それでも向日葵のように

 静かな朝だった。ここ数日は晴天が続いていたのに、今朝に限って灰色の雲が頭上にかかっている。ところどころ雲に隙間があるようで、地上はそこまで暗くない。冬の名残か、ゆったりとした北風が流れる中、俺達はほとんど音のないラギ川の上を滑っていた。

 滑る、というのは比喩ではない。後ろから風を受けての帆走では、不思議なほど風を感じられない。加えて、川の流れにも逆らっていないので、舳先に波が立つこともない。ただ淡々と、俺達を乗せた小舟が流れていく。淡い光に照らされた歯車橋の見え方が少しずつ変わる。その変化もごく僅かだ。


「それで婿殿」


 俺の後ろで、立ったまま船に乗っているタオフィが尋ねた。ここは二つの橋の間、つまりは都内なので、腰には脇差一本だけ。寒くないのかと思うのだが、薄い上衣一枚で、その上に防寒着を身に着けることもない。


「シーチェンシ区などに、どんな知り合いがいるんですかな」

「奴隷時代の知人だ」

「奴隷時代、ですか」


 俺は振り返り、頷いた。


「そうだ。簡単に話したはずだが。自分は元々、シュガ村で売られた農民の子だ。エキセー地方の収容所で一緒に育った知り合いが、こちらに来ていると、手紙で知らせてもらっていた」

「なるほど、理解は致しましたが」


 帆を操るマツツァも、こちらに視線を向けこそしないものの、耳をそばだてているのがわかる。


「率直にお聞きしますぞ。その知り合いというのは、男性ですかな」

「……女だ」


 ああ、やっぱり。

 マツツァは振り返り、タオフィと顔を見合わせている。


「別に変なことには」

「いや、懸念しかありませんな」


 マツツァが難しい顔をして言った。


「悪いことは言いません。いや、確かにヒジリ様はお美しいながら、少々堅苦しいところがおありなもんで。屋敷の中では息が詰まるのはわかります……が」

「そういう理由じゃない」

「いやいや、秘密にしなくていいのです。男ならわかります。ですが、変なところで遊んで病気でも持ち帰らせたら、わしらの首が」

「違うと言っているだろう」


 顎に手を当て、タオフィが問い質した。


「では、婿殿、その女性というのは、どんな仕事をしている人なのですか」

「今は何をしているか、知らない」

「ならば、その前は」


 ……答えに窮する。言われてみれば、タマリアの前職は売春婦だから。といって、ゴーファトを殺そうとした件も、簡単には言い出せない。そうすると、なぜ刑罰を受けずに帝都に潜り込んでいるのか、という話になってしまう。


「よくわからない」

「ううむ」


 マツツァが唸った。


「しかし、ならば警戒が必要でしょうな」

「いらない。彼女はまともな人だ」

「タオフィ、家の前までお供せねばならんぞ。わしは船を離れられん」

「承知」


 これだから、一人で気儘に行動したかったのだ。


「気分が悪かろうかと思いますが、これも御身のためですぞ、婿殿」


 そんな俺の気持ちを見透かすように、タオフィが言った。


「シーチェンシ区といえば、まぁ、川の向こうですが、昔から貧しい人が住まう場所でしてな……困窮している者が、どんな罠を仕掛けてくるか、わかったものではない」

「チンピラどもに取り囲まれたところで、なんてことはない」

「そんな心配など、しておりません。余人ならばいざ知らず、婿殿の武勇があれば」

「なら、何が怖いのか」


 タオフィは、両手を胸に当てた。


「女、ということですぞ」


 じゃあ何か、タマリアが俺をセクハラで訴えるとか?


「あり得ない」

「とにかく、門前まではお供します。誰かが見ておらねば、最悪のことも考えられますのでな」


 考えすぎだとは思ったが、あくまで二人は真顔だった。


 小舟がラギ川の南岸に近づくと、俺がこれまで見てきた帝都とはまったく違った景色が見えてきた。

 まず目についたのが、自然にできた砂洲だった。上流から流れ込んでくる堆積物が溜まるのがこちらになるというのは、無論、川の流れや構造的には自然なことなのだが……そこに汚れた紙包みなどのゴミが混じっているのに気付くと、何とも言えない気分になった。船が近付くと、ほのかな異臭が漂ってきた。

 マツツァは座礁しないように、そうした砂洲の状態を見分けながら、徐々に陸地へと向かう。いくつかの船が、静かに停泊していた。休日の今日は学園も休みだが、商社街の仕事も休みになる。それで南部に住む人々も、仕事のために川を渡る必要がなく、渡し船が南岸の埠頭に繋がれたままになっているのだ。だが、それらの古びていること、汚れているさまときたら。夜が明けていくらも経たないこの時間帯、俺達を見下ろす帆柱は長く暗い影を落としていた。


「わしはここで船を見張っておる。タオフィ、任せたぞ」

「承知」


 陸に上がってみると、見るからに古びた、みすぼらしい家々が立ち並んでいた。四角いブロックを積み上げて壁にしただけで、ろくな屋根もない。一見すると陸屋根のように見えるが、ただ木の板を壁の上に置いただけだ。それも色合いから判断すると、どこかの廃材をもらってきただけのように見える。


「橋に近い辺りはもう少しマシなんですけどなぁ」


 タオフィが、いつもの間延びした、どこか明るい感じの声で、そう言った。


「この辺りはシーチェンシ区か」

「そこよりは東寄りなので、少し歩きますぞ」

「道がわかるなら教えて欲しい」


 彼に先を任せてついていく。ボロ家の間の路地に入る。足下には中途半端に石畳の址がある。かと思えば陥没しかけていて、そこが水溜まりになっていたりもする。そういうところに限って、なんともいえない異臭の源だったりするのだ。それで気付いた。この地区には、ろくにトイレもゴミ捨て場もない。あったとしても、機能などしていないだろうが。

 仕事のない日の朝ということもあり、周辺はひっそりとしていた。扉もない家の前に、西部シュライ人の男の子がしゃがみ込んで、通り過ぎていく俺達を無心に見つめていたのが印象的だった。


「この辺りは、昔の陣地があったところでしてな」

「陣地? なんの」

「偽帝に抗ったチャナ軍の、いくつかの陣地の一つですぞ」


 ジグザグに入り組んだ道を抜けながら、彼は説明を続けた。


「統一時代の終わり頃には、この地域も開発する予定地になっていたようでしてな。まあ、それが戦で全部台無しになってしまって、その後の住人は、廃墟の石材やら何やらを流用して、こうして暮らしておるわけです」


 こんなひどいところにしか、家を確保できなかっただなんて。アドラットは何をやっていたんだ。

 俺の顔色が悪いのに気付いて、彼は足を止めた。


「なぜこんなところに、ですかな」

「ああ」

「みなし市民権がないからでしょうな」


 やがて、最悪の街区を抜けると、時折、巨大なビルのような建造物が目につくようになった。恐らく、統一時代に建てられて、放置された集合住宅だ。しかし、よくこの年月の間、倒壊せずに残っているものだ。


「ここが最悪のスラムの一つですな。抜けてしまえば、もうそんなに治安の悪いところはありません」


 視界を遮る大きな建物がなくなると、ようやく歯車橋が家々の屋根越しに見えるようになってきた。

 石材の壁はほとんどないか、あっても部分的なものになり、多くが煉瓦の壁に置き換わった。扉や屋根がちゃんとあるものも多い。


「番地からすると、あれかと思いますぞ」


 ほとんど真っ黒な煉瓦と赤いのとが混じり合った壁。見ると二階建てで、その上に屋上がある。集合住宅として建てられたものだろう。古びているが、ちゃんと扉もあった。タオフィが指し示しているのは、その右端の一階だ。


「婿殿」


 彼は眉根を寄せて、俺に念を押した。


「もし何かあったら、ここまですぐ逃げてくるのですぞ。厄介事はすべて引き受けますゆえ」

「多分、そんなことにはならないが、わかったよ」


 それで俺は、一人でその家に近づいていった。

 扉の前に立ち、そっとノックした。


「はぁーい」


 明るい声。聞き覚えのある、彼女の声だ。

 よかった。貧しいとしても、そこまで苦しい生活をしているのでもなさそうだ。


 扉が開く。

 その少し日焼けした顔が、いつものように後ろに束ねた金髪が、俺の目に飛び込んでくる。

 それでも、やっぱりこの時期の四年は大きかった。まだ少女らしさを残していたあの頃と違って、今ではすっかり大人の顔つき、体になっている。

 身に着けている服の安っぽさは、気になった。まだ寒い季節なのに、ペラペラの淡い黄土色のワンピース一枚。なのにこの表情の明るさときたらどうだ。それでも、タマリアはやっぱりタマリアだった。


「……どなた?」


 俺の顔もあの頃とはかなり違って見えるのだろう。言わなければわからない、か。


「あ! ちょっと待って! もしかして、ファルス?」

「そう、そうだよ。久しぶり」

「きゃーっ! なんでなんで? びっくりした! あー、えっと、とりあえず入って。なんもないけど!」


 中に入ると、本当に何もなかった。部屋はほとんど真っ暗で、薪の焦げた臭いだけが残っていた。それで彼女はきびきび立ち働いて、まず木窓を開けた。そうして光と風を取り込んでから、テーブルを引きずってベッドの前に据えて、反対側に椅子を置いた。二人分の椅子なんかないのだ。

 床は剥き出しの煉瓦のまま。察するに、元は建築中の住宅で、それが仕上げられる前に放棄され、後になって人が住みつくようになったのだろう。そして、部屋の中を整備する予算はなかった、と。


「白湯しか出せないけど、いい?」

「もちろん」


 むしろ、こんな暮らしをしていると推測することだってできたのだから、俺がお土産を持ってくるべきだった。


「はい、どうぞ」


 と、コップを差し出されてから、ふと気付いた。


「あれっ」

「どうしたの?」

「あれは」


 俺が気付いたのは、部屋の隅にあった、小さなベッドだった。明らかに手作りで、しかも古びている。あのサイズとなると、使い道は一つしかない。


「おめでとう」

「ふわっ!?」

「まさか、もう結婚して子供までいるなんて……いや、年齢考えたら、驚くことじゃないか。よかった、おめでとう」

「ま、ままま、待って! 違うから!」


 なぜ隠す必要がある? まさか……


「ってことは、じゃあ、もしかして、ああ、そっか」


 ……最悪の事態に思い至って、俺は肩を落とした。


「なに勝手に妄想してるの」

「客の子を」

「ちがーう!」


 目を白黒させる俺に、彼女は溜息一つついてから、やっと言った。


「これね、仕事なの」

「仕事?」

「そう。子供を預かるやつ」


 つまり、タマリアが帝都にやってきて、やっと手に入れた仕事とは、ベビーシッターだった。

 ラギ川の北にある帝都の市民が働く日には、タマリアら南岸に住む移民の女達は、船に乗って内港まで出向く。それから馬車に乗ったり、小さな快速船に乗ったりして、契約している家の子供を預かりにいく。彼女らが子供を預かるのは、あくまで日中だけ。夜にはまた、船に乗って子供達を両親の下に返す。


「そんなのどうやって」

「乳幼児ばかりじゃないし、そういうちっちゃな子でも、粉ミルクがあるから……って言ってもわかんないか」

「粉ミルク!?」

「えっ、それで通じるの?」


 びっくりした。帝都にはそんなものまであるのか。


「お湯に溶かせば使えるやつでしょ」

「うん、なんかね、統一時代の工場が生き残ってて、それを整備して生産してるらしいよ」


 歯車橋を動かす地下の水車もあるし、印刷技術もあるし、魔法で動く市電もあるし、今度は粉ミルク工場ときたか。

 まぁ、それはいいとして。


「じゃあ、子供の世話でお給料をもらってるんだ?」

「うん、この近くに口入屋さんがいてね、そういう話を斡旋してくれて……まぁ、最初はいくらか抜かれちゃうんだけどね」


 しかし、それが「いい仕事」には到底思われない。タマリアは教育も受けているし、商社の事務員くらい、務まりそうなものなのだが……

 いや、その前に。


「口入屋って。なんか、ちゃんとした仕事に聞こえないんだけど」

「ん? まぁね。帝都非公認の乳母さんだから」

「非公認?」

「ほら、だって、私、無職の移民でしょ? まぁ、女性だからってことで管理局も審査を甘くしてくれたらしいんだけどさ。帝都に入っても、そうそういい仕事なんかなくって。アドラットさんが食い下がってくれたんだけど、結局、商社街の仕事、取れなくってね。そうなると、みなし市民権もないし、市域での居住許可が下りないし、まぁどっちにしたってあんなところの家賃なんて払えっこないからいいんだけど」


 断片的にしか理解できないが、ろくでもない扱いらしいのは理解した。

 要するに、技能職としての採用が得られなかった移民だから、俺が今、暮らしている方の市街地には定住できない。また、あちらで暮らせるだけの収入もないし、いい稼ぎの仕事を宛がわれる可能性も低い。だから、安価なベビーシッターの職に落ち着くしかなかったのだ。


「まぁ、そういう仕事もいつもとはいかないから、お金がない時は、浚渫工事の方の手伝いに行くこともあるよ」

「浚渫工事?」

「うん、ラギ川、下流の方に砂とか泥とか溜まるでしょ。それ、どかさないと船も入れなくなるし、あと、歯車橋の水車も止まったりするらしいから」


 それにしても、だ。

 どうにもしっくりこない。乳母の仕事なのに、働く先は一般家庭らしい。富裕層の家であれば、こんな場所に赤ん坊を連れ帰るなんて、そもそもさせないだろうし。でも、その一般家庭に、赤ん坊の面倒を見るだけのマンパワーがない? なぜそんな状況に? フォレスティアでは、ちょっと考えられない。だが、ここではそれが一般化していて、口入屋もいれば、彼女らを対岸に送り迎えする船だってあるのだ。

 どうにも引っかかるのだが……


「中には売り……まぁ、私の前職? みたいなのをやっちゃう子もいるけど、それもほぼ違法だし、買い叩かれるし」

「下手すると美人局みたいなのも」

「うん、性犯罪には厳しいからね、帝都は」


 だからマツツァやタオフィも、油断せずにここまでついてきたのだろう。


「私は、あの仕事はもう二度とする気はないから、これで納得してるよ」

「いやいやいや、こんな貧しい生活をするくらいなら、やっぱりピュリスに行かない? 手紙も書くし、旅費くらいは用意するよ」

「それ、まずくない? 私、犯罪奴隷の領主殺しだよ?」


 そうだった。でも、問題ない。


「大丈夫。まだ言ってなかったけど、実はもう、僕は領地持ちの貴族になったから」

「えっ、すごっ」

「うまいこと領地まで行ければ、そこで領主の名において全部免罪できる。そうすれば、あとはピュリスでもっと割のいい仕事を任せられるし」

「うーん」


 だが、彼女は乗り気ではなかった。


「何が問題? 安全に帰国できるし、追われる心配もない」

「やっぱりそれはダメだよ」


 少し寂しそうに微笑みながら、彼女は首を振った。


「どうして」

「だって私、人を殺したんだよ」

「それは、いや、違うよ」


 今度は俺が首を振る番だった。


「確かに、軽はずみなことをしたせいで、サラハンさんという方は亡くなったんだろうし、それはタマリアがよくなかったかもしれない。だけど殺したうちには入らない。やったのはゴーファトだ。そのゴーファトだって、タマリアが直接殺したわけじゃない。勝手に自殺したんじゃないのか」

「だとしてもよ。私は、ゴーファトに殺すよりつらい思いをさせてやろうとして、ああしたの。大事にしてるもの、何もかもを奪って壊してやろうって。それで死なせておいて、なかったことになんてできないよ」

「いや、殺したんだとしても、あんな暴君だし、仇じゃないか」

「そう、仇だよ。だから、やったことに後悔はない。だけど、それで私が悪くないことにはならないもの。でも、だからってせっかく助けてもらった命を、自分で粗末にするのも違うと思うし」


 どうやら、俺が思っていた以上に、彼女はしっかりと考えていたらしい。

 その視線は、部屋の隅にある棚の上に向けられた。


「あれ、あの壺、覚えてる?」


 暗がりになっているが、一瞥しただけですぐわかった。


「例の小銭……」

「そう。牢獄の中にいた時の投げ銭」

「もしかして、使ってない?」

「うん」

「どうして」


 彼女は静かに頷いた。


「最初はね、怒りしかなかった。帝都について、生活に困ってさ。そういえば、あのお金があったと思って、壺の中をひっくり返したの」

「うん」

「そうしたら、銅貨がジャラジャラよ。で、こんなものと引き換えに何をされたか、全部思い出しちゃって」


 あんな汚いところで、乱暴され続けたのだ。こんな小銭で納得などできるものか。


「だけど、中に金貨が混じってるのを見て、あれ? って思ったのよね。いつ貰ったんだろう、って。タダで済ませても片付くようなところなのにさ」

「うん」

「で、思い出しちゃった。そういえば、そんな人いたなって。その人、一晩中、私にしがみついて泣いてたの。なんかひたすら愚痴みたいなことも言われたっけ。私はその時、それどころじゃなくって、ずーっとボーっとしてたんだけどさ。あんなところで金貨なんかくれたって何の意味もないのに」


 ベッドに手をついて背中を伸ばして、彼女は言った。


「バカじゃないのかって思ったよ。私なんて縁もゆかりもない犯罪奴隷で、私に何か言ったって何も解決しないし、無駄じゃない? 抵抗もできない女のところにきて、やることやっといて。女々しい男だった。でも、それを思い出したら、なかったことにはできなくなったんだよ」

「というと?」

「そんな奴でも、大事なものがあったんだよ。大事だったから、あんなに悲しんでた。大事だったから、吐き出した気持ちに見合うものを差し出したかったから、意味のない金貨を置いていった。もちろん、今、そいつが出てきたら、金貨をもらったって指一本触らせたくないよ。だけど、私はそいつの、そいつらのこと、全部否定できるのかって考えたら、無理だった」


 驚くべき認知だった。

 つまりタマリアは……自分を性的に暴行した男達のことを単なる「加害者」としてではなく、その他の顔も持つ「人間」として認識したのだ。


「ゴーファトのことは、今でも憎いよ。でも、あんな奴にさえ、大事なものがあった。私は、それをわかってて傷つけたんだよ。だから、あいつが悪い奴だから私は悪くないなんて、言いたくない」


 憎むべき仇敵であるという事実と、その仇敵が血の通った人間であるという事実は両立する。だからこそ、復讐を遂げた自分を無垢な、罪のない存在とみなすこともできないし、しないのだ。


「……すごいな」

「そうでもないよ。今でもたまに気持ち悪い夢で目が覚めることもあるしさ。貧乏暮らしに嫌気がさすこともあるし。いつも迷いながらだからね」


 それが賢いということなのだが。

 人間、自分に痛みがなければ、いくらでも高尚なことを口にできるものだ。そうしてきれいごとを唱えるうちに、実体のある悲劇には目が届かなくなる。だが彼女は、まさに苦痛の中にありながら自らを保っている。これは稀有なことだ。

 迷いの中で、それこそ綱渡りをしながら、右にも左にも転ばずにバランスを保つ。どれほどの人にこれができるだろう?


「まぁ、子供達に助けてもらったのかもね。だって子供、かわいいもん。みんな、どんな人も子供だったんだから」

「昔から面倒見よかったよね」

「うん。だから、この仕事も向いてるのかもなって思うよ」


 やっぱり彼女の芯の部分はそのままだった。まるで向日葵みたいな女だな、と思った。


「ニドもね、面倒見ようかって言ってくれたんだけど、そういうわけで断っちゃった」

「ニド? あいつもこっちに?」


 でもそういえば、最後に別れた時に、帝都に行くつもりだと言っていたっけ。


「うん! 今は繁華街の方で暮らしてるらしいよ」


 あいつも無事だったのか。いい知らせを聞くことができた。


「でも、タマリア、それは今はいいかもしれないけど、先々が」

「ん?」

「だって、それじゃあ毎日日銭を稼ぐので精いっぱいじゃないか。結婚もできないし、そのまま他人の子供の世話で人生が終わってしまう」

「んー……」


 彼女は、顎に指をあてて、少し考えこんだ。


「もう男はこりごりとか?」

「あっ、ううん! それはない! まぁ、こんな汚れた女だしねー、普通じゃ貰い手なんかいないよ」

「経歴なんかごまかせるし、領地の方では、そもそもそれ承知で結婚したのもいるよ」

「ホント? それはよかったねぇ」


 笑いながら、彼女は俺にウィンクしてみせた。


「本音を言うとねぇ」

「うん」

「私、面食いなんだ」


 椅子から転げ落ちそうになった。


「面食いって」

「好みがね、高貴な顔立ちで体つきが程よく細くて」

「まんま王子様だ」

「そう! でね、黒髪がそそるのよね」


 それ、まさか俺のことなんじゃ……


「あっ、でも大丈夫。ファルスも好みも好み、ど真ん中なんだけど。そりゃあさ、私も弁えるよ! かわいい妹分の男を寝取るなんて、できるわけないじゃない!」


 まずい。

 この流れはよくない。そう直感した。


「ねぇ、そういえばノーラは? 今はどこにいるの? 領地とか?」

「あ、うん、領地にいるね」

「そっかぁ。顔見たかったんだけどな。で、いつ?」

「いつって」

「結婚はしたの? まだ?」


 答えようがない。

 すると、俺の動揺を察したタマリアの顔から笑みが消えた。


「何かあったの? もしかして、ノーラを死なせちゃったってことは」

「そ、それはない! 生きてる!」

「フラレたの?」

「そういうわけでも……」


 俺は目を逸らしながら、小さな声でやっと言った。


「実は、その、ワノノマで姫様を押し付けられ」

「なんですってぇ!」

「ヒィッ」


 テーブルを叩きながら立ち上がったタマリアに身を縮めた。

 彼女は床を指差した。


「正座」

「ち、違う、これにはわけが」

「正座」

「はい……」


 それから小一時間、俺は冷たい床に正座したまま、釈明し続けることになった。

 こっそり俺の様子を木窓の向こうから窺っていたタオフィは、帰りの船の上でマツツァに「婿殿は特殊な趣味をお持ちだった」と報告した。

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