犬の日(上)
風の強い日だった。綿毛のような白い雲が、上空を物凄い勢いで吹き流されていく。その後に残されるのは、あまりに青すぎる空。
そろそろ緑玉の月に差しかかるこの時期、日中なら寒いと感じる方が稀なくらいだ。うっかりすると、この強い日差しのおかげで、背中にうっすら汗を感じることさえある。海に囲まれている帝都は、極端に寒くなることが少ない。
待ち合わせの場所は、公館からさほど遠くはなかった。すぐ近くの一番橋を西へと渡り、ギルド支部のある通りを横切って、西一号運河沿いの歩道で右手に曲がる。この街区には、ちょっとだけお洒落な飲食店が数多く軒を連ねている。もう一本奥に入った下町ほど安くもなく、かといって東側の街区ほどお上品でもない。つまり、庶民に手の届くレベルの贅沢ができる店があるところだ。
『クロウラーのねぐら』
レンガ造りの店の軒先に、小さな看板が吊るされていた。ここで間違いない。しかし、クロウラーのねぐらとは、名前がいかにもよろしくない。中は巣穴のように狭くて曲がりくねっているのだろうか? 場所柄、広々とした空間を確保するのが難しいのもあって、狭さをポジティブに表現するようなコンセプトで店をデザインしたのかもしれないが……
俺にとってのクロウラーとは、人形の迷宮で遭遇したあれしかない。下層から一気に床をぶち抜いて、俺を死地に引きずり込んだあいつだ。あれをイメージしてしまうと、もうろくなことがなさそうだという気分になってしまう。
「おう、ファルス」
ラーダイと他四人のメンバーは、既にこの場に来ていた。
「遅ぇじゃねぇか」
「そうかな」
「作戦会議すっぞ」
「何を決めるんだ」
俺が呆れて溜息交じりにそう言うと、彼こそ俺に「何言ってんだ?」という目を向けた。
「んなもん、決まってんだろが。誰が誰を狙うかだよ」
「だったらいらない。誰も狙う気はないから、他で好きに取り合ってくれ。あと、今日はこの後、ちょっとだけ用事があるんだ。途中で帰らせてもらう」
「あぁ?」
「いいだろう、別に。僕は……興味ない」
ラーダイはマルカーズ連合国の騎士階級の出身だし、他も似たような身分だ。共通しているのは、帝都以外の出身で、かつ貴族ではないが、そこそこ富裕な家の出だということ。
だからこそ、こういうお遊びができる余地がある。彼ら自身が考えている以上にリスキーではあるが。だが、俺はそうはいかない。うっかり遊んで孕ませでもしたら、それはもう、お家の問題になってしまう。
「ふーん、まぁいいや」
水を差すような態度はいただけないが、邪魔にならないならよし、といったところか。
ちょうどそこで、背後から軽い足音が迫ってきた。
「お待たせー」
黄色い声が俺達の耳に飛び込んできた。
少しの辛抱だ。もうすぐヒジリが救援を出してくれるはずだから。
女の子達のリーダー格、恐らく幹事役とみられるのが、慣れた様子で店内に踏み込んでいく。そして遠慮なくウェイターに声をかけ、予約がある旨を告げる。それで俺達は、文字通り、巣穴のような狭い奥座敷へと潜り込んでいく。
割り当てられた個室は、本当に巣穴だった。真ん中に細長い焦げ茶色の木のテーブルがあり、向かい合うようになんとか五人掛けできる長椅子が据え付けられている。外との仕切りはカーテン一枚だ。窓はなく、代わりに蝋燭の火で視界を保っている。
巣穴をイメージしたためか、座面は取り外しのできないセメント作りで、しかも形も歪に歪んでいる。その上にクッションを置いて、何とか座れるようにしてあるのだ。うまいこと、その窪みを見つけて尻を落ち着けるしかない。
俺は途中で抜けるとラーダイに告げたのもあって、一番最後に入口に近いところに席を占めた。喜ばしいことに、それについて誰も何も言わなかった。
「じゃあ、改めて! ノザーです」
「ウミナです」
「サフィです……」
「ラーナちゃんでーす!」
「ジーニです」
着席すると、自己紹介が始まった。
幹事役のノザーとラーナはフォレス系だ。どちらも活発そうだが、前者がしっかりしてそうなのに対して、後者はややキャラを作りすぎているように見える。ツインテールで元気っ娘アピールとか、ちょっとわざとらしい印象もある。
内気そうなサフィはきれいな金髪なので、ルイン系だろうか。肌も白いが、華奢な印象もある。セリパシアでは、こういうのが好まれる。
ウミナ、ジーニは黒髪だが、こちらは東方系の出自なのだろう。
当たり前だが、今日はオフということで、鎧も武器も何も持ってきていない。ブラウスにロングスカートに、完全に普通の女の子の格好だ。
みんな、そこそこかわいらしく見えるが、とびきり上等な美女とはいかない。メイクが上手いだけだろう。もちろん、それだって大事なことだ。自分に似合わない理想を追いかけるより、似合うスタイルを選び取る方が、ずっと簡単にきれいになれる。
こちらの自己紹介も終わると、次は乾杯だ。
「まず、乾杯しようか」
「そうですね。店員さーん」
まもなく人数分のコップが運ばれてきた。
「じゃ、かんぱーい!」
軽くコップをぶつけ合い、酒を一口飲む。
そうしてコップをゆっくりテーブルに下ろしながら、俺は彼女らの様子を観察した。
なんとも落ち着きのないことだ。対面する男達の顔をチラチラと小刻みに見比べている。何を考えているのか……
だが、魔術で精神を読み取るまでもなく、ピアシング・ハンドがある程度、予測の材料を与えてくれている。
それなら、と事前詠唱でストックしておいた『読心』の魔法を遅延発動させてみた。
やっぱりこれ、どう転んでも罠だ。
「私達、ツイてるよね!」
「ねー」
「ん? 何が?」
「私達、まだガーネットなんです」
すると、男達の側が顔を見合わせた。俺とラーダイ以外は、全員ジャスパーのままだから。
「じゃ、結構やるんだ?」
「えっ、違いますよぉ。ほら、帝都に住んでると、毎週末、行こうと思えば迷宮に行けちゃうから、階級が上がりやすいんです」
「帝都って、迷宮に潜った深さで実績を決めるんだよね」
つまり、ちょっと深いところまでは行ったことがある。自分の実力が伴っていなくても、そこまで行けば、評価が上がる。
「フェイムスに行ったって、ラーダイさんから聞いたんですけど、皆さん、平気でした?」
質問の意図がわかった。くるぞ、くるぞ……
「平気も何も、なぁ?」
「スライムしかいないだろ、あそこ」
「一発でブッ倒せるし」
「えー、結構跳びはねるし、そんな簡単にやれるんですかー?」
「やっぱりそうだよ、帝都の人より外の世界って厳しいし、基本が違うんだってば」
「すごーい」
ほらきた、「すごーい」が。
多分、この辺の会話の流れは、予定されていたものだ。
「帝都の男って、なんかナヨナヨしてるもんね」
「うんうん、見ればわかるよ。全然違うもん」
まず、彼女達がどうやって俺達に話しかけてきたのか。正確には、どこから俺達の出自を悟ったのか。
何のことはない。受付嬢と裏で繋がっているのだ。そして、こちらで冒険者登録したばかりで、迷宮帰りの連中とくれば、学園に通い始めた若者達と相場が決まっている。帝都出身者以外の新入生は、各地のエリート家庭の息子達だ。つまり、金がある。カモだ。
しかし、彼らに口説かれるためには、うまくガードを下げ、隙を見せる必要がある。ついさっき冒険者になった連中よりランクが上となれば、共有する世界における地位では、彼女らのが上、先輩だ。それで一目置かれるのはいいのだが、口説かれにくくなったのでは本末転倒。
だから、たかがスライム退治すら大袈裟に褒めてくる。褒められて嬉しくならない人はいない。同時に相手が先輩でこちらが後輩という矛盾した関係性もあって、そこがプレッシャーになる。いや、この子達、意外と腕があったらどうしよう、という気持ちにもなりかねない。おだてられたら、乗らないわけにはいかない。二階に上げられて梯子を外されてしまうのだ。
「やっぱり、騎士の家に生まれたから、鍛えられたりしてたんですか?」
「おう。まぁ、シャハーマイト侯に仕える騎士の家に生まれたら、そりゃあな」
「へぇー、なんか憧れちゃうなぁ」
憧れ、か。
自由と平等が保証され、身分差のない理想郷に暮らす人々が、貴族に仕える騎士に夢を見る。なんて皮肉なんだろう。
「トリブスさんは?」
「あー、そんな大きなところじゃないよ。ムスタムの商家だし。女神神殿経由で腕輪もらっただけの騎士だから」
「えーっ、それでもやっぱり騎士なんだー」
「まだ従士だよ、ほら」
こうやって身分と、実家の太さを確認する、か。
これも想定通りだった。だから、予定通りにやる。
「ファルスさんはー?」
「僕は……」
みんな、済まない。この合コンは粉砕される。
「去年、領地持ちの貴族になった」
「えええーっ!?」
ラーダイが目を丸くしていた。
「お前、んなこと一言も言ってなかったじゃねぇか!」
「ごめん、だってほら、帝都の学園では、身分がどうこうって話はあんまりすべきじゃないってされてるし……アナーニア殿下みたいに、誰からもわかっちゃう人は別だけど、僕は、元々名門の生まれとかでもないからね」
そして、女達の目の色も変わった。
富裕な商人より騎士。騎士より貴族。一番おいしい獲物が決まった。
「もともと数年前に、陛下から直接、従士の腕輪もいただいていて。だから、殿下も僕のことは前からご存じだった。だけど、そのことを笠に着るようなことはしたくなかった。それだけだよ」
建前では、帝都の学園にて身分を持ち出すべきではないとされる。だが、実際には身分こそが立場を規定している。グラーブだって、だからサロンの長なのだから。
王家とも近しい貴族。そんな格上の相手に、これ以上ナメた態度はとれない。つまり俺は、口では「笠に着るようなことはしたくなかった」と言いながら、実際には今、身分を笠に着たのだ。
「ただ、こういうことはあんまり言いふらして欲しくないんだ。余計なことを考えずに、気楽にみんなと接したいから」
「あ、ああ、そうだよな」
これで学園方面の問題はよし。残るはこの女どもだけ。
こちらは、ヒジリが手を打ってくれると言っていたのだが……
「えっ、待って待って、じゃ領地はどこ?」
食いつきがすごい。
「ティンティナブリア」
「は?」
「それってエスタ=フォレスティア王国の?」
「そう」
場の空気が固まる。
「お前、えっと、なんつったか、あれだ、フィルシー家の遠縁か?」
「詳しいね。違うよ。全然関係ない」
「確かあそこ、断絶したんじゃなかったっけ?」
「陛下が直轄地にしたのを、また僕に任せたんだ」
一呼吸おいて、ラーダイが今度こそ目を回してしまった。
「大貴族じゃねぇか!」
そろそろ助けて欲しい。ヒジリ、援軍はまだか。
「えー、すごーい! ねぇ、今度、遊びに行っていい?」
「ええー、私も私も!」
掴みかかってきそうな勢いだ。ゴーファトの台詞を思い出す。サルの群れが襲いかかってくるかのようだった、と。違いない。彼には詩の才能があったと思う。
「っていうか、雇ってくれない? 一応これでもガーネットの冒険者になれるくらいには腕があるよ」
「ねぇ、今、どこに住んでるの? 寮?」
申し訳ない。
俺はちらりと他の男子学生の顔を盗み見た。さっきまで自分に向けられていた好意が雲散霧消したのを目の当たりにして、呆然としてしまっている。
だけど、これが現実なのだ。夢から覚めた方がいい場合だってある。だってそうだろう? この女ども、全員が房中術のスキル持ちなんだぞ?
心の中を読み取った結果まで付け加えると、あまりにえげつなさすぎて言葉もなくなる。こいつら全員、常習的に売春している上に、堕胎の経験もある。なんと、最も純粋そうに見えるサフィが一番ヤバくて、堕胎回数は四回、美人局みたいなのまでやらかしたことがある。
オルファスカという教科書で三年半前に履修済みの俺にしてみれば、あの彼女より数段落ちるこんな女どもに引っかかる余地など、最初からなかったのだ。
「お客様、失礼致します」
きた。
「お連れの方が遅れていらっしゃったそうなので、ご案内させていただきましたが」
「連れ?」
空間を分けるカーテンを潜って、一人の女が姿を現した。
そして彼女の存在が、今度こそこの合コンを木端微塵に粉砕してしまったのだ。
「ファルス……もう、なにしてるのかしら?」
しかし、こういうキャラを作ってやってくるとは、さすがに想定外だった。てっきり、屋敷の誰かを援軍として寄越すのかと思っていたのに。
これまで目の前では和装のような姿しか見せてこなかったヒジリが、ずっとカジュアルな格好で現れた時には、俺でさえびっくりさせられた。白いワンピースに白い肩掛け、つばの広い白い帽子。髪は初めて会った時よりずっと長くなっていて、今では立派なロングヘアだ。
ゴテゴテした化粧とかオシャレとか、そんなものはない。小細工抜き、素材の質だけで、この部屋にいる他の女達を霞ませてしまった。生まれ育ちの高貴さもあって、どこぞのお嬢様のようにしか見えない。
「あ、ああ、待たせた」
「約束でしょう? 来てくださらないと」
「わかった……ラーダイ、そういうわけだから、今日はこの辺で」
「お、おい」
もう、彼の目には、さっきまで欲望の対象だった女達など、ジャガイモかダイコンのようにしか見えていない。
「その人、誰だよ」
その問いに答えたのは俺ではなく、ヒジリだった。
「お付き合いさせていただいております……いいえ、少し違いますね。私の方はお慕いしているのですけれども」
「ちょっと、そういう言い方は」
「ふふっ、失礼しました。皆様、お邪魔致しました。では」
それだけで、ヒジリは俺にしなだれかかり、腕にしがみついて、外へと引っ張っていった。
店を出て、しばらく歩いてから、やっと彼女は足を止めた。
「これくらい離れれば、もう平気でしょうね」
「ああ、助かった」
「ええ、助けました」
そう言いながら、彼女は俺に密着したままだった。
「あの、もうお芝居はしなくてもいいんじゃないかな」
「あら、これはお芝居ではありませんから」
というお芝居なのも承知している。
だが、笑みを収めると、彼女は真顔で言った。
「あの手の女達は、この時期になると冒険者ギルドの周辺をうろついて、純真無垢な乙女を装って、これはという獲物を探しているのです。何も知らない浮ついた若者を誑かしては淫らな関係をもち、しまいにはそのことで脅したりさえすると言います。これまで何人、薬で胎の子を堕ろしてきたかも知れたものではありません。なのにそのことをまったく苦にもせず、悩んだりもしていないのです」
「怖いなぁ」
「悪いことは言いません。みんながみんな、お金目当ての女ばかりですから、近づかないのがよいのです」
清楚そうなあの娘も、あどけないあの娘も、しっかり者のあの娘も。
みんなみんな、きっちりビッチだった、ということだ。
「では、ギルドに行きましょう」
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