ハゲ、襲来
近頃、順調すぎて怖い。
「では、次に行きましょうか」
「お手数をおかけして済みません」
「いいえ、私も楽しいんですよ」
のどかな春の日の夕方。
リシュニア王女を案内役にして、例の学生寮の前に建ち並ぶ高級店の数々を巡るなんて、普通の人生ではまず考えられないくらいの贅沢といえるだろう。
「兄が忙しいせいでお相手できず、むしろ私の方こそ申し訳ないくらいです」
「とんでもありません」
ギルの、あの野犬退治の件だけは胸糞悪かった。ただ、それ以外ではこれといって嫌なこと、つらいことがない。強いて言えば、少々忙しすぎるくらいか。一番暇なのは授業中かもしれない。既にピュリスで履修済みだったり、実地で体験済みだったりすることばかりを学習させられる。
むしろ学業以外の方が大変だった気がする。グラーブには、初回のサロン以降にもたびたび呼びつけられている。休日には、タマリアやニドの顔を見に行ったりもしたし、ラーダイには迷宮や合コンに連れていかれた。そして、それらの予定がなく、ある程度、纏まった時間が取れる場合には、もちろんワングから受け渡されたコーヒー豆の研究に没頭した。
コーヒーだが、紙ドリップに拘らない方がいい気がしてきた。フィルターに使えそうな紙素材はなかなかないが、純粋な綿素材のネル生地なら、帝都で割と簡単に手に入る。問題は目詰まりがすぐ起きてしまうところにあるが、当面はやむを得ないと割り切るべきだろう。とにかくこれで、かなり望み通りの味に近づいてきた。もう少し研究したら、ピュリスに手紙を書き送るべきだ。セーン料理長に、早速活用してもらいたい。
順調すぎて、立ち止まる暇がない。ろくに休んでいないのだが、これはなんというべきか……疲れていないはずはないのだが。
休むということが前提ではなかったあの旅の余勢を駆って、領地の安定とロージス街道の復旧に取り組んだ。その勢いがまだ少しだけ残っていて、なんだか勝手に働いてしまっているような、そんな気がする。
「では、今日はこちらを最後にしましょう。磁器を扱うお店です」
思考が切り替わる。磁器、磁器か。
そうだ。コーヒーの味ばかり気にしていたが、売り方も考えないといけない。その辺、セーン料理長に任せておいてはダメだ。あれは料理バカだから、どうやって客に味わってもらうかしか考えられない。
長い目で見れば、世界中の人々にコーヒーの素晴らしさを知って欲しいと思っている。だからこそ最初は敢えて売り渋る。上流階級の人々が楽しむものだと、そういう固定観念を刷り込んでから、数を出荷したい。
となれば、試飲させるにもまずは器だ。お洒落で高級な飲み物なのだというイメージが大切だろう。これは料理人として思うところがないでもないのだが、人は「上等なもの」という先入観があると、本当にそれをおいしいと感じてしまうものなのだから。
リシュニアが扉の前のベルを鳴らすと、中から扉が開かれる。仮にも一国の王女様だ。制服を着ていても、一発で識別される。店員は満面の笑みを浮かべて一礼し、挨拶する。
「いらっしゃいませ!」
「いつもありがとうございます」
「とんでもございません」
店員の視線が、すぐ後ろにいる俺にそっと向けられた。
「お連れ様は」
「はい。父の臣下にして男爵のファルス・リンガをお引き合わせしたくて参りました。この方は、若年ということもあって学園に通うことにはなりましたが、王より正式にティンティナブリアの統治を委ねられた領主です。今日はよい器を見繕いたいということで、こちらのお店をご案内させていただこうと思いまして、こちらに」
これとほとんど同じ台詞を、今日は既に四回も言わせている。仮にも王女様に。まさしくお手数そのものだ。身が縮む思いではあるのだが、今は俺も身分があるので、みっともない態度はとれない。
「なんと! わざわざ私どもの店を訪ねてくださり、ありがとうございます。ぜひ今後とも御贔屓に」
「こちらこそお世話になります。今日は見るだけになりそうですが、よろしいでしょうか」
「もちろんでございます。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
なんだか堅苦しい。
こういうのが好きな人もいるのだろうが、俺は肩肘張らない庶民の暮らしの方が性に合っている。
いや、そんなの当たり前か。リシュニアだって、幼少期からずっと王女としての振舞いを強制されてきた。礼儀作法という衣服が、いつしか肌にへばりつくまで、そうしてきたのだ。してみれば、高貴な身分に相応しい態度というのは、彼らに課された一種の税金ということもできるのだろう。そして、その税の見返りが、ちょっとした贅沢と……どれほどの富があろうとも、その恵みを享受できる体はこれ一つきり……万民を平和に導く重い重い責務だとするなら、あまりに割が合わない。
「いかがです? ファルス様。今日は特に器に興味をお持ちだと仰っておいででしたけれど」
俺はじっとカップの数々を見下ろして、頭の中で計算する。
飲み物の味は、器に影響される。ワイングラスとビールジョッキに互換性がないことを思えば、容易に理解できる話だ。微妙な風味や酸味を楽しむなら器は薄い方がよく、深煎りにするなら厚めの方がいいというのが一般的だ。
ここに置かれているのは、どれもティーカップだ。磁器なので薄手に作ることができていて、器が浅く、幅広になっている。デザインはかわいらしく上品なのだが、これではダメだ。
コーヒーの抽出温度は、紅茶より低い。こういう冷めやすい器では、すぐにぬるくなってしまう。底が丸い形状になっているので、カプチーノを出すにはよさげだろうか。しかし、薄手であることを考えると、浅煎りで出さないといけないが、果たしてフルーティーなコーヒーがどこまで受け入れられるか、またそうなるとお茶請けに選ぶお菓子の種類も考えないといけなくなる。
とはいえ、器の性能だけ追求しても、商売には不都合だろう。美しく演出して供する必要もあって……
「な、何か不都合でも」
うろたえた店員の声で我に返る。
「あ、いえ、素晴らしい器だと思いまして」
「は、ありがとうございます」
納得してなさそうなのを感じる。不満が顔に出ていたか。
仕方がない。この世界になかった飲み物なのだから、それに適した器が最初からあるはずもないのだ。いざとなれば、オーダーメイドするしかないかもしれない。
店を出て少し歩いてから、リシュニアが言った。
「物凄く真剣にご覧になられていましたね」
「ああ」
俺は曖昧な笑みを浮かべて、理由を説明した。
「実は、面白い飲み物を研究しているんです。ただ、それに合う器がなかなかなくて」
「そうなんですか。ですが、こちらのお店の品は、どれも美しいものばかりだったかと思いますが、お気に召しませんでしたか?」
「美しさではないんです。器の機能が……一言では説明しきれないのですが」
「まぁ」
パッと表情を明るくすると、彼女は思いもしなかったことを口にした。
「ファルス様は、勇ましいだけでなく、料理の道にも通じておいでなのですね」
だが、俺の顔色が変わったのに気付くと、不思議そうに首を傾げた。
「どうなさったんですか?」
「あ、あの、殿下」
「はい?」
「僕の本業は、料理人ですよ」
「えっ」
相手が姫様だろうがなんだろうが、これは譲れない。もう血生臭い世界は卒業。これからは元通り料理人として有意義な日々を過ごすのだ。
ただ、よくよく考えてみると、彼女にとっての俺は、確かに戦士でしかなかった。初対面でベルノストをぶちのめし、内乱の際にも暴れまわって、セリパシア旅行から帰国したらまた目の前でベルノストを叩きのめした。そして俺が帝都に留学する前に、多分、父王からの手紙を受け取っているはずで。
「お料理は、ではお得意なんですか?」
「はい。まだまだ修行中だという気持ちではありますが、人に恥じない一皿をお出しするくらいはできると自負しています」
「まあ!」
彼女はふんわりと微笑んだ。
「では、今度、お時間のある時に遊びにきていただかなくてはですね」
「殿下のために一仕事となれば、それはもう、お招きのご友人方にもご満足いただけるよう、力を尽くします」
「あら、違いますよ」
実に楽しそうに、彼女は言った。
「私が今、寮で一人暮らししているのはご存じかと思いましたのに」
「えっ、お一人、ですか?」
「はい」
「お供も、召使もいらっしゃらない?」
「ええ」
じゃあ、食べるものはどうしてるんだろう? 見たところ、裁縫スキルはあっても料理スキルがないから……
「お願いすれば、寮で賄ってはいただけるんですが、それだけでは味気なくて。それに、いつも一人で夕食を済ませておりますので」
「そうですか」
それでは毎日、寂しいしつまらない……いや、でも、まずくないか?
何人かでも召使が近くにいるなら、堂々と訪ねていってもいいかもしれないけど、女が一人の部屋に、俺が? それも、その辺の町娘とはわけが違う。
「ふふっ」
「あの、そうしますと」
「あ、着いてしまいましたね」
門のところで小さく手を振ると、彼女は言い切ってしまった。
「では、そのうちに。楽しみにしていますね!」
しまった。どうしよう。困った。でも、ちょっと不憫だな、とも思うし。
それで、ぎこちない笑顔を浮かべたまま、力なく手を振り返した。
「はぁ……」
彼女が視界から消えると、途方に暮れて、寮の敷地を囲む柵に凭れかかった。
どうすればいいんだろう? いや、案外簡単で、何人かを誘って……でも誰を誘えばいいんだ? 俺の知り合いばっかり? それで気疲れさせても意味がないし。むしろ失礼なこととかあったら大変だし。ギルとか連れていくか? だけどあいつだって常識はあるだろうし、そもそもセリパス教徒だし、初対面の姫様の部屋なんかで寛げるはずもない。いくら女が欲しいってったって、出入り自体したくもないだろう。
ヒジリは身分は釣り合うけど息が詰まること確実、ヒメノはそもそも俺とそこまで親しくもないし学級も別だし、じゃああと、誰がいる? ラーダイなんか論外だし、タマリア、ニド……冗談じゃない。
「困ったな、誰か助けてくれないかな……」
「あぁぁぁーっ!」
思考が、背後から迫る男の絶叫に中断される。
こんな治安のいい、帝都でもかなり上等な通りにこの叫び声とは、いったい何が?
振り返ると、その声の主がこちらに向かって全力疾走しているのが見えた。大人の男だ。髭面でスキンヘッド。使い古した薄手の革の鎧、腰には短刀、そして背中にリュックと矢筒を背負っている。
なんだ? なんだ! 俺に向かってまっすぐ走ってくる。
「わぁぁっ!」
そいつは迷わず俺に掴みかかり、猛然としがみついてきた。
「な、何をするっ! どういうつもりだ!」
殺意があるなら……と反撃することが一瞬、意識をかすめたが、こいつは矢も放たず、腰の短刀も抜いていない。つまり、俺を殺しにきたのではない。
「助けてっ! もう限界!」
「な、何を言っている?」
「我慢できない! もう無理! お願いだから戻して!」
見た目の割に、なんだか女々しい喋り方をする。
「ちょっと、離れろ! なんだお前は!」
「ファルス君でしょ? ね? ね? ずっと探してたんだよ!」
俺の名前を知っている?
それで、ピアシング・ハンドで相手を確認して……やっと意味がわかった。
「まさか」
「そうだよ! ウィーだよ! 忘れたの?」
どうしてこんなところに? 思考が追いつかない。
「どれだけ大変だったかわかる? レジャヤに来るって聞いた時には、とにかく見つけてもらおうとして頑張ったんだよ! なのに行列には近づけないし、ホテルも取り次いでくれなかったし! それで仕方なく、ピュリスまで行ったら、もういなくなった後でさぁ! どこに行ったのか、しばらくあちこち彷徨ってたら、人形の迷宮? ほとんど人がいなくなったドゥミェコンまで行ったんだよ! 水も食料も尽きて、死んじゃうかと思った! それでとにかく人里まで行こうと東に向かったら、戦争に巻き込まれて逃げ惑ったよ! でも、きっと近くにいるはずだと思って、海峡を渡ってカリまで行ったんだ。もう、稼いだお金も惜しまずバラ撒いて、行方を教えてくれたらいくらでも出すって触れ回ったのに、見つけたと思ったら、またいなくなってて! それからいろいろあって、ポロルカ王国まで行ってみたら、街が焼け野原になってさ! ようやく噂を聞きつけた頃にはもう出発した後だって! それで急いで陸路を追いかけたのに、結局、見つけられなかったんだから! それで、もしかしてと思って、だってほら、王都で騎士になったんだから、タンディラールから留学しろって言われてないかなって思って探し回って、今、やっと」
道理で随分と逞しくなったわけだ。弓のスキルも伸びているが、サハリア語もシュライ語も、カタコトでよければ会話できるレベルに育っている。
「助けて!」
「だから何を」
「戻りたい! 元の体に! お願い!」
そういうことか、と理解がやっと追いついた。
「でも、ウィー、それはおかしいよ。僕、言ったよね? つらい人生になるかもしれないけど、って」
「覚えてるよ! ワガママだってわかってるよ! それに最初は、大きな体で強い弓が引けるって喜んでたよ! だけど、だけど! 時間が経てば経つほど違和感がすごくて、もう我慢できない!」
「いや、でも」
「わあああ!」
俺の肩を掴んだまま、半ば気狂いにでもなったかのように、寮の柵へと打ち付けてくる。
「わあああ!」
「ちょっと待って、落ち着いて」
「もう我慢できない! もう我慢できない! お願い、ボクを女の子にしてっ!」
そう彼……彼女が絶叫した時、俺は別の足音に気付いた。恐る恐る横を向くと、棒立ちになったケアーナが、目を丸くしながら俺を見つめていた。だが、そそくさと目を逸らすと、足早になって柵の内側へと駆けこんでいった。同じ寮に入居していたとは知らなかったが……
「わ、わかった、わかった、ウィー」
このままではまずい。
「とりあえず、場所を移そう」
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