとまず、不動産屋に寄って鍵を借りて、ああ、それからあと、大事な手続きが」
「そんなに待てないよ!」
弱った。
そうだった。彼女はこういう人だった。行動力があって勘もいい一方で、とにかく体を動かしていないと気が済まなくて、どこか衝動的なところがある。
父の仇を討つまでの間は、そういう気質もそれなりに抑制されていたようだが、それにしたって本人にとってはかなり無理があったのではないかと、今では思う。本来なら元気で明るくて、まるで野生の鹿のように、どこにでも跳びはねていってしまいそうな女の子。それがウィーだった。
その、ウィーのありのままの心が、男性の肉体には我慢ならないと言っているのだ。要するに、ボクっ娘はどこまでいってもボクっ娘でしかなく、男にはなり得ないものだったと、ただそれだけの話だった。
「どうして待たせるのさ!」
外見に似合わない口調で叫ばないで欲しい。いや、もう我慢の限界なのだろう。今までは見た目に合わせた態度を演じ続けてきたのに違いないが、それすらもう耐えがたいストレスになってしまった。ましてや願望の成就が目の前とあっては。
「仕方がない」
わけのわからないことを叫ばれ続けるのも、リスクだ。といって、まさか殺してしまうわけにもいかないし、とりあえずいったん元通りにして、落ち着かせなくては。このままだと、往来で俺の秘密を喚き散らす恐れさえある。それも、俺を脅そうとか、そんな意図すらないままに。
高級商店街をまっすぐ南下して大通りを渡ると、もうワノノマの公館は目と鼻の先だ。そして、道路側にある離れは、俺が自由にしていいことになっている。
一時的にウィーを元通りにしよう。そうして我に返ってもらってから、俺が大急ぎでひとっ走りして女物の服一式を買えばいい。その後にも大事な手続きがあるのだが、当面はそれだけでも。
「じゃ、そこで」
「はやくはやく」
もうこれしか言えないのか。
「さ、ここ、入って」
「はやくはやく」
離れの玄関から立ち入るとまず廊下。その目の前に、広い方の応接室に繋がる扉がある。俺は右手、廊下の向こうをちらりと見て、誰もいないことを確かめてから、ウィーを部屋の中に滑り込ませた。
「はやく」
「シーッ」
指を唇にあてて黙らせ、慌ててピアシング・ハンドを発動させる。この状態では、精神集中なんてしてもらえない。だが、ルースレスの肉体を引っこ抜けば、自動的に残ったウィーの肉体に入れ替わる……
果たして、ソファの上からは、ハゲ頭にヒゲ面の男が消え失せていて、代わりにちょこんと座ったうら若い乙女の姿があった。
「あっ……」
変化に気付いたウィーは、自分の手を見た。男のごつごつした手ではなく……もっともウィー本来の手も、弓を引きすぎて指先などは固くなってしまっているのだが……さっきよりは一回り華奢なものに置き換わっていると確認した。
「あああ」
「ちょっと、静かに」
肉体を入れ替えた関係で、服もすっかり脱げてしまっている。
「とりあえず、それ、まず着て……」
「わーい!」
俺がギョッとするのも構わず、いやそもそも視界にも入れもせず、彼女は元通りになったことに喜びを爆発させた。
「わーい! わーい! わーい! わーい!」
全裸のまま、ピョンピョン飛び跳ねる。恥じらいとか、隠すとか、そんなことに思考がまわっていない。というか、ここがどこなのか、人目をどうするかとか、俺の都合とか、何もかもが頭に入ってない。
「静かに! 静かに!」
「わーい!」
その時、背後から軽くノックする音が聞こえた。
「ちょっと待っ」
「ご主人様、いったいなにご……キャーッ!?」
女中のタウラがトレイにティーカップを二つ載せて、応接室の前まで来ていた。だが、中から聞こえる女の叫び声に異変を悟って、俺の指示を待たずに扉を開けてしまった。
そして彼女が目にしたものは、全裸で飛び跳ねる謎の女と、その前で立ち尽くす婿殿の姿だった。
「ちょっ」
「ヒ、ヒジリ様ー! ヒジリ様ー! 大変でございます! 一大事でございますっ!」
床に放り出されたティーカップが甲高い音を立てて砕け散り、遅れてトレイが床に倒れ伏した。
「待っ」
すべては後の祭り。急かされたからって、やっぱり慌てるべきじゃなかった。
そして、それからおよそ三十分後……
「では旦那様、言いたいことがあればご説明を」
一階の和室で、俺は正座していた。背筋を伸ばし、俺を見下ろすヒジリの前で、ひたすら縮こまっていた。
ウィーはというと、さすがに他人が乱入してきてやっと正気に戻ったらしく、今ではさっきの男物の服を着直して、俯いたまま俺の横に座り込んでいる。
一切を目撃していたタウラの証言は、俺を納得させるものだった。
ケルプの体のままのウィーが、路上で俺を掴んだまま、放そうとしなかった。その状態で、大通りを渡って公館の裏手の道を歩いていた。その姿を、ちょうど二階の俺の居室を掃除した帰りに、渡り廊下を歩いていた彼女が見下ろしていたのだ。
『あれ、ご主人様が誰か、男の人を連れて歩いている。あれは仲がいいご友人だろうか?』
それで取るものもとりあえず、彼女は急ぎ厨房に馳せ戻って、お茶を用意して取って返した。だが、応接室から聞こえてくるのは女の叫び声。それで思わず立ち入ったところ、あの惨状だったというわけだ。
男だと思ったのは女。それはいいとして、問題はその女性が全裸だったことだ。つまり、ご主人様は痴女を館に引き入れた。
この報告を、タウラは俺とヒジリ、ウィーの目の前で済ませた。今では、屋敷の主だった者達に取り囲まれている。
一切を聞き取ってから、ヒジリは俺に説明を求めている。
「えっと、あの」
「ありのままを述べるだけです。何も難しいことはないかと思われますが」
怖い。背筋に氷の槍でも突っ込まれたかのような気分になる。それでいて、灼熱の太陽に焼かれているかの如く、さっきから汗が止まらない。
「その、彼女は、顔見知りの人で」
「はい」
どうする? ピアシング・ハンドのことを部分的に知らせてしまうか?
それは駄目だ。別に能力を隠す必要があるから、ではない。どうせもう、俺はモゥハの監視下にあるも同然なのだから、この際、それはいい。
しかし、ウィーに関しては、ありのままを述べるわけにはいかない。なぜなら彼女は、ピュリス前総督の暗殺未遂犯にして、脱獄囚だからだ。もし、男の体は偽物で、女の体に戻してあげただけなんです、と説明したら、ではなぜわざわざ男に化ける必要があったのか、と問われてしまう。
「それで? 顔見知りというだけで、全裸になったりはしませんよね、普通は」
「あ、う、は、はい」
「何をしていたのですか」
帝都に来て以来、最大の危機だ。
どうすれば、どうすれば、どうすれば……
その時、ヒジリの後ろに立っていた女中の一人、カエデが声をあげた。
「いやらしい! 不潔です! ヒジリ様というお方がいながら、どこの馬の骨とも知れない女を連れ込もうだなんて!」
「ふぐぅっ!?」
もはやまっすぐ背を伸ばすこともできない。自然と俺のポーズは土下座スタイルになっていく。
「カエデ」
「はい!」
「控えなさい」
ヒジリの低い声が恐ろしすぎる。俺は額を床に擦り付けた。
「ま、まことに申し訳なく」
「謝罪など求めておりません。事実の説明を要求しています」
どうしよう?
他の連中はともかく、ヒジリは何かに勘付いている。俺が出来心でその辺の女を連れ込んで抱くような男だとは思っていないし、仮にそうした振る舞いに出るとしても、よりによって婿入り先の、この公館の中でやらかすようなバカだとは考えられないだろう。もしそんな男だったら、とっくに美人の女中達を押し倒しているはずなのだし。
でも、事実を述べるのも難しい。見事に板挟みになってしまった。名案が思い浮かばない。
ええい、ままよ……
「申し訳ありませんでした」
「ですから、謝罪など」
「いろいろあって気詰まりしていたので、女を連れ込んで脱がしました。淫らな真似をしてしまいました」
この説明に、部屋の空気が固まった。
ああ、視線が痛い。針の筵だ。俺は今、社会的に死んだ。
特に、ヒジリの目が怖い。さっきよりずっと恐ろしい。凍てつくような視線だ。
彼女が怒るのも当然だ。あからさまな嘘で押し切ろうとしている。せっかく俺は、もちろん監視対象でしかないとはいえ、それなりによくしてもらっていたのに。もしかしたら、ヒジリも少しは俺を信用してくれていたかもしれないのに。それを裏切ってしまった。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
だから、これは心からの謝罪だ。許されようとも思ってはいない。
「なるほど」
それからしばらく、間が空いた。ヒジリはじっと思案しているようだった。とはいえ、俺にはそれを確かめる術などない。顔をあげるのさえ畏れ多い。
「……一つ、貸しとしておきましょうか」
ポツリとそう呟くのが聞こえた。
「は」
「旦那様」
「は、はいっ」
カエルよろしく這いつくばりながら、俺は皇女様の裁きを待ち受けた。
だが、呼びかける声色には、既に違和感があった。どうにも穏やかというか、何か抑制がかかっているような感じがする。
「私が何について苦言を呈するべきか、おわかりでしょうか」
「い、いいえ」
「貴族の身分は飾りではございません。女人との関わりの一切は、お家の大事でございます。にもかかわらず、このような身元もわからぬ女を相手に憂さを晴らそうとなさったこと、これが大きな過ちなのです」
なんとなくだが、わかった。
ヒジリはお芝居をしている。女遊びをしようとした、という俺の証言に基づいて喋っているのだから。つまり、俺が秘密を抱えている件については、不問に付してくれたのだ。確かにこれは「貸し」に違いない。
「さりながら、私はいまだ婚約者の身。正式に婚儀を挙げるまでは、道に外れた振る舞いはできかねます。とはいえ、旦那様の今の状況をそのままともしておくのも、よくはございませんね」
「ははっ」
「誘惑の多い帝都で過ちに手を染めずにいるためには、それなりの備えが必要でしょう。これについては、私が考えておきます」
「はい」
もし機会があったら、この件では謝ろう。
でも、どうやって話せばいいのか。少なくとも周囲に他の使用人がいる場所では難しい……
「では旦那様。その女人は責任もって送り出してください。旦那様の身辺をどうするかについては、また追ってご相談させていただきます」
「ヒジリ様!」
具体的な罰や報復について何も言いださず、ウィーの見送りまで許したヒジリの甘い判決に、カエデが食らいついた。
「ワノノマの真心を踏みにじり、辱めたこの男に、なぜ思い知らせないのですか!」
「控えなさい!」
ビリッ、と部屋の空気が震えた。怒鳴りつけられたのは俺でもウィーでもないのに、どちらも肩をすくめてしまうほどの迫力だった。
なるほど、これが魔物討伐隊の司令官としてのヒジリの、素顔なのだろう。納得した。姫君である以前に、武人であり、姫巫女候補だったのだろうから。
「差し出がましい今の発言、一度は見逃しましょう。心得なさい。よいですか」
叱責に硬直し、冷や汗さえ流すカエデに、ヒジリは淡々と説明した。
「オオキミは旦那様に私を賜ったのではありません。受け取っていただいたのです。それは元はといえば、ワノノマの武人達が、世界に安寧を齎すという使命を十全に果たせぬ中で、旦那様こそが先んじて功業を遂げられたからです。仮にもし、旦那様を公館より追い出して去らせたとすれば、それは即ち私達自らの恥辱であり、ひいてはオオキミとワノノマの名誉を失墜させることになるでしょう。そのような大事を、そなた一人の言葉で軽々に左右したとすれば、その責がどれほど重大か、わからないのですか」
「あっ、うっ」
「今後については、私が責任もって対応を考えます。皆、この件については口外しないように。よいですね」
その場にいた使用人全員が、頭を垂れた。
「では旦那様、その方をお見送りして、すぐに戻ってきてください」
俺とウィーは、離れの出口からコソコソと外に出た。
恥ずかしいやら情けないやら、溜息が出るばかりだ。
「ごめん、正気じゃなかった」
「ああ……」
非常にまずいことになった。ヒジリの温情がなければ、にっちもさっちもいかないところに追い詰められていた。
「それより今後のことを」
「キャッ」
キャッ?
「あ、いや、あのさ」
「うん」
「ぜ、全部、全部見た、よね……」
裸? のこと?
俺は混乱した。今、そういう話? 俺、お前がまずいことになるのを庇ってたのに、どういうこと?
「見られた」
「いや、元に戻せって言ったのに」
「見られた……」
そう言って、ウィーは俯いてしまった。
だが、今はそれどころではない。
「とりあえず」
俺は、最低限の指示を伝えなくてはいけない。
「大変なことになってるのはわかってる? 帝都には移民の身分で入ったよね? ケルプの名前で渡航したのに、今はウィーの体に戻ってる。不法入国者だ」
「あ」
やっと気付いたのか、この脳筋娘め。
「なんらか渡航履歴をごまかさないと、あとは身分も用意しないと、まずいことになる。だからとりあえず、手助けしてくれる人に頼るしかない」
「う、うん」
「繁華街にアウラ・チェルタミーノという風俗店がある。そこにニドという男がいるから、まずは彼を頼ってくれ。色男だから、変に手出しされないよう、気をつけて。僕の名前を出すのを忘れないように。それと、シーチェンシ区にタマリアという、これも僕の知り合いがいる。しばらくは彼女のところに身を置くようにして欲しい。身分と家は、近々用意する」
「な、なんか、いろいろごめん」
本当に。まったくだ。
「詳しい話はまた今度で。もう戻らないと」
「うん、ごめんね」
男物のダボダボの服に、サイズの合わない革の鎧を無理やり身に着けたままの格好で、彼女はトボトボと歩き出した。
それを見送ってから、俺は胸の奥から溜息をついた。
まったく、降ってわいた災難だった。
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