夕餉のひと時
「犬、ですか?」
橄欖石の月も下旬に差しかかると、もうそろそろ窓を開けても、そこまで冷え込むというほどでもなくなる。今夜はことのほか、過ごしやすかった。月明かりも見えない夜だから、雲がかかっているおかげで逆に寒さが和らげられているのではないかと思う。
既にとっぷりと日は暮れていた。障子は開け放たれているが、二階の渡り廊下の向こうには、ほとんど何の形も見いだせなかった。一応、庭に置かれた石燈篭のようなところに小さな光が灯ってはいるのだが、他は塗り潰されたような闇だ。
「先週末にアナーニア殿下が白くてかわいい子犬を見せたら、もうあっという間で」
「専門の業者がいると聞きますね」
「やっぱりそうだったのか。この時期に合わせて子犬や子猫を売るために準備していたんだな」
あの、アナーニアが膝の上に乗せていたサモエドみたいな子犬を見て、あの場に同席していた女子学生達は、いたく気に入ってしまったらしい。まだ次の休みにもなっていないのに、旋風が吹き荒れたかのように、誰も彼もが犬や猫を飼いだした。
それだけならまだしも、中には学園に子猫を持ち込んだバカまで出る始末だったから、さすがの俺も眉を顰めたものだ。
「かわいらしいですものね」
それぞれ座布団の上に座り、一人用の膳を置いて、今はヒジリと二人きりで夕食を摂っている。他には時間的拘束などないのだが、他に用事がない限りは、夕食だけは共にしなければならない。
別に、俺に惚れているというのもただの方便で、本音は監視だけしたいのだろうから、何もわざわざこんなことをしなくても、と思う。俺はいいが、ヒジリまで飯がまずくなるだろうに。
なお、作法については、あれこれ言われることはなかった。元々、箸で食事をするのも自然にできたし、胡坐をかいていてもよかったので、俺としては難しいことはなかったのだ。実のところ、ヒジリも魔物討伐隊を率いていたのだし、苦しい行軍だって経験してきたはずで、そんな状況では作法も何もなかっただろう。良家のお嬢様ではあるが、ただのお嬢様とはまるっきり別物だ。不作法に対する生理的嫌悪感で怒りが前に出るような相手ではなかったのは、俺にとって幸運だった。おかげで、開き直ってこうして見張られていることができる。
「ああ、犬はかわいい」
前世の少年時代を思い出す。実家のトロとよく遊んだものだ。でも、最後はかわいそうなことをした。いきなり家族のほとんどが家を出ていってしまったのだから、急に寂しい思いをさせられたことだろう。アパート暮らしをしなければならない以上、犬を連れだすなどできようもなかった。
「旦那様、では、私達も犬を飼いましょうか」
「うん?」
「思えば旦那様は、故郷を離れて一人、この異郷においでです。私は周囲を同郷の者どもに囲まれているのですが、旦那様にとってはそうではございません。これは私の気遣いが足りておりませんでした。ですけれども、かわいらしい犬が傍にいれば、寂しさも少しは紛れるかと」
ありがたい気遣い、俺の油断を誘う策、コミュニケーションコストを圧縮するための支出、実は彼女も犬が好きだった……
いかんいかん、発想が攻撃的すぎる。俺は自省しながら、思考を整理した。ヒジリにも悪意があるのではない。彼女は世界を守るという使命のために、俺の相手をしなければならないだけ。どちらかというと、彼女こそ正義で、どちらかといえば俺の方が害悪なのだから。
「やめておこう」
「なぜですか?」
「ここの中庭はそこそこ広いけど、犬が自由に走り回れるほどじゃない。で、東に出れば街路だし、西に出れば川。のびのび過ごさせてやることができない。僕は満足できても、犬が不満を抱えることになる。かわいそうだから」
その言葉に、ヒジリはじっと俺を見つめた。
「僕はもう充分、好き勝手に過ごしてる。今も領地ではみんなが働いているのに、僕だけこんなところで遊学しているんだし。ヒジリも、ここの使用人のみんなも、頑張っている。この上誰かに何かを押し付けようなんて、とてもできない」
「旦那様」
「三年間も遊ばせてくれるんだから、感謝しなきゃ……領地の復興が済んだら、これも陛下に返上するつもりだ」
するとヒジリは若干、目を泳がせながらも、言葉を返した。
「そうですね。そうすればきっと陛下も陞爵を検討してくださるでしょうし、王都での重要な役目を委ねてもくださるかと思います」
「そんなこと、考えてない」
俺は首を振った。
「みんなのことが片付いたら、ヌニュメ島に行こうと思う」
永遠の監獄生活を受け入れる。同じことだ。俺はもう、不自由でいい。
ティンティナブリアの領主を引き受けたのは、あの土地が壊滅的な状況から立ち直れていなかったからというのもあってのことだ。それが解決したら、俺が領主でいる理由もない。
エスタ=フォレスティア王国の将軍になってどうする? そうすることで戦争を抑止できるなら、言われるままに椅子に座るだろう。でも、逆に俺の存在が恫喝の材料になるのなら、いない方がいい。
ヌニュメ島に引きこもれば、俺の身に宿ったモーン・ナーの呪詛が、想定外の形で暴走することも、或いは避けられるかもしれない。少なくとも、モゥハや姫巫女は最善を尽くすことができる。
「旦那様は」
少々悲しげに見えなくもない表情で、ヒジリは尋ねた。
「欲しいものや、したいことというのが、おありではないのですか?」
「あんまりない……いや、ある」
思い出してしまうと、なんとも溜息をつきたくなる。
「せっかくピュリスからコーヒー豆を持ち込んだのに、まだ全然研究できてない。帝都に醤油の作り方とか、あるかと思ったのに、それもなかったし」
「コーヒー? は、何かお持ち込みになられたのは聞いておりますが、ショウユ、ですか」
やっぱりヒジリも知らないか。これはもう、俺がこの世界で発明し直すしかない。
「調味料だよ。できれば、それも作り出したいかな。で、もしできたらティンティナブリアの特産品にする」
「いいですね!」
「そうすれば、あの土地も復興できるだろうし、世界中でみんながおいしいものを食べてくれるようになる」
これより素晴らしい目標があるだろうか。なのに、なぜかヒジリはまた、少し寂しそうな顔をした。
「なのに、休みの日に用事ばっかり入るから、まだ何にもできてないっていうね」
「ふふっ、旦那様は引っ張りだこですものね」
「振り回されてるだけだよ」
入学式の後の最初の休日は、タマリアの自宅を訪ねるのに使った。その次はグラーブのサロンの集会だ。ようやく自由になるかと思ったら、次は冒険者ゴッコときたもんだ。
「まぁまぁ、お付き合いも大切ですよ」
「そんなもんかなぁ」
「そんなものです」
そう言い切ると、彼女は柔らかく微笑んだ。
翌朝、薄曇りの空の下、俺とタオフィは馬を駆けさせていた。
帝都の郊外に出るのは、これが初めてだ。富裕層のお城のような家々を左手に見ながら大通りを直進し、東門を出ると、しばらくはきれいに整備された街道が続いていた。だが、しばらくすると、それも途切れる。足下の小さな小石を蹴散らしながら、俺達は約束の場所に向かっていた。
「馬車でなくてよかったですな」
「確かに」
足下は凹凸のある固い地面だ。毎朝、帝都の北東方向にある四大迷宮の一つ、フェイムスに向かう馬車が出ている。俺みたいに馬を持っていれば別だが、そうでない連中は、この定期便に乗っていくしかない。ギルが同行を断るのも道理で、やたらと行き来に時間がかかる割に、稼ぎはそこまで期待できないのだ。深い階層まで潜ればそれなりのリターンがあるらしいのだが、お坊ちゃんの冒険ゴッコとなれば、それも期待はできないのだから。
「お前もほったらかしでごめんな」
俺はそういいながら、アーシンヴァルの首を撫でた。
本当に、犬を飼う暇があるくらいなら、こいつの面倒をみてやらなければいけないのだ。ほとんど公館の中から出られない毎日だったのだし、さぞ鬱憤が溜まっていたことだろう。だが、久しぶりの遠駆けだからといって変に荒れ狂うこともなく、こうしておとなしく走ってくれている。
なお、タオフィが同行するのは、迷宮の入口までだ。そこで馬の番をしてくれることになっている。第一、保護者付きで迷宮に入るなんてことになったら、俺がますますラーダイに舐められる。
「おっ? あれではないですかな?」
「みたいだ……けど、これは、呆れた」
割合平坦な土地が続くこの辺りには、農地も何もなかった。てっきり迷宮から魔物が溢れ出てくるから、それに対する緩衝地帯でも設けているのかと思い込んでいたのだが、どうやらそうでもないらしい。進む先には小高い丘があり、そこには木一本生えていない。ここからだと、小さな黒い口が開いているように見えるのだが、あれが迷宮の入口なのだろう。それはいいのだが、問題はその周辺だ。
木造の家屋のようなものが密集している。最初は迷宮を見張る兵士達の詰所か何かだと思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。なぜなら、色とりどりの旗指物のようなものが、迷宮の前に設けられた大通りにズラリと並べられていたからだ。
要するに、これはお祭りの屋台みたいなものだ。ここにやってきた冒険者相手に物を売ったり、買取をしたり、食事や休憩場所を提供したり。そういう商売をしているのだ。
「命懸けの現場って感じはまったくしないな」
ドゥミェコンも、ある意味で似たようなものだったが、あちらは危険がないんじゃなくて、危険な場所に誰も行こうとしていなかっただけだ。
「それでは、馬をお預かりしますぞ」
「ああ、頼む」
それで俺は、大通りの入口でアーシンヴァルから飛び降りて、最後に一、二度、彼の首を優しく叩いた。
今日の俺は、ホアが作ってくれた装備一式に身を包んでいる。新品の鎧や剣だ。領地からピュリスに向かう時には着用したものの、まだ一度も実戦に使っていない。おろしたての服を身に着けるようなもので、どこかもったいないような気持ちもあるのだが、道具はやっぱり使ってこそ。無駄にせずに済みそうだ、という安心感もある。
ゆっくりと大通りを歩いた。しかし、それにしても能天気な場所だ。
『携帯食・銀貨一枚! 味は三種類』
『お荷物配達サービス、身軽にここまで行き来しませんか』
『冒険の後のマル秘スペシャルマッサージ』
まるで緊迫感がない。割合安全な場所、というのは聞かされているのだが、滅多に死人が出ないような場所なんだろうか? 死体搬送サービス、なんて看板は見当たらないのだし。
よくよく思い返してみると、そもそも四大迷宮に挑みたいとか、まったく頭になかったので、どんなところか、一切下調べしていなかった。今になって、自分の迂闊さに気が付く。
あれこれ考えながら、いよいよ迷宮の入口付近に辿り着いた。この辺りで待ち合わせということになっている。
「君、そこの君」
ウロウロしながらラーダイ達を探していると、迷宮の前に立っていた係員に声をかけられた。
「見ない顔だが、これから迷宮に入るのか」
「はい。知り合いと落ち合ってからになりますが」
「なら、先に冒険者証を見せてくれ。どうせ手続きするなら、前もって済ませておきたい」
それで俺は、入口横の机のところまで行って、冒険者証を差し出した。
「この若さで……!? ちょ、ちょっと待って欲しい」
偽物かもしれないと考えて、事務員は別冊の資料をパラパラめくった。察するに、上級冒険者の名前の一覧なのだろう。
「確かに。一年以上前に認定されている、か」
「よろしいでしょうか」
「あ、ああ。手続きは以上だ。仲間が揃ったら、彼らは彼らで手続きがいるからな」
少し早く来すぎたのかもしれない、と思いながら、開店間もない屋台を冷かしていると、ゴトゴトと揺れながら砂塵を撒き散らし、こちらにやってくる馬車が数台。やっと合流できそうだ。
「うおーい!」
荷台の上からラーダイの間延びした声がこちらに届く。俺とわかったらしい。
「よっしゃぁ! 一番乗り!」
馬車がきれいに止まる前に、ラーダイ達は馬車から飛び降りた。そんなことをされたら、御者も困るだろうに。だが、彼らはお構いなしだ。
「手続き、手続きっと……おい、こっちでいいのか?」
「入る前にこちらの係員さんに冒険者証を見せないと」
「おー、わかった」
それで彼らはバタバタと駆け込んで、いの一番に急いで手続きを済ませた。並びたくなかったのだろうが、なんとも身勝手というか……
念のため、彼らの装備品を確認した。簡素な革の鎧だけ。兜を持参していない。剣も一本だけで、予備がない。これは用意する金がないのではなく、していないだけだ。
俺はといえば、金がない時はともかく、ある時には惜しまず使って仲間の装備を整えたものだ。中には初めて迷宮に挑むのもいるというのに……
「なぁ、ラーダイ」
「なんだよ」
「本当にこんな準備で大丈夫か?」
「大丈夫だ、問題ない」
不安しかないのだが、仕方ない。
せめて怪我をさせないよう、俺が頑張るしかないらしい。
「ギルの奴も来りゃあよかったのによ」
本当に、そう思う。
俺一人で子守なんて、したくなかった。
それから間もなく、俺とラーダイ、他三人は、四大迷宮の一つ、フェイムスに踏み込んだ。
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