お前、モテモテだよな
ページをめくる。もう一度見返す。だが、探し求めている情報がない。
巻末の方に場所だけはちゃんと記載されている。なのに、それに対応する講義がない。
「おい、ファルス、いつまでそれ読んでんだよ」
ギルが咎めたので、俺はやっと小冊子を目の高さから下ろして、自分のカバンの中に放り込んだ。さっき、ラーダイが立ち去ってしばらくするまで、間を空けるために、暇潰しのつもりで目を通し始めたものだ。しかし、気になることがあったので、こうして歩き始めてからも、内容の確認を続けていた。
「いや、どの講義を受けようかな、と」
「勉強熱心だな」
「やりたいことがなくてさ」
すると彼は、歩きながら肩をすくめた。
「適当に単位取って卒業すりゃいいんじゃね? なんか知らねぇけどお前、川沿いに家があるってこたぁ、今、金持ちなんだろ?」
「ああ、そういえば言いそびれた。一応、貴族になった」
「貴族ゥ!?」
俺は首を振った。
「全然嬉しくないよ。ティンティナブリアの復興のために、金やら人やらを持っていかれるだけだし……ま、仕方ないけど。逆に無駄にお金持ちでいたって、財産の使い道もないし、お金に目がくらんでおかしくなるかもしれないし」
「おいおい、ティンティナブリアって、あの」
「フィルシー家が潰れたことくらいは知ってるだろう? あれから四年、王家が直轄地にしてたんだけど、復興が進まなくて」
「マジかよ。大貴族じゃねぇか」
真顔になったギルは、指を立てて提案し始めた。
「だったら、いろいろ勉強することはあるかもな。農学とかさ。建築もいるか? 橋とか道路とか直さねぇと。あ、治水もいるな」
「うん、まぁでもそっち方面は、割と優秀なのがいてくれて、慌ててどうこうする必要もないから」
「じゃあ、お前は何を探してたんだ」
「料理」
ギルの目が点になった。
「料理ィ? なんでそこで料理なんだよ。あ、お前、そういや飯もうまいの出してたもんな」
「冊子を見ると、調理室とかの設備は巻末の地図に載ってるんだけど、料理系の講座が一つもないんだ」
「ふーん、けど、料理なんかで領地の復興はできねぇだろ」
俺は立ち止まった。
「料理、なんか?」
「えっ、あっ、いや……飯は大事だぞ? けど、お前、そんなもん個人の範囲でやる仕事だろ。せいぜい数人の料理人で一緒に仕事するくらいで。お前の身分で何に使うんだよ、そんな技術」
俺は首を振って、また歩き出した。
「この世界に足りないものを作りたかっただけだ。ギシアン・チーレムがもしかしたら、製法を伝えてくれていればと思ったんだけど、帝都の学園にもなかったとは」
最初にこの問題に気付いたのは、スッケに到着してしばらくだった。それからヌニュメ島、ワネ島でしばらく過ごすうち、それは確信に変わった。最後の希望を帝都に託してやってきたが、またも空振りに終わった。
つまり……味噌と醤油がない。
たまたま見かけなかっただけかもしれないし、誰にも相談していないので、本当のところはわからない。
魚醤のようなものなら、実は各地にあった。それはそれで悪くないのだが、やっぱり醤油がいい。醤油が欲しい。前世で味わったあれが。
そもそも今の俺には、他にやること、やりたいこと、やれることがない。もちろん帝都での学生生活が終わったら、領地の再生事業を片付けなくてはいけないのだが、その後の人生は白紙だ。
モゥハの監視下にあるも同然の俺に、世俗の目標など、さして意味がない。金持ちになったり貴族や王になったりして、それでどうする? だいたい、不老の肉体をもつ俺が、いつまでも人間の世界に留まり続けるなどできはしない。
だが、後の時代にまで残る料理の実績だけは別だ。俺はこの世からいないことになっても、人々は醤油を味わい、コーヒーを飲む。そうなってくれれば、せめてこの世界に降り立った選択をただの失敗だったとは思わずに済むだろう。
「ギル」
「お、おう」
「料理はバカにならない。これで領地を立て直すことだって、十分できるだけの技術だ」
俺の謎の意気込みに、ギルは気圧されていた。今はわからないだろう。だが、コーヒーにも醤油にも、世界を変えるだけの力があると、俺は思う。
「それより、ギルは何をやるんだ?」
「俺なぁーっ……正直、困ってんだよ」
「困ることか? 頭だって悪くないし、それだけ体格に恵まれていれば、どっちに進んだってよさそうなんだけど」
「頭っつったって、俺がわかるのってセリパス教と歴史の話だけだぞ? けど、司祭になるっつっても、神壁派は無理だから、聖典派だろ? そっちはイヤだしなぁ」
パダールは文官だったし、兄もその地位を受け継いでいる。そっち寄りの素養はギルにもありそうだが、稼げる仕事、どこでも雇ってもらえる技術となると、また話が違ってくる。
「全然経験ないことやってもいいけど、たった三年弱しかねぇのに、何が身につくって話だしなぁ」
「なるほど」
「まぁそれよりなにより、当面、ギルドの仕事請けて小銭稼ぎしねぇと、そもそも食ってけねぇんだわ」
そうして雑談しながら、俺達は校舎の外に出た。
「おぉ、やってんなぁ」
なかなか壮観だった。上級生達が群れをなして校庭に人の壁を作っている。東の正門まで、蛇行した通路ができあがっていた。そのところどころにプラカードが掲げられている。女子学生がチラシを配っていたりもする。そして帰途についた新入生を狙い撃ちにし、絡めとり、引きずり込もうとしている。
「なんかよ」
「うん?」
「いろんなもんが食えそうな飯屋みたいだよな! けど、一つ選んで食ったらもう腹いっぱい。んで、旅の途中だから、二度とこの店には来ねぇんだわ」
「違いない」
だが、残念ながら、俺が食べていい皿は決まっている。
「僕はもう、殿下のサロンに入るしかないから選べないけど、ギルはどうする?」
「そうだなぁ……そっか、そういう意味じゃ、俺のがお前より恵まれてるな。ちょっとあちこち冷やかして、今日は大人しく帰るか」
「すぐ決めなくても、何日かは考える時間はありそうだし、それがいい」
そう話し合って、俺達は校庭を横切る通路に踏み込んだ。
だが、いくらも進まないうちに、俺は突然の悲鳴に驚いて振り返った。
「わぁっ、ちょ、ちょちょちょっ、やめやめやめ、ダ、ダメダメダメッ!」
置物のようにカチカチに硬直しながら声を上擦らせていたのは、今さっきまで俺の横を歩いていたギルだった。
いったい何かそんなに怖い奴にでも捕まったのか、と周囲を見回したが、別に大柄な誰かが彼を取り押さえていたのでもなかった。ただ、先輩の女子学生達が、彼の肩や背中にしなだれかかり、腕を回していただけだ。
「そそそ、そういうのはよくないので、ホント、やめて!」
お前は乙女か、と言いたくなるが、そういえばセリパス教徒というのは、本来こういう人種だった。比較的戒律が緩い神壁派であっても、夫婦でもなんでもない女性と身体的に接触するなど、それも大勢の人がいる前でとなれば、絶対にアウトだ。といって、ギルにはゴーファトの真似なんかできない。女性に手をあげるなど、もってのほか。力ずくで彼女らを振り払う選択肢もないのだ。だから悲鳴をあげながら許しを請うしかない。
「あの、先輩方、それはちょっと強引すぎませんか」
俺が助けてやらないと、どうしようもなくなる……
「あらあら、困らせてしまいましたか?」
背後から女の声。
だが、それで悟った。これは罠だ。俺を足止めするために、同行者を狙っただけ。
「でも、ここは帝都ですから、これくらいは大目に見てくださいませんこと? もっとも、少々はしたなかったですね……二人とも、もういいですよ」
振り返って声の主を確かめる。そうするまでもなく、誰の仕業かくらい、わかってはいたが。
それでも、考えるのと見るのとでは大違いだった。これは確かに、実物を見ないと本人とはわからない。
明るい亜麻色の髪も、白い肌も、その美しい宝石のような瞳も、以前と変わりはなかった。ただ、信じられないほど手足も伸びていたし、メリハリのある女の体に育ち切っていた。それにしても、髪型が縦ロールになっていたとは。お嬢様らしさを追求したのだろうか? それとも、父王に似た天然パーマ気味の髪が気に入らなくて手間をかけるようになったのか? とにかく、それで制服を着ているのだから、まるで前世のコスプレイヤーみたいに見えてくる。
先日、あの悪戯めいた手紙でペンを送りつけてきたのもこいつ、マリータ王女に違いない。
「およそ四年ぶりですか。お久しぶりですね、ファルス様」
その口で言うのか。初対面で俺になんて言ったか忘れたのか? といっても、この状況で俺が口をきかないという選択肢もない。
「見違えました。ご立派になられましたね、殿下」
確かに見違えはした。言葉遣いも声色も、うまくコーティングされている。まさかペン先で人を刺すのが趣味な少女だったとは、これでは誰も思わないだろう。つまりこの子蛇姫、以前にも増して狡猾に、より毒蛇らしくなったということだ。
「あら? 身分など忘れていただきたいものですわ。なにしろここは帝立学園なのですから。ですけれども、そうですね、仮にも私はあなたの先輩なのですから、そういう意味での敬意なら、受け取ることもできましてよ」
それで、彼女は俺に何を言いにきたのだろう? 母親のイングリッドも中身のない嫌がらせをしてきたものだが、こいつも血は争えないという感じか?
「もちろん、先輩としても敬愛しています。でも、済みません。僕も彼も、これから家に帰るところなんですよ」
「つれないのですね。せっかく四年ぶりにお会いできたのに、私などに割く時間などないと、そうおっしゃるのです?」
面倒、というか、これは結構まずい状況なんじゃないか。アナーニアは寄り道するなと言っていたが、こういう嫌がらせがあるとわかっていたからだろう。
「とんでもありません。いずれちゃんと時間を取って、落ち着ける場所で先輩とお話しできればと思っています。僕はもったいないと思うんですよ。こんな騒がしい、落ち着かないところで立ち話だなんて、再会を祝すには相応しくないと思いませんか?」
「まぁ、お上手になられたこと。落ち着ける場所でお話だなんて……手慣れてらっしゃるのね」
「そのような」
「道理でもう婚約者がおいでなわけですわ」
うん?
今、一瞬、笑顔のままなのに、すごい目つきで睨まれた気がする。
「でも、そうですね。よろしくてよ」
「はい?」
「いずれお時間を取っていただけるということですので、よく覚えておきますわ」
ということにして、あとでうやむやにしてしまえばいい……
と思考を巡らせていた時、視界の隅から人混みを掻き分けてくる男に気付いた。
「おい、ファルス。迷子か」
ベルノストだ。
一足遅かったが、助けに来てくれたらしい。
「お待たせして済みません、混みあっておりまして」
「いい。案内しよう。連れもいるのか?」
「ええ」
彼は王女を一瞥して、言った。
「済みませんね。約束があるもので」
「いいえ。ベルノスト様も、よろしければ今度、お茶をご一緒しましょう」
「お誘いありがとうございます。さ、ファルス、行くぞ」
それで俺は、呆然と立ち尽くすギルを引っ張り出して、ベルノストに続いてその場を抜け出した。
グラーブが陣取る場所まで挨拶に寄ってから、正門を出たところで、俺とギルは大きく溜息をついた。
「やべぇな、学園」
「悪い、巻き込んだ」
「オヤジに、女に気をつけろって言われたわけが、やっとわかったぜ」
だが、ギルを怯えさせる魔の手は、まだ一つだけ残っていたらしい。
「あのう」
「おわっ、また出た!」
話しかけてきた女はワノノマ語、ギルが反射的に叫んだのがルイン語なので、まったく通じていない。辛うじて伝わったのは、ただ驚かせたという事実だけだった。
「よかった、ファルス様、お会いできて助かります」
「ヒメノ様、いらしていたんですか」
どうも彼女は、俺が出てくるのを待っていたようだ。
「あの」
「あっ、そうでしたね。でも、僕のことはファルス様と呼ぶのに」
「それはだって、目上の方も同然ですから」
スッケではもっと気安い呼び方をして欲しいと言っていたのを思い出した。
俺には畏まった呼び方をするのだが、今となってはこちらは正式な貴族で、しかも彼女の主筋にあたるヒジリの婚約者なので、その言葉遣いがおかしいともいえない。
それにしても、その外見に目がいってしまう。
身に着けていたのは制服ではなく、和服にそっくりな衣装だった。注目すべきはその色合いとデザインだ。光の加減によって明るくも暗くも見える黄土色の上、大胆にもほとんど真っ白な部分が大きく割り振られている。さながら冬の終わり、雪解けの季節の地面のようだ。髪留めの先にポツンと飾られた真珠は、さながら溶けきらずに残った雪だろうか。
そしてこれは、彼女の立場にこの上なく相応しい衣装なのだ。
ヒメノはヒシタギ家の出だが、既にその嫡流はヤレルの血統に移ることも確定している。だから彼女自身の身分は決して高くない。目立ちすぎないという点がまず一つ。
一方、この衣服において示される情景というのは、まさしく今の彼女の境遇そのものでもある。雪が解けたら何がやってくる? 春だ。私はこれから、この学園で、帝都で芽吹こうとしているのですよ、という意思表示にもなっている。
これも彼女が自分で仕立てたものだろうか? 一見、地味だが、かなりのセンスを感じる。ただざっと見ただけでは何とも思わないのに、じっくり眺めてみると、その意匠の素晴らしさに感嘆させられる。
「このようなところで何を?」
「はい、お手数ですが、ファルス様がお住まいの旧公館までお連れしていただくことはできますでしょうか?」
「それは構いませんが、どうなさったのですか」
「実は、海が荒れて船がこちらに到着したのがつい二日前でして。それから急ぎで入学試験を受けさせてもらうなどで忙しく、こちらに来てからまだ、ヒジリ様にご挨拶もしておりません。あまりに失礼なので、ここはとりなしをと……」
言い終わる頃には声が小さくなって、まるで蚊取り線香が燃え尽きたかのような風情だった。
「わかりました。お送りします」
「おい、ファルス。なに喋ってんだ?」
「済まない、ギル。今日はこちら、ヒメノ様を屋敷までお送りしないといけなくなった。積もる話はあるけど、また今度で」
彼は目をパチクリさせながら、しばらく立ち尽くしていたが、やっと言葉を発した。
「それはいいんだけどさ」
「ああ」
「お前、モテモテだよな」
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