合コン前夜
持ち出されたボードには、一枚の紙が貼りつけてある。南方大陸の全図だ。そこを指し示しながら、年嵩の男性講師が説明を続けている。
「……このように南方大陸といっても、地域によって文化や習慣、物事の捉え方に大きな違いがある。特に西部と南部は、ほとんど正反対と言っていいほど、基本的な精神性が異なっている。交流をもつ場合には、こうした点をよく理解した上で接することが重要だ」
彼は、座席の後ろの方をちらりと見て、穏やかに微笑んだ。
「もっとも、私が説明するより、現地を知るゴウキ君が語ってくれた方がいいかもしれないね」
常に一番後ろの座席を占めているのは、あの入学式の日にギルと俺に絡んだラーダイを止めてくれた、大柄なシュライ人だった。西部シュライ人並みに肌が黒いのだが、実はポロルカ王国出身だ。例の、いわゆる地方領主の嫡男で、つまりは偽帝以後の混乱期に、西部の港湾地域を直接支配するために派遣された宮廷貴族の末裔ということになる。だが、現代においては、正式な貴族には分類されていない。この特殊な身分にある人々だけが、あの昆虫を模した礼服を身に着けている。
「入学式の日に、少々変わった服を着ていたのを、君達も見ていたと思う。あれは正式な礼服なのだ。いろんなデザインのものがあるが、あの服はブーリ家だけが身に着けるものだ。私も生まれて初めて見たのだけれども」
チラチラとゴウキの様子を窺っているようだが、彼は動きださない。あんまり空気を読まないのだ。また、フォレス語がそこまで得意でないという事情もあり、社交的でもないらしい。理想的な授業の展開としては、ここで彼が前に出てきて、ポロルカ王国の文化や生活について語りだすという形になるのだろうが……
時間も押してきているし、今日の学習範囲は一通り片付いたのだろう。あとはオマケを探している感じだろうか。
「ところで」
講師の視線が、窓際に向けられる。
「我が校は服装の自由は認めているのだが、君、それはどこの礼服かね」
「えっ?」
今朝から誰もが触れようとしなかった話題に、ついにメスが入った。
ゴウキとは反対側の、窓際の席にいたのは、巨大な犬だった。いや、正確には、犬の着ぐるみを着た女子学生だった。白い被毛の部分が陽光を浴びて時折キラキラと輝いている。
「よくぞ訊いてくれました! これは私が自分で手作りしたものです! ワンちゃんが今、流行ってるみたいなので!」
「き、君ね」
「でも、授業はためになりましたよ! ゴウキさんの服、一族の礼服なのだそうで! 今度、私も作ってみます!」
「い、いや、ちゃんと聞いていたのかね……」
一族を示す特別な服を、まったく関係のないムスタム出身の女子学生が勝手に拵えて身に着けるというのは、少々まずいのではないか。
「あ、あー、ゴウキ君」
「いいです」
「は?」
「いいです」
言葉少なにそう言われて、講師は戸惑った。
すると、ゴウキは咳払い一つしてから、一気にシュライ語に切り替えて言い切った。
「祖父や父は、一族を示す礼服をとても大切にしてきましたし、血縁も何もない誰かが身に着けるのをよしとはしないでしょう。ですが僕の考え方は違います。僕達にとって価値のあるものでも、他の人にとってそうであるとは限らないのです。そして価値観を共有するには、まず手に取って、触れてみなくては始まりません。彼女がやってみたいと考えているのはブーリ家の衣装を真似ることであって、ブーリ家の歴史を軽んじたり、ましてやその地位を奪うことにはないのです。最初は楽しみながら、少しずつでも僕達のことを理解してくれればと考えています」
「う、うむ」
そう、彼はとても真面目で、気が優しかったりもする。ただ、空気は読まない。
講師としては、帝都の常識とは異なる価値観を示してほしかったところなのだが、ゴウキの方がそれに順応してしまった。いや、この授業の目的からすれば、それこそがゴールなのだが。
なお、ピアシング・ハンドで確認した彼の年齢が十八歳だった件だが、よくよく考えてみれば、当然のことだった。
二年半前に何があったか、当の俺が誰よりよく知っている。ラージュドゥハーニーがパッシャとクロル・アルジンによって壊滅的な被害を蒙ったのだ。地方領主の家にも余裕などなく、母国の復興のために駆けずり回る羽目になった。留学どころではなかったのだ。帝都行きが延期になり、出発に備えて学んでいたフォレス語の知識も頭から抜け落ちてしまった、というわけだ。
「あっ」
講師が態勢を整えようと知恵を巡らしている間に、非情にも時は流れ過ぎた。校舎の外の塔から、鐘の音が響いてきてしまった。これでこの時限の授業は終了。
「う、今日の講義はこれで終了です。各自、課題を来週までに提出するように」
授業が終われば、講師の権威など失せてしまう。座席の上で伸びをする生徒もいれば、机に突っ伏して寝始めるのもいた。
「はー、終わった」
俺の横で、ギルが溜息をついた。居眠りしないよう、必死に堪えていたのだ。
「大丈夫か? 疲れてるように見えるが」
「まーなー。俺、雑用の仕事も掛け持ちしてるんだわ」
「大変だな」
「帝都、物価高すぎなんだよ。特に家賃。運河沿いの狭ぇ部屋一つでどんだけ取るんだよ」
といっても、俺にしてやれることとなれば、限られてくる。
「なんだったら、ギル、寝泊まりできるところを」
「やーめーろ。それはやめてくれ。どうしようもなくなったら頼むかもしれねぇけど、やっぱ違ぇだろ」
こういうところは、しっかりしている。なんだかんだ言って自立しているし、しようとしている。若いとか未熟とか、不足しているところを挙げようと思えばいろいろあるかもしれないが、これだけでも彼には尊敬すべき点があると言える。
いや、今の俺より多分、立派なんじゃないか。
「でも、この前、金貨九枚も稼いでたじゃないか」
「ああ、あれか」
頭をバリバリ掻きながら、ギルは答えた。
「あれ、いっつもじゃねぇんだ」
「そうなんだ」
「ダメな日もあるぜ? 本気で逃げられたら追いつけねぇから。で、いつもうまくいくとは限らねぇし、この時期だけのおいしい仕事っつうから、これからはあんまアテにはできねぇんだとよ」
「なぁ」
ふと気になった。
「お前のその仕事って、確か内港の野犬退治だったか?」
「そう。人を噛んだり襲ったりするとヤベぇから、って話なんだけど……」
すると彼は浮かない顔になった。
「なんか、な」
「どうした」
「無抵抗の相手をいたぶってるような感じがして、気分よくねぇんだよ。ほら、オーガとかだったら殺しにきやがんじゃねぇか。人間と見りゃ見境なく突っかかってきやがるから、俺も迷わず戦えるんだけどよ、こっちの犬ッコロは……」
目元を抑えて肘をつき、彼は悩ましげに言った。
「逃げたり、うずくまったりするばっかりで、あと……」
「あと?」
「俺の気のせいじゃなかったら、だけど。一度だけ、犬がよ、俺に尻尾振ったような気がしたんだ。気のせいだと思うけど」
……野犬が?
いや、ではなぜ野犬が「この時期だけ」内港に溢れる?
「それになんか、変な目で見られてる気がするっつうか」
「それは誰に? 犬に?」
「いや、受付の姉ちゃんとか、他の冒険者とかさ……なーんか引っかかるんだ。ニヤニヤとバカにされてるような」
「おい、ファルス!」
頭の上からラーダイの声が飛んできた。
「明日の昼、絶対出てこいよ! 人数揃わねぇし、お前、顔だきゃいいからよ!」
「はぁ」
それだけ言うと、ラーダイはカバンを手に、教室から出ていってしまった。
先日出会った女冒険者との、いわゆる合コンだ。一度は断ったのだが、女の側の代表が折れてくれなかったらしい。
なんだかスッキリしない。遊び呆けている学生がいる一方で、ギルみたいな苦学生もいるということが。
「いいよ、気にすんな。お前は楽しんでこいよ」
「いやいや、婚約者いるし、ただの付き合いだよ」
「正式に結婚したんでもないんだし、セリパス教徒でもないんだったら、今のうちはいいだろ。俺もできれば、女欲しいしなぁ」
おや? 真面目なセリパス教徒なギル君の意外な本音。
「んだよ? そりゃ戒律はわかってんだけどよ、欲しいもんは欲しいだろ? だんだん帝都に慣れてきたっつーか。みんな楽しんでるのに俺だけ我慢するとか、バカみてぇじゃねぇか」
「ああ、まぁ、そうだな」
「よっし!」
彼は勢いよく立ち上がって、両手で自分の頬を叩いた。
「んじゃ、皿洗いの雑用行ってくるぜ! んで明日も午前中は皿洗い! 午後はギルド! 金浮かせて女作るぞ!」
大きな声で言わない方がいいと思う。
まだ席に居残っていたアナーニアとケアーナが、汚いものを見る目を俺にまで向けてきた。
大丈夫だから。ベルノストの指示はちゃんと守るから。
「じゃあな!」
そうしてギルも教室を出ていった。
さて、今の俺には変な下心などない。よってすべきことは明らかだ。前世でも常識だったホウ・レン・ソウ。なにより、常に再確認すべきこと……それは俺が立場の弱い入り婿で、この公館の本当の主は、どこまでいってもヒジリであるという現実だ。
明日は休日だが、その昼食タイムに合コンが設定されてしまった。逃げきれなかった以上、黙って出かけるわけにもいかない。よって前日の夜、この夕食のひと時を利用して、説明してしまうしかないのだ。
「左様でございますか」
一連の説明を、ヒジリはまったくの無表情で受け止めた。怖い。
「いや、本当に、変なつもりはないんだけど」
「私としましては、ええ、旦那様が多少、羽を伸ばしたいと思うお気持ちは理解できますが」
「いや、うまいこと抜け出したいんだって」
俺はラーダイには弱虫だと認識されている。ついでにいうと、ティンティナブリアの領主であるという事実も、まだ伝えていない。自己紹介の際にも、エスタ=フォレスティア王国から来ました、としか言わなかった。そして、騎士身分の次男坊という、帝都出身者を除けば、学園に入学する中では身分の低い部類のギルとつるんでいるのだ。
「これは、旦那様のしくじりかもしれませんね」
「否定できない」
「周りに気を遣い過ぎて、どんどん踏み込まれてしまっているのですよ、領地に」
「言葉もない」
ヒジリのいうことはもっともだ。俺は項垂れた。
「そもそも最初に、そのラーダイとかいう半端者を実力でわからせてやれば、こんなことにはならなかったのですが」
「初日から喧嘩なんてしたくなかった。といって、今から手をあげるわけにも」
「はい。なら、身分を示しておけば、下手に出てくれたのかもしれませんが」
「それはそれで避けたかった。これはゴーファトが教えてくれたんだけど、目の色を変えて付き合い方を変えてくるのがいるっていう」
彼女は頷いた。
「はい。そこは、ですので間違った判断とも言い切れませんね。ラーダイは片付いても、同じ学級の女生徒達が、旦那様をつけ狙っていたでしょう」
じゃあ、どちらにしたって八方塞がりじゃないか。
「なら、何がいけなかったと思う」
「何も考えていなかったことだと思います」
「うっ」
静かに箸を置き、手を添えてお茶を飲んでから、ヒジリは言った。
「何を選んでも失うものはございます。暴力で思い知らせれば恨む者が、身分を誇示すれば媚びる者が、それぞれ現れるでしょう。問題が予期されるとしても、いずれかの壁際に身を寄せておけば、それ以外の厄介事は降りかかってこなかったのですよ」
反論できない。帝都に来てから、俺はすっかり腑抜けてしまっている。
「それで、確認なのですが」
「ああ」
「その、若い女性冒険者達とのお付き合いは、望まれないのですね?」
「もちろん」
確認を取ると、ヒジリは背筋を伸ばし、目を伏せた。
「承知しました。では、明日はそのまま、約束通りにお出かけになってください。私がなんとか致します」
「申し訳ない」
「いいえ、とんでもございません。未来の夫が真面目な方で嬉しゅうございます」
もう一口、お茶を飲んでから、またヒジリが言った。
「それより気がかりなのですが、あの、よくお話に聞くギル様という方」
「ギルがどうかしたか? あいつは明日来ないんだが」
「ええ、またお仕事だとか」
「ああ、稼げるうちに、野犬退治で貯金しておきたいから、と言っていた。昼頃まで飲食店で皿洗いだそうだから、ギルドの仕事は午後からだろうな」
少し考えを巡らせてから、彼女は提案した。
「もし旦那様がよろしければ、では、ついでにギルド支部にも参りましょう。こちらも、よからぬ話ではなかろうかと考えますので」
「というと、まさかギルに何か罪でも」
「いいえ」
ヒジリは首を振った。
「気の良い方のようですので、私の考えた通りですと……」
そこで言葉を切った。
「旦那様」
「なんだ」
「ワノノマでは犬は猟犬として愛されていますが、悪い意味でも犬という言葉を使うことがあるのです」
心なしか彼女は憂鬱そうだった。
「というと?」
「ひどく気疲れしたような一日を、犬の日と呼んだりもするのです」
それから、どこか無理のある苦笑いを浮かべて、彼女は言った。
「いいえ、余計なことを申しました。明日もよい一日に致しましょう」
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