入学式

 自然と目が覚めた。ベッドから起き上がってカーテンを引き開ける。

 昨夜まで降り続いていた雨が、今朝にはきれいに止んでいた。窓を開けると、ほのかに温もりと湿り気を感じさせる、初春の微風が静かに流れ込んできた。


 早速、着替える。前世の高校にもありそうな制服は、本当に手軽に身に着けることができる。シャツに袖を通し、ネクタイを締め、靴下を履いてズボンを穿き、ベルトを締める。最後にブレザーを羽織る。これだけ。簡単すぎる。

 そこまで考えて、何と比較して簡単だと感じているかに気付いて苦笑した。鎧が俺の中の普通になってしまっていたとは。ホアが作ってくれた黒一色の鎧は、今もこの部屋に保管してある。ただ、今のところは使う予定がない。

 俺が寝室を出るのとほぼ同じタイミングで、北側の渡り廊下から女中がカートを押してきていた。


「おはようございます!」


 朝から美人の満面の笑みだ。ワノノマ人にしてはエキゾチックな雰囲気漂うファフィネだが、そこはやはりムワとの混血という血筋ゆえだろうか。その魅惑的な笑顔の向こう側にはどんな考えがあるのだろう? とにかく、帝都にやってきてから今日までの半月ほどの間、俺は夕食後に彼女達を呼びつけたことが一度もない。


「ああ、おはよう」

「朝食のご用意をしてからお伺いするつもりでしたが」

「もう身支度は済んでいる。初日から遅刻したくないから、すぐ食べてすぐ出かけるよ」


 本当に、雨があがってくれて良かった。なにせ今日は入学式なのだから。


「承知しました! あ、ただ」

「ただ?」

「今日だけは北の玄関にお越しください。せめて初日くらいはお見送りしたいと、ヒジリ様が」

「わかった」


 この半月の間に、この館での生活のルールが少しずつ決まっていった。

 例えば食事だ。朝と昼は、俺は離れで済ませる。特に朝は余裕がないので、食べたらすぐ、一階の通用口から出発しなければいけない。昼については、今日から学園生活なので、あちらの学食で済ませることになるだろう。ただ、俺がいつまでも離れに留まって出てこなかったために、ヒジリからクレームが入った。せめて用事のない日の夜だけは、夕食を共にするようにと定められることになった。

 外出の際には、原則として郎党の誰かを伴うこと。マツツァやタオフィ、ポトの誰か一人か、場合によっては二人以上を連れていかなくてはいけない。面倒だし煩わしいので、一人でも困らないと言ったのだが、ヒジリは真顔で首を振った。一人で出かけていいのは通学だけで、あとは供が必要だという。理由を尋ねると「冤罪を避けるため」とのことだった。なるほど、学園の生徒は半ば政治家のようなものだから、その説明には説得力がある。

 特に、女性には不用意に近づかないようにと強く言われた。もちろん、館の中でヒジリや使用人に対してなら構わないが、他所の女性には十分気を付けるようにと念を押された。文字通りの政略結婚で俺の婚約者になった彼女に嫉妬の情があるとも思えないのだが、これもそれなりの理由があるのだろう。

 とにかく、俺も既に立場がある身なので、可能な限りトラブルを避けなくてはいけない。そこは承知しているつもりだ。


「感無量ですね」


 なんだか恥ずかしいし、そもそもお芝居なのはわかってるから、さっさとやめにして欲しい。

 ヒジリはもちろんのこと、家臣や召使の主だった者達が勢揃いで、俺の出発を見送りに来ている。


「記念すべきこの日に居合わせることができて、心より幸せを感じております」


 コメントが出てこない。

 それともあれか? 俺が帝都の学園なんかに顔を出さずに行方をくらませて、魔王とか使徒とかの手下になるって可能性も想定していたとか? そうなったら命懸けの追跡を始めなきゃいけなかっただろうし。それと比べるならまぁ、確かに感無量だろうけど。


「旦那様、この三年間にしっかりと学業を修めてくださいませ。そして人の上に立つ人としてのその器を磨き上げてくださいませ」


 元々そんな器じゃないってのに。今は無理して立場に合わせているだけであって。


「三年後を心待ちにしております。それでは行ってらっしゃいませ」

「ああ、行ってくる」


 マツツァが開けてくれた玄関から、俺は外に歩き出した。

 やっと一人になれた。だが、それも学園につくまでの間だけだ。


 なお、三年後、つまり俺が学園を卒業すると……婚約が、正式な結婚になる予定だ。自動的にそうなるわけではなく、なんらか正式な発表とかお披露目がされてからになるので、そこは一応、安全装置がかかっている状態ではある。

 元々、フィラックが食い下がってくれたおかげで与えられた猶予を約束にすると、こういう形に落ち着いたのだ。


 なお、今のヒジリは婚約者であって妻ではないので、当然ながら俺に同衾する権利はない。するつもりもないが。あれだけの美女、それも背筋に一本筋の入った品のある女性というのは、なるほど、一般的な判断基準ではこの上ない優良物件であろうとは思うのだが……手を出されること前提の女中達含め、俺は誰とも寝る気はない。

 あんな形でノーラを放り出してきてしまったのに、どんな顔をして欲望の捌け口を求めるというのか。


 そう、相変わらずノーラは俺にとっての悩みの種だ。他の仲間や身内については、なんらか幸せに生きていける道筋を用意してやることもできる。でも、その幸せのために俺個人が不可欠になってしまった彼女を、どうすればいいのか。


 その辺の悩みを脇に置けば、割と気楽な身分ではある。どうせ貴族なら誰でも入学できて、卒業できる緩い学園だ。コネとかパイプとかを得て権力を確保しなければいけない他の学生にとっては正念場かもしれないが、俺はティンティナブリアの復興が終わったら、そのままタンディラールに領地を返還して楽隠居するつもりでいる。その後も俺に対する監視とか、面倒なことがなくなるわけはないが、少なくとも俗世の問題からは手を放せる。

 不死は得られなかった。ならどうすればいいかなんて、俺にはわからない。それはもう、何百年も俺を監視する中で、モゥハや姫巫女達が考えればいいことだ。


 商社街を右手に見ながら道路を渡り、ひと際静かな学園への道を歩く。同じく学生服を身に着けた男女が、まばらに歩いていた。彼らも新入生なのか、それとも先輩方なのか。

 やがて入試の時にも通った、学園の東門が見えてきた。デカデカと「入学式」と書いてある。どことなく懐かしいノリだ。少々ホロリときてしまう。


 前世の小学生の頃、入学式には何の感慨もなかった。けれども卒業するときには、その当時の自分にとっての人生のかなりの部分を過ごした場所との別れなんだと自覚して、見慣れたはずの校舎を何度も見上げたものだったっけ。

 ここに戻ってくることはあるんだろうか? その可能性ならあった。次は大人として、保護者として。我が子の入学式を背中から見守って追体験する……だが、モテなかった俺は結局、子供どころか結婚もできず、そればかりかろくな恋愛経験もないまま、中年男になってしまった。


 既に今の俺は、前世から持ち込んだ恨みのような気持ちとは、距離を置くことができている。ただ、それはそれとして、未解決の問題が残されている。

 確かに俺は苦しんでいた。認知症になった父の介護とか、借金魔の兄とか、具体的に挙げればその原因はいくらでも見つかるのだが……俺を本当に苛んだのは、時間や体力、金銭の不足などではなかった。どうして俺は、あんなにも愛のない人生をやり過ごさなくてはならなかったのだろう?


 ともあれ、不思議なものだ。入学式はその生徒本人のためにあるのに、それを目にして喜ぶのは、生徒を見守る人達なのだから。


「っ痛ぇっ!?」


 ボーっとしていたのだろう。背中から衝撃を感じると同時に、男の低い声が聞こえた。

 振り返ると、同じく学生服を着た大柄な男が立っていた。髪の毛の色から、ルイン系らしいとわかる。


「なに突っ立ってんだよ!」

「あ、ああ、ごめん、周りを見てなかった」


 それなりに混雑しているのだ。門の近くで棒立ちになっていたのは邪魔だったろう。ただ、だからってそこまで怒ることだろうか?


「うっせぇ! てめぇ、ナメやがって。シメてやる!」


 はて、ここは要人のタマゴの集まる学園だったはずだが……まぁ、たまにはこういうのもいるか。


「うらぁ!」


 大振りの拳が振り抜かれる。

 入学式から喧嘩して、学園の「伝説」にでもなりたいのだろうか? でも、付き合う理由もない。


 体捌き一つで簡単に避けることができた。


「わっ……とと」


 体格は大きいが、体幹が鍛えられていない。腕力だけで相手をねじ伏せようとする、実に雑な動きだから、こんな風につんのめってしまうのだ。

 そのまま立ち去ろうとしたが、背を向けかけた俺に激高してしまったらしい。


「野郎! おらぁっ」


 一撃、もう一撃。

 微妙に足の位置をずらしながら、半円を描くように避けた。そして、三度目の拳が振りあげられた時、俺は大きく飛び退いた。

 その瞬間、彼は足を絡ませてしまい、すぐ下のぬかるみに向かって盛大に転倒してしまったのだ。


 大丈夫、俺は指一本触れてない。これは彼一人のダンスだ。

 でも、顔を覚えられたくないから、俺は小走りになって逃げだした。


 新入生は大講堂に向かわなくてはいけない。そこで誘導を担当する係員の指示に従って、俺や他の学生は整列した。前世の日本の学校では、この手の式典は体育館のようなところで執り行われることが多かったが、こちらには体育館というもの自体が存在しない。また、マイクも存在しないので、講演を担当する人の声が聞こえやすい建築物でなければ、式典自体に差し障りがある。自然、それは古代ギリシャの小劇場にも似て、扇形をした、傾斜のある建物になる。


 しばらく待たされたが、ようやく新入生の誘導が終わったらしい。よく響く鐘の音がすると、ざわめきも静かになっていった。

 舞台の中央に立った女性が宣言した。


「これより女神暦一〇〇〇年度の帝立学園入学式を始めます。まず、副学園長ケクサディブ・オルンボサルより新入生の皆様へ、式辞を述べさせていただきます」


 司会役であろうその女性が壇上を去ると、反対方向からブカブカの服を身に纏った老人が姿を現した。頭はすっかり禿げあがり、伸びている髭は真っ白。丸い眼鏡をかけている。

 足腰はかなり弱っているようだ。体の線をなぞるようなスーツでなく、その上からローブともマントともつかないメロンのような色合いの上着を羽織っているのは、もしかすると初春の寒さに耐えられないからなのかもしれない。えてして老人というのは、体を冷やしやすいものだから。

 これは眠気を堪えるのに苦労しそうだ。ボソボソとした老人の長話ほど睡魔を招き寄せるものはない。


「ようこそ新入生諸君! 西の果てから東の彼方まで、世界のあらゆるところから、ようこそ!」


 だが、舞台の中央に立ったケクサディブは、思いもよらないほどはっきりとした声で話し始めた。

 声が大きいというだけではない。なんという声色だろう。その口調には確かに喜びのようなものが滲み出ていた。彼は心から楽しげに語り掛けている。


「君達は今日まで、どんな物語を紡いできたのだろうか? もしできることなら、その一つ一つを解きほぐしたいものだ。吹雪が一切を白く塗り潰す氷の大地から、鬱蒼と茂る緑と濁流の中から、砂塵に曇る荒野から、はたまた美と洗練に彩られた大都会から、君達はそれぞれの物語を携えてやってきた! そのなんと素晴らしいことか!」


 ああ、この老人の心の目には、世界の端から端までが映っているのだろうか。俺の旅したこの世界が。


「君達の物語はどこか遠くで始まり、或いはいずれ、また遠く離れた彼方で終わりを告げるだろう。けれども! 今日、この地に来たことを喜ぼう。あらゆる人々の足跡が重なり合う都、あらゆる道の交差するこの場所で、ひと時を共にできることを! 万人が訪れ、万人が去り行く、あらゆる物語が結び合わされるこの帝都で、私達は今日より一つの歌を歌うのだ! 共に学び、共に喜ぼう! いつかまた、それぞれの物語へと帰るその日まで!」


 実に情緒的に、彼はこの学園の存在意義を語ってみせた。


「この学園を代表する者として、私が君達の入学を許可する! おめでとう、諸君! どこより輝かしいこの場所で、君達が花開かんことを!」

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